1 冬密、実家ニ帰ル
父は書斎にいた。
屋敷は静まりかえっている。
使用人には皆暇を出してしまったのだ。
代々執事を務めてきた波多野がどうか様子を見に帰ってほしいと切迫した調子で絶縁された自分を訪ねてきて、気乗りしない足を運んだ。
あちこち内装を変えられて他人の家のようだったが、父の書斎は記憶のままだった。
机に突っ伏して、下に吐瀉の後がある。
皮膚は青黒く変色して、飲み物の椀からはなにやら不自然な甘い匂いがした。
遺書とその後の指示書は少し離れた小卓に分かりやすいように置いてあった。
そうだろう、と思った。
忠節命の執事が、わざわざ自分を訪ねてくるような差し出がましいことをするのは変だった。
自分の居場所を知っていたのだって、父の差し金だったと思えば納得する。
ざっと目を通す。
どちらも対外的で事務的なものだ。
湿っぽい言葉はなかった。
出入りの弁護士に任せておけばいいようだ。
負債で家も土地も残らない。
絶縁された自分には残される財もないが、足りない負債への責務もない。
紙幣の価値が紙くずになって国が揺らいだ大事件があった。
国の補填はあったが、そのせいで資産は大分目減りした。
それを取り戻そうと足掻いて、悪い話に乗っかって転がり落ちた。
慎ましく暮らせれば良かったが、あの後妻たちがいてはそれも無理だったのだろう。
義理の母と義理の妹は、賓客用の居間で飾り立てた夜会服姿で寄り添って死んでいた。
眠剤でも使ったのか。
なんだか幸福そうに見えるのに、少し苛立つ。
にしても、よくこの二人をあの世への同道へと説得できたものだ。
他人を蹴落としてでも生に執着するタイプに思えたが。
或いは説得できずに策略で同道をやむなくされた可能性もあるが、それもまた弁護士に丸投げしておけば良かろう。
心は痛まない。
節操のない散財でそれだけの代償に見合ういい思いをしてきたはずだ。
結局、父との反目はこの世で解消されることはなかった。
不始末でさっさと自分をこの世から捨てて、後妻どもを引き連れて二度と戻らぬ道を行ってしまった。
あの世で母に何と申し開きをするのやら。
母は病で精神をやられていたこともあったが、惨めなほどに父に息子である自分の後生を頼み込んでいたというのに。
父の遺書を握り潰した手がおこりのように震えている。
情を感じる言葉など一片も見いだせなかった。
怒りだろうか、失望だろうか。
死の衝撃を受容しきれない心の作用だろうか。
それとも、この世の寄る辺を一切失った心もと無さに震えているのだろうか、子どものように。
後ろに気配を感じた。
一瞬、父の蘇りを信じて歓喜を感じた自分が確かにいた。
よしんば幽霊であっても、息子を取り残すことをよしとせず、後妻どもを置いて自分の元へ帰ってくる父の姿をひょっとしたらと。
見えたのは、大きなピンク色の深い口腔と、艶やかな黒髪。
ぬちゃり。
記憶の改竄かも知れない。
それの口の中にいたわたしにわかるはずのない事柄だから。
けれど、自分の記憶の中でそれはわたしを飲み込んだ──それはそれは美味そうに。




