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01 ヴァルトラウトの恋

 南の城門が破られた。その報告を受けた時、ヴァルトラウトは、むしろ今までよくもったものだと思った。

 敵は雪崩込み、城内の味方では、勢いを止めることはもうできない。趨勢は既に決していた。戦場がこの城に移る前、悪夢のようなアンゲリカ平原で、彼の胸に矢が突き立った瞬間に、ヴァルトラウト達の勝利は永遠に失われたのだった。

 ヴァルトラウトは鎚を握りしめた。もう何人を叩き殺したかわからない重い金属のその武器は、彼女にとって、自らの存在そのものだった。彼の背を追って駆け、戦った。理想のためだった。或いは純粋な愛のためだった。彼女は理想と愛のために、数十人の手足を砕き、肋骨を潰し、頭を砕いた。

 広大な帝国を敵に回した赤髪の男を、権力者たちは悪魔と呼んだ。力なき者は英雄と、若しくは希望と呼んだ。どちらでもない者は、愚者と呼んだ。だが、彼らは赤髪鬼[ハルト・グラナート]がひどく帝国諸侯と世界を憎んでいることを知ってはいても、彼の好物が素朴な焼き林檎であることは知らなかっただろう。どころか、彼が、嘗てはただの農奴であった、ありふれた名の青年であったことを知る者となれば、彼女と、他の何人かしかいなかった。そしてその殆どはもう生きていない。

「ご指示を。ご指示を!」

「…………」

 報告に来た若い兵士が、取り乱して叫んでいる。

 ヴァルトラウトは醒めた眼で彼を見下ろしていた。馬鹿みたいだと彼女は思った。

「破られたなら」睨んで、言った。「守りに行け。奴等を追い出せ。戦え。戦え! 死ぬまで戦え! いっそ名誉に思ったらどうだ、平民の私達に! 枕に死ぬ城があることを! まるで貴族じゃないか! 随分と贅沢な話だ! 我等は我等の理想に殉じるのだ! 我々が流した血の川の色を、地を埋め尽くした骸の色を、奴等の眼に、魂に、恐れと共に焼き付けるために! そうして――」

 そうして。いつか、本当の救いが訪れればいい。

 力なき者の牙と毒。そのしたたかさを示した彼が、死を覚悟して掴もうとした、儚い未来が。

 主塔が揺れた。悲鳴とどよめきが場を満たした。敵の投石機だ。何度も何度も撃ちこまれて、その度に上がる怯えの声が滑稽だった。逃げるなら、逃げればよかったのに。彼が死んだあの平原で。不様に瓦解したあの時に。森へ駆け込み、死体に紛れ、武具を投げ捨て、無関係なふりをして。そうして逃げた多くの裏切り者とおなじように。

「戦え!」

 ヴァルトラウトは絶叫した。

「戦え! 戦え! 戦え! ――逃れた仲間の、子のために! 語り継ぎ、悲願を伝える詩人のために! 私達が、餓えて貧しく無力でどうしようもない私達が、搾取されず、ささやかに、幸福に生きる未来のために!」

 そんなのは嘘だ。

「彼の死を無駄にしないために!」

 嘘だ。

「戦え――ッ!」

 彼に殉じる私のために。



 はじめは追い詰められての反乱だった。凶作で多くの餓死者が出た。しかし領主は年貢の不足を許さなかった。

 空腹と目眩いに重い足を引きずって、粗末な農具を握りしめ、勇気というより自暴自棄で城に向かった人々は、決して生きては帰らなかった。それでも彼らの行いは近隣に知れ渡り、いつしか餓えた群衆は波となって、ついには城を飲み込んだ。

 率いていたのが彼だった。経緯は知らない。だが、底のない憎悪を宿した双眸の、赤髪の男は、まるでそれが当然だというように、彼らの先頭に立っていた。

「なあ、もう、いいだろ?」

 立派な作りの、血塗れの椅子で、彼は哂った。

「一方的に奪われるのとか。殺されるのとか、さ」

 皇帝の不遜さ、魔王の不吉さで告げるその男に逆らおうという者は誰もいなかった。不思議なことに。

 旅芸人の踊り子だったヴァルトラウトは、彼が正に宣託を下すその瞬間に城の広間に辿り着き、そして魅入られた。

「もう終わりにしようぜ。そういうの。ひもじいのも、惨めなのも、娘が騎馬に攫われるのも、戯れに小突き殺されるのも、理由のない疑いで火炙りにされるのも、道楽の貨つくるため戦争に売り飛ばされるのも、美容のために生き血抜かれるのも。なあ、俺達はさ、もう十分に我慢してきただろ。もういいだろう?」

 恐らく、彼の言葉そのものに動かされた人間は少なかっただろう。だが、誰もが、反乱を起こした以上、討伐軍がやってきて鏖にされることはわかっていたし、それを恐れる多くは実際に逃げた。密告に走って、逆に囚えられ、酸鼻極まる拷問を受けた者もいた。彼に従う者は少なかった。だが、彼に逆らう者もいなかった。まったく不思議なことだった。

 ヴァルトラウトは一対の深淵の奥で燃える光に魅入られた。彼女の村を燃やしたのとおなじ、魂を焼き尽くす炎だった。

 彼は君臨した。彼女の王として。


 それが、ヴァルトラウトが知る限り、赤髪鬼のはじめの物語。

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