6.
「まあいいさ。せっかくだから、とっととあいつを退治るよ」
そういって花凰姫は魃へと向き直った。
とはいえ。
「まずはあいつの動きを封じないといけないね」
――まったく、手も足も一本しかないというのに、あいつは何であんなに足が速いんだい。
また追いかけっこが始まるのかとうんざりしながら、胸中で悪態をつく。しかも本性に戻った今は裳唐衣装束を纏っている。つまりは長袴を穿いているわけで、どう見ても走ることには向かない状態なのだ。
ため息を一つこぼして、改めて前を向いた花凰姫は、そこでふと眉を寄せた。
何かがおかしい。
そして気づいた。
「どうして魃はあれ以上逃げないんだ?」
封印が解けて花凰姫が本性に戻る間も、戻ってからも、魃がこの場から逃げ切るにはじゅうぶんすぎるほどの時間があった。事実、今も逃げようと右往左往しているのは確かだ。それなのにいっこうに視界から消えないのはどうしたことなのか。
ゆっくりと周囲に視線を巡らせ、そしてそれは花崗へとたどり着く。その口元にうっすらと笑みが浮かべられている様を捉えた花凰姫は、ようやく状況を把握することができた。花凰姫も、もったいぶるように時間をかけて、その口唇を弓なりに持ち上げた。
意識を研ぎ澄ませて注意深く気を探れば、反閇を応用した足跡によって、地面にかなり大きな陣が描かれていることがわかる。その上、十二の方位には、それぞれに宮毘羅を初めとした十二神将が配置されていた。
これこそが、千華が魃と追いかけっこをしている間に櫂士が施していたものだ。
(櫂士、よくやった!)
とはいえ、陣はかなり大きくて広い。小さければ陣だと気づかれる確率が高くなるし、またどこを通るかわからない相手に張る罠としても、小さくては役に立たない。必然的にこれだけの大きさになってしまったといった感じだろう。土佐中を巡る追いかけっこを再開しなくてもよくなったのは歓迎だが、これは柵で囲った中に閉じ込めただけの状態なので、どちらにしても退治するためには魃の動きを完全に止める必要があった。
花凰姫は改めて気を引き締めると、自身も陣の中へ踏み入ってから拍手を二回打った。そして、刀印を組んで九字を切る。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
さらに。
「オン、アミリティ、ウン、ハッタ! ――縛!」
格段に妖力と霊力が勝る本性で唱えれば、同じ呪でも効果は異なる。今度は何とか魃を、一時的にではあったが拘束することができたようだ。
とはいえ、相手は荒魂だ。この程度の拘束では、すぐに解かれてしまうだろう。それでも本格的な縛りの呪文を唱える間の、時間稼ぎくらいにはなるはず。
花凰姫は急いで呼吸を整えると、再度拍手を打った。
「東方降三世夜叉明王、南方軍荼利夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央大日大聖不動明王」
内縛印を結び。
「明王の縄にて絡め取り、縛りけしきは不動明王」
次いで外縛印を結んだ。
「生霊、死霊、悪霊絡め取り給ヘ、給はずんば不動明王、オンビシビンカラシバリソワカ!」
花凰姫が金縛法を唱え終えた直後。
不動明王の羂索で雁字搦めに縛られた魃は、体の自由を奪われて、ここでようやく足を止めた。
大きく息を吸い込んだ花凰姫は、拍手を打ったのち、瞑目して祓詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白すことを聞食せと、恐み恐みも白す」
再度拍手を打って締めた花凰姫は、開いた眼に魃の姿を映した。
そして思わず舌打ちをもらしてしまった。
祓詞は魃には全く効いていなかったからだ。
「さすがは荒魂とでも言おうか」
阿古女扇で口元を隠し、不敵に呟いてみるも、覚えた苛立ちを消し去ることはできなかった。
視線だけを斜め後方へと向ける。そこには花崗と子狐狸と朧車と瓶長がいた。
花崗は全く問題ない。
朧車も、里から出るときはいつも行動を共にしているため慣れている。それに元々妖力は、保身においては高くて頑丈だ。また前述の理由により、朧車には昔から対策を施しているから、櫂士が築いたあの結界から出なければ大丈夫だ。
瓶長も、朧車の中に隠れているうちは、耐えられるはず。
困るのは子狐狸だ。少女の存在が今は枷となっている。
自分の身は自分で守るように最初から伝えてはいる。けれど、そうは言ったところで子狐狸はさほど妖力は高くない。現実問題として、あの言いつけを守ることはできないだろう。
先ほども花凰姫が本性に戻っただけで、霊力にあたっていた。今は花崗にもらった扇子で小康を保っているようだが、結界の中にいてあれでは、これ以上力のある呪文を唱えると、巻き添えを食わせてしまう可能性が高い。
そもそも、本性をさらすことになってしまったことも、本性で唱えた祓詞すら全く効かなかったことも、どちらも花凰姫にとっては誤算だった。
さて、どうするか。
真一文字に口を結び、手に持っている阿古女扇を睨みつけていた花凰姫を、焦ったような声で花崗が呼んだ。
「花凰姫ッ」
反射的に振り返る。が。
「何を呆けている! 前を見ろ!」
花崗の叱咤が飛ぶと同時に、身の危険を察知した花凰姫は、とっさに阿古女扇で顔を庇った。
子狐狸の悲鳴が響き、花凰姫の膝が落ちる。
「花凰姫!?」
花崗が驚いたように花凰姫の名を叫んだ。
それはそうだろう。『花凰姫』の姿では、地面に膝をつけるどころか、これまで怪我といえるほどの怪我をしたことがなかったからだ。
その花凰姫が体中に傷を負い、鮮血を流していたのだから、驚きもするだろう。
「……やってくれるじゃないか」
花凰姫が呪詛を呟くような暗い声音でこぼした。
扇を下げてあらわになった瞳には、暗く冷たい光がともっていた。
「女の顔を狙うとは……」
外道だね。
「オン、ソンバ、ニソンバ、ウン、バザラ、ウン、ハッタ!」
強い風を起こすようにして阿古女扇を真横に大きく扇げば、風の中から生まれた無数の矢が魃に襲いかかった。
魃から短く悲鳴が上がり、花凰姫はしてやったりとほくそ笑む。
もっともこの程度では、魃にとってはたいした痛手になっていないこともわかってはいたが。
ゆっくりと立ち上がった花凰姫は、飛来してきた物体を左手でつかんだ。
つかんでから、初めてそれに目を向けた。手の中にある『それ』は、花崗が投げた扇子だった。
「何をやっているんだね。冷静になりなさい、花凰姫」
花凰姫は大きなため息をついた。
――あいつがあたしの顔を狙って攻撃してくるのが悪いんだ。
そう心の中で反論するも、花崗の言っていることのほうが正しいことは、花凰姫にだってわかっている。
再度息を吐き出す。同時に肩の力を抜き、花崗へとその扇子を投げ返した。
そして。
「花崗、そこを強化してくれるか?」
応えは、言葉ではなく、実行で返された。
花崗たちを包んでいた結界が三重になる。ついでに子狐狸を朧車の中に乗せたようだ。
つまり、花凰姫が何をしようとしているのか、花崗にもわかったということだ。
花凰姫は一瞬だけ後方に意識を向けた。
(忠告を聞かなかったやつのことまでは知らないからね)
唸る魃を、拍手を打つことで一瞬だけ黙らせて、花凰姫は目を閉じた。
花凰姫の口から、大祓詞が唱えられる。
「高天原に神留まり坐す、皇親神漏岐神漏美の命以ちて、八百万神等を神集へに集へ給ひ、神議りに議り給ひて、我が皇御孫命は、豊葦原水穂国を、安国と平けく知食せと、事依さし奉りき」
それに重ねるように、花崗も大祓詞を唱えた。
「此く宣らば、天津神は天の磐戸を押披きて、天の八重雲を伊頭の千別に千別て聞食さむ。国津神は高山の末低山の末に登り坐て、高山の伊褒理低山の伊褒理を掻き別けて聞食さむ」
高く低く。二音によって唱えられる祝詞は、より言霊の力を強めて、魃から穢れを祓っていく。だがそれは、徐々にであって、完全に祓いきるにはまだ時が必要だ。そんな状況にあって、一番外側へ移動はしたが、それでも結界内に留まっている花崗はまだしも、花凰姫のほうは全くの無防備にしか見えなかった。
もがく魃が、残る力を振り絞って苦し紛れの攻撃を放つ。しかしそれは、花凰姫に届く前に、雷撃によって相殺された。
花凰姫と花崗は、それらに気を逸らせることなく一心に大祓詞を唱え続けた。
魃がさらに苦しそうな唸り声を上げてのたうちまわり始める。
そして。
「此く息吹放ちてば、根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神、持ち佐須良比失ひてむ、此く佐須良比失ひてば、罪と言ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す!」
最後に強く打たれた拍手。
手を打ち合わせた音が響き渡る中、花凰姫は止めを刺すために、さらに不動明王の火界呪を唱えた。
「ノウマク、サラバタタギャテイビャク、サラバボッケイビャク、サラバタタラタ、センダマカロシャダ、ケンギャキギャキ、サラバビキンナン、ウンタラタ、カンマン!」
唱え終えた刹那、魃は浄化の炎に焼かれ、大きく悲鳴を上げて倒れた。
不動明王の羂索に縛られて体の自由を奪われたまま、迦楼羅炎に呑み込まれてのたうちまわる魃だったが、実際は言葉ほどには動けていなかった。
さすが不動明王。多少の反撃を許してしまったものの、この状態でありながら逃げる余地だけは残していない。
そうして荒ぶる魂を炎によって浄化し尽くしたところで、迦楼羅炎は一声を上げて消えていった。
同時に役目を終えた羂索も消滅する。
残されたのは、穢れを祓い清められて力なく横たわる魃のみ。
と、突然魃の体が光に包まれた。そして魃を呑み込んだ光は、収縮して小さな玉になる。
息を呑む花凰姫の目の前で、再び膨張した光は、一体の人形を生み出すと急速に消えていった。
現れたのは、長い黒髪を頭頂で一つにまとめて結っている女性だった。
「――和魂の日照り神かい?」
胸の前で腕を組んだ花凰姫は、状況や外見から判断して、どう見ても女神としか思えない女性を、睥睨しながら低く訊ねた。
相手は神だ。こうして目の前に現れたからには無視することはできない。とはいえ、しぶしぶといった感が、あからさま過ぎるほどに態度には出ていたが。
「花凰姫……」
大きなため息と共に花崗があきれた口調で呟いた。
名を呼んだだけだが、そこには、神様に対してなんという態度をとっているんだね、というお小言も含まれていることは、花凰姫にもしっかりと伝わっていた。
花凰姫は不貞腐れてそっぽを向く。
その様子を、花凰姫と同じように腕を組んだ状態で、女神は楽しそうに眺めていた。
「和魂とわかっていてなお、我にそのような態度をとる者は珍しいの」
そのせりふは、先ほどの花凰姫の問いかけが正解していたことを示していた。
「しかし、何がそれほどまでに気に入らないのだ? 勝ちを得たのはそちらだろう。普通はもう少し喜ぶものではないのか?」
本当に不思議そうに首を傾げて、女神――日照り神が問うた。
明後日の方向を見つめたまま、花凰姫は口を開いた。
「……女神ならば、なおさらたちが悪い」
日照り神は目をしばたたいた。
花凰姫の全身を視線で舐めるように検分する。その視線が花凰姫の無傷の顔へとたどり着いたとき、ようやく日照り神は納得したようにうなずいた。
「ふむ。そうか。顔を狙われたことに拗ねておるわけだな」
不機嫌の理由を当てられた花凰姫は苦虫を噛み潰したような顔をした。
同じ女性でありながら顔を狙ったことにも、そのことに女神が一向に気づかなかったことにも腹を立ててはいたが、いざ当てられると余計に不快感が増したのだ。身勝手な言い分だが、今はそんな分別がつけられるような精神状態ではなかった。それだけ花凰姫は顔を狙われたことが腹に据えかねていた。
しかし、日照り神はあっさりしたものだった。
「仕方なかろう。敵である術師の目と口を封じようとするのは当然のことだ。おぬしとて、女性だからといって加減したりされたりすることがあるなどとは思うておらんだろう」
それはもちろんそうだ。
不承不承ながら、花凰姫は首肯した。
そんな花凰姫を見つめて、日照り神は小さく苦笑した。
「変わった娘だね、そなたは。神に対してその態度。妖怪でありながら人の味方をする存在、か」
「違う!」
ここでようやく花凰姫は、組んだ腕を解いて、日照り神の両の眼をまっすぐ見返した。
「神よ、それは違う。あたしは人間の味方などしたことはない」
「だが荒魂であった我を退治たではないか。神が荒魂と化すのは、いつの世でも人の仕業だ。人に鉄槌をくだすために、神は荒魂と化す。それを鎮めようとするのが人のためでなくて、何だというのだ?」
「日照り神よ。あなたは瓶長を操り、狗賓を操り、子狐狸たちを苦しめた。だから鎮めた。それだけだ」
一度、手に持っている阿古女扇へと目を落とした花凰姫は、一瞬だけ瞑目してから、再び顔を上げた。
別に花凰姫は人に報復しようとも、制裁を加えようとも思わない。ただ係わり合いにはなりたくない。
そして、人の味方だなどとは、冗談ですら言われたくない。たとえこの身が、元は人の手によって作られた阿古女扇であったとしても。
「荒魂と化した神は妖怪と呼ばれる。ならば妖怪と呼ばれる付喪神も荒魂と言えよう。だから、先ほどあなたが言われたように、荒魂であるあたしは、決して人の味方にはならない」
改めて見返した日照り神の顔からは、表情が抜け落ちていた。
ただ花凰姫にすらつかめないほどに、眼差しだけが深くなっている。
すべてを見透かすような瞳で見つめられ、花凰姫は無意識に唾を飲み込んだ。
日照り神の腕がゆっくりと持ち上がり、指の背で花凰姫の頬を撫でた。
乾いているはずの頬を流れる、見えない何かを拭うように。
唖然として言葉も出ない花凰姫に向けて、日照り神はやわらかく目を細めた。
「せっかく目の保養になるほどに美しいのだ。いつまでも襤褸を纏ったままではもったいないであろう」
慌てて自身を見下ろした花凰姫は、驚きで目を瞠った。
体中に負っていた手傷が完治し、ぼろぼろになっていた衣装が元の状態に戻っていたからだ。
「日照り神……、これは……」
「言ったであろう。もったいない、と」
花凰姫はしばらく言いよどんだが、何とか一言だけ礼を述べることができた。
「ありがとう……」
日照り神はふっと微笑む。
「今後は戦いのさなかに余所見をしないようにすることだね」
そう言い残して、日照り神は夜の闇にとけるようにして消えていった。