プロローグ:鋼の死と、泥の生
戦場は、常に鉄と硝煙の味がする。
視界は、不気味なほど鮮やかな赤に染まっていた。
左肩を抉った弾丸の熱。脇腹を突き抜けた衝撃。防弾ベストはすでにボロ布と化し、傷口から溢れる生命の熱が、冷たい中東の夜気に白い霧を立てていた。
「……こちらブラボー1。目標の完全破壊を確認。……離脱は、不可能だ」
喉の奥からせり上がる鉄の味を吐き出し、俺は岩陰に背を預けた。
無線機からはベース(本部)の絶叫が響いている。撤退しろ、死ぬな、戻ってこい。
プロの軍人として、その命令がどれほど「非現実的」なものか、俺にはよく分かっていた。
背後には、脱出を待つ非戦闘員を乗せた輸送機が夜空へ消えていく。彼らの航跡が、俺の死に対する唯一の報酬だった。
「……最後に、美味いコーヒーが飲みたかったな」
俺は愛銃のボルトを引き、残弾を確認した。ゼロ。
タクティカル・ベストにあるのは、ピンを抜くだけの状態にした最後の手榴弾が一つだけだ。
砂塵の向こうから、無数の影が押し寄せてくる。敵の足音。銃声を遮る風の音。
「チェックメイトだ、クソ野郎ども」
足元まで迫った敵の群れに向け、俺は最後の手榴弾のピンを引き抜き、その上に覆いかぶさった。
閃光。
衝撃。
すべてを白く塗りつぶす、圧倒的な熱。
そして、心地よいほどの静寂が、俺を包み込んだ。
四半世紀にわたる戦士としての人生が、そこで幕を閉じた――はずだった。
(……熱い。いや、冷たいのか?)
意識が戻ったとき、俺を包んでいたのは「死」よりも深い冷気だった。
意識は霧の中にある。手足の感覚が、自分のものではないように歪んでいた。
爆発で四散したはずの体が、重く、粘り気のある何かに包まれている。
(……蘇生、したのか? 敵の捕虜になったか?)
特殊部隊の脳が、瞬時に生存へのプロトコルを起動させる。
だが、目を開こうとした瞬間、脳に飛び込んできたのは、前世の何十倍も鋭敏になった「音」と「匂い」だった。
鼻を突く野獣の匂い。
耳を劈く、原始的な殺意に満ちた遠吠え。
「アオォォォォォォンッ!!」
心臓が跳ねた。鼓膜を震わせるその振動は、文明の果て、野生の威厳そのものだ。
ようやくこじ開けた視界の先にあったのは、不毛な砂漠でも、清潔な病院の天井でもなかった。
見上げるほどに巨大な、二足歩行の狼――「銀狼族」の戦士たちが、月光の下で吠え猛っていた。
「……幻覚か? 薬物による、せん妄状態か……?」
脳が現状を否定しようとする。
だが、自分の手を見て、俺は息が止まった。
そこにあるのは、泥に汚れた「猿の赤坊」の手だった。
小さく、ひ弱で、産毛すらほとんどない。指の先には爪もなく、握る力すら宿っていない。
(……人間に。それも、赤坊になったのか?)
パニックが全身を駆け巡る。SASでの過酷な拷問訓練ですら、これほどの絶望は感じなかった。
武装もなく、知識だけを持ったまま、怪物の住処に放り込まれた。
「……なんだ、この醜い生き物は」
地響きのような声が降ってくる。
一際巨大な銀狼――族長ガザックが、俺を見下ろしていた。
彼は、下層へ続く断崖の縁に産み捨てられていた「揺り籠」を、ナイフのような鋭い爪で小突く。
「牙がない。爪もない。毛皮すら持たぬ、ただの『牙無し(キバナシ)』か。……ガラクタを拾ってきたものだ。今のうちに、ひねり潰しておく」
ガザックが巨大な腕を振り上げる。死の影が視界を覆う。
俺は逃げようとした。だが、赤坊の肉体は、ただ地面の上で無様にのけ反ることしかできない。
(……クソ。転生して数分で、おしまいか)
爪が食い込み、俺の細い首筋を断ち切る――その寸前だった。
「待ってください、ガザック!」
鋭い制止の声。
もう一匹の美しい銀狼、ミーナがその巨体で俺を隠すように割り込んだ。
「何を言う、ミーナ。群れの掟を忘れたか? 戦えぬ者は、群れの重荷だ。ましてや、これは人族の仔だぞ」
「掟は知っています。ですが、この仔を見て……ガザック。こんな深い奈落に捨てられて、なお、命を繋ごうとあなたを睨み返している」
ミーナが鼻先を俺に寄せた。
野獣の、圧倒的な圧迫感。俺は恐怖で身を竦ませた。
だが、彼女の鼻先から伝わってきたのは、殺意ではなく――信じられないほどの「温もり」だった。
俺は、死に物狂いでその毛並みに小さな指を絡ませた。
助かりたい。死にたくない。その原始的な生存本能が、前世の知性を塗りつぶしていく。
「……っ。ガザック、この仔には『炎』があります。私が育てます。私の乳を与え、私の獲物を分け与えます。群れの食料は一欠片も使いません。ですから……!」
「……フン。掟破りの母親気取りか。勝手にしろ」
ガザックは忌々しげに爪を引き抜くと、闇の中へ去っていった。
「銀狼の誇りを汚すなよ」という冷たい言葉を捨て置いて。
ミーナは俺を優しく咥え上げると、自分の腹の下、温かな毛並みの中に包み込んだ。
「……大丈夫よ、小さな戦士さん。あなたは私が守ってあげる」
(……温かい……?)
心臓の鼓動が、彼女の体温とシンクロしていく。
ようやく、俺の思考が追いつき始めた。
これは夢でも幻覚でもない。俺は死に、別の世界の、最も無力な「異物」として生まれ変わったのだ。
(……クソ。なんて、状況だ……)
ミーナの乳の匂いに包まれながら、俺は赤子特有の急激な眠気に抗えなかった。
恐怖と、困惑と、そしてわずかな安堵。
プロの軍人として生きた俺が、獣の腕の中で、ただの「牙無き赤子」として涙を流した。
銀狼族の里、その最底辺。
俺の、あまりにも情けない二度目の人生が、ここから始まった。
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