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8.

 真ん丸な月が、霊妙な月光を地上へと降り注ぐ。

 庭に立つ千華は瞑目し、ゆったりと腕を広げた。月光で沐浴するように、それを全身に浴びていた。

 やがてゆっくりと目を開けると、千華は帯に挿していた舞扇を取り出す。

 あらわになった扇面に描かれているのは、今現在千華の頭上に広がっている世界と同じ夜空。

 体内の空気を丸ごと入れ替えるかのような深い深い呼吸を数度繰り返した千華は、おもむろに舞い始めた。

 楽のもなく、ただ一人の観客すらいない。

 それでも千華は舞った。それは怯弱きょうじゃくな己との決別であり、また憂いを払う舞でもあった。

 そうして舞いながら、千華は己の誕生を偲んだ。


 ――あの夜も、こんな月夜だった。


 平安時代後期。

 一ノ谷の合戦で没した平敦盛の霊を弔うために、敦盛の妻――玉織姫は新善光寺御影堂にて出家した。同時に後鳥羽上皇が病に臥していることを知った玉織姫は、上皇のご回復を祈願しながら阿古女扇を作り、のちに一遍上人と呼ばれることになる寺僧がその扇に呪文を封じて献上された。するとたちまちご病気が平癒されたとして、御影堂で作られた扇――通称『御影堂扇』は病魔退散の守り扇として見る見るうちにその名を広めていった。

 その様子を、同じ御影堂の寺僧として勤めていた花崗はずっと近くで見ていた。

 願いを籠めて扇面の表に絵を描き。祈祷の力を籠めて裏には呪文をしたためる。

 己の力の使い道を探り続けてきた花崗は、扇面絵師という存在に光明を見いだした。

 病魔退散の守り扇としては、すでに御影堂扇が確立された。そして御影堂扇を求める声が増えるにつれ、他の寺僧たちも次々と製作に携わっていった。

 そんな中花崗が取り掛かったのは、すべての悪魔を降伏ごうぶくすることのできる、至高と評されるほどの世界でただ一つの阿古女扇の作成だった。

 実益だけではなく、扇という存在ゆえに見た目の華やかさをも求めた花崗は、檜扇を基にした阿古女扇を作った。通常、檜扇には螺鈿らでんを粉にしたものを下地に塗ってきらびやかさを演出していたが、花崗は衣桁などに塗られていた漆黒を選んだ。幾重にも塗り重ねられるごとに深みを増す闇のごとき漆黒。闇が深まれば深まるほどに奥行きが広がり、やがて花崗は、そこに無限の世界の誕生を覚えた。

 そうやって下地を塗り終えた花崗は、次に肝心要の絵付けに取り掛かった。

 絵柄はすでに決めている。檜扇によく描かれている題材でもある、鳳凰。その鳳凰を花の絵だけで表現する、と。

 まだこの国の者には知られていないが、花にはそれぞれ花詞というものがあった。言霊には力があり、花が持つ言葉にも力がある。陰陽道について調べていた過程で、つ国で広がりを見せていたこの花詞という存在を知った花崗は、その力をも取り入れることにしたのだ。

 しかしすべての悪魔を降伏ごうぶくできる阿古女扇を生み出すには、できるだけたくさんの花が必要だ。花崗は調べられる限り調べた花すべてを、一花一花ひとはなひとはな想いを籠めて扇面に描きつけていった。

 そして、いつしか花崗はこの阿古女扇の製作にとりつかれていった。

 寺僧としての勤めもおろそかになり、次いで、寝食すらないがしろにし始めた。

 心配をした同僚の寺僧からの忠言はもちろん、先輩の寺僧からの戒めすらも受け入れず、逆に煩わしさしか感じられなかった花崗は、誰にも邪魔をされないようにと、道具を持ってこっそり蔵へと入り、中から鍵をかけて篭ってしまった。

 だから阿古女扇の完成とともに花崗が命を落としたとしても、自業自得のはずだった。

 例え、扇の製作にとりつかれていたように見えたとしても、それはこれまでの花崗の人生の中で抑圧され続けていたものが一気に溢れて、本人にも制御できなくなっていただけに過ぎない。だから扇にはなんら罪はないはずだった。

 本来であれば。

 だが寺僧たちがようやく花崗の姿を見つけたのは、花崗の命の灯火が消えた直後であり、地に倒れ臥していた彼の傍らにあったのは、完成したばかりの阿古女扇だけだったのだ。寺僧たちはこの、漆黒の闇を背景に持ち、花によって鳳凰が描かれた妖しくも美しい阿古女扇が、花崗の命を奪った元凶だと考えた。

「この扇が花崗を惑わせたに違いない」

「そうだ、そうとしか考えられない」

「これは妖扇だったのだ!」

 そうした寺僧たちの声を、阿古女扇――花凰姫はずっと聞いていた。

 物に魂が宿るのは、永い永い時間を経てからと言われているのだが、花凰姫にはこの時すでに意識があった。まだ明確な意思は無かったものの、言葉を認識する程度のことならできた。

 そして、自分に近しい気配が、そばに転がる絵筆から漂ってくることもぼんやりと感じ取っていた。

 徐々に寺僧たちの息遣いや言動が荒くなる。けれど花凰姫にはどうすることもできなかった。聞こえてくる言葉と伝わってくる負の感情を、ただ無防備に受けることしかできなかった。

 ひたすら花崗のために花凰姫を責めていた寺僧たちは、やがて自分たちの進退について言及し始める。

「このことが知られたら、御影堂扇の名にきずがついてしまうのではないか?」

「そうだ、隠さなくては」

「人死にが出たなど、とんでもない醜聞だからな。証拠になりそうなものはすべて隠滅して、なんとしても隠し通すのだ!」

「その妖扇も隠滅しろ!」

「そうだ! 炎で浄化するのだ!」

「早くしないと、きっとまた誰かが喰われるぞ」

 誰かが促す声とともに、花凰姫は一番近くにいた寺僧の手によって乱暴に持ち上げられて、篝灯籠が置かれている本堂の前へと運ばれた。

(命を吹き込まれたばかりだというのに、もう奪われるのか……)

 花凰姫はただ静かにそう思った。

 特に感慨に浸ったわけではなく、単なる事実としてそう感じた。

 けれどこれは、初めて花凰姫という個としての自我を持った瞬間だった。

 そして我知らず口にしたのが、本堂の奥に座している阿弥陀如来の真言ではなく、投げ込まれようとしている炎から護摩を連想でもしたのか、不動明王の慈救呪じくじゅだった。

(ノウマク、サマンダ、バサラダン、センダマカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン)

 そして阿古女扇であるその身が、灯籠の中に投げ込まれた直後。

「花凰姫様!」

 悲鳴のように名を呼ぶ声が聞こえ、疾風のごとく現れた存在の手によって、炎に触れる寸前に助け出されたのだった。

 不意に己の存在が確かなものと感じられ、花凰姫は目を開いた。そう。『目を開いた』のだ。

 気づいたときには、花凰姫は付喪神として、本体である阿古女扇とは違う姿と、魂を持つ存在へと変化へんげしていた。

「花凰姫様、お怪我はございませんか?」

 花凰姫を両腕でしっかりと抱き上げているのは、生みの親である花崗とそっくりな姿と気配を持ちながら、それ以上にあの絵筆から漂っていた気配を濃厚に纏った青年だった。

「花崗……?」

 花凰姫はそっと訊ねてみた。

 青年は小さく苦笑した。

「花崗の魂魄こんぱくも確かにここにありますが、私は花凰姫様の絵付けに使われた絵筆の付喪神――櫂士と申します」

 花凰姫の命が危機に瀕したことにより、花崗と櫂士の意識が同調した。いわく、花凰姫を助けなければならない、と。

 その結果、人としてはすでに息絶え、ただ消えていくだけだった花崗の魂魄も、櫂士という絵筆に宿った魂と共生を果たすことによって、この世に留まることができたのだ。

 また櫂士も、花崗との共生によって、非力な絵筆のままでは叶わなかった人形ひとがたの姿を得ることができ、こうして花凰姫を助けることができた。

 まさに花崗と櫂士にとって、これは相利共生そうりきょうせいだった。

 櫂士はチラリと後方を一瞥した。

 そこには武器やお札などを手にした寺僧たちが集まってきていた。

「まずはここから逃げることが先決ですね。――花凰姫様、先ほどの慈救呪をもう一度唱えていただけますか」

 花凰姫が言われたとおりに唱えると、灯明とうみょうの炎の勢いが増した。寺僧たちがそれに気を取られている隙に、櫂士は花凰姫を抱きかかえたままその場を走り去った。

 最初は花凰姫のあざやかな気配が軌跡となって残っていた。これを追っていくのは簡単だろうと思われた。だが、途中で櫂士と一時的に入れ替わった花崗が、花凰姫の力を封じたために、その後は一切の痕跡を残すこともなく、無事寺僧たちから逃げ切ることができたのだった。


(あの日からずっと、あたしは櫂士の世話になっていた)

 ふけっていた回想から現在へと意識が戻った千華は、体はそのまま舞い続けながら、そっと目を開けて夜空をその瞳に映した。

(ただもたれかかって、助けられて、甘えているだけの日々)

 千華は真紅の唇で、自身のおもてに自嘲の笑みを刻んだ。

 事あるごとに、『不器用だ』と言ってきた千華だった。だが。

(本当に不器用なのは、……あたしだ)

 いたたまれなくなってきた千華は逃げるように目を閉じた。そんな千華の瞳からひとしずくの涙が零れ落ちる。

 こんな情けない姿は、見たくない。そして誰にも――櫂士にも見られたくはない。

 けれど。

(それじゃ、あたしはいつまでも立ち止まったままだ……)

 たとえ無様な姿をさらすことになったとしても。

(これを乗り越えなければ、願いは叶わない)

 相手にわかるようにはっきりとした言葉で伝えなければ、本当に欲しいものは手に入らない。

 千華が覚悟を決めたとき、一差ひとさしの舞いは幕切れのときを迎えた。


 舞が終わり、再度舞扇を帯に挿したころ。千華の背後に一つの気配が出現した。

 振り返って確認しなくともその気配の主が誰だかわかる千華は、そのままの体勢で言の葉を口に乗せた。ありふれていようとも、心持次第では明確に気持ちを伝えられる言霊。それは。

「櫂士、お前が好きだ」

 返事はなく、ただ近づく気配だけが届く。

 千華の元に歩み寄った櫂士は、両腕で彼女を背後から緩やかに抱き込んだ。

「こうして触れることを許してくださいますか?」

 囁くように櫂士が問う。

 千華も櫂士の腕を抱き寄せた。心が赴くままに、その腕に頭をもたれかからせるようにしながら頬を寄せた。

「当たり前だろう」

 甘やかな声音で紡がれた返答に、櫂士は顔をほころばせた。

「好きです。――千華」


 今朝の千華は、初めていつもと異なる場所で目覚めた。

 その場所とは、愛しい男の腕の中。

 櫂士の寝顔を見るのも初めてだった千華は、しばらくの間眺めていたが、待ち焦がれていたこの場所をもっと満喫するために、再び目を閉じ、伝わってくる温もりを享受した。


   ◇ ◇ ◇


 いつもの席で千華が庭を眺めていると、同じくいつものように櫂士が現れた。

「千華さん、今のご気分は?」

 さん付けに戻ってしまっているが、五百年もの間ずっとそう呼んでいたのだ。さすがにすぐに直すのは難しいのかもしれない。と、それについての指摘は避け、千華はいつもの答えだけを返した。

 いわく。

「お前に任せるよ」

「では、これなどいかがでしょうか?」

 櫂士は白地の夏扇と絵筆を取り出すと、さらりと何かを描き、かなめを千華に向けるようにして手渡した。

 千華は受け取った扇子に描かれたその花を見て、満足そうに口角を持ち上げた。

「なるほど。まさにそんな気分だねえ」

 そして、櫂士を見上げ、

「お前は最高の扇面絵師だよ」

 あざやかに笑んだ。


 描かれた花は藤。

 花詞は『あなたを歓迎します』。

 千華はこのたびの結末に、大変満悦していた。


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