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昭和鎮魂歌 後編  作者: 白洲一歩
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昭和時代の前半は「落日の時代」だった

「昭和時代」前半の特徴と本質を追及しました。

 五 妹、美智子の語る銃後の生活

 

 母に頼まれたので、銃後の生活について記録します。私なりに調べたり考えたりして書きましたが、こういう経験は初めてでとまどいました。

 当時の食事でスイトンやサツマイモはよく知られていますが、「のこぎりくず」から「(ねずみ)」までが食糧になったことをご存知ですか。

 日本国民の食糧不足は、ドイツ・ヒトラーが集団収容所の拘禁者に与えた食糧の量とほとんど変わらない、相当にひどいものであったようです。こういうことはしっかり書いておかないと後に残りませんね。

「頭の悪い指導者の中には、自分は上等の飯を食いながら、『前線では蝸牛(かたつむり)を食っている、銃後もよろしく蝸牛を食え』と言いかねない馬鹿があるから情けない」

 と、俳優の徳川無声さんが日記に書いたのは、昭和十九年七月十日だと兄の勝治が言っています。歴史家は次のように記しています。


 国民の多数が飢えに苦しんでいるのをしりめに、高級軍人・高級官僚・軍需工業経営者等の一部特権層は、「顔」の力で特別の闇ルートを持ち、連日のように赤坂・新橋等の花柳界で酒色にふけり、その家庭には一般国民の手にできない物資が山積するという状況を呈していた(※10)。


「高級軍人や高級官僚など特権階級が多少のぜいたくをしているのは日本ばかりではない。どこの国でも同様だよ。特に目くじらを立てるようなことではないだろう」

 父はそう言っていますが、どうなのでしょうか。

 昭和二十年七月三日、閣議は主要食糧の一割削減を決定し、配給基準量二合三勺を二合一勺に引き下げました。

「野菜のような自給し得るものは身近で自給してもらいたい。食糧の消費方法についても自分自身で十二分に工夫をこらす余地がある」

 鈴木貫太郎首相はそう国民に説きましたが、結局、食糧確保は「国民自身でやれ」ということですね。


「ラバウルの孤島によって自給生活を営んでいる皇軍の活躍を顧みれば、足りない、足りないではなくて工夫次第で克服せよ」 新聞もそう呼びかけていました(朝日新聞 七月五日)。

 『東京都食糧営団史』によると、配給のなかで米の占める比率は二十年六月にいたって急減していて、代わって大豆が急増しています。

 もはや、通常の食糧資源で間に合わないのは明らかで、このときから「未利用資源」の活用大キャンペーンが始まりました。

 そのキャンペーンでは、陸軍糧秣廠の提案には蝸牛こそ入っていないが、ネズミ・サナギと書いてあり、こうなると、一年前の徳川無声さんの予言は当たったことになります。

 厚生省内に置かれた戦時生活問題協議会の常務理事は

「米の配給が一割減ったからといってあわてる必要はない。未利用食糧資源を活用すれば相当程度栄養を補うことができると信ずる」

 とし、具体的には、どんぐり・甘藷の葉や(つる)・澱粉の絞り(かす)等の利用を呼びかけました。

 日本列島で飢えとの闘いが本格的に始まったのです。当時、大阪の食糧利用一覧として次のような記述があります。


 鋸屑(のこくず) 腐朽菌(ウスバタケ)により分解せしめたるのち粉末とし、小麦粉、米粉などに十%混入し蒲焼(かばやき)またはパンとする。

 (わら)籾殻(もみがら) 細断ののちさらに(うす)でひき微粉とし、水に浸し灰汁を除いて小麦粉その他に混じて食用とす。

 (さなぎ) そのまま佃煮となし粉類に混ぜ団子とする。

 (せみ)・バッタ (はね)を去り熱湯に入れて脱臭し、足をも除く。煮食、揚物、佃煮とする。

 (ねずみ) 味は小鳥肉のごとし。但し骨は人を痩せさせる性あるをもって避くべし。よく消毒して食用とする(※11)。


 この一覧を見ると、食糧事情は戦地とさほど変わらないひどい状態ではないでしょうか。人々は体中の肉が落ちて栄養失調でガリガリになり、向こうから光が当たると透けて見えそうな体になっていました。

 配給として隣組にきた野菜や魚を人数割りに班長さんが分け、我が家で作った野菜と近所の農家で分けてくれたものを足して、その日に手に入った野菜や魚で料理をします。

 家でも裏庭で、母がナスやキュウリなどのほか芋類やカボチャを作っていました。

 お米は玄米で来ますので一升瓶に入れて、棒でついて白いお米にして食べました。

 魚ではホッケがよく配給になりましたが、輸送にも時間がかかり、ぷんと鼻をつく(にお)いが嫌でしたが、ぜいたくは言えません。

 苦しい生活のさなか、父が出張先から持って来てくれた海苔(のり)や干魚は夢のようなぜいたくな食物でした。

 私は一九四五年(昭和二十年)三月、女子挺身隊の一員として、長岡市の軍需工場へ派遣されました。

 この前月の二月に、十日町に四二五センチもの大雪が積もってみんなが驚きましたからよく覚えています。

「食べ物が不自由と言っても前線にいる兵隊さんたちの苦労から見ればね、何でもないことよ」

「そうよね」

 こういう会話が合い言葉でした。

 女子挺身隊は法令によって創設された、十四歳以上二十五歳以下の女性による勤労奉仕団体で、軍需工場では銃身・軍服・靴下・手袋・人形等の慰問品など様々な物を作って戦地へ送っておりました。

 長岡での工場生活で少し経って慣れてくると、皆が楽しみを見いだすようになりました。

 何より主食の白飯が多目だったことがうれしかったのです。これは米どころ越後の工場だったためかもしれません。

「戦地の兵隊さんに悪いわー」

「私たちは恵まれているわね」

 挺身隊の仲間はこんな会話をしていました。

 米軍機による空襲の話をしておかねばなりません。

 前の年から北九州の軍事施設や軍需工場が爆撃されていましたが、二十年三月から大都市、それも住宅地を含めた場所への無差別爆撃が始まりました。焼夷弾による低空爆撃がこの爆撃の特徴でした。

 東京が大空襲でやられてひどい状態だというニュースが入ってまいりました。

「下町は全滅したそうよ」

「まるで、この世の光景じゃないっていうわね」

 三月十日、B29数百機が東京を襲い、江東地区が全滅、板橋・新宿・芝なども空襲を受けたそうです。

 火の手は折からの風にあおられて次々と燃え広がり、死者は十万人を超えたというのです。

 この日東京下町を中心に焼き尽くした米軍は、四月、五月と空襲を続け、無差別絨毯爆撃を徹底的に繰り返し、東京は一帯が焦土と化したそうです。

「これで、東京も終わりだね」

「この焼け野原では復興は無理でしょう」

 人々はそう思いました。

 余談になりますが、何と、このような焦土を手に入れるため東京や各地で土地を買い占めた人がいて、戦後インフレの地価上昇の波に乗り一大資産を作り上げたのだそうです。

 ドサクサにまぎれて抜け目なく大儲けをしたわけです。彼は焼け野原の土地を安価で入手し、やがてホテル業や鉄道事業等々に進出していったのです。すごい人がいるものだと思いました。

 さて、空襲の爆撃目標は地方の中小都市に拡大し、爆撃の対象や爆撃機の種類も多様なものとなってきました。

 私を慰問にきた父の話では、B29による爆撃に加えて、航続距離の短いP51、グラマンという戦闘機なども参加し始めたそうです。

「サイパンや硫黄島など陸上基地からの出撃だけでなく、日本近海をあちこち動き回る艦載機からの攻撃が加わったのだよ」

 父の言う艦載機とは米軍軍艦に搭載されている戦闘航空機とのことでした。

 ですから空襲も一段と激しくなり、低空から、駅舎や走る列車・灯台・漁船までが銃撃されました。この頃の空襲体験で米機のパイロットの顔が見えたなどという証言も多いです。

 私の郷里である越後が爆撃を受けた様子を書かなければなりません。

 日本海側に位置する新潟県では、太平洋側の多くの都市が空襲を受けていたのに比べると、B29やそのほかの攻撃は少ない方でした。

 新潟県へのアメリカ軍機の来襲は、一九四五年、昭和二十年六月までは偵察や宣伝ビラ投下のほかは、新潟港への機雷投下が主なものでした。

 爆弾の投下に関しては、七月二十日に長岡近郊の左近集落に大型爆弾が落とされて四人の方が亡くなっており、また、八月上旬に、新潟で艦載機数十機による機銃掃射があり何十人かが負傷しました。

 県内における日本側の反撃としては、航空機によるものは一切なく、七月二十日に新潟に機雷投下に来たB29を高射砲によって一機撃墜したにとどまっています。

 各家庭の防空、爆撃対策といえば次のようなものでした。

 縁の下や庭に防空壕を掘り、玄関脇へ用水桶と砂袋・バケツ・火叩き・はしごなどを備え、ガラス戸には十字の口張りをします。

 防空頭巾と三角巾を持ちあるき、胸には本籍・住所・氏名・血液型を記した名札をつけ、下着・ズボンにもできるだけたくさんの名札をつけました。

 隣組の防空訓練で、敵機や焼夷弾の種類と消火法を学びます。

 主婦たちは、敵搭乗員が落下傘で降りた場合、眉間をつくための竹やり訓練を行いました。

 日本各地で防空壕堀りやガラス戸張りが行われ、竹やり練習も盛んでした。

 十日町に近い長岡は新潟県第二の都市であり、一九四五年七月時点での市の人口は七万四五〇八人でした。

 長岡が大空襲を受けたのは、昭和二十年八月一日の深夜近くです。

「終戦の半月前だわね」

 私が驚いて言うと、

「そうだね。しかし、この時、大本営は本土決戦と言っていたよ」 

 決戦、決戦と言い続けるのは、時と場所とを問わず、大本営の特徴なんですね。

 長岡では午後九時六分に警戒警報が発令されました。

 多くの人はラジオをつけたそうですが、この日に限って雑音でよく聞き取れない状態だったようです。これは別のB29がスズ(はく)を散布して電波妨害を行ったためです。

「このように大量に落とされたのでは打つ手はないね」

 住民らはそう話し合っていました。

 調査によると、投下された焼夷弾は九二五トンで十六万三〇〇〇発に及び、長岡の市街地の八十パーセントが焼き払われ、一四七〇名を超える方たちが亡くなっています(※13)。

 以下、市内の状況を細かく見てみると、約一〇〇分間の無差別焼夷弾攻撃で長岡の町は火の海になりました。

「ものすごい爆撃だ」

「逃げ場がないわ」

「郊外の河原に行くのがいいぞ」

 その有様を地元の追想録で見てみます。


 長岡市役所では鶴田義隆市長のもと、消火活動に当たりましたが、避難時機を逸してしまった人たちも多くて、市長は市役所隣の、北越製紙本社裏の猛火渦巻く防空壕内で亡くなりました。

 助かった人は、いち早く中心街から逃れて、東側の栖吉川や西側の信濃川方面に避難していたようです。

 地獄のような光景を見ました。

 ブスブスと燃えくすぶる、神社の樹林の下で私は足を止めました。

 大人の死骸の足元にへその緒をつけたままの赤ちゃんの遺体が転がっていました。

「かわいそうに・・・」

 遺骸に気づいた人たちが話しています。

「目も当てられないよ」

 私は、両手で赤ちゃんの身体を掬うように持って、

「今度は平和な時代に生まれてきてね」

 と言って母親の胸のそばに置いてあげました。

 その少し先に、防火用水槽の中から箸を立てたように何本もの足が立っていて、それが真っ黒に焼けていました。頭に火がついて、皆で少しの水でも飲もうと頭を用水につっこんだまま死んだ方々でしょう。

 ホースを持ったまま死んでいる消防士さんも見えました。(※14)

 

 同じ頃、兄のいる遠い戦地で水を飲もうと沼地に首をつっこんだ日本人兵士が、ずらりと行列のまま死んでいるフィリピン・レイテ島の密林のことなど、私たちは知る由もありませんでしたが・・。

 長岡空襲は、敗戦のわずか二週間前の出来事でした。

 私の負傷を見舞うため父が十日町から長岡に来てくださり、その帰り道に長岡駅近辺でグラマン攻撃機の機銃掃射に遭い、重傷を負ったことがあります。

「機銃掃射は、低空飛行の小型機からの機関銃による狙い撃ちだが、奴らはロケット弾や小型爆弾による爆撃を併用するようになった。殺傷力の強い、凶暴化した攻撃だな」

 父はそう言っておりました。

 このときは、父の乗っていた走行中の汽車が狙われました。

 トンネル手前で、進行方向左側の横から飛来したアメリカ軍のグラマン戦闘機複数が満員状態の列車に対して機銃掃射を加え、多数(後日五十一人と判明)の死傷者が出たのです。

 父の左腕を銃弾が貫通し、病院へ運ばれ入院する事態になったのですが、幸い三か月ほどで治癒しました。



  六  昭和天皇について 勝治の話


 米軍の空爆について後日、私と勝一兄の恩師、阿部先生が「国際法違反問答」をしたことを思い出します。

 阿部先生「アメリカ人の多くは今でも東京大空襲や日本への原爆投下を肯定しているが、大空襲も原爆も国際法違反の戦争犯罪だよ」

 美智子「国際法って何ですか?」

 先生「戦争当事国はどんなことを守らなければならないのか、戦争中の国際法違反とは何なのか、基本的に戦時国際法が示している。原爆はこの国際法に違反している。国家は戦争だからといって何でもしていいわけではないよ」

 美智子「どうやら、アメリカの人道主義とやらもまがいもののようですね」

 先生「日ごろは自分に都合のいい人道主義を掲げているということさ。ドイツのアウシュビッツガス室、日本軍の七三一部隊等も原爆と同等の計画的残虐行為で、国際法違反の戦争犯罪と言えるだろうね。しかし、現在の米国世論はそういう見方はしていないよ」

 先生は私に米国の新聞紙を見せ、次のように翻訳してくれました。

「原爆で死んだ者より、救われた命の方が多いだろう。アメリカはすでに日本軍を敗北させていた。日本は力はなかったにも関わらず、全員が死ぬまで、男、女、そして子供にまで武器を持たせて国を守らせるという方法に出た。アメリカは原爆で殺さなくちゃいけなかった。原爆によってのみ戦いが無駄だと分からせることができた。これで日本は降伏したんだ。原爆により日本が助かったわけだ。」

 アメリカの原爆投下によって日本が助かったというのです。こういう見方は私にはとうてい理解できません。原爆被害の実情をまったく見ていない意見です。

「二発の原爆は戦争を終結に導いたという。その事情を歴史書で調べてみたよ」

 勝治が私に教えてくれたのですが、以下、兄が本のページにつけた傍線の部分を引用します。


「我々は二十億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである。六日、広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化を与える原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらにほかの都市にも投下する」(トルーマン宣言)

 日本のトップは、戦いを続ければほかの都市にも原爆を投下するという予告を受けたわけでした(中略)。

 八日になりますと、昭和天皇は木戸内大臣を通してこう言います。

「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない。不可能である。有利な条件を得ようとして大切な時機を失してはならぬ。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを鈴木首相にも伝えよ」

 そこで木戸さんは、鈴木首相に天皇の降伏決定の意思を伝えたのです。

 最高戦争指導会議では何ら結論が出ず、議論に議論を重ね何度も会議を開きましたが、相変わらず結論が出ない状態でした(※15)。

 

 当時のアメリカ人の考え方が生々しく伝わってきます。

「膨大な資金と労力をかけて作ったのだから使わないのはおかしいというアメリカ人は恐ろしい民族だな。それに比べ、議論に議論を重ねてもなかなか結論が出ない日本人の間の抜けた考え方が目立つ。これが悲劇を増しているのさ」

 勝治はそう指摘しました。 

 次に、戦争が終結する時の事情を同じ歴史書から続けます。


 八月十五日の朝まだき、天皇の戦争終結の放送の前に、最後まで国体護持即ち天皇の身柄の安全にこだわった阿南陸相は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して、割腹自決いたしました。

 全陸軍を代表して悲惨な国家敗亡をもたらした罪科を、天皇陛下にお詫びしたものなのでしょう。しかし、深読みすれば、平和を取り戻すための犠牲となり、大陸に、太平洋の島々に、空しく散っていかねばならなかった数限りない死者に対して、心からなるお詫びを述べているのではないか。そう思われてなりません。

 たくさんのところで日本の兵隊さんたちが亡くなっています(中略)。

 戦争が終わってしばらく、日本の死者は合計二百六十万人といわれてましたが、最近の調査では約三百十万人を数えるとされています(※16)。


 この戦死者のうち九十パーセントが昭和十八年後半から二十年の敗戦までの間に一年半で死んでいます。

「いったい日本の指導層は何をしていたのだろうか」

 勝治兄は憤っていました。

 “空しく散っていかねばならなかった数限りない死者に対して、心からなるお詫びを述べているのではないか”と言われているのは阿南陸相についてであり、戦争と戦死者に対して最高責任者であるはずの天皇の声が何も聞かれない。これはどういうことだろうか。幾多の歴史書のどこに記してあるのかと探したが、おれには見あたらなかったよ」

 兄は残念そうな顔つきでそのように言っておりました。

 天皇の気持ちについて、後に、歴史家の保阪正康氏が次のように言っています。


 (後年)昭和天皇は訪米しますが、帰国後の十月三十一日に記者会見します。そこでこういう質問が飛び出します。

「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」

 昭和天皇はそれに対してこうこたえました。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはおこたえができかねます」

 広島、長崎への原爆投下についても聞かれて、

「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

 この発言は恐ろしく評判が悪い。ハーバート・ビックス(注)も「その統治下の出来事に対してまったく責任のない傍観者のような昭和天皇の言い逃れは、多くの日本人にとってあまりにも非情であった」と評しています。この言葉には確かに「しかたなかった」の意味がありますね(※17)。


 注:ハーバート・ビックス アメリカの歴史学者。現在、ニューヨーク州立大学ビンハントン校教授。『昭和天皇』(講談社学術文庫)でピューリッツァー賞を受賞。


「私は、昭和天皇が言葉のアヤといったときの発言をラジオで聞いていたよ。言葉のアヤという言い方で質問をはぐらかしたということだ。アメリカの歴史学者に『傍観者のような昭和天皇の言い逃れ』と言わしめた天皇を、国民はどう考えればいいのだろうか。なんか恥ずかしくなるなあ」

 勝治兄はそう言って話を締めくくりました。

「天皇のお言葉は私も聞いていたよ。ただね、天皇には様々なご事情があって、戦争責任や原子爆弾について、はっきりとはおっしゃれなかったのだろう。当時の立憲君主制の限界で、余計な発言をしないという立場をとっておられたようだ」

 父はそのように言っておりましたが、どうなのでしょうか。

 私は、過ちは過ちとしてきちんと認め、謝罪すべきことをきちんと謝罪して責任をとることが、通常は一人前の人間のとるべき態度だと思います。ましてや天皇のような偉い方々は、誰よりもきちんとけじめを示してほしいですね。

「天皇にはご自分が戦争をやめさせたという自負がおありだったようだ」

 父はそのように言い。資料を見せてくれました(次の文中、「私」とは天皇のこと)。


「私は予ねて考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。

 ポツダム宣言の諾否について、両論対立して、いくら論議しても、(つい)に一本にまとまる見込みはない。しかも熾烈な爆撃、あまつさえ原子爆弾も受けて、惨禍は急激に増える。

 この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸のはりさける想いをしつつも、裁断を下した。これで戦争は終った。」(※18)


「天皇が『戦争をやめさせた』『裁断を下した』と言っていることは事実なのだろうか。また、『不幸な戦争』とか、原子爆弾の投下が『やむをえないこと』とかいう言葉は、どのような認識からの発言なのだろうか、理解に苦しむね」

 勝治兄は不満気に、と言うより怒りの表情を浮かべて言いました。

「天皇は戦前から、ずっと、軍部の専横に不快感を抱き、戦争回避を模索しながら止められなかったことを悩み続けたようだよ。だから、この際終戦の決意をして裁断を下したとおっしゃったのだろう」

 父は天皇を擁護してそう言っていました。

 敗戦から戦後への歩みが始まりました。

 この頃、勝一兄さんが、戦地から帰還して東京に向かったことを家族の誰もが知る由もありませんでした。



 七 勝一が語る日本帰還


 日本に復員してきた私は横須賀から東京へ向かった。

 車窓から見える景色は空襲で焼けた街々、焼け跡ばかりで、横浜辺りにはまともな家はなかった。

 ・・・紀子さんはどうしているだろうか、日本橋の山田洋服店や同僚はどうなっただろうか。

「おとといだったか、GHQに逮捕命令を出された近衛文麿元首相が自殺したってさ」

「え!自殺したんですか?」

「そうですよ。青酸カリを飲んだようだ」

 電車の中で乗客の会話を耳にした。

 近衛文麿元首相は一九三七年(昭和十二年)以来、何代もの内閣総理大臣を務めた人で、敗戦までずっと政界で重きをなした。その人がGHQの逮捕命令を受け、自殺したというのである。

 GHQはマッカーサーを最高司令官とし、占領政策を日本政府に施行させた連合国軍の総司令部である。

 ・・・日本はアメリカに負けたのだ。

 と、私はしみじみ感じた。

 乗客の話を要約すると、近衛文麿元首相はA級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることを知り、巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の先日、荻窪の自宅で青酸カリを服毒して自殺したという。

 乗客が私に教えてくれたニュースはさらに衝撃的だった。去る九月、東條英機首相が自らの胸を撃って拳銃自殺を図ったが、失敗して身柄を米軍に抑えられたというのである。

「えぇ!東條英機閣下が身柄を米軍に抑えられたのですか、本当ですか!」

 私は思わず大きな声で叫んだ。

「ほら、これだよ」

 新聞記者という彼は大きなカバンから新聞を取り出して見せてくれた。


 昭和二十年九月十一日、連合軍総司令部は戦争犯罪人容疑者の逮捕にのりだしたが、東条英機元首相は、逮捕される直前、ピストル自殺を図った。しかし、米軍の手厚い看護によって一命をとりとめた。

 この日の午後四時、束京都世田谷区用賀町の自宅を訪ねた連合国側官憲が窓越しに東条大将を拘引に来た旨を述べた。東条は笑って、「ただいま行きますからしばらく待つて下さい」と通訳を通じて挨拶し、窓に錠を下してソファに腰を下したが、その時、ピストルの音が内部に聞こえ。米官憲は外から錠の下りた扉を叩き破り「窓をこはして入れ」などと怒鳴り威嚇的に銃を撃ちつつ室内に入つた。東条大将は予て覚悟の自決をはかつてゐたのである。

 椅子にもたれたまま白の開襟シャツを着た上から左腹部に拳銃を射ち込み、すでに息も絶え絶えであつた(朝日新聞、昭和二十年九月十二日)。


「発射の瞬間に拳銃が持ち上がったことで、弾丸は心臓からはずれたということだ」

 記者がそのように言い、そして付け加えた。

「東条元首相は、自分が治療を受ける間付き添ってくれたアメリカのMPは立派だった、社会の動きにもそれなりの見識を持っていた、と言っているよ」

 東条英機といえば大閣下であった。首相であり、陸軍大将であり、陸軍大臣と参謀総長を兼ねた、私には神様のような人物であった。

「そんなことがあるはずがない!」

 私はまた大きな声を出した。

「国民の多くがそう思っていますよ」

 その記者はそう言った。

 ・・・彼の命令で戦い、〝生きて虜囚の辱めを受けるなかれ〟という戦陣訓どおりに死んでいった多くの日本兵は、この事態を何と思うだろうか。

 私の脳裏はその思いで一杯になった。

 捕虜になることを禁じた戦陣訓のために、数え切れない将兵が命を落とした。

 戦陣訓を布告したのは東条英機閣下だったから、彼自身が米軍の捕虜になったことなど信じられるはずがない。

「なんで連合国側の官憲が来るまで生きていたのですかね。おまけに付き添いのMPをほめているんだね」

 記者は付け加えた。

 私は混乱し、目眩(めまい)がした。

 ・・・あの戦いは何であったのか・・・

 電車の振動と戦場の轟音が重なり合って、私は足元の床板が突然割れて大穴に落ち込むような感じに襲われ、眼前の世界が切り替わった。

 (なま)の頭が割れたり、白骨になったりした兵士と共に、水没する青海鼠(なまこ)や裸足の黄蜥蜴(とかげ) 、孤独な声で鳴いている黒蛇、陰嚢(いんのう)が揺れている痩せた鼠、頭の毛がない灰色と赤のまだら鳥、イエスの向う(すね)のような白蛙が集まってくる。

 “死んで身体が骨になり影になっても、妻子を思う気持ちは永遠に変わらない”

 私は、死んでミイラ化した兵士の頭蓋骨辺りに、このように書いてある紙切れを持っている骨の手を何度か見た。その光景が目の前に現れた。

 ・・・これは戦場で見た光景じゃないか。まだ戦争が終わっていないのだろうか。

 辺り一面は黒煙に包まれ、ときおり火炎が飛び交う。銃声と迫撃砲の音、そして、爆撃機の音がとどろく。

 私の心臓は鼓動を速め、呼吸は浅くなり、手のひらは熱を帯びて汗が出てきた。密林でかいだのと同じ、へどの出るような悪臭が漂い、嘔吐したくなってくる。

 それから三日後、一九四六年一月一日、天皇陛下が突然「人間宣言」を発表された。陛下が神様ではなくなり、人になられたということだ。この件は後で詳しく話したい。

 頭の中がくらくらし、日本の状況にも私のアタマにも激しい変化が起きたことを自覚しながら、私は東京駅で降りた。

 鉄骨で作った駅舎の構造材はグニャグニャになって崩れており、屋根の一部にトタン板が掛けてあるほかは青天井だった。

「開戦以来、当局は東京の守りは万全だ。敵の一機たりとも侵入を許さないと発言し続けた。だが、B29はゆうゆうと侵入してきたよ」

「警報発令後数分で駅前広場に焼夷弾が落ち、一面火の海となったな。続いて中央郵便局も火を吹き、あっという間に焼け落ちた。守り万全が聞いてあきれるよ」

 青天井をながめながら、乗客がそのように話していた。

 ・・・東京もレイテも米軍の思うままの空爆にさらされた。当局があてにならないという事態はどこでも起きていたのだ。

 私はそう思いながら銀座方向へ出て、日本橋の焼け跡を歩いて、山田洋服店のある蛎殻町へ向かっていった。一帯は焼け跡が広がり、焼け野原と焼けビルの街だったので、私はこれがあの、昔見た街々なのかと目を疑った。

 見渡す限り焼け野原で、質屋の石倉、銭湯のタイルの湯船などが、かろうじて原形をとどめて焼け焦げていた。溶けて奇妙な形に固まったガラスが散乱し、水道管が随所で破れて、水溜りができていた。

 板やトタンで囲ったバラックが至る所に見え、湯船だけ焼け残った銭湯に板の目隠しを付け入浴している青空浴場、銀行の大型金庫を仮住まいにしている家族など、焼け跡の耐乏生活が丸見えだった。

「東京は終戦までに百回以上もの空襲を受けたんだ。どこもかしこもめちゃくちゃさ」

 私が場所を尋ねた時に、通行人が、そう教えてくれた。

「え!百回以上も爆撃されたのですか」

「そうよ。だから、ごらんの通り全部焼けてしまったよ。この頃は空気が澄み切っていてよ、高い建物がないので遠くの富士山がよく見えるし、夜には満天の星が現れるよ」

 重なる空襲のため住民は疎開し、建物は壊れ、銀座はほとんど死んでいた。

 ただ、しっかりした鉄筋コンクリート造りの焼けビルは空襲に耐えて、建物の内部は燃えてしまっているが、躯体(くたい)は残っているものもある。

 東京の焼けビルと焼け跡がマニラの市街戦で焼け焦げた街を思い出させ、弾丸が雨のように飛び交った、激しい戦場の光景やそこでかいだ硝煙の匂いがよみがえった。

 板囲いや掘っ立て小屋のような商店街の中に、木造平屋建てながら、高さ約六メートル、ひさし付き、ウインドー付きの建物を並べて建て始めている所もあった。看板にはローマ字で店名を書き、商いの内容を示す絵を添えてある。

  この建物群は敗戦宣言の翌月に早くも銀座商店連合会の手で復興計画ができ、十月末に地鎮祭が行われ、建て始めたのだという。

 私は米兵の姿を見かけると、すぐ身構えるという反応を起こした。これはマニラやレイテ島で戦ってきた時身についた行動だった。

 服部時計店や松屋がPXとして接収され、開いていた。PXとは、米軍用語でポスト・エクスチェンジつまり駐屯地内の売店のことだが、銀座の名門店が米軍兵に物を売る売店になってしまい、日本人は立ち入れない。

 私にはこの街が、下町情緒の残っていた、あの上品な銀座だとはとうてい感じられなかった。

 私は岩崎紀子さんの消息を求めて日本橋へ行った。

 三越は元の位置に存在していたが、正面玄関にうずくまる姿で飾られていた青銅製のライオン像は、大東亜戦争開戦後、金属回収で海軍省に供出するため取り払われていた。

 紀子さんの勤務していた「萌黄(もえぎ)」は全部は焼けていなかった。

 店に入ると紀子さんの面影が強く感ぜられ、鳥肌がたってきて、心の中に甘い泉のような感情が湧き出してきた。

 私は着物売り場の担当者に恐る恐る紀子さんの消息を尋ねた。

「ああ、十日町出身の岩崎紀子さんね、よく覚えていますよ。彼女は空襲で負傷してね、療養のために帰省中ですよ」

「負傷ですか。よほどひどい状態ですか」

「詳しいことは分かりませんが、焼夷弾で傷ついたということを聞きました」

 ・・・焼夷弾! 非常に高温で燃える焼夷弾などは特に危ない。

 私は戦場の経験で何種類もの爆弾を知っていたので、岩崎紀子さんが焼夷弾で負傷したという事態に衝撃を受けた。

 ・・・フィリピンでも東京でも米軍の焼夷弾は同じように炸裂(さくれつ)し、人を殺傷したのだ。

 私はまた目眩を覚え、大穴に沈むような感じに再び襲われた。

「首の付け根を一頭の龍が押さえつけ、首をもたげて、すべての物に火炎を吐きつけている」

 私は意味不明な言語を発音したようだった。自分の顔が青ざめていることが自分でも分かった。

 目の前の売り場の主任は目を飛び出すようにして驚き、店の奥へ走り去った。

 ・・・山田洋服店に立ち寄ったら、その足ですぐに新潟に帰ろう。

 私は混濁する頭の中で、その気持ちをはっきりと自覚した。

 急ぎ足で蛎殻(かきがら)町に向かったが、そこらじゅうで露天商やバラックの売店に出くわした。ゴザやむしろ、よしず張りなどでお互いの境界を仕切り、地面に品物を並べる店や、台上に品物を並べる店が並んでいた。

 夕暮れの街角やガード下にけばけばしく化粧した女たちがたむろしてきた。

「あの女たちは何者なのですか」

 私が聞くと通行人が教えてくれた。

「ああ、あれはパンパンだよ。駐留してきた米軍兵士を相手に春を売る女たちさ」

 人形町や蛎殻町辺りは運良く戦災を免れたようで、焼けビルの合間に懐かしい東京の面影が顔をのぞかせていた。

 山田洋服店は元の場所に以前の姿のまま建っていた。

 ・・・この風景はホンモノだろうか。

 井出裕太の姿も店先に見え、私はドキドキしながら店舗に入っていった。

 店には、奥さんと娘と、従業員職人二人、それに井出裕太がいた。

 私を見た皆が大声を出したり、金切り声で叫んだりして驚いた。

「ご主人は一年前、出先で空襲にやられて亡くなった。ほかの者は無事だ」

 ということであった。

 私は、ご主人が死んでしまったという事実に衝撃を受け、主人から仕事を教え込まれた日々がよみがえった。

「店の方は米兵から服の調達もあり、好調だよ」

 奥さんの好意でささやかな宴となった。

 私はここで夜を明かし、大晦日の明け方、十日町へ帰省することに決めた。

「三月十日の東京大空襲で、猛火で赤く照らされた夜空を飛ぶB29編隊の姿は、本当にすごかったよ」

 空襲と戦災が話題になった。

「みんな焼夷弾の雨の中を逃げて、私たちは小学校の地下防空壕に避難した。火が壕に入るのを防ぐために扉が外から密閉されたので、中の人々はほとんど全員が窒息死したんだ。みんな蒸し焼きだよ」

「我々はたまたま扉のすぐ側にいて、隙間から入ってくる外気を呼吸できたため、奇跡的に死を免れたのさ」

「一夜が明けて外に出ると、校庭は黒焦げの焼死体が累々と積み重なる地獄と化していた」

 それぞれの人が話してくれた。

 浮浪者のことが話題になった。

 井出裕太は浮浪者の一斉狩り込みの話をした。

「十二月十五と十六日、警視庁は東京上野地下道一帯にわたって浮浪者の一斉収容作業を行い、約二五〇〇人を保護収容したそうだよ」

 これらの人々は戦災で住居や身寄りを失った者、戦災孤児、引き揚げ者、復員者などで、調査の結果、彼らは心身ともに健康で、住居と職業を与えれば十分自活できることが分かり、東京都民生局では(よど)橋、荒川に一時収容所を設けて保護し、更正の指導を行ったとのことだ。

「その結果、浮浪者は次第に街頭から姿を消したが、その一方で、上野周辺に泊まる浮浪者が急増したよ。保護者を失った浮浪児だけでも数万人を超えるようだよ」

 裕太は、今、日本中ではやっている言葉を教えてくれた。

「まずは〝一億総懺悔(ざんげ)〟という言葉だろうな。〝マッカーサーの命により〟って言葉もケッサクだよね」

「一億総懺悔とはどういうことなのさ」

「戦争では誰が悪かったということはなく、日本人それぞれが悪かったということだよ」

 先輩職人の一人、安藤がそう言った。

東久邇(ひがしくに)首相は、国民に向かって敗戦という事実を〝一億総懺悔〟で悔い改めよと呼びかけ、敗戦責任は一人ひとりが負うべきだという主張を流していたよ」

 と付け加えた。

「ことここに至ったのはもちろん政府の政策もよくなかったからでもあったが、また国民の道義の廃れたのも原因だ。だから、この際、軍官民、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならない、だってさ」

 東久邇首相が記者会見でそう述べている、と裕太が言った。

「マッカーサーの命によりっていうのは、マッカーサーの指令は、昭和天皇以上に絶対的という意味でね、これも大流行中だな」

「落ち着いたら、勝一君の腕を生かして店の手伝いをしてください。これから百貨店からの注文も増える見込みよ」

 奥さんと安藤先輩が繰り返して私に言った。

「田中角栄事務所から伝言があったわよ。帰ってきたらぜひ連絡してくれとのことよ」

 と娘さんが教えてくれた。

 裕太が山田洋服店の娘さんと婚約したと、奥さんが言った。

「ゆくゆくは裕太さんと娘に、主人の跡を継いでもらってお店をまかせたいのよ」

 奥さんはそう言った。

「岩崎紀子さんが何度も訪ねてきたわ」

 娘さんからそういうことが話題に上った。

「彼女は勝一さんの安否を気にしていたわ」

 どうやら紀子さんが爆撃で負傷する前の話であるようだった。

 私は、以前下宿していた裏通りのアパートを見に行った。

 以前は、入り口に大家一家が住み、一階に二部屋、二階に三部屋がある小さな建物で、バンドマンや易者、店員などがいたが、現在の建物は半分ほど焼け焦げたまま存在していた。見知らない人たちが住み着いていた。

 夜明けとともに私は山田洋服店を辞去し、上野の叔父の家へ立ち寄ったけれど、家は跡形(あとかた)もなく焼けていて、叔父も家族も消息不明だった。

 しかたなく、私そのまま上野駅へ立ち戻った。

 駅の上越線ホームに立って見ると、明るくなってきた夜明け、隅田川・両国方面まで焼け跡が一望に見え、その間には何もなかった。

 私はただ茫然とながめながら、

 ・・・家族や紀子さんははたして無事だろうか。

 そう思いながら復員列車に乗り、故郷の十日町へと向かった。

 汽車の中で、過ごしてきた数年間の軍隊生活を思い出した。数年間が数十年にも感じられた。

 新潟工兵隊に入隊、久留米予備士官学校を終え、門司港からバシー海峡を経てフィリピンへ渡り、マニラ、レイテ、カンギポット山で歴戦。だんだん厳しさが増していく戦場の有様が次々に浮かんで消えた。

 海に浮かぶ死体、火炎に焼かれる兵士、頭蓋を砕かれた軍人、ジャングルの白骨など、また、倒れて血を(したた)らせる戦友や敵兵の姿、様々な異常事態が、たぎる思いと共に脳裏に浮かんできた。

私の頭が熱くなっているようだ。

 汽車が越後湯沢に近くなると、谷川岳が姿を見せ、いよいよ越後入りしたことを感じた。この山は、とがって険しい岩壁と複雑な地形の山容が特徴だ。

 車窓近くにゆうゆうと流れる想野川が見え、やがて八海山が望まれる。

 懐かしさで喉や胸の辺りが熱くなってきた。私は、アタマも感情も揺れ動いて、感じやすくなっていた。

 八海山は越後駒ヶ岳・中ノ岳とともに「越後三山」の一つとして知られる新潟県有数の名山で、山頂部のギザギザの岩峰「八ツ峰」が山の象徴だ。

 山を越えて車窓に見えてくる田畑の広がりは新潟独特の田園風景を展開し、母なる大地であると実感させる。

 豊かな田園の向こうには母や紀子さんがいるにちがいない。

 ・・・ああ、とうとう故郷へ帰ってきた。

 私はここで初めて、〝本当の日本〟に帰り着いたような気持ちになって深呼吸をした。

 ほかに代わるもののない、かけがいのない故郷が間近だった。

 長岡駅に到着したのは夕暮れだった。

 ホームから待合室に行くと、敗戦直前に空襲に合ったらしく、街がほとんど焼けてるのが見渡された。

 焼け跡の街を見ると、私には「火炎を吐きつけている龍」の姿が見えたり、硝煙の臭いがしたりしてきた。

 ゴムや燃料・密林が焼ける臭い・体臭・生ごみ・フィリピンの香辛料・死臭・・・・

 外に雪が降っていた。

 私は降る雪を手のひらに受け、冷たく懐かしい香りをかぎ、舌に入れる。甘い味だ。

 ・・・雪に出合ったのは何年ぶりだろう。

 半分焼失した待合室では、ドラム缶の中で薪を炊いて、子供や大人が暖をとっていた。彼らはボロボロの格好で、家を焼け出された人たちのようだ。

 汽車の出る時間が来て、長岡から越後川口駅を経て、飯山線で十日町へ向かう。と、車窓に故郷の四季の姿やおいしい米や蕎麦、伝統の織物等の姿が次々と出てきて、それらグルグルと回った頃、私は戦地の奇怪な幻想や悪臭から開放されていた。

 川には豪雪地の山々から流れ込む雪解け水が流れ、周囲に星々が瞬く空気が入り込んできた。

 母や父、勝治や美智子の面影が浮かんできた。

 そして、汽車の窓全体を岩崎紀子さんへの慕情が覆った。

 ・・・ここが故郷なのだ。

 そういう思いが繰り返し、繰り返し襲ってきた。

 駅の両側には山並みが続き、谷合いの平野を信濃川が流れ、

 十日町が現れる。 

 町には新雪が積もり始めていた。

 駅は以前のままの木造駅舎で、記憶にあるひび割れた壁や古びた改札口があった。家路をたどる道々も昔と変わらなかった。

 雪の降る月明かりの道を歩くと、故郷の雪が匂い、風がささやく。

 懐かしい小学校の石の正門が見え、入り口近辺の木々も以前と同じだ。

 雨風にさらされた観音堂があり、私はその割れた屋根瓦を見つめる。

 母が戦地への手紙につづってくれた、あの観音堂だった。

 信濃川の見える田んぼ道にさしかかった時は懐かしさがこみ上げてきて、息苦しいようだ。

 私は呼吸を整えようと、家近くの、()り減った木の橋に腰を下ろして休憩した。 

 間もなく我が家だと思うと皆の面影が浮かんできて、荷物を一気に持ち上げて勢いよく歩き出す。

 見覚えのある我が家の表札が見え、胸がつぶれる思いで、店舗正面から入る。

 若い女性が向こう向きの姿勢で働いていた。妹、美智子のようだ。

「木村勝一、ただいま帰りました!」

 大声を出すと、女性が振り返った。

「・・・・・・えー!ああ!・・・勝一兄さんだー!」

 私をしばらく見つめた後で、美智子は大声で叫び、

「勝一兄さんが帰ってきたわよー!」

 彼女は奥に向かって叫んだ。 

 家族が飛び出してきた。

 母も父も勝治も私の姿を見て、驚いて呆然(ぼうぜん)とした様子だった。

 ・・・幽霊が来た!

 母などはそう思ったそうだ。

 店の土間も茶の間も、振り子の付いた柱時計も変わっていなかった。

「一生分のうれしい思いよ!」

 母は、泣きながらそう言った。

 白髪の目立つ父も目をくしゃくしゃにして喜んだ。



 八 弟、勝治の語る兄の復員


 帰宅した勝一兄は奥の座敷に行き仏壇にお参りした。

 それから、その夜はにわかに復員祝いの会となった。

 父も母も年とっている以外、体に異常はなかった。

 父は在郷軍人の会に入っていたが、マイペースな生活ぶりは変わっていなかったし、母は商売や家事の切り盛りの中心として元気だった。

 私(勝治)の体調は相変わらずで、長岡郊外の療養所に入っていたが、年末年始を家で迎えるため、宿泊の許可が下りて十日町の家に帰宅していた。

 母はその間、結核菌伝染予防のため食事のたびに私の使う食器を大鍋の湯に入れて煮沸していた。

「この秋、近所で稲刈りの手伝いをして脱穀もしたわ。笹山に上って下の方向を見渡すと、はるか彼方に信濃川が白く光っていたのよ。その周囲には黄金色の実りが見えて、思わず見ほれたわ」

 ずっと家の手伝いをしていた美智子は私たち兄弟にそう言った。

「笹山という名も信濃川という名称も身体にしみこむ懐かしい名前だなあ」

 勝一がため息をついて言った。

「街に復員兵が帰ってくる姿が見えたことがあるので、勝一兄さんはきっと帰ってくると思っていたわ」

 兄の帰省を聞きつけて皆が驚き、親戚・友人・知人や従業員たちが次々にやってきた。

 勝一は火鉢の前で、新潟工兵隊から久留米士官学校へ行き、南方戦線に渡ってマニラ、レイテと歩いてきた足跡を、何人の人に語ったであろう。

 母と美智子がテーブルを継ぎ足して客の座席を作った。

 時が過ぎて宴たけなわとなり、祝い酒に酔った勝一の友人が流行歌を歌った。

「♪ 赤いリンゴに 唇よせて だまってみている 青い空 リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持ちは よく分かる リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ ♪」

「リンゴの唄」は大流行している歌だった。

「明るくていいね」

「そうだね」

 久しぶりに木村呉服店に歌声が響いた。

 親戚の者が皆で「十日町小唄」を歌おうと言った。


「♪ 越後名物数々あれど

 明石ちぢみに雪の肌

 着たらはなせぬ味のよさ

 テモサッテモソジャナイカ

 テモソジャナイカ ♪」


 十日町の住民がなにかにつけて歌う歌だった。

 勝一兄は、その夜のうちに岩崎紀子さんと再会した。

 彼女は深夜過ぎにやってきたが、家の入り口で躊躇(ちゆうちよ)している様子だった。

 兄はすぐに立ち上がって飛び出していった。

 二人は見つめ合っているようだった。

 紀子さんは顔面右側半分にひどい火傷を負っているという、皆の噂どおりの状態であった。

「見せられるような顔ではないわ」

 従来紀子さんは元々明るい笑顔が人を惹きつけ、笑うときれいな白い歯と真っすぐな鼻筋が目立つ人だったが、この夜はそう言って、顔の右半分をストールで覆ったまま、うつむいて家に入ってきた。

 紀子さんの左目が赤くなって泣いていた。

 右目は、ストールの陰でよくは見えなかったが、目や鼻の周りが真っ黒だった。

 黒というより青黒く、その青黒い部分の周縁部に黄色とも橙色ともつかない妙な色がまだらに、にじみ出すように広がっていた。

「視力はどうなのですか」

 美智子が尋ねると

「視力は前に比べて半分くらいよ」

 小さな、切ない声だった。 

 私は何年か前、勝一が久留米予備士官学校へ行く時に、紀子さんが新潟の工兵隊倉庫の陰で泣いていた姿を思い出した。

「焼夷弾で焼かれたケロイドがひどいのよ」

 紀子さんはそう言った。

「時々、爆弾で顔を焼かれる夢を見るわ」

 彼女は兄にそう話したと、後日、勝一が言っていた。

 夢は、爆撃で顔が全部焼かれたり、身体が燃えたぎる猛火の海に漬けられたりする夢だという。

 紀子さんが席につき、話題は東京・上野の叔父のことに移った。

 父から、叔父の一家はB29に家を爆撃され、叔父の妻と子供二人が焼け死んだという話があった。家は跡形もなくなった。

「彼には帰る家もなくなり、浮浪者となって上野周辺で寝泊まりしているようだ」

 父はそう言った。

「上野駅近くのアメ横という闇市で魚介類売買の手助けを始めていると言っていたよ」

 アメ横とは、御徒町駅から上野間のガード下を中心とする帯状の地域で、敗戦の混乱のなかで多彩なルートから集めた雑多な商品を売りさばく露店や飲食店が集まっている街だった。

 先日までの灯火管制の話や空襲の話題も出て、美智子が長岡の大空襲について話した。

 居間にある大きな柱時計の、振り子の音が響いた。 

 そのうち、兄が妙なことをブツブツとつぶやき始めた。

「・・・撃たれて顔が割れ、木の根で骸骨になった兵士と一緒に、青海鼠(なまこ)や裸足の黄蜥蜴(とかげ) 、孤独な黒蛇、痩せ鼠や白蛙が集まってくる・・・」

 兄の呂律(ろれつ)がおかしくなった。

「え?何だって!」

 私が聞くと、

「何て言っているのかしら」

 と紀子さんも尋ねた。

「お兄さん、何て言ったの?」

 美智子が尋ねた。

「@皇地天~=s生え灰色の鵞鳥・・・炎熱の海に漬denてく心▼イrけ、・・*/??」

「え? 分からないわ」

 美智子はそう言って青ざめ皆の顔を見渡した。

「○$白骨で、義眼の中の光さ。青海鼠に黄蜥蜴、:@2#岩孔の炎、痩せた鼠、・・・」

 これ以後、兄はまともに発言ができず、人とのコミュニュケーションがとれなくなった。

 座敷にいる者皆が勝一を見つめていた。

 一座の緊迫感が増す中、勝一の顔色が赤く、呼吸は浅く速くなり、額に汗が出てきた。

「疲れがひどいようだね。皆で年越し蕎麦を食べて、今夜は解散しましょう」

 母がそう言った。

 四角い木の箱に蕎麦を盛る名物の「へぎ蕎麦」が出てきた。

 一九四六年(昭和二十一年)の元旦未明、勝一帰還の祝宴は散会となった。

「楽観的で、自分をしっかり持っている」

 これが母の勝一評だったが、今や兄はひどい精神状態で、翌朝元旦になっても意味不明な言葉をブツブツとつぶやいていた。

「勝一さんはアタマがおかしくなって復員してきた」

「まともな会話ができないらしいよ」

 隣近所はむろん、町内にそういう話がいきわたった。 

 ところで、元旦の新聞に驚くべき記事が載った。

 昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(いわゆる人間宣言)を発表したことと、GHQが修身・日本歴史・地理の授業の停止を指令したというニュースであった。

「宣言」は次のようだった。

(ちん)爾等(なんじら)國民ト共ニ在リ、(まさ)ニ利害ヲ同ジクシ休戚(きゆうせき)(喜び悲しみ)ヲ分タント欲ス。」と始まる宣言は、平たく言えば、「私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではない。」

 ということだ。

 昭和天皇が現人神(あらひとがみ)であるという従来の考え方を自ら否定した内容だ。

 これには父も私も、家族の皆んながたまげた。

 明治の日本は国家目標を富国強兵に置き、昭和になると国の目標をアジアの盟主に変え、我が国を神国と讃え、天皇陛下は「現人神(あらひとがみ)の天皇」となった。

 人間宣言はこの歴史を一挙に覆すという内容だ。

 この詔書が、実はGHQの主導で作成されたという経緯があると言われるが、マッカーサー元帥はこの詔書に満足したようである。天皇は事前にこの書を承諾していた。

「今回は急に『人間宣言』が出されて、天皇陛下が全国巡行に出られるという。天皇は〝神様ではなく、国民と共にある人間〟になられたということだろうか」

 勝一兄は、このとき、はっきりした言葉で私にそのように言った。

「昭和天皇は戦争の最高責任者としてもっと詳しく弁明するべきだ」

 私はそう応えた。

「納得できないことはほかにもたくさんあるよ。先頃まで天皇を『現人神』として讃え、戦争の提灯持ちをしていた新聞が、今日は天皇について『平和に徹し民生向上』『天皇現御神にあらず』というように、手のひらを返すような報道をしている。変身ぶりが不思議だね。ラジオ放送も同様な変身ぶりだよ」

 私の感想だった。

「こういう話はアカのすることだと捕まるわよ」

 妹が脇で心配した。

「これを読んでごらんよ。従来への反省がまったくないよ」

 私はそう付け加え、新聞を出した。


 “群衆は二重橋を埋め尽くしていた。きょうもあすもこの国民の群れは続くであろう。あすもあさっても『海ゆかば…』は歌いつづけられるであろう。民族の声である。大御心(天皇陛下の御意思のこと)を奉戴(ありがたく戴き)し、苦難の生活に突進せんとする民草の声である。日本民族は敗れはしなかった”(※19) 


「この論調には反省はなく、昭和天皇陛下の御意思を戴き、『海ゆかば…』を歌いつづけるのが日本民族の声だと言っているよ」

  私はそう述べた。

 『海ゆかば…』は「大君の()にこそ死なめ」と歌い、天皇と戦争を賛美する歌であった。その歌が今後も歌いつづけられるであろうという論調である。

「おや、熱心に話しているね。間もなくご馳走を出しますよ」

 母が台所から声をかけた。

 詔書が明治天皇主権の御誓文に由来するとはどういうことだろうか。私には「屁理屈(へりくつ)」としか思えないが、それをほかならぬ昭和天皇が言うところが真に不思議と言うほかはない。

「人間宣言」がなぜ「五箇条ノ御誓文」の引用で始まっているのか、その事情について、昭和天皇自身が後日、(記者会見での質問に対し)次のように説明している。


 詔書の初めに五箇条の誓文が引用されたことについては、それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです(※20)。 


 これを見ると、昭和天皇の人間宣言、民主主義宣言は明治天皇の五箇条の御誓文に由来すると主張している。

 天皇は「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではない」と言うのだが、これは正確な主張だろうか。

 否、民主主義、平和主義は、天皇制国家、全体主義国家への批判と反省から、戦後に言われたものである。特にGHQのマッカーサーが日本大改造、民主化に情熱を燃やしたのだった。

 だから、天皇の主張は誤りと言わざるを得ないだろう。


「日本では終戦を境に、昨日の国家主義者が今日は民主主義者、平和主義者に無理矢理に変身するというような例が数限りなくあるよ」

 後日、阿倍先生がそうおっしゃったことがあるが、天皇も例外ではないと言わざるをえない。

 ただ、阿倍先生は次のようにもお話しになった。

「この時代、昭和天皇は内閣や軍部等が一致して決めたことを否定しない、余計な発言をしないという立場を守った。つまり君臨すれど統治せず、として、これを立憲君主国の君主の在り方だとお考えになっていたのです。いい悪いは別で、昭和天皇はそういう立場を守り抜いたということです。開戦も終戦も人間宣言も、皆、昭和天皇自身のお考えというより、周囲がお膳立てをして実行に移したことなのです。ですから、私たちは“天地逆転”がどうして起きたのか検討する必要があります」

私、勝治自身は、天皇は人間宣言などをするより、この際、戦争の責任をとって退位するべきだと思った。南原繁東大総長が天皇退位論を発表するなど、当時、批判は強まった。

 しかし、やはり当時、東京大学の社会科研究会が東京都内の壕舎生活者対象の世論調査をしたところ、天皇制支持が八十.一パーセント、反対五.一パーセントであり、読売報知新聞が報じた世論調査では九十四.八パーセントが天皇制支持と言う結果だった。天皇と天皇制存続は国民の大多数から支持されていた。

「勝一の復員祝いですよ」 

 母と美智子が作った山菜の天ぷらや餅入り雑煮など、当時としては大変なご馳走がちゃぶ台に並んだ。 

 母の笑顔も母の声も木村家の家族には観音菩薩のように映った。母は常に木村一家の中心にいて、家族の願いを支える観音様であったと言えよう。

 越後の名物ちまきや笹団子も出てきたし、ゼンマイやサトイモの煮付けも並んだ。

 美智子の笑い声がはじけるようだった。

「みんなそろってのお正月、何年ぶりかしらね」

 母がうれしそうに言った。

 勝一にとって家族がちゃぶ台を囲んで話しながら食事のできる光景は信じ難いものであった。

「夢の中の出来事のようだ」

 勝一はうれしそうな表情で、言葉も正気だった。病状は気まぐれに現れるようだ。

 正月三が日は雪が降り続いた。

「雪を見ていると、混乱している頭が休まるよ」

 勝一は座敷からじっと雪の降る様子をながめていた。

 店の初売りが始まった。

 しかし、私の肺の病気は相変わらずの状態で、喀痰検査で結核菌が検出されるので店の手伝いもできなかった。

 店内に品数は少ないが、周囲に戦争が終わったという開放感があった。

 松の内の晴れた日、岩崎紀子さんが十日町絣の和服を着て姿を見せたが、顔には火傷を隠すためのストールを掛けていた。

 紀子さんは高級な絹織物を扱う家に育っていて、和服が似合う人であった。

「これから火傷の治療に十日町病院に行くのよ」

「十日町病院?新しい病院なのかい」

 勝一はこの病院を知らなかった。

「ええ。十日町病院は去年開院した新しい病院だわ」

 紀子さんのやけど跡は少しずつ良くなっているようだった。

 この正月に、復員列車が長岡駅に着く時間になると、もう何か月間も毎日子供を駅に迎えに出ているという老婆の話を聞いた。

「息子がせっかく帰ってくるのに誰も出迎えないのは寂しいでしょう」

 その老人は駅まで数キロの道を歩いて、毎日毎日駅のホームまで迎えに来ているそうだ。

 彼女は、夏には息子用の着替えのシャツを、秋以後はセーターを抱えて来るという。

「糸のように細くなった息子が青くなって帰ってくる」

 老婆は繰り返し、そのように言っているという。老人には、きっと、糸のように痩せ細った子供の姿が見えているのであろう。

 兄がよく聞いていたラジオ放送がある。 

「復員便り」とか「尋ね人の時間」という番組で、戦争中に行方不明なった人たちを捜すためにラジオで呼びかけるという内容だ。

「復員便り」を引き継いだ「尋ね人」は放送の効果が大きく、消息の判明率は四十~五十%に達するそうである。

「ミンダナオ島にいた○○連隊の××隊の方々の行方を捜しています。お心当たりのある方は尋ね人の時間まで」

「○○市に住む××さんが、マニラ市街で食べ物を渡してくれた女性を探しています」

 といったことを男性アナウンサーが低い声で伝えていた。

 正月が終わり、私は長岡の療養所へ戻った。

 雪に埋もれていた越後に春が来ると、山菜や花々が一斉に芽を吹く。一番にマンサクが開き、やがて梅が咲く。

 オオルリやコマドリが動き出す。五月半ばになると山藤が見事だった。

 兄はのんびりと里山を歩き平和な景色を楽しんだ。

 初夏にかけて十日町は苗代作りや田植えの季節を迎える。

 勝一兄は毎日田んぼの景色を見に出かけているようだった。

「田の緑色や匂いが気持ちいいよ」

 盛んにそう言っているそうだ。    

「道で竹馬の友と再会した。彼は私に、子供の頃お前はおれよりずっと恵まれていたと言い、その後、戦争で気がおかしくなったと聞いたが、本当だろうかと尋ねたよ。何が幸せで何が不幸か分からないものだと言っていた」

 ある日、兄はそう言って変な顔をして散歩から帰ってきたと、私を見舞いに来た美智子が私に教えた。

 勝一の幼馴染は、私たち一家がなにかと世の中に批判的であるから、お前の家族はアカじゃないかという(うわさ)が立っている、とも言ったそうである。

 アカという言葉は、当時、共産党旗の赤旗にちなんで党員やシンパをこう呼び、共産主義者や共産党を侮蔑したことばである。そうならば、保守的な父の一也はチャかクロだろう。

 東京・山田洋品店の奥さんから「裕太さんが娘と結婚した」という便りがあった。兄にぜひ山田洋品店に戻ってくれないかとも書いてあった。

だが、兄は東京の洋品店で働けるような健康状態ではなかった。



 九 父の語る戦後


 一九四六年、昭和二十一年五月、マッカーサー元帥のGHQ(連合国軍総司令部)による占領下で、第一次吉田茂内閣が発足した。

 勝一が復員して一、二年経った頃、彼が以前英語を習った恩師、阿部大志先生が来宅され、私もお茶を飲みながら先生と話したことがある。

 勝一は昔、阿部先生のお宅に通い、英語の勉強をしていた。

「東京大空襲についてね、先頃、日英対訳の珍しい文章に出合いましたよ。興味深いので紹介しましょう」

 先生は一枚の紙(読売新聞社説)を私たちに見せた。


 “Great Tokyo Air Raid a war crime."

 訳 東京大空襲は戦争犯罪だった。

 “I suppose if I had lost the war, I would have been tried as a war criminal. Fortunately we were on the winning side." 

 訳 もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた。


「これは、昭和二十年三月十日未明、東京の下町大空襲の指揮をとったカーチス・ルメイ米司令官が語った言葉なんだ」

 先生が見せてくださった読売新聞社説は、東京大空襲の指揮をとった米司令官が「東京大空襲は戦争犯罪だった」と認める述懐を紹介し、大空襲が明らかに国際法違反だったことを指摘していた。

「こういうことを述べるアメリカ人は非常に少ない。と言うより、ほとんどいない。だから、この司令官の発言は非常に勇気のある言葉だ。アメリカ人のほとんどは東京大空襲も原爆投下も肯定しているよ。我々日本人は、これからの時代、戦争犯罪は戦争犯罪としてアメリカ側にはっきり主張したいね」 

 先生はさらに次のように言われた。

「日本では空襲や原爆の悲惨さを訴えれば世界中で共感されると思うような傾向があります。ですが、日本の侵略を受けたアジアの人々は、日本が原爆を落とされたのは天罰だと思っている人々が多いですよ」

 ・・・阿部先生は視野が広い。ただ敗戦ショックを受けているだけじゃ先に進まない。

 軍国主義の下で抑えられてきた日本だったが、占領軍の支配下に置かれ、今度は一転して、新生日本という表現が合い言葉のようになった。民主主義・自由主義の宣伝が進められ、食糧難や精神的な混乱の中でとまどいながらも、皆が話し合った。

「新しい国をどういう国にするのかということだ」

「教育もやり直しだ」 

 しかし、このような付け焼き刃の主義主張は底が浅いので、よほど注意しないと問題も起きる。それでも時流の勢いは強かった。

 日本の再建にまず取り上げられた問題には、国の基本的な在り方を定める憲法、それに新しい教育制度の改正、農家の自立を目指す農地開放の三点があるだろう。

 長年続けられてきた国家主義・軍国主義を捨てて、国民一人ひとりの力を伸ばし、民主主義国家を形づくっていかなければならないということになった。これは大変なことだった。

 国民の力を伸ばすのは大事だが、私には、「自由主義・民主主義・平和主義・男女平等」など新しい主張は、とまどうことが多い。

「国家主義、軍国主義を改める必要がある」

「民主主義の徹底が大事だ」

「男尊女卑を止め、婦人参政権を大切にしたい」

 こういう会話が日常茶飯事だった。これらの改革は旧来の日本を根本から変え、新しい民主日本を切り開いたことは確かだろう。

 民主主義国においては、天皇や政府ではなく、国民に主権がある。

 しかし、これまでの軍国主義、国家主義が平和主義、民主主義に急に転換した、その違和感は、私などにはどうしようもなく強かった。

「つい先頃までは天皇や国家を中心に据えて教えてきましたが、今は新しい教科内容もはっきりしないうえ、教科書も不足してますね」

 阿部先生はそう言われた。

「学校の教科書は不都合な箇所を墨で塗りつぶして使いましたよ」

 文部省から学習指導要領が示されて、生活経験に結びつく子供たちの自主的な学習を重んずる教育が主眼となった。

 日本の軍国主義に批判的であったのは、一部の思想家ではなく、驚くなかれ、文部省や政府自身だった。何かのきっかけで、このようにも極端に変わってしまった。

 この後、阿部先生の話が続いたが、概要は次のようだった(以下《》内、先生の話)。


 《戦争から解放された国民のだれもが、「明日は今日より豊かになる」と信じているようだ。住宅はもちろん、食糧も衣服も満足なものは皆無だし、停電は日常茶飯事だ。それにもかかわらず、気持ちは、流行の〝リンゴの唄〟のように、明るさに光り輝いている。

 周囲の子供らの小学校入学記念写真を見ると、裸足の子が多く、栄養がよくないせいか「洟垂(はなた)れ小僧」が多いね。

「貧しいのだが、表情が明るいよ」

「気候は寒いけれど、心には温かいものがあるんだね」

 周囲がそんな会話をしている。 

 昭和二十一年九月、文部省は国民学校五・六年生用の社会科教科書として『くにのあゆみ』を発刊した。

 戦時下の「国史」は神代の時代から始まる天皇中心の歴史で、神話による国史が強調されており、修身教科書は、「国体の精華」を明らかにし、「国民精神」を養い「皇国の使命」を自覚させるため、次のように、素朴な祖国意識に訴える文章を掲げていた。

 

 日本ハ春夏秋冬ノナガメノ美シイ国デス

 山ヤ川ヤ海ノキレイナ国デス(中略)

 日本ヨイ国 キヨイ国

 世界ニ一ツノ神ノ国

 日本ヨイ国 強イ国

 世界ニカガヤクエライ国 (※21)


 これに対し、『くにのあゆみ』は石器時代から始まる記述で、天皇の神格、現人神との規定は否定し、憲法に主権は国民にあると明記した。

 私などは天皇主権の伝統に慣れ親しんできたので、急に国民主権と言われてもとまどうことが多いね。

 昭和二十年十二月、衆議院議員選挙法で女性の国政参加が認められ、翌二十一年四月の総選挙には、十日町でももんぺ姿の女性たちが喜び勇んでゾロゾロと投票に出かけた。この光景が忘れられない。中には正装して投票所に向かう女性もいた。

 小学校の奥山校長や中学校の赤松という、私の同級生で校長になった者たちが、なにかにつけて、同窓会等で「自主性」の大切さを話した。私の頭にもその言葉がこびついてしまったよ。

「お上の命令で動くのをやめて、国民自身が考え、国民自身が決めるようにしよう」

「自分たちの自主性こそが大切なのだ」

 皆そういう思いで、新しい時代に向かって漕ぎ出したようだった。

 GHQは教育の抜本的改革を図るため、次のように「教育の四大指令」を発している。

 1)日本の教育制度に対する管理指令

 ・軍事教練の禁止

 ・教科書の問題箇所の削除など

 2)教職追放の具体化を求める指令

 3)国家と神道の分離指令

 4)修身、歴史、地理の使用停止に関する指令

「軍事教練、歴史、地理は禁止だね」

「うん、そういうことだよ。これまでの教育の偏りがひどすぎて、軍事教練はむろんのこと、従来の歴史も地理も教えられなくなった。この点はドイツやイタリアも同様なようだ」 

 昭和二十一年十一月、日本国憲法が公布され、翌年、教育基本法、学校教育法が施行され、六・三・三制となったことはご存知の通りだね。》

 

 阿部先生のお話はだいたいそういうものだった。

 しかし、阿部先生の言う「 私などは旧来の、お上中心の伝統に慣れ親しんできたので、急に国民主権とか言われてもとまどうことが多い」というくだりには、私もまったく同感だ。同年配の者はおそらく皆が同じ感想だろう。

 国民主権は、国民が政治権力の拠り所・責任主体であり、政府は国民の意思により設立され運営される機関であるとする思想だという。国民主権は主権在民または人民主権とも言うそうである。

 今の若い人たちはどうなのだろうか。主権の在り方についてどう考えるのだろうか。

  さらに、阿部先生からうかがったお話をここに紹介しよう。

 《二十年三月頃から日本列島中の都市が問断ない空襲を受けるようになった。

 また本土沿岸に近づいた米艦艇は艦砲射撃をも行うようになり、釜石・室蘭等がその目標にされた。

 空襲は北海道の根室や釧路から鹿児島、宮崎、那覇、石垣島等まで、六十三都市に対して行われ、米軍は一万四九七四機のB29により九万五七七七トンの焼夷弾を投下した。

「五月三十一日、マッカーサー司令官が日本本土上陸作戦の準備命令を出したことが分かっている」

「六月一日、アメリカではスティムソン委員会が全会一致で日本への原爆投下を大統領に勧告しているんだ」

 これは、戦後、改めて調べて分かったことだった。

 ところが、同月九日、

「本土決戦我に有利、断じて戦い抜け」

 鈴木貫太郎首相は両院本会議でそういう施政演説をしていた。断じて戦い抜けという演説はどういう情報に基づいた主張なのだろうか。歴史家はきちんとした検証をしてほしいものだ。

 同月十日には、B29二九二機、P51約七十機が関東全域に来襲し、各地の航空・軍事施設及び工場地帯を爆撃した。

 同月十二日、フランス文学がご専門の渡辺一夫東大教授が新潟県燕市に滞在なさっていて、次のような日記を書いている。


 六月十二日

 一週問前から燕にいる。(中略)

 何千何万という民家が、そして男も女も子供も一緒に焼かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。東京攻囲戦はすでに始まっている。

 戦争とは何か、軍国主義とは何か、狂信の徒に牛耳(ぎゆうじ)られた政治とは何か、今こそすべての日本人は真にそれを悟らねばならない(※12)。


 このような日記は当時日の目を見るわけがなく、国民は知りようもない。「軍国主義」「狂信の徒」などという言葉があることすら皆知ないだろう。 

 軍人や政治家、経済人等、時の流れに乗って調子よく生きる人たちが多くいる傍らで、こういう学者もいて物事を違う目で見ていたのだね。

 学識経験者の中でも世界文学通の吉田健一さんや伊藤整さんら多くの知識人が戦争に高揚した気持ちで対している一方で、渡辺一夫さんや南原繁さんらごく少数の学者は冷静に戦争批判をしていた。

 国民はどうだったかといえば、『草の根の軍国主義』(佐藤忠男、平凡社)という書名が示す通り、根っからの愛国者が大部分であった。

 大都会でも地方の中堅都市でも区別なしの無差別大量爆撃が続き、住民はどこにいても安心できない日々を送っていた。

 人々は、軍関係者やマスコミの人たちの「神州不滅」とか「醜敵撃滅」とか、意気盛んな気炎をよく聞かされたが、実際にはこのような大空襲に合い、ただ敵機の蹂躙にまかせて燃えさかる街々の惨状を見て、住民は戦局に対する不安を覚えた。

「無敵皇軍」を豪語する友軍は敵機の来襲も探知できないし、我がもの顔に乱舞するピカピカの米軍機に対し、貧弱極まりない対空砲火では、ほとんど効果がない。

 心血をそそいで建設したという新潟各地の飛行場からはわずか十機ほどの迎撃機が飛び立っただけであり、大方の飛行機は無残にも地上で撃破されてしまった。

 この頃、国民の間に軍人への不信感、厭戦気分、将来への不安が流れたが、これも無理のないことだ。

 全国への大空襲は無差別殺戮(さつりく)のすさまじさを見せつけただけでなく、守備軍の情報収集能力の無能ぶりを国民の眼前にさらすことになった。

「日本兵戦死者二百数十万人の遺骨の半数以上が、今も南方の島々にほったらかされたままだ。日本は遺骨の収集もきちんとしない国なのだ。過去を清算しない国に過去からの卒業はない」

 ある時、私の同僚がそのように言っていた。

「骨を拾う」とは、元来が後始末をする、死後の面倒を見るという意味であり、遺骨が行方不明なようでは兵士の命のけじめがついたとはとうてい言えない。彼らの魂はまだ南の島々をさまよっているのだろう。

 遺骨ほったらかしでは、無念の思いを残して逝った戦死者の霊は浮かばれない。

 報道によると、戦争に勝った米国は行方不明の米国人を調査し、国がらみで遺骨の発掘作業を継続しているようだが、日本の計画的な遺骨収集事業は終了し、「補完的な遺骨収集」が民間の協力を得て、細々と続いているだけだ。これでは、ジャングルで死んだ人たちの霊魂は帰りたくても帰れない。

 生きた兵たちを南方戦線に放置しただけではなく、亡くなった遺骸をもほったらかし続ける日本では、人々の温もり、物事のけじめが、なくなっていくことが当然と私は思う。》

 以上、《 》内が阿部先生のお話だ。私には、その個々が全て賛成できるという内容のものではない。南原繁さんの天皇退位論などは到底受け入れられない。

 しかし、阿部先生の意見には博識の先輩発言として耳を傾けるべきものもあるのではないかと思う。

 さて、戦争から解き放たれた子供らは夢中で遊んでおり、遊び場は神社や広場のほか道路や路地、田畑、野原や川や山でも自由自在に遊び回っていた。 

 子らは家のかまどで使う焚き付けの枯れ松葉を山に拾いに出かけた。

 街には古い芝居小屋があり、町民はどさ回りの芝居や、そこで上映される米国のワイズミーラーが主演するターザン映画をよく見に行った。  

 子供たちは、ノミ、シラミの退治のため、学校でDDTを体中に散布され、先生は「鐘の鳴る丘」や「みかんの花咲く丘」などの唱歌を教えて、皆で歌っていた。

 また、新制度の小・中学校開設に次いで、二十三年四月から新潟県立十日町中学校・十日町高等女学校が、それぞれ県立十日町高等学校・十日町女子高等学校となり、勤労青年を対象とする定時制課程も併設された。

 二十五年には、十日町高校と十日町女子高校を統合し、県立十日町高校が発足した。地元産業に結びつく工業科(のち、染織科)が設けられ、二十五年からは農業科・被服科も設置された。

 ところで、報道によると、レイテ島への投入兵力は八四〇〇六名、戦没者七九二六一名で、生還者(主に俘虜)二五〇〇名から言えば戦死率は九七%だったという(※22)。

 その数字のすごさが勝一の経験した戦場の厳しさを物語っているだろう。

 勝一の精神状態は、心のバランスを欠く症状がまだらに出現した。

「網膜の底に閃光(せんこう)が走るよ。死の烙印を背負う髑髏(されこうべ)の背中に黒蛇がとぐろを巻いているというような、奇怪な想念が時々襲ってくる」

 と彼は暗い顔つきで言った。

 続いて、例の妄想も湧いてくるようだ。

 〝ボーフラを飼っている池の水を飲み、遺骸と死臭で満ちた木の根元に休む。薄暗い森は日本兵でいっぱいだ・・・〟

 勝一は恐怖感や無力感に襲われ、物事を避けたり、感情が無反応になったりする症状が起きるようだ。

 こういうときには密林で腐っていく死体が放つ、へどを吐きたくなるような悪臭が漂う、と勝一は言う。

 私自身は以前、戦地でのむごい体験から就寝中に時々うなされてうめき声をあげたりしていたが、勝一ははるかにひどい状態であった。

 悪夢や幻覚、妄想、苦痛が繰り返し襲ってくるようだし、睡眠障害、集中力困難、過度の警戒心や驚愕反応、不安の爆発というような症状が起きた。

 しかし、勝一は生きようとしており、岩崎紀子さんや故郷の人たちとの交流、十日町の田園のなかで、少しは落ち着きを取り戻しているように見えるときもある。

「苦痛が繰り返されるようなら、一度、私が通っている十日町病院に行って精神神経科で相談してみるといいかもしれないわね」

 紀子さんがそう言ってくれたことがある。

 紀子さんの勝一思いには、感謝して余りあると妻と話し合った。

 勝一は、紀子さんと一緒に、彼女が勧めた十日町病院へ行って診察を受けた。

 その結果は、「戦争後遺症」つまりは戦争による精神的外傷という診断だった。

「神経系の症状が顕著で、記憶力・思考力・集中力・注意力などの低下、不眠・疲労感・頭痛などがあります。そのほかの症状には、目眩(めまい)・勃起障害・筋肉痛・しびれ・下痢や発疹・せきなどがあります。治療法が確立されていないため根治は難しく、症状の軽減に重点を置いた処置が中心です」

 医者はそういう説明をした。

 医者との面談で勝一は戦場での体験を話したうえ、神経を休ませる薬をもらった。また、医者の勧めてくれた本を読んだりしていた。

 勝一は、医者の勧めで松之山温泉にたびたび行って静養した。 以下は、美智子が勝一から聞いた松之山の体験談である。「私」というのは勝一のことだ。


 “十日町市の松之山地域は長野県に接する県境の山村温泉郷で、平らな耕地が少ないこの地方は、急な斜面をだんだんに切り開いた田んぼが山の上まで続き、美しい棚田が広がっている所だ。

 棚田を囲むブナの森は四季折々に変化に富む表情を見せ、たくさんの動植物たちが生息し、訪れる者の心を癒してくれる。

「ここの山菜料理は抜群の味よ。コゴミとウドのゴマ和え、ウルイ、ショデとアズキナのお浸し、アケビの芽の三杯酢など、素朴な山菜の味だわ」

 松之山温泉に滞在する私(勝一)を訪ねてきた紀子さんがうれしそうに説明し、菜の花のお浸しを小皿に取って私に差し出した。

「実家の山菜料理もうまいが、ここのはひときわ甘いね」

「雪が深い分だけ味が甘く濃くなるのよ」

 この地域独特の美しさ豊かさに魅かれ、各地から愛好家が訪れていたが、私も春夏秋冬季節ごとにここに行っていた。

「勝一さんはここの温泉が好きなようね」

 紀子さんがそう言うので、

「そうだね。故郷の中の、そのまた古里という感じかな」 

 などと私はこたえた。

 昨秋はここで採ったアケビの実を二人で食べ、その新鮮な甘い香りに古里の味を感じたこともあった。

 太陽の残照が向かの山々を照らしながら、周囲が暮れようとしていた。

 私はずっと以前、二人が江ノ島で過ごした、あの時間を思い出した。

 ・・・あのとき、人気が引いた海辺はひときわ美しく、周辺は潮騒の音がするだけで、金色の月が海の上にくっきりと浮かび上がった。

 月の周りだけがきれいな青色に染まって、息を止めるほどの美しさだった。二人は海岸で天地のドラマをながめ、お互いに、胸にしみこむ温かさを感じた。

 そして今、私は、火傷が治ってきた紀子さんの顔を見つめ、彼女も私をじっと見つめていた。江ノ島の時と同じように、夢のような時間だった。人生にはこういう貴重な時が何回あるのだろうか。”(以上、勝一の話)


 勝一のこの話は、美美智子の印象に強く残ったそうである。

 勝一と紀子さんのロマンスを感じたからだろう。勝一も妹に話すくらいだから、よほど忘れられない時間だったのだろう。

 やがて紀子さんの顔面ケロイドもだいぶ縮小し、ストールをとっていても気にならないくらいに回復してきた。紀子さんも勝一もそれがうれしくて、たまには一緒に街を歩くようになった。

 ところで、十日町にもアジア系の外国人たちが住んでいたが、その中の窃盗団に、十二月末、我が家の商品を根こそぎ盗まれるという事件が起きた。

 ちょうど暮れの売り出しに備えて商品を豊富に準備していた時に、その商品のほとんどすべてを盗られてしまった。

 地元の警察では状況証拠でほぼ犯人を特定したのだが、確かな物証がなく、結局は逮捕できない。

 この窃盗事件で木村家の家業はグラッと傾いた。

「よくぞ、ここまで根こそぎ盗られたもの、というような大被害だ」

 警察の関係者がそう話していた。

「回復は難しいわね」 

 妻がつぶやいた言葉が印象的だった。 

 この事件は我が呉服店経営を直撃する被害を与え、一家中がガックリきたまま、家業回復が難しい状態となった。歳末売り出しのため、蓄えた財産の大半をつぎ込んで準備した商品が盗まれたのだから、衝撃も影響も甚大だ。

 一生のうちには信じられないような出来事が起きるものだが、それにしても、この時代には日本の歴史に影響を与えるような、大きな出来事が次々と立ち現れた。

 戦後改革のうち、農地改革についてもここで触れておきたい。この事情は長岡市郊外の療養所に入った勝治が調べたもので、勝治のメモ癖は私譲りの習慣だったようだ。

 勝治はサナトリュ―ムで一進一退の状態で療養していた。

 療養所に見舞いに行く妻は勝治の下着などとともに、梅・ツツジ・小菊や南天など家の庭にある四季の花々を持っていった。

「調べ物もいいけれど、無理をしすぎると体に障るよ」

 妻が言うと、

「特にやることもないので、様々調べてはメモしているのさ」

 勝治はそう言っていたそうだが、そのメモは、食糧のこと・教育のこと・国の動き等々多岐にわたり、この記録を書く上でも役立つ。

 さて、農地改革だが、GHQの最高司令官マッカーサーは、「寄生地主」が日本の軍国主義に加担したとして改革を行った。

 これにより、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上没収し)、小作人に売り渡された。

 これは全国的に行われ、実に七割余りの農地が地主から小作人のものに換わり、日本の農家はこれによって基本的に自作農となった。

 自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。

「農地が地主から小作人のものに換わったこと、これは革命だよ」

 勝治は叫ぶように言っていたが、私も同感だった。この変革によって日本中の農業が沸きたったのだから。

 ところで、 

「君は亡くなった戦友の実家を訪ねたのか。お前だけのうのうと暮らしていていいのか」

 勝一は、ふとした時に、知り合いの者にそう言われたらしい。

 この言葉は彼の心にぐさりと突き刺さったようだった。

「亡くなった戦友を思うと、自分だけ生きていていいのかと思う」

 勝一は、普段から、自分自身がそう言っていたからだ。

「戦場で逝った戦友の実家を訪ねることなどどうしてできようか。どこで生きているとか、帰還が遅れるが帰ってくるとか、そういう知らせならいくらでもしたいが、戦友が亡くなった時の様子などどうして知らせられようか」

 これが勝一の気持ちだった。

 さて、木村呉服店の従業員は、家族も入れて多かったから、妻や美智子は食事やお茶の手配にそれなりに気配りが必要だ。

 お昼は時間をずらしながら同じ献立の食事をして、夜の食事は私夫婦と美智子の三人、それに帰国した勝一の四名でとった。

 当時の食糧事情について、妻にも聞いたので少し書いておこう。

「奥さんお野菜の配給ですよ。久しぶりの配給です」

 妻がこの声に喜び勇んで出かけたらキュウリ半分の配給で、その代価が四銭ということだった。封書七銭、駅弁が五十銭の時代だ。

 野菜の配給も家庭菜園がある家庭では余裕で過ごすが、我が家ではあまり作っていなかった。

 従業員のなかに農家の者がいて、野菜を持ってきてくれたり、親戚の裏庭でできた野菜をもらってたりしてしのいでいた。このような苦しい食糧事情は敗戦後の日本中を覆っており、十日町でも大同小異だった。

 昭和二十年は、十日町は大雪で大凶作だったのに加え、秋には十日町橋も流失するという信濃川大洪水に見舞われて、沿岸の耕地は何十年来経験しなかった大被害を受けた。

 すでに都会からの疎開者たちが食糧の入手に困っていたところへ、戦地から帰ってきた兵士たちや海外からの引き揚げ者が加わってさらに人口が増え、大変な食糧不足となった。

「十日町が食糧難とは情けないね」 

「信じられないような状態だ」

 消費人数が結構多い十日町では食糧の配給が何日も滞って、米などの供出を円滑にするよう、町長・助役が先頭になって村々を訪ねて供出のお願いに歩くというほどだった。

 この年は天候不順と積年の肥料不足で、明治四十三年以来という大凶作となり、さらに空襲による食糧配給所の焼失、外米の輸入途絶も食糧難にさらに拍車をかけた。

 東京の場合は主食のほとんどを都外からの移入に頼るため、食糧不足は絶望的様相を呈したようで、米に限らず食糧の公的な流通機構はほとんど壊滅状態にあり、人々は実質的には大部分が闇による調達で露命をつないだ。

 加えて、鍋・釜・バケツ・食器・傘・マッチ・縫針・電球・靴・下駄等々、日用品の何もかもが不足していた。

「ナイナイづくしだ」

「誰かが隠してるんじゃないか」

「日用品の生産目標、時期決る。年内に鍋六九〇万個、戦災者には毛布百万枚」と新聞が報じ、

「これで越冬用の毛布が手に入るかと焼け跡で胸をなでおろした」

 と語る壕舎生活者もいた。

 焼け跡にある仮小屋での、衣食住すべてにわたる耐乏生活で、食生活に対しては一千万人の餓死者を生むだろうという見解が流布され、「栄養失調」という言葉が流行し始めた。

 ところで厚生省は第一次復員兵、第二次復員兵合わせて七百八十四万人の失業人口を生ずるものと推定されるという発表をした。

「失業者が七百八十四万人というのはすごいね」 

「膨大な数字だな」

 これらの失業者対策として厚生省はまず女子に家庭復帰を求めた。

 復員兵士と外地からの引き揚げ者を中心に失業者が街にあふれた。

 終戦時、陸海軍の軍人は七百二十万人を上回っており、その内国内の部隊は一九四五年十一月までに復員を完了したが、南方部隊の復員は一九四六年の末までかかった。

 故郷に戻った多くの兵士たちに職はなく、外地に生活の本拠を持っていた約三百万人と言われる一般人引き揚げ者も同様だった。

 引き揚げ者はすべての財産を失っているため、帰国しても住む家も働く職場もなく、援護も行き届かなかった。

 十日町でも満州開拓団や満蒙開拓青少年義勇団に参加した人たちが帰って来た。

「せっかく帰ってきた故郷に職がない、食糧がないとはね」

「住む家もないんだよ」

 こうした大量の人々が、まず直面したのが毎日の食糧難であり、戦争が終結して平和が訪れたものの、国民は食糧危機に心底苦しんだ。

 朝鮮、台湾からの米の輸送が困難になったため、昭和二十年七月から配給は一人一日二合一勺(約三百グラム)まで減らされた。

 加えてこの年は空襲や本土決戦準備、それに天候不順で四十年ぶりの凶作に襲われ、米の収穫は前年より四十パーセントも低い三九二〇万石にとどまって、食糧の絶対的な不足は深刻さを増した。

 政府は米以外の屑米(くずまい)・麦・雑穀・サツマイモ・ジャガイモなどを米に換算した総合供出制をとったが、それさえも確保できず、「一千万人餓死説」が流れるという状態だった。

屑米(くずまい)もないのか」

「これでは生きていけない」

 二十一年は、サツマイモは豊作だったが、生産地から消費地へ送ることができず、産地で腐らせてしまうという地域も出ていた。まして魚のような生鮮品は輸送が難しく、大都市と生産地にアンバランスが生じていた。

「柏崎の親戚に頼んでお魚の干物を送ってもらおうかしら」

 妻はそう言っていたが、魚はカラカラに干し上げていないともたないから輸送は難しい。

 東京の山田用品店から勝一に便りが届いた。二十七歳になったという裕太さんからだという。

 “東京では食糧難は相変わらずです。サツマイモやスイトンがあればいい方ですよ。ある店の前に行列ができると、皆が鍋を持って並ぶんです。何を売っているのか解からないまま、とにかく並ぶんだよ。有楽町や新橋駅前の闇市に、飢えた復員兵やもんぺ姿の人々が群がっていますよ。江戸前寿司なんか三十円もするんだぜ。”

「どこも食糧難なのだなあ」

 勝一は自分のアタマや体が思うように動いていかないことに焦っているようだった。ただ、「根源となる命」とか「無限の命」とか、以前は言わなかった言葉を発するようになったのだが、これは何か良い(きざし)だろうか。

 


 十 母の語る昭和鎮魂歌


 夫の軍艦カレー自慢は相変わらずで、復員してきた勝一に食べさせるため、肉の入っていないジャガイモばかりのカレーがたびたび食卓に上りました。

「衣料品の自由販売が始まるね」

「衣料は今より自由に売り買いできるようになるようだね」

 戦争中の繊維統制、ぜいたく品製造販売制限規則、戦後の衣料品配給制という経過を経て、昭和二十二年、進駐軍は各家庭に投票券を配って、人気のある衣料店から販売の許可を与えるという方策をとりました。

 戦時中は反物の長さ制限を行い、長袖の和服やダブルの背広など「非必需品」六百余種の製作、生産を禁止したので、

「これでは越後縮みも明石ちぢみも滅びてしまう」

 同業者は集まるとそのように嘆いていたことは前述しましたが、食料品に比べても衣料品の供給がさらに困難だったので、一定の商品に販売の許可を与えるために、占領軍が、投票、販売という方法を考え出したのです。

 衣料品を扱う小売商人が選挙のような関門をくぐるのは初めてのことでしたから、関係者は死活をかけた意気込みで投票に臨みました。

「当選しなきゃ、生き延びられないよ」

「上位当選を果たそう」

 このとき我が木村呉服店は、家族や親戚はむろん、従業員や縁者を総動員して、町内会や昔からの客筋等に働きかけて大奮闘しました。その結果、町で一、二位を争う千票余りを獲得し当選しました。

 店ではいち早く衣料品販売を開始したものの、配給制からの転換がうまく運びません。

 同業者の中には、織物や和服に見切りをつけ、扱う商品を洋服や実用的な衣料品の販売に転換した店もあるし、商品を学生服や体操服、子供服へと広げていく店もありました。

 ですが、私の店では、伝統的な十日町の織物や着物を中心にした商法を変えませんでした。あくまで十日町の伝統にこだわったのです。

 この頃、木村呉服店が朝鮮人窃盗団に商品を根こそぎ盗まれるという事件が発生し、これで家業がグラッと傾いたことは、夫が前述いたしましたが、家運はその後さらにジリ貧の道をたどりました。

 私たち夫婦の老齢化に加え、勝一、勝治の病気が災いとなって、店の勢いは回復しません。

 売り上げを伸ばそうと、初売り・初午(はつうま)・節分などと季節の行事に合わせて大売り出しもしたのでしたが、しかし人々の生活は厳しく、売り上げはたいして増えませんでした。

 木村呉服店の皆が必死でがんばりましたが、営業成績は振るわず、戦後の衣料販売、自由競争の波にじりじりと乗り遅れることになったのです。

「経費を減らすために、従業員の何人かに辞めてもらうほかはないなあ」

「うーん」

 家族でそういう相談をしなければならない時がきて、従業員に話をして退職者を募る事態になってしまいました。    

 勝一の温泉療養も経済的な負担から不可能な状態になり、弟、勝治の病気は回復しないまま、長岡での療養生活を細々と継続していきます。

 勝治の療養所には私や美智子が一か月に一度の割合で見舞いに行っておりました。勝治の病気が治るという見通しはありませんでした。

 店で客を待っているだけでは売り上げが減るばかりでしたので、夫と美智子は得意先を訪ねて歩く行商を始めました。

 町の郊外や近隣の山間部に出かけて見本を見せて注文をとり、一定期間後に調達した品物を届けたのです。

 勝一は精神状態の不調で家業の手伝いもできず、本人はイライラしているようでしたが、これも仕方がありませんでした。

 私や夫の髪に白いものが増えてきまして、夫はコタツでじっと目をつむっているようなときが多くなりました。

 従業員は辞め、店舗には私だけがいるようになりました。

 夫はコタツで過ごし、美智子独りで行商に出かけるという日々が増えるようになりました。

 冬場、八海山にも周囲の山々にも雪が積もります。

 風の強い二月下旬、岩崎紀子さんは勝一と話をしていました。

「東京の萌黄(もえぎ)から、和服担当者として復帰してくれないかという話がありました。私はどうしようかと迷っているの。勝一さんはどう思いますか」

「・・・・・・・・・」

 窓から見える信濃川の川面に雪が渦巻くように降りかかり、周囲では、カラスの集団が激しく鳴き騒いでいます。

「東京へ戻ろうか十日町で暮らそうかと・・・」

「・・・私のアタマが正常に戻らなければ、・・・生活のメドもつかない・・・」

「・・・・・・・・・」

 今度は紀子さんが沈黙しました。

「・・・自分の道を進んでください。・・・私には貴女を引き止める力がありません」

 勝一は低い声で言いました。

 “君と見て一期の別れする時もダリアは(あか)しダリアは紅し〟(北原白秋)

 勝一は、なぜかこの歌とともに、昔、紀子さんと過ごした江ノ島海岸の光景を思い出していたと、後日になって私に言いました。

 こうして、二人はこれ以上は話も進まず、重い沈黙を残してお別れしたのです。

 勝一が妄想に苦しみ、時々意味不明の言葉を発するような症状が起きるようでは、私たちも紀子さんを引き止めることができません。

 紀子さんは東京の萌黄(もえぎ)に復帰することになり、昭和二十二年三月下旬、上京いたしました。

 二人の気持ちはどんなだったでしょうか。誰もどうすることもできません。

 どうしようもない出来事ばかり続くのを前にして、私たちは何もできずに、大切なものを確実に失いながら、それでも生きていくしかありません。果たせぬ思いを抱えながらも、胸苦しい夜は否が応にも明けてしまうのですね。

 勝一の気晴らしと言えば、たまに街の映画館へ行くことくらいで、原節子主演の「我が青春に悔いなし」、イングリットバーグマンの「カサブランカ」などを見ておりました。

「映画を見終わって外へ出ると冷たい風とともに寂しさが身に染みる」

 と勝一は言い、やがては映画も見ないようになりました。

 勝一には、衰退した家業のこと、東京へ行ってしまった紀子さんのことなどが思われるようでした。

 さて、美智子は近郷の復員兵で、司法書士を勤める男性に望まれて見合いをして結婚しました。男性は浅尾信夫といいました。

 しかし、間もなく、その浅尾が戦地の悪夢を見て夜中に飛び起きたり、泥酔して信濃川に落ちたりする人だと分かるようになりました。

 浅尾信夫の母は信夫を庇い、偏愛して、美智子に辛く当たっていたようです。

 美智子は信夫の女遊びに気がつきました。信夫は週末になると夜遊びに出て行ったのですが、どうやら越後湯沢に愛人がいるということが分かったのです。

 信夫は、酒が入ると美智子に手をあげるようになり、耐えかねた美智子は何度も実家に逃げ帰りました。

 美智子はあれこれと苦労を()めた末、高血圧症になり、その二年後には突然、脳梗塞に襲われ、あっけなく亡くなってしまいました。

 私は、(ひつぎ)に美智子の好きだった着物を入れ美智子の身体を覆うときには、このような悲しみを味わうなら、いっそのこと私も一緒に旅立ちたいと感じました。

 優しい美智子を失い、私も夫一也もしばらく立ち上がれませんでした。

 美智子の急死で、私たち夫婦は頭を幹竹(からたけ)割りに斬られたような悲しみを味わいました。以後、私たちは生きる力を失った感じでした。

 子供が亡くなる辛さ、寂しさは口ではなかなか言えません。 風に鳴る木立のさやぎも子供らがすすり泣く声のように聞こえ、私たち夫婦は長い悲嘆の時をじっと耐えて生きるほかはありませんでした。ミシミシと身を削られるような悲しみでした。

 私は力をなくし、やる気が起こらない空虚な日々を送り、夫は自分の魂がどこかへ飛んでしまっているような表情で、ぼんやりと生きておりました。

「なるべく忘れるようにして、次に進もう。そうしないと生きていけないよ」

 私たちはそのように言い合ったものの、忘れられるはずはなく、苦痛は日を追うごとに強くなるのでした。

 一年以上経ってから夜ごとの寝汗と夢に襲われるようになり、下着を何度も取り換える羽目になりました。

 この冷たい寝汗や夢見はその後二年近く続き、収まったかと思うと、また繰り返して同様な体調になるのです。

仕事の何もない夜、火鉢の上で夫とカルメヤキを作って食べ、子供らと過ごした思い出をたどるときがありました。

 思い出とは、子供らとの関係を姿や映像、子供らの体温や息づかいで感ずることなのですね。

 それは過去のものでありながら、今も生きている感覚ですから、生々しいのです。

 この火鉢を囲んで家族でワイワイ言いながらカルメヤキを作って食べた記憶が、その甘さとともに苦くよみがえり、涙が自然と頬を流れました。

 カルメヤキは炭火の上にかけたお玉杓子(たまじゃくし)にお砂糖を少量溶かし、手早くかき回してカラメル状態になったら箸の先に炭酸を付けてかき回します。昔は、みるみる膨らむのがおもしろく、皆で食べましたっけ。

 美智子死亡の後、やがて八年の歳月が流れました。

 療養していた勝治は、薬石効なく、一九五七年(昭和三十二年)、三十六歳で死去いたしました。 

 私たち夫婦は、この時も心身を袈裟懸けに斬られたような痛みを感じました。

 勝治の一生は、肺結核という難病に蝕まれた生涯でした。

 私たちには、また、言うに言えない胸苦しさ、切なさが襲ってきました。

 これは何ものだろう。よーく見ると、それは取り返しのつかない悲しみ、寂しさです。

 ですが、やがては昼間の労働の疲れで眠気が襲ってきて、眠ってしまいます。夜中に二度、三度と小用に起きるものの、結局はまた眠りにつきます。

「観音様」

 目覚めると、私は自然に声に出し自然に手を合わせて合掌しておりました。

 こういうとき、私は亡くなった子供らの息づかいというか魂と一緒にいる感覚になりました。この頃は、合掌すると子供の霊と私の生命とが一緒になっているような感じです。

 祈ること、この記録を書くこと、その一つひとつが、亡くした子供らとの断ち切られた日々をつなぎ直し、記憶を過去から未来へと引き継いでいく思いがするのです。

 さて、話題を変えましょう。

 “あなたの苦しみは計りしれませんが、どうか、あなたの心だけは悲しみ、苦しみに負けてしまわないでね。生きていれば、きっといいことがあると信じています”

 勝一が紀子さんからそういう手紙が来たと知らせてくれました。

 ところで、翌昭和三十三年、勝一の病状は一進一退の状態から脱して、なんと、なんと、改善の兆候が見られるようになったのです! 

 それは、東京に行った紀子さんが、ドイツで開発されたという精神的外傷を治療する新薬を入手して、勝一に渡してくれたことが始まりでした。

 薬については、裕太さんの早耳ニュースがはじまりだったようです。

 東京の有名な病院で精神的外傷を治療する薬をドイツから輸入し、臨床で使用した結果、有効な結果が出たというニュースを裕太さんが聞きつけて、それを東京にいる紀子さんに伝えたのです。

 紀子さんが機敏に動いて新薬の入手に至ったのですが、その経過は省略します。ただ、紀子さんと勝一の心が強い絆で結ばれていたと思うほかなく、紀子さんに感謝の言葉もありません。

 東京の人たちも薬を手にできたことをたいそう喜んだということでした。

 紀子さんはいまだに独身で元気にお勤めをしており、なにかにつけて十日町にもお帰りになっていましたが、この時もすぐに十日町に駆けつけてくださいました。

 勝一は紀子さんが渡してくれる新薬の服用を始めました。数ヶ月続けた結果、よい効果が見られるようになったのです!

 それに何より、心を寄せてくださる紀子さんの存在が勝一の心の支えになって、病状は快方に向かっているようでした。

 やがて、その薬は十日町病院でも処方してくれると分かりました。

 半年後、勝一の幻視や幻想は軽減し、顔色が改善してきました。不眠や目眩(めまい)もなくなってきたと言います。

「なんだか本当の自分に返ってきているようだ」 

 勝一が晴れやかな顔つきでそのように言った時、私たちはどんなにうれしかったことでしょう。

 美智子や勝治は亡くなっておりましたが、彼らが生きていたらどんなに喜んだことでしょう。

 紀子さんの喜びはひとしおで、十日町にたびたび来られるようになりました。

 紀子さんの存在は何ともありがたく、言葉も見つからないほどです。

 寂しい老残の身を送っていた夫と私でしたが、勝一の健康状態が改善するにつれて、暗闇に灯火を見つけたような明るさを感じ、生活に張り合いが戻ってくる気がしました。

「勝一が元気になって仕事ができるようになればね、希望が湧いてくるわね」

 私は夫にそのように申しました。

  この前年、岸内閣が成立し、また、この年には東京タワーが完成して話題になりました。

「米国が初の人工衛星の打ち上げに成功してよ、一万円札が登場した頃だよ。この時代は華やかそうに見え、懐かしがる人が多いのだが、どういうものかな」

  夫はそう言います。

「昭和三十年代には生活はだんだん便利になりモノも豊富にはなった。が、一方では人間の温かさがなくなった。人への思いやりや優しさがなくなっていったのではないかな」

 これが一也の感想ですが、私も同じ思いです。

 さて、幸いなことに、病状がよくなってきた勝一は少しずつ家業の手伝いを始めました。

 医師の勧めで勝一はとりあえず毎日一時間ほど歩く習慣を身につけ、摂取する塩分を減らして、糖質の多い食事を控えることになって、体調がよくなってきました。

 私も夫も、木村家の将来に一筋の灯りがともってきたように感じました。

 この頃、東京の井出裕太さんが、妻になった山田洋品店の娘さんと一緒に、子供を連れて遊びにきたことがあります。お子さんは三歳になっていました。

「東京でテレビの本放送が始まったよ」

 裕太さんは時の話題が豊富な方でした。

「紀子さんは元気で働いているよ」

 裕太さんが勝一に紀子さんの消息を伝えていました。

 勝一は彼らを松之山温泉にも案内しました。十日町のすぐ隣にある温泉地です。

 山々が両側から迫ってくる山間(やまあい)にあります。

 ここはかつて勝一が逗留した温泉で、紀子さんが何度も見舞いに尋ねてきてくれた所でした。

「松之山は、故郷の中の、そのまた古里という感じかな」

 勝一は紀子さんにそのように言ったことがあるそうです。

「その頃から、いや、もっと以前から、紀子さんの命、自分の生命が続いている不思議さを感じたんだ」

 紀子さんの面影を思い浮かべながら、勝一はそう考えていたのだそうです。

 ・・・数々の戦歴や爆撃、被災にもかかわらず、二人は生き延びてきたんだな。

 これが勝一の感慨でした。

「松之山には温泉のほかに棚田やブナの森があって、四季折々に変化に富む表情を見せるよ」

 勝一は裕太の家族に松之山の案内をしていました。

「五メートル以上の豪雪に耐え抜いたブナは、木が太く複雑な造形をしたものが見られるよ」

 ブナの原生林は見事な林で、周辺にはたくさんの動植物たちが生息していました。

  宿のご亭主がおもしろい話を聞かせてくれたそうです(※23) 。

「この辺りは、自然がたいそう豊かでね、谷間にノジコがいてね 、人なつっこいヤマガラも見えますよ。山道にそっと咲いているささゆりは美しい」

  勝一はノジコについて質問をしました。

「ノジコは緑色のホオジロ科の小鳥ですよ」

 宿のご主人は特に小鳥に詳しいようだった。

「泣く子も黙るアカショウビンもいますよ」

「アカショウビン?」

「そう、アカショウビンです。森林に生息するカワセミの仲間ですよ。燃えるような赤いくちばしと体全体が赤色を持つことから、火の鳥の異名を持っています」

 勝一が子供の時には、私の話す越後の昔話が好きで、「むじなとトッツア」や「深沢の化けギツネ」などという話を好んで聞いていましたが、その話に登場する狐などのように、神秘的な生き物たちがこの里にはたくさんいると感じたと 勝一は申しました。

 宿のご亭主は続けます。

「ホタル、蝶、小鳥、小動物、秋色の棚田、秋の空、棚田の朝景色、古里の夕景、夏の朝霧、早秋の里山、冬の棚田、小川の音、湧き水。この山里には万物がうごめき、息づいていますよ」

 松之山の静かな自然の中を、裕太さんの子供が数日間、元気で駆け回っていました。

 勝一は奥深い山間の宿で、子連れの友人家族とゆっくり過ごして、子供や夫婦、そして自分の生命が過去から今へとつながっているのだなと感じたそうです。

 ・・・自然連鎖、命の連続。 

 悩みの深い日々であっても、自然は続き、命の動きも続くと気づいたと言いました。

  そして、自分の命と他の命との絆が自分を支えるし、その絆から生きる力を得られるような気がするとも言いました。

 ・・・紀子さんはどうしているかな。元気でいるだろうか。

  勝一はふっとそう思ったそうです。勝一の心奥底に紀子さんがずーっと生きていたにちがいありません。

 勝一は裕太さん一家と、ここで楽しく過ごしたようで、

「裕太の家族と過ごして楽しかった。それに、山や森の生気に触れて元気をもらったよ」

 と、笑顔で帰ってきました。 

「折を見てフィリピンへ戦友の霊を慰問する旅に行きたいな」

 数日後、勝一はそう申しました。

 戦友の霊を訪ねて慰問する旅は、きっと、勝一自身の霊魂と命が復活する旅にもなることでしょう。

 私たちは、息子が元気になってきたことを喜び、今後どのように生きていくのか、応援し、見守っていきたいと思います。

 この辺でこの記録も終わりにします。私たち家族にとって昭和とは、どうやら「落日の時代」だったような気がいたします。

 戦争の進行と敗戦とともに、家運も国も傾き、家族が不幸になっていったからです。

 この時代、特に戦争が終わるまでは、私は、次々に連続する不幸な出来事を受け取って、そのまま生きて息をして、また、翌日を迎えて老いていくしかありませんでしたが、勝一が回復してきたことや、紀子さんとの縁が戻ったことなど、希望が見えてきたことが何よりの喜びです。

 その光を(とも)し続けて、日が高く昇る時を迎えたいものです。

 昭和前半の連続した不幸は、私たち家族だけの特殊な運命だったのか、それとも日本の多くの家族に共通の出来事だったのか、今、還暦を迎えた私は過ぎ去った時代と家族を見つめています。

 家族や家業のこと、十日町のこと、戦争と敗戦、経済成長など、なんと様々なことがあったことでしょう。

 昭和の数十年が過ぎ去っていきました。今後の時代はどのようになっていくことでしょう。

 私たちの希望は過去の反省から汲み取れるということを信じ、我が家族の昭和を記録に残します。

 この記録に協力してくれた勝治や美智子は記録が仕上がる前に亡くなってしまいました。ですから、これは私が子供たちに捧げる鎮魂歌でもあります。

                                                                     (終り)







参考文献、参考資料


 ※1 『昭和二万日の全記録』講談社

 ※2 雑誌「波」二〇〇七年六月号 半藤一利

 ※3 ウェブページ百科事典「ウィキペディア」

 ※4 『昭和史』半藤一利 平凡社

 ※5 『太平洋戦争』林 茂 中央公論社

 ※6 『昭和二万日の全記録』講談社

 ※7 「証言記録 兵士たちの戦争」NHKBShi

 ※8 『太平洋戦争』林 茂 中央公論社

 ※9 ウェブページ「父のレイテ戦記 ある将兵の話」

 ※10 『太平洋戦争』家永三郎

 ※11 ウェブページ「大阪百年史」

 ※12 『昭和二万日の全記録』講談社

 ※13 ウェブページ「Nagaoka Air Raid」筆者不詳

 ※14 ウェブページ「追想長岡大空襲」野村権衛他

 ※15 『昭和史』半藤一利 平凡社

 ※16 『昭和を点検する』保坂正康、半藤一利 新潮社

 ※17 『「昭和」を点検する』半藤一利 講談社現代新書

 ※18  朝日新聞 昭和二十年八月十六日

 ※19 ウェブページ百科事典『ウィキペディア』

 ※20 ウェブページ百科事典『ウィキペディア』

 ※21 『太平洋戦争』林 茂 中央公論社

 ※22 厚生省援護局調査課、『レイテ戦記』大岡昇平

 ※23 十日町市松之山森のホテル「ふくずみ」

 

 

 






白洲一歩しらすいっぽ


 略歴

    一九三九年〈昭和一四年〉山梨県甲州市生まれ

  一九五八年〈昭和三三年〉山梨県立日川高等学校卒業

    一九六五年〈昭和四〇年〉早稲田大大学院文学研究科修士課程修了

  一九六五年〈昭和四〇年以後〉角川書店・赤本等編集担当、都立高校教諭歴任 

    二〇〇〇年〈平成一二年以後〉小説等を執筆 現在に至る

 筆歴 

  『いのち』(絵本) 二〇〇四年発行 郁朋社 日本図書館協会選定図書

    『勝沼ぶどう郷の少女』(小説)二〇一三年発行 (株)ブクログ


 フェイスブック https://www.facebook.com/ippoo.shirasu 


終戦75周年を迎え、昭和の戦争から何を学んで次の時代に向かうのか、考えて進みたい。

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