カレイドスコープにさよなら
今日の客は三人だった。一人は童謡、もう一人は演歌のCDを買っていって、最後に来た一人は店内をつまらなそうに物色して帰っていった。去り際に顔を睨まれた気もするが知ったこっちゃない。目当ての品があるなら、こんな個人経営のCD店ではなくてチェーンの有名店にでも行けばいいのだ。
「なあ権田、時間来たから帰っていい?」
店の奥、居住スペースになっている場所にいる権田に呼びかけると彼はひょっこりと顔を出した。伸びた前髪が目にかかっている。
「ああいいぞお疲れさん。シャッターだけ閉めてってくれ」
「あれ、おれ届かないんだって毎回言ってるだろ。お前が自分でやれ」
最近は適当なガレージのシャッターだって自動だというのに、この店ときたら未だに手動なのだから恐れ入る。ただまあ客の入りを考えればそれも当然だろうな、と思いつつエプロンを脱ぎ捨て、そのまま出ていこうとすると権田に呼び止められた。
「朝灯、お前明日のシフト何時からだっけか」
「明日なら夕方から終わりまでだったと思うけど」
「だよな。悪いんだけど朝からとかだめか?」
「別にいいけど。むしろこんな閑古鳥が鳴いてるような状態でバイトのシフト増やして大丈夫なのかよ」
おれの親切心から来る疑問にも答えず、「そうか、助かる」と言った彼の表情は、断ったわけでもないのに複雑に歪んでいた。あまりにも客が来ないせいでついに気が触れてしまったのか、はたまた自分が店番をしていると客がより一層来なくなることにでも気づいたのか。どちらにせよ収入が増えるのはありがたいことだったので気にしないでおこう。
節約の為といくつか蛍光灯をはずしていて薄暗い店を出ると、すがすがしい解放感があった。もうすっかり暗くなっているというのにまだ蒸し暑く、歩くとゆっくりと毛穴が開いて汗が染みだしてくるような感覚はあるが冷房の効いた部屋のなんとも言い難い不快さと比べれば随分ましに思える。
ゆるやかな下り坂を過ぎて右に曲がると廃れた商店街に差し掛かる。いわゆる駅前商店街というやつなのだけれど、昔と比べて半分程度の店しか開いていない。そのせいなのか街灯もまばらにしか点いておらず、裏道を一人で歩くのとなんら変わらない不気味さがあった。
それにしたって今日は一段と人が少ないなあ。夜になると駅横にあるコンビニしか営業していないとはいえ、普段ならいくらか帰宅する人の群れができているのに。この辺りで一軒しかない居酒屋を通りがけに覗いてみても客の姿はなく、店員が暇そうにテレビを見ているだけだ。
ほとんど人とすれ違わないまま商店街を抜けると街灯はより少なくなる。代わりにというか、立ち並ぶ家々から明かりが漏れ出して煌煌と夜空に輝いていた。この明かりの数だけ人がいるのだと思うと、なんだか監視されているようで居心地が悪い。おれはそれらを見ないように深くフードを被り、上を向いて歩く。月がきれいだった。そういえば今日はブルームーンとかニュースで言ってたっけ、みなさんお行儀よく家の窓から月でも眺めてるのかな。だから人通りも少なかったのかもしれない。
途中自販機で缶コーヒーを二本買って帰宅する。周りの家には灯っていた明かりが自分の家にだけついていないのはどうにも不自然だったが、誰もいないのだから仕方ない。明かりを点けたまま家を出ようにも、この時期の電気代を考えればそんなこと絶対にしたくなかった。
「ただいま」
手に持った缶コーヒーを一本、仏壇に供えて手を合わせる。今日も平和でした、ありがとう父さん。心の中でお礼を言って、自分のぶんのコーヒーを飲む。微糖ではあるけど、おれには苦くて好きになれない。結局いつも通り半分ほど飲んで残りは捨てた。
仏壇の写真の中で父はギターを携えてやさしく微笑んでいて、おれはその傍らでおもちゃのギターを持って座っている。たぶん五歳くらいだったと思うけれどこの頃にはもう母さんは亡くなっていたから、この写真はお店で撮ってもらったものだ。写真に興味のない父さんとおれは記録としても写真を残すことは全く、唯一まともな写真として残されていたのがこれだった。
思えば、父の存在した痕跡として残っているものはもうこの写真だけなのかもしれない。
父が死んだと知ったのはちょうど二年前の今頃、おれが受験勉強の合間にこっそりとギターを弾いていたときだった。突然家の扉が開けられたと思ったら汗まみれの権田が転がり込んできて父さんが死んだ、なんて言われたものだからなに事かと思ったのを覚えている。権田は夏だと言うのに黒のチノパンとTシャツ姿だったから暑さにやられて妄言でもはいているのだなといなして帰すと、すぐさま警察が来て本当だったのだと知った。
自殺だと告げられて「はあ、そうですか」と答えると、彼らは怪訝な顔をしながらも図々しく家に押し入って、父さんの痕跡をまとめて持ち去って消えた。今にして思えば遺族に配慮のかけらもない、あまりにも理不尽な行為だし当時の自分をしっかりしろ、と叱責してやりたいものだが仕方ない。人間だもの。高性能パソコンだって大きな負荷を与えればフリーズしてしまうのと同じで、そのときのおれも自分の処理能力を越えた情報を与えられてどうしようもなかったのだ。
そんなわけで父さんの使っていたギターなどの音楽機材も、パソコンも、果てにはCDまで取り上げられて、家にはおれだけが残った。
自殺だとは言っていたけれどきっと殺されたんだろうな。缶をゆすぎながらぼんやりと考える。父さんの葬式に来たのはわずかな人数だった。身内葬ではないのに、親戚以外で来たのは権田さんと、あとはおれが名前を知らない数人だけ。
別に父さんは犯罪者なんかではなかった。ああいや、世間一般からしたら犯罪者なのか、政府が『不健全』だと指定したロックをやっていたから。禁止されたことをしていたんだ。一般の見方としたら麻薬犯と変わらないのかもしれない。だけれど父さんは彼らのように暴力を振るうわけでもないし、ギターに触っていないと騒ぎ喚くなんてこともない、ただ純粋にロックを愛しているだけの人だった。愛しているが故に殺された。父さんも父さんだ、あんなものに執着するのが悪い。さっさとロックもギターも手放して、これまでの印税でゆったり隠居生活でも楽しんでいたらよかったんだ。
ああ、父さんのことを考えるのはやめよう。これこそ不健全だ。こんなことを考えていたら身体の内側から父さんに支配されて、次にはおれが殺されてしまうかもしれない。
なにか食べるものはあったかなと冷蔵庫を覗くと一昨日買ったまま食べていなかった弁当が出てきた。皿へ移し替えるのも面倒でそのままレンジにかけると、歪んでどろどろになった容器が出来上がる。ミートボールには芯まで熱が通っていなくて、しかも咀嚼するたびにこりこりと軟骨の食感が気持ち悪い。半分ほど食べたところで気分が悪くなったので残りを冷蔵庫に戻して、そのままソファに倒れ込んだ。
明日は朝からって言われてたっけ、ならシャワーは明日の朝でいいや。歯磨きも明日でいいかな、今まで虫歯にはなったことないし。
冷房を二時間後に切れるようにセットする。少しすると部屋は冷蔵庫の中みたいに冷え切って、それに対抗するために身体を丸め、フードを被って眠りについた。
熱いシャワーによって解凍されると、まだ胃の中に冷たいものが残っているような気がした。もちろんそんなものは残ってはいないだろうし、錯覚なのだろうけれど。
簡単に身だしなみを整えてから家を出る。朝食は食べる気にならなかった。
今日もまだまだ暑いというのに歩いているのはスーツ姿ばかりで、半袖ジーパンにキャスケット帽のおれが異端のようだ。すれ違いざまに彼らの顔を盗み見ると、誰も彼も死人のような目をしていて、いくらスーツが標準だといっても同情してしまう。
滴る汗を手で拭い拭い歩いてパン屋の角を曲がると、先にあるバイト先の前に白いワゴン車が停まっているのが目に入った。まだ店の営業時間には早いし、商品の納入は基本的に夜だから違うだろう。そうなるとあれは権田の知り合いかなにかかな、と推測しつつゆっくり近づくと店内から権田が出てきた。修行でもしているのか知らないがこの炎天下で上下黒のシャツにスキニーを合わせている。普段あまり外に出ていないせいだろう、真っ白い肌に日が反射して眩しい。中途半端に伸びた髪と大柄な体格も相まって、その後ろ姿はマリリン・マンソンのようだ。
「うっす権田。今日って納入あったっけ、なにこのワゴン」
大きな背中がぐるりと回ってこちらを向く。
「朝灯か、早いな。今日納入のものはないぞ、そんなにポンポン新譜が出るような時代でもないしな。ワゴンは俺の知り合いが乗ってきただけだ」
「おお、やっぱり。それじゃあおれはいつも通り店番してりゃいいのか?」
言いながらすでにシャッターの上げられた店内に目をやる。中には男が二人、それぞれ背中にギターケースを背負ってこちらに向かってきていた。
「翔一さん、もう積み込んじゃっていいですか?」
「そうしてくれ」
翔一さんと呼ばれた権田が答えた。先を歩いていた男はワゴンのトランクにケースを積み込んでから運転席に座る。
「え、それなに、ギター積み込んでんの? 不味いって、積むのはいいけどもっと慎重にやらなきゃばれたらどうするのさ!」
「誰かに見られたってなにも言われやしないさ。みんな面倒ごとなんてごめんだろう」
でも、と続けようとしたところで、店内から出てきたもう一人の男の顔に思わずぎょっとした。金髪のオールバックに、右目を覆う星形のタトゥ。これがニューロティカのようなピエロメイクならまだ親しみも持てただろうに、青黒いそのタトゥは町中にあるものとしてはあまりに異質だった。
顔に墨を入れるだなんて、きっと想像もできないくらい痛いんだろうなあと考えていると、どうにも目の前の彼が実在していないように思えてきてしまう。突拍子もない出来事を描いている映画のを見ているような気分だ。彫られた部分とそうでない部分とではやっぱり段差があるのだろうか、好奇心からまじまじと顔を見つめていると彼と目があった。途端に現実なのだと認識させられる。
「君、もしかして日向さんの身内さんっすか?」
人は見た目に寄らないだとか事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもので、随分とフランクな調子で彼は話しかけてきた。
「日向さん……丈二のことなら父なのでそうっすね。どうも、日向朝灯っす」
「やっぱりそうっすか!」
彼は子供のような笑顔を見せると背負っていたケースをその場に降ろしてずんずんと距離を詰めてくる。それに合わせておれは下がる。それを受けて彼ははっとしたように後退して、おれはその分前進した。花一匁をやりたいわけではないのだけれど、いきなり近づかれて反射的にそんな動きになってしまった。
「なにやってんだ、ばか。さっさと荷物積んで車乗ってろ」
「あっ、権田さん。うっす、失礼するっす」
権田が不機嫌そうにそう言うと、彼もそれを察したのか機敏な動きでケースを持っていった。
「悪いやつではないんだけどな。普段から落ち着きないのが、出所したばかりだからか余計に騒がしいんだ」
「出所って、捕まってたのか」
「そうだな。二年前に逃げ遅れたんだ」
二年前と聞いた瞬間、嫌な汗が背中を伝った。
「ああそうだ今日のバイトの話、あれ嘘な。今日は店開けない」
「じゃあなんで呼んだんだよ」
口にしてからしまったと思った。誘導尋問に引っ掛かるマヌケと同じことをしてしまった。焦って目を逸らすと、さっきのタトゥはいつの間にやら助手席に乗り込んでこちらを窺っている。その視線はおれに向いたり権田に向いたり、不意打ちのように前方を見やったりと実に忙しなく、まるで誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のような動きだった。
自分の勘が鈍いと思ったことは一度もない。次に権田が言ってくるであろうこともおおよその予測はついている。きっと一緒に来てほしい、とでも言うのだろう。ただしそこまで予測できたとしたも、実際にそれを活かすことができるわけではない。実際に今、脳内では行かない理由を考えているけれど、その思考はタトゥの視線と同じく定まることはなかった。
「一緒に来てもらうためだ」
「行かない」
「なら力づくで連れていくだけだ。ワゴンに乗せればいいだけだからな、身体の小さいお前くらいなら俺一人でお釣りがくる」
権田は両手の関節を鳴らして、身体ごと覆いかぶさるように圧力をかけてくる。冗談じゃない。こんなのに掴まれたらおれの弱弱しい腕など粉々にされてしまう。無条件降伏の選択肢以外ないじゃないか。目で必死に行かない意思を示したが、逆に睨み返された。
「ほら、乗れ」
ワゴン後部座席のドアが開けられる。扉の脇には権田がどっしりと腕を広げて構えていて、どこかで見覚えがあると思ったら罪人がパトカーで連行されるときの画によく似ている。
観念して渋々乗り込むとおれの後に権田も続き、扉が閉まると同時にワゴンは発進した。
車内はまだ卸したて、というような独特の匂いがエアコンによって循環している。運転している大人しげな男性に許可を取ってから窓を少し開けたが、蒸した外気と車内の冷気が混ざってぬるくなったものが顔のあたりに漂うのですぐに閉めた。
「どこに行くんだよ」
と、権田に問うと
「そんなに離れた場所じゃない」
と曖昧な答えが返ってきた。
町並は若干ではあるが都心の方に近づいているようなので、都外に出ることはないのだろうか。フロントガラス越しに案内標識を探したが見当たらない。根気強くしばらくの間探してみたが、どうも意図的に路地を通っているようで標識が見つかることはなかった。
「そんなに不安がらなくても怪しい場所に連れてこうとなんてしてない。ただ、お前の父親がどういうことをやっていたのか、それを見てほしいだけだ」
荒っぽいやり方で車に連れ込んだ男はおれを見ずにそう言った。父さんが死ぬ間際どんなことをしていたかだなんて、自分が一番よく知っている。ただ一人の肉親を家に残し、ギター片手に手になんのためにか全国行脚していただけだ。どうせ自分の大好きなロックをこっそりと弾きまわっていたんだろう。それがばれて、殺されてしまったんだ。
そのあとは時折タトゥが落ち着きなく車内を見回したり頭を揺らすだけで、誰も口を開くことなくワゴンは進んでいった。
「ここだ」
ワゴンが行き着いたのは懐かしい雰囲気のある、悪く言えば活気に欠ける商店街の前だった。権田が扉を開けて降り、彼の知り合いだという二人もそれに続く。それを見届けてからおれもワゴンを降りた。
商店街は古臭いというのにそれに繋がる道路は濡れたように黒く、どうも最近舗装し直されたらしい。ワゴンの前輪脇には蝉が一匹空を見上げていた。蝉はその四割近くが生涯童貞らしいが彼はどうだったのだろう。いやそもそも雄だともわかっていないのにそう考えるのは失礼だろうか。そう思いしゃがみ込んでまじまじと蝉を観察してみるものの、雄なのか雌なのかはわからなかった。
「どこ見てんだよ。こっちだこっち」
立ち上がり、声の方へ顔を向けると権田が呆れ顔で待っていた。その後ろにはコンクリートの打ちっぱなしで作られたモダンなデザインの、しかしどこか精彩を欠いた建物が控えていた。それは辺りの家と比べると妙に大きく、なぜか一階部分以外に窓がない。刑務所を連想させるような見た目だけれど、本当に刑務所だったりしないだろうな。
「見るからに怪しいんだけど、大丈夫なんだよな?」
「大丈夫に決まってんだろ。ほら見ろ、一階は喫茶店だ」
権田に続いて中に入ると、外装とは一転してシックな雰囲気の店内が広がっていた。明るさを抑えた照明に、ブラウンのテーブルが照らされている。壁際にはインテリアなのか趣味なのか、洋書が並ぶ本棚もあった。黒く塗られた床の先にはカウンターがあり、その奥にはいくらかのワイン瓶。落ち着いた喫茶店、というよりも上品なバーという様相だ。
「いやいや、おれこんなとこ似合わねえよ。外で待ってるからさ、終わったら呼んでくれ」
「呼ぶなら結局店の中入ることになるぞ?」
「じゃあ終わったら出てきてくれ」
「それじゃ連れてきた意味ないだろうが。すべこべ言わずさっさと来い」
据わりが悪くなってすっかり及び腰になっていたおれの手を掴み、権田はカウンターに向かって歩いていく。抵抗する気は手を掴まれた瞬間に霧散した。腕相撲するときに手を組んだ段階で勝てないなって瞬時に理解することあるだろ? あれと同じだ。
先にもう座っていた二人の横に並んで、ようやくおれの手は解放された。足長の椅子に軽く座る。カウンター内には誰もおらず、不用心な店だなあと磨かれたカップを眺めて思っていると突然がしゃんと音がした。
タトゥがものを弄って落としたのかと思ったが違うらしい。おれから見て右手奥、照明があまり当たらない壁に隠されたように存在していた扉の前には、一人の男性がいた。
「おお早かったね。久しぶり、権田くん。元気だったかね」
「はい、お久しぶりです。石神さんもお変わりないようで」
「変わりなくはないさ。最近じゃ二週に一回は染め直しが必要なくらい白髪が増えてね。思い切って坊主にしちまった」
ほら、という具合に丸めたという頭をこちらに向けてくる。照明がきれてに反射して、頭の形がいいことがわかった。
石神さんはゆっくりと歩いておれたちの前に来た。それなりに歳はとっているようだったが、紺色のアロハから覗くがっしりとした腕は日に焼けて艶があり、快活な人物だということがわかる。南方の血が混じっているのか彫りの深い顔立ちと風貌はゲーリー・グッドリッジを想起させた。
この人、飲食の経営には向いていないんじゃなかろうか。見慣れてしまえば、というか一度話す調子をその目で確かめれば怖くはないのだけれど、いかんせん見た目がよろしくない。格闘技の選手みたいな体格のおじさんが経営している薄暗い喫茶店だなんて、怪しくて入れやしなかろう。捕食されに行くようなものだ。
「そちらは?」
石神さんの視線がおれに向く。思わず背筋が伸びた。
「こいつは朝灯です。日向さんのとこの……」
「そうか君が……。話は聞いているよ、惜しい人を亡くした。よければ今度挨拶しに伺ってもいいかい」
「はあ、父も喜ぶと思います」
父さんとどういう関係だったのかは気になったが、それを訊ねようとしたところで石神さんは棚からバランタインを取り出し、人数分のグラスに注ぎはじめた。それぞれの前にグラスが置かれる。
「せっかくこうして会えたんだ、一杯だけどうだい」
お酒弱いのでいらないです。とは言えるはずもなく、小さく声をそろえてから口をつけた。わずかに啜っただけだというのに喉の奥が熱くなる。ストレートにもかかわらず一息に飲み干したタトゥは低く呻いた後、よろよろと店の外に出ていった。
「なあ、まだ聞けてないんだけどおれがここに連れて来られた理由ってなんなんだ」
「言っただろ、日向さんがやってたことを知ってほしいって」
「そのやってたことを知りたいんだけど」
グラスを傾けていた権田は困惑した顔を見せた。
「もしかして、日向さん言ってなかったのか。自分がライブして回ってること」
「ギター持って出歩いてるのは知ってたけど、そんなことしてたのか。どうりで」
殺されるわけだ、という言葉は飲み込んだ。いやいやそうではない。いま大切なのは父さんがやっていたことではなくて、これから権田たちがやろうとしていることだろう。
「なあ、じゃあもしかしてこれからライブ、やるのか?」
「ああ」
返ってきた答えに酒で熱くなっていた喉も、ぐつぐつと煮えるような熱があった胃も、途端に怯えて縮こまる。
「やめとけよ。禁止されてるんだぞ。ロックも、ライブも。だいたい場所が、ハコがないじゃないか。どこでやるんだよそんなもん」
「それなら準備してあるさ」
黙って聞いていた石神さんが口を挟む。口角がわずかに上がってしたり顔をしているのが無性に気に障った。
「この上な、ライブハウスなんだ。すごいだろう、それなりに立派なハコなんだぞ。おかげでひっそり作るのに四年もかかったんだ、四年も」
豪快にがははと笑う石神さんに、おれは唖然としてしまった。四年もかけてライブハウスをつくる? ライブが禁止されているとはいえライブハウスの所有までも禁じられているわけではないが、使い道のないハコを好き好んで持とうとする人がいるものなのか。それにこのご時世だ。ハコを作りたいだなんてその辺の業者に持ち込めば、それだけで警察に目を付けかねられない。ならば一人で、もしくは信頼のおける知人と数人で作ったのだろうか。にわかには信じがたいことだ。
石神さんはよっぽどそのことを人に話したかったのか、まだ一人で滔々と話し続けている。
「さあ準備もあるんだ、さっそくハコに上がろうじゃないか。それにしても、会話を聞いていると君と権田くんは本当に仲がいいことが伝わってきて羨ましいよ。話し方までそっくりじゃないか。日向さんの家で育ったんだ、きっとギターもできるんだろう? なんなら今日このあと見てるだけじゃなく弾いてくれたっていいんだぞ。なんせ私ももう歳でね、久々の演奏だし一曲通して立っていられるか不安なんだよ。ああ、でもついに私のハコが使えるのか。楽しみだ、実に楽しみだよ」
「なあ、やっぱやめた方がいいって」
石神さんが出てきた階段を上ると、そこは二階と三階部分が吹き抜けになっている空間になっていた。壁には上まで隙間なく防音材が張り付けてあり、ハコ前方には大きなメインスピーカーが二台、ステージ上にもギターとベース用らしきアンプが二台にモニタースピーカーが四台設置されており、なるほど立派なハコだった。
「やめる理由がない」
「あるだろ、禁止されてんだぞ」
「知ってる。でもその理由は? 不健全って、なにがどうして不健全なんだよ」
「それはわからないけど……。でもロックを聞いて自殺する人まで出てきたから禁止になったんだろ?」
「そんなバカ、死んで当然だ」
権田はいくら言っても、準備する手を止めようとはしない。こうして会話している最中も意識はおれではなく、手元のエフェクターの調整と接続を確認する方へ注がれている。権田かこのライブにかける気概はそれだけで十分に伝わってくるし、できることならば成功してほしいとも思う。だけれどそうはならない確信のようなものがおれの中には渦巻いていて、止めなければならないという使命感が焦りを駆り立てる。
「ならそうだよ、肝心の客がいないじゃないか。誰もいないのにライブなんてしないだろ? まさか、おれが客だなんてあほらしいことは言わないよな」
「お客さんならここにはいない。でも大勢いるんだよ」
そう、後ろから石神さんの声がした。権田に準備を押し付け、下の喫茶店の店番に戻っていた石神さんが、なぜこのタイミングで戻ってくるんだ。誰も来ない喫茶店で空き店の恵比寿になっていてくれればいいものを。つくづく疫病神みたいな人だな、と思い自分でもわかるほど冷たい目線をやる。石神さんは困ったようにその分厚い身体の肩を竦めて、胸ポケットからリモコンのようなものを取り出した。
「店の前の道を行くと商店街に続いていただろう。あの商店街、成立こそだいぶ昔のことでいまは薄汚れてるけれどね、規模は割と大きいんだ」
「それとライブとどう関係が?」
棘のある言葉だなと思ったが、石神さんは気にしていないようでリモコンを弄んでいる。
「そこでこれなんだよ。このリモコン、あの商店街中の街頭路に取り付けられたスピーカーと繋がっていてね。ボタンを押すだけでこのハコに設置してあるマイクが拾った音を勝手にスピーカーから流してくれる。すごいだろう、それを聞く人の誰もが観客になるんだ。どうだい、試しにやってみるかい?」
「石神さん、冗談でもそんなことしないでくれ。失敗だけはできないんだ」
調整を終えていた権田が石神さんを諌めてくれる。ハコの内装費に機材費、それに加えてスピーカーまで使えるようにしてある行動力には恐れ入ったけれど、どうにも掴みどころのないこの人の性格は好きになれそうにない。ステージから下りてきた権田の影に隠れるように後ずさると石神さんが軽く笑い、その声は響くことなくハコに吸収されてた。
それにしても、街路灯のスピーカーだって? そんなものライブなんてものでは済まない、テロじゃないか。せいぜいこのハコの中だけで終わる話だと思っていたら、どうも事態は想像しているよりもずっと大きかった。
胃がきりきりする。気道はを直接鷲掴みされているような感じがして気持ち悪い。こんなことを父さんがやっていた事実も、それを受け継いでいこうとしている現実も、吐瀉物を巻き散らかし隠してなかったことにしてしまいたくてたまらなかった。
「だめだ、そんなのだめだって。絶対にばれる。ばれて捕まってひどい目に合うに決まってる。父さんのやってたことはわかった。だからもうそれでいいだろ、やめよう。帰ろう」
「帰らない」
「どうして!」
「こうしてライブをするのは日向さんが亡くなってから初めてでな。これは俺にとっての狼煙で、手向けなんだ」
権田の手は見ていて痛いほどに強く握られている。思えば父さんの死を一番に教えてくれたのは権田だった。きっとあの日父さんと権田は一緒にいて、だからそのときあった事のことも全て知っていて、いまに繋がっているんだ。沈思するような彼の顔は雄弁にそのことを物語っており、だからおれは言葉に詰まってしまう。
おれが考えて怯えていることよりも遥かに恐ろしい経験をしてきたであろう人がそれを乗り越え、戦おうとするのを邪魔してもよいのだろうか。逃げ続ける人間が立ち向かおうとする意思を、遮っていいものなのか。
「そんなこと言われたって、おれは。おれにだって」
言葉は出てきそうにない。頭の中がシェイカーにかけられているようにどろどろする。思考を止めたらそのシェイカーも止まって、ミンチにされた内容物が顔中の穴から垂れ流れてしまいそうだ。
傍からしたら、全くを持って惨めな状況なのだろうな。自分でもそう思う。子供が駄々を捏ねているのと、なんら変わりないのだから。
拗ねたように黙っていたって権田を止める方法は出てこない。そもそも、おれなんかの言葉が届くとも、いまは思えない。もうどうすればいいのかしらん。
決まりが悪くてステージの方に目をやると、準備を終えた楽器たちが横たわっている。ああそうか、それなら子供らしく振舞ってしまえばいいんだ。言葉がだめならば、実力行使しかあるまい。
そう思うが早いかおれはステージへ駆け出す。不意を突かれた権田たちはおれがステージに上がって、ようやくその意図に気づいたようだった。もう遅いよ、ごめんね権田。
おれは置かれていたエレキギターをシールドも抜かないまま大きく振りかぶり、叩きつけようと振り下ろした瞬間、鮮烈な赤が目に飛び込んできた。慌てて腕にブレーキをかけて床との衝突を避けると改めてそのギターを確認する。フェンダーの赤いストラトで、ピックガードには見覚えのある傷がついている。
間違いなく、二年前おれが権田に預けたギターだった。
「これ、おれのストラト?」
と追いついた権田に訊ねると怒ることもせずそうだ、と答えられた。あるいは、おれがこのギターを壊せないことをわかっていたのかもしれない。落ち着いたその声音がやけに冷たく感じた。
「預かってたものだから持っていくか迷ったけどな。必要だろうと思ったんだ」
軽く右手で弦に触れる。スピーカーから聞こえる音からは念入りに調律されていることがわかった。ボディも自分で持っていた頃よりも艶があり、よく管理され大切にしてもらっていたのだろう。ずるいなあ権田は。こんなギター、壊せるわけないじゃないか。
「朝灯、よければ――」
「大変です!」
ステージ袖にあった扉が勢いよく開かれる。ワゴンの運転をしていた男だ。機材の搬入のためになのか、やや大きめに作られた扉の背後には空が広がっており、外へ繋がっているらしい。
「どうした溝口」
「辺りの見回りさせてた杉本が警察に捕まって、この場所ゲロりやがったみたいです。店の前に警察が二人」
「なんだと。あのばか、大人しくしてろって言ったのにこれか」
大人しく、というだけでそれがタトゥであろうことを察して頭を抱えたくなった。やばいと思ったんだあんなやつ。言わんこっちゃない。自分だけならいざ知らず、この場所を売っただなんて冗談もほどほどにしてくれ。全員の顔に焦りの色が浮かんだ。
「この下にワゴンを回してあります。すぐに逃げましょう」
「仕方ないか、わかった。お前と朝灯は先に行け。俺と石神さんはここで警察が来るのを確認してから逃げる」
溝口は頷いて外階段を駆け下りていった。
「朝灯も早く行け」
「お前はどうするんだよ権田。残る必要なんかない、みんなで逃げよう」
おれの言うことを無視して権田はミキサーの元へ向かう。石神さんもその傍らでリモコンを弄っていた。この期に及んで、まさかまだやる気でいるのだろうか。ステージ上の照明が一気に点灯され、まばゆい光がハコ全体に広まった。
「まだ警察が来ると決まったわけじゃない。だったら、準備だけはしておかないといかんだろ」
「来るに決まってる!」
いつ警察が乗り込んでくるのか気が気ではなく、ステージ袖に半身を隠して呼びかけるも権田たちは一向に動こうとしない。
そして案の定、後方の扉が激しく開かれた。
反射的に身を隠す。向こうの位置から裏口は見えていない、いまならまだ逃げ出せる。
「待て!」
権田たちのものではない声がして、恐怖から身がすくんでしまう。酷く無機質で感情のない声だった。床を蹴る音がして、自分がここにいることを悟られないためにしゃがみ込んで息を殺す。ほんの数秒のあと、全ての音が消えた。
どうなった? 権田は? 彼らはどこにいる? あらゆる疑問が目まぐるしく脳内に押し寄せてくる。息は殺しても殺しても湧き上がるように喉の奥から溢れてきて、この呼吸音が聞こえているのではないかと不安でならない。パーカーはこの一時で汗にまみれて肌にべったりと張り付いている。
「なにをしようとしていたか、言え」
「見た通りだ」
知らない声に権田が応じる。まだ無事なようで安心したけれど、ここからではさっぱり様子がわからない。かといって袖から顔を出すのも危険だし、どうしようかと天を仰ぐと壁に小さな窓がついているのを見つけた。音をたてないように立ち上がり、ゆっくりと窓を覗いてみるとどうやらマジックミラーらしかった。
サングラス越しのような視界で権田と石神さんを探すと、おれがいるステージ袖の反対側あたりで組み伏せられているのを見つけた。二人の警官が権田と石神を抑え込んでいるが、他に警官の姿は見つからない。
「ふん、生意気なこと言いやがるな。だがまあいい。確かに見ての通りだからな」
二人の警官は下品に笑った。見下し、嘲笑うというのが当てはまるであろうその姿はとても警察とは思えない。二年前家に押しかけてきたやつらと同じ嫌悪感がした。
「頭の悪いことをする。いや、頭が悪いからこんな音楽にハマるのかもな。まあいい、ないとは思うが一応義務なんでな。免許はあるか。車のじゃない、そこに堂々と置いてあるドラムやらギターやらの、だ」
「発行されないもんなんか、持てるわけない」
「なら、静かになってもらうしかないな」
乾いた音と鈍い音が同時に聞こえてくる。権田は後頭部を思い切り殴られていた。一度、二度とその行為は繰り返され、その横で石神さんがやめろと叫んでいる。見るに堪えない光景だった。
権田を助けるにはどうすればいい。臭いものに蓋をするように窓から目を背け、震える足を両手で必死に抑える。こうしている間にも権田は危険な目にあっているのに。悩む時間がないことなんてわかっている。一時凌ぎだけを考えるなら、おれがあいつらの前に飛び出せばいい。それだけで権田からは意識が逸らされる。
だけれどそんなことをしたら、おれはどうなる。父さんのようにされてしまうに違いない。だからだめだ。無策に飛び出してもなんの解決にもならない。
顔を上げると開かれたままの裏口があることを思い出した。距離にして五メートルも離れてはいない。静かにたどり着けば、いまならまだ充分に逃げ出せる。そうだよ、もともとこんなことに付き合う義理もないのだから、さっきの権田の言葉に甘えて逃げればいい。権田のことは、時間がたてばゆっくりと忘れていくんだ。そうすればいいのに、身体は動こうともしない。
「最後だろうし、参考程度に聞いといてやろう。どうしてライブなんてしようと思った。こんな失われていくものに価値などなかろう」
警官も疲れたのか、そう言う息は少々乱れていた。いまならなにかできるんじゃないか。前にも後ろにも動こうとしない身体を無視して顔だけをステージ方向へやる。なにか、なんでもいい、乾坤一擲の賭すためのなにかはないか。
「失われていくもの? そんなものじゃないさ。お前たちがこうして弾圧を続ける限りロックは死なない。そんなこともわからないお前たちのために、こうして知る機会を設けてやったんだ。感謝してほしいくらいだね」
少し先にドラムのスティックが転がっている。これを投げて気を逸らす? だめだ、焼け石に水どころの話ではない。そんなことをするならそのスティックを目にでも差し込んでやる方がまだ効果的だ。
焦るおれの視界端に、赤いものが映る。殴るのに使うならギターの方がいいだろう。強行しかないのかと諦めかけたとき、フェンダーにシールドが繋がったままなことがわかった。コードを目で追い、どこに接続されているかを確認する。そして震える足で窓から彼らの位置を知ると、もうこれしかない。
「なら弾圧をやめたら消えるってことか。それは簡単なことだな、次からの参考にさせてもらおう」
「弾圧が消えたってロックはなくなりやしないさ。人が訴えたい気持ちを持つ限りロックは存在し続ける。平和になってロックは死ぬんだ。だからお前たちが存在する限り、ロックは死にやしないね」
ステージ袖から飛び出す。自分のものじゃないみたいに動かない足を、力づくで引き上げるようにして前へ進む。あと四歩。警官がなにか叫んでいる。足がもつれてつんのめったけれど、もうそんなの関係ない距離だ。
前のめりに倒れていく中、思い切り右手を伸ばす。全身を衝撃が打ちつける。右手はしっかりと赤いフェンダーのネックを掴まえていた。
「動くな!」
慌てた警官が言う。起き上がって前方を見ると、思った通りの位置に彼らはいた。一体いくらするのか考えたくもない、大きな大きなメインスピーカーの、その前に。
妙に落ち着いた気持ちで、だけれど素早くギターを構える。その瞬間にはもう勝利を確信していて、見下ろしたかられの姿はやけに小さく見えた。なんだ、あんなものに怯えていたのかとうっすらと笑みすら浮かんできそうな気持ち。
いまのおれは、いや、私は。間違いなく無敵だ。
コードも抑えないままピックも持たず、ただ力いっぱい乱暴に、私は右手を振り下ろし、掻き鳴らす。
その音はマイクとミキサーを通して増幅され、めちゃくちゃで暴力的な爆音がハコに響き渡る。警官たちは目を白黒させてふらついていた。当たり前だ。メインスピーカーの前は、例えば大太鼓なんかよりもずっと、身体に響く音が鳴り渡るんだから。音響兵器の前に耳栓もせず無防備に立ってるようなもんだよ。場所が悪かったね、あとは頭も。
音が小さくなったところで、もう一度。より大きな音が鳴り響く。ステージの上にいてもシビれるくらい。誰も観客がいないのが惜しくなってしまう。弱気だった自分はハコを突き抜けて響くんじゃないかというくらいのこの音に乗って、どこかへ飛んで行った。
音圧に耐えきれずよろめく警官たちを権田が振り払ってステージに上ってきた。さすが、慣れてる人は耳が強い。石神さんも両手で耳を押さえながらよろよろとステージまでたどり着けたようだ。
「朝灯!」
かろうじて聞こえた権田の声に振り返ると、彼はぼこぼこに腫れて血の滴る顔のまま、ドラムでリズムを刻み始めている。それに合わせて私の隣では石神さんが、準備してあったベースを刻む。
なんの曲かはすぐにわかった。父さんがよく弾いていた、懐かしいフレーズ。世界で最も有名なパンクナンバー。ロンドンに集められた彼らが作ったその曲は、あまりに不健全で政府からすぐに放送禁止とされてしまった。いまの私たちのためにあるような曲じゃないか。
二人を追いかけて私もギターを鳴らすものの、二年間も弦に触っていなかったものだから指は痛いし、おまけにひっかかる。それでもなんとかついていくが、恥ずかしさで全身の血が沸騰したように暑くて仕方ない。
石神さんが近づいてくるのがわかったので顔を向けると、顎でボーカル用のマイクを指している。いやいや、この歌を私の声で歌うのは無理だろうと権田に助けを求めるが見向きもされない。石神さんにじりじりと詰められ、マイクの前に追い込まれる。
もう、どうにでもなってしまえ。手は止めず、息を吸い込み、歌いだす。
歌詞の意味は英語だから私にはよくわからないけれど、確かこんな場所に未来はないだとか、そんな内容だったと思う。たった二人の観客の耳はまだ聞こえているだろうか。まあ、聞こえていなくてもいいや。彼らは平衡感覚を失ったのか横たわってしまっているが、それでも目だけは私たちを睨んでいる。そんな彼らの身体の芯まで焼き尽くすために、いままでの自分を叩きのめすために、私は叫ぶように歌う。ギターを掻き鳴らす度に髪から汗が滴る。
ずっと、このときが終わらなければいいのに。そうすれば私は永遠に無敵だ。曲はもう最後のフレーズに差し掛かっている。終わってしまう。曲を止めてしまいたい衝動に駆られたが、指は動き続けて口も閉じられることはなく、私は歌いきった。権田のキレのいいドラムの音が響き、音が止む。途端に身体から力が抜けてしまって、私はその場にへたり込んだ。
「大丈夫か朝灯」
心配そうに権田が駆け寄ってきてくれる。
「大丈夫、だけど腰が抜けたみたい。立てないや」
「そうか、なら担いでくぞ。石神さんも、あいつらが寝てるうちに行きましょう」
私はギターからシールドを抜いて胸に抱く。
「私はまだここに残るよ。君たちは逃げなさい」
「だめですよ。たぶん、あまり時間はありませんから早く」
「気にしないでくれていいさ。捕まったって構わない。ただ、久しく味わっていなかったこの余韻を、できる限りここで感じていたいんだ」
石神さんは恍惚とした焦点の合わない目を客席に走らせながらそう言った。
「……わかりました。また、どこかで」
「ああ、またどこかでね」
私は権田に抱きかかえられてハコを出た。じゅわじゅわという蝉の鳴き声が、私たちの演奏への万雷の拍手に聞こえて心地よい。権田が歩く度に揺れる積乱雲を眺めつつそんなことを思っていると、いきなり投げ捨てられた。見えていた空が車の屋根に変わり、私はシートに墜落する。
「乱暴すぎない?」
「知るか。溝口、遅くなって悪かったな。出してくれ」
「はい!」
そうして一人乗員の少なくなったワゴンは走り出す。ついいままで耳が割けるほどの音の濁流にいたのに、一転してワゴンの中は静まり返っている。それは祭りのあとの静けさというのか、とにかく無性に寂しいなあと感じながらも、ワゴンはただ静かに町中を駆け抜けていった。
寝込みを襲われて捕まるんじゃないかと不安な夜を過ごしたけれど、そんなことは起きやしなかった。劇的に環境が変わることもなく、私はまた一日をバイトで終える。今日の客は六人だった。普段より少しだけ多い。
「ねえ権田、時間過ぎたけど帰っていい?」
奥にいる権田に呼びかけると、ぼこぼこになった顔を私に向けてきた。いつもなら無造作に前髪を垂らしているのに、今日に限ってゴムで括っている。傷を見せつけたいのだろうか。
「待て待て。ちょっとこっち来てみろ」
「はあ?」
「いいからほら」
また奥に引っ込んだ権田を追い、生活スペースとなっている部屋に入る。意外ときれいに整頓された和室に権田は胡坐をかいており、彼の視線を辿ると大きめのテレビがニュースを映し出している。
「なんのニュース?」
「なにってお前、ほらよく見ろ。見覚えあるだろ」
言われてよくよく見てみると、なにやら確かに見覚えがある建物が黄色い封鎖テープに覆われている。
「これ、石神さんの……」
画面が上に動き、窓のないコンクリートの建物の全貌が露わになる。間違えようもない、石神さんのハコだ。その建物が封鎖されているということは、やはり石神さんは捕まってしまったのだろう。
「心配ない」
私の不安に勘付いたのか権田はそう言うものの、アナウンサーは私の予想を裏付けるように石神さんが逮捕された事実を読み上げた。画面はそこで切り替わり、今度はなぜかICレコーダーが映される。右下の小窓でキャスターが神妙な顔もちでぼそぼそと話してから、記録された音声が流され始めた。
「これって、もしかして」
「ああ、声は加工してあるけど昨日ハコに入ってきた警察の野郎だな。石神さん、しっかりしてるよほんとに。このときからもうスピーカーに繋いでたんだ」
キャスターによるとこれは視聴者が録音したものらしい。私たちの歌は流されなかったが、街頭インタビューで歌が流れていたと答える人の様子が流されていた。
そして画面はスタジオに戻り、腕を組んで眉間に皺を寄せたおじさんが口を開く。この警察の対応は、問題になるでしょうね。情けない、言語道断です。まあ、石神さんも悪いんですけども。
その口ぶりは存外私たち寄りで、むしろ警察を非難するものだった。
「どっかの偉いそうな教授がこう言ってるんだ。石神さんもそんなにひどいことはされないさ」
「うん」
「ともあれ、これで朝灯もようやく吹っ切れて俺たちの仲間入りってわけだ」
安心してぼんやりと画面を見つめていた私は、あまりにも心外な言葉に憤慨する。誰がいつ仲間になってなったんだ。そもそもなんの仲間なんだ。
「なってない」
そう簡潔に述べると
「またまた」
と権田は意地悪く笑って私の手を見た。
昨日帰ってからこっそりとギターを弾いていたせいで、左手の指先には絆創膏が貼ってあるのに自分で気づき、狼狽えてしまう。とりあえず権田から見えないように左手は後ろに回した。
「まあなんだ、お前がこうして素直になった記念にジュースの一本でも奢ってやるよ。なにがいい?」
「いや、いいの?」
なにが、と権田は大儀そうに立ち上がってサンダルを履く。そんな顔で外に出ることになるのはいいの、という意味だったのだけれど通じてはいないようだ。
「そんでなにがいい、買ってきてやるよ」
つい癖でコーヒーと言いそうになるのを堪えて、考える。答えはすぐに出た。
「それじゃあ、とびっきり甘そうなカフェオレを」