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5.

 重苦しい沈黙が続く中、どうにか一行いっこうは土佐へと到着した。

 ここまでくれば、さすがに魃の気配が微かではあったが感じることができた。

 状況を思い出したことで、皆が気持ちを切り替えて気を引き締める。

 あまり近寄りすぎて空を飛んでいるところを攻撃されることだけは避けたいと、多少の距離をとって早めに地面へ下ろしてもらった。

 ようやく宙吊り状態から開放され、朧車はたいそう喜んだ。

「ここまででいいよ。ありがとう」

 運んできてくれた烏天狗に向かって、千華が礼を言った。

 しかし、烏天狗に立ち去る気配は無い。

 千華は、やっぱりというようにため息をついた。

「悪いが、あなたたちでは無理だろう。それに、勝手のわからない者たちと一緒に戦うのは、かなりの危険を伴うので避けたい。そもそもあいつには傀儡の技がある。万が一あなた方があいつに操られでもしたら事だ。あたしはそこまで面倒は看きれないよ」

 はっきり言い切れば、烏天狗たちから不服そうな顔が惜しげもなく返された。

「もしあなた方が操られるようなことになったら、退治してもいいのかい? 狗賓たちのときと同じ扱いができるほど、お前たちは弱くは無いだろう。もしもの場合は、そうするしか方法が無いんだよ。それでもあたしの邪魔をするのかい?」

 脅しをかけるように、低めた声音で千華が問うた。

 けれど、千華にとっては脅しではなく、本気で本音だ。

 自分たちを守るためには、退治するしかない。それは理性が導いた正しい判断なのだ。

 なんだかんだといっても、烏天狗はそれなりの力を持っている。操られるままに攻撃されれば、こちらにかなりの被害がでてしまう。悠長に技の開放などしている余裕は、千華にすらないのだ。

「言葉通り、一日で土佐まで連れてきてくれたことは、本当に感謝している。けれど狗賓を助けた礼というならこれでじゅうぶんだし、報復したいと思っているのなら、それを止めてやるのがあたしにとっての親切だ。休憩を与えてやれなくて悪いが、今すぐにここを立ち去れ」

 千華は後方を振り返った。

 そこでは櫂士が、朧車たちを包む結界をすでに築いていた。

「櫂士、靫蔓うつぼかずらを」

 それだけを伝えると、千華は再び烏天狗たちへと向き直った。

「どうした。あいつはこちらに向かってきているんだよ。何を悠長に立っているんだい。とっとと帰らないと手遅れになるだろう」

 これだけはっきりと感じている魃の気配。けれど烏天狗たちにはわからないようだ。

「早く往ね!」

 尻を叩くかのごとく、千華が大声で命じた。

 そんな千華を櫂士が呼ぶ。扇子が用意できたのだ。

 これ以上は付き合っていられないと、千華は踵を返して櫂士の元へと向かった。忠告はした。これ以上は自己の責任だ。千華には彼らを守る義務は無い。

 そうして櫂士から二本の中啓を受け取ったところで、烏天狗たちもようやく魃の居場所をつかんだようだ。

 この時間差が力の差でもある。

 烏天狗たちは、ようやく千華の言葉を理解したようだ。

 翼を広げた彼らは、大急ぎでその場から飛び去っていった。

 それを横目に見た櫂士が、あきれたように呟いた。

「ようやくお帰りくださいましたね」

「ずいぶん遅かったからね。あいつにつかまらなければいいんだけどね……」

「まっすぐこちらに向かっている様子ですから、とりあえずは千華さんがお相手をされていれば大丈夫ではないでしょうか」

 気休めとわかっている言葉でも、冗談のように告げられればかえって楽に受け止められるものだ。

 にっこりと微笑む櫂士にあわせて、千華も微笑んだ。

「わざわざ御出でいただいていることだしね。こちらも出迎える準備を整えるとしようかね」

 千華は櫂士に背を向けて、適度な空間を得るべく歩を進めた。


   ◇ ◇ ◇


「我は千華。千は扇に通じ、華は花に通ずる。我は扇の花――扇花なり!」

 千華が解呪を唱える。すると、瓶長と狗賓を助けたときと同じように、漆黒一色だった長着は、花が描かれた扇子という絵柄で覆いつくされていった。

 封印を解いて妖力を開放したところで、魃が目視しうる距離まで近づいた。千華は、櫂士が用意した二本の中啓をひとまず帯に挿して、拍手かしわでを二回打った。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」

 刀印を組んで九字を切る。

「オン、アミリティ、ウン、ハッタ!」

 先手必勝とばかりに、続けざまに次の呪文を唱え、まずは軍荼利明王の蛇の力でもって魃を拘束しようとした。

「縛!」

 しかしその蛇を、魃はあっさりと引きちぎって逃れてしまった。

 それを見た千華は、思わず顔を引き攣らせて乾いた笑声をもらしてしまった。

「ははっ、さすが魃。ちょっとした障害物にすらならなかったようだね……」

 仕方がないので、地道に追いかけようとした。とにかく体に触れることができるだけの距離に近づかなければ、帯に挿したままになっている中啓が使えない。しかし走り出そうとした千華の足を止めたのは、前方をふさぐ妖狸の群れだった。

 千華の瞳に剣呑な気配が宿る。

「ここでもか……」

 妖力の弱さからいって、きっと久万山に封じられた八百八匹の親分狸に仕えていた狸たちだろう。

「今はお前たちの相手をしている暇はないんだよッ」

 再び刀印を組んだ千華は、先ほどとは異なる呪を、これまた異なる順での四縦五横にて九字を切った。

「天、元、行、躰、神、変、神、通、力!」

 とたんに次々と狸たちが倒れていく。

「力は弱めにしておいたからね。しばらくそうやって寝ていなっ」

 気を失って地面に横たわる妖狸たちの間をすり抜け、千華は逃げた魃を追った。


 その様子を結界の中から見ていた櫂士は、そっとため息をついた。

 そして横に立つ子狐狸へと視線を移す。

「私も所用で、しばらくの間ここを離れます。子狐狸さんは皆と一緒にこの結界の中でお待ちください」

 やさしいけれど、異論を許さぬ口調で告げた櫂士は、ゆったりとした足取りで結界の外へと向かった。結界を築いた本人である櫂士は、何の妨げも制約もなく、自由に出入りすることができる。

 すんなりと外に出た櫂士は、いったん周囲に視線を巡らせると、奇妙な足運びで歩き始めた。

 時折しゃがんでは、地面に何かをするように腕を動かす。

 そうして再び結界内へと戻ってきたときには、ずいぶん時間が経っていた。

「何をしていたの?」

 当たり前のことを訊ねた子狐狸に向けて、櫂士は立てた人差し指を己の唇に当てて見せた。

「ここで答えてしまうと、それが言霊となって効力がなくなってしまいますので、内緒です。これ以後は遠回しな表現であっても話題にしないでくださいね」

 邪魔をしてはいけない、と子狐狸は小さくうなずいて素直に従った。


 そのころの千華は、相変わらず魃と追いかけっこをしていた。

 時折呪を放ってみるものの、軽く避けられてしまってほとんど当たらない。まれにかすることがある程度だ。

 これでは退治するどころではない。

「ちょこまかちょこまかと……」

 半眼で魃をにらみつけた千華は、先ほど妖狸の群れにかけた九字と同じものを、今度は手加減抜きで放った。

「天、元、行、躰、神、変、神、通、力!」

 しかし何の手ごたえも感じられなかった。

「獣には違いないのに、四足よつあしでなければ効力がないってことなのかい!?」

 違うだろうと思いながら、もはやこんなくだらないことでも口にしていなければ、気力が保てないほどに千華は疲れてきていた。

 荒魂である魃はもちろん、妖怪である千華も、夜だからといって視界に影響が出たりはしないが、どっぷりと夜が更けてなお走り回らされていては疲れるのは当たり前だ。

 いったい何刻走り続けているのか。すでにわからない。

 たぶん土佐を出てはいないとは思うのだが、それすら自信をもって断言できない千華だった。

 と、ふと微かに感じ取れたのは見知った気配。

 どうやら櫂士たちがいるところへ、戻ってこれたようだ。

 これは喜ぶべきなのかどうなのか。

 どうにも魃におちょくられているのではないかと勘繰ってしまう千華だった。

 いや、たぶんその考えは当たっているのだろう。千華がそんな風に推量したとき、一瞬だけ千華を振り返った魃のたった一つしかない目が、嘲笑うかのように細められたからだ。

 妖力がそれなりに高い千華を操ることができなかった腹いせに、千華の目の前で櫂士たちへ手を出そうとでもいうつもりなのか。

 しかしそんな予想よりも何よりも、ここまで散々走り回らされているという現状も加味されて、魃のその嗤いは、千華の堪忍袋の緒を切るにはじゅうぶんだった。

 魃のあとを追いながら、千華は柳眉を逆立てた。

「オン、シュチリ、キャラロハ、ウンケン、ソワカ!」

 走りながら千華は、まっすぐ伸ばした腕の先で組んだ剣印で天を指し、次いで前方にいる魃を指し示すように、勢いよく振り下ろした。

「怨敵降伏、急急如律令!」

 雲が一切無い夜空から、まっすぐ魃目掛けて一本の稲妻が爆音を轟かせながら走った。

 この一撃は魃に直撃し、千華は一気に距離を縮めることに成功した。

 帯に挿したままだった中啓を両手に持って、二本とも開く。

 落雷の衝撃で未だ足が止まったままの魃に向かって、千華は扇子を振り下ろした。

 しかし残念ながら、左手に持っていた扇子は、魃から放たれた妖力の刃によって真っ二つに裂かれてしまった。

 心中で舌打ちしながら、千華は右手に持つ扇子を魃の体へと触れさせた。

(やったか!?)

 一瞬期待をした千華だった。だが妖怪封じの力を持つはずの靫蔓うつぼかずらは、扇子ごとその身を破裂させた。

「くっ! 妖力が大きすぎたかっ」

 封印しそびれたからには、急いで魃から離れようとした千華だったが、わずかに遅れた。魃が振り上げた腕が、先に千華の肩を捕らえたのだった。


   ◇ ◇ ◇


 魃の攻撃を避けきれず、千華は左肩を負傷した。深紅の鮮血がほとばしり、千華の肌と衣装にまだら模様を描いた。

花凰姫かおうき!」

 その場景に反応して、そう大呼たいこしたのは、子狐狸の隣に立つ青年だった。

 聞き覚えのない名前に子狐狸は眉を寄せた。隣にいるのは櫂士だ。そして櫂士は、彼女のことをいつも『千華さん』と呼んでいた。

「ねえ、おにいさん。それって……」

 誰のこと?

 当然浮かび上がってきた疑問を口にしようとした子狐狸は、青年の顔を見上げた瞬間。一切の動きを止めた。

『誰?』

 それが子狐狸の脳裏を占めた言葉だった。

 櫂士がいるはずの場所には、櫂士と瓜二つの姿で、髪を剃っている青年が、少々青ざめた顔で立っていた。

 今の状況も忘れて、ぼんやりと彼の顔を眺めていた子狐狸は、ようやくこの青年が『花崗』なのだと気づいた。

 とりあえず胸を撫で下ろした子狐狸は、花崗に話しかけようとした。

 だが。それは叶わなかった。

 子狐狸の全身の肌が一気に粟立つ。さらに炎で炙られているかのような鋭い痛みにすら襲われ、子狐狸は反射的に己自身を抱きしめた。

 立っていることも辛くなって膝が抜けそうになったとき、そのことに気づいた花崗が子狐狸を腕で支えた。

「お嬢さんには、刺激が強すぎるようですね」

 そうして花崗は、子狐狸に一本の扇子を握らせた。

「これをお持ちなさい。少しは楽になりますよ」

 花崗の言葉通り。否、それ以上に子狐狸は体が楽になった。粟立つ肌が完全に落ち着いたわけではないが、痛みはすっかり治まり、自分ひとりで立てるようにもなった。

「おにいさん、ありがとう」

 一言、花崗にお礼を述べると、子狐狸は千華がいる場所へと視線を移した。だがそこにいたのは、気配も衣装もがらりと変わった、千華であって千華でない存在だった。

 その女性が花崗を振り返る。

「花崗、その名を呼ぶんじゃないよ。封印が解けてしまっただろう」

「すまない……」

 自省して肩を落とす花崗を見て、花凰姫は観念したように大きく息を吐き出した。

「まあいいさ。せっかくだから、とっととあいつを退治るよ」

 そういって再び魃へ視線を戻した花凰姫の全身を、ようやく視界に納めることができた子狐狸は、目を丸くした。

 『扇花』と名乗ったときもそうだったが、纏っている衣装の柄が、漆黒一色から百花繚乱へと変化していた。今度は扇子柄ではなく、花によって大きく鳳凰が描かれている。さらには衣装そのものも変わってしまっていた。

 江戸時代初期に主流だったいつもの長着から、時代を大きく逆行し、平安時代に女性の晴れの装束だった裳唐衣装束もからぎぬしょうぞく――のちに十二単と呼ばれた衣装を纏っていたのだ。

 手には阿古女扇あこめおうぎ。こちらも衣装と同様に、漆黒に塗られた下地の上に、花によって見事な鳳凰が描かれていた。親骨の両端からまっすぐ垂らされたふさは金糸と銀糸で、それは千華の髪を思い出させた。つまり、あの阿古女扇こそが千華の本体だった。

 『千華』はおろか、『扇花』すらはるかに凌駕する圧倒的な妖力。そしてその妖力すら覆いつくしてしまいそうなほどの勢いで、その場を圧していくすさまじい霊力。

 敵対するべきはずの二つの力が、ただ一つの存在から発されていた。

「あれが、おねえさんの本当の姿と力……」

 先ほど子狐狸に痛みを与えた原因は、際限なく溢れ出ているあの霊力だった。

 子狐狸は身震いする体を、我知らず抱きしめていた。

「花凰姫が怖いですか?」

 突然そんなことを花崗に訊かれ、子狐狸は反射的に彼を振り仰いだ。

「恐ろしいですか?」

 再び問われ、子狐狸は首を傾げた。

 ややあって、小さく首を左右に振る。

「怖いとか恐ろしいというよりも、これはたぶん……『かしこい』って感じなんだと思う」

 ゆっくり語る子狐狸の言葉は、花凰姫に畏怖の念を抱いているということだ。

 花崗は柔らかく微笑んだ。


   ◇ ◇ ◇


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 京の五条大橋西詰。時宗じしゅうの寺、新善光寺御影堂では月に一度の別時念仏会べつじねんぶつえがおこなわれていた。

 一昼夜を通しての念仏三昧。

 今は六時礼讃ろくじらいさん中夜ちゅうや。子の刻は正子しょうしをわずかに過ぎたあたりか。

 中夜のばんを勤める遊行上人ゆぎょうしょうにんは、弟子の時衆じしゅうたちを伴って、いつものようにただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えていた。

 極力落とされた灯火。

 薄闇に覆われた堂内に、重厚に響き渡る称名しょうみょう

 そんな折、本尊である阿弥陀如来像の片隅に置かれた小さな小さな扇子が淡く光り始めた。

「上人様、扇子が!」

 いち早く気づいたのは、時衆の一人だった。

 上げられた声に反応して、皆の視線が一気にその扇子へと移動する。そして、それを目にした者から順に、驚愕のおもてへと変わっていった。

 一気に堂内をざわめきが伝播する。

「お静かに。別時念仏会のさなかですよ」

 上人が穏やかに一言たしなめれば、時衆たちは即刻口を閉ざした。

 最初に発見した時衆が、そっと伺った。

「上人様、申し訳ありません。ですが、あの扇子が光ったときは、即座に位置を把握し、妖怪を退治できる追っ手を差し向けるようにと、はるか昔から言い伝わっております。とはいえ、実際に目にするのはこれが初めてです。それに上人様がおっしゃられたように、別時念仏会のさなかでもあります。わたくしどもはいったいどのようにすればよろしいのでしょうか?」

 上人は床に両手をつくと、弟子たちへと体ごと向き合った。

「場所の特定は、別時念仏会を終えてからおこなえばいいでしょう。明日でも十分特定が可能です。また、あのように光が淡いということは、距離がそれなりに離れているということです。仮に今すぐ場所を特定し、大急ぎで向かったところで間に合いはしないでしょう。察するに、相手は四国か中国あたり。我々が到着する前に、どこかへ移って、再び身を隠していることでしょう」

 なぜそんなことがわかるのか。時衆たちの顔に浮かぶ疑問に、上人はほんのわずかに微苦笑を浮かべた。

「あの扇子が光ったことは、これまでも何度かあったそうです。実際、わたくしも見習いのころに一度目にしたことがあります」

 『遊行上人』の名を引き継いだ彼にも、もちろん見習いの時期はあった。そして今現在、一番の古株でもあった。それだけ長い年月をこの御影堂で過ごしてきたということだ。

 だからこそ時衆たちが知らない過去を、いろいろと見聞きしていた。

 あの扇子が光ったことは確かに何度もあったが、そのつど箝口令が敷かれた。そして真実は『上人』の位を持つものにだけ、口伝にて伝承されてきた。

 そして彼は最高位の遊行上人。その名と位を引き継ぐ際に、先代からの口伝によって、御影堂のかげの部分も余すところなく継承していた。

 初めて聞く話に、時衆たちは固唾を呑んで上人の言葉に耳を傾けた。

「その時々にも、もちろん場所の特定はおこなわれ、追っ手を差し向けました」

 けれど。どれほど急いで向かっても、相手はすでに姿をくらませており、後ろ影を見ることすら叶わなかった。しかしそれはむしろ幸いだったのだとすぐに気づいた。残り滓のような妖力や霊力でさえ、彼らの背筋を凍らせるほどの力だったからだ。しかもそれは年を経るごとに増してさえいる。

 そんな妖怪を生み出してしまった、先人たち。

 元はといえば、欲に目がくらんで真実を見誤ってしまったことが発端。さらには無実の者に罪を着せて、その命すら奪おうとしてしまった。どんな報復をされたとしても、むしろ自業自得だったといえよう。

 それなのに。

「あのものたちは、露程も我々に報復をなさらなかった」

 ただ殺されそうになったから逃げただけ。そして今も逃げ続けているだけ。ただそれだけ。

 そして我々は、時折こうして扇子が光る様を目にして生存を確認するに至っているのみ。

 そうして幾度か足跡を追ううちに、わかったのだ。

「かの姫は、いつも誰かを守るためにだけ力を振るっている、と」

 人間を助けようと思っての行動なのか。それとも結果的にそうなっただけなのか。そんな詳細まではわからなかったが、いつも必ず、人の手に負えないような厄介な妖怪を退治してくれていたのだ。作られた本来の目的に従うかのように。

 上人の口から次々と語られる過去は、時衆たちの心に重く圧し掛かっていった。

 憧れ、目指していた先人たち。

 そんな彼らが、と思えば思うほど、道標を見失って迷い子となっていくような心細さに襲われていく。

 肩を落として項垂れる時衆たち。

 上人はそんな弟子たちをゆっくりと見渡すと、淡く微笑んだ。

「勘違いをしてはなりませんよ。先人たちもわたくしたちも人間です。間違いを犯すことはあります。だからこそこうして修行をしているのです」

 はっとしたように顔を上げていく時衆たち。

 今代こんだいの遊行上人は、静かに、けれど力強くうなずいた。

「今回も扇子が光った以上は、人をやって状況を調べることになるでしょう。そうすればわたくしが今語ったことが、事実であることが証明されるでしょう。そろそろ過去の罪を認め、悪しき風習は改めなければなりません。今回かのものたちを追うのは、決して退治するためではありません。わたくしたちの罪を認め、あのものたちの無事を祝うためです」

 あの時。それぞれが己の欲を優先させたりしなければ。

 そうすれば今頃、かの姫は久寿扇と並んで、この寺の宝の一つとなっていたはず。

 上人は両の掌を胸の前で合わせた。

「おりよく此度は別時念仏会のさなかでの邂逅。中夜の残りの時は、かのものたちのために念仏を唱えることにいたしましょう」

 上人が阿弥陀如来像に向き直ると、扇子の光も静かに落ちていく。扇面に大まかな所在地を映し出して。

「南無阿弥陀仏」

 再び薄闇に戻った堂内に、遊行上人が唱える念仏が厳かに満ちていった。


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