第一話
私は壁の外を知りません。
私たちはずっと、壁の中で生活してきました。
でも、そのことを不思議だとは思いませんでした。壁の外を知りたいと思う存在がいることが、不思議で仕方がありませんでした。
だって。
灰色の空の下、壁の中で生まれて死ぬことが、私たちにとっての“当たり前”だったから。
壁の外に夢を見ることなんて、許されてはいなかったから。
おかしいとも思わなかったから。
あの人に、出会うまでは。
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ピピピ、ピピピと目覚ましのサイレンが鳴る。その音に私は目覚めました。
「……もう朝ですか」
枕もとにある時計を見れば、いつもと同じ時間。ベッドの上で寝ぼけていること約二十秒。私は大きくのびをして、ベッドから起き上がりました。
今日もまた、せわしない一日が始まります。全ては時間通りに、規則正しく行わねばなりません。それが“統率局”に務める模範的な“労働民”というもの。
ベッドから降りた私はまず、洗面台に行き、顔を洗って寝ぐせを直します。羊の魔族の血を濃く受け継いでいるからでしょう、乳白色の私の髪は強靭な寝ぐせを形成します。
それを以前副隊長殿からいただいた特殊な薬液でほどくこと十分。ようやく重力に反逆するかのような寝ぐせが治りました。
いつもと同じ、乳白色の長髪ストレート。“労働民”に許された髪の規定内です。
私の強靭な寝ぐせは規定に漏れることが多々あるので、薬液をくださった副隊長にはただただ感謝です。
「副隊長……はぁ」
尊敬する副隊長の凛々しいお顔を思い浮かべて、私はアンニュイなため息をついてしまいます。……おっと、いけない。寝ぐせを直すたびに物思いにふけっていては、朝食の時間に遅れてしまいます。
右耳のそばに生えた巻き角を一撫でして、私はクローゼットに向かいました。
クローゼットの中に入っているのは、モスグリーンの制服。ゆったりとした寝間着を脱ぎ、ぱりっと糊のきいたシャツに袖を通すと、気持ちまで引き締まります。
「胸の辺りがきついなぁ。また成長したんでしょうか」
“統率局”の魔人として生きていくには少々邪魔な肉塊は、私の願いに反して大きくなるばかり。最近、周囲の男たちの目も気になるところですし、もう大きくなるのはやめてほしいものです。
胸が大きくなったからと、何度も担当の方にシャツの申請を出すのは嫌ですし、第一胸が大きくなっても、副隊長殿は欠片も注目してくれません。
とにかく、真っ白なシャツを着て、モスグリーンのズボンを履きます。制服は男女問わずズボンです。かつては制服も、男はズボン。女はスカートなどと区別されていたようですが、今では一律でズボン。
統一されている現状に満足です。スカートなど、“隷属民”の売春女がはくものです。
上着を羽織った後に、帽子を被り、最後に“労働民”であることを示すオレンジ色の腕章をつければお仕事モードです。脱ぎ捨てた寝間着を部屋の壁にある籠に入れます。洗濯物はブラウン……“奉仕民”のハウスキーパーの仕事ですし。
「むむ……普段より三十秒遅いですね」
目覚めてから着替えが終わるまでおおよそ十五分。ちょうど副隊長のことを考えていた時間だけ遅れています。
これはいけない。私は朝食を食べるために部屋を出ました。
出て行った私の部屋は、灰色のベッドと小さな書き物机に椅子。それと検閲済みの書籍がいくつかあるだけの簡素な部屋です。でもこれが我々“労働民”の当たり前で、それを不思議に思うことはありませんでした。
*
私の部屋は、“労働民”の統率局局員の四分の一が寝泊まりしているG7区画の統合宿舎の中にあります。この建物に中には、私のような局員の部屋がずらりと並んでおり、食事は一階の共有スペースにて行われています。
部屋を出て、灰色の素材でできた廊下を通り、十階から一階まで階段で降ります。宿舎には魔導エネルギーで動くエレベーターがありますが、それを使っていいのは“管理民”の方々だけです。一階の一番広い部屋が共有スペースです。
私が共有スペースに行くと、そこにはすでにたくさんの魔人たちが食事の配給のために並んでいました。
ざわざわと小さな喧騒。統一されたモスグリーンの制服とオレンジの腕章に身を包んでいても、魔人である以上、外見には大きな差があります。
人間寄りか、魔族寄りか。魔族よりならばどの種族か。
今では人間と魔族の交配が進み、“都市”内部の人口の九十九パーセント以上が混血である魔人となっていますが、人間と魔族ははるか昔に争い合っていたそうです。
人間は数の力で、魔族は個の力で互いに憎み合い、殺し合い、それはもう凄惨な戦争が長年繰り広げられていたとか。
その話を聞くたびに私は思うのです。愚かだ、と。
だって、人間と魔族は外見や性質が違うだけじゃないですか。それでどうして戦争なんて無秩序かつ、無意味なことをするのか。私には理解できません。
昔に“統率局”があれば、命を散らす人間も魔族も少なかったでしょうに。“統率局”の偉大さが身に染みるというものです。
共有スペースに入った私は、さっと中を見回します。……残念。副隊長殿はまだ来ていないようです。
「できれば、朝食をご一緒したかったのですけど……」
入口でいつまでもとどまっているのは不審です。今もスペースの壁際に立って、我々を指導してくださる“管理民”の方々に指導をされてしまいます。私はおとなしく、配給の列に並ぼうとして、背後から強烈な気配を感じました。
「あ」
その気配を他の魔人たちも察したのか、共有スペースの喧騒が一瞬で静まりかえりました。
振り返った私は、その気配の主の顔を見て、思わず顔をほころばせてしまいました。
「あぁ、セメナ。おはよう」
「おはようございます。副隊長殿」
私は緩んだ顔を隠すために、深くお辞儀をしました。その間にどうにか表情を立て直そうとしてはみますが、上手くいきません。にまにまが止まりません。油断すれば、むふふと笑ってしまいそう。
副隊長殿は、そんな私をしばらくおかしなものを見る目で見ていましたが、やがて視線を外し、列に並びにいってしまいました。
これはいけない! 私は帽子を目深にかぶり、慌てて副隊長殿の後ろに並びました。
「き、奇遇ですね。朝食がご一緒になるなんて」
「そうだな。私とセメナが、朝食を共にすることは少ない。確か、二十日前にそうだっただろうか」
副隊長殿は顎に手を当て、鋭くも、生真面目な顔をします。そのお顔の凛々しいこと。
姿勢正しく、規則正しく制服を身に着け、深くかぶった帽子から見える藍色の髪は、証明の明かりを反射して美しく輝いています。
長身細身で筋肉質。瞳は淡い黄金色。鋭い眼光は副隊長殿の厳格さを表しているようで、あの目で見つめられると心臓が飛び跳ねてしまいます。
魔族の血が薄く、限りなく人間に近い魔人である副隊長殿の魔人としての特徴は、左目の上から這うように伸びる角。普段は帽子の下に隠れていますが、その角がまた副隊長殿の凛々しさを強調しているのです。
副隊長殿と何か話を。雑談でもいいのです。ですが、いい話題が浮かびません。最近の食事? 馬鹿なことを。食事なんて、十日ごとにスープの味が入れ替わるだけではありませんか。なら“開拓者”どもの駆逐方法? いやいや、副隊長殿と出会えた素晴らしい朝から血なまぐさい話はしたくないです。
きっと、“開拓者”どもの話題になら、副隊長殿はのってくださるでしょうけれども。
結局、黙ったまま二人列に並びます。副隊長殿の前にいる魔人が居心地悪そうにしていますね。副隊長殿の覇気にやられてしまったのでしょう。ですが、無意味に列を譲るようなことは規則違反。
彼は副隊長殿の近くにいられることの幸福も理解できずに苦しむことでしょう。
列に並ぶことしばらく、ようやく食事を手に入れることができました。小さな声で同席の許可をいただき、一つの机に向かい合って座ります。
私と副隊長殿の朝食は同じ……というよりも、みな同じ食事です。正方形に切り分けられた合成肉に、円筒状のパン。香ばしい香りのスープと、栄養補給用の錠剤。極論、栄養補給用の錠剤さえあれば、他の食材は不要なのですが、味のする食事を与えることは、局員のストレス管理の一つだそうです。
「いただきます」
即座にパンを手に取った私とは違い、副隊長殿は両手を合わせて小さく言葉を唱えてからパンを手に取りました。その所作一つをとっても洗練されたもので、つい食事の手が止まってしまいます。
ところで、「いただきます」とはなんなのでしょうか。副隊長殿は食事のたびに言っているようですが、正直意味が分かりません。
「……」
「……」
私と副隊長殿は無言のままに食事を続けます。結局、話題を見つけることができませんでした。そのせいでしょう。副隊長殿を見て、魔人たちがぼそぼそとつぶやいているのが聞こえてしまいます。
「“裏切者”が……相変わらず物騒な気配を」
「全く。あんな男がどうして副隊長などという地位に」
「ブラック上がりのくせに」
「この……」
「気にするな」
ひそひそと聞こえてくるのは、副隊長殿を侮蔑する声。思わず立ち上がって声を荒げそうになった私を、冷静な声で副隊長殿が引き留めました。
「ですが……」
「どうせ正面きっては何も言えない連中だ。私も特別気にしない。好きにさえずらせておけばいい。それに食事中に理由なく席を立つことは規則違反だ。まさかそのことを知らないセメナではないだろう?」
「それはそうですが」
副隊長殿は音も立てずにスプーンを置いて言いました。ゆるぎない調子の副隊長殿に、私も次の行動をとれなくなります。
「それに彼らの言っていることは事実だ」
今度こそ私は二の句が継げなくなりました。副隊長殿の腕についている腕章に目がいきます。
副隊長殿が付けている腕章は二つ。黒とオレンジの腕章です。これはつまり、副隊長はかつて“都市”最下層“隷属民”で、今は“労働民”である証拠。
「しょせん俺は“裏切り者”だからな」
副隊長殿が、かつての仲間を裏切ったという証拠なのです。
大型連休終了をめどに完結させたいと思います。もしよろしければお付き合いください。




