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エピローグ あの夏の続きを

雨上がりの朝は、拍子抜けするほど穏やかだった。


昨夜、再び激しく降り出した雨は止み、開けた窓から、冷たさを残した湿った風が入り込んでいる。

濡れた電線が朝日を細く弾き、道路脇の水たまりを車が踏むたび、しゃ、と遠い水音がした。


湊はキッチンに立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。


食器棚を開ける。


グラスを一つ取り、もう一つへ手を伸ばしかけたところで、指が止まった。


「……そっか」


声にしてから、ようやく実感した。


夏希はもういない。


昨夜、白い光が境内を覆い尽くし、握り返されていた手の温度が、指の隙間からこぼれるように少しずつ薄れていった。


『好きだよ』


最後まで聞こえていたのは、その声だった。

光が消えたあと、湊の手の中には何も残っていなかった。


雨だけが、冷たく降り続いていた。


夏希の名前を呼んでも返事はなく、白く煙る境内のどこを探しても、あの馬鹿みたいに明るい声は聞こえなかった。


それでも湊は不思議と取り乱さなかった。


分かっていたのだ。

帰ったのだと。


今度は死んだわけではない。

どこかにいる。


自分にはもう触れられないだけで、夏希の時間は続いている。


その事実だけが八年前とは決定的に違っていた。


湊は一人分の麦茶を注ぎ、テーブルへ置いた。

グラスの中で薄い琥珀色が朝の光を揺らした。


トースターへ食パンを入れる。

反射的に二枚取り出していたことに気づいて、一枚を袋へ戻した。


「……どんだけ食う気だよ」


誰もいない部屋で呟く。

当然、返事はない。


いつもならここで、『育ち盛りだから』くらいは返ってきた。


そう思った瞬間、胸の奥が遅れて痛んだ。


十日余り。


たったそれだけだった。


それなのに、冷蔵庫を開ければ夏希が勝手に食べたプリンを思い出し、ソファを見れば脱ぎっぱなしのTシャツを探してしまう。


玄関には靴が一足しかない。

テーブルの向かい側も、空いている。


朝の光がそこだけを静かに照らし、分かりやすいほど、いない。


けれど八年前の朝とは違った。


あの頃は、何ひとつ言えなかった。


好きだとも。

行かないでほしいとも。

明日も会いたいとも。


そして、夏希が自分をどう思っていたのかさえ知らなかった。


今は知っている。

夏希は自分を好きだった。

自分も、ちゃんと伝えた。


八年遅れだったけれど、届いた。


それだけで、同じ不在がこんなにも違うものになるのかと湊は思う。


トースターが乾いた音を立てた。

パンを皿へ載せて席につく。


向かい側には誰もいない。


「……そっちでも人のパン取ってんのかな」


想像すると胸の奥に小さな明かりが灯るように、少しだけ笑えた。


向こうでは今頃、大騒ぎになっているだろう。


突然姿を消した息子が帰ってきて、両親に泣かれ、怒られ、警察には事情を聞かれ、学校でも質問攻めにされる。


そして、十七歳の自分にも会う。


そのことを考えると胸の奥がほんの少しだけ疼いた。


「ちゃんと言えよ」


湊は誰もいない向かいの席へ呟いた。


「今度は祭りまで待つなよ」


それは夏希へ向けた言葉なのか。

向こうにいる十七歳の自分へ向けたものなのか。


たぶん両方だった。

もう同じ後悔をする必要はない。


あの二人は、まだ間に合う。

そう思えば寂しさの中にも僅かな救いがあった。


湊はパンを一口齧る。

焼けた表面の温かさが、舌の上ですぐに消えた。


静かだった。

驚くほど。


それでも朝は、窓の向こうでゆっくり明るさを増していく。


時計を確認し、食器を片づける。ワイシャツへ袖を通し、ネクタイを締め、営業鞄を手に取った。


玄関で革靴を履く。


そこで、ふと視線を落とした。


夏希が履いていたスニーカーは、もうない。

代わりに靴箱の上には、あのボールペンが置かれていた。


クリップに刻まれた、小さな文字。


『ナツ』


湊はそれを手に取った。

八年前から持ち続けたもの。


もう、過去へ縋るためのものではなかった。


夏希が確かに生きていて、確かにもう一度会えて、そして今も、どこかで生きている。


その証拠でいい。

いや、それだけでいい。


湊はボールペンを指先でなぞった。


冷たい金属の感触が、昨夜の手の温度を呼び起こす。


消えてしまったのに、確かに残っている。

触れられなくなったからこそ、忘れない。


「行ってきます」


誰もいない部屋へ、何となく言った。


返事はない。


けれど、もうそれでよかった。

返事がなくても言葉は届くことがある。


少なくともあの夜の言葉は届いた。


きっと別の世界では今頃、十七歳の湊が夏希に腹を立てている。


どこ行ってたんだ、と。

心配した、と。


そして夏希は、たぶん笑うのだ。


それから今度こそ、八年前には言えなかったことをちゃんと言う。


湊は玄関のドアを開けた。

雨に洗われた街には、眩しいほどの朝の光が降り注いでいる。


雲の切れ間からこぼれた光が、濡れたアスファルトの上で細かく揺れていた。冷えた空気の底から、街が少しずつ温度を取り戻していく。


あの夏には戻れない。


失った八年も埋まらない。


それでも、あの夏の続きを生きられる二人がどこかにいる。


ならば自分もこの場所で続きを生きていこう。


いつかまた、どこかで会えると信じるためではない。

もう一度会えたことを今度こそ未来へつなぐために。


湊はボールペンを胸ポケットへ差した。

その小さな重みを確かめるように、胸元へ手を添える。


遠くで始発の電車が走り出す音がした。

濡れた街に低い響きが伸び、やがて朝のざわめきへ溶けていく。


街はもう、昨日までと同じ一日を始めている。

けれど湊にとっては、違う朝だった。


夏希のいない朝。

夏希がどこかで生きている朝だった。


湊は一度だけ振り返り、誰もいない部屋を見た。


それから前を向いた。


雨上がりの光の中へ歩き出す。


もう一度会えたことを今度は後悔にしないために。


そしていつかあの夏の続きを、胸を張って語れるように。



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