ふたりの生活
いつの間にか、見たことも無い陸地の上でサンゴは独り途方にくれていた。
陸地は何かに浮かんでいるらしく、とても小さかった。波に揺られるように流されていく。
――どこにいくの?
何処からか声がする。
「わからない」
サンゴはそう答えて、その場に蹲った。
――そうしていることが、いきているっていうことなのかなぁ。
「わからない」
――でも、きっといつまでもそうしているよ。それにそんなりゆうをしったところで、なにもいいことはないよ。
「そうなのかな」
――そのままでよかったのに、どうしてしりたくなってしまったの?
「あたまのなかのせかいがきれいだったから……」
サンゴはそう言うと、足を抱えたまま天を見上げる。
――そうなんだ、そうしていたほうがたのしい?
「まだ、わからない」
サンゴは右手を胸に当て、ぎゅっと、か弱い力で服を握った。
「でも、ここがたまにふわってなる」
――ふわっとなるのかぁ。でも、わかるといいね。
「うん」
天からの声は、それ以降聞こえなくなった。サンゴは立ち上がると、目の前の空間を見た。少しずつ色が付いていく。やがて青の空間となり、白い不純物がともに現れた。
陸地にはたくさんの卵焼きが置いてあった。
サンゴは、胸が少しふわっとした。
* * *
ダリルはボサボサの寝癖頭で目を覚ました。小さな窓からは眩しい日差が射し込み、心地良い風に乗って小鳥の囀りが聞こえる。
視界に何か見える。サンゴは至近距離まで顔を近づけて、じーっとこちらを見つめていた。
「うおお!」
ダリルは驚いて、後ろの壁に身体を強打する。
「いって」
「どうしたの?」
首を傾げて、離れたダリルに近づいてくる。
「いや、なんでもねえよ」
ダリルは顔を背けて洗面所に向かった。サンゴはダリルの後を追った。
「なんでもねえの?」
「別に口調まで真似する必要はねえぞ」
洗面所で顔を洗うダリルを背後から興味津々な目で覗こうとするサンゴ。
「なにしてんだ」
「みてる」
「見なくていい。おら、お前も洗え」
「あらう」
一人用の洗面所でダリルは自分の身体を端に寄せた。サンゴは横に並ぶと、蛇口から出る水をばしゃばしゃと顔にかけているダリルを見て、自分も同じことをした。
「ん……」
水を顔に当てると、きゅっと、肌が引き締まった。
サンゴはこの行動が、とても気持ちの良いことのような気がした。
「どうした、冷たいのか」
「つめたい」
「しゃあねえんだよ」
「しゃあねえ」
「だから、真似すんなって言ってんだろ」
彼女は顔を濡らしながら前を見ると、そこには鏡に映ったサンゴの顔があった。
「だれ?」
サンゴは前方の鏡を指差し、ダリルに質問する。
「おまえじゃねえか」
「おまえ」
サンゴは目の前に映った鏡を見て首を傾げたり、鏡に触れたりした。
「いっしょにうごく」
「なんだ、お前鏡も見たこと無いのか。それはお前ってか、サンっ……、ま、お前だ」
何度もお前を連呼しつつ、ダリルはサンゴに、鏡の中に居るのが彼女自身だということを数少ないボキャブラリーを駆使して、何とか伝えることに成功した。
「どっちもふたりいる」
「あ?」
サンゴは鏡に映ったダリルを指した。
「ああ、俺も鏡に映ってるんだ、お前と一緒だ」
ダリルはいい加減な口調でそう言った。
「いっしょ、かがみすごい」
「そうだろ」
ダリルは壁にかけてある布で顔を拭い、それをサンゴに手渡した。サンゴはダリルと同じように顔を拭くと、二人は洗面所から離れた。
二人は簡単な朝食を食べた。湿ったパンの上に焼き過ぎた目玉焼きを乗せたものだったが、サンゴは目を輝かせながらほうばった。食べ終えたときの感想は「なんかのってる」であった。ダリルは何とも言えない表情で「なんか乗ってるな」と返事した。
ダリルは次の修理依頼を請けており、今日中に依頼人の家までその概要を聞きに行く予定になっていた。
時計修理の依頼人からクレームがあったばかりなのに、新しい仕事が舞い込んできた為、先日の汚名返上とばかりにダリルはいつもよりやる気に満ち溢れていた。
次こそ自身の渾身の力作を喜んでくれる依頼主だといいのだが……。
身支度を済ませると、ダリルは部屋の隅でちょこんと座って自分の周辺を見回しているサンゴに声をかけた。
「いいか、俺はこれから仕事に行ってくる。お前は大人しくここで待ってろよ」
「うん」
サンゴはこくりと、頭を縦に振った。
「本当に分かってんのか、こいつ」
「まつ」
「おお、そうだ。夕方には帰ってくる。留守番してるんだぞ。じゃあな」
「るすばん」
ダリルはサンゴを置いて扉から出て行った。
この光景をサンゴは幾度と無く見てきた。しかし、今までとはどこか違っている気がした。
留守番の意味を彼女は知らなかったが、家から出るな、という意味に受け取った。
前に居た部屋で、サンゴはいつも独りだった。真っ白な部屋、何処を見ても何も変わりない景色。ただ硬い椅子に座って虚空を見つめていた。
だが、今はどうだろうか。ふと辺りを見渡すと、ガラクタや雑誌、食べかけのインスタント食品など、さまざまな物で溢れかえっていた。さまざまな匂いが入り混じり、鼻を刺激してくる。
あの何も無かった白い部屋と比べ、こんなにも小さな部屋なのに彩りのある生活をしてきた痕跡がそこにはあった。これが生きているということなのか。これがあの大人の生きてきた証になっているのだろうか。サンゴはそんなことを考えた。
窓からは涼しい風と共に、小鳥の囀りが聞こえる。この町特有の鼻をつんと刺激する匂いも少しする。いずれも嗅いだことのない匂いだった。
サンゴは目を閉じて、窓の外から運んできてくれる空気を胸いっぱいに仕舞い込んだ。
風が頬を撫でるように優しく吹いている。とても気持ちが良い。そういえば顔を洗うのも心地よかった。
風を満足のいくまで感じたら、部屋の中を散策してみることにした。勝手に部屋の中を動き回って良いのか疑問だったが、部屋から出なければ問題ないと判断した。
それに知らない物で溢れかえっているこの未知の空間を、自分の足で散策してみたかった。何でそんな感情になったかは良く分からないが。
この部屋の中で一番目立つ物は、部屋の隅々に置かれている鉄の塊の数々である。どれもとても奇妙な形をしている。
サンゴの足元には、手巻きぜんまい付きの手足が生えたラジオが置かれている。
歯車やねじなどの小さな部品で顔を作っているようだ。とても不気味な表情を浮かべている。裏面から出っ張っているぜんまいを回してみると、ラジオは奇怪な音を発し、一定の動作でひとりでに歩き始めた。
『おいこら、早く起きろこら、お前自分の声なら起きんだろ、おいこら』
ラジオから雑音混じりに聞こえる声は、ダリルのものだった。
しばらくすると壁にぶつかり、ガチャンと音を立てて倒れた。
それでもラジオは宙を歩き続けていたが、しばらくすると動きを止めた。巻いたぜんまいを使い切ったのだろう。
とても奇怪な代物だった。サンゴは開いた口がしばらく塞がらなかったが、またぜんまいを巻いて遊び始めた。
他にも、大きな目が飛び出たカメラや、底面にプロペラが付いた板などが壁に立てかけてあった。使い方は良く分からなかったが、どれもサンゴの興味を惹くものばかりだった。
部屋に散らかっている雑誌は、裸の女性がポーズをとっているものが殆どだった。
何故みんな服を着ていないのか不思議だったが、それよりも気になったのは写真の女性達は自分の体形と大分かけ離れていることだ。これが大人の女の身体という奴なのか。
サンゴは自分の着ている服をおもむろに脱いで、身体の違いを触って確かめると、納得したのか雑誌をそっと閉じた。
他にも、飲食後のカップだったり、食い散らかした跡がある。また、鼻の粘膜をつんと刺激するような生臭い匂いが一定の箇所から漂ってくる。サンゴは表情を歪めると、反射的に鼻をつまみ、そこへは立ち寄らないことに決める。
こんなに狭い空間なのに、色々と漁っている内に時間は過ぎていく。
窓から差し込む光は鮮やかな夕日に変わり、部屋の壁さえも朱色に染めていた。
そういえば、昨日もこの色の空を見たなあ、とサンゴは思い返す。
この前までは、青だったことに衝撃を受けた。なんて綺麗で自由な色なんだろうと思っていたが、今ではこんなにも暖かな色へと変わっている。空には色んな色があるのだと、彼女はこのとき初めて知った。
「これが、ゆうがた」
ダリルは今朝出て行くときに言っていた、夕方には帰ってくると。
いつ帰ってくるんだろう。もうすぐなんだろうか。サンゴはそのことがとても気になっていた。もう、ここには誰も来ないかもしれない。もしかしたら悪いことをしたのかも知れない自分の近くには。
そのことを考えると胸の中が少しだけ、痛かった。こんなことは初めてだった。
サンゴは玄関の向かい側の壁に、垂直に足を立てて寝そべり、キッチンの窓から入ってくる夕色の暖かさを受けながら、ダリルが出て行った扉の方をじっと見つめていた。
扉が開いた。
「よう」
開いた扉の向こうから逆さまのダリルが現れる。
「うん」
サンゴは体勢を変えずに無表情のまま、瞳の光を夕日で輝かせ返事をする。
「そういうときはな、……んや、やっぱいい」
何かを喉に詰まらせたダリルは、それをそのまま飲み込み、キッチンへ向かうと袋の中から卵を取り出した。
「これはなに?」
サンゴはダリルを追ってキッチンに並ぶと、早速ダリルが持っている白い球体について質問した。
「お前が食った卵料理の元だ。調理するとあんな感じになるんだ」
「このまるいのが、たまごやきになるの?」
「そうだ、これが卵な」
調理というものは、この白い球体から様々なものを作り出すことが出来るのだと知り、サンゴはとても不思議に思うのだった。
ダリルは卵焼きを再び披露し、組み上げた鉄板の上で向かい合いながら食べる。
サンゴにとって人と一緒に食事をするのは、とても新鮮なことだった。ふと、他の皆もこんな風に誰かと食事をするのかな、と考えた。
今日の卵焼きも、やっぱり不思議な味がした。でもまた食べたいと、サンゴは思うのだった。
「今日は何をしてたんだ?」
食事が終わると、ダリルは身体を楽な姿勢にして、サンゴに質問した。
「るすばんした」
「それは分かってる。留守番中に何してたか、聞いてる」
「このなかをいろいろみてた」
サンゴは、辺り一面をぐるっと指差す。
「おお、たとえば?」
興味深そうに身体を起こすダリル。サンゴは辺りを見渡すと、小さな足取りで床に落ちている物を拾った。
「これがなにかしりたい」
持ってきたものは、ダリルが作ったジャンク品の数々と、女体の写真が乗っている雑誌だった。
「あ! これは子供がみるもんじゃねーぞ」
雑誌をサンゴから取り上げると、床に転がるガラクタの下に押し込んだ。
「どうして?」
サンゴの純真な瞳が上目遣いでダリルに訴えかける。
「だ、駄目なものは駄目なんだ。それはお前が大人になったら、教えてやる」
「……わかった。じゃあ、こっちは?」
素直に引き下がると、次は手足の生えたラジオについて解説を求めた。
「おぉー懐かしいな。これは録音ラジオマンって言ってな、ぜんまい巻くと事前に録音した音を再生しながら歩き回るんだ。時間を設定すると、録音してた音を再生しながら手で叩き起こしてくれる優れものだ! ジャンク屋を立ち上げた駆け出しの頃の……」
「……じゃあこれは?」
「お、おい、ばっさりだな。なんか感想ねーのかよ……」
熱弁するダリルを軽く切り捨て、次の物の説明をしろと言わんばかりのサンゴ。
誰かと会話をするという特別な時間をサンゴは体感し、時間を忘れて沢山のことを質問してあれこれ喋った。こんなに笑ったり、照れたりと、表情を変えながら喋る大人を見るのは初めてだった。
寝る時間は直ぐにやってきた。
明るかった部屋は真っ暗になり、ダリルは昨日と同じように寝転び布を寄せた。
「明日は朝から出かけるぞ。さっさと起きろよ」
「どこにいくの?」
布を被り背を向けるダリルにそう質問したが、返事は返ってこなかった。
サンゴもそのまま目を瞑り、明日もダリルと一緒と思うと、また胸の鼓動がちょっとだけ早くなるのだった。