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2.

千華せんかさん、今のご気分は?」

「お前に任せるよ」

 山の奥の奥深く。隠れ里にある鄙びた佇まいの一軒の家の中では、一組の男女が言葉を交わしていた。

 千華と呼ばれた女性は、緩やかに波打ちながら末広がりぎみに流れるつややかな漆黒の髪を持ち、同じく漆黒一色に染められた長着ながぎを身に纏っていた。

 いくら艶のある漆黒といえど、それだけでは何ともいえない不気味さを覚えてしまいがちだが、反して千華はとてもあでやかな女だった。

 漆黒の髪の中、ちょうど耳の横を通るように流れる左右一房ずつの金糸と銀糸は、その部分だけ直毛で、地毛でありながら飾りふさのように見えて、漆黒の髪の艶を逆に引き立て、同時に華やかさをも醸し出していたからだ。

 一方、千華の気分を尋ねた青年はといえば、作務衣さむえを着た優男だった。寺僧のようななりだが、剃髪はしておらず、柔らかそうな茶色の髪は、男の穏やかな表情を縁取りながらまっすぐ肩まで流れていた。

 青年は名を櫂士かいしといい、千華の返答を受けて、どこからともなく絵筆と真っ白な扇面の夏扇を取り出すと、なにやら描き始めた。

 程なく筆をおいた櫂士は、描いた絵がよく見えるように、また受け取りやすいようにと、扇子のかなめを千華の方へと向けてから差し出した。

「このような感じでしょうか?」

 受け取った扇子を楽しそうに眺めた千華は、櫂士に視線を向けた。

「苺の花だね」

「はい」

「意味深だね」

「そのようです」

 苺の花の花詞はなことばは『未来の予感』。

 花詞とは、それぞれの花が持つ特徴や性質などに基づいて象徴的な意味を持たせたものである。そしてこれはつ国の文化であり、この国の者にはまだほとんど知られていない。しかし偶然この花詞という存在を知ることになった千華たちは、それからずっと日々の生活の中に取り入れていた。代わり映えのない生活に、花やいだ雰囲気を添えていたのだ。

 千華は口元を扇子で隠し、艶冶に笑った。

「さーて、それじゃあ今のうちに客を迎える準備でもしておくかねー」

 千華の言葉を実行に移すために、櫂士は一礼するとその場を後にした。

 一人残された千華は、自身をやんわりと扇ぎながら、見るともなしに庭を眺めていた。

 やがてその手がぱたりと止まる。

「鍵は、『尊敬』と『家庭』か……」

 一言そう呟いた千華は、柱にもたれかかったままの状態で静かに目を閉じた。


   ◇ ◇ ◇


 目覚めた千華は、緩慢に身を起こすと、すぐ側にあった鏡に映る己の姿をしばらくの間見つめた。

 何があったというわけではない。むしろそこに見える光景はいずれも見慣れたものばかりだった。

 下着である腿くらいの長さの白小袖しろこそで。体に掛けられた大袿おおうちぎ。一番寝室に適した場所に設えられたしとね。千華がどこでどのような姿で寝ようとも、起床は必ずこの場所で、衣装も着替えさせられていた。

 変わらぬ白さを保つ首筋から胸元にかけて、そっと指を滑らせると、千華はわずかに失望感を漂わせながら息を吐き出した。

「相変わらず印の一つもつけられない甲斐性なし共だね……」

 言っても詮無いことと分かっていても、ついこぼれてしまう呟きに、さらに気分は下降する。

 千華はもう一度ため息をこぼすと、着替えるために衣桁いこうへと向かい、そして目をしばたたいた。

「櫂士」

 千華の呼び出しに応えて、櫂士はすぐに現れた。だが、彼を一瞥すらすることなく、千華は衣桁を――正しくはいくつかの衣桁に掛けられたころもを指差した。

 そこには数枚のうちぎと、単衣ひとえが掛けられ、よく見れば長袴ながばかままで用意されている。これらを身に着ければ、平安時代を彷彿させる袿姿の貴族の姫君が出来上がることだろう。

「これはいったいどういうことだい?」

「お客様をお迎えする準備を、ということでしたので、の装束とはいえ、千華さんの身分にあった衣装を用意しました」

「あたしの身分は姫君なんかじゃないだろう……」

 だいたい今は江戸の世である。時代というものをもっと考えてほしいものだ。

 千華はわずかに肩を落とし、半眼で櫂士をねめつけた。

「客が来ようがどうしようが、今のあたしにはいつもの衣以外にこの腕を通せる袖はないんだよ」

 千華は腰紐をほどくと、小袖を肩から落とした。

「櫂士、あたしの長着を持っておいで」

 櫂士はわずかに眉尻を下げたものの、異を唱えたりはしなかった。


 真紅の長襦袢ながじゅばん。身丈と着丈が同じ長さの漆黒の長着。腰に幾重にも巻きつけて後ろで結んだ、金銀の絹糸を丸組みした縄帯。これが普段の千華の衣装だった。

「これが一番楽でいい」

 着替えが終わって定位置に腰を落ち着かせると、ようやく千華の口元にいつもの弧が戻った。

 そんな千華のそばに控えた櫂士も、日課であるせりふを口にする。

「千華さん、今のご気分は?」

 そんな櫂士を流し目で見た千華は、反対側の庭へと顔を向けた。

 ややあって。

「お前に任せるよ」

 返事があったことで安堵したのか、櫂士はほっとしたように息を吐き出すと絵筆を取った。


   ◇ ◇ ◇


 適度に日当たりや風通しがあって過ごしやすく、また庭の眺めもいい。そこが千華の席だった。

 いつものように柱にもたれ、千華は扇子を弄びながら、時折風を起こす。

 今手にしている夏扇の模様は、蛍袋ほたるぶくろ。花詞は『忠誠を尽くす心』。

 ふいに千華は、その花柄の隅に添えられた小さな花押かおうを眺めて苦く笑った。

 普段の櫂士は、千華の気分を訊ねることによって、機微をうがったり、顔に表れたそうをよんだりしている。その結果を花詞から選んだ花で示していた。

 しかし、ごくまれに櫂士自身の意思で花を選ぶこともある。その際に限り、櫂士の自署代わりの花押を書き記して、他と区別していた。

 櫂士がなぜこの花を選んだのか。花詞を知れば、おおよその見当はつく。

「気にする必要など、どこにもないというのに」

 相変わらず不器用なやつだ、と再度千華が苦笑をこぼしたとき、庭の草木が大きく騒ぎ始めた。

 目隠しを兼ねて、道との境となる庭の端のほうには背の高い草木を植えている。その草木を掻き分けながら、何者かが千華の方へと向かってきていた。

 そんな進入の仕方をする訪問者は、どう考えても不審者であり、警戒するのが普通だろう。だが千華は、一瞬片眉を持ち上げただけで済ませた。その後は何食わぬ顔をしながら優雅な仕草でもって自身を扇ぎ始めた。

 代わりにその様子を注視しているのは、音が発生するや否や即座に現れた櫂士だった。

「千華さん。これは、お迎えする予定の例のお客様でしょうか?」

「たぶんそうだろうね」

 千華は薄い微笑を浮かべてさらりと返した。けれどそんな表情おもてに反して胸中では、どんな客が現れるのかと、その登場を待ち焦がれているといっても過言ではないほどに心を躍らせていた。

 ここは隠れ里。客など滅多に来るものではないのだ。楽しまずにいられようか。

 そんな千華と、ガザガザとざわめく草木を交互に眺めた櫂士は、口元に指を当てて考える素振りをみせるも、すぐに手を下ろして千華に向き直った。

「それでは私はお茶の用意をして参ります」

「ああ、頼んだよ」

 櫂士が奥へと消えるのと入れ違いに、ようやく草木の壁を潜り抜けた客がその正体をあらわにした。

 客の姿を見た千華は、相手に聞こえないくらいの音量で「おや」と呟いた。

 人――のようだが、人間ではない。

 なぜなら、客のおかっぱ頭には狸の耳がついており、お尻からは狐の尻尾が生えていたからだ。

 千華はパチリと音を立てて扇子を閉じた。

「お前、子狐狸ここりかい?」

 確信をもって掛けられた千華の問いを受けて、客――子狐狸は目を丸くした。

「なんで分かったの?」

「出てるよ」

 千華は、扇子で子狐狸の耳と尻尾を指し示した。

「うそっ!」

 顔を真っ赤にして、今更でありながら、それでも何とか隠そうと足掻く子狐狸の様子に、千華はこらえきれずに吹き出した。

 広げた扇子で顔を隠し、腹を抱えて。

 そうして千華は、すぐ側にあった鏡へと視線を向けた。鏡面に映る子狐狸は、困惑の混じる顔をさらに赤らめて固まっていた。その姿を見つめて、千華は柔らかく目を細めたのだった。


「ねぇ……」

 子狐狸の正体を知っても、千華の眼差しに蔑みの色はいっこうに滲まなかった。その姿と名前から、妖狐と妖狸の間に生まれた妖怪であることなど一目瞭然だったにもかかわらず。

 だが千華にとってその事実は、単に正体や素性を示すこと以外にはなんら意味を持たなかった。

 異種族間で子を儲けたから何だというのだろう。ましてや親を選べぬ子供には、なおさら罪はない。それが千華の持論だったからだ。

 とはいえ初対面の子狐狸に千華の考えがわかるはずもない。ましてや千華の態度が、子狐狸にとって初めて目にするものであればなおさらだ。

 通常、相手が人間であれば、妖怪というただそれだけの理由で嫌悪や恐怖の対象とされるものだ。だが子狐狸の場合はそれだけでなく、本来であれば仲間である妖怪から――中でも特に、身内ともいえる妖狐や妖狸から疎まれ、蔑まれ続けてきたはずだ。

 だからこそ、ただひたすら子狐狸の仕草に対してのみ反応して楽しそうに笑い転げる千華の態度は、不思議で仕方がなかったのだろう。最初はおっかなびっくりで声を掛け、千華の澄んだ琥珀の瞳に促されると、意を決したように唾を飲み込んで口を開いた。

「おねえさんは私が怖くないの?」

「怖い? かわいらしいお嬢ちゃんにしか見えないお前さんの、いったい何を怖がれというんだい?」

 子狐狸は信じられないものを見たというように、目をパチパチと瞬いた。

「私は見てのとおり、妖怪だよ。それでも?」

 すでに開き直ったのか、耳や尻尾を隠そうとしていた両腕を広げて、子狐狸は小首を傾げた。

 それを受けて、千華は「あははは」と高笑いした。

「お嬢ちゃんは、ここがどこだか分かっていないのかい?」

「ここ? 里でしょ?」

「ああ、そうさ。確かに里には違いない。だが『人里』じゃあない」

「え?」

 意味が分からなくて呆ける子狐狸に向けて、千華はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。

「この里は、妖怪のための隠れ里。だがら、ここには妖怪以外はいないよ」

 直後、「ええ――!?」という子狐狸の絶叫が木霊こだました。

「え? うそ! だって、おねえさんは変な臭いもしないし、人間にしか見えないよ!」

「臭い?」

「そう! おねえさんはぜんぜん妖怪臭くないの」

「それはあたしが獣系の妖怪ではないからじゃあないのか?」

 子狐狸は腕を組んで首を傾げた。

「ん……、それは関係なかったと思うけど……。ちなみにおねえさんは何の妖怪なの?」

「あたしは――」

 そのとき櫂士がお茶を持ってやってきた。

 それをチラリと横目で見やった千華は、広げた扇子を顔の近くまで持ち上げた。

「あたしらは、付喪神つくもがみだよ。あたしが扇の付喪神で、そっちの櫂士が絵筆の付喪神さ」

 クン、と子狐狸が鼻を鳴らした。

「おにいさんだったら、すっごく薄いけど確かに妖怪の臭いがするわ。しないのはおねえさんだけ。どうして?」

 茶のしたくをこれ幸いと、何気なさを装って視線を逸らせた櫂士に反して、千華はくすくすと楽しそうに、それでいてあでやかに笑った。

「それはね。美しいあたしには、臭いすら無粋と気づいて自ら消えていったからさ」

 子狐狸は口をぽかんと開けて、あきれを含んだ眼差しを千華に向けた。けれどもそれはほんのわずかな時間だけで、あまりにも堂々と言い切ったその態度に、張っていた気も抜けて、初めは吹き出すようにして、そして徐々に大口を開けて子供らしく笑った。


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