4.
瓶長が問いに答えようと口を開きかけたとき、千華は見知らぬ気配が突然降り立ったことに気づいた。とっさに瓶長の口に軽く手をそえるようにして、声をふさぐ。そして警戒しながら辺りを窺った千華は、狗賓のそばに立っている烏天狗を見つけた。
千華が気づくと同時に、烏天狗もこちらに体ごと視線を向けてきた。
「我らが眷属を忌まわしき傀儡の糸から解き放ってくれた礼を言おう。――有難う」
気高き天狗が礼を述べるだけでなく、一介の妖怪でしかない千華に対して頭まで下げたものだから、千華も瓶長も、そして一人だけ結界から抜けて千華たちの近くに来ていた櫂士も、皆一様にあからさまに驚愕した姿をさらした。
「……いや、こちらにはこちらの事情があってしたこと。お気になさらずに。まあ、とにかく互いに大きな怪我がなくてよかったとだけ言っておこうか」
しどろもどろに言葉を返しながら、ようやく目を覚まして起き上がりだした狗賓たちを視界の端に捉えて、千華は安堵した。
山の神からの八つ当たりは御免蒙りたいと、確かに思っていた。だがなんだかんだいっても、しょせん狗賓の天狗としての位は最下位だ。何かあったとしてもそう大事にはなるまいと、いくらか楽観していたことは否めない。それが蓋を開けて見れば、それなりに上位の烏天狗がこうやって顔を見せたのだ。
再度心の中で「本当に皆無事でよかった」としみじみと呟いた千華は、気持ちの区切りをつけるために一度うなずくようなしぐさをすると、瓶長に向き直った。
「それで、じじ様。先ほどの続きですが、誰に操られていたんです?」
「魃じゃよ」
瓶長はいかにも口惜しいというように、下を向いて奥歯を噛み締めていた。
魃とは、日照りを司っている神が荒魂と化した、目と手足が一つずつの獣の姿をした妖怪である。
「それで、その魃は今どこにいるんです?」
そんな厄介な存在が黒幕だったのか。千華は内心で覚えた困惑を隠し、それほどの存在でありながら気配が全く感じられないことを不思議に思いながら居場所を問うた。
しかし返ってきたのは、「わからない」という無念そうな言葉。
念のため狗賓たちにも確認してみたが、答えはやはり同じだった。
さて、どうしたものか。
千華がここに来た本来の目的は、洪水は瓶長の仕業だという火鼠の言が事実かどうかの確認。そして。事実であった場合は、瓶長を説得して大量の水を流して川を溢れさせることをやめさせて、里へ連れ帰る。この二点だ。そしてそれはほぼ達成されたといってもいいだろう。
だからこのまま瓶長と一緒に朧車に乗って、里へと帰ればいいだけだ。
畢竟するに、居場所のわからない相手ではどうすることもできないのだから。
千華は櫂士へと目をやった。引き上げる旨を伝えるために。
しかし、それを止める少女の声が響いて、千華の口をふさいだ。
「魃なら土佐にいるわ!」
その場にいる全員の視線が少女へと集中する。皆が抱いた疑問を、千華が代表して訊ねた。
「子狐狸? どうしてお前がそんなことを知っているんだい?」
「だって私が生まれ育った場所は土佐だもの」
そうして子狐狸は、旱魃を起こして仲間たちを苦しめている魃を、退治することができる存在を探して旅をしていたのだと告白した。
「おねえさんだったら、あいつのこともさっきみたいにやっつけることができるんでしょう? だからお願い! あいつを……魃を退治してください!」
子狐狸はそういって頭を下げた。
千華が櫂士に向かって目配せすると、櫂士は小さく首肯した。
それを受けて、千華は子狐狸に向き直った。
「なあ、子狐狸。魃を退治できるものを探しているといったね? だが、わざわざこんなところまで旅をしなくとも、土佐といえば、隣の伊予に、四国最大の神通力を持ち、八百八匹もの眷属を従えている妖狸――隠神刑部がいるだろう」
子狐狸は項垂れて、ゆっくりと首を左右に振った。
「隠神刑部様や八百八匹の親分狸さんたちは、みんな揃って久万山に封じられたから無理なの……」
千華と櫂士は思わず顔を見合わせた。
そんなことは全く知らなかった。
なにせ、普段は隠れ里に引きこもっているのだ。外の情報はなかなか入ってこないため、どうしても世情に疎くなってしまう。
「……そうだったのか。それで隠神刑部の代わりを探していたんだね」
子狐狸は下を向いたまま、うなずいて答えた。
仕方が無いね、と苦笑いを浮かべながら、千華は肩をすくめた。ここまでかかわってしまったのだ。瓶長も魃の居場所がわかった以上、一矢を報いもせずに憤懣やる方ない思いを抱えたままでは里へ帰れないだろう。覚悟を決めた千華は、櫂士を見返す。
「もちろん、お供いたします」
他に選択肢など一切無いというように、迷いの無い穏やかな微笑を浮かべながら櫂士が応えた。
次に千華が視線を向けた先にいたのは、瓶長。
「わしも行くぞ。旱魃を起こしておるんなら、わしの水が役に立つだろう」
半ば反射的に止めそうになった千華だったが、瓶長が同行すると言い出すことは最初から予想していたことだ。瓶長の言い分ももっともだと自分に言い聞かせて、彼の意見を受け入れた。
残りは子狐狸だ。しかし子狐狸はどのみち家に返さなくてはならない。それにどう言ったとしても、結局は一緒についてこようとすることなど、すでにわかりきっていたため、問うことすらしなかった。
かわりに言ったのは。
「子狐狸、先に朧車に乗っといで。こうやってみんなで土佐まで行くのも一興だろう」
勢いよく顔を上げた子狐狸は、千華の顔をまっすぐ見返して破顔した。元気にうなずくと、踵を返して軽い足取りで朧車へと乗り込んだ。
そんな子狐狸をほほえましい気持ちで眺めながら、千華は櫂士と共に朧車へと向かおうとした。
そんな千華たちの足を止めたのは、烏天狗だった。
「お待ちください。その朧車で江戸から土佐へ行くには時間がかかりすぎるでしょう。狗賓を助けてもらったお礼として、土佐までの道行きを助力したい。お受けいただけるだろうか」
それは確かにありがたい申し出ではあった。千華は櫂士を仰ぎ見る。彼は少々困惑した顔をしていた。無理もない。千華とて同じ表情をしていたのだから。
「助力といいますと……、具体的にどのような……?」
「私の仲間を呼んで、朧車に乗られたあなた方ごと持ち上げて、空中を移動いたします。何の障害物もない空をまっすぐ進めば、それだけ早く到着できますよ。そうですね。十人で運べば、一日。遅くとも二日あればたどり着けるでしょう」
遅くとも二日。それは確かに魅力だった。
櫂士が同意するようにうなずくのを確認した千華は、烏天狗の申し出を受けた。
そうして千華たちは朧車に乗ったまま、土佐に向かって空の旅に出ることとなった。
◇ ◇ ◇
朧車に引き綱をつけて、それぞれの端を烏天狗がつかんでいる。そんな気分的に少々不安を覚えてしまう状態にさえ慣れることができれば、空の旅もなかなか楽しいものだった。何せそっと覗き見た下界は、初めて目にするとても不思議な景色だったのだ。木のてっぺんから地上を見下ろすのとは全く違うし、山の頂上から麓を見下ろすことともどことなく相違を感じる。
そうやって最初は景色を楽しんでいたが、やがて海上に出ると、見える景色はほぼ海だけ。次第に飽きてしまい、めいめいが牛車の側面にもたれるようにして適当にくつろいでいた。
そうした時間の中で、ふと千華の脳裏に疑問が浮かんだ。そしてちょうど隣に座っている瓶長の方へ少しだけ体を向けた。
「そういえば、じじ様。どうして江戸に居られたんです?」
目を閉じてじっとしていた瓶長は、千華の問いかけに、あくびをもらしながらゆったりと目を開けた。
「ああ、ちょうど江戸に住んでいたんじゃよ。だから魃のこともすぐに気づいて、わしにできる範囲で何かしら対抗しようとしたら、あっさり術中に落ちてしまったわけじゃ。嬢ちゃんには迷惑かけてすまんかったのー」
「そのことはもういいんですよ。そうじゃなくて。――じじ様、心配したんですよ。旅に出ると言って里を後にしてから、一度も戻ってこないんですから」
「そりゃすまんかったのー。若い夫婦の邪魔をしちゃならんと思うてのー」
千華は瓶長の勘違いを知って、苦笑をこぼした。
「あたしらはそんなんじゃありませんよ。ですから気遣いは無用です」
「なに!? お前たちはずっと一緒に暮らしておったんじゃろう?」
櫂士、と瓶長は少々荒らげた声で、千華の正面に座っていた櫂士を呼んだ。
「お前、女子に恥をかかせるようなことをしとったんか? 何でじゃ?」
瓶長は櫂士が腰を上げるよりも先に詰め寄った。そんな二人の間に、慌てて千華が割り込む。
「じじ様、じじ様。あたしのことなら、いいんですよ」
「じゃが、あそこまでして嬢ちゃんを助けておきながら、あとは何もなしっちゅうのはどうにも解せんぞ。無粋なんてもんじゃない。櫂士、お前はそれでも男か!?」
最初は、割り込んだ千華を咎めることなく言葉を返していた瓶長だったが、その間も機嫌は下降の一途をたどり、ついには火がついて櫂士に説教を垂れながら再度問い詰めようとした。烈火のごとく怒る瓶長に、千華は瓶の中の水が沸いてしまうのではないかと、不謹慎でありながらも思わずそんな下世話な心配を心の片隅でしてしまった。元はといえば、自身の不用意な発言からこのような事態になっているのだ。こんなことを考えている場合ではないと胸中で戒め、今はとにかく瓶長を落ち着かせようと口を開いた。
「じじ様、だから、もういいんですって!」
千華のその言葉に、初めて櫂士の体が微かに動いたが、ただそれだけだった。言葉も何もない。
そんな櫂士を見つめて、瓶長は深いため息を吐いた。
「いい夫婦になるだろうと思うて、あの家を遣ったんじゃが……、わしの見立ては外れだったようじゃの……」
どことなく寂しそうに肩を落とす瓶長を前にして、千華はただ目を伏せることしかできなかった。
期待に沿えず申し訳ない。そう口で詫びることならいくらでもできる。けれど、それで瓶長が元気になるわけではない。一時凌ぎにすらならないなら、何も言わないほうがまだましだろう。
気まずい雰囲気の中。傍観していた子狐狸が突然、櫂士に向かって突拍子もないことを言い出した。
「じゃあ、私がおねえさんをもらってもいい?」
子狐狸のこの台詞に驚いた千華と櫂士は、大きく目を見開いた。
「子狐狸、お前は女の子だろう?」
千華が子狐狸のおかっぱ頭を見ながら訊ねた。おかっぱは少女の髪形だからだ。
それに、と千華はこめかみに指を当て、自身の記憶を探った。
「雲外鏡でも確認したが、何も不審な点はなかったし、髪も確かにおかっぱだった。いったいどういうことだい?」
千華の家にあった鏡は、相手の正体を映し出す鏡――雲外鏡だった。普段は居候の代価として、ただの鏡として振舞っているが、必要に応じて、雲外鏡本来の力である、相手の本質を鏡面に映し出すということもしていた。あの隠れ里を訪れたものは皆、知らず知らずのうちに雲外鏡によって本性を調べられていたのだ。隠れ里の住人が、千華の評価を無条件で信用していた背景には、千華の人柄だけではなく、雲外鏡の存在も確かにあった。雲外鏡という明確な裏打ちの基で、判断がなされていたからだ。
「どういうことって言われても、どちらも、としか答えようがないの。お母様にとっては女の子の方が色々と都合がよかったとかで、女の子として育てられたけど、私は女でもあるけど男でもあるから」
子狐狸はどこか寂しそうに小さく微笑した。すでに何かを諦めているからなのか、どうなのか。
雲外鏡で正体を覗き見たとしても、ただそれだけで子狐狸の内実すべてを千華が把握できるはずはない。異種族の両親の間に生まれただけではなく、両性具有でもあったなら、さぞかし風当たりは強かっただろうと、そんな当たり前のことを思うことしかできない。だから千華はこの話題についてはもうそれ以上触れようとはしなかった。
ただ本題へと戻ろうとした。そう思った千華より、子狐狸のほうが行動が早かった。千華に真剣な顔を向けて、
「それともおにいさんをもらったほうがいい?」
と。
もはや千華の思考は停止寸前となった。
「お前、何を言って……」
「だって、おにいさんもおねえさんもはっきりしないもの。つまり、その程度の想いしかないってことでしょう? 『好き』の一言すら言えないだなんて、私には理解できないもの。私はおにいさんもおねえさんも好きよ」
「……意思表示はしていたさ」
千華が搾り出すように、反論としては弱弱しい言葉をつむぐ。
けれど子狐狸には千華の葛藤は少しも伝わりはしなかった。
「意思表示ってどんなこと? それで通じたの? 通じなきゃ何もしていないのと一緒だよ」
苦しそうに顔をしかめて、千華は視線を逸らせた。
それが逃げでしかないことをわかっていながら、それでも今は子狐狸の顔も櫂士の顔も見れなかった。見返すことができなかった。