蜘蛛の糸
甲高い音が耳を突き抜けるような錯覚を身に覚え、睡魔に誘われて目蓋を閉じた。暗い部屋では何もかもが虚ろに見えて、思考すら夢の彼方へ消え去った。
食欲という生存欲求すら今では感じられず、倒れ伏したままの自分を俯瞰する。
そんな日々が何日続いただろうか。今ではそれが当たり前のことのように思えて、自然とこれから訪れる結末に心が準備を終わらせているようで――
私に連れ添う蜘蛛が笑う。「助けは要らぬか」と皮肉を込めて醜い顔で。
勿論、蜘蛛が笑うわけもないので、それはきっと私が見た幻覚。あるいは朦朧とした意識が見せた希望への観測。かの作品のようにどんな悪人にも助けが差し伸べられるよう、私にも伸ばされる糸があるものだと、そう思ってしまったに違いない。
ああ、しかし。あれはまた、違う意味のある話だったような……。
頬を歪めることで笑顔を作り出し、私は最後になるだろう叫びをあげた。
「ああ、神よ!いまあなたは私を見ているか!どんな顔をしているのか目に見えぬのが本当に惜しい。悲しんでいるのか?笑っているのか?それとも何も感じぬ慈悲なき心の持ち主か!
艱難を乗り越えぬ者は死ねと?試練に打ち勝てぬ者は業火に焼かれて朽ち果てよと?救世を訴える者は世に一人か!?己で生きていけぬ人はかくも愚かな生き物か!
縋れども届かぬその身に何を信じればいいのだ!
夢も希望も信心にすり替えて盲目になった人間は神さえも見えなくなるのか!
叫べども願えども届かぬ願いはどこに落ちていく。救いは?希望は?
どれもが瓦礫のように積みあがっていくのみか?そうすればいつか届くとでも言うのか! 私が清廉潔白の身とは露ほども思わぬが、それでもかの悪党ほどの罪は犯していないだろう。いや、私だけではない。いま今生に生きる数多くの者は罪を、罰を、己にしかと刻める潔い者達が住まう楽園のような時代ではないか!
何が違う?いや、神よりも日々を精一杯生きている私達生命が、神との優劣を決められる立場ではない筈だ!違うか!?
聞こえぬだろう。届かぬだろう。だが叫ばせて欲しい!私の死に行く最期の言葉だ。我儘も内に秘めて世を生き抜いてきた私の心の内を、少しでも世に吐き出したいのだ……」
それからどれだけ叫び続けただろうか。家庭内での不和。環境による生物に与える影響のどれほどが人生を決定付けるか。人生の意義。生まれてからこれまでの失敗談。成功談。
言葉も選ばず頭に浮かんだ言葉をそのまま喉から世界へ放出した。
喉が腫れ、赤黒い液体が口元を濡らしひゅうひゅうという音が耳を抜ける音だけを私は聞き続けた。やがてはその音すら聞こえなくなったが、それでも私は叫び続けた。
――後日。
マンションの一室で首を吊った男女の遺体と、部屋一面が■で塗りつぶされた異質な空間で■■の死体が発見された。■■は手足を■られ、首にはチョーカーのようなものがつけられていた。
■■がどんな目にあっていたかは推測の域でしか計れないが、決して幸福とは言えない状況だったのだろう。
近隣住民の話では、特に問題のない静かな家庭だったと言う。誰もが、口を揃えてそう言った。
警察は事件性のあるものではないと早々に事態を収縮させることで、上も下も納得のままこの件は忘却へと相成った。どれだけ一辺には異常の線が見えようとも、大多数から見ればそれは一握りの拳からも零れ落ちる泡のような細かさで流れ落ちた。
そしてこれは蛇足の話。いや、糸の絡み合わぬ一本筋の通った話。
■■の最期の姿。
眼球が緑色に染まった■■の身体の上で一匹の蜘蛛が死んでおり、■■の握り締められた手には、とても細い一本の蜘蛛の糸が握られていた。