孤独文学
午後二時半。季節は夏だった。
その日は突然の雨で、土砂降りだった。
天気予報も見ずに家を飛び出たから、傘はなかった。
「おい、あっちに逃げるぞ!」
ちょうど外にいた僕たちは、被害をモロに受けた。慌てて屋根の下を目指したけど、肩まで水の感覚に浸されたところで諦めた。
立ち止まると、暖かい雨粒がシャワーのように降り注いだ。
「無理だ。間に合わねえや」
「どうすんだよ、これ。びしゃびしゃだよ……」
僕たちは顔を見合わせて、思わず吹き出した。だって、前髪が額にベタベタ張り付いて、おかしく見えたから。
僕は水たまりを飛び越した。
どうせ全身水浸しだけど、なんとなくそうしたかった。それで、ブロック塀が続く先を指で指した。
「あの向こうに行こう」
行けるところまで、行こう。僕たちは足が疲れるところまで、土の匂いが立ち上る道を進み続けた。
あの時、僕等はミシシッピ川がなくても、冒険をする少年だった。
親に叱られたら萎縮しても、本を取れば廃工場に立てこもって、反乱を起こすことができた。
動物と喋れるのは当たり前だったし、家政婦がいたとしたらそれはアヒルだった。
文字の向こうにあったのは、自由だった。
=====
ベッドから起き上がると、頭の奥をつんと刺されるような感覚がした。
寝ぼけた脳内を無理やり起こそうとすると、ストレスが体に溜まるようで嫌だった。
部屋が散らかっている。掃除をしないといけない。僕は読みかけの本を手始めに取って、本棚に収めた。
……埃が指に付いている。
机の上は散らかったままだけど、萎えたからやっぱり掃除はあきらめた。
トースターの蓋の感触は気づいたら慣れていた。少し前まで使っていたのは、これよりも掴みやすい感じがあった。
しばらくするとパンが焼けた。バターを買うのを忘れていたから、そのまま口に突っ込む。
なんの味付けもないトーストは、実に質素な味がした。
外は雨が降っていたから、傘をさして部屋を後にした。雨音が傘の向こうから伝わってくる。あたりには水たまりができて、世界を鏡のように映し出していた。
一度覗き込めば、その向こうには、もう一人の自分の姿が映り込んでいる。
波紋で歪んでいる輪郭は、それでもすっかり大人びてしまった容姿を想起させた。
しばらくそうしてじっとしていると、後ろから衝撃を感じた。傘と傘が擦れ合う感覚がする。
「あ、ごめんなさぃ……」
語尾が掠れていくような感じで、すれ違っていく人を振り向いた。
チ、と舌打ちの音が聞こえると、その人は僕が映り込んでいた水たまりを無造作に踏みつけて、先へ行ってしまった。
思わず腕の力が抜けて、傘の中棒が肩に触れた。
雨の音がする。僕は俯いて足を踏み出した。水溜まりが跳ねて裾が濡れた。
そういえば小さい頃、電車のホームにはレールが一つ通って、そこを列車が行ったり来たりするものだと思っていた。
『——一番線、電車が参ります』
アナウンスと同時に、電光掲示板に「train arrive」と表示される。
よく考えてみれば線路が一つだけなら、車両は逆回りと熱烈な口付けを交わすことになる。幼さゆえの思考というのは、どうしてこうも後一歩足りないものなのだろうか。
ホームに風が吹いた。電車が来る。
電車に乗るときは、いつも誰かの顔を感じる。顔は無数にあって、子供の顔とか、大人の顔とか、就業者の顔もあれば、学生の顔だってあった。
顔を見ると、なんとなしにそれだとわかる気がした。
言葉で語るよりも、顔はその何倍もの身分を証明しているようだった。だから、僕は顔を見るたびに、そこにはペルソナというやつがあるのだと思う。
顔を俯けて座る。というのは、同様に顔を見られたくないからだ。もし顔を見られれば、瞬く間に僕という人間の身分を察知されてしまう。
傘を包むビニールの袋に、水滴が溜まるのをじっと見つめていた。
大学生は、よく学校のことを「ダイガク」と言う。
学校、じゃなくて大学だ。
こだわりがあるのかは知らない。だけど、高校生の時まで親に「学校に行くね」と言っていたものを、大学生になってまでも同じように言っていると想像したら、それは確かになんだか違和感があるような気がした。
だから、「ダイガク」は僕たちにとって、とても大きな線引きのある境界線なのだろう。
大学には、学生の顔が沢山ある。今まで生徒だったのが、全く一変して「学生的」なのだ。だから、僕もここではいつも以上に、学生的な顔に合う振る舞いをしなければならない。
構内を歩いていると「よお」と声をかけられた。
知り合いがいた。彼も学生だ。学生は、知り合いならば「よお」と挨拶を交わす。だから僕も、「やあ」と声を返した。
たったこれだけで、やり取りは終わり。だけど、こんな一片のやり取りが大学では重要なのだ。
講義は、大抵空いているところに座って受ける。
隣に誰か来れば、雑談をすることもある。たとえば、こんな感じだ。
「——ボク、前期はフル単だったんです」
「本当ですか? さすがですね!」
「趣味は読書で——」
「へえ、知らなかったです!」
「本なら年に百は読みます」
「すごいです! 素敵ですね!」
「やっぱり、小説なら芥川龍之介ですね」
「センスありますね!」
そのあたりでだんだん気まずくなってきて、僕は質問を返す。
「逆に、何か趣味はしていますか?」
「ワタシは映画鑑賞です」
「そうなんですね!」
そうして、思わず僕は口元を抑えるのだ。
こんな心地よいと思われる会話ができるのは、きっと僕たちが大人の顔を演じようとしているからだと思う。
講義が終われば、友達と昼食だ。
昼食といえばやはり、コンビニ飯。手軽なのがいい。それでいて味も申し分ない。だから僕はコンビニ飯。
友達とは他愛のない会話をする。
合いの手は「エグい」か「ヤバい」相槌なら「それな」か「それはそう」だ。
そんな会話ばかりしていると、たまに疲れて放心することがある。
=====
段々日が暮れてきて、夕日が地平線に半分隠れた。
「じゃあ、お疲れ」
「うん、お疲れ」
友達と別れる時の常套句は「お疲れ」だ。
「サヨナラ」でも「バイバイ」でもない。「お疲れ」である。こうして僕は、オツカレな大学生の一日を終える。
帰宅して、ドアに鍵をかけると静寂が訪れる。しんとした部屋には、自分一人だけ。
僕はもうすっかり、大学生の顔をしている。明日も、明後日も、同じようにする。
いつか、社会人の顔になるかもしれない。そうなった時、僕は同じくその顔を演じなければならない。
この顔と役を選びとることの、妙な気持ち悪さは、誰にも言えないまま胸の内に秘めておく。
こういう時、僕はつくづく感じる。今、自分は独りなのだと。
夜が更けてなお、頭の中は顔のことでいっぱいだった。
ベッドに横になっても、シーツの端をキュッと掴んでも、不自然な緊張感に苛まれて眠りにつけない。
「——お母さんは、どうして眠れないの?」
小さい頃、母にそんなことを尋ねたことがある
眠れない夜を知らない僕は、目を閉じても睡魔に身を任せられないという感覚がわからなかった。
「聞こえるの。目を瞑っていても、怪物の声が」
母は小さい僕にそう答えた。
怪物なんて、どこにいるんだろうと思った。目に見えないものに、なぜ脅かされるのだろうと思った。
——今ならわかる。
聞こえる。怪物の声が。僕の耳元で囁いている。お前の人格は、今にお前の顔によって支配されるのだ、と。
この街には、怪物がいる。
気がつくと、朝になっていた。窓から薄い光が差し込んでいる。
僕は寝ぼけた眼を擦りながら、上半身を起こした。
「眠い……」
窓の外は、泣き止んだ後で拗ねた子供みたいに曇っている。もう一度、昨日と同じことを繰り返して外に出る。
重たい頭に手を当てながら、いつもの道を進む。単純な繰り返しのはずだった。でも、少なくとも今日はそうではなかった。
前を見上げて、目を見張る。その青年は、じっと僕を見つめていた。その容姿には見覚えがあった。
ボロボロの作業服に、煤のついた肌。表面的な見た目はすっかり変わってしまっていたが、幼いときに会った彼の面影は残ったままだった。
青年は僕を前に、膝をついて頭を垂れた。
「ずっと、探していました」
青年、三井宏平はそう言った。
子供の頃、犯罪者が他人以上に憎らしく見えた。
自分がこんなに善良で、正しく生きているのになぜ世界の秩序を乱すような人間がいるのだと。そう理論を立てて犯罪者を非難した。
犯罪者とは、悪いことをした人間だ。
嘘をついたとか、悪口を言ったとか、そう言うのも含めて全部そうだ。
指を指した瞬間は、正義の絶頂に脳を支配されたかのようだった。
「ねえ、今、盗んだよね」
近所のスーパーマーケットだった。その少年が、対価を支払わずに物をポケットの中に隠し入れる動作は、僕に正義の執行を確信させるに至った。
「え? ……は?」
少年は瞬く間に動揺を見せた。
「犯罪者が、居るよ。捕まえなくちゃ」
子供の心の底から放たれた純粋な言葉は、周囲の大人たちの視線を一斉に少年へと集めた。
「マンビキ?」って騒ぐ大人たちの声が聞こえて、少年はますます目を泳がせた。
次の瞬間、頬に熱が迸った。
地面に転がった時、右の手で殴られたのだと気づいた。頭の中が真っ白になった。
「お前のせいだ……お前のせいだ!」
少年の名前は三井宏平。
学校でいじめに遭い、クラスメートから万引きを強要されていた。ある日その場に居合わせた子供に行為を指摘され、混乱の末に暴行へと至る。
罪状といえば、こんな具合だった。
少年は「お前のせいだ、お前のせいだ」と繰り返し僕に言っていた。
大人に体を拘束されて、瞳に怒りの感情を獣のように剥き出しにしている彼を前にした時、僕は大事を成してしまったのだと実感した。
僕の指した指一つで、彼の罪はただの「マンビキ」から「ボウリョク」に変転した。
「あれから、俺は何度も暴力を繰り返す人間になっちまいました。少年院にも行きましたが、いまいち道徳の観念というものがわかりません」
青年は虚な目で、地面を向いたままそう言った。
僕は何を言い返せば良いかわからなくて、「あ」とも「い」とも取れないうめき声をあげた。
「今日は、謝りに来ました」
謝りに来たと言われても、一瞬何を言っているのかわからなかった。
直後、それが誤りに来た、ではなく謝りに来たということに気づいた。
「あなたに対して、俺は申し訳ないなんて気持ちは一切ありません。むしろ恨めしいです。しかし、これが不健全だということは分かります」
青年が見せたのは土下座だった。
「こうでもして、申し訳ないという気持ちを沸かせなければ、俺は人間ですらなくなってしまう」
だから、ずっと謝るために、僕を探していたのだろうか。
その土下座は、誠意がこもっているとは言い難い物だった。しかし、自分には単なる平謝り以上に意味のあるもののように感じた。
「顔をあげてください」
「それは、できません」
拒否された。
「俺は、あなたに顔を見られたくありません」
彼は顔を俯けたままで、立ち上がると背に手を回した。
「こんな立場で、図々しいのは百も承知です。しかし、あなたにどうしても頼みたいことがあります」
取り出されたのは、ボロボロになった紙切れだった。煤で汚れている。
表には「ミツイリョウコ様へ」と書かれている。
「これを、俺の母に届けてはくれないでしょうか」
一瞬、それを受け取りそうになって僕は尋ねた。
「郵便でも、直接届けるでもすれば良いのではないですか?」
青年はバツの悪い表情を浮かべた。
「……住所が分かりません。それに、郵便の送り方も分かりません。何より自分はもう、母と顔を合わせることができません」
顔を合わせることができないというのは、一見不合理だった。何せ、誠意というのは面と向かった時に伝わるもののはずであるからだ。
しかし、僕は紙切れを受け取った。
「分かりました。これは、僕が送り届けます」
「……ありがとうございます」
去り際に、青年は小さくそう言った。
=====
その日、僕は講義を休んだ。かぶっていた大学生の顔をかなぐり捨てて。
準備も用意もそこそこに、流れに身を任せるようにして下りの電車に乗り込む。
端から端へと景色が過ぎていって、だんだんと建物の数が減っていく。
その間も、僕は預かった紙切れを大切に手に納めていた。不恰好な包装の外からでもわかる、乱雑な字は彼の人となりを示しているようでもあった。
決して中身は見まいと、胸の内ポケットに手紙を仕舞って景色に目を戻した。
——帰省をするのは久しぶりだった。
駅を出ると、見覚えのある田舎町の風景が広がった。
記憶を頼りに、目的地へと足を進めると、一軒の家の前で足を止めた。中の住人と目があう。
「すみません」と声をかけると、その人はこちらに近寄ってきた。
「——ここに、本屋があったと思うんですけど……」
「ああ、三井さんに用向きの人かい。あの人は隣町に引っ越したよ、ついこの間ね」
田舎の人は、とにかくおしゃべりが好きな気がする。
なんだか話が長くなりそうだったので、僕は良いところで会釈してその場を離れた。
教えてもらった住所をもとに、バスに乗る。
見える景色はどれも記憶と同じで、何も変わっていなかった。
「……ここか」
バス停から降りてしばらく歩くと、小さな本屋が目に入った。飾り気のない、素朴な個人書店だ。
ドアをノックしようとして、少し躊躇った。なんだか面と向かいたくない気持ちが湧き立って、足が後ろ向きになる。
何も、直接会う必要はないのだ。ポストに放り込んでおこう。
そう思い立った矢先、ポストに指が触れたところで隣に足音を感じた。
「こんにちは」
優しい声色で声をかけられる。
僕は振り返った。
「直接で構いませんよ」
彼女は、僕と手紙を見て言った。
こくりと喉をならせて、僕は口を開いた。
「お久しぶりです、三井さん」
彼女は改めて僕の顔を見て、それからハッと目を丸くした。
書店の中は初めて見るというのに、どこか懐かしさを感じさせるような雰囲気があった。
「わざわざ、ありがとうございます」
注がれた紅茶を受け取って、僕は礼を言った。
「気にしないでください。お得意様ですから」
三井さんは正面に座ると、徐に目を逸らした。
「最近、小説は読んでいますか?」
ティーカップを見下ろして、僕は言い淀んだ。
「最近は、読んでいません……」
なぜ、読まなくなったのだろうか。気づいたら、本を手に取ることがなくなっていた。もしかしたら、文字を追うことに疲れてしまったのかもしれない。
「昔は、本当に本を読むのが好きでしたね。特に好きだったのが——」
「ガンバとカワウソの冒険です」
記憶を探っていた彼女に先立って答える。
「そう、あなたは本当に、冒険が好きな子でしたね」
懐かしむように彼女は言った。
「——相変わらず、ここには冒険物語をいっぱい置いているんですね」
「ええ、冒険には夢がありますから」
そう呟いたきり、沈黙が続いた。
僕は物を渡さなければならないと直感した。
「……三井さんに、手紙です。差出人は、見れば分かります」
胸ポケットから紙切れを取り出して、手で渡した。
瞬間、彼女は突然水をさされたかのように動きを止めて、手紙を凝視した。差出人の存在に、思い当たったのだろう。
封筒が瞬く間に剥がされて、中の文章が取り出される。それから、痛いくらいにしんとした静かな時間が流れた。
——噂で聞いたことがある。
三井宏平は、少年院に入ってから一度も母との面会を許諾していない。解放されてからも、一人で仕事に就いて親とまともに連絡を取っていない。
だからこの手紙は、見た目以上に彼女にとって重要なもののはずだ。
しばらくして、紅茶の湯気が収まってきた頃に溜息が聞こえた。手紙を持つ手が、かすかにだが震えている。
「全く、しようがない話ですね」
しかし、出てきた感想は予測を裏切るものだった。
それは嬉しいとかそういったプラスのものからかけ離れた、否定的なものだった。
「手紙には、何と?」
「ただ、昔を思う言葉が綴られていただけですよ。面会でも一言も喋らずに、被害者に謝る言葉一つもなしに、本当に調子のいい子ですよ」
また会ったら、ちゃんと叱りつけておきますね、と。
そう言って、彼女は冗談みたいに笑った。
その時僕は気づいた。彼女は、責任者としての役割を果たしているのだと。
母である以上に、”犯罪者”の親として、被害者の前で責任者の顔を演じているのだ。だから、きっと嬉しいだなんて言葉は口が裂けても言えない。
それでも、告げる声は震えを隠しきれずに、揺らいでいた。
口から出る言葉は、何と不自由なことだろう。この場で、手紙に綴られた不恰好な文字だけが、間違いなく包み隠すことのない真実を語っていた。
顔という怪物に支配された不自由な僕たちを上から見下ろすように、その文字が自由に気ままに舞を誇示しているかのようにすら見えた。
「どうか、小説を読んでください」
彼女は俯いて言った。それこそ、僕なんかよりよっぽど顔を合わせずらそうにして。
「困難を前に不自由を感じた時、小説に込められた文字はあなたを自由にさせてくれますから」
最後に告げられたその言葉が、頭を打つようだった。
=====
本棚の奥には、埃を被った小説が眠っている。
それを手にとって、広げた。
あの時、僕等はミシシッピ川がなくても、冒険をする少年だった。
親に叱られたら萎縮しても、本を取れば廃工場に立てこもって、反乱を起こすことができた。
動物と喋れるのは当たり前だったし、家政婦がいたとしたらそれはアヒルだった。
文字の向こうにあったのは、自由だった。
確かにそれを、思い出した気がした。
外は雨上がりで、雲の先で微かに太陽の光が輝いていた。
水たまりには、相変わらず大人びた僕の顔が映っている。
今でもたまに、大人の顔をやめて、子供に戻りたいと思うことがある。学生の顔をいっそ捨てて、全く違う何かになってしまいたいと考えることもある。
僕の中には顔という名前の怪物が住んでいる。
それでも、文字の先にある自由は、僕から孤独を取り払ってくれるのだろう。
晴れ渡った道の先を見渡す。
僕は水たまりを飛び越した。




