悪役令嬢を演じて全員沈めるはずが、駒にした最強騎士が本気で執着してきますの ~二人とも想い合っていたなんて、聞いていませんわ~
大広間の中央で、王太子が、わたしを指さして叫んでいる。
「エルヴィラ・ヴェスフィールド! 貴様の悪行、もはや言い逃れはできぬぞ!」
建国祭の夜。きらびやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが、固唾を呑んでこちらを見ている。誰もが、可哀想な悪役令嬢が断罪される瞬間を、心待ちにしているのだ。
「公爵令嬢ともあろう者が、男爵令嬢ミレーヌをいじめ、あまつさえ毒を盛ろうとしたな!」
わたしは、うつむいて、唇を震わせた。
――ええ。ええ、そうよ。すべて、わたしの仕込みですもの。
毒なんて盛っていない。けれど、盛ったように見える「証拠」は、この日のために、丁寧に、丁寧に、撒いておいた。王太子が飛びつくように。彼が、衆人環視のこの場で、自分の口で、高らかにわたしを断罪したくなるように。
(さあ、もっと。もっと、おっしゃい)
わたしは、震えるふりをしながら、内心で、ほくそ笑んでいた。
この愚かな王太子オスカルは、知らない。今この瞬間、自分が、自らの墓穴を、自らの言葉で掘っていることを。彼が「証拠」と信じて掲げているものこそ――彼自身の横領と、隣国との売国の密約を、芋づる式に暴くための、導火線であることを。
断罪は、わたしへの断罪ではない。
これは、彼らを沈めるための、舞台。
三年前、無実の罪で父を陥れ、死に追いやった者たち。その、すべてを暴くために。
わたしが、三年かけて書き上げた、筋書きだ。
「申し開きがあるなら、言ってみよ!」
わたしは、ゆっくりと、顔を上げた。
涙に濡れた可憐な令嬢の顔――の、仮面の下で、唇の端を、わずかに、吊り上げて。
「……いいえ。何も、ございませんわ。だって」
わたしは、広間の隅、柱の陰に立つ、漆黒の騎士服の男へと、ちらりと視線を投げた。
ヴィルヘルム・クロイツ。この国最強と謳われる、騎士団長。
わたしの、ただ一つの駒。
彼が、懐から、一通の書簡を取り出す。
すべてが、動き出す。
「――申し開きが必要なのは、殿下。あなたの、ほうですわ」
*
話は、三年前にさかのぼる。
計画には、武力が要った。証拠を握っても、王家はそれを揉み消す力を持っている。証人を消し、書類を焼き、わたしを「狂女」として葬る力を。
だから、わたしには、誰にも揉み消せない「力」が必要だった。
王家にすら逆らえる、国最強の剣。
ヴィルヘルム・クロイツ。平民の出から、ただ剣の腕一つでのし上がった、騎士団長。地位にも金にも興味を示さず、派閥のどこにも属さない。腐敗しきった宮廷で、ただ一人、誰にも飼われていない男。
彼を、駒にする。
わたしは、そう決めた。
最初の接触は、夜会の片隅だった。無表情に壁際に立つ彼に、わたしは扇の陰から囁いた。
「クロイツ団長。あなた、この宮廷が、嫌いでしょう」
彼の灰色の瞳が、わずかに動いた。
「……何の話だ」
「腐っているもの。横領、賄賂、売国。あなたのような、まっすぐな人には、さぞ目障りでしょうね」
わたしは、微笑んだ。あらん限りの、優雅さで。
「わたし、その腐ったものを、すべて暴いて、終わらせるつもりなの。――手を、貸してくれない?」
彼は、長いこと、わたしを見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「あんたが、本気なら」
それだけだった。
報酬の話も、見返りの話も、彼はしなかった。ただ、わたしの目を、まっすぐに見て、頷いた。
(扱いやすい男)
わたしは、そう思った。正義感の強い男は、御しやすい。「腐敗を正す」という大義名分さえ与えておけば、こちらの筋書きどおりに動いてくれる。
そう、思っていた。
このときのわたしは、まだ、知らなかったのだ。
この男が、なぜ、二つ返事で頷いたのか。その、本当の理由を。
*
それからというもの、ヴィルヘルムは、よく働いた。
わたしが「ここに、横領の裏帳簿があるはず」と言えば、彼は危険な書庫から、それを盗み出してきた。「この書簡が欲しい」と言えば、敵地の只中から、無傷で持ち帰ってきた。
恐ろしいほど、有能だった。そして、恐ろしいほど、無口だった。
ある雨の夜。証拠の照合をしていたわたしのもとへ、彼は、ずぶ濡れで現れた。手にした油紙の包みだけは、雨に濡れぬよう、自分の身体で庇って。
「……密約の、原本だ」
それだけ言って、彼は包みを差し出した。
「まあ。あなた、ずぶ濡れじゃない」
「書簡が、濡れるよりは、ましだ」
わたしは、思わず、彼を見上げた。
灯りの下、滴を垂らす漆黒の前髪。その下の、いつもどおりの無表情。けれど――その身体は、わたしの計画のために、刃の下をくぐってきたのだ。
ことり、と。
胸の奥で、何かが、小さく音を立てた。
(……いけない)
わたしは、すぐに、その音に蓋をした。
彼は、駒だ。利用するための、道具だ。情を持てば、それは隙になる。隙は、計画を狂わせる。
三年。わたしは、感情を殺して、ここまで来た。最後の最後で、それを手放すわけにはいかない。
「ご苦労さま。風邪を、引かないようにね」
わたしは、いつもの微笑みで、そう言った。
彼は、小さく頷いて、踵を返した。
その背中が、扉の向こうに消えるまで。わたしは、なぜか、目を、逸らせなかった。
*
扉が閉まる、その間際。
彼が、ふと、足を止めたのが見えた。
濡れた肩越しに、一瞬だけ、こちらを振り返って。何か言いたげに、唇を動かしかけて――けれど結局、何も言わずに、出ていった。
あの男が、あんな顔をするのを、初めて見た。
まるで、言葉を、喉の奥に、無理やり押し込めたような。
(……なに、今の)
わたしは、自分の胸を、そっと押さえた。
まだ、小さく、鳴っている。
いけない、と思った。けれど、その晩、何度蓋をしても。
彼の、あの一瞬の横顔が、瞼の裏から、消えてくれなかった。
*
建国祭の、その夜。
わたしが、柱の陰のヴィルヘルムへ合図を送り――断罪劇が、ひっくり返った、その直後だった。
ヴィルヘルムが掲げた一通の書簡。横領を記した、王太子の署名入りの書付。それを見た瞬間、広間は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
けれど。
王太子オスカルは、青ざめながらも、嗤った。
「……衛兵! その女と、騙された騎士を、捕らえよ! 偽造文書で、王家を陥れる、大逆人だ!」
ぞわり、と背筋が冷えた。
読まれていた。いえ――読まれてはいなくとも、追い詰められた獣は、力でねじ伏せる道を選ぶ。たった一枚の書簡など、「偽造」と叫んで握りつぶし、わたしたちを消してしまえばいい。ここは、まだ、王家の庭。
(このままでは、揉み消される……!)
この日のための計画が。あと一歩のところで。
会場のあちこちから、近衛が――いいえ、近衛の制服を着た、堅気でない目つきの男たちが、こちらへ詰め寄ってくる。
その、前に。
「――エルヴィラ。下がっていろ」
低い声とともに、ヴィルヘルムが、わたしを背に庇った。
抜き放たれた剣が、一閃。先頭の男が、地に伏す。
あっという間だった。最強の騎士団長を前に、男たちは、為す術もなかった。剣戟の隙を縫って、彼は、わたしの手を取り、会場の裏口へと駆け出した。
「クロイツ団長! このまま、戦えば」
「数が多すぎる。ここは、敵の庭だ。あの書簡一枚では、握りつぶされて終わる」
彼は、走りながら、鋭く言った。
「本物の証拠は、まだ、ある。それを、揉み消せない相手に、渡すんだ」
わたしは、唇を噛んだ。
そう。会場で出した書簡は、囮の一枚。本命の証拠の束は、わたしが、肌身離さず、抱えている。
「……どう、するつもり?」
「あんたが、決めることだ」
彼は、一瞬だけ足を止め、まっすぐに、わたしを見た。
「俺は、あんたの剣だ。あんたが進めと言うなら、地獄へでも、斬り込む」
その言葉に。
わたしは、不覚にも、胸を突かれた。
地獄へでも、と。この男は、本気で言っている。何の見返りも求めず、ただ、わたしのために。
(……どうして)
駒であるはずの男が。道具であるはずの剣が。
どうして、こんなにも、まっすぐに、わたしを見るの。
けれど、感傷は、後だ。わたしは、研ぎ澄ましてきた頭脳を、回した。
揉み消せない相手。王家の力が、届かない場所。
――いる。この夜、この王宮に、ただ一人。
「……隣国の、特使よ」
「特使?」
「今夜の建国祭には、隣国ガルディアの特使が招かれている。あの密約は、ガルディアをも欺くもの。この証拠は、彼らにとっても、見逃せないはず」
国内で揉み消されるなら、国外の目に、晒せばいい。
「特使に証拠を渡せば、ガルディアは王家に正式な抗議をする。国際問題になれば、もう揉み消す術はないわ」
わたしの言葉に、ヴィルヘルムは、すぐに頷いた。
「あの御仁なら、宴の喧噪を嫌って、奥の離れに下がっている。警護の経路は、俺が知っている。裏の回廊から、近づける」
「まあ。さすがね」
「……あんたの、役に立てるなら」
彼は、ふいに、目を逸らした。
その横顔が、灯りのせいか、ほんの少し、赤いように見えたのは。
きっと、気のせいだ。
そう、思うことにした。
*
裏の回廊は、暗く、長かった。
追っ手の足音が、背後から迫ってくる。ヴィルヘルムは、わたしを背に庇いながら、迫る敵を、一人、また一人と斬り伏せていく。
その剣は、苛烈だった。
いつも無表情な彼が、このときばかりは、鬼気迫る形相で、刃を振るっていた。まるで――わたしに、指一本触れさせまいと、するように。
「エルヴィラ、走れ!」
初めて、彼が、わたしの名を呼んだ。
敬称もない、ただの、名前。
その響きに、わたしの心臓は、痛いほど、跳ねた。
(こんな、ときに)
計画の、最終局面。すべてが懸かった、この瞬間に。
わたしは、間違いなく。この男に、惹かれている。
駆けながら、わたしは、唇を噛んだ。認めたくない。認めれば、それは隙になる。けれど、もう、蓋は、壊れかけていた。
やがて、回廊の果てに、特使の離れの灯りが見えた。
あと、少し。あと、数歩で。
――その、ときだった。
暗がりから、最後の刺客が、躍り出た。短刀の切先が、まっすぐに、わたしの心臓を狙っている。避けられない。そう思った、刹那。
どん、と。
突き飛ばされた。
わたしの代わりに、その刃を、その身に受けた、漆黒の背中。
「――ヴィルヘルム!」
彼は、刺客を一刀のもとに斬り伏せ、そして、ゆっくりと、崩れ落ちた。
脇腹から、夥しい血が、石畳に広がっていく。
「いや……いやよ、こんな」
わたしは、彼に駆け寄り、その身体を抱き起こした。手のひらが、たちまち、熱い血で濡れる。
「なぜ。なぜ、庇ったの。あなた、避けられたでしょう!」
彼は、薄れゆく意識の中で、それでも、かすかに笑った。
「……あんたが、無事なら。それで、いい」
「よくないわ! ぜんぜん、よくない!」
声が、震えた。三年間、誰の前でも崩さなかった仮面が。今、音を立てて、剥がれ落ちていく。
「死なないで。お願い、死なないで、ヴィルヘルム……!」
わたしは、初めて、気づいた。
計画が成ることより。腐敗を暴くことより。
この男が、生きていてくれること。それだけが、今、何より大切だということに。
彼の、血の気の失せた手が、わたしの頬に、そっと触れた。
「……泣いて、くれるのか。俺のような、男のために」
「あなたのような、じゃない。あなたが、いいの。あなたじゃ、なきゃ、嫌なの」
言ってしまってから、気づいた。
とうとう、口にしてしまった。三年、封じ続けた、その言葉を。
彼の灰色の瞳が、大きく、見開かれた。
「……それは」
「そうよ。わたしは、あなたを、好きなの。駒だなんて、嘘。とっくに、あなたに、堕ちていたわ」
涙が、彼の頬に、落ちた。
「だから、死なないで。命令よ。――わたしの、剣でしょう」
彼は、しばらく、信じられないものを見るように、わたしを見つめ。
それから、血に濡れた唇で、確かに、笑った。
「……御意。なら、死ねない、な」
その言葉を最後に、彼の意識は、途切れた。
けれど、その手は、最後まで、わたしの頬から、離れなかった。
――そのとき。
すぐ目の前、離れの戸が、内側から開いた。
度重なる剣戟と、ただならぬ気配。それを聞きつけて、葉巻を手にした壮年の男が、従者を従えて、姿を現したのだ。
隣国ガルディアの、特使その人だった。
わたしは、彼の血で濡れた手で、抱えていた証拠の束を、まっすぐに差し出した。
「ガルディアの、特使閣下」
声が、震えるのを、必死で抑えた。
「夜分に、突然の無礼をお許しください。――けれど、これだけは、今、あなたのお目に入れねばなりません」
「これが、この国があなた方と交わした『友好』の、正体です。――どうか、お検めを。そして、この人を、助けて」
特使の眉が、書簡の中身と、足元の血だまりとを見比べて、ぴくりと動いた。
彼は、従者に、短く命じた。
「医者を。それと、この書簡を、私の卓へ」
わたしは、崩れ落ちそうになりながら、ヴィルヘルムの手を、握り続けた。
追っ手は、もういない。証拠は、確かな相手の手に渡った。
あとは、この人さえ、生きていてくれたら。
この夜、わたしが諦めなかったものは。腐敗を暴くことでも、計画を成すことでも、なかった。
ただ一つ。この、不器用な剣の、命だけだった。
*
その後のことは、あっという間だった。
ガルディアの特使は、密約の証拠を手に、その夜のうちに、正式な抗議を申し入れた。
国際問題となった以上、王家に、揉み消す術はなかった。横領も、密約も、すべてが白日の下に晒された。
王太子オスカルは、廃嫡。
建国祭の華やかな夜は、彼らにとって、終わりの始まりとなった。
わたしの、筋書きどおりに。
……ただ一つ。わたし自身の、心を除いては。
*
すべてが片づいた、十日後。
生死の境をさまよっていたヴィルヘルムが、ようやく目を覚ましたと聞いて、わたしは、彼のもとへ駆けつけた。
簡素な療養室。寝台に身を起こした彼は、わたしを見て、わずかに、目を逸らした。
「……エルヴィラ様。ご足労を、おかけした」
他人行儀な、いつもの声。
わたしは、その態度に、すぐに気づいた。
この男。あの夜のことを、なかったことに、するつもりだ。
「ヴィルヘルム。あなた、あの夜のこと、覚えている?」
彼の肩が、こわばった。
「……血を、流しすぎて。記憶が、曖昧だ」
「嘘ね」
わたしは、寝台の傍らに、腰を下ろした。
「わたしが、なんと言ったか。あなたが、なんと答えたか。――忘れたなんて、言わせないわ」
彼は、しばらく、黙っていた。
そして、絞り出すように、言った。
「……死にかけの男に、かけた、慰めだろう。本気に、するほど、俺は」
ああ。
わたしは、そこで、ようやく、彼の誤解の根を、見た。
この男は。三年もの間、何の見返りも求めず、わたしのために刃の下をくぐり、最後はその身で刃を受けたこの男は。
ずっと、思い込んでいたのだ。
自分は、ただ利用されているだけ。あの告白も、死の淵で口にされた、その場限りの優しさ。本気にすれば、また傷つく。だから――聞かなかったことに、しようと。
なんて、不器用な。
なんて、愛おしい人。
「慰めで、こんなことを言うと思って?」
わたしは、彼の手を、両手で包んだ。
「もう一度、言うわ。今度は、生きているあなたに。――わたしは、あなたが、好き。利用するつもりだった駒に、本気で堕ちたの。これが、わたしの、唯一の計算違いよ」
彼の灰色の瞳が、揺れた。
「俺は、平民の出だ。血と泥にまみれた、ただの剣で」
「知っているわ。それが、どうかして?」
「……あんたのような、高貴な人が、俺みたいな男を」
「ヴィルヘルム」
わたしは、彼の言葉を、遮った。
そして、身を屈め、彼の唇に、自分のそれを、そっと重ねた。
彼の身体が、大きく、跳ねた。
ゆっくりと、唇を離して。わたしは、間近で、彼の目を、覗き込んだ。
「これでも、慰めだと言う?」
彼の頬が、見る間に、朱に染まっていく。あの、岩のように無表情だった、最強の騎士団長が。
「……っ、ずるい、だろう。それは」
「あら。手段を選んでいる場合では、ないもの。あなた、放っておくと、すぐ自分を、卑下するから」
わたしは、彼の手を、強く握った。
「もう一度、聞くわ。――あなたは、いつから、わたしを?」
彼は、観念したように、目を伏せた。
そして。
「……最初の、夜会から、だ」
消え入りそうな声で、言った。
「扇の陰から、あんたが囁いた、あの瞬間から。俺は、あんたしか、見ていない。地位も、名誉も、どうでもよかった。ただ――あんたの、傍にいられるなら。あんたの、剣でいられるなら。それで、いいと、思っていた」
彼は、顔を、上げた。
その瞳に、もう、迷いはなかった。
「好きだ。ずっと。誰にも、言えないまま。……死ぬときくらい、墓まで持っていくつもりだった」
「まあ。勝手に、死なないでくれる?」
わたしは、笑った。涙を、こぼしながら。
「お互い、想い合っていたのに。あなたは『利用されているだけ』と思い込み、わたしは『情は隙になる』と蓋をして。三年も、すれ違っていたのね」
三年、感情を殺してきたわたし。
ずっと、想いを口にできなかった、彼。
似た者同士の、不器用な二人が。気づかぬまま、惹かれ合っていた。
なんて、可笑しくて。
なんて、愛おしい。
「ヴィルヘルム。もう、誤解は、なしよ」
わたしは、彼の頬に、そっと手を添えた。
「わたしは、あなたを、駒だなんて、思っていない。あなたは、わたしの、ただ一人の――共犯者よ」
彼の、傷だらけの手が、おそるおそる、わたしの背に回された。
まるで、壊れ物に触れるように。けれど、二度と離さないと、誓うように。
「……もう、二度と。あんたを、誰にも、渡さない。今度は、俺のために、生きてくれ」
初めて聞く、彼の、独占欲だった。
いつも従順だった剣が。初めて、自分の意志で、わたしを、求めていた。
わたしは、その腕の中で、目を閉じた。
「ええ。渡さなくて、結構よ。――わたしも、あなたを、離す気は、ないもの」
*
後日談を、少しだけ。
廃嫡された王太子オスカルは、その後、すべての地位を失い、辺境の修道院送りとなったという。彼に「証拠」を吹き込んでいた男爵令嬢ミレーヌと、その背後にいた一派も、横領と売国の共犯として、ことごとく捕らえられた。
憔悴した国王陛下は、わたしに、すがるように言った。新たな王太子の補佐として、力を貸してはくれぬか、と。クロイツ団長にも、騎士団総帥の地位を約束しよう、と。
わたしたちは、揃って、頭を下げ――そして、揃って、お断りした。
「わたし、もう、この国に用は、ないの」
「俺も、騎士団長の職を、辞する」
国王陛下は、言葉を失っていた。
わたしは、最後に、もう一度だけ、優雅に礼をした。
「三年前、わたしの父は、あの男たちの讒言で、無実の罪を着せられ、命を落としました。わたしが証拠を集め、舞台を整えたのは。――ただ、父の仇を、討ちたかっただけ。この国を、愛していたからでは、ございませんわ」
仇は、討った。腐ったものは、暴いた。
もう、この地に、留まる理由は、ひとつもない。
わたしは、隣に立つヴィルヘルムの腕を、取った。
「わたしは、この人と、国を出るわ。わたしを、ただの令嬢としか見なかった国に。彼を、ただの剣としか見なかった人々に。――差し上げるものは、もう、何ひとつ、ないの」
*
王宮を出ると、夜が、白み始めていた。
長い、長い夜が、ようやく、終わったのだ。
「……本当に、よかったのか」
隣を歩くヴィルヘルムが、ぽつりと言った。
「あんたは、この国を、救ったのに。何の、見返りも、受け取らずに」
「見返りなら、もらったわ」
わたしは、彼を見上げて、笑った。
「あなたという、共犯者を。――それで、十分すぎるほどよ」
彼は、足を止めた。
そして、めずらしく、ほんの少しだけ、不器用に、わたしの額に、唇を寄せた。
最強の騎士の、世界一、臆病な口づけ。
わたしは、声をあげて、笑った。
朝日が、昇り始めていた。
古い因縁に、別れを告げる、新しい朝が。
「さあ、行きましょう、ヴィルヘルム」
わたしは、彼の腕を取って、歩き出した。
「わたしたちの、新しい国へ」
駒として、利用するつもりだった。
道具として、使い捨てるつもりだった。
――それが、唯一の、計算違い。
わたしの完璧な筋書きの、たった一つの、誤算。
でも。
この誤算だけは。
二度と、訂正する気は、ないの。




