今夜くらいは、これで充分
問題は、夏希が生きているということだった。
もちろん、生きていること自体は喜ばしい。
少なくとも湊にとっては、八年間、どれほど願っても叶わなかった奇跡が、よりによって勤務中の文具売場で突然現実になったのだ。喜ばしくないはずがない。
ただし奇跡というものは、起きた瞬間から現実的な問題へ姿を変えるらしい。
十七歳の姿のまま八年後へ迷い込んだ高校生を、これからいったいどこへ連れていけばいいのか。
「普通に家帰ればよくない?」
「駄目」
「なんで」
「駄目なものは駄目」
夕方、営業先の店舗を出た湊の隣を歩きながら、夏希は露骨に不満そうな顔をしていた。
結局、売場担当者には「親戚の子が急に訪ねてきまして」と、自分で言っていても相当に苦しい説明をし、最低限の業務だけ済ませて早めに退店させてもらった。
担当者は深く追及しなかったものの、最後に向けられた妙に生温かい視線を思えば、次に顔を合わせた時に何かしら聞かれる可能性は高い。
しかし今は、営業先で妙な噂を立てられることよりも、すぐ隣を歩いている存在のほうがはるかに重大だった。
「俺ん家、ここからそんな遠くないじゃん」
制服のポケットへ両手を突っ込みながら、夏希がなおも食い下がる。
「知ってる」
「じゃあ帰れるだろ」
「だから駄目だって」
「意味分かんねえ」
拗ねたように口を尖らせる仕草まで、八年前とまるで変わっていない。
夕方になっても暑さはほとんど衰えておらず、ビルの谷間には昼間に溜め込まれた熱が淀んでいた。信号待ちをしているだけで額には汗が滲み、アスファルトから立ち上る熱気が足元へまとわりついてくる。
その隣で、八年前と同じ制服を着た夏希は、見慣れない街並みをせわしなく眺めていた。
「あの店、前コンビニじゃなかった?」
「潰れた」
「いつ?」
「知らない。大学行ってる間」
「あのビルもなかったよな」
「ああ」
「何あれ。あの走ってるやつ」
夏希が指差した先を電動キックボードが横切っていく。
「説明するのが面倒くさい」
「未来、変なの走ってんな」
「八年後をSFみたいに言うな」
呆れて返しながらも、湊は何度も妙な感覚に襲われていた。
十七歳の夏希が、自分の隣を歩いている。
ただそれだけのことが、目の前の街を現在と八年前のあいだで何度も揺らしていく。
外から見れば年の離れた兄弟にでも見えるのかもしれない。
けれど湊にとっては、その光景そのものが現実離れしていた。
「湊」
「何」
「母ちゃんたち、どうしてる?」
不意に向けられた問いに、湊の足がほんの僅かに鈍った。
いつか聞かれるとは思っていた。
いや、聞かれないはずがなかった。
夏希にとって父親も母親も、つい今朝まで普通に同じ家で暮らしていた家族なのだ。
「……元気だよ」
嘘ではない。
少なくとも、最後に近況を聞いた限りでは。
夏希の葬儀を境に両家の付き合いが完全になくなったわけではなかった。もともと家は近く、親同士も親しかった。湊が大学進学で地元を離れてから直接顔を合わせることは減ったものの、母親を通じて話を聞くことは今でもある。
父親は今も同じ会社に勤めている。
母親は数年前からパートを始めた。
二人とも、生きている。
息子を失ったあとも、止まることのできない時間の中で。
「だったら会いてえんだけど」
あまりにも自然で、当たり前の言葉だった。
湊はすぐには答えられなかった。
会わせたい。
そう思わないわけではない。
むしろ、できることなら今すぐ連れていきたいくらいだった。
八年前に息子を失った両親の前へ、その息子とまったく同じ十七歳の少年を連れていったら、二人はどんな顔をするのだろう。
抱きしめるだろうか。
泣くだろうか。
それとも、あまりに非現実的な光景を前にして、受け入れることさえできないだろうか。
そして何より、もし夏希が、また突然いなくなったら、一度ようやく受け入れたはずの喪失を、八年後にもう一度与えることになる。
その可能性を想像した瞬間、湊には頷くことができなかった。
「今は駄目」
信号の前で立ち止まり、前を向いたまま声を落とす。
「何も分かってないだろ。お前がなんでここに来たのかも、帰れるのかも分からない。少なくとも、それが少し分かるまでは会わせられない」
夏希は反射的に言い返しかけた。
けれど湊の横顔を見た途端、その言葉を飲み込んだ。
昔から、こういう時だけ妙に察しがいい。
勉強では引っかけ問題という引っかけ問題に見事なくらい引っかかるくせに、人の感情だけは変なところで敏感だった。
「……お前がそう言うなら、まあいいけど」
納得したわけではないらしい。
それでも夏希はそれ以上食い下がらず、青へ変わった信号を見て歩き始めた。
湊もその隣へ並ぶ。
肩と肩の距離が、昔とほとんど変わらなかった。
*
「狭い」
玄関へ入って三秒で言われた。
「帰れ」
「帰る場所ねえんだけど」
「だったら文句言うな」
靴を脱ぎながら睨むと、夏希は悪びれもせず笑った。
湊が暮らしているのは、駅から徒歩十分ほどの一LDKだった。
社会人二年目の春に引っ越した部屋で、一人で暮らすには十分な広さがある。築年数もそれほど古くなく、白を基調とした室内は明るい。仕事柄、書類やサンプル品が増えやすいため、収納の多さを優先して選んだ物件でもある。
自分としては、かなり快適に暮らしているつもりだった。
ところが夏希はリビングへ入るなり、部屋をぐるりと見回して眉を寄せた。
「……地味」
「うるさい」
「湊の部屋って昔もっとごちゃごちゃしてなかった?」
「十七の子ども部屋と二十四の一人暮らし比べんな」
「ポスターとかないの?」
「ない」
「漫画は?」
「そこの棚」
夏希は言われるまま本棚を覗き込み、すぐに振り返った。
「少なっ」
「実家に置いてきたんだよ」
完全に内見へ来た客だった。
テレビ台を覗き、本棚を確認し、ベランダへ続く窓から外を眺め、最後にはソファへ腰を下ろして座り心地まで確かめている。
どうやら八年後の幼なじみの生活というものが、かなり珍しいらしい。
湊はネクタイを外しながら、そんな夏希を横目で追った。
妙な気分だった。
この部屋へ誰かを入れたことがないわけではない。
大学時代の友人も、会社の同期も来たことがある。付き合っていた恋人が泊まったことだってあった。
それなのに夏希がいるだけで、自分の生活そのものを隅々まで覗き込まれているような居心地の悪さがあった。
昔からそうだ。
夏希の前では、格好をつけられない。
何を取り繕ったところで、子どもの頃から積み重ねた圧倒的な情報量で簡単に剥がされてしまう。
「水飲む?」
「飲む」
湊が冷蔵庫へ向かおうとした途端、夏希がさっさとその前を横切った。
「自分で取る」
「お前、客だろ」
「幼なじみの家で客やったこと一回もねえじゃん」
確かにそうだった。
昔は互いの家の冷蔵庫を勝手に開け、アイスを見つければ遠慮なく食べていた。夏希の母親には「また湊くん来てるの」と笑われ、湊の母親は夏希が遊びに来る前提で麦茶を多めに作っていた。
八年経っても、夏希にその遠慮は存在しないらしい。いや夏希の中では日常の続き。
冷蔵庫を開けた夏希が、そのまま数秒固まった。
「……何」
「お前さ」
「何だよ」
「これで生きてんの?」
湊は眉を寄せる。
夏希が呆れた顔で冷蔵庫の中を指差した。
上段には缶ビールが二本。
ドアポケットに麦茶とミネラルウォーター。
中段にはスライスチーズ、卵、ヨーグルト。
あとは昨夜コンビニで買ったサラダと、そろそろ賞味期限が怪しい納豆くらいしか入っていない。
「ビールと麦茶とチーズしかねえ」
「卵あるだろ」
「そういう問題じゃねえよ。野菜は?」
「サラダ」
「コンビニのじゃん」
「野菜には変わらない」
「肉」
「冷凍庫」
夏希は一度冷凍庫を開け、本当に肉が入っていることを確認してから振り返った。
「自炊すんの?」
「たまに」
「たまにって?」
湊は少し考えた。
「月二」
「しないって言えよ」
即座に切られ、湊は麦茶を取り出している夏希の頭を軽く小突いた。
「働く男の冷蔵庫だよ」
「死に向かってる男の冷蔵庫だろ」
「縁起でもないこと言うな」
「俺が言うと説得力あるだろ」
「そういう使い方すんな」
思わず強めに返すと、夏希は腹を抱えて笑った。
本来なら、不謹慎だと怒るところなのかもしれない。
けれど、本人があまりにも楽しそうに笑っているせいで、湊までつられてしまう。
八年間、夏希の死は、誰かが口にしただけでその場の空気を変えるものだった。
名前を出せば声が少し静かになり、思い出話をすれば最後には必ず寂しそうな笑顔になる。
そんな重さを、本人だけが何のためらいもなく雑に扱う。
不謹慎で、どうしようもなく夏希らしい。
「コップどこ?」
「上」
夏希は吊り戸棚から二つグラスを取り出し、当然のように湊の分まで麦茶を注いだ。
「ほら」
「……ありがと」
「何、その間」
「何でもない」
冷たいグラスを受け取った瞬間、湊の中に一瞬だけ昔の風景が重なった。
夏希はもう気にしていない。
麦茶を半分ほど一気に飲み干すと、今度は洗面所を覗き込み、部屋の中を勝手に探索し始めた。
「風呂どこ?」
「廊下出て右」
「洗濯機は?」
「その横」
「へえ」
「お前、今日うちの査定でもすんの?」
「二十四歳湊の生活調査」
「やめろ」
止めるだけ無駄だと分かっていても言わずにはいられない。
やがて夏希は、歯ブラシが一本しかないことまで確認し、妙に満足そうな顔で戻ってきた。
「一人なんだ」
「一人暮らしって言っただろ」
「彼女は?」
その問いに、湊は麦茶を飲みながらほんの僅かに視線を逸らした。
「いない」
「二十四にもなって?」
「お前、一回死んでるくせにマウント取んな」
「死んでるの関係ないじゃん!」
「二十四歳を馬鹿にする十七歳よりは関係ある」
夏希は納得いかない顔をしたものの、すぐに次の疑問を口にした。
「じゃあ今まで一人もいなかったの?」
「そこまで言ってねえだろ」
そう答えた瞬間。
夏希の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……いたんだ」
「そりゃまあ」
「へえ」
興味などなかったような顔で、夏希は空になったグラスをシンクへ置いた。
声も普段通りだ。
ただ、グラスが置かれた音だけが少し強かった。
湊はその背中をじっと見る。
「何」
「別に」
「何でこっち見てんの」
「見てない」
「見てただろ」
「自意識過剰」
「うっざ」
振り返った夏希が睨む。
昔と変わらないやり取りなのに、湊の胸の奥には小さな引っかかりが残った。
高校時代にも、似たようなことは何度かあった。
女子から告白された話をすると、夏希は決まって少し機嫌が悪くなった。
当時は、それを都合よく受け取る勇気がなかった。
幼なじみだから、誰かに取られるようで面白くないだけだ。
そう片づけた。
自分自身も同じだったから。
夏希が女子と楽しそうに話しているだけで、理由もなく腹が立つことがあった。
それを恋だと認めたのは、高校二年になってからだった。
そして、ようやく認めた頃には、伝える時間はほとんど残されていなかった。
「湊」
呼ばれて、過去へ傾きかけていた意識が戻る。
「何」
「服貸して」
「は?」
「俺、この制服しかない」
言われて初めて気づいた。
当然だ。
夏希は八年前から、身体一つで突然ここへ来た。
着替えなど持っているはずがない。
「……そうだな」
湊は立ち上がり、寝室のクローゼットを開けた。
背後から当然のようについてきた夏希が、その中を覗き込む。
「服、黒と白しかないじゃん」
「紺もある」
「紺は黒側だろ」
「何だよ黒側って」
ハンガーには仕事用のワイシャツやジャケット、休日用のTシャツやシャツが並んでいた。確かに白、黒、グレー、ネイビーが大半だ。
「二十四歳ってもっとお洒落になるもんじゃないの?」
「営業職なんだよ」
「休日も営業すんの?」
「好みだよ」
夏希は呆れながら服を一着ずつ眺めていたが、不意に思い出したように笑う。
「高校の時、赤いパーカー着てたじゃん」
「お前がダサいって散々笑ったから捨てた」
「え、俺のせい?」
「八割くらい」
「ごめん」
「そこ素直に謝るな。余計腹立つ」
笑いながら、夏希は白いTシャツを一本のハンガーから抜き取った。
自分の身体へ合わせる。
百七十七センチの湊に対し、十七歳の夏希は百七十センチへ少し届かない程度だった。
「でかいかな」
「部屋着ならいいだろ」
「ズボンは?」
「適当に探せ」
「パンツも?」
「コンビニで買う」
「そこは貸せよ」
「絶対嫌だ」
「幼なじみじゃん」
「幼なじみでもパンツは共有しねえよ!」
夏希は声を上げて笑った。
湊も呆れながら、紐で調整できるハーフパンツを探して投げる。
その時だった。
「あ」
夏希の視線が、クローゼット横の小さなデスクへ止まった。
仕事を持ち帰った時に使う程度で、普段はほとんど物置になっている机。その隅に置かれたペン立てから、夏希は一本のボールペンを抜き取った。
安っぽい透明軸。
青いグリップはくすみ、クリップには細かな傷が残っている。
「……これ」
さっきまでの軽さが、声から消えた。
湊は何も言わなかった。
覚えている。
高校一年の冬。
筆箱を学校へ忘れた湊へ、夏希が自分の机から一本投げて寄越したボールペンだった。
『それやる』
『いらねえよ』
『じゃあ百円』
『金取んのかよ』
結局、そのまま貰った。
授業中、暇を持て余した夏希が湊の手からペンを奪い、金属製のクリップへコンパスの針で無理やり文字を刻んだ。
歪んだ二文字。
―――ナツ。
ただの悪ふざけだった。
本人なら忘れていてもおかしくない程度の、小さな出来事。
けれど湊は、そのボールペンを八年間捨てられなかった。
「……まだ持ってんの?」
「物持ちいいから」
湊は視線を逸らし、クローゼットの中を整理するふりをした。
「これ、インクもう出ないだろ」
「出ない」
「じゃあ捨てろよ」
「邪魔じゃないし」
「そういう問題?」
「そういう問題」
夏希は黙った。
親指で、クリップに刻まれた歪な文字をそっとなぞっている。
湊はそれを見ないふりをした。
夏希が亡くなったあと、一度だけ捨てようとしたこと。
大学進学の荷造りの時にも、社会人になって引っ越した時にも、必要なものと不要なものを分けながら最後まで手元へ残したこと。
そんなことをわざわざ伝えるつもりはなかった。
未練がましいと思われるのも嫌だったし、湊自身、それを今まで未練と呼んだこともない。
ただ捨てられなかった。
それだけだった。
「……湊」
「何」
呼ばれて振り返ると、夏希は何かを言いかけていた。
けれど少し迷ったあと、口にしたのはまったく別のことだった。
「晩飯どうすんの」
「急に現実戻るな」
「腹減った」
「さっきまでいい空気だっただろ」
「何だよ、いい空気って」
本気で分かっていないらしい顔をされ、湊はため息をついた。
「……何食いたい?」
「肉」
「高校生だな」
「あと米」
「高校生だな」
「唐揚げ」
「辛いもの食えない子ども舌のくせに」
「唐揚げ辛くねえだろ!」
抗議する夏希の手から、湊はボールペンを取り返した。
一瞬だけ、互いの指先が触れる。
温かい。
たったそれだけのことで、胸の奥が不意に揺れた。
湊は何も言わず、ボールペンを元のペン立てへ戻す。
いつもの場所へ。
八年間、そうしてきたように。
その横顔を、夏希は黙って見ていた。
「着替えろ。飯食いに行くぞ」
「奢り?」
「お前、二〇一八年の高校生だろ。金あるのかよ」
「三千八百円」
「微妙にあるな」
「補習帰りに本屋寄って漫画買う予定だったから」
「じゃあ自分で払え」
「七個も年上のくせに?」
「急に年下ぶるな」
「社会人なんだろ?」
「都合いい時だけ社会人扱いすんな」
夏希は楽しそうに笑いながら、Tシャツとハーフパンツを抱えて洗面所へ向かった。
廊下へ出る直前、一度だけ振り返る。
その視線は湊ではなく、机の上のペン立てへ向いていた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それだけで十分だった。
夏希も、あのボールペンのことを覚えている。
何でもないふりをしたのは、たぶんお互い様だ。
洗面所の扉が閉まる。
一人になった寝室で、湊はゆっくり息を吐いた。
今日の朝まで、夏希はもういない人間だった。
名前を思い出しても、顔を思い浮かべても、そこから新しい記憶が増えることは二度とない人だった。
それが今は、自分の洗面所で勝手に服を着替えている。
このあと一緒に飯を食う。
きっと肉が少ないだの、俺のほうが多く食べるだの、くだらないことでまた揉める。
なぜここへ来たのか。
いつまでいられるのか。
元の時代へ戻れるのか。
何一つ分からない。
けれど少なくとも、今は。
「……生きてんじゃん、か」
湊は小さく呟いた。
今、生きている。
それなら今夜くらいは、それだけで十分なのかもしれない。
ほどなくして、洗面所の扉が開いた。
「湊ぉー」
「何」
「ズボンでかい」
「紐締めろ」
「締めても落ちる」
「太れ」
「今から!?」
八年前にはもう聞けないはずだった声が、当たり前のように部屋の中へ響く。
湊は堪えきれず笑った。
「笑ってないでどうにかしろよ!」
「はいはい」
返事をしながら、リビングへ向かう。
一人で暮らすことにすっかり慣れた部屋が、その夜だけは、少し狭かった。




