3.
「千華姐さん、大変だよ、大変!」
顔から手足を生やした妖怪――五体面が、文字通り、倒けつ転びつしながら駆け込んできた。
櫂士に淹れてもらったお茶を口に含んでいた子狐狸は、突然騒々しく登場した五体面に驚いてむせた。
「お、可愛らしい嬢ちゃんだな。客が来ているとは知らなかったんだ。驚かせて悪かったな。大丈夫か?」
五体面はすまなさそうに頭を掻きながら子狐狸の側へ行くと、咳き込んでいる子狐狸の背中をさすった。
その行動にさらに驚いた子狐狸の思考は、混乱を極めた。無意味に手足をばたつかせ始めた子狐狸を見た五体面は、そこではたと挙動不審の原因が自分だと気づいた。
「おお、すまねえ。嬢ちゃんとはいえ、女の人には変わりないからな。俺みたいなのに触られたくはないよな。ほら、俺はもう手を離したから落ち着け。あとは千華姐さんにさすってもらいな」
五体面は万歳をするように両手を上げ、ゆっくりと後退りして子狐狸との距離をとろうとした。そんな五体面の腕を、子狐狸はいくらか咳を残しながらもはっしと掴んだ。
「ちがっ……」
「嬢ちゃん?」
「な……んでっ」
子狐狸が何をしたいのか。そして何が言いたいのか。五体面にはさっぱり見当がつかず、助けを求めるように困惑した顔を千華へと向けた。
それまで完全に第三者として傍観していた千華は、五体面の目配せを受けて、あきれたように肩をすくめた。
「やれやれ、どっちも不器用だねえ……」
そうは言いながらも、千華は腰を上げると子狐狸の背後に移動して、彼女の背中をやさしくさすった。
「子狐狸、まずはその咳を落ち着かせな。話はそれからだよ」
ようやく咳が治まった子狐狸は、櫂士に淹れなおしてもらったお茶を飲んで一息ついた。
その間に、部屋の隅で、五体面は転んだ際についた体の汚れを拭き取っていた。
そうやって二人が落ち着いたところを見計らって、まずは千華が口を開いた。話しやすいようにきっかけを与えるためだ。
「子狐狸、さっきは五体面に何を言おうとしてたんだ?」
子狐狸はいったん開きかけた口を再び閉じて俯いた。
大体の予想がついている千華は、子狐狸の頭を軽く撫でて再度促した。
「大丈夫だから、言ってみな」
ぎゅっと両手を握り締めた子狐狸は、勢いよく顔を上げて、五体面とまっすぐ向き合った。
「あのっ! さっきはごめんなさい。――おじさんに触られるのが嫌だったんじゃないの。そうじゃなくて……、やさしくされたから! おじさんが私にやさしくしてくれたから、だから驚いただけなの!」
再度ごめんなさいと謝罪しながら、子狐狸はぎゅっと目を閉じて頭を下げた。そしてそのまま五体面の反応を待った。
そんな子狐狸の態度に好ましさを覚えて微笑んだ千華は、五体面へと視線を向け、そして大きなため息を一つ吐き出した。
五体面は自身の予想とは真逆だった理由に大きく驚いたうえに、子狐狸の勢いにも気圧されて、目と口を開いたまま固まっていたのだ。
反応の無さを訝った子狐狸が、そっと顔を上げて見返しても、五体面は復活しなかった。
千華は額に手をやり、首を小さく左右に振った。
「これ、五体面。子狐狸が返事を待ってるよ」
あきれた千華が閉じた扇子で軽く五体面の頭を叩いて、やっと金縛りから開放されたようだ。恥ずかしそうに縮こまりながら、五体面はばつが悪そうに後頭部を撫でた。
「すいません、千華姐さん。余計な手間掛けさせちまって……」
「あたしはいいから、子狐狸に答えておやり」
五体面は首肯して、子狐狸に向き合った。
「嬢ちゃんにも迷惑かけて悪かったな」
子狐狸はふるふると首を振った。
「どうして? どうしてそんなにやさしくしてくれるの?」
子狐狸は今にも泣き出しそうな感じに顔をしかめ、五体面は不思議そうな顔をした。
「私は『子狐狸』なのに……」
指で軽く頭を掻いた五体面は、チラリと千華を一瞥して手助けが無いことを確認すると、考え考え言葉を発した。
「なあ、嬢ちゃん。俺には、嬢ちゃんが何を言ってるのかさっぱりわからねえ。わからねえけど、でも、嬢ちゃんは、千華姐さんの客だろう? だから、やさしく……かどうかはわからねえけど、俺ができる範囲で礼は尽くすぞ。――そもそも、嬢ちゃんに限らず、変な奴や危ない奴だったら、この家で普通に客としてもてなされることなんかあるわけがねえってことを俺は……、俺だけじゃなく、これはこの里に住んでる奴なら誰だって知ってることなんだ。だから俺たちは、千華姐さんの評価を無条件で信じてるんだ。そんなわけで、嬢ちゃん自身が自分のことをどう思おうと、俺たちは千華姐さんに従う。客は客としてもてなす。ただそれだけだ」
言いたいことが伝わっただろうかと、五体面は不安そうに子狐狸を見返した。その眼差しを受け、子狐狸は小さくうなずくと、どこか照れくさそうに笑った。
一応の決着がついたところで、千華は扇子で鳴らした音で、二人の注意を引いた。
「誤解が解けたところで、こっちの話に入るよ。――さて、五体面、何が大変なんだい?」
「おおーっと、そうだった」
すっかり和みかけていた己を叱咤するように、ペシリと自分の額を叩いてから、五体面はわずかに千華の方へと身を寄せた。
「千華姐さん、大変です。はるか東の地で起きてる洪水から逃れてきた火鼠が、そこで瓶長の爺さんを見たと言ってるんです。それだけでなく、洪水を起こしてるのが、その瓶長だっていうんですよ!」
千華はすっくと立ち上がった。
「櫂士、五体面。今すぐその火鼠をここへ連れてきな」
◇ ◇ ◇
火鼠から詳しい話を聞いた千華たちは、朧車に乗って東の地を目指していた。
最初は千華と櫂士の二人だけで向かうつもりだったのだが、何を思ったのか、突然子狐狸も一緒に行きたいと言い出した。
子狐狸から必死な眼差しを向けられた千華は、自分の身は自分で守るように約束させただけで同行を許可する。
「よろしいのですか?」
そっと櫂士がよこした耳打ちにも、千華は大様に構えてあっさりとうなずいた。
「本人が行きたいと言っているんだ。連れて行ってやればいいさ」
そうして千華と櫂士と子狐狸の三人は、疾走する朧車が奏でる牛車特有の軋みを聞きながら、数日をかけて東の地へとやってきたのだった。
辿り着いてみれば、話に聞いた以上に被害は拡大していた。火鼠がこの地を後にしてから更に日数が経っているのだ。無理もない。
「……瓶長は未だに水を流し続けているってことだね」
千華は、眼下に広がっている平地を大量の水が覆いつくしている光景をその目で捉えて、顔をしかめた。形のつかめない想いが溢れてきて、煽られたように瞳が揺れる。
「大丈夫ですか?」
櫂士が囁くように訊ねた。
相前後して千華の手の甲に、櫂士の手が気遣うようにそっと置かれた。そこで初めて、千華は自分が固く拳を握り締めていたことを知った。
ゆっくりと手の甲を撫でる櫂士の手の温もり。穏やかさ。それらにつられるようにして、徐々に千華の全身から余分な力が抜けていった。
「もう大丈夫だ。――ありがとう、櫂士」
ようやくこわばりが解けきった千華は、ばつが悪そうに扇子で顔を隠す。
そんな千華を見て、櫂士は安堵したように愁眉を開いたのだった。
話しかける間をつかむために、そんな千華と櫂士の様子をそっと眺めていた子狐狸が、ようやく訪れた機会に、すかさず小首を傾げながら訊ねた。
「おねえさんたちは、その瓶長って妖怪とは、知り合いなの?」
答えたのは千華だった。
「ああ、そうだよ。あたしも櫂士もずいぶん昔に世話になってね。知り合いというより、恩人だね」
「どんな妖怪なの?」
「瓶長は水瓶の付喪神でね。瓶にはいつもいっぱいの水を抱えている。その水は使えば使っただけ自然に補われて、絶えず瓶が満水になるようになっているのさ」
「じゃあ……」
千華は目を伏せて、閉じた扇子の先を眉間に当てた。
「そう。本当の犯人が誰にせよ、瓶長にも、これだけの水害を起こせるだけの力があるということだけは間違いないね」
今現在は田畑を中心にして水没している。ちょうど川が大きく蛇行している場所だったため、増した水の勢いと水かさは、容易にその弱点をついて周囲の田畑を次々と飲み込んでいった。
徐々に広がっている水という魔物。
このままでは、江戸の城下町へ襲い掛かるのもあとわずかといったところだろう。
あの江戸城には、この国の頂点に座している人物が住んでいる。すでに原因を探るべく兵を上流へと遣わしていることだろう。
鉢合わせてしまうだろうか。
千華は一瞬思案したが、すぐに口元に笑みを浮かべた。
朧車は自身の妖力によって、中にいる存在ともども徒人の目には映らないようにしているのだ。万が一見られたとしても、早々に眠らせてしまえばいいだけなのだと気づいたからだ。
そうして千華たち一行は、瓶長を見つけるために、隅田川の上流へ向かったのだった。
◇ ◇ ◇
ピクリと千華が手にしていた扇子が跳ねた。
直後、空気の中に異質な気配が混じり始め、妖怪の存在を知らしめる。
「どうやら何かがお出ましのようだね」
瓶長なのか、別の何かなのか。実際に目にするまではわからない。
千華は精神統一でもするかのように静かに深呼吸をした。
牛車の軋む音が消え、朧車が動きを止める。
朧車からの無言の促しを受けて、千華たちは辺りの気配を窺いながら、外に出た。
そんな彼女たちの視界に最初に映ったのは、すでに息絶えている武士と思われる人間たちと、この地に住んでいたと思われる雑鬼たちの骸。
千華が持っていた扇子が、握り締める力に不服を唱えるかのように、キシリと鳴いた。
続いてゆっくりと巡らされた千華の瞳には、中央にいる瓶長と、その周りにいる数頭の狗賓の姿が映りこむ。狗賓とは狼の姿をした天狗の一種で、本来は山の神の使者ともいわれるほどの妖怪だ。その狗賓がなぜこのように牙をむいたのか。瓶長も狗賓もそういうことをする性質の妖怪ではないのだ。
千華は眉間に深い皺を刻み、さらに注意深く見つめた。
やがて千華は目を瞠る。
「操られているのか!」
ようやく得心がいったと、千華は右手に持っていた扇子で、左の掌を打った。
櫂士も同意見だとうなずいた。
「問題は誰が瓶長たちを操っているのかということですね。瓶長だけならまだしも、狗賓は仮にも山の神の使者。そう簡単に術をかけられるわけではありませんでしょう」
「どこかに黒幕がいるということだな」
さて、どうするか。千華は手にしている扇子へと視線を落とした。
今ここには黒幕の気配はない。自分たちを除けば、後は瓶長と狗賓の群れだけ。
操られているだけなら、解放すればいい。そうすれば黒幕の情報も入るし、山の神の使者を滅することにより生ずる、ややこしい事態に巻き込まれずにも済む。まさに一石二鳥とはこのことをいうのだろう。
千華はニヤリと笑った。
「櫂士、五色唐辛子と月見草と飛燕草と猫柳を!」
ただそれだけで櫂士には通じる。
即座に無地の扇子を取り出した櫂士は、千華が言った四つの花をすばやく描いた。
五色唐辛子の花詞は『悪夢がさめた』。月見草の花詞は『自由な心』。飛燕草と猫柳の花詞はいずれも『自由』。
言霊は力となる。つまり、これらは、操られている瓶長や狗賓たちを解放する力を持つ花々だった。
「千華さん、どうぞ」
描きあがった扇子を、櫂士は恭しく差し出した。
受け取った千華は、即座に踵を返す。
ゆっくりと歩を進めながら千華は櫂士に命じた。
「お前は朧車と子狐狸とともに、ここで結界を張って控えていてくれ」
「わかりました」
櫂士は承諾の言を返すと、早速懐から五本の扇子を取り出した。次いでその扇子を頭上へと放り投げる。五本の扇子は空中で散開し、櫂士たちを取り囲むようにして地面に突き立った。
「結!」
櫂士が凛と唱えた呪文を受けて、地に突き立つ扇子同士を繋ぐ線が浮かび、五芒星を描く。描かれた五芒星は、自身の姿であるその線を輝かせながら、櫂士たちを包み込むように光の紗幕を立ちのぼらせて、守りの結界を築いた。
その様をぽかんと口を開けて見ていた子狐狸が、はたと我に返り、櫂士を見返す。
「おにいさんって祈祷師だったの? 妖怪なのに?」
クン、と鼻を鳴らし、櫂士から妖怪の臭いがすることを再度確認しながらも、子狐狸はどうにも確信がもてない様子で、とても不安そうに訊ねてきた。
その素直な反応を受けて、櫂士は少しだけ困ったような顔で微笑んだ。
「私は千華さんがおっしゃったように絵筆の付喪神で、妖怪ですよ。ただこの姿は、千華さんの本体である扇子を作られた寺僧の姿を映しています。違う点はといえば……」
そういって櫂士は自分の髪を一房つまんだ。
「この髪くらいでしょうね。彼は寺僧でしたから、当然剃髪していますので。――私のこの髪は筆先なんですよ」
少し照れたように告げてから、それで、と櫂士は表情を改めた。
「その彼――名を花崗といいますが、その花崗は陰陽師の血に連なる生まれでした。遡れば、安倍氏や賀茂氏に通じるほどの血です。もっとも、陰陽師といえばこの二家といわれるほどの名家に生まれたとしても、見鬼の才が全くない者など幾人もおります。そうした者たちは陰陽道に一切関わることなく普通の民たちと同じ人生を送っていくわけですが、そんな忘れ去られた遠い外戚の中にポツリと力を持って生まれたのが花崗です。もはや、見鬼の才について何の知識も持たない家に突然生まれてしまった力のある子供と同じ境遇ですから、当然周りの者は扱いに困りました。だから花崗には寺僧になるしか道がありませんでした」
櫂士は遠い場所を見つめるような視線を宙に投げた。過去を思い出しているのだろう。
子狐狸は静かに待った。
そうして櫂士は再び口を開いた。
「花崗が勤めた寺は、新善光寺――通称を御影堂といいます。祖扇といわれている久寿扇が玉織姫の手によって作られた寺です。そして、そんな扇子が作られる過程ともたらした業をじかに目にしていた花崗は、ようやく持て余していた己の力の使い道を見出して扇面絵師を目指しました。そうして唯一仕上がった作品が千華さんであり、その時使われた絵筆が私です」
そう言いながら櫂士は自身の胸に手を当てた。そして微笑む。
「そうした関係で、私たちは、少々妖怪としては破格な術が使えたり、微妙な気配がしてしまうようです」
おわかりいただけましたか、と櫂士に訊かれた子狐狸は、素直にうなずいた。
そんな会話を交わしている櫂士と子狐狸を背後に、千華は瓶長や狗賓と対峙していた。
櫂士から受け取った、いつもの夏扇より少しだけ大振りの中啓と呼ばれる扇子。その扇子で口元を隠して、千華は厳かに言った。
「我は千華。千は扇に通じ、華は花に通ずる。我は扇の花――扇花なり!」
千華がそう言い放った直後、漆黒一色だった長着の裾側から、一気に花の絵が浮き上がってきた。扇に描かれた花々。花々を描いた扇。瞬く間に千華の長着はそうした扇と花の絵によって、まさに百花繚乱と思わず感嘆してしまうほどに、無数の花々に埋め尽くされていった。
スイと伸ばされた腕の先、千華が扇子で指し示すのは操られている妖怪たち。
「我が望むは、彼らの解放!」
千華が一歩足を踏み出すと、狗賓たちもいったん力をためるように伏せた後、一気に飛びかかってきた。
いっせいに向かってくる狗賓たちの牙を器用に避けながら、千華は持っている扇子の面で彼らの眉間を打っていった。
それなりの硬さがある親骨の部分ではなく、花の絵が描かれている扇面の部分でだ。それでは狗賓にとっては何の障害にもならないだろうと思われた。しかし、どうしたことか。実際にはそうやって眉間を打たれた狗賓たちは次々と地に倒れるようにして横になり、そのまま眠ってしまっていた。
まるでいくつもの弧を描きながら宙を舞うかのように華やかかつ軽やかに移動しながら、とうとう水を撒き散らすというささやかな抵抗をしていた瓶長までも、一切濡れることなく眠らせてしまった。
ようやく足を止めた千華は、扇子を閉じる。その扇子を頭上に掲げ。
「急急如律令!」
刃に見立てた扇子を袈裟懸けに切り下ろした。
直後、眠っている瓶長や狗賓の眉間から、吐き出されたように勢いよくどす黒い靄が立ちのぼる。が、扇子を帯に挿し、空いた手で千華が拍手を二回打つと、その靄もすぐに霧散するように掻き消されていった。
辺りを見渡して、悪しき気配が消えたことを確認した千華は、膝をついて、眠る瓶長の体を軽く揺すった。
「じじ様。瓶長のじじ様」
幾度か繰り返すと、ようやく瓶長の瞼がゆっくりと持ち上がった。
「じじ様、千華です。わかりますか?」
千華の呼びかけに、瓶長は最初こそぼんやりと眺めているだけだったが、やがて意識もはっきりとしてきたのだろう。一瞬驚きで目を瞠ったあとは、うれしそうに相好を崩した。
「嬢ちゃんか。久しぶりだのー。元気そうでよかったわい」
「ええ、じじ様のおかげで、こうして今も元気に過ごしておりますよ」
起き上がろうとする瓶長に手を貸した千華は、事の次第を問いかけた。
「それで、じじ様。いったいどうしてこのような事態になったんです?」