プロローグ
わたしの世界には、シロだけがある。
目が覚めると、シロい世界の中心にぽつんと置かれた椅子にわたしは座っていた。
数人のオトナ達が椅子に座っているわたしの周りを徘徊していた。オトナはわたしに笑みを浮かべると、手元の紙に何かを記入した。
わたしの世界はシロい四角い箱でしかない。この箱の外のことを何も知らない。
わたしの目に映る色は、本当にこれで合っているんだろうか。鼻に入り込んで来る匂いは、何処から発生しているんだろうか。
シロい箱の中で動いているオトナ達も、わたしと同じ色を認識し、同じ匂いを感じ取っているのだろうか。
わたしには分からない。この箱の中に存在している生命は皆、果たして生きているのだろうか。
わたしには分からない。わたし自身がここに居る意味が。わたしの生きている理由が。
なぜここに居るのか。人間は何の為に、生きれば良いのか。何を通して、生きていると実感すれば良いのか。そもそも生きているとは何か。
また、生きていると分かったところでそれが一体何になるのか。何かきっと理由があるに違いない。
そういえば、目を閉じているのに、頭の中で映像のようなものが浮かび上がったことがあった。わたしは見たことが無いけれど、それはアオと呼ばれる色だった。
辺り一面がアオで染まった空間が映っていて、幅の広い手の生えた生き物がその空間を背に動いていた。
頭の中にはもう一人の自分が居て、わたしはその不思議な生き物に触れようと手を伸ばした。けれど届かなかった。どのくらい距離が離れていたのか分からないけれど、どんなに手を伸ばしても届かない場所まで生き物は行ってしまった。きっと、あの生き物はとても速いのだ。
触ってみたかった。嗅いでみたかった。
温かいのだろうか。冷たいのだろうか。
柔らかいのだろうか。硬いのだろうか。
きっと、わたしとは違う生き物なのだ。あんなに尖った口をわたしは持っていない。
いつも途中で記憶は途切れ、気が付けば、またいつもの箱の中に戻っている。何故、目を閉じると箱の外に出られるのか。何故、目を開けていると、あのアオの世界にはいけないのだろうか。よく分からなかった。
周囲のオトナ達に目を向ける。背がとても高く、眼鏡をかけて手元の紙になにやら書き込んでいる。オトナ達は揃ってその行動しか取らなかった。
オトナ達はわたしの成長した姿らしい。わたしもいつかこうなるのかな。
ある日、いつもと同じように箱の中で座っているわたしの元に、オトナ達がやって来て、わたしの名前を呼んだ。普段するように「はい」と返事をして、オトナの元へと向かった。だが、わたしを呼んだオトナは違うオトナに呼ばれ、そちらへ行ってしまった。オトナもわたしと同じことをしていた。まったく変わらない。
オトナ達は話し込んでいて、戻ってくる様子はない。
ふと、目の前にあるトビラを見る。トビラはいつも、オトナ達が箱から出て行く場所だ。わたしを独り残して。
トビラの向こうには一体何があるのだろうか。何も無いのだろうか。オトナ達は、何故そちらに向かうのだろうか。
考えたときには、足が動いていた。トビラの出っ張りに手をかける。思えば手を使ったことなんてあっただろうか。
――足で交互に地を蹴る。身体が弾む。おそらく走っているのだ。
トビラの向こう側に行ってみたい。頭の中で見たあの場所が、トビラの向こうにあるのかもしれない。
息を切らしていた。足の動かし方がこれで良いのか分からない。少しだけ苦しい。体が温まっていく。これも初めての体験だった。
目の前にオトナが居た。きっと、わたしがあの場所に行くのを止めにかかるだろう。
でも、わたしはあの場所に行ってみたい。
勢い良く駆け出すと、わたしは躓き地面に転がってしまった。
オトナがわたしに、少しずつ近づいてくる。
これでは、きっと捕まってしまう。
そう考えたわたしは、抱き抱えようとする腕に噛み付いた。
オトナは悲鳴を上げると、わたしを手放した。
口というものは、この為に付いているのだろうか。
わたしはそのまま走り続ける。
オトナは罵声を上げて追いかけてきたが、わたしは振り返らなかった。
背後でわたしを追いかけてくるオトナを止める声がした。
何処か聞き覚えのある声――そうだ。わたしのチチオヤと呼ばれる人だ。そんな気がする。チチオヤという生き物は、わたしと一体何の関係があるのだろう。良く分からない。
それ以降、オトナは誰も追いかけて来なかった。
わたしは慣れない足取りで、途中躓きながらも独り進んだ。何処に続いているかも分からないこの細長く、シロい道をただ進んだ。あの箱の外はこんな風になっていたのか。
トビラも一つではなかった。いくつものトビラを開けた。
やがて、目を大きく開けていられない程の輝きを見つけた。きらきらと、とても綺麗で、わたしは何か期待をしながらそのトビラを開けた。
新しい世界に出会った。匂いが変わった。色が変わった。目の前にある景色は、今までわたしが居た箱の中とは全く違うものだった。
ここは、頭の中で見た場所だ。とても柔らかそうな物が、アオに引っ付いている。他には見たことの無い色も無数にあった。
頭の中で見たあの世界は本当にあった。わたしは今、その世界で立っている。