第二章50『決断』
時刻はもう丑三つ時を過ぎていたその時の基地は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
外界からの音は基地の壁に阻まれてあるいは大量の雪に解けて消えており、基地内部においてはそもそも音の発生源が存在しなかった。何故ならば、その時点で基地の人間の中で目を覚ましていたのは二人の人間のみだったのだから。
そしてその二人からも僅かな衣擦れの音さえも発生しない。何故ならば、その二人の人間は今、固唾を飲んで互いを見合っているのだから。
「……何を、迷う必要があるんですか?」
その静寂を破ったのはニヒであった。その言葉に顔をしかめる翔をよそに、ニヒは口を開く。
「何も不安に思うことは無いんですよ。何も心配に感じることは無いんですよ。何も思い残すことは無いんですよ。
だってこれから全部、『無かったこと』になるんですから」
「……っ」
その悪魔の囁きに、翔は思わずニヒを睨みつける。そのニヒの口調がまるで、翔がそうしてニヒの提案に乗るかどうかを迷っているのを嘲笑うかのようなものだったからだ。
──無茶言うなっての……。過去に戻って人生やり直すだとか、そんな一世一代の『決断』をすぐに出来るわけないだろ……。
そうぼやく翔は、事実内心迷っていたのだった。ニヒのその提案は確かに翔にとっては理想的すぎた。その提案はつまり、翔がこれまで犯した数多の過ちが全て帳消しになるということを意味していた。翔が独断の行動で遠征隊を危険に追いやったことも、その結果フレボーグを死なせたことも、基地の皆を悲しませたことも、全て。
──全て、俺が犯した過ちの全てが、もし消え去ったら。
そんなありえない事を翔は既に夢想していた。夢想せざるを得なかった。翔が今直面している状況は、そうして翔が逃避せざるを得ない程救い難いものだったからだ。
──ひとまず、俺は楽になれるんだろうな。
ありえない事を妄想したところでそれは時間の無駄にしかならない。仮に時間の浪費自体が目的であったとしても、いずれ人は『考えても無駄』であると悟る。妄想することは必ず起こりえない事であり、その妄想が正しかったかどうかの答え合わせなど出来ないのだから。
しかしそれでも翔は気付いていた。もし翔のこれまでの失敗が消え去ったら。もしあの最悪の遠征の出発前に戻ることが出来たら。もし翔が、再び彼らと笑い合うことが出来たら。
──楽になる、楽になれる。このどん底みたいな気分も、幾らか変わるんだろうな。
翔はそうして遠くを見るように目を細める。脳裏に浮かぶのは翔が過ちを犯す前の、多くの人に囲まれた暖かく楽しい後継であった。
「……何で、こんなことになっちまったんだろうな」
翔の呟きにニヒは反応を示さない。静寂に包まれた基地の中で、その声がニヒに届いていないはずは無かった。しかしニヒはまるでその声が聞こえていないかのように眉一つ動かさない。目の前の翔が決断をし、それを口にするのを待っているかのように。
一体どこで間違ってしまったのか。翔はそんな事をこの夜何度も考えていた。
翔は体感ではつい昨日まで、翔は基地の皆とも遠征隊の仲間とも笑いあっていた。実際はそんな日々は三年も前のことなのであるが、翔を含め時間を翔けた者達にとっては記憶に新しい出来事なのだ。
そこから一転、今は地獄のような状況である。遠征隊は身に覚えのない理由で三年間の時を超え、基地の人間はその影響で三年もの間不安に晒されることとなった。もう基地には以前のような笑い声は響くことは無く、明るかった基地の空気は嘘のように濁り、澱んでいる。
──間違い、か。
先程の呟きの中の単語をふと拾い上げ、翔は考えた。
──そうか、そうだよな。鉛筆で書いた間違えを消しゴムで消すのと同じ。間違いは消して、無かったことにすればいい。そうすれば、そうするのが、一番いい。
そんなことに気付いて翔は口を開く。するとその時、翔の頭にふとした言葉が蘇る。
「──、──」
その言葉が頭に届き、体の中を巡り心に響いた瞬間、翔は一度口をつぐんで微笑んでから、再び口を開いた。
「……決めたよ、ニヒ」
その翔の言葉にニヒは大きな笑みを作り、その続きを聞かぬまま翔の方を向いて言った。
「そうですか。では早速過去に戻る準備を……」
「ああ、決めたんだ。ニヒ──」
しかしそのニヒの言葉を遮って、翔はキッパリとこう言った。
「──俺は、過去には戻らないよ」
その翔の決断に、ニヒは目を潜める。
「……何故、ですか? 先程から言っているようにもう貴方は何も考える必要なんてない。ただ私に任せてくれればいいんです。そうすれば貴方は過去に戻って全てやり直せるんです」
「──過去に戻って全てやり直す、か。確かに『間違い』を直すには、それが一番合理的なのかもしれねぇ。でも……」
そこで翔は言葉を止めて、一つ息をついて続けた。
「……鉛筆の字って、消しゴムできちんと消したようでうっすら残っちゃうものだろ?」
「はい?」
その翔の突飛な話に、ニヒは思わず眉をひそめる。
「一体何を……」
「それと同じように、『間違い』を過去に戻って直したとしても、それを犯したことを俺が覚えてる限り、きっと俺は元のまっさらな俺には戻れないと思うんだ。
一度刻まれた筆跡はもう二度と完全には消せない。一度犯した過ちは、例え過去に戻れたとしても、たとえ全てが元通りになっても、きっともう消すことなんてできない」
「…………」
その翔の話を聞いて、ニヒは押し黙る。
「……その様子だとお前にも記憶消去なんて芸当は出来ないみたいだな。
まぁ仮にそんなことが出来たとしても、どうせ『何が間違っていたか』が分かってない今の俺が過去に戻ったところで同じ過ちを繰り返すことになるだろうよ」
「──っ! そんなこと……!」
その翔の苦笑混じりの台詞を聞いて、ニヒはそう声を荒らげる。
「……それに、書いた跡を完全に消せないからってどうするっていうんですか。そんなことがあったとしても、その上にしっかり間違いのない文字を書いていけば、その跡もきっと気にならなくなるはずですよ」
そうニヒが静かに語るのを聞いて、翔は一つため息をついて答える。
「ニヒ、お前はどうしても俺に過去に行って欲しいんだな」
「…………」
その翔の言葉に、ニヒは再び黙らされる。
「お前の言っていることも間違ってないと思う。いや、むしろ俺よりお前の方が正しいのかもな。お前は合理的で正しい。そう思うよ。でも、俺が過去に戻らないと決めたのはもう一つ理由があるんだ」
その翔の言葉に、ニヒは真剣な顔になってその次の言葉を待つ。そのニヒの様子を見て、翔は深く息を吸い込んで問い掛けた。
「……なぁ、仮に俺が過去に戻ったとして、この世界はどうなるんだ?」
「…………」
その翔の質問が、ニヒの恐れていたものであったかのようにニヒは渋い顔で沈黙を貫く。
その様子を見て、翔は苦笑を浮かべて続けた。
「……やっぱり、な。平行世界、なんて言ってるからそうだと思ったよ。
俺が過去に行ったところで、俺が行った世界は救われても、この世界は変わらない、救われないんだろ? なら、意味ないんだよ」
そうして翔は、しっかりと言い放った。
「それなら過去に戻っても俺は、ここの人達に何も償えないままだ」
その翔の言葉に、ニヒは顔をしかめて呟く。
「……過去に戻ったら、全てやり直したら、貴方には縁のなくなる人達ですよ?」
ニヒの言いたいことは翔にも伝わっていた。いくらこの世界の人間に仁義を尽くすだとか、罪を償うだとか語ったところで過去に戻ればそんなことは一切関係ないのだ。『翔の世界』では基地の人間とも遠征隊とも仲良く暮らせる。罪を償う必要など全くない。
「……でもまぁ、違うんだよ。ぶっちゃけ、ここの世界の人の事だけを考えて言ってるわけじゃないんだ」
そうして翔は、ニヒのその暗い様子を笑い飛ばすように言い放った。
「平行世界なんてものがあったとしたら、どの世界でも自分が好きな自分でいたい。
つまりまぁ……、俺はどんな世界でも英雄でいたいんだよ」
そう言って笑った翔を見て、ニヒは一瞬悲しそうな顔になってから、俯いて呟いた。
「……随分と、余裕があるんですね」
「馬鹿言え。正直に言うと一度はお前の誘いに乗ろうと思ったよ。それぐらい今の状況は厳し過ぎる。余裕なんか全くねぇ。この最悪の状況をどうやって打破するかなんて、全く思い付いちゃいねぇよ」
その翔の返答に、ニヒはハッとして翔の方を見る。
「カッコつけて踏みとどまってるんだよ。分かってくれ。そして出来れば、俺の理性が俺の本能を押さえ付けられてる間に、立ち去ってくれ」
そう言う翔の顔色は事実厳しく、その身体も小刻みに震えていた。その様子を見てニヒは、翔がニヒの誘いを受けようとする寸前のところでそれを断っているということに気付く。
──そうだよ、早く楽になりたいよ。でも……
翔は本能ではニヒの提案に乗ろうとしていた。しかし理性がそれを許さなかった。その頭は厳し過ぎるその状況のせいか靄がかかったかのように働いていなかったが、それでも何とか『楽』になろうとする本能を抑え込む。
「……つー訳で、頼むわ。
俺は過去には戻らない。そう決めた。だから、早く立ち去ってくれ」
そうして頼み込む翔を見て、ニヒは少し考えてから口を開いた。
「……分かりました。貴方がそう言うのならば、私は退きましょう」
そのニヒの言葉を聞いて、翔は安堵のため息をついた。いくら翔がご高説を語ったところで、それがニヒに認可されなければなんの意味もなかった。その点先のニヒの言葉は翔にとってはたいへん喜ばしいものだったが、その後にニヒは「しかし……」と付け加えて言った。
「その代わり覚悟してくださいね。ここから先は私も全く知らない物語です。どうなっても、どんな目にあっても、知りませんよ」
そのニヒの言葉に、翔は息を呑む。これまで全能のように振舞ってきたニヒがそのようなことを言うとは、これから先翔を待ち受ける運命は相当厳しいものだというのが察せられた。しかし……
「それでも負けてたまるかよ。まだ光すら見えてない最悪の状況だがな。やるしか、ねぇんだ」
そう翔が言い切った瞬間、急に翔のまぶたが重くなった。
「──っ」
全身の力が抜け意識が遠のいていく感覚を覚えながら、翔はニヒの方を見る。
「……なら、せいぜい私はあなたを応援しますよ。
きっと、私に会いに来てくださいね、英雄」
ニヒはそう言って微笑んだ。翔はその彼女に向かって手を伸ばしたが、とうとうその手は少女の身体に触れることなく、翔は意識を失った。




