02 ジモンの逡巡
騎士の骸から甲冑を剥ぎながら夕陽を見た。ジモンはその毒々しさに寒気を覚えた。
一面を埋め尽くす骸は、敵だった。皇帝の命令で派遣されてきた完全武装の正規兵で、貴族の手下で、つまり、今までの歴史上ずっと長いことジモン達を虐げ続けた連中の尖兵だった。だからといって、ごろごろ転がって、断末魔の表情で硬直して、眼球の表面に蝿をとまらせた見知らぬ騎士を、嘲笑ってやろうとは思わなかった。
ジモンの仲間達は、予期せぬ勝利に舞い上がって、歓声や罵声を上げながら、敵の死体を蹴飛ばしていた。それもしばらくのことで、今は金目の遺品を漁る方に夢中になっている。夜が深ければ地底の獣が現れて、骸も、宝も、すべて平等に平らげてしまうから。
ジモンは身震いした。両手には、血に塗れてもいまだ白銀に光る、まだ新しそうな腕甲が抱えられている。盗んだところで売るあてはなかった。ジモンのような貧相な装いの人間がこんな立派な品を店に持ち込んだりしたら、あっという間に捕まってしまう。こういう立派な甲冑は、立派な騎士が身につけるためのものだ。
その立派な騎士の大群を殲滅した手腕を、ジモンは理解できなかった。乱の前から少しばかりの馴染みであったあの赤髪の男は、ひどく陰惨な笑顔で、ただ言っただけだった。「戦いなんてのは貴族様方のもんだ。俺達は、もっと卑怯な手段で、あいつらを見返してやろうぜ。馬鹿正直に戦いに来る馬鹿共を、俺達のやり方で、徹底的に蹂躙してやるんだ」
ジモンは彼に頼まれて幾つかの手伝いをした。騎馬の足を引っ掛けるための細い金属の紐だとか。馬を興奮させる匂いの薬だとか。だが、それだけで血塗れの景色を作れるはずがなかった。きっと彼は他の人間にも他のことを頼んで、ジモンには想像もつかない知略を用いたのだろう。
はじめはびくびくと正規兵を待ち受けていた仲間達は、楽なもんだったさなどと嘯いて、大いに歓声を受けてた。怯えることなんざ何もありゃしなかったのさ。騎士様だろうが、何だろうが、所詮は人間だ。殴りゃ死ぬんだ、俺達が勝ったんだ!
俺達は勝ったんだ。ジモンはぴかぴかの腕甲を抱えて城へ戻った。
その城自体が勝利の証と言ってよかった。昔は威張り散らした領主の一家が住んでいたが、今ではジモン達の本拠地となっていた。
大広間の、元は領主のものであった椅子に、赤髪鬼は坐していた。広間は荒れ果て、調度は奪い去られていた。壁紙を剥がし、額を割り、陶器を掠め、金属を盗んだのは、勿論、ジモンの仲間達だった。貴族の財は平民の税で蓄えられたものだから、あの目を覆う程に醜い暴挙は、掠奪ではなく奪還であったのだ。
今は、殆どの者が城外に出ていた。戦果を――或いは戦禍を一瞥するや、さっさとここに戻ってきた赤髪鬼の近くには、美しい女が一人、侍っているだけだった。その長身の踊り子は、彼に心酔しているようだった。
「ジモン」女が妖艶に微笑んだ。男を誘う商売の癖で、他に何の他意もないことをジモンは知っていたが、それでもやはり魅力的なことには違いなかった。「どうしたんだ、ジモン。外はもう終わったのか?」
「とっくに」ジモンは答えた。「圧勝だ。魔法にでも掛けられたようだった」
女は言った。「知っている。知らせはもう届いている」
ジモンは沈黙し、赤髪の友人を見た。彼は気怠げに椅子に体を預けて、荒れた広間を見渡している。
女は皮肉げに笑った。「腕甲ひとつで、いいの」
「十分だ。鎧一式あったところで、着る方法がわからない」
女は眉根を寄せた。「それでは戦士になれない」
「いや」ジモンはぴかぴかの腕甲を掲げて答えた。「俺は、細工師だ。何に巻き込まれようが、終わるまでは右腕だけは死守する。これだけ厚い鉄の板の手袋なら……十分だろう、なあ?」
「わからんぞ」
僅かな苦笑は友人だった。彼は相変わらず、女を振り払いもせず、血の染みもそのままの椅子に埋もれて、地獄の悪魔のようだった。呆れたような、楽しそうな、けれども深い絶望を伴う口調も表情も、元々知っている通りのものでありながら、よく似た全くの別人のようでもあった。
「いや、お前が、右腕だけで細工をできるというのなら、十分かも知れないが」
「心臓を突かれるような戦いはご免こうむる」ジモンは言った。赤髪鬼は、くくと笑った。「お前の腕が敵より長ければ、剣も槍も届かない場所から敵の心臓を貫けるだろう」
「で、調子に乗れば、矢に射られて死ぬんだろう。ご免だ」
女がため息をついた。「臆病者」
「そうだ」ジモンは認めた。「俺は臆病だから、ここにいるんだ。あの晩まで同じ部屋で雑魚寝してた連中がこんな反乱に加わっちまって、一人で寝過ごすのが怖かったから、足ぃがくがく震わせながら付いてきたんだ」
きっと、残れば殺されていただろう。他の連中はどうしたと、何をするつもりだと、知りもしないことを答えるまで鞭打たれて。もっと酷い目に合わされたかも知れない。
後戻りできないから反乱に加担している。そういう人間は、きっと、多い。だから狂乱が激しいのだ。奪うことで、強者の真似事で、恐怖を追い散らせて。恐ろしいから騒ぐのだ。死にたくないから狂うのだ。
「俺達は」
ジモンは言った。
「俺達は、生きて帰れるか」
赤髪の男は、僅かに目を細めた。唇の端に一瞬、冷笑が浮かんだ。まるで魔王のようだとジモンは思った。誰かが、血と骸を祭壇に捧げて喚び出した、酷く禍々しい、人間ではないもののようだと。だがこの男は人間で、ジモンの友人だった。
「……俺は、無理だ」
女が愕然と彼を見た。彼は一瞥もしなかった。「故郷は焼けた。帰る場所なんかない。でも、なあ、いいだろ、別に。枕にする城ができたんだ。大出世だ。くだらねえ。この椅子だけはいいけどな。硬いし、冷たくて」
「私の故郷も燃えた」女は囁いた。それが運命の根拠だとでも言いたげに。
「…………」
「最期まで付き合えとは言わないさ」
魔王は呟いた。
女は、首を横に振った。出会ってひと月と経っていない相手に、どうしてこんなにも入れ込めるのか、ジモンには不思議で仕方がなかった。ジモンは半年以上も一緒にいたが、無愛想で変わった奴だなくらいにしか思っていなかったのに。だが、置いて逃げようとは思わなかった。ジモンは細工師だが、一人前になる前に師匠が借金で逃げてしまったせいで、捕まって農奴として売られたのだ。もう五年以上も前のことだ。細工師だなんて、もう、自尊心を保つための言い訳でしかない。修行が足りない。全然、足りない。自活もできない成人した息子が帰っても、家族は困るだけだろう。ただでさえ、戦続きで細工の需要は落ちている。弟子に入れる工房を見つけるまで、飢えて死なずに済むだろうか。
「逃げない」女は言った。「逃げない。絶対に、逃げない。必要なら――あんたが言うなら、死ぬまでだって戦う」
ジモンの友人は、珍しいことに、困ったように微笑んだ。その一瞬の表情の優しさに、ジモンは目を疑った。
女は逃げないと繰り返した。
ジモンは何も言えなかった。