第二章64『トリック』
「……っはぁ、はぁ……」
襲撃者の身柄を拘束した元二とベイリーとも、謎の目印の指し示す先へと歩き出した翔とコハルとも異なる場所で、その二人も必死に息を切らしその雪の大地を走っていた。
「フィーリニさん、カケル先輩のとこまでは、あとどれぐらいかかるんですか?」
息も絶え絶えになりながら、キラは先を走るフィーリニにそう問いかける。そのキラの問いかけにフィーリニは走る速度を落とさず、顔と片手だけ後ろのキラの方に振り返って、その親指と人差し指で『あとちょっと』と表してその質問に答える。
「『あとちょっと』って……、それさっきも言ってませんでしたっけ……?」
息も絶え絶えにそうぼやくキラなど気にも留めず、獣の少女は前だけを向き走り続ける。両手両足を使い、四足歩行の獣のように走るそのフィーリニの速度はちょっとした成人男性の全力疾走よりも早く、その速度で十分以上走り続けるフィーリニにキラが置いていかれるのも無理はないように思えた。
「それなのに、まったくこっちに気を遣わずに走り続けるんですね、あなたは」
ため息交じりにそうこぼすキラであったが、同時にフィーリニがキラの存在など気にせず走り続けるのも仕方のないことのように思えた。
なぜなら、基地に来てから比較的日の浅いキラにもわかるほど、その獣の少女は翔を慕っていたからだった。なぜ彼女がそれほど翔に好感を抱いているのかはキラには知る由もない。しかし直感的に理解していた。フィーリニはたとえ翔がどんな場所にいたとしても追いかけ助けに行く。それだけわかっていれば、キラのするべきことは明白だった。
「……僕を、カケル先輩のもとへ連れて行ってくれるんですよね? だったら、全力で後を追うだけです」
そうして気合を入れ直し、今一度走り出したキラは、今もどこかで奮闘する翔とコハルの存在に思いを馳せる。
──あとは僕たちの助けが来るまで、あの二人が無事でいてくれたらいいんですけどね。
そんなキラの願いは、言葉にならずに静かに降り続ける雪の中に消えた。
「……ここか、旗が指す場所は」
最初の旗の場所から歩き始めて十分ほど経った頃であっただろうか。翔とコハルの二人は、ようやくその旗が指し示す、旗を指した者にとっての重要な場所に辿り着いた。だが……
「……改めて、只者じゃ無さそうだな。この旗を立てたやつは」
その旗の指し示す先にあるものを見て、翔はそう呟く。
翔の予想した通り、旗が指し示す先にあったものは、恐らくそれを立てた人間の居住場所であった。翔が基地に来る前に住んでいたその洞穴によく似て、岩場に出来た大穴の中に確かな人の生活跡が見えた。ただしその洞穴が翔のかつて住んでいたそれと違っていたのは、その入り口周辺に獣の骨で出来た防壁のようなものがあるということだった。
──確かに、この吹雪の世界で野宿するなら、あんな風な『獣を寄せ付けない』ためのものは必要だ。俺もかつて作ろうと思っていた。でも、結果としてそれを作らなかったのは、それを作るより前に基地の皆と出会ったからだ。
その洞穴に住む者が翔と同じ思考回路なのだとしたら、その者は少なくとも翔よりもその洞穴に住んでいる期間は長いらしい。その防壁を形作っている獣の骨のようなものの膨大な数と劣化具合からも、そのことは明らかであった。
「こんな大量の骨……、戦闘力が少なくとも遠征隊の隊員に匹敵するくらいはあるってのは一旦置いといても、こいつどれだけ長い間ここに住んでるんだ……?」
翔は思わずその事実に戦慄してから、周囲を警戒しながら改めてその入口へと近づいていく。
「……よし、じゃあ入ってみるか」
そうしてその洞穴に肩を貸すコハルごと入ろうとした翔を、コハルは「……ちょっと待ってください」と静止して言った。
「私はその中には入りませんよ。カケル先輩が一人で見てきてください」
そのコハルの予想外の言葉に、翔は眉をひそめて問いかける。
「……なんでだ? この洞穴の中が危険だとでも思うのか? 見たところ、今は中に人影はないけど……」
その翔の問いかけに、コハルは整然として返す。
「むしろその逆ですよ。二人でこの洞穴に入っていった場合、もしこの洞穴に住む人が帰ってきたらどうするんですか」
「あ……」
翔はそのコハルの言葉に口を開く。その洞穴は作りや防壁は立派であるが、その入り口はさして広くはなかった。その洞穴の先が別の出口に繋がっていることなどないと仮定すると、もし仮にコハルの言うような事態が起こった場合、二人に逃げ場はなかった。
「……そっか、だから外の警戒を……」
「そういうことですよ。まぁ、今の私はこの通りなので、仮にこの洞穴の人が帰ってきたところで戦って勝てる自信はありませんが」
そう冷静に話すコハルは、未だに身体にしっかりとは力が入らないようであった。その顔色は氷壁を登り終えたときに比べれば随分と良くなったように見えるが、それでも彼女の現状は本調子には程遠いだろう。
「……それでも、警戒を払うだけなら出来ますよ。洞穴の主が帰ってくるのが見えた場合はすぐ伝えますから、そしたらすぐに私を担いで逃げてくださいね」
「わかった。悪いな、そんな状態なのに仕事させちまって」
そのコハルの言葉に、翔はそう感謝の言葉を伝えてからその洞穴の中へと足を踏み入れる。
「……別にいいんですよ。そんなこと気にしません」
その後ろ姿をしっかり見送ってから、コハルは洞穴の中へ届かないように小さな声でそう返す。
「だって私は、あなたのことが──」
その先の言葉は、洞穴の中へと進んでいった翔にも、その言葉を発していたコハル自身にも、聞くことはできなかったのだった。
「……なんじゃ、こりゃ」
いよいよその洞穴の中へと入っていった翔は、その中の光景に目を奪われる。
外の光など届かないはずのその洞穴の中は、その岩肌の細部が見えるほど明るかった。それは翔がその洞穴に入った瞬間に引いた何かのひもによって灯った明かりのおかげであった。煌々と洞穴の中を照らすそのランプは、見たところ獣の油を燃料に火が灯っているようだった。しかし、それにしてもその明かりはその場に不釣り合いであった。
「……そもそも、基地からこんなに離れた場所にこんな文明の利器があるのがおかしいんだよ。マジでなんなんだ、ここ」
その不気味さを一心に感じてから、翔はそれでも洞穴の奥へと進んでいく。その明かりのおかげで難なくその先に進むことのできた翔は、その視界にまた信じられないものを発見する。
「……なんだ、これ」
その洞穴の岩壁に掛かったそれは、コルクで出来た伝言板のようなものであった。それ自体もその周りの空間に比べると異様な存在感を放っていたが、翔が目を奪われたのはその伝言板に貼りついた一枚の紙であった。
そこには、大人の女が書いたような丁寧な字で、はっきりとこう書いてあった。
『来るべき時まで、あなたにここの管理と防衛を任せます。よろしくお願いします』
そしてその本文の下に書かれた、明らかに見覚えのある名前を翔は読み上げる。
「……『朝比奈遥より』……っ!」
その名前が指し示す人物は、翔や遠征隊の帰るべき場所を作った張本人、『氷の女王』の襲来を予測したとされる一人の女科学者であった。二十八年前、『氷の女王』が襲来した際に人々の避難の手助けに尽力し、そしてその避難者を安全で外界からの供給なしに暮らすことのできる基地へと誘導した彼女は、基地では人々を救った『救世主』のような存在として崇められていた。翔が基地へとやってくるおよそ十年前、娘のアンリを出産した直後に突如姿を消すまでは。
人々を救った救世主であると同時に、朝比奈遥は謎の多い人物でもあった。何故彼女は『氷の女王』の襲来を予測できたのか。何故彼女は『氷の女王』が襲来した後の世界でも自給自足ができるようなあの基地を作るに至ったのか。そして何より、何故突然十年前に姿を消したのか。
今は翔の後輩、かつてはその体質のせいで一悶着のあったキラに対しても、朝比奈遥は何らかの関係性を持っていたようだった。直接会ったことのない翔には存在自体が謎に包まれた存在であるその朝比奈遥の名前がそこで出てくるのは、翔にはとても不気味に思えた。
「……ここが朝比奈遥によって作られた場所なら、何かしら重要なものが眠っててもおかしくはないしな。この先に進むのが更に楽しみで、同時に怖くなってきた」
そうして心に出来た少しの恐怖心を必死に振り払って、翔はその洞穴の先へと進んでいった。
洞穴は進んでいくにつれてその幅と高さを狭くしていった。それに加え、翔が奥に進むにつれてところどころに獣の肉を食べた痕跡や焚火をした跡が見えてきていた
──ここに誰かが住んでる、って推測も間違ってなさそうだな。なんなら結構新しい痕跡もあるし、ついさっきまでそいつはここにいた……?
そこまで考えてから、翔はふと、自らが遠征隊とはぐれる原因となった、あの視線のことを思い出す。
「……ひょっとして、ここはあいつの住んでる場所なのか……?」
翔がその仮説を思いついたその瞬間その身体にぞっとするような寒気が走る。
──あのとき、俺をありったけの憎しみを込めて睨んでた誰か。そいつが、ここに住んでたかもしれない……?
その事実は、有り余る好奇心と、そしてそれを助長するような洞穴の奥の光景をも打ち消し、翔をその洞穴で後退させた。
──考えすぎかもしれない。でも、相当嫌な感じがする。
それは理屈というよりも本能に近かった。翔は本能からあの視線の主を恐れていた。そのため、確証がないとしても、その視線の主がここにいたかもしれないという事実は、翔の足を一歩、また一歩と後退させていた。
──クソ、この先にもまだ何かあるっぽいのに……。
翔はその洞穴の探索を未だ終わらせてはいなかった。しかし、既に翔の身体は限界を迎えていた。未だ見ぬその奥の光景を口惜しそうに見てから、翔は踵を返して洞穴の出口まで歩き出した。
「……あの奥の方は、今度また遠征隊と一緒に来よう。とりあえず中は安全そうってことは分かったし、コハルの元に戻らないと」
翔の下したその判断は、本能的にその先に進むことを危惧したから下したものであった。しかしそれは結果的にその状況で下せる最高の判断であったのだった。それが翔の意図したものでなかったとしても、その判断はそれから起こる絶望的な事態を少しでも緩和する最善の方法であった。
──さてと。そろそろ出口だな。
見覚えのあるそのランプを視界に入れた翔は、心の中でそう呟いてから口を開いた。
「おーい、コハル。とりあえずここは安全そうだ、入ってきていいぞ」
外の吹雪の音にかき消されないように、翔は声を張り上げてそう言った。しかし、その翔の言葉にコハルの言葉は返ってこない。
「……? コハル? そこにいるんだろ?」
その沈黙に耐え切れず、翔は再度声を張り上げる。しかし、依然として来ないコハルの返答に、翔は嫌な予感を抱いてその洞穴の出口へと駆けていく。
「……っ! おいコハル、悪ふざけするんじゃ──」
コハルの返答がないのをコハルの悪ふざけだと考えた、考えようとした翔はそう叫びながら洞穴を出る。
しかし、その翔の希望的観測は外れていた。洞穴を出たその場には、コハルの姿はなかった。
「……っ! コハル!」
叫ぶ翔の声は、雪の降り続ける虚空に響くばかりであった。その予想外の事態に、翔は必死に思考を巡らせる。
──なんだ、何が起こった!? コハルは外の警戒をするから洞穴の外で待っていたはず。何かあったら助けを呼ぶとも言ってた。なのに……っ!
少女はその場から消えていた。一切の痕跡を残さずに。翔は彼女の叫び声など聞いてはいなかった。しかし、現に事実として、コハルはその場から消えていたのだ。
「クソ、落ち着け、落ち着け、俺! 何が起こったか、コハルがどこに行ったのか。考えろ。何か、何かないか……! 何か、手掛かりになるものが……っ!」
そうして必死にその場を観察する翔は、コハルがいた周辺の雪の上に何か大きな足跡があることに気が付く。
──これは、獣のもの……!? でも、だとしたらなんでコハルは助けを呼べなかったんだ……? いや、それより……
翔はその足跡を観察した結果、一つの不可解な事実に気が付く。一帯の雪の上についた獣の足跡は一匹分、そして一方向分しかない。つまり……
「……この獣が来た痕跡はあるのに、この獣が去った痕跡はない……?」
その事実に気づいた瞬間、翔は咄嗟に自らの周囲を見渡す。獣が去った痕跡がないということはすなわち、コハルを襲ったとみられるその獣はまだその場から去っていないということになる。しかし、どれだけ辺りを注視しても、そこにコハルの影は見当たらなかった。
「……っ! じゃあどこに……っ! どこにコハルと獣は消えたんだ!」
翔はその不可解な現象に思わず苛立ちを込めてその場の雪を蹴り飛ばす。と、その時舞い上がった雪を見て、翔はある事実に気が付いた。
──あれ? この足跡、やけに深いな……? この足跡の大きさからして、この獣の体重はそんなに重くないはずなのに……。
その疑問に至った瞬間、翔はその獣の正体と、獣とコハルが足跡を残さず消えた方法が瞬時に分かった。
「……っ! じゃあ……!」
その瞬間、翔は雪兎を使って駆け出した。その足が向かう先は、獣の足跡が残る、つまり獣が『やってきた』方向であった。
翔は以前にもそのような体験をしていた。以前も翔はその獣に同じ方法を使って欺かれたのだ。翔はその技術の正体を知っていた。翔は三年前、まさに三年もの『時間跳躍』を行う直前、同じ経験をしていた。
「……っはぁ、はぁ……!」
その獣の足音がやってきた方向へと駆け続けた翔は、しばらくしてからその足跡が二つに分かれていくのを見る。その二つの足跡の道のうち、まだその上に雪があまり積もっていない方の足跡を翔は選択し、それに沿いさらに進んでいく。
「……っ! やっと、追いついた……っ!」
そうして全速で駆けること数分、翔はようやくその獣の姿を捉えた
ほかの獣と比べれば一回り小さいその身体は、白い体毛に覆われていた。その身体にある大きな特徴は、その身体の大きさに見合わない長い腕であった。その腕は今や、その指先でコハルの口元を塞ぎ、それに加えてその長い腕をコハルの身体に絡めることで一人の少女を完全に拘束していた。
「……やっぱりお前か、『新種』!!!」
その新種と対峙した翔は、腰に装着したそのスタン警棒の電源を入れ、臨戦態勢へと入った。
そうして翔の、かつてないほど困難な戦闘は幕を開けたのだった。




