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 まあ大抵の知り合いだとかは、未だに梅ちゃんが真由利の面倒を見ていると聞くと驚いて、そして大仰に眉を寄せるか、意地悪そうな侮蔑の表情をしたりする。

「あんた、どうするつもりなの?」

「どうする、って?」

「だって、もう二十八でしょ? 面倒見させてていいわけないじゃない」

 二十八歳がどういう意味を持つのか分からなくて、真由利はにっこり笑って首を傾げる。ほんのわずかに。

 その態度が相手を呆れさせるのか苛立たせるのか、長いため息を吐かれたりする。そしてそこで、ほとんどの人は『ああ、分かった!』みたいな顔になる。

「梅ちゃんとあんた、付き合ってるんでしょう?」

「付き合ってないよ」

「またまた。じゃ、あれだ、真由利が梅ちゃんのこと好きとか」

「好きなの?」

「聞いてるのはこっち!」

「好きって、どういう意味で?」

 真由利の天然ボケな顔は、いつもきょとんとしてるよね、とよく言われる。小さなデザイン会社に勤めている真由利のところに、お客さんとしての会社代表で顔を見せたのが、同じ大学にいたこの知り合いだった。丁度お昼の時間も近かったので、休憩を早めてもらって彼女とランチにしているのだけれど、真由利は名刺ももらったばかりだというのにもう彼女の名前が思い出せないでいる。

 アシンメトリーのボブカット、真っ黒い髪をしてちょっと尖ったメイクをしている彼女。

「どういう意味って、ええ? 好きにそんなたくさん意味があるの?」

「意味は、あるでしょう……?」

 彼女の言う「好き」は、恋愛に関してだけなんだろう。恋としての、好き。恋としての、嫌い。恋としての、興味ない。

「梅ちゃん、めちゃくちゃいい男だもん。惚れるのも分かるわ」

「……梅ちゃんに、会ってるの?」

 ううん、とアシンメトリーボブが首を横に振る。大学を卒業してから全然、と悪びれもせず答える。

 人なんて、ちょっと時間が経ったくらいでガラッと変わってしまうこともあるのに。いつまでも変わらないものなんて、なにもないのに。

 それにしてもこの人は、さっきから真由利真由利と気軽に呼び捨ててくるけれど、そんなに仲が良かっただろうかと真由利はまた首を傾げる。名前も覚えていないような人なのに。

 それにしても懐かしい、とこちらの気持ちも知らずに、彼女は目を細める。

「散々飲み歩いたりしてたよね、男も女も関係なくって、なだれ込める家に行って雑魚寝して。試験の前に大騒ぎしてコピー取ったり、なんか本当、いろいろ懐かしい」

 ね、と真由利も目を細くする。

「梅ちゃんも大変だ、真由利の面倒を未だに見てなきゃなんないなんて」

「……うん?」

「だって真由利、」

 アシンメトリーボブの目がまた細くなる。今度は嫌な感じの光を集めて。

 男関係見境なしでしょ、と歪んだ赤い唇が告げた。この人あたしのこと嫌いなんだろうなあ、と、真由利は今更ながらに思って、納得する。


 梅山源は、はじめ、と言う名前の同級生が他にもふたりいたことから、いつの間にか周りから梅ちゃんと呼ばれるようになっていた。

 谷山真由利は別に名前が被る人もおらず、天然パーマのふわふわした赤茶けた髪と白い肌と、低い背と、ぐりぐりに大きな目をしているせいか、よくお人形さんみたい、と言われる。羨望も軽蔑も含めて。

 梅ちゃんは四人の姉とひとりの妹がいる今時ちょっと珍しい六人姉弟の唯一である男児で、けれど代々婿取りの家系だという女性ばかりの親族の中でちやほやされるということもなく、どちらかと言えば姉達の奴隷、そして妹の子守り役として育ってきたらしい。とにかく人の面倒を見ていないと落ち着かないという。手がかかればかかるほど、安心して世話を焼けると幸せを感じるなどと言う。

 真由利は小さな頃からずっとお人形さんみたいで可愛い可愛いと言われてきたものの、残念ながら両親があまり子育てに熱心な人達ではなく、熱心でないどころか真由利を厄介者扱いして育児放棄をする人達であったために、彼女は自分の武器である「顔の可愛さ」だけでどうにか生きてきた気がする。近所の人にご飯を食べさせてもらったり、学校の先生に特待生で入れる進学先を探してきてもらったり。

 高校で知り合った梅ちゃんと真由利は、互いに「安心して世話を焼ける相手」「とりあえず面倒を見てくれそうな匂いのする相手」として認識して仲良くなった。大学も同じところに進んで、職場こそ別だけれど今も近くに住んでいて梅ちゃんは真由利の面倒を甲斐甲斐しく見ている。

「大学の頃の知り合いに会ったよ」

「へえ」

 誰? と聞かれて、さあ、と答えた。なにそれ、と梅ちゃんが笑う。梅ちゃんはすっきりとした一重で、ぼてっとした厚い唇以外は全部線の細い、気の弱いキツネを思わせる感じの男の子だ。二十八歳だけど、男の子、という言葉がぴったりくる。大学を出てから保育士の資格を取って、今はここら辺でも規模の大きい保育園に勤めている。給料は安いらしい。

「誰だか分かんないのに、知り合いだって分かったってこと?」

「仕事一緒にするみたい」

「街中でばったり出会ったとかじゃなくて、そんな自己紹介もちゃんとしそうな場面で名前を覚えてないって」

「嫌味言われて」

「嫌味」

「真由利はまだ梅ちゃんに面倒見てもらってんのか、って」

「男?」

「女」

「誰だろ」

 梅ちゃんが首を傾げる。人差し指を顎に当てて。彼は仕草がどちらかというと女性っぽい。周りに女ばかりがいたからだろう、友達も同性より異性が多いと言っていた。別に恋愛相手が同性とかではないし、本人にも女になりたい願望とか女装趣味があるわけでなく、けれど性格もはんなりしているせいか、オカマっぽい、みたいに言われることはあるようだ。

 オカマっぽい、って、本物のオカマさんに失礼だよねえ、と梅ちゃんは言うけれど、真由利の周りにはいわゆるオカマさんという人達がいないので実際のところはよく分からない。テレビの向こうの人達は、人の目に見られ慣れていて多少誇張しているところもあるだろうし。

「今度覚えてくるね」

 真由利は言ってみたものの、それより名刺をもらってしまった方が早いかもしれないと思った。多分もう一度名前を聞いても覚えられない気がする。

 覚えることは覚えるのだけれど、頭の中で音が意味を成さない。たとえば「やまだ」さんという人が、覚えられるときはきちんと「山田さん」になるのだけれど、覚える気がないと「や」「ま」「だ」で音が頭にインプットされるだけなのだ。

 そういう風に説明して、分かってくれる人は未だに会ったことがないけれど。梅ちゃんは分かったと言ってくれるけれど、きっと理解していないだろう。彼はやさしい。そして人を受け入れる広い心と、人の立場を想像できる柔軟な頭を持っている。

 梅ちゃんは鮭のホイル焼きとキノコのサラダ、そして鶏肉の炊き込みご飯とジャガイモと油揚げの煮物を晩ご飯に用意してくれていた。彼の住むアパートは真由利の住むアパートと似たような作りで、距離も近い。キッチンと一緒になっている居間と、もう一部屋――まあ大抵寝室になる――がある手狭でこじんまりしているアパートだ。

「付き合ってるの、って聞かれた」

「真由利が? 誰と? え、僕と?」

「うん」

「付き合ってるの?」

「なんで梅ちゃんが疑問形なの? 付き合ってるの?」

「質問返し」

「そうだけど」

 どうして男と女が仲良くしていると、それは恋愛にならないといけないんだろう。そこにある愛は、恋の意味を含めないといけないのか。男と女の友情はない、と言い切る人達がいる。それはその人がたとえば恋愛体質なだけで、異性をすべて恋愛対象に見てしまうだけなのかもしれないのに。

 男とか女である前に、人間であると真由利は思うのだけれど。

 男の中にも女らしさがあったりするし、女の中にも男らしさがある。男は男の成分のみで作られているわけではなく、女もまた同じことで。女が女として、男の中の女の部分とだけ親しく接しているときに、それは恋にならなくても仕方がない気がする。女の中の男の部分で男達と対等に接しているときでも、時々人は「気を惹きたくてわざと男っぽくサバサバ振る舞っている」などと言ったりする。わざわざそんなことしないでしょう、とため息を吐きたくなるが、分からない人には分からないのだろう。

 説明するのだって難しい。全員が同じ部分を持っている、そして自覚しているわけではないからだ。男性に生理の話をしても、実際は経験できないので想像するしかないように。女性に不意な勃起の話をしてもよく分からないのと同じように。

 だから想像力は必要で、思いやりは必要なのに。相手は自分でない生き物なのだと、認識することが大切なのに。

「なに?」

 黙ってしまった真由利の顔を、梅ちゃんが覗き込む。

「うん」

「うん?」

「梅ちゃんのことは好きだけど」

「うん」

「人として」

「ありがとう」

「恋かどうかって言われると、違う気もする」

「僕も、真由利のこと大好きだけど、一生面倒見てたいくらいだ、って思うけど、これが恋かと聞かれると困る」

 好きにもいろいろ種類があるもんねえ、と梅ちゃんがジャガイモの煮物を取り損ねて崩した。ほくほくで甘いお芋なんだよ、と笑っている。崩れやすいけど、と。

「全部を恋にしないといけない人達って大変そう」

「でもさ、そういうのはそういうのを好きな人達だから、大変ではないんじゃない?」

「そうかな」

「恋する自分とか、恋そのものとかが大好きだから、もうとにかく人に薦めたいんだよ。通販番組みたいなもんなんだよ、こんなにいいものなので是非お手元に! って。買い逃したら一生の損です! みたいに」

「暇な人達が、本当に素敵だわ、って殺到するの?」

「暇な人達って……真剣に命かけて恋してる人もいるんだから」

 梅ちゃんが呆れたような顔になって笑う。

 そういえば子供だってそうだ。

 結婚して出産した人達が、いいよ子供は、すごくいいよ、産むなら早い方がいいよ、ひとりなんてもったいないよ、ふたり、三人と産むべきだよ、なんて言って来る。

「それで悩んじゃうお母さん達もいるんだけどね。やっとやっとの不妊の末にひとり妊娠して、それまでがいろいろ辛すぎたからもう子供はいらない、って思ってる人もいるし、まあ保育園だからそういう人は相談しに来ないけど、そもそも妊娠できない、妊娠してもすぐに流産しちゃう、って人もいるみたいだし」

「そういう相談とかもあるの?」

「保育園って、子育ての相談していいんだよ。一応保育のプロ集団だから。で、やっぱり健全な育児のためには親の健全な状態が大前提なわけじゃない? だからね、まあ、愚痴も聞くし、相談も乗るし。保育園って働いてるお母さんが子供預けにきてるから、相談してる暇ももったいないわ、帰って晩ご飯作んなきゃ! って人も多いけどねえ」

 梅ちゃんのいる保育園は、お遊戯会などの衣装作りを担任の先生がやったり、水泳が終わったときのひとりひとりの金メダル――お水を怖がらなかったね! だとか、息継ぎが上手にできたね! とか――を作ったり、保育園だけれど音楽会があったりしてなかなか先生も保育だけをしていればいいというわけではなく、忙しいらしい。今年は年中さんの担任をしている彼は、十八人の生徒を受け持っている。九月の今は運動会の練習や準備に忙しいらしく、運動会のお遊戯用の衣装も作らないといけないようだ。それでも別にひとりひとりの体型に合わせて型を取ってミシンで縫って、などということはせず、それこそ百円ショップ様々でフェルト生地をホチキスでぱちんぱちん留めたりなんなりで、いろいろと出来上がるらしい。

 去年は年長さんのクラスを受け持っていた梅ちゃんは、跳び箱を飛べた段数の金メダルを作らなければならず、そのときは二十三人だったので二十三個分、作るのを真由利も手伝った。厚紙を何枚も切り抜いて、重ねてウサギの形を作り、裏に金色の折り紙を張り付けて。○○ちゃん、とびばこ○だんとべたね! と梅ちゃんが書いて。

 人の世話をするのが大好きな梅ちゃんは、保育園が天職だという。毎日毎日大変でも楽しくてたまらない、と笑う。そんな彼が少しだけしょんぼりしているのが、ゼロ歳児、一歳児のオムツ替えがあるクラスを担当させてもらえないことだ。若い男の保育士さんが子供のオムツを替えることに抵抗のある保護者が多いので、ということらしいが、真由利は憤慨したが梅ちゃんは受け入れている。以上児――年少、年中、年長クラス――さん達の方も手間がかかって楽しいんだよー、と笑っている。

「運動会の衣装って、そういえば出来上がった?」

「うん、なんかもっとひらひらさせようかちょっと悩み中。予算はまだあるし、また百均行ってこようかなって」

「なに、お遊戯」

「カピバラ体操」

「カピバラ体操?」

「うん、カピバラ体操」

 可愛いんだよ、と彼が目を細める。そのまま踊り出しそうだったので、また後で見せて、と真由利は止めた。


 男女の友情は成立するか。

 男女に分けてしまうからいけないんだと真由利は思う。友達になれる相手かどうかは、性別なんて関係ないのではないだろうか。同性でも異性でも、友達になれる人はなれるし、なれない人はなれない。それだけのシンプルな話なのに、どうして世の中の人達はややこしくしたがるのだろう。

 だってほら、男は性欲が……という人がいるけれど、性欲なんて女にもあるし、酒を飲んで理性を失くしたら友達だと思っていた相手と寝てしまっていた、なんて話は結局その相手が友達ではなかったか、身体の関係があったとしても友達で居続けられる人か、油断してたら手を出してきて! と憤慨して縁を切ることになる人かなだけであって、必ずしもだから友情は成り立たない、と鼻息を荒くしていうことではないと思う。

 女は異性として意識してしまうと別の情が湧くから、とも言われるけれど、それこそ女性をそんなふうに単一化して見ないで欲しい。そういう人もいれば、そうでない人もいる。血液型の四種類で、全世界の人間を四つに分けてしまおうという馬鹿げた話よりバカらしい。

 恋愛は別に、人生の必須項目ではないと思う。

 結婚も。

 だけど世の中は声の大きい方が有利で、主張が通りやすい。世の中の人達はきっと、恋愛やら結婚に関することが好きだったりするのだろう。確かに少子高齢化だとこの先の未来は危うい。けれど、だからといって闇雲に子供を作れだのなんだのと言う前に、やることはたくさんあるだろうに。

 そういう真面目な話を、真由利は梅ちゃんと時々する。けれど真面目な話というのはバカにもされやすいようで、若い子達は真面目に国の未来を考えない、と言われてしまったりもする。

 具体的に誰がどう、真面目に考えていないのか教えてくれればいいのに。

 真面目に考える方法を知らないだけかもしれない、真面目に考える手段がないのかもしれない、そういう環境がないだけなのかもしれない、全部ひっくるめて若い人達を不真面目なように言わないで欲しい。

 大学の知り合いだったアシンメトリーボブの名刺をもらい損ねたまま、彼女の名前は名札を見て把握したものの音としてしか覚えられず、真由利は今日も梅ちゃんに彼女の名前を伝えられない。

 会社のパンフレットを依頼してきた彼女は、真由利ともうひとりのスタッフが提示する案にいちいち口を出すものの、決定は下さない。持ち帰って相談します、ともっともらしい顔で言う。だったら責任者を連れてくればいいのに、と真由利は思ったが、口には出さなかった。会社ごとにやり方はいろいろあるのだろう。わざわざこちらの会社に出向いてくれたわけだし。

 午前中で打ち合わせは一応終了し、どうせならランチを一緒に、ということになった。真由利は昼ご飯をランチと称するのが実はあまり好きでない。昼ご飯、もしくは昼休憩でいいじゃない、と思う。ランチどうする? なんて聞くのも口にするのも背中がぞくぞくする。梅ちゃんのところはいいな、と思う。保育園なので、給食だ。給食の時間。楽しそうで美味しそうでいい。みんなで食べる給食。こぼしたり好き嫌いしたり毎日阿鼻叫喚だよ、と彼は笑うけれど。

 結局打ち合わせを一緒にした一年先輩のスタッフと真由利と、アシンメトリーでパスタ屋へ向かった。ちょっとお洒落にパスタ、というのも真由利はあまり好きではないのだけれど、外見がふわふわの可愛い女子系なので、そういうのが好きそうと思われてしまう。小さなケーキとか、インスタ映えするドリンクだとか。マカロンだとか、ポップな色合い重視のジェラートや、パステルカラーのポップコーンやマフィンなんかを、好きなんでしょう、と決めつけられるけれど、美味しければ好きだし口に合わなければ遠慮したい。大福や水ようかんのあんこが好き、と告げると、和菓子系? と言われてしまう。系、ではなくて、和菓子そのものなのに。

「見た目って重要なんだよね、合っているとか、いないとかよりも前に」

 思ったことが口に出ていたらしい。隣に座っていた先輩スタッフと、前に座ってるアシンメトリーから顔を覗き込まれた。

「そりゃそうだよ、入り口だもん。手に取りやすくないと。見てもらえなかったら、いくら中身が良くても存在しないのと同じになっちゃうし」

「まあ、人によってはごてっとカラフルな方が目を引く、って人もいれば、シンプルでちょっと素っ気ないくらいの方が手に取りやすいって人もいるからね。万人受けするもの、って意外と難しいんだよね。百人が百人、これが好き、ってものってやっぱり作れないし」

 仕事の話だと思われたようだ。うん、と真由利は頷いておく。

 打ち合わせのときはさすがに敬語で話していたものの、歳も似たような女三人だと仕事を離れれば砕けた口調になった。

「真由利って仕事できるんです?」

 アシンメトリーが聞く。できるよ、と先輩スタッフが簡潔に答える。

「こう見えて中身がサバサバしているから、付き合いやすいし。入社してきたときはもっと打たれ弱い感じなのかと思ってたけど」

「打たれ弱くはないよね、学生のときも動じない女で有名だったし」

「動じない女?」

 先輩が真由利を見て、首を傾げる。真由利もアシンメトリーの言うことが分からなかったので、首を傾げて見せた。

「この子、可愛いじゃないですか。かなりモテて、結構軟派で有名な先輩とか、自分が格好良いこと自覚してる同級生とか、めちゃくちゃ声掛けられてたんですけど、みんな断っちゃってたんだよね」

「へえ、お眼鏡にかなわなかった?」

「でもみんな寝てみたんだよね」

 アシンメトリーがさらりと言うので、先輩がぎょっとした顔になる。それでもすぐに彼女は飲み込んで、なに、と笑った。

「誘われれば断らないけど、誰とも付き合わない女って有名だったんですよ、真由利」

「……モテない女達がやっかみで噂にしてそうな感じで?」

 はは、は、と先輩があからさまに乾いた笑いを放つ。アシンメトリーは気付かないらしい。

「職場ではそんなことないんです? 男取っかえ引っかえとか」

「うちは男の人、結婚してる人の方が多いから」

「真由利、不倫とかは気にするの?」

 先輩の言葉を受けて、アシンメトリーが真由利の顔を覗き込む。先輩がさすがに引きつった表情をする。

「人のものに興味はないから」

 そういえば働きはじめてからはこういう不躾けな人ってそういなかったな、と思いながら静かに答えた。

「この子、大学のときの男友達に未だ面倒見せてるんですよ。自分の。付き合ってるわけでもないのに、いいですよねえ。可愛いっていうのは本当に得で」

 可愛らしいストライプのエプロンをつけた、オレンジ色の制服を着ているウエイトレスが注文したパスタを運んできたので、そこで話は一旦終わる。今日のランチセットから、アシンメトリーはバジルとキノコのパスタを、真由利と先輩はチーズたっぷりのトマトソースパスタを。サラダと飲み物がセットでついてくる。

 わあ美味しそう、とアシンメトリーが無邪気な声を上げた。

 食後に彼女がトイレに立つと、先輩が思い切り眉間にしわを刻んで真由利の方へ身体を寄せてきた。

「なにあれ」

「はい?」

「あのクライアント。谷山ちゃんの大学の同期だっけ?」

 知り合いだったみたいなんですけど名前が覚えられなくて、と真由利は微笑む。興味のないことは一向に覚えられない。

「彼氏でも奪っちゃったの?」

「え? まさか、いいえ。全然そういうことはないですけど」

「谷山ちゃんのこと、嫌ってるの?」

「分からないですけど、嫌われてました?」

「なんか言葉の端々に棘が感じられたけど。ううん、悪意だわ、あれ」

「悪口みたいにズバズバなんでも話す人の方が、本当はめちゃくちゃ仲が良い、って勘違いしてるタイプの人なんじゃないですかね?」

 アシンメトリーは、真由利がひとり暮らしをしているけれど、晩ご飯は梅ちゃんがよく作ってくれるので彼の家に行く、という話をしたら、今度お邪魔するわ、と結構真剣な色の声で言った。真由利とか休みの日はなにしてるの、今度暇だったら一緒に買い物とかしない? と、本気の声で言ったりもする。

 言葉には棘があるけれど、嫌いなのではないらしい。いわゆる、人を不快にしているかもしれない自分に気付かない、というタイプかもしれないし、空気を読まないだけかもしれない。

「……毒舌なアタシって男っぽい性格で付き合いやすいィ、って勘違いしてる、ただの口が悪いだけの女とかいるしね」

「性格とか考え方の部分にもなるんで、すべての人が自分にとって心地いい関係を作ってくれるとか期待しないです、もう。期待すると疲れます」

「……谷山ちゃん、大丈夫?」

 ネガティブ入ってる? と心配されてしまったので、処世術的心構えです、と答えると、先輩が少し笑った。

「でも本人は良かれと思ってることが、相手には不快になってて結果嫌われちゃうのって不幸だよね」

「気付かないで幸せに暮らしてる人もいっぱいいますけどね」

「あー、分かる。そうなんだよね、ヤバかったかなあ、って後からくよくよ悩むのって、どっちかっていうと迷惑かけられてる方の人に多い気がする。憎まれっ子世に憚る、じゃないけど」

「いえ、まさしく憎まれっ子世に憚るですよ」

 クライアントじゃ殴り倒すわけにいかないもんねえ、と先輩が言った。殴り倒すほどは不快にも思っていなかったし、そうはいってもこちらだって名前すら覚えられないどうでもいい人だから、と思っていた真由利はびっくりして、少なくとも会社の人間関係はそうぐちゃぐちゃしてないし、今のところ苦手な人もいないので助かっている、としみじみ実感した。

「で、なに」

「はい?」

「大学時代、そんなに谷山ちゃんは男食っちゃってたの?」

 きひひ、と先輩がわざと下世話な口調で聞いてくる。三人だけですよ、と真由利は真面目に答えて、正直者か! と突っ込まれた。

「なんで付き合わなかったの」

「個人的に付き合うほどのメリットがあるとは思わなかったので。三人とも、あたしと付き合いたいというより、あたしの外見に興味がある、ってだけのようでしたし」

 誘われたから寝た。そこに関しては、真由利にも興味があった。一度身体の関係を持つと、相手の態度は変わる場合がある。変わるのか、変わらないのかが知りたかった。メリットのない相手が、メリットのある相手に変化するのかどうか。結果として三人ともメリットなしのままだったから、付き合わなかっただけなのだ。

「でも、三人とだけ関係があったのに、あんな取っかえ引っかえで百人切り、みたいなこと言われてるの? ひどくない?」

「百人切りってなんですか?」

「あ、引っかかるのそこ?」

 冷めたホットコーヒーを先輩がようやくすする。彼女は猫舌だ。砂糖もミルクも入れずにいて、苦い、とつぶやいたけれど、それらを追加する気はないようだった。

「三人も百人も同じなんじゃないですかね、外からなにも知ろうとしないでただいろいろ言いたいだけの人達って。正確なところはいらないんだと思います」

「一匹見たら百匹いると思え、のゴキブリみたいなものなのかな……」

 飲食店でゴキブリって単語はいけないやね、と先輩が目を細めているところで、トイレからアシンメトリーが戻ってくるのが見えた。

「百人切りは、後で調べます」

「うん、そうして」

 なになに、どうしたの? とアシンメトリーが軽く首を傾げる。


 梅ちゃんに送ったLINEがまったく既読にならないまま、夜の九時を過ぎてしまった。スマホを家に置き忘れて行ったのかな、と真由利はそう気にすることもなく、どうせ送ったメッセージも「今日って晩ご飯食べに行っていい?」だったので、返事がなければ自分で食べればいいだけの話なのだ。

 真由利は料理が一切できない。食べる、ということにそう興味がないからかもしれない。両親が料理をしない人だった、小さい頃は一日の食料として食パンを一袋ぽいっと渡されてそれだけ、という日もあった。

 梅ちゃんが料理好きで、せっせと真由利に美味しいものを食べさせてくれるので、彼のご飯は美味しいと思う。和菓子のあんこ物が好きなのも、今流行の甘さ控えめなものよりも周りが引いてしまうくらい甘いものがいいと思ってしまうのは、味が濃いとまだ分かりやすいからなのかもしれない。

 フライパンに水を入れてコンロにかける。真由利はテフロン加工のフライパンをひとつ持っているだけで、他に鍋はない(パステルピンクの電気ケトルなら持っている)。フライパンでお湯が沸いたら、レトルトのカレーを入れた。炊飯器はないけれど、電子レンジならある。ご飯はフライパンでも炊ける。冷凍庫から前に炊いた白米を出して、レンジで解凍しているところに電話がきた。買ってから着信音の設定をなにも変えていないスマホから、トゥルルルルル、と電子音が鳴る。

 出ると梅ちゃんだった。

 僕、と言った切り、後は重たい沈黙が続く。どんよりとした空気が、こちらにも流れ込んでくる。

「……レトルトカレーあっためてるけど、」

 うちに来る? と真由利が聞いた。随分長い沈黙があってから、行く、と小さな声が答えた。

 電話を切って、電気ケトルでお湯を沸かす。ドリップ式のコーヒーをもらっていたような気がする、パックの紅茶もあったはずだ。砂糖もミルクもないけれど。

 ご飯が足りないと思って、冷凍していたものをもうひとつ解凍した。レトルトのカレーをもう一袋、フライパンに放り込む。

 四十分程してから、げっそりとした顔の梅ちゃんがよろよろとやってきた。

「なんかあった?」

「あった」

「話したい? 話したくない?」

「うー」

「カレー食べる?」

「食欲ない」

「うん、食べる?」

「……ちょっと食べる」

 コーヒー飲む? と聞くと、梅ちゃんがちょっとだけ笑った。もう食後? と。料理の順番だとか、デザートは後だとか、そういうのを考えたことのない真由利はきょとんとする。

 レトルトのカレーのみ、飲み物はコーヒー、という遅い晩ご飯を食べ終わると、梅ちゃんが長い長いため息を吐いた。どうしたの、と真由利は聞かない。話したければ話すだろうし、言いたくなければ言わない。促されるのを待っているかまってちゃんな性格では、梅ちゃんはない。

 ちょっと前に、と彼がぽつんと口にする。うん、と相槌を打ちながら、真由利は洗ったカレー皿――なんにでも使う大きめの皿で、二枚はないので梅ちゃんは丼でカレーを食べた――などを水きりカゴに入れた。

「お預かりの最終時間過ぎても迎えに来ない家があってさ、家に電話しても携帯に電話しても出なくて。園長と、どうするか、って顔見合わせてるときにやっとつながったんだけどさ」

「うん」

「パチンコで確変出ちゃっててもうちょっと時間かかるから、預かっといて、って」

「……うん?」

 延長保育の最終って七時なんだけどさ、と梅ちゃんが言う。保育園って、働いている保護者が保育できないから預ける場所じゃなかったっけ、と真由利は首を傾げる。

「仕事終わってからお迎えまでの少しの時間、ちょっと息抜き、っていうのは責める気にならないし、かつかつで育児したりすると怒りっぽくなっちゃうからね、そういうのは別にいいんだよ。でも、パチンコやってて連絡取れません、確変出たんで過ぎてるお迎え最終時間さらに遅れます、っていうのは、子供も不安になるし、こっちもいくら子供は可愛くたって、ええ……って思っちゃうし、それでもさ、まあ僕は独身だし、元々遅番だったから、園長先生とふたりで残ってますよ、って他の先生は帰ってもらったんだよ」

「うん」

「うちの園長先生、おじいちゃん先生なんだけど、その人と僕でしょ?」

「うん?」

「パチンコの確変が出たからお迎え遅くなります、って家の子、女の子で。年長さんの」

 梅ちゃんがため息を吐くが、真由利は話の筋が掴めないでいた。冷凍庫から棒アイスを出して、勧めてみる。バニラとチョコを出して、バニラを取られた。真由利は冷蔵庫に戻って、自分の分もチョコとバニラを交換する。

「非常識って言われた」

 透明のセロファンみたいに薄いビニールの袋を梅ちゃんは破くと、取り出したバニラアイスをぱくりと咥える。白くて四角くて細長い。

「なにが?」

「うちの娘を保育するのに、男しか残ってないって何事、って」

「……え、言ってる意味が分かんない」

「僕も最初分かんなかった」

「園長先生って、保育士さんでしょ?」

「僕も保育士さん」

 知ってるよ、と言いながら真由利もアイスを齧る。梅ちゃんは舐める派だけど、真由利は齧る派だ。

「年長さんの娘、男が保育してるのはどういうことだ、って文句言われた」

 真由利はぽかんとしてしまう。パチンコをしていて迎えに来ないのもどうかと思うが、保育士の性別で文句をつけるのはもっとどういうことかと思う。なにより、文句をつける意味が分からない。

 真由利の親も子供にまったく興味のない人達だったけれど、興味がなかったのでむしろ真由利が誰となにをしていようが、誰と仲良くしていようがそれにも関心を持たないでいた。良いか悪いかは別としても、真由利はまだうちの親の方がマシなのかも、と思ってしまう。自分にとっては。

「未満児さんの女児のオムツ替えをして欲しくない、っていう声は前からあるらしくて、だから僕は未満児さんの担当にはなったことないんだよね。まあ、以上児さんたちの、体力がついてきたぞー! ってくらいのを追いかけ回すのに、男手は必要かなって思うこともあるしさ。それは別にいいんだけど。まあ、だったらそちらの旦那さんには自分のお子さんのオムツ替えさせてないんでしょうかねえ、って嫌味言いたくなることもないわけではないけどさ。全員が全員そんな感じ、ってわけじゃないし」

 でもやはりなにかあると、心配されるらしい。たとえば、成人男性が幼児に悪戯をした事件などがあったりすると。男性保育士が、女子園児になにかしらよくない行為をして捕まったりすると。

 すべての母親がけしてひとまとめにしていい存在ではないように、すべての子供が子供らしさの枠にはまるわけではないように、男性保育士という立場の人すべてを「幼女が好きな変態」と見るのはとても間違っていることだし、失礼なことだ。中に、たまたまおかしな人が混ざっていたからといって。

「僕、退職しなきゃなんないかも」

「なんで!」

 梅ちゃんがふにゃりと笑う。泣いてるみたいな顔で。泣き笑いだ。

「なんで梅ちゃんが辞めるの!」

 だって梅ちゃん、いい先生でしょ、子供大好きで、発表会の衣装も丁寧に作ってて、卒園児用のアルバムだってひとりひとりに心を込めて作っていて、それに、それに、と真由利は憤慨して代わりに怒るが、ここで怒ってもどうしようもないことなのは分かっている。

 だけどここで怒らないんだったら、梅ちゃんの友達でいる意味がない。

「前からさ、男の保育士ってどうなのかしら、って言われてたりするしねえ」

「そんなの、男女差別でしょ。職業差別でしょ!」

「ちょっと前まで、保母さん、って名前だったし」

「子供育てるのなんか女の仕事だ、って、働く親達が決めつけたら本末転倒じゃない!」

「偏見はあるんだよ、保育士してる男なんてなよなよしてるだろう、とか」

「梅ちゃんはなよなよなんてしてないし!」

「……ありがと。でも、マッチョならマッチョで、きっと幼女に興味がある変態かも、とか思われるんだよ」

「そんなのムチャクチャじゃないの」

「無茶苦茶なんだけどねえ」

 多勢に無勢。声の大きい方が意見は通りやすい。害がないことは証明しにくいのに、少しでも害があれば寄ってたかって駆除される。潔癖の照明は難しい。やっていないことを、これからもやらないと証明するのは極めて困難で、やってしまったことを盾に「だから今後もやる可能性があるでしょう?」と決めつけるのはとても簡単で。

「無茶苦茶でもさ、結局保育園の方も商売だし。文句があって辞めます、って人が増えるのも、評判が悪くなって入園辞めますって人が増えるのも困るし」

「待機児童だっけ、なんかそういうのがどうのとかで、保育園って入れなくて困ってるんじゃないの?」

「うちの県はそこまでではないから……待機児童問題。第一希望が無理でも、第二希望、第三希望なら入れる、って大抵なるし、なんなら最近は幼稚園でも五時くらいまでのお預かりやってるところもあるし」

 結婚してないから、僕。梅ちゃんがそんなことを言う。なんで結婚が関係あるの? と真由利が聞く。

「自分の子供もいないのに、人の子供を見られるわけがない、って」

「……なにそれ」

 子供のいない助産師だって小児科医だって教員だって子供服売り場の店員だって、玩具会社の人間だって、子供に関わる仕事をしている人達はいくらだっている。

「いるんだよ、そういう人も」

 分かるけれど、分からない。

 自分の子供がいなければ、子供に関するプロフェッショナルにはなれないというのか。子供のいない特別養護施設の職員だってたくさんいる、乳児院の職員だっているのに。自分の子を育てたことのない人間は、子供を保育することができないというのか。

「子供を常識的に育てられないそこらの親なんかより、よっぽど梅ちゃんの方が子供を愛してるしやさしいし親切だし子供のこと考えてるのに!」

「ありがと」

「梅ちゃんよりよっぽど役に立たない保育士なんて掃いて捨てるほどいるのに!」

「掃いて捨てなくても……」

「なんでクビになるの?」

 別に明日からもう来なくていいです、って話になったわけではないから、と梅ちゃんが話しながら舐めていたバニラアイスを食べ終えた。真由利の方は五口くらいでとっくに食べ終えてしまっている。

「あ」

「うん?」

「当たった」

「え?」

 梅ちゃんがズイッと持っていたアイスの棒を真由利の目の前に差し出した。うっすらと茶色い焼き跡みたいに、「ホームラン・大当たり」と書かれている。

「あ」

「一点二点ってやつじゃないよね、これ、送ればすぐ景品送られてくるやつだよね?」

「うん、確か。箱の裏見てくる。え、すごい。え、すごくない? 梅ちゃん」

 こんなときなのに、と梅ちゃんが笑った。花が咲くみたいな、ばっとした笑顔を見て真由利はひらめく。

「梅ちゃん!」

「なに、真由利、欲しい?」

 景品なに? と梅ちゃんがアイスの当たり棒を軽く振って目を細める。ううん、と真由利は首を横に振った。

「結婚しようか」

「……ええ?」

 結婚。真由利はもう一度口にする。え、ええ、え、なんで、えええ、え、なん、なんで、真由利、えええ? と梅ちゃんが面白いように動揺した顔を見せた。

「自分の子供がいればいいって言うんなら、結婚しようよ。子供、産むよ。あたし、梅ちゃんの子供産む。そしたら保育士続けてられるんでしょ?」

「簡単にそんな、え、だって、僕は真由利のこと友達って見てて、結婚とかっていうのは……別にいいのか。友達としても」

「うん。お見合いとかなんて、『結婚したい』って共通点だけでとりあえず知らない人同士が出会ってするものだし、友達同士でしちゃいけないものでもないと思う」

「……でも、そんな簡単に決められることじゃないでしょう、そんな、子供とかって言ったら責任出てくるんだよ? 自分以外の責任を持たないといけない個体を保護して育てていかないといけない、ってことだよ?」

 でも子供でしょう? と真由利は首を傾げる。

「梅ちゃんがいたら、少なくともうちの親よりはよっぽど充分すぎるほどの子育てができると思うよ?」

「真由利だって子育てしなきゃなんないんだよ?」

「するよ? 梅ちゃんに似た子だったら、梅ちゃんのちっちゃいのだ、って思って育てるよ?」

「真由利に似る可能性だってあるんだよ?」

「ちっちゃいあたしか、って思って育てるよ?」

「でも、自分とは別の生き物なんだよ? 違う性格で、違う考え方で、支配とかできないんだよ、自分の延長じゃないんだよ?」

 案ずるより産むが易しじゃないの? と真由利が素直すぎる声で聞くと、梅ちゃんが言葉に詰まった。

「でもそんな簡単なものじゃ、」

「あたし、これから現れるのかどうなのか分からない『結婚したいかもって思える人』を捜したり待ったりするより、梅ちゃんと一緒の方がいいよ」

「……僕も真由利のことは好きだし、恋愛感情じゃないけど、でもさ……真由利は僕に欲情するわけ?」

「欲情?」

「子供作るなら、セックスしないと」

「欲情しないとできないの?」

「……しなくてもできるものだっけ?」

 恋愛体質ではないと思っている。恋をしていないと息もできない、という人間ではない。恋愛には興味がない方だと思う。むしろほとんどないのかもしれない。けれど学生時代、好きでもない男とセックスしたことはある。快楽もなかったが、不快もなかった。だから梅ちゃんとも大丈夫なはずだ。

「梅ちゃんが勃起と射精さえすれば」

「わーっ、ダイレクトに言ったなあ、真由利!」

 梅ちゃんが笑い出す。やけくそのような、吹っ切れたような。

 恋愛は必須項目ではない。

 誰もが恋をするわけじゃない。結婚だって別にしなくてもいいと思う。それでも先のことを考えて淋しくなりそうだとか、誰かの役に立つためだとか、将来的に既婚の方がメリットがあるだとか、とういうごく個人的な理由での結婚だって、非難されなくていいと思う。

 結婚なんて個人的なものだ。

 家と家の結び付きのため、という理由だって、突き詰めれば家と家の結び付きを願う誰かの個人的な理由による。

「別にいいんだよ」

 自分の結婚くらい自分の好き勝手にするよ、と真由利も笑う。相手の同意はもちろん必要だけれど。

 アイスの当たり棒くらいの気軽さで――だけど当たらない人は当たらない――、友達と結婚したってなんの問題もない。


「自分のことを自分で責任が取れる状態のことを自由なんだと思ってたんだけど、」

 とりあえず結婚するしないは別としてもなんだか気が楽になった、と梅ちゃんがいつもの穏やかな表情に戻っている。結局アイスをもう一本ずつ食べた。梅ちゃんはチョコで、真由利はまたバニラで。今度はふたりともハズレだった。ひと箱にそう何本も当たりが入っているわけではないのだろう。

 けれど当たりなんてひとつで充分だ。

 梅ちゃんはいつでも面倒を見る側で落ち着いているので、むしろ真由利は自分なんかでも梅ちゃんの助けになるのか、と驚いてしまう。一呼吸置いてみれば、随分突飛なことを言ってしまったのに。

「自分の責任が自分で取れても、周りからあれこれ雁字搦めにされちゃったら、やっぱり自由ではないんだよね」

「いろいろと決めつけられちゃったりね。そういうのはあるし。不自由っていうか、窮屈っていうか、この人つまらない人生送ってるんだろうな、って同情したくなる人たくさんいるし」

 ふとアシンメトリーボブの顔が浮かぶ。結局名前を記憶していない。

 興味がない人とこれから何十人、何百人と出会うとして、顔も名前も覚えていられないなら、恋愛感情でなかったとしても大好きな梅ちゃんと結婚してふたりの子供を作るのは、そちらの方がよほど正解ではないかと思える。

 人生に正解、不正解などなかったとしても。

「結婚とか恋愛とか、不自由になることだと思ってたけど」

「自分で自分の責任が取れてても?」

「相手のあることだしね。だけど、真由利がさっき子供産んでくれるって言ってくれて」

「うん」

「結婚して自由になることもできるんだなあ、って思ったよ」

「自由になる提案? した?」

「うん、なんていうか。子供のいない独身男に保育ができるか、っていちゃもんつけてくる人の口を、とりあえずは塞いでやれるのかもしれないんだなあ、って」

「文句つけてくる人は、どんな理由でも文句の材料にするけどね」

 またアシンメトリーが真由利の頭に浮かぶ。もしかしてあたしはあの人嫌いなのかしら、と首を傾げる。

「結婚する?」

「うん、なんかそういうのもいいのかもね」

「ゆっくり考えてもいいし、」

「勢いのまんまいっちゃってもいいし、」

 真由利と梅ちゃんは顔を見合わせる。さっきのアイスの当たり棒は、梅ちゃんがテーブルの上に置いている。

「案外、」

「自由だねえ」

 ふたりの声が重なって、どちらからともなく笑った。

 後でアイスの箱の裏の、当たり棒の送り先を確かめなくてはならない。

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