一話
夏休み最後の一週間。
小学生の夏休みと言えば、毎日夜更かしに朝寝坊、遊びに家族旅行。
学校があるときでは出来ない生活を送って、勉強など忘れ去っていたユウトは山のような宿題を前にうな垂れた。
唯一進んでいたのは絵日記だ。絵を描くのが好きなユウトは毎日、落書き帳代わりに日記を書いていた。
「宿題が終わるまで外に出ちゃダメよ。もし外に出たらおやつ抜きだからね!」
お母さんは厳しくそう言い渡し、仕事に出かけて行った。
家に誰もいなければバレないように外に出るのが子供の常識だったが、ユウトには近所の知り合いが多い。
家から一歩出れば隣のおばさん、いつも遊びに行く猫のお婆さん、近くのコンビニの店長さんなど、ユウトが約束を破ったことをお母さんに言いつけそうな人たちが大勢いる。
それに宿題を忘れれば学校の先生が怖い。大声で怒鳴りつけられて一人で廊下に立たされてしまうかもしれない。
罰として学校の裏庭の掃除をさせられることも考えられる。
裏庭は木々が鬱蒼と茂り、じめじめとしていて、夏は蒸し暑く、冬は凍えるほど寒い。
しかも薄暗い日には幽霊が出そうなくらい嫌な空気を漂わせているので、肝試しに人気のスポットではあるが、近付きたくない場所としても名高い場所なのである。
窓の外に広がる、青い空に流れる白い雲。絵に描いたような真夏に水遊びすら出来ない。
目の前の宿題にうんざりした呻き声を上げながらユウトは算数のドリルを開いた。
「あれ?」
不意に窓の外を白いものが横切った。鳥の動きではない。虫にしては大き過ぎる。
顔を上げて目を凝らすと、隣の家の屋根の上に白いウサギがひょこひょこと移動している。
「遅刻だ!遅刻だ!」
そう喚きながら跳び回る白ウサギは赤い服を着て、男物の腕時計を前足につけ、二本足で走っている。
あれは本物のウサギなのだろうか?そう思ったときには窓を開けて
「こんにちは!」
と叫んでいた。
「どこに行くの?」
すると声をかけられた白ウサギは驚き、ビクリと毛を逆立てて
「すまないが、坊や。時間が無いんだ。後にしてくれ!」
言うや否や白ウサギは二本足で走って行ってしまった。
「急ぐのなら四本足で跳ねればいいのに」
そう呟きながらユウトは窓から顔を出した。屋根から飛び降りて姿を消した白ウサギを目で追おうと思い切り身を乗り出した瞬間、手が滑った。
体が宙に浮いて、ぞわりと胃が持ち上がる気持ちの悪い感覚がユウトを襲った。
落ちている。地面に向かって真っ逆さまに。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
ユウトは力いっぱい叫んだ。落ちる。そんな単純なことがこれほど恐ろしいことだとは思わなかった。
空想の世界でならすぐに宙返りをして、階段の三段上から飛び降りたかのように着地するのに。
段々と地面が近付いてくる。恐怖で思い切り目を瞑った。
だが、地面に触れる感触はなかなか訪れない。痛みも、目の前が真っ暗になることもない。
ふかふかした柔らかいものに包まれて、小さくなっていたユウトは目を開けた。
明るい。
「遅刻だ! 遅刻だよう!」
遠くであの白ウサギが喚いているのが聞こえた。ユウトが体を起こしてみると、遠くに走っていく白ウサギの姿があった。
まるで御伽話の世界だ。図書館で借りた外国のお話。小さな少女が不思議の国に迷い込んでしまう。
ユウトはいつも自分の空想によって魔法や不思議なことが起こる世界に入り込んではいるが、そこは全てが自分の思い通りに動かせる。
白ウサギを呼び寄せたいと思えば白ウサギはそれに従うだろう。
だが、いくら呼んでも白ウサギは振り向かず、やがて森の中へ消えてしまった。
そのことから察するに、ここは勝手知ったる自分の世界ではないらしい。
だけど落ちたときの緊張と恐怖の名残が確かにある。体勢から見ても落ちてきたことは確かなようだ。
下敷きにしている柔らかいもののおかげで助かったのだ。
自分がいるのはピンクと黒のふわふわした毛の中だ。滑らかな手触りのそれは静かな寝息を立てていた。
山のように大きな猫だ。赤や黒、ピンク色の縞だか斑だかわからないような模様をした猫が体を丸め、しっぽを地面に伸ばして寝ていた。
ユウトがいるのはその丁度お腹の部分。猫が息を吸うたびに温かい体に押されてよろける。
目の前には後足と前足が入り組んでいて通れない。
ユウトはその足を動かそうと力を込めたが起こさないように手加減しているせいか、ビクともしない。
仕方なく猫を起こしてどいてもらうことにした。
「猫さん、こんにちは。すみませんが、足をどけてここを通して下さい」
すると猫は大きく欠伸をしてむっくりと顔を上げ、細めた目でユウトを見た。
「嫌だね。」
「ほんの少し動いてくれるだけでいいんです。ここから出して下さい」
「ここから出て行きたいならボクの上を飛んでいけばいいだろう?」
猫は生意気にそう言った。ユウトは困って首を振った。
「それは出来ません。僕はただの人間で、鳥じゃありませんから」
「その二本の足でたーくさん助走をつけてジャンプすればいいじゃないか」
「……もし、しっぽを踏んじゃっても怒りませんか?」
大きな猫は起き上がって体をゆらゆら揺らして言った。
「ボクの体を少しでも踏んだら、お前の顔を引っ掻いてやる」
そう言って両手の爪を立てて引っ掻くマネをして見せた。
ユウトは少し後退りすると、泣きそうになりながら猫に向かって両手を合わせた。
「本当にお願いします。家に帰りたいんです。ここから出して下さい」
「嫌だね。出られるもんなら出てみなよ」
「無理ですよ。だって……ここは不思議の国でしょう?」
猫は驚いたようにポーンと跳ね上がり、ふふふ、と変な笑いをこぼした。
「ここがどこだって?」
「ここは不思議の国ですよね?」
「いかにも。どうして知ってるんだい?」
「話を聞いたことがあるだけです。アリスという子が冒険をする本に書いてありました」
猫がポーンポーンと踊るように体を弾ませながら大声で笑い出した。
「アリス、アリス。懐かしい名前。そんな話を聞かせてくれる本がどこにあるんだい?僕はこの国のことなら何でも知ってる。
だけど、この国のことを聞かせてくれる本には出会ったことがないよ!変な子、変な子!」
あまりに大声で笑う猫にユウトは少し苛立ちながら言った。
「僕にとっては喋る猫の方がよっぽど変です。本は本当にあるんです。アリスのことは知っているんですか?」
「知ってるよ。知っているとも。幼きイタズラ好きな女の子の名前だ。君はアリスの友達?」
「違います。会ったことはありません。名前しか知らないんだ」
「君が知らないアリスを僕は知ってる。この国で僕が知らないことはない。でもおかしいな。僕は君の名前を知らない。君の名前はなぁーんだ?」
ユウトは首を傾げた。猫もマネをして首をぐるんと大袈裟に傾げ、ニヤっと笑った。
そしてまたポーンポーンと左右に体を弾ませて尋ねた。
「君の名前は?なーまえは?」
右へ左へ跳ねる猫を目で追いながらユウトは答えた。
「僕の名前はユウト」
「ユウト! ユーウト。ユウト?」
何度も名前を繰り返しながらニヤニヤ笑いを浮かべる猫にユウトは尋ねた。
「猫さんのお名前は?」
「ボク?ボクには名前がなーい。でも僕はよくチェシャと名乗る。だからみんなはチェシャーと呼ぶよ。それなら君が呼ぶボクの名前はチェシャ猫」
チェシャ猫は声を出して笑った。そして少し足を止め、突然大きな声で言った。
「さぁ!」
あまりに大きな声だったのでユウトは驚いて目を丸くした。
チェシャ猫はまた体を弾ませた。そして楽しそうに話し出した。
「ユウトは何処からかやってきて、また何処かへ帰りたいと言う。
だけど僕はこの国の外を知らない。知らないから教えられない。教えられないから帰れない。
でもいつか帰れる。ではいつ帰る? ユウトが白ウサギに追いついたそのときに!」
言い終わると体をさっと避けて道を開けた。そしてまた丸くなって目を閉じ、眠りについてしまった。
ユウトはそれを通ってもいいという意味だと受け取って、猫から離れた。
「ねぇ、白ウサギを追いかければ帰れるの?」
聞いてみたが、返事はなかった。代わりに高鼾が聞こえてきて、ユウトはため息をついた。
教えてくれるつもりはないらしい。
ユウトがこの国に現れたとき落ちてきたはずの穴はすっかり見当たらない。
チェシャ猫の上には青空と葉を茂らせた大きな木があるだけだ。
仕方ない。他に元の世界に帰る方法を聞ける相手は一人だけ。
何とかこの国から出るためにもう遠く見えなくなった白ウサギを追いかけ始めた。
チェシャ猫のおかげでとんだ足止めを食った。でも森へ続く道は一本しかない。このまままっすぐ進めば白ウサギに追いつけるはずだ。
ユウトは速度を上げて白ウサギの姿が道の先に見えてこないか目を凝らした。
でもそこに見えてきたのは、二本に別れた道だった。
どちらにも白ウサギの姿は無い。足跡すら見つからない。
ただ森の木々で日差しが遮られ、薄暗い森が風に揺られてガサガサと気味の悪い音を立てているだけだ。
「……どっちに行けばいいんだろう?」
そう呟いたとき、近くに咲いていた大きな植物が一際大きな音を立てて動いた。
「どこへ行くんだい?」
見ると、植物の陰に大きなイモムシがいた。頭はバスケットボールくらい、体は丸めて転がした羽毛布団くらいある。
これがいつもの緑色でうねうねしたイモムシなら鳥肌が立つほど気持ち悪いと思ったかもしれないが、目の前にいるイモムシはビーズのようなキラキラした目と、ジェリービーンズのようなカラフルな丸い体をしている。
「不思議の国から出て元いた世界に帰りたいんだ。そのために白ウサギを追ってる。白ウサギがここを通らなかった?」
ユウトが聞くと、イモムシは近くにあった葉っぱを一枚千切り取り、むしゃむしゃと食べながら答えた。
「ウサギかい? ウサギっていうのは服を着た、ふわふわのウサギのことかな?」
「そう! そのウサギを探してるの」
ユウトが頷いたのを見てイモムシは大きく伸びをするように体を後ろに反らし、唸った。
そしてキラキラした目をユウトに近付けて笑った。実際に表情の変化はなかったが、ユウトには笑ったように見えた。
「だったらウサギのことを教える代わりに何か面白い話を聞かせてよ」
「面白い話?」
「そう。僕は退屈なんだ。森から出ないし、他に仲間も友達もいないしね。だから面白い話をして僕を楽しませてくれたら僕も話してあげるよ」
イモムシは言った。ユウトは考えた。人に話して楽しい話など、言われても思い浮かばなかった。
とりあえず最近見たテレビの話や、友達と遊びに行った時の話などをしてみたが、
そもそもユウトの住んでいる世界で起こった出来事を話してもイモムシにわかるかどうか、まずそこが悩みどころだ。
「森から出て、友達を作ればいいじゃない」
試しにそう言ってみたが、イモムシは再び唸るだけでなかなか返事をしようとしなかった。
仲間を探すのは難しいかもしれないが、森の外に出れば友達になれる誰かはいるはずだ。
たった今ここに来たユウトでもチェシャ猫と白ウサギに会えたのだし、他にも住人はいるのではないかと思った。
「じゃあ、一緒に行こう?白ウサギに会えたら君の友達になってくれるようにお願いしてあげる」
そう言ってユウトが手を差し出すと、イモムシはクネクネと体を左右に振った。考えている仕草のようだ。
そして何も言わずに何処かへ行ってしまった。
ユウトがイモムシの消えた辺りに視線を走らせていると、やがて道の先から声が聞こえた。
「君がそこまで言うなら行ってみよう。でも無駄だと思うよ?」
イモムシは大きな木の葉の傘と同じく葉っぱで編んだコートを羽織っていた。
ユウトが走って近付くと、イモムシはたくさんある吸盤のような足を使って歩き出した。
「この森を抜けた先にいつもお茶会をしている帽子屋という人がいる。そこにウサギがいたはずだ」
「……もしかしてそれ、三月ウサギじゃない?」
ユウトはため息をついた。探しているのは白ウサギだ。帽子屋と一緒にいる三月ウサギとは別人だ。
それでも他に手がかりが無い以上、森を抜けてそこへ行くしかない。
自分が探しているウサギとは違うことを伝えようとすると、イモムシが言った。
「三月ウサギと白ウサギは兄弟なんだ。通りかかれば必ずお茶を一杯飲んでいく。
運がよければまだそこにいるかもしれないし、いなかったとしても何処へ行ったか聞けるはずだ」
それを聞いてユウトはホッとした。帽子屋と三月ウサギが何か新しい情報を持っていることを願いつつ、歩いた。
願わくば、そこにまだいてほしい。
だが、チェシャ猫にイモムシにとだいぶ時間を取られてしまったので、もうそこにはいないだろう。
そう思ったユウトの予想は当たった。
「やぁ! こんにちは、坊や!」
「カラフルなイモムシを連れた坊や! お茶をいかがかな?」
ハイテンションな二人組。一人は大きなシルクハットにタキシード姿の男。こちらが帽子屋だろう。
もう一人は緑色の服を着た三月ウサギ。ミルクティー色の体に茶色い大きな目と飛び出した白い歯が印象的だ。
青空の下に置かれた長いダイニングテーブルには色とりどりのケーキとお菓子、果物、そして紅茶のカップが伏せて並べられている。
一つ、使い終わった空のカップがある。それが多分白ウサギの使ったものなのだろう。
「今日は素敵なお客さんが来てくれたね、三月ウサギ」
「あぁ、こんな最高の日に客人なんて、今日はなんて素晴らしい日なんだ!」
三月ウサギと帽子屋はそう言ってお互いに顔を見合わせてから、揃ってユウトを見た。
「何が最高の日なの?」
ユウトは聞いた。帽子屋はユウトを手招きして呼び寄せた。ユウトがそこにあった空きイスに腰掛けると、三月ウサギが言った。
「何と!今日はめでたい日、私たちの誕生日じゃない日なんだよ!」
「それの何がめでたいの?誕生日じゃない日は普通の日だと思うけど。」
帽子屋は眉を少し持ち上げてユウトを上目遣いに見ると、ゆっくり立ち上がって、傍にあったワゴンからポットを一つ選んだ。
そしてテーブルの上に伏せられていた新しい綺麗なカップにお茶を注いだ。
不思議なことにポットからはたった今まで沸騰していたかのように湯気が立つくらい熱い紅茶が出てきて、それはカップにたっぷり注がれた。
帽子屋はそのカップをユウトの手に持たせた。ユウトがその動きを眺めている間も三月ウサギは話し続けていた。
「誕生日じゃない日があるから誕生日が祝えるのに、どうして誕生日だけを祝うんだい?一年の中でたった一日しかない日を特別扱いするより、その一日じゃない退屈な日と仲良く暮らした方がよっぽど楽しめるってもんさ!」
ユウトは手の中のカップから紅茶を一口飲み、三月ウサギの話に頷いた。
確かに誕生日はプレゼントもケーキもあって楽しいけれど、誕生日じゃない日だって嬉しいことや何かが起こる。楽しいことに違いはないと思ったのだ。
自分のカップにもお茶を注ぎ席に戻った帽子屋がにっこり笑って言った。
「わかってもらえたようだね。」
三月ウサギがはしゃいで言った。
「そうか!わかってもらえたか!それは素晴らしい!」
三月ウサギはふとユウトを見て、帽子屋を見て、窺うようにテーブルの上の小瓶を見つめた。
「こんなにめでたいんだ。帽子屋、少しだけあの瓶の中身を坊やの紅茶に入れてあげてもいいんじゃないか?」
帽子屋は三月ウサギが指差した瓶に視線を移し、一瞬だけ渋い顔をしてユウトに尋ねた。
「坊や、年はいくつかな?」
「僕はユウトだよ。年は八歳だけど、それがどうかしたの?」
その答えを聞いた帽子屋はホッとしたように目を細めて、それから三月ウサギに言った。
「この坊やはまだ八歳で、子供だよ。あれは大人の人間にしか飲めないものなんだ。ウサギにも子供にも毒になってしまう。飲ませるわけにはいかない。」
「でも……」
「ダメだよ。大事な友人と素晴らしい客人を二人も殺してしまっては楽しいお茶会も台無しだ。さぁ、乾杯しよう。」
そんな猛毒をどうして紅茶やお菓子と一緒にテーブルの上に置いているんだろう。ユウトは疑問に思いながらも、口には出さず、帽子屋と三月ウサギに倣って乾杯した。
「誕生日じゃない日、おめでとう!」
二人の真似をしてカップをソーサーからちょこんと持ち上げて、それから紅茶を飲んだ。
ユウトはまだ紅茶の残ったカップをテーブルの上に置いて、帽子屋と三月ウサギに聞いた。
「ねぇ、ここを白いウサギが通らなかった?」
帽子屋と三月ウサギは目を閉じて紅茶の香りを楽しみながら、澄ました顔で答えた。
「白いウサギ?女王の白ウサギのことかい?」
「通ったとも。」
「本当?どっちへ行ったの?」
やっと有力な情報が得られそうだ。ユウトはイスから身を乗り出した。
「女王のウサギだ。城の方へ行ったに決まっている。」
そう言って帽子屋は道の先を指差した。遠くに霞んだ城が見える。あんなところまで行くのか。と、ユウトは少しうんざりした。
普段なら自転車やバスがある。まだ遠足以外でそんなに遠い距離を歩いたことはなかった。
「どうしたんだね、坊や?お茶のおかわりはいかがかな?」
「あの。僕はもういいからこのイモムシを誘ってあげてよ。退屈で困っているんだ。」
ユウトが言うと帽子屋と三月ウサギは腹を抱えて笑った。
さっきまでとは違う、耳障りな笑い声だ。
「イモムシはお茶を飲むのかい?お菓子を食べるのかい?それは知らなかった!」
「面白いことを言う坊やだ!楽しいね、帽子屋!今日は最高に楽しい日だ!」
二人はカップを手に、乾杯を唱えた。イモムシは俯いてブルブルと震えている。
それはあまりに哀れで、悲しい姿だった。
きっと今までも友達を作ろうと森から出てきてはこうして笑われてきたのだろう。
だから、ずっと薄暗い森の中にいたんだ。一人ぼっちで、退屈を凌いで。
ユウトは申し訳ない気持ちになって、イモムシの背中をそっと撫でた。冷たくて柔らかい感触が心地よかった。
「笑わないで。」
ユウトは呟いた。小さな声だったが、はっきりとよく響き、二人の笑い声を切り裂いた。
帽子屋と三月ウサギは笑うのをやめてユウトを見た。
「お茶を飲まないとここにいてはいけないの?お菓子を食べないといけないの?
ただこの椅子に座って誰かとお喋りしたいって思ってるだけなのに、それがおかしいこと?
イモムシには葉っぱを食べて生きるのが普通なんだ。
イモムシからしたらご飯も野菜も食べずにお茶とお菓子ばかり食べてベラベラ喋ってるあなたたちの方がよっぽどおかしいよ。
だけど、イモムシは笑わない。そうやって笑うのは失礼だって知ってるから!
心無いことを言って人を傷付けることがよくないってわかってるからね!」
帽子屋と三月ウサギは呆然としてユウトの話を聞いていた。
ユウトはイモムシの背中を押して道を歩き出した。道は一本になっている。もうここで話を聞く必要は無かった。
「ごめんね。僕が余計なこと言ったばかりに。」
「いや、いいんだ。……ありがとう。」
イモムシはそう言って、顔を上げた。その瞬間、ヒャッと悲鳴を上げた。
何事かとユウトが視線の先を追うと、そこにはチェシャ猫の姿があった。
「あれ?チェシャ猫……だよね?」
「そうだよ。何か?」
ピンクと黒の模様はそのままだが、様子がおかしい。
さっき会ったときとは大きさが違う。象のように見上げる程大きかったのに、今は大型の犬サイズだ。
それでも猫にしては大き過ぎるのだけれど。
チェシャ猫はユウトの困惑顔など意に介さず、ニヤニヤ笑いながら口を開いた。
「ユウトは城へ行くの?」
「うん……そのつもり。」
「城へ、は、行かないのがいい、と、思うなぁ。」
奇妙なリズムで喋りながらチェシャ猫はポーンポーンと弾んだ。
「どうして?白ウサギに会わないと帰る方法がわからないんでしょう?」
チェシャ猫は笑いながらアリスの周りをポーンポーンと回った。
「よくないよ。よくないことがあるよ。白ウサギには会えるよ。でも会うのがよくない。」
「でも僕、元の世界に帰りたいんだ。城に行って白ウサギに会わなくちゃ。」
チェシャ猫はまたニヤニヤしながらくるんと一回転した。
「城へ行くなら女王に首を刎ねられないようにしっかり首を捕まえておくんだね。」
そう言ってチェシャ猫は姿を消した。
チェシャ猫の言葉に対するユウトの反応は薄い。
さっき味わってしまった地面に叩きつけられる恐怖に比べたら女王のことはあまり怖くないと思えた。
それに首を刎ねられるなんて現実味のないことだったからだ。
でも、それとは対照的に隣で聞いていたイモムシは酷く怯えていた。
かわいそうなくらいブルブル震えてユウトに言った。
「ハートの女王には逆らわない方がいい。あの方はとても恐ろしい方なのだ。」
情けない声で言うイモムシをユウトが励まそうとした。
だが、そのとき声が聞こえた。
「ハートの女王が恐ろしいですって?おかしな人たち。」
「それよりも私はそこのイモムシの方が恐ろしいわ!そのイモムシを私に近付けないでちょうだい。」
「そうよ!踏まれたり、食い荒らされたりしてはたまらないもの!」
矢継ぎ早に話していたのは花たちだった。
ユウトより少し背の高い木が甘い匂いのする大きな赤い花を咲かせている。
「……花も喋るの?」
口がない。しかし確かに花から声がする。近くでよく見てみたが、目もないようだ。
顔のようなところはどこにも見当たらないのに、花たちにはユウトとイモムシが並んで立っているところが見えるらしい。
「当然よ。あなただって声を出して喋ってるんだし、私が喋ってはいけない理由なんてないわ。」
「そういうことじゃなくて、どうやって話してるの?」
「あなたと同じよ。言葉を紡いで、空気を震わせてるの。変なことを聞く人ね。何故そんなことが気になるの?」
「いや……お花さんにも口があるの?」
「何言ってるの?花に口があるわけないじゃない!口があったら化け物だわ!」
花は怒ったようだった。喋る花というだけでも十分化け物じみている、と思ったが言わなかった。
御伽話の世界だと軽く受け流していたが、あの白ウサギが喋ることだって普通ではありえないことなのだ。
チェシャ猫もイモムシも喋っていた。三月ウサギに関してはお菓子や紅茶まで飲み食いしていた。
今更、口のない生き物が喋ったところで驚くことではないと、ユウトは気を取り直した。
「ちょっと疑問に思っただけで怒らせるつもりはなかったんだ。ごめんね。ところで、女王様が怖くないって言ったね。どうして?」
「女王様はお優しい方よ。」
「いつも私たちを美しいと褒めて下さるわ。」
「薄暗い森の中にいた私たちを日当たりのいいこの場所へ移して下さったの。」
「それからは人の目に触れることも多くなったわ。」
「女王様はとても素晴らしい方よ。ちっとも恐ろしくなんかないわ。」
最初は声のする花の方へ顔を向けていたユウトだったが、段々とどの花が喋っているのかわからなくなってきた。
混乱しながらもユウトは話した。
「でも、すぐに首を刎ねる怖い人なんでしょう?」
「私たちも首を刎ねられることはあるわよ。」
「でも大丈夫。女王様は刎ねた首もちゃんと大切にして下さるわ。」
それは首を刎ねたんじゃなくて花を摘んだだけじゃないか。と思ったが、余計なことを言って花を怒らせてはいけないと思い、口には出さなかった。
それよりも重大な問題がある。
「それなら僕は城へ行ってみるよ。それで、もしよければお花さんたち。このイモムシさんのお友達になってくれないかな?独りぼっちで退屈しててかわいそうなんだ。」
望みの無い願いだということはわかっていた。花はイモムシのことをあまり好きではない。
イモムシも食べる葉っぱがないこの場所では暮らしていけないだろう。森に住むイモムシと道に咲く花が友達になっても退屈なままだ。
断られるだろうと半ば諦め気味に花を見つめていると、花が言った。
「いいわよ。」
「え?」
「って言っても私たちと友達になる訳じゃないわよ。ほら、花って儚い命だから。」
そう言って花はゆさゆさと木を揺らした。木の下の方についていた小さな実が開いて種が降ってきた。
「これを森で育てて頂戴。土に穴を掘って埋めたら、毎日水を遣って、一日一回は歌を聞かせてあげてね。
勿論、太陽の当たる場所じゃないと嫌よ。それと葉っぱを食べたりしないでね。もし枯らせたりしたら許さないから。」
ユウトは種を拾った。イモムシは羽織っていたコートのポケットにその種を仕舞った。
「ありがとう。」
「こちらこそ、よろしく頼むわね。」
そして花にお別れを言い、ユウトたちは再び歩き出した。
後ろをついてくるイモムシは先程までとは違い、足取りが軽やかで楽しそうだ。
「森に帰らなくていいの?」
ユウトは聞いた。イモムシは首を振った。
「森に帰ったらこの種の世話でまたずっと森から出られなくなるから、今のうちに外を楽しみたいんだ。」
そう言ってイモムシは少し照れ臭そうにしてから
「それに君が僕みたいな気味の悪いイモムシを笑わず、一緒に行こうって言ってくれて嬉しかったんだ。
約束通り、友達を見つけてくれたしね。」
「……でも、ちゃんと友達になるまではまだ時間がかかりそうだけどね。」
ユウトとイモムシは笑い合った。
二人が並んで歩いていると、あまり距離を進んだようには思えないのに城はぐっと近くに見えてきた。
青い空の下で爽やかな風に芝がサラサラと揺れる。その向こうで高い生垣に囲まれた赤い屋根の城が見える。
不意に芝の中で白い物が転がっているのが見えた。
「あれ?白ウサギさん?」
喜んで声をかけてみたものの、白ウサギの様子がおかしい。
ずっと二本足だったのに、今は四本足で歩いている。それがおかしい訳じゃない。
歩き方がふらふらしていて苦しそうに息をしているのだ。口の周りが真っ赤に染まっている。
まるで、血のように。
「どうしたの、白ウサギさん!」
ユウトは慌てて手を伸ばして体を支えようとした。が、その瞬間、白ウサギは倒れた。
「白ウサギさん!しっかりして!」
駆け寄って白ウサギの体を強く揺すってみたが、返事はない。瞼も動かない。
「僕、城へ行って人を呼んでくるよ!」
イモムシはそう言って城へ這って行った。
体が大きいせいか、とても早い。あれならすぐ戻ってくるだろう。
とにかく目を覚まさせなくては。
ユウトは白ウサギの体を揺すったり、顔を叩いたり、耳を引っ張ったりしたが、何も反応がない。
息をしているか確認したかったが、ウサギの鼻や口は小さすぎて自然の風の中では感じ取れなかった。
イモムシはまだだろうか?ユウトは顔を上げた。すると帽子屋と三月ウサギが歩み寄ってきているのが目に入った。
「坊や、さっきはすまなかった……ん?そこにいるのは?」
「白ウサギさんが目を覚まさないんだ。どうしたらいい?」
「白ウサギとは?女王の白ウサギか?!」
驚いた帽子屋が駆け寄ってきた。三月ウサギは驚きを隠せず、呆然としている。
遠くからチェシャ猫が弾みながら駆け寄ってきた。
「殺された!白ウサギが殺されたぁ!」
その大きな声は辺り一面に響き渡った。
「女王のかわいい白ウサギが殺された!ボクは全部見ていたぞ!」
くるんと一回転して、ユウトの顔に顔を近付けてニヤッと笑うとチェシャ猫はまた大きな声で叫び出した。
「白ウサギが殺された!ボクは見ていた!全部見ていたぞ!」
声に引き寄せられるように城の方から真っ赤な傘を揺らしながらきのこの兵士が走ってきた。
イモムシがその先頭を這っている。
ユウトはチェシャ猫を黙らせようと掴みかかった。
さっき初めて会ったばかりの自分でも白ウサギが倒れたことがショックなのに、ずっと仲良しだった帽子屋がそれを聞いていい気持ちになるわけがない。
兄弟である三月ウサギなら尚更だ。しかも、ただ死んだだけではなく殺されたなんて。
「まさか、坊やが……そんな、ありえない……なんてことを……。」
震えながら帽子屋が呟いた。三月ウサギは悲しそうな顔をして白ウサギの傍に座り込んだ。
やっと現場に着いた兵士たちは芝の上に赤い絨毯を広げた。そして跪き、後ろからのんびりやってくる女王を待った。
真っ赤な服に身を包み、真っ赤な髪をふっくらとしたお饅頭のような形に結い、真っ白な肌をした背の高い美しい女性が歩いてきて、兵士がさっと置いた椅子に腰掛けた。
「女王様!」
そう言って兵士たちが深々と頭を下げる。帽子屋も同じように頭を下げた。
凛としていてやや上を向くように顎を上げて女王は先に到着していた兵隊の一人に言った。
「何事か?」
声をかけられた兵士は緊張した様子で頭を上げ、はっきりとした声で告げた。
「はっ。女王様の白ウサギが……お亡くなりになりました!」
その言葉を聞いた女王は急に怒った顔になり、傍にいた兵隊に命令した。
「なんと!そんな悲しいことをなぜそんな大きな声で言う?お前を処罰する。こいつの首を刎ねよ!」
兵隊たちはその一人を取り囲み、抵抗されながらもどうにか城の方へその一人を連れて行った。
「そんなことだけで首を刎ねられるの?」
ユウトが思わず口走ると、女王は初めて顎を下げて白ウサギとユウトたちを視界に入れた。
「頭の高い小僧じゃ。妾を誰と思うておる?して、その腕の中の毛玉は何じゃ?」
そう言われてユウトはやっと手を離した。
チェシャ猫の首を締め上げ、口を塞ごうとして鼻まで塞いでしまっていたのだ。
やっと解放されたチェシャ猫はゼェゼェと息をした。
「ごめんね、大丈夫?」
慌てて言うと、女王が叫んだ。
「妾の許しなく口を開くでない!首を刎ねるぞ!」
ユウトはキッと女王を睨んだ。
女王というのは国民を大事にするものだと思っていた。こんなに人の命を粗末に扱う人が偉いはずがない。
何か言い返そうかと思ったときには既に女王の視線は他のものに奪われていた。
「そこに寝ておるのは妾の白ウサギか?」
「そうでございます。女王様。」
「誰ぞ、白ウサギは死んだと申したか……?」
「間違いございません。女王様。」
その言葉を聞いた瞬間、表情のなかった顔がパッと赤くなり、悲しそうに眉をひそめて白ウサギを腕から奪い取った。
「どうして……なぜこんなことに!あぁ、ふわふわのかわいい白ウサギ。
その愛らしく美しい赤い瞳が開くことはもうないのだな。
一体何があった?妾のかわいい白ウサギはいかにして死んだのだ?誰か申してみよ!
なぜこんな悲しいことが起こらねばならなかったのか!誰か妾にその理由を説明してみせよ!
誰も理由を知らぬと申すのならば、ここにいる全員の首を刎ねてしまうぞ!」
ユウトはその潤んだ瞳を見つめながら首を横に振った。酷い人だけど、かわいそうだった。
三月ウサギは地面を爪で引っ掻いていて何も言わない。チェシャ猫はニヤニヤ笑いのまま黙っていた。兵隊も黙っていた。
その沈黙の中で帽子屋が大きく咳払いをしてみせた。
「女王様。発言をお許しくださいますな?」
女王は指先でこっそり涙を拭くと、うさぎを抱えたまま地面に座り込んで背筋を伸ばし、顎を上げた。
「よい。申してみよ。」
帽子屋はお礼の言葉の代わりに被っていた帽子をちょんと持ち上げた。
「この白ウサギを殺したのは他ならぬ私めでございます。」
「何?それは本当か?」
「白ウサギが死ぬ前、私めの主催するお茶会に白ウサギをお誘いいたしました。そこで紅茶を一杯とお菓子を少し薦めただけなのです。
それから白ウサギはまっすぐ城へ向かうと申しておりました。最後に白ウサギと話をしたのはこの私。
白ウサギが誰かに殺されてしまったのだとすれば、この私以外にありえません!」
帽子屋は高らかに証言した。
「そうかそうか。正直に申したな。ならば今すぐ帽子屋を捕らえて城へ連れて行き、首を刎ねよ!」
しかし、ユウトはそれを遮った。
「そんなはずないよ。白ウサギさんが倒れたとき、帽子屋さんはいなかったんだ。
僕が白ウサギさんを見つけたとき、帽子屋さんはやっとここへ着いた。
帽子屋さんのところからここまではすごく時間がかかるんだよ。帽子屋さんが何かするのは無理だよ!」
「む?小僧。お主、何か知っておるようだな……もしや、本当はお主が妾の白ウサギを?」
「女王様!間違いなく私が犯人です。私めを罰して下さい!」
「妾に指図をするな!城にて裁判を行う!どちらもまとめてひっ捕らえよ!」
女王が命じると兵士たちは帽子屋とユウトを取り囲み、二人を取り押さえようと襲い掛かった。
大人しく捕まろうとする帽子屋にユウトは手を伸ばし、どうして嘘をつくのか尋ねようとしたが、帽子屋は何も言うなというように首を振り、ユウトの小さな体も地面にねじ伏せられた。
「チェシャ猫さん!見てないで助けて。このままじゃ僕も帽子屋さんも首を刎ねられちゃう!」
チェシャ猫はプイとそっぽを向いた。
「嫌だね。」
「どうして?チェシャ猫さんはこの国のことなら何でも知ってるんだろ?
だったら、帽子屋さんが嘘をついていることだってわかってるじゃないか!」
言葉を遮って、チェシャ猫は軽い足取りでユウトの傍へやってきた。
「この国はみーんな同じ。あいつも、こいつも気が狂ってる。だから毎日同じことが起こるんだ。
だーれも冒険を求めない。だーれも新しいことをしない。毎日同じ。ボクはつまらないんだよ。退屈だ。
冒険が欲しい、新しい物語が欲しい!そう思ったときに君が現れた。君が来たから事件は起きた。
これは君が起こした事件なんだ。」
やや興奮気味にチェシャ猫が言った。ユウトが言い返そうと口を開いた時、女王の声がした。
「何をぐずぐずしている。さっさと私の目の前からいなくなってしまえ!」
兵隊たちは規則正しい足音を立ててユウトを城へ連行した。ユウトは何も言わず、困惑した表情でチェシャ猫のニヤニヤ顔を睨んでいた。
女王が白ウサギをそっと地面に寝かせて立ち上がった。
「かわいい白ウサギ。この国の中でただ一人、妾の傍から離れぬと約束してくれた白ウサギよ。
こんな形で……こんなに早く別れることになろうとは……。
厳かに、しかし盛大にお前の魂を見送ってやるからな。
その前にお前を殺した者を裁判で明らかにし、即刻その憎い首を刎ねてやらなければ。
かわいい白ウサギよ。それまではゆっくり眠っていてくれ。」
女王は白ウサギに優しく微笑みかけると、踵を返し、足早に城へ向かった。