プロローグ
たすけなきゃ。
ティアナが覚えているのはその感情だけだった。だが、手首と足に嵌められた頑丈な鎖が動きを妨げる。
屋敷のあちこちで火が生まれており、彼女のほうへもその赤い手を伸ばし始めた。焦りと恐怖がティアナの知覚を侵していく。恐怖に呼応するように、胸にかけたペンダントが少しずつ黒く膨れ上がる。
やがて、容赦のない炎が海となって襲ってくるのと同時に、彼女のなかでなにかが弾けた。
次に来たのは永遠のような眠りの底だった。なにかがティアナの心を優しく揺さぶる。恐怖と後悔から逃れるように、彼女は暗闇のなか、その声に向かって必死で手を伸ばした。
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その日、スールの街には一日中どんよりと分厚い雲が立ち込めていた。だが、ジーク・クラウゼント率いる王国第五騎士団の士気は高く、王都を出発してたったの一週間で見事に魔獣討伐を終えた。
長身で、細身ながらも鍛え上げられた肉体、剣の腕も随一であり、貴賎を問わずに集められた王国騎士団のなかでも特に猛者が多いとされる第五の連中からの信頼も厚い騎士団長、黒を好んで纏うことから「黒翼の騎士」と称されるジークは、この件でさらに王都での勇名を馳せるに違いないと噂された。
ジークの故郷でもあるこの巨大な港町では所々で祝いの宴が開かれ、夜になってさらに賑やかさを深めていった。騎士団の面々も勝利の杯をあげていたのだが、自警団からもたらされた知らせに彼らの顔色は一変した。
森の外れにある娼館が燃えているという。通常時であれば管轄外だが、騎士団長ジークは酔い潰れていない数名の部下と、たまたま彼に挨拶に来ていた家令のアレンを伴い火事の現場へと向かった。
星のない重たい空を赤く黒く染める炎の根元へと近づくにつれ、尋常ではないその様子に一同は身を硬くする。屋敷は崩れ落ちているというのに空間はまだ黒く燃え上がっていた。これでは遺体の確認さえ難しい。肉の焦げる匂いと火花が爆ぜる音、もうもうたる黒煙。
地獄絵図のような景色のなかで、ジークは微かな呻き声を耳にした。