デビュー組続出
漫画家を目指しながら、統合失調症が発症する主人公の群像劇。
『デビュー組続出』
間もなく布居さんとタミコちゃんが漫画新人賞に入選し、由里ちゃんの小説と武田さんの詩と君白さんの詩が文学新人賞に入選する。デビューしていないのは残り村野さんと三木谷さんと坂本さんだ。芸術家集団の成績は非常に高い。恐らく全員デビュー組になるだろう。仲間にこれだけのプロがいれば、苦戦しているメンバーに最高のサポートが出来る。村野さんと坂本さんへの小説のサポートは由里ちゃんが行える。三木谷さんの漫画へのサポートは俺と亜美と布居さんとタコミちゃんが出来る。我々四人で三木谷さんのストーリー作りに手を貸し、何とか三木谷さんをデビューさせたい。
通院日に芸術家集団とピザの食べ放題で会食し、三木谷さんの家で二次会をする。精神病院漫研の者らが入選作の掲載雑誌や落選作の原稿を持ってくる。精神病院文芸部の者らも作品の原稿を貸し合って、お互いの作品を読んでいるらしい。俺達、漫画系は小説や詩の原稿は余り読まない。漫画系は皆、活字を読むのが億劫なのだ。
俺は布居さんの入選作から読み始める。未来都市を舞台にした現実から幻覚世界に紛れ込む刑事モノで、刑事が現実と幻覚世界を逃げ回る犯人を追って、逮捕するまでの話である。
「布居さん、この作品抜群に良いよ」
「ああ、ありがとうございます。お師匠様のお蔭です」と布居さんが笑顔で言う。
「いやいやいや、これは明らかに布居さんの才能と感性の賜物だよ」
「あたしは良い師を持って幸せです」と布居さんが親しみを籠めて言う。
「基礎的な事を教えただけの俺をずっと師匠って言ってくれるね」
「実際、色んな事を教わったんです」と布居さんが懐かしむように言う。
「俺の中で古くなったアドヴァイスもあるんだよ?」
「氏川さんから教わった事はどんな教えも大切です」と布居さんが尊敬の眼差しで言う。
「そんなものかねえ」
俺はタコミちゃんの漫画を読む。タコミちゃんの入選作は女ガンマンの荒野の決闘の後に指名手配されて逃げ回り、国境を越えて逃げ切る話である。
「ああ、この埃っぽい情景はタコミちゃんの絵だと物凄く良いね。相変わらずワイルドな話だね。なかなかの傑作だよ」
「本当?ありがとう」とタコミちゃんが妙に大人びた感じで言う。タコミちゃんも漫画家として世に出る決意が固まっているのだろう。
次は半沢さんの雑誌掲載された最新の短編漫画を読む。モンスターの世界の原始的な日常の話で、セリフらしきものは雄叫びぐらいしかない。
「なかなかの意欲作だね。ストーリーレスだけど、作品世界のインパクトは物凄く強いよ」
「結構、俺も気に入ってる作品なんです。『ゴン』みたいな作品に憧れて描きました」
「ああ、なら、負けず劣らずの完成度ですよ」
「ああ、ありがとうごさいます」
この日はタラコ・スパゲッティを女性陣が作り、冷凍食品の餃子が添え物として出される。
「陽平、おちんちん、こんにちはしてるよ」とタコミちゃんがトイレで陽平と話している。
皆、陽平をとてもよく可愛がってくれる。陽平はタコミちゃんが特にお気に入りで、タコミちゃんも陽平をとても気に入ってくれている。
「坂本さんと武田さんの結婚式が間近に迫っているね。新婚旅行は何処に行くんですか?」
「新婚旅行はグアムです」と武田さんが引き攣った笑顔で言う。
「半沢さんと君白さんは結婚しないの?」と村野さんが訊く。
「あたし達は当分しないわよね?」と君白さんが半沢さんに確認する。
「俺は早く結婚しちゃいたいんですけど、秋歌がまだいいって言うんですよ」と半沢さんが口を尖らせて言う。
「君白さん達も早く結婚すれば良いのに」と亜美が急き立てる。
「何か微妙に結婚の決意が出なくて」と君白さんが首を傾げて言う。
「何で?」と亜美が追究する。
「当分独身の身の自由な感じを満喫したいんです」と君白さんが左隣にいる半沢さんを意識しながら、伏し目がちに言う。君白さんの心は何処かブルーだ。「結婚生活って楽しいんですか?」
「幸せな結婚生活を獲得出来れば楽しいわよ」と亜美が経験者らしく語る。「あたしの場合は結婚願望も強かったけどね」
「じゃあ、あたしの場合、結婚願望があんまりないんだ」と君白さんが柔和な笑顔で言う。何とも情緒不安定なフラフラとした子だ。君白さんは美人で性格も良いけれど、心は相当に病んでいる。俺はどうだろう。文学芸術鑑賞の趣味は明らかに病んでいる。
「タコミちゃんも彼氏作らないとね」と坂本さんがタコミちゃんに言う。
「良いのがいれば付き合いたいけど、パンクな男と出会わないのよ」とタコミちゃんが毎度のフレーズで答える。
JR大井町駅から帰宅し、俺は風呂に入る。湯船に浸かって、目を瞑ると、眠気に襲われ、一時湯船の中で眠り込む。
「バスタオル、ここに置いておくわよ!」と亜美が脱衣所に入ってきて言う。俺はハッと目を覚まして、「うん!ありがとう!」と言う。湯船の中で眠るのは気持ち良い。湯船の中で眠り込むと溺れそうな感じで目を覚ます。
風呂から出ると、カップのチョコミントのアイス・クリームを食卓に座って食べる。妻がいると、妻が買い込んでいる飲み物食べ物が常にあり、食べたい物が食べたい時に食べられる。まあ、全ての人妻がそうである訳ではないか。
アイス・クリームを食べ終え、漫画のネームを描き、ペン入れをする。ネームの内容はのんべの話で、主人公の三十代の男は夢見るように幻覚に塗れて生活し、眠り込んでは夢を見、目覚めれば、また幻覚を見る。そう言うのんべの生活をイメージ漫画のようなアート・コミックに仕立てる。
短編集が今のところ二冊出版されている。一作目の短編集は新人賞に落選した作品を纏めた。二作目はデビュー後の短編を納めた。単巻長編も二冊出版した。一冊目の短編集には新人賞に落選した作品の中に長編化出来る原稿が幾つかある。それを短編作品の執筆と並行して描き継いでいる。
来る日も来る日も漫画を描く生活が段々と乗りに乗ってくる。
スランプもなく、漫画のネームがすらすらと出てくる日常を神様に感謝する。弟の影響で日本神道の勉強をするようになり、一霊四魂の四魂や元津御魂や御本霊や腹霊や守護神様や守護霊様や守護霊団の事を思うようになる。弟の清は前世の分離霊や神我のお釈迦様に関しては存在を否定し、自作自演の幻聴だと糺す。俺は長年の幻聴に御魂の幻聴が混ざっていると思うようになり、その事を弟にメールすると、『だから幻聴なんてないんだよ』と弟は否定する。肉声で表われた守護霊も自作自演の幻聴だと弟は言う。守護霊様が言葉や声で話しかける事はないと弟は言う。『お兄ちゃんは神様の御告げを思ってるんだよ。神様の御告げなんてないんだよ』と弟の清がメールで言う。『『旧約聖書』を読んだら、十戒のモーセが神の啓示を受けたりするよ』と弟に言うと、『お兄ちゃんはそのレヴェルにはない。普通の人は神のお告げなんて受けないんだよ。霊格の高い人だけが神のお告げを受ける境地にあるんだよ』と弟が言う。『お兄ちゃんはイエス・キリストやお釈迦様の生まれ変わりだとか言うけれど、俺はお兄ちゃんがそんなに霊格の高い人だとは思えない。イエス様やお釈迦様の生まれ変わりの人は決まってるんだよ。イエス・キリストの生まれ変わりは大本教の教祖の出口王仁三郎で、お釈迦様の生まれ変わりは家のF先生なんだよ』
俺が霊格が低い?この俺が?そんな事はない。
『素直な人にしか神はかからないだよ』と弟が言う。
パラノイアを治そうとしている関係で弟の言う事は素直に受け入れている。霊格が低いとされる事に関しては何とも受け入れ難い。そんなに霊格の高い人だとは思えない。そんなに、か。
『お兄ちゃんはユング心理学も勉強してるけど、元型なんてものはないんだよ。幻聴は自作自演の頭の中の独り言なんだよ』と弟の清が言う。
『ユングは『人は仏であり、仏とは人である』と言う真理と何処までも向き合う事をせず、セルフと言う心の中心的な絶対者を立てて仏の境地を説明したんだ。何気なく描いた絵が曼荼羅そっくりだったと本人は言うけれど、曼荼羅は線一つ形一つ異なっても宇宙法則が崩れる。それを理由にユング心理学の事は非真の教えとして吹っ切れたよ』
『それなら良いよ』と弟の清は言う。
『ユングは唯の統合失調症だと思う』
『今頃判ったの!』と弟の清が言う。『僕はお兄ちゃんがメールで、ユング派の精神科医が、もしもユングが精神科に相談しに行っていたら、間違いなく統合失調症と診断されていただろうって書いてきた時点でユングを統合失調症と見做してたよ。何でお兄ちゃんは判らないんだろうって、ずっと思ってた。家のF先生は日本のユング派の有名な精神科医二人と対談をしたけれど、元型なんて言葉はどの記述にも見た事がない』
『そうなんだ。俺はアニマって存在に先ず関心を以て、ユング心理学で幻聴を解釈し始めたんだよ。幻聴に大人の女の声がいたからね』
『お兄ちゃんの幻聴に他人はいないんだよ』と弟の清が言う。『最初は霊の説も一様言ったけど、救霊と言う霊の救済除霊を受けて幻聴がそのまま残ったって事は、お兄ちゃんの幻聴に霊は関係ないって事が証明されたんだよ』
学生時代から小さな場で恋人のように親しくなる女性には沢山出会ってきた。どの人も縁者だったのだろう。俺は女性とも男性とも真面目に会話をし、どの人にも好印象を持たれるように努力して、縁を深めてきた。結婚相手はその中の一番良いと思う人の中から選んだ。俺は男に生まれ変わっても、女に生まれ変わっても、男運女運には恵まれるだろう。性的な関係になる人は少ない。思春期には性的な関係になるような女性は一人も現われなかった。生まれ変わりの面子は毎回関係性が変わって再会するものらしい。母親や妹だった人が兄や父親や恋人や妻となり、父親や弟だった人が母親や姉や恋人や妻になったりもするそうだ。前世の関係性からしたら近親相姦だ。そう言う家族関係にあったような縁者と結婚するのが一番恵まれた結婚であるらしい。亜美の事は前世の分離霊として表われたヘッセが言っていた通り、ヘッセの生前の三人目の奥さんの生まれ変わりだとばかり思っていた。そう言う事が全て間違いだと判った。第一前世とは三百年四百年前の人生で、あの世に生まれると三〇年の修行を経て成仏するらしい。百年ぐらいで生まれ変わる人もいると弟の清が補足していた。私が知る歴史上人物は近代の人が多く、私があの世にいる間にこの世に生を受けたような人達ばかりだ。
二十世紀には薬の副作用で三つ四つ病気を担ったような苦しみを経験した。前立腺の問題で放尿が困難になっている事などを幻聴の仕業と解する事もあった。
二十一世紀の到来は精神科の薬の副作用の問題が大きく改善された。二十一世紀の精神医療は新時代の幕開けと解しても良いだろう。精神科医は向精神薬による微弱な眠気まで一々素人の患者に説明する。そのため患者は眠気をなくすために薬の軽減を訴える。
俺は或時、幻聴が静まったり、再び聴こえたりする繰り返しの中で、幻聴とは生じては消滅する事を繰り返しているのではないかと思うようになった。神道系の新興宗教に入信している弟が言うには、幻聴とは自分の自作自演の頭の中の独り言であるらしい。俺は弟にユング心理学の元型と言う概念を捨てるように言われた。とっくに捨て去った理論であるようで、ずっとアニマだとかアニムスだとか太母だとか老賢者だとかトリック・スターだとかシャドーだとか子供と言う元型の名称で幻聴を区別し、その中の幾つかの元型に不安を抱き続けている。ユングは無意識的な領域を拡大解釈して、何処までも無意識的な領域に人間の根源を求める。そこがユングの陥った統合失調症的な穴である。ユング心理学の理論を学ぶとユングと同じような精神状態に陥る。ユングは悪の心を人間にはどうしようもない心と見做し、救いのない精神構造を示す。ユングは悪魔に関して独特な込み入った妄想を抱いていた。ユング心理学には東洋人が入門するような宗教性は全くない。
幻聴に対する絶え間ない不安や恐怖を日常的に経験している裡に、幻聴に対して、声に出して、優しくして欲しい、気遣いの心を持って欲しい、愛や調和の精神を心に宿して欲しい、ゆっくりと話し、一つが何か言ったら、間を開けて話して欲しいと、繰り返し伝えたら、幻聴の性格が大きく改善される。
或朝起きて、ピタリと幻聴が消えるような人はカルマが尽きたのか。幻聴が消える人は特別神仏に幻聴が消えるように祈ったり、運動をした訳ではない人が多い。幻聴が或日突然消えた人達は自分の幻聴が自分の聴こえない次元で今も生きていると信じている事が多い。
新たな幸せの時代の到来だけを思う。幻聴に対する込み入った考えは持たないように注意している。歪な心は川の石が丸くなっていくように、ゆっくりと時間をかけて善良な心へと自然淘汰されていく。幻聴は年と共に和らいでいくと精神科医は言う。幻聴は幻聴ある統合失調症患者の三〇パーセントぐらいが生涯消えないと精神科医は言う。
幻聴を消すための根本的な解決策は幻聴を生む自作自演を止める事だ。俺には自作自演の幻聴の声や言葉を発している自覚がない。俺は守護神様に幻聴を生む無意識的な自作自演の心の働きを止めてくださいと祈る。
弟が神様は人間の願いを全て御存知だから、人の幸せを祈っていれば、自然と自分の願いは叶うと言う。それでも俺は守護神様に幻聴を消してくださいと祈り続ける。
幻聴に対する不安や被害妄想が止まらない。何か不安にならない型でもあれば、その型で生活したい。F先生の神道系の新興宗教に入信すると、スの神様、つまり、天からの安らぎの霊流が流れると言う。それが全くない。ハプニングで崩れた意識の集中点の型の中に、辛抱強く維持していれば、まだ使える型があるかもしれない。自分のいる丹田と、御本霊や神霊様のいる胸の中と、元津御魂や四魂や産土神のいる額の中心と、人の意識の置き場としての眉間の四つに意識を合わせるのが一時的なハプニングにより崩れた感覚的な型である。胸の中は四次元の霊界で、額の中心は五次元の神界であるらしい。
最近は三木谷さんや村野さんとも幻聴の話をしなくなった。亜美は初回入院中に幻聴が消えた。私にはまだ幻聴がある。二回目の入院前に薬を止めた事で幻聴が消える時期がまた先伸びになった。幻聴に言われて薬を止めたのもカルマだ。『自分の蒔いた種は自分で刈り取らねばならない』と言う因果応報に関する仏教の教えがある。苦しみを受ける度にまた一つカルマが解消したと安堵するような気持ちが必要なようだ。
『直美の漫画家デビュー』
夕方、夕食を食べていると、電話がかかってくる。
「はい。もしもし、氏川ですけれど」
「以前、川田敏子の従兄として漫画を観て戴いた松田直美です」と直美さんが明るく挨拶をする。
「ああ、直美さんか!どうしました?」
「あのう、此間観て戴いた『無重力LOVE』が三回ダメ出し食らって、描き直したら、佳作を受賞しました」と報告する。
「ああ、良かったですねえ!おめでとうございます!」
「今、デビュー作の短編を描いてるんですけど、本当に御世話になりました」と直美さんが泣き声で言う。
「確かに嬉しいよね」
「はい。これで私も恋人を作って、恋愛が出来ます」と直美さんが明るい声で言う。
「大きな夢を一つ叶えたら、そうやって全ての幸せを手に入れようと積極的になるものです」
「夢に生きる人間の事を純粋な人間だと思ってましたが、私達の実態は醜い程貪欲ですよね」と直美さんが笑いながら言う。
「幸せを求める事自体を醜いとは思いませんが、確かに我々は貪欲です。漫画、頑張ってください。デビューから後の事が本題なんです」
「はい。頑張ります。それでは失礼致しました」と直美さんがこちらに気を遣う。
「それではお元気で!また何かあったら、私の家に遊びに来てください。妻の亜美も大歓迎すると思います」
「ありがとうございます。それでは失礼致します」
俺は電話を切る。
『芸術家夫婦の生活』
十二月も半ばになる。肌寒い季節になってきた。
「そろそろ炬燵出そうかね。炬燵好きでしょ?」と朝食の食卓で亜美が言う。
「ああ、炬燵で漫画描きたいな。炬燵の中で眠るのも気持ち良いよね」
「ああ、炬燵で眠るの気持ち良いよね」と亜美が缶詰の秋刀魚の蒲焼を食べながら言う。俺は生卵かけ御飯を搔き込むように食べる。
ナメコの味噌汁を飲み、胡瓜の浅漬けをカリカリと音を立てて食べる。
「今日は苺でも買ってこようかね。口喧しい母親もいないんだから、苺が甘くても練乳かけて食べようよ!」と亜美が子供のようにはしゃいで言う。
「いいね」
陽平がナメコを手掴みで食べようとしては掴めずにいる。それを亜美が陽平の口に入れてやる。陽平はナメコを美味しそうに食べる。ナメコがつるりと喉を通ると、もっとくれと母親に求める。母が言うにはこのぐらいの年齢が一番子供の可愛い時期らしい。
「デビューしてないのは残り坂本さんと三木谷さんと村野さんだけね」と亜美が胡瓜の浅漬けを食べながら言う。
「何とか全員デビュー出来ると良いね。皆、良い線行ってるんだけどね。小説組の村野さんと坂本さんの事は由里ちゃんに任せるとして、三木谷さんの事は俺達が指導しよう」
「三木谷さんはストーリー作りが難関なのよねえ。要は巨大ロボットを描きたいだけの人なのよ」と亜美が生卵かけ御飯を食べながら言う。
「巨大ロボットのデザインとか重量感の表現は相当に高いと思うんだよ」
「あの世界、よっぽど好きじゃない限り、女性は先ず読まないわよね。だから、人間ドラマや恋愛要素を入れるように言おうかと思ってるの」と亜美が三木谷さんの盲点を突く。
朝食を食べ終え、亜美のアトリエに絵画を観に行く。
「随分と沢山ファンタジックな絵を描いてるね」
「よく思い付くから、描けるだけ描いてるの」と亜美が頭を逸らして自作品を眺めながら言う。
「絵画は一日何時間描くの?」
「二時間くらいかな」と亜美が龍の下書きに彩色をしながら言う。
「漫画は一日何時間?」
「実質三〇分から一時間ぐらいかな」と亜美がチューブから緑色の絵の具をパレットに出しながら言う。
「大体俺と同じ時間配分だな。じゃあ、俺も絵画を描くか」
アトリエに入り、苦心してオリジナルの巨像神を描く。よく巨像神を描こうと思っては失敗する。どうやら『大魔人』や『勇者ライディーン』から想起したアイデアのようだ。エジプトの古代遺跡の巨像神が下地になって、『大魔人』や『勇者ライディーン』が生まれたのだろう。漫画で『大魔人』的な作品を描くのが良いのかな。『大魔人』のコミカライズの方がニーズがあるかもしれない。ああ、良いのが描けてきたな。やはり、諦めずに何度もトライすると良いんだな。これは大きな紙に描いて良かった。
居間のソファーに横になろうかと居間に行くと、もう炬燵が出ている。亜美は先、食卓で話していた事を直ぐに取りかかったのだろう。炬燵は暖まっている。俺は炬燵の中に体を入れ、炬燵で一眠りする。
夜の浜辺に人影はない。浜辺は砂に足を取られて歩き難い。浜辺の遠くで炎が揺らめいている。焚き火をしている人がいるのか。喉が渇いた。お金なら三〇〇円ある。浜辺を上がり、ジュースの自動販売機を探しに行こう。蒸し暑くて息苦しい夜だ。月も出ていない。
闇の中、浜辺から石段を登ると、海水浴場の入口辺りにジュースの販売機が白く光り輝いている。足がくたくたに疲れ、出来る事ならタクシーで家に帰りたい。三〇〇円ではタクシー代にも満たない。先ずは喉の渇きを癒そう。
俺は息苦しさからもがき出るように目覚める。今度は夢を見ずに熟睡したい。炬燵の熱で下半身が蒸れている。
背中の感覚が胸の表面の感覚を後ろに引っ張っている。ぺったんこな体みたいだ。感覚を整えるのに起き上がろうにも背中が重い。いつもこの体と言う箱に困らせられている。勢いよく背中に回った胸の表面の感覚を前に突き出す。ああ!背中の感覚が体の前面に移動してしまった!気が狂いそうな感覚に慌てふためくと、感覚の悪夢から目覚める。額から冷汗が出ている。また眠りに落ちたのか。
DVDで映画『ブレードランナー』でも観るか。亜美をDVDの映画鑑賞に誘いに亜美のアトリエに行く。
「『ブレードランナー』観るけど、一緒に観る?」
「ああ、観ようかな。『ブレードランナー』か。私もあの映画は何度も観たな」と亜美が筆を水の入った瓶に入れて言う。
早速、居間で亜美と二人で映画『ブレードランナー』を観る。
「陽平は?」
「陽平は寝かした」と亜美が安心し切った顔で言う。
文学芸術鑑賞により記憶上の印象を生むと、その印象がオリジナル作品になる事がある。特に十代の頃に一度観た切りの映画の印象から多くのオリジナル作品が生まれる。
『神道VSユング心理学』
英知ある神道の師の高次の解釈では幻聴は自作自演の頭の中の独り言とされる。幻聴とは非実在である。統合失調症者は存在しないものを存在するかのように思っている。知識では非実在と判っていても、幻聴は執拗に生きた者のように話しかけてくる。話し込めば、生きた人や人霊を中に宿すような聴こえ方にもなる。座禅を組んだなら、幻聴は片っ端らから雑念として振り払わねばならないような事ばかり言う。生活に支障を来たす幻聴をどう対処すべきか。幻聴を気にしない事だと英知ある神道の師は言う。幻聴は答えたくなるような事、訂正したくなるような事ばかり言う。精神の集中の邪魔なのだ。幻聴を聴いていると、天邪鬼の昔話を思い出す。ユングなどは元型なる無意識の心を想定し、その中の一つであるシャドーを無意識の人だとか悪魔とも規定した。ユングは生涯安らぎある精神状態を回復させられなかった。彼の悪の心に関する結論や悪魔論は非常に妄想的で、込み入っており、最後まで解決策を見出せない。普通の人は何度読んでも彼の悪魔論を憶えられないのではなかろうか。彼は無意識の領域の事を体系付け、元型なる無意識の人格の働きから逃れる術を知らなかった。全く八方塞の生き地獄だ。ユングは精神科医でありながら、統合失調症同然の幻聴も経験している。ユングは全くの統合失調症者だったのだ。日本のユング派の精神科医なども、ユングがもしも自分の苦しみを精神科に相談しに行っていたなら、間違いなく統合失調症と診断されただろうと言っている。ユングは『意識の心』『個人的無意識』『集合的無意識』なる心の三層構造を唱え、霊と解釈する方が自然とも思える心を敢て元型と称し、元型の一つ一つの特性を規定した。夢だけの経験でそんなものを規定する事は出来ない。幻聴を通じてしかそのような存在を事細かく規定する事は出来ない。ユングは仏を説くに辺り、セルフなる心の三層構造の中心的な絶対者を想定し、それを人間の仏性の本体とした。ユングは『人は仏であり、仏とは人である』と言う真理と何処までも向き合い、辛抱強く自分の心を見つめる事をしなかった。ユングは何気なく描いた絵が中国の曼荼羅にそっくりだったとも言う。中国の曼荼羅と全く同じものを描いたのではない。曼荼羅は線一本形一つ違えば、曼荼羅に内在する宇宙法則がたちまち失われる。ユングは東洋の英知を学ぶ事もよくしたけれど、統合失調症者に特有の自己流を盛んに論じた。それに加え、東洋の英知を学ぶに辺り、ユングは聖者の教えを絶対的に尊ぶような、東洋人の抱く基本的な常識に欠けていた。ユングは自分の分析心理学を確立する事が第一だったのだ。ユングには確かに霊能はあったようだ。但し、霊格の低い霊ばかりを相手にし、神霊や仏様と対話するような高尚な遣り取りは出来なかった。ユングは霊格の低い霊を相手に人間的な質疑応答によって霊的な真実の真偽を確かめ、最後まで真に判る事なく、人生を終えた。
お釈迦様は修行により、ありとあらゆる苦行によって自己実現を重ねてきた。それなのに悟りの後には中道を説き、生活修行を重んじた。掃除、洗濯、料理、食事、皿洗い、入浴、整理整頓など、そう言った生活のあらゆる事が修行であり、それらを集中して行う事により心が無となり、悟りに繋がるのだ。
幻聴がある時にはF先生の神書を音読するのも良いと清は言う。俺は直ぐに神書の音読を実行する。何より弟は向精神薬の服薬を止める治療法まであると言う。
スピリチュアル・セックスと称した自慰行為は自作自演の幻聴との自慰行為であった。自慰行為により、レギュラーの幻聴の声ではないリアルなオナペットの喘ぎ声を楽しむ事は日常的に苦しんでいる幻聴との関わりとは全く異なる。幻聴が友好的で善良であれば、これ程までに受け止め方が異なるのだ。オナペットのリアルな喘ぎ声が自作自演の幻聴で表われる自慰行為はセックスに似ていて、妙に楽しい。罪の意識により、俺はそれを良くない事だと判断し、オナペットの喘ぎ声は自分の心の中の想像力で思い浮かべる事にした。オナペットの下着の色やデザインや裸を想像する事には何者かによる制限が加わる。その何者かが何であるのかは判らない。
ヒンドゥーの精神修行に怠け者で好き嫌いの判断しかない鈍性の心と、働き者で善悪の判断のある激性の心と、正邪の判断のある浄性の心との三種類の心の織り交ざった心の一面を説明し、主なる心が浄性の心に定まる事を人生の最上の修行と見做す教えがある。俺は浄性の心を良心に従い、良心と一つになる境地と解する。
『来世のための徳積み』
朝はウォーミング・アップに絵画を描いてから漫画の執筆に取りかかる。お金持ちになるには沢山働かないといけない。長期連載をリアル・タイムの執筆で行うには幻聴が消えないと出来ない。頑張りたくとも寝込む日々が続いては漫画も絵画も描きようがない。朝晩の祈りで必死に幻聴が消えるようにと守護神様に祈っている。『命乞い形代』と言う一枚の用紙の中に二百人分の人に『幸せになってください』と唱えて、『いのちごい』と書く御神業も可能な限り続けている。今生の徳積みは来世の幸せを決定する。今生、芸能界や作家としてデビューする事が出来る人は前世で一杯良い事をした人達の御褒美の人生で、そうなるように定められている人生らしい。文学芸術の世界には御褒美の人生を生きているのではない多くの天才芸術家達が不遇な人生を送っている。彼らは自費出版や自主制作CDや自主制作DVDを作るより他にデビューのしようがない。SNSに作品を残せるこの時代は恵まれている。SNSに作品を残せば、或意味歴史に名を残す事にもなる。音楽制作に関しては俺の頭の中の音楽は現代の音楽のパクリがほとんどで、特別新しい個性は感じられない。漫画家の音楽となるとオタクがリスナーになる。俺はオタクが好きじゃない。ウェブ小説などはオタクの文学が大半を占めている。俺は小説の執筆に少し関心がある。精神病院文芸部の小説すら読まない俺にプロの世界に通じる小説が書けるとは思わない。俺が入信している神道系の新興宗教の教祖はオールマイティーの極みだ。F先生は文学芸術は元より世界的な福祉活動や複数の会社経営の才も発揮している。名だたる聖者や博学多才の人生を送った人物の歴史は大本教の出口王仁三郎と彼の生まれ変わりの歴史であるらしい。盛んに漫画を描かない事には到底お金持ちにはなれない。お金がないと大きな福祉活動も出来ない。小規模の福祉活動を一生懸命やれば、辛うじて来世の幸せにも繋がるだろう。子供相手に無料の漫画塾を作るのも良いかもしれない。良し!それをやろう!自分も子供達と同じ教室で一緒に漫画を描きながら、時々子供達の漫画を看てやれば良い。お金が無いなら無いで、自分に出来る奉仕活動は意外とあるものだ。早速、アイデアをくださった守護霊様に感謝の祈りを捧げる。他に何かないか。ああ、塾の子らに御菓子やジュースを無料で出してやるのが良いか。早速、また守護霊様に感謝の祈りを捧げる。
亜美のアトリエのドアーをノックする。
「はい!どうぞ!」と亜美が部屋の中から返事をする。
「あのさ、来世の幸せのために奉仕活動をやりたいと思ったら、守護霊様から子供達への無料の漫画塾を作るアイデアが降ってきたんだ」
「へええ。良いアイデアね。あたしも一緒にやろうかな」と亜美が神秘的な森の絵を彩色しながら言う。
「生徒達と同じ部屋で自分の漫画を描きながら、時々生徒達の漫画の様子を看て、アドヴァイスをするんだよ。尚且つ無料で御菓子やジュースを出してやろうかと思ってるんだ」
亜美がこちらを笑顔で振り返り、「ああ、素晴らしいアイデアね」と言う。「あたしもやる。大人に教えちゃいけないのかな?」
「ああ、なるほど。大人も塾に入れるとなると、教室には俺と亜美のアトリエの両方を使わないといけないな」
「あたしのアトリエを大人の方の漫画塾の教室にすると良いわ」と亜美がすっかり乗り気で言う。
「『漫画天国』って言う塾名はどう?」
「ああ、良いわね」と亜美が嬉しそうに言う。
「早速、守護霊様に感謝の祈りを捧げよう」と俺は言って、小声で守護霊様に感謝の祈りを捧げる。
「正道さんの入信してる宗教にあたしも入りたいな」と亜美が遠慮がちな顔をして言う。
「ああ、じゃあ、弟に頼んでみるよ。精神障害者が入信するには神業保証人になる健常者の身内の会員がいるんだよ」
「あたし達、夫婦だから、弟さんに神業保証人になってもらえないかな?」と亜美が思い詰めたような顔で言う。
「ああ、それは出来ると思うよ」
「じゃあ、お願いね。最近のあなたの神様や守護霊様の話を聴いてたら、羨ましくなったの」と亜美が寂しそうに言う。
俺は早速、清に電話する。
「ああ、清?俺、正道だけど」
『どうしたの?お兄ちゃんが電話かけてくるなんて珍しいね』と清が電話に出る。
「亜美が俺達の宗教に入信したいって言ってるんだよ。清に神業保証人になってもらえないかな?」
『ああ、良いよ。亜美さんは神書も熱心に読んでくださってたから、何れは御誘いしないといけないなと思ってたんだよ』と清が神業保証人を引き受ける。
「亜美に清の電話番号教えても良い?」
『良いよ』と清が承諾する。
「それじゃあね。今度、俺、子供と大人相手の無料の漫画塾を開こうと思ってるんだ」
『ああ、良いアイデアだね。それじゃあ、仕事があるから切るよ?』と清が忙しそうに言う。清はファッション・デザイナーだ。
「うん。それじゃあね」と俺は言って、電話を切る。「亜美、良いってさ。何れ亜美を会に誘おうと思ってたんだって」
「そうなんだ。良かった」と亜美が笑顔で言う。亜美も精神障害者としての自分に社会的な引け目を感じるようになってるんだな。
「早速、無料漫画塾『漫画天国』の生徒募集のチラシを作って、阪急デパートの掲示板に張ろう!」
「ああ、そうね。チラシ、あたしが書こうか?」と亜美が申し出る。
「ああ、じゃあ、お願いするよ」
『漫画塾『漫画天国』開始』
阪急デパートの掲示板に亜美が漫画塾『漫画天国』の生徒募集のチラシを張ると、早速四人の子供の親達と三人の大人の生徒から連絡が入る。我々は彼らを生徒とし、七人ぐらいが丁度良いだろうと、阪急デパートの掲示板からチラシを回収する。
我々は塾の初日に生徒七人に漫画を描くための基本的な道具を教え、彼らに漫画を描くのに必要な道具を買い揃えさせる。我々は生徒らにネームの描き方や、漫画原稿用紙のコマ割りの効果的な技術や、付けペンやロットリングやマジックペンなどをペン入れの用途に応じて使い分ける事や、修正液の用い方を教える。人物や背景の絵の練習は漫画やイラストレイションを描く事で技術を高めていく方法を取る。練習用の鉛筆デッサンの過程を通らず、作品を増やしていく事の方が楽しいだろうと思ったのだ。中にはどうしてもストーリーが描けず、画家の道に転進するような者も現われるだろう。そう言う脱落者が現われないように、ストーリー作りに必要な連想法とストーリー修正の仕方を教える。
子供の生徒は幼稚園の年長組の吉川直人と、小学一年生の原吉日と小学四年生の相沢直美と、中学一年生の高原仁哲で、大人の生徒は二十九歳の佐々木美和子と、三十一歳の山木正治と、四十二歳の久我野雅子である。佐々木美和子は高卒で、山木正治と久我野雅子は大卒である。幼稚園の年長組の吉川直人は何とも不思議なストーリーを作り、我々は彼の作品から幼児期特有の知能を思い出させられる。小学一年生の原吉日は連想とストーリー修正に突出した才能を発揮し、一日に三本のあらすじを作るようになる。小学四年生の相沢直美は少年漫画の影響を受けた妖怪退治の漫画を描き、女の子にしては珍しく動的な漫画を描く。中学一年の高原仁哲は電車マニアで、電車モノの漫画を好んで描く。二十九歳の佐々木美和子は持病の精神分裂病に題材を得た漫画を描き、三十一歳の山木正治はガロ系漫画の影響を受けた貧乏生活を漫画に描き、四十二歳の久我野雅子は非常に幻想的で美的な恋愛漫画を描く。我々は本当に個性豊かな弟子達に恵まれた。
幻聴が騒ぐ中、かなり無理をして、連作短編漫画の執筆に取り組む。描き上がるとクタクタに疲れ、居間のソファーで仮眠を取る。
夕方、風呂に入り、バスタブの中で束の間眠り込むと、不意に御本霊が統合失調症モノの短編小説を書くと言う。タイトルは『夢との戯れ』である。俺は御本霊に任せて、三日間かけて書く。
小説『夢との戯れ』
ホテルに到着し、俺はタクシーの運転手に代金を支払う。タクシーを降りると、手荷物を白い制服を着たホテルの従業員に手渡す。ホテルの赤い絨毯の敷かれたロビーに入る。俺は受付に向かい、「氏川正道です。予約をしていたんですが」と黒いヴェストと胸元にフリルのついた白いブラウスを着た受付の女性に予約を確認してもらい、部屋の鍵を手渡される。
従業員と共にエレヴェイターの方に歩いていく。従業員がエレヴェイターのボタンを押す。エレヴェイターの扉が開く。俺は従業員と二人でエレヴェイターに乗る。従業員が十階のボタンを押す。従業員と二人でエレヴェイターの密室の中にいる。二人共顔を合わせず、無言で立っている。幻聴はなく、人のいる温もりに安心し、緊張感が解けていく。
十階でエレヴェイターの扉が開く。外に出ると、従業員は赤い絨毯の敷かれた薄明かりの廊下を右の方へと進んでいく。従業員は一○一三号室のドアーの前で止まり、鍵でドアーを開ける。俺は薄暗い赤茶けた照明の部屋に入る。疲れた俺は椅子に腰を下ろす。従業員が荷物を部屋の中に運び終える。
「ありがとう」と俺は言って、チップを手渡す。従業員は紙を一枚俺に手渡し、部屋を出ていく。
紙には印刷字で、『川っ淵と言う言葉が繋がっていますよ』と書いてある。俺は声に出して、「川っ淵さん!」と夢の使者を呼ぶ。入口近くのバスルームの開いたドアーから歪んだ人の映像のようなものが現われる。
「はい」とその歪んだ人の映像が明るい声で答える。俺の手には紙など握られていない。また夢が入り込んでいたようだ。
「川っ淵さん、また逢いましたね」
「はい」と夢の使者が返事をする。
一体以前は何と呼んで夢の使者を呼び出していたのか。全く憶えていない。果たして自分から呼び出すなんて事はあったのか。今もしも川っ淵さんがいなくなったら、俺の世界は再び訳の判らない現実だけになる。そうなったら俺は物事のなりゆきが全く判らなくなり、落ち着きを失ってしまうのだ。俺は夢の消えた現実では全く生きていけない。要するに俺は夢を見ながら生活しているのだ。
神様は夢の中にも現われると言う。俺は神様が現われるのを夢半分現実半分の世界でずっと心密かに願っている。この夢とも現実とも言えない世界から少しでも早く神様に救い出してもらいたい。俺には川っ淵さんしか友らしき友はいない。その愛すべき友の呼び名さえ安定した一つの名として記憶しておく事が出来ない。たった一つの名の、たった一人の友で良いから、俺は安心して一緒にいられる友が欲しい。
ぷよぷよしてる小っちゃな子。
お腹を押せば、
口からミルクが溢れるよ。
もっとお腹を押すと、
頭の毛穴からマヨネイズが細かく
ぴろぴろと出てくるよ。
ふにふにむにゅむにゅ、
ふにふにむにゅむにゅ、
可愛い子。
可愛い声。
可愛い心。
とベッドの下から小動物の声のような小さな声で、妖精のような小さな裸ん坊の生き物が先の歌いながら現われる。その曲を作詞作曲したのは私である。妖精達は机の上に攀じ登り、PCの上に俯せになる。妖精達はPCに額をつけ、PCの中の詩を読む。
『烏』
氏川 正道
真夏の青い空が地平線から上へと徐々に黒く染まっていく。
真昼の都会の空が
烏の大群の奇声で耳がつんざける程に一杯になる。
異様な騒音。
黒い昼の空。
黒い昼の空を見上げ、
神様にお祈りをしていた詩人達に暗黒の詩が降ってくる。
その詩を紙に書き留めた詩人達は
幻聴の苦しみにのたうち回るようにして狂死する。
狂死した詩人達の顔は焼け焦げたように真っ黒になる。
死んだ詩人達の暗黒の詩を
背を向けた死神が一枚一枚拾い集めていく。
私はその様子をじっと背後から見ている。
私は死神に、
振り返るな!
と心の中で念じる。
私には振り返らずとも死神の顔が判っている。
悪夢が悪夢らしく終える事が定めであるかのように
死神は振り返る。
振り返った死神の顔は
思った通り
灰色の肌をした私の顔である。
「短い詩だね」と妖精の一人が明るい声で言う。
「病院の中で人間が書いてた詩だよ」ともう一人の妖精が言う。
突然、私の前に三つ子の青年が横並びで現われる。
「僕は統合失調症」
「僕は狂人」
「僕は幽霊」と三つ子達が自己紹介をする。
「何、幽霊って?」と俺が叱るように言うと、「僕は自殺したから幽霊」と三つ子の一人が言う。「自殺なんてしてないよ」と俺。
「幽霊なんていないよ」と妖精が言う。
「僕、いない」と三つ子の一人が寂しそうに言う。
「その子、神様だよ」ともう一人の妖精が言う。
「神様は人間だよ」と先の妖精が言う。
「僕はまだ神じゃない」と俺が言う。
「じゃあ、その子は何?」と妖精が訊く。
「幻聴だよ」ともう一人の妖精が言う。
「僕、幻聴!」と三つ子の一人が嬉しそうに言う。
何だかくらくらと眩暈がする。俺はベッドに横たわり、目を閉じて頭痛のする頭を休める。妖精達と三つ子達は頭の周りに近付き、寝ようとしている俺に話しかけ続ける。
「薬を飲んでませんよ」と川っ淵さんが俺に言う。俺はベッドから起き上がり、鞄から薬袋を出す。俺は精神安定剤を口に入れ、机の上の水差しからグラスに冷水を注ぎ、薬を飲む。薬を飲み終えると、夕食前に一眠りしておこうと、再びベッドに横たわる。
風はまた俺を見知らぬ街へと運んでいく。春の穏やかで柔らかな陽射しに照り付けられながら、俺は今、民家の二階屋根ぐらいの高さの空をのんびりと漂うように飛んでいる。窓から一寸家の中の様子を見ただけで覗きだと疑われ、キッと睨まれる。こんなに夢一杯の存在なのに俺を発見する人の顔に笑顔が生まれない。人間は空なんて飛べない方が良いのか。空から歩道を見下ろしていると、中学生や高校生達は俺を見上げ、指差して嘲う。俺が馬鹿にされたり、嫌われたりする事にうんざりし、民家の屋根の上に座っていると、発見され次第警察に通報される。俺は警察から逃げ回るように空を飛ぶ。警察も人々も虫取り網で俺を捕まえようと追ってくる。安心して空を飛ぶ事も楽しめない。何とか追っ手から逃げ切り、木の上に止まると、漸く俺は体を休める。
夢から覚めると、頭の中がすっきりとしている。俺は鍵を持って、エレヴェイターで二階に下りていく。俺は青い絨毯を敷き詰めた食堂に入る。俺が窓際の席に腰を下ろすと、川っ淵さんは離れた席に三つ子達と共に座る。食堂は空いており、他には勤め人風の男性が三人程ばらばらに広い食堂に腰かけている。俺はカツカレーをウェイトレスに注文し、グラスに注がれた冷水を飲む。川っ淵さんと三つ子達は離れた席で楽しそうに綿菓子を食べている。妖精達二人は俺のテーブルに攀じ登り、ステンレス・スティールの冷たい水差しに顔をつける。
「冷たくて気持ち良いね」と妖精がもう一人の妖精に言う。もう一人の妖精も水差しに抱き付き、「気持ち良い!」と幸せそうな声で言う。
アニマがいないとアニマが思うと、俺も同時にアニマがいないと思う。向かいの席なら空いてるよと俺はアニマに心の中で言う。『いいの』とアニマはあっさりとした口調の幻聴で答える。俺の向かいの席に先程の受付の女性が腰を下ろす。受付の女性は楽しそうに俺に話しかける。
「あたし、男の人と二人で御飯食べるの初めて」と受付の女性がはしゃいで言う。
「そうですか」
「あなたは?」と受付の女性が親しげな口調で訊く。
「その時その時出会った女性と必ず食事を一緒にしますよ、女優さん」
「何だ!気付いてたのか!」と受付の女性が呆気らかんとした顔で言う。
「気付きますよ。どんな姿で現われようとも、直ぐに女優さんだって判ります」
「あたし、何食べようかな」と受付の女性がメニューを手にして眺める。
「グラタンでしょ?」と妖精が言う。
「カツカレーで宜しいでしょうか?」とウェイトレスが来て、俺に訊く。
「はい」
「ご注文以上で宜しいでしょうか?」とウェイトレスが確認する。
「あたし、グラタン御願いします」と女優さんがウェイトレスに注文する。
「グラタンですね。畏まりました」とウェイトレスは言って、我々のテーブルから離れていく。俺は早速カツカレーを食べる。向かいの席にいた女優さんの姿がない。カツカレー好きなんだねと体内のアニマに言う。アニマは『んっんっ』と言いながら、カツカレーを美味しそうに食べている。
「グラタンで宜しいでしょうか?」とウェイトレスが来て、女優さんに訊く。
「はい」と女優さんが席に戻って答える。女優さんは髪をかき上げながら、グラタンを食べる。どうやらアニマと女優さんは体を出入りする事の出来る同一の心のようだ。
「女優さんはいっつもグラタン食べてるね」
「あたし、グラタン大好きなの」
女優さんは大きな口の口角を上げて、笑顔を見せる。真っ赤な鮮やかな口紅が似合う大きな口・・・・。
「女優さんがずっと小野さんの姿ならなあ」と言うと、受付の女性の姿が小野さんの姿に変わる。
俺は向かいの席に座り、グラタンを食べる小野さんを見ている。俺の愛する真希ちゃん・・・・。女優さんの姿が俺の心の揺れに合わせて様々な女性の姿に変わっていく。
「僕には女優さんが一番理想の女性だな」
女優さんがアニマであるのは判っていても、女優さんが現われるとアニマだと思う事を忘れてしまう。
『あたしはマーシャンの胸の中にいるの』と妖精の少女が言う。
『マーシャンの胸の中にいるの?』と妖精の男の子が妖精の少女に訊く。
『あんたはあたしの子なの』と妖精の少女が言う。
『僕、ちっちゃいの?』と妖精の男の子が妖精の少女に訊く。
「ちっちゃいチンコなの」と妖精の少女の口調で俺が言う。
『そういうのはマーシャンなの!』と妖精の少女が怒って言う。
レジスターに行って支払いを済ますと、カツカレー九八〇円しか請求されない。ウェイトレスは誰からグラタンの注文を受けたのか。小野さんは食堂の外で待っている。
俺はエレヴェイターの方に歩いていき、エレヴェイターのボタンを押す。俺はまた夢の使者の名を忘れている。ズボンのポケットに入れた鍵を取り出す。『一○一三』・・・・。ああ、判らない。何がどうなってこのホテルにいるのか。携帯電話に電話がかかってくる。
「はい、もしもし。氏川ですが?」
『木の葉と言う言葉が繋がっています』と夢の使者が電話の向こうから言うと、ぷつりと電話が切れる。
「木の葉さん!」と俺は夢の使者を呼ぶ。歪んだ人の映像が閉じたエレヴェイターの扉の隙間から煙のように出てくる。
『はい』と夢の使者が返事をする。
「私はこのホテルに何のために来てるんですか?」
『漫画の締め切りまで缶詰にされて泊まっているんですよ』と夢の使者がスケジュールの説明をする。
「ああ、そうか。全く漫画を描いてない。締め切りは何時ですか?」
『判りません。電話で確認してください』と夢の使者が言う。
「電話は・・・・」
『電話は使えますか?』と夢の使者が訊く。
「いいえ、今、混乱してて使いこなせません」
『電話は部屋にもあります。その手に持ってる鍵が部屋の鍵です』と夢の使者が説明する。
「一○一三号室」
エレヴェイターの扉が開き、中に乗る。俺は十階のボタンを押す。隣に小野さんが立っている。小野さんはエレヴェイターが上っていく数字の表示を見上げている。小野さん。俺の恩人。俺の前から消えないでくれ!小野さんがこちらを振り向き、大きな口でにっこりと微笑む。俺の小野さん。俺だけの小野さん。
エレヴェイターが十階で止まり、扉が開く。俺は小野さんに先を譲り、後から出る。
『反対です。右です』と左に曲がろうとする俺に夢の使者が言う。
えっ・・・・、また夢の使者の名前が判らない。エレヴェイターを出て右の廊下を行ったところにある一○一三号室の前で小野さんが立ち止まる。俺は鍵でドアーを開ける。書き物机の方を見ると、先妖精達が額をつけて詩を読み取っていたPCがない。俺は書き物机の脇に置いてある鞄を開け、PCを取り出すと、書き物机の上に置く。アウトレットにコードを繋げ、PCの電源を点ける。部屋の中は静寂が満ちている。俺は早速漫画のストーリーをPCに執筆する。見回しても部屋には誰もいない。心は落ち着いている。執筆はいつも静かな環境でする。
漫画のストーリーはものの二〇分程で描き終える。二〇時半と少し早いが、眠剤を飲んで眠る事にする。
俺は地面から脚の脛ぐらいの高さの空を飛んでいる。バスや自動車や自転車に乗った人達がそんな風に空を飛ぶ俺を黙って見下ろしている。もう一度高く大空に舞い上がり、皆が見上げるような飛び方をしたい。もうそろそろ俺は飛べなくなる。地面に腹が触れるようになったら、恥ずかしいから潔く大地に降り立ち、もう飛ぶ事を止めよう。空を飛ぶ喜びが減ってくると、段々と空を飛ぶ高度が下がってくる。俺は思い切って大地に立つ。体は地を滑るように立った姿勢で前へと飛んでいく。靴底が擦り減る心配のない程度に足は浮いている。俺は踊りながら前へ飛ぶ。後ろ向きに立ち尽くしたように宙を進んでみせようか。
電話がかかっている。今、良いところなのに、誰だろう。
『電話がかかってますよ』と夢の使者が言う。名前は・・・・、思い出せない。俺はベッドから出て、書き物机の上にある携帯電話を手に取る。
「はい、もしもし、氏川ですが?」
『北海書房の丸山ですが、漫画は進んでますか?』と丸山さんが俺の様子を窺う。
「『大きな口の女』って言う短編漫画を描き上げました」
『御願いしたのは連載用の漫画です』と丸山さんが苛立ったように言う。
「ああ、なら、『大きな口の女』が長編漫画の中の作中映画になります」
『完成には後どのくらいかかりますか?』と丸山さんが完成予定を確認する。
「ストーリーは描き終えましたが、漫画の完成は今のところ判りません」
『締め切りは月末の三十日です』と丸山さんが気の弱い声で言う。
「今、何日ですか?」
『二十一日です』と丸山さんが答える。
「残り九日ですか」
『頑張って締め切りに間に合わせてください』と丸山さんが急かす。
「はい、判りました。それでは失礼します」
『はいはい』と丸山さんは言って、電話を切る。
カーテンの下から陽が差し込んでいる。俺はカーテンを開け、十階からの街並を見渡す。締め切りまで残り九日か。
俺は洗面所に入り、便所で用を足すと、洗顔と歯磨きと髭剃りを済ませる。書き物机の前に行き、鍵を手に取る。『一○一三』か。腹が減ってるな。何処で朝食を済ませようか。
『吉野家がホテルの近くにあります』と夢の口調を真似た妖精の男の子が子供の声で言う。
「あのう・・・・」
あれ、夢の使者の名前が判らない・・・・。携帯電話に電話がかかってくる。俺は電話に出る。
『ああ、正道さん?あたし』とアニマが言う。
「ああ、小野さんか」
『今、ホテルの近くの『吉野家』にいるんだけど、出て来て一緒に御飯食べない?』と小野さんが朝食に誘う。
「ああ、直ぐ行くよ」
俺は昨日と同じ服のまま鍵を持ってドアーを開ける。ドアーの隙間に紙が挿んである。『煉瓦という言葉が繋がってます』と書かれてある。
「煉瓦さん!」と俺は夢の使者を叫ぶ。手に持っていた紙が燃え出す。俺はびっくりして紙を手離すと、紙は絨毯の上に落ちて燃え尽きる。燃えた紙の煙が雲のように俺の頭の上に浮いている。その雲のような煙から歪んだ人の頭の映像が出て来て、『はい』と夢の使者が答える。
「吉野家に朝食を食べに行きたいんですけど」
『エレヴェイターで一階に下りて、ロビーを出て左です』と夢の使者が言う。
「判りました」
俺は鍵を持って部屋を出ると、エレヴェイターの方に向かって歩いていく。エレヴェイターのボタンを押し、扉の前でエレヴェイターを待つ。最近、音楽聴いてないな。TVも観てない。俺は目の前に映像を浮かべ、即興で映画を創作する。
『お帰りなさい』
どしゃぶりの雨の中、モッズ・パーカにブルー・ジーンズを着た男が古びた灰色のビルディングを見上げている。空は灰色がかった黒い雲に蔽われ、重い雷鳴が轟き、稲光が空を切る。ビルディングを見上げる男の顔が稲光で一瞬闇の中から照らし出される。不精髭に脂ぎった長髪の銀縁眼鏡をかけた大学生風の男である。男はビルディングの中に入っていく。
落書きだらけのロビーにパンクスがぽつりぽつりと力の抜けた様子で壁に寄りかかり、虚ろな眼で宙を見つめて地面に腰を下ろしている。そこら中に硝子の割れた注射器が落ちている。男はエレヴェイターの前まで歩いていき、エレヴェイターのボタンを押す。エレヴェイターのボタンの灯が点かない。男は乱暴に数回ボタンを押す。灯が点かない。男は拳でボタンを叩き付ける。灯は点かない。男はエレヴェイターを諦め、非常階段への黒い鉄の扉を開ける。階段の途中でパンクスの男女がセックスをしている。男は階段下でブルー・ジーンズのポケットから濡れた手で紙片を取り出す。セックスをしているパンクスは男の事など気にも留めず、ずっと腰を振ってセックスをしている。四○五号室かと男は心の中で呟く。男はセックスをしているバンクスを跨いで階段を上る。中二階を曲がると、また別のバンクスの男女がセックスをしている。男は階段の隅を通り、階段を上がる。
二階に上がると、涎を垂らしたバンクスの男が白目を剥いて自慰行為をしている。男が回り込んで階段を上るつもりでいると、バンクスが自慰行為をしている手とは反対の左手を男の方に伸ばす。男はブルー・ジーンズのポケットから丸まったくしゃくしゃの五〇〇円札を出し、パンクスに手渡す。階段の壁も落書きだらけで、階段には硝子の割れた注射器が散乱している。中三階を回り込むと、髪の長い痩せた男が階段の真ん中に座って煙草を吸っている。
「誰の紹介?」とその髪の長い痩せた男が男に訊く。
「山根さんに用があって」
「二千円で良いよ」と髪の長い痩せた男が言う。男は白いスニーカーズの右側を脱ぎ、靴底から半分に折った札束を出す。男は二千円をそこから抜き取り、髪の長い痩せた男に差し出す。髪の長い痩せた男はお金を受け取ると、右の人差指を一本上げる。男はもう千円、髪の長い痩せた男に手渡す。髪の長い痩せた男は金を受け取ると、煙草を吸い始め、男は脇を通って階段を上がる。三階に上がると、壁にはもう落書きはなく、硝子の割れた注射器などのゴミも落ちていない。
男は四階に来て、黒い鉄の扉を開け、廊下に出る。男は廊下を進み、右側に三つ並ぶドアーを通り過ぎる。一番奥の四○五号室の前に来ると、ドアーをノックする。何の反応もない。男はドアーを力強く叩く。中からの反応はない。男が視線をドアーから右に逸らすと、ブザーがある。男はそのブザーを丁寧に押す。
『はい』と低い男の声がインターフォン越しに応対する。
「あのう、仕事が欲しくて」
『ああ、一寸待ってな』
男が今通ってきた廊下の途中の三つドアーが一斉に開く。開いた三つのドアーから同じ顔と服装をした三人の男が口を開けて男を見る。男は驚いてコンクリートに尻餅を搗く。三つのドアーが今度は勢いよく一斉に閉まる。同時に『四○五号室』のドアーが開き、「入れ」とドアーに隠れて姿の見えない男の声が言う。声は先程インターフォン越しに応対した男の声である。男は素早く立ち上がり、逃げ込むように部屋に入ると、ドアーを閉める。
男が玄関に入り、ドアーを閉めると、部屋の中は真っ暗闇である。暗闇の中でドアーが廊下の先の方で開き、薄明かりが闇に射し込む。男は靴を脱ぎ、廊下を真っ直ぐに進むと、半分開いたドアーを開け、電気の消えた月灯りだけの部屋に入る。
「ドアーを閉めろ」と先程の男の声が言う。
「あっ、はい」
男はドアーの方を向き、音を立てずに丁寧にゆっくりとドアーを閉める。男は振り返り、部屋を見回す。月灯りが射し込む部屋の中には男の他に誰の姿もない。
完。
『何これ?』と妖精が訊く。
「お帰りなさいだよ」と俺が答える。
『お帰りなさいだ!』と三つ子達が楽しそうに言う。
エレヴェイターの扉が開き、俺はエレヴェイターに乗る。エレヴェイターで一階に下りると、ロビーを出て、直ぐ左にある『吉野家』に入る。
「いらっしゃいませ!」と男の店員が言う。
奥のカウンター席に女優さんが座っている。女優さんは俺に手を振る。俺は店の奥へと進み、女優さんの右隣に腰を下ろす。店員がこちらを見ている。
「牛丼の並一つ」と俺は注文をする。
「並一つですね」と店員が復誦する。
俺は冷水を一杯一気に飲む。左を向くと、女優さんがいない。牛丼の丼もない。えっと、また夢の使者の名前が・・・・。
「はい!並一つ!」
俺は牛丼に紅生姜をたっぷりとかけ、割箸を割って、丼を手に持ち、牛丼を食べ始める。牛丼の中から紙片が見えてくる。俺は油塗れの紙片を牛丼の中から抜き取る。
『日々と言う言葉が繋がっています』と紙片には書かれている。
「日々さん!」
俺が座っているカウンター席の向かいから、にゅうっと歪んだ人の映像が立ち上がる。
『はい』と夢の使者が答える。
三つ子が入口に近いカウンター席に横並びに三人背を向けて座り、牛丼を食べている。アニマが「んっんっ」と言いながら、俺の体内で牛丼を食べている声が聞こえる。無意識的に牛丼を食べていると、あっと言う間に丼一杯の牛丼を食べ終える。俺は何となく空腹感が残っている。
「何にしますか?」と店員が俺に訊く。
「ああ、牛丼の並一つ!」と俺は追加注文する。
「並一つ!」と店員が復誦する。
食べ終えた丼に視線を戻すと、空の丼がない。隣の席にはまた女優さんが座っている。何だか食べるという行為が判らなくなってきた。妖精達がカウンターの上に腰を下ろし、足をぷらんぷらん動かしている。確かに一杯食べたよな。空の丼を無意識的に上の棚に置いて店員に片付けられたのかな。
「はい!並一つ!ご注文は以上で宜しいでしょうか?」
「ああ、はい」と俺は言うと、たっぷりと紅生姜をかけ、割箸を割り、丼を手に持って、掻き込むように牛丼を食べる。美味い!
会計に向かうと、女の店員が、「並二つですね」と言い、並二杯分の料金を取る。ああ。やっぱり二杯、いやっ、店員に言われて払った料金は一杯分だ。ああ、外界の現実が完全に幻聴に蔽われてしまっている。薬持ってこなかったな。ええと、ここは・・・・。
『直ぐ隣にホテルがあります』と夢の使者が言う。あれっ、また夢の使者の名前を忘れた。
俺は『吉野家』を出て、『吉野家』の隣に聳え立つホテルのロビーに入り、受付に向かう。
「預けていた鍵をください」
「お名前は?」と受付の女性が俺に訊く。
「氏川正道です」
「一○一三号室ですね。ええと、鍵はお預かりしていませんねえ」
「えっ」と俺は言い、ズボンのポケットに手を入れる。自分で部屋の鍵を持っていた。「ああ、自分で持ってました」
「ああ、はい(笑)」と受付の女性が笑顔で言う。
俺はエレヴェイターの方に歩いていく。
『正道さん!待って!』と女性の声が俺を呼び止める。
振り返ると、後ろから小野さんが走ってきて、両膝に手を当てて荒い息を吐く。小野さんは俺の顔を見上げ、「正道さん、歩くの早いんだもん」と言う。何かTVドラマの台詞のようで、俺はニヤニヤと笑いながら、小野さんを見下ろしている。小野さんは拳骨で俺の胸を打ち、『もう!笑い事じゃないぞ!』と頬を膨らませて言う。
「あははははは!」と俺は堪らなく大笑いする。
『もう正道さんたら!』と小野さんが可愛らしい怒った顔で言う。
「あああはははは!」
『何がおかしいのよ、もう!』と小野さんは言って、また頬を膨らます。
「あああはははは!」
『もういい!』と小野さんは怒ったような顔をして背を向ける。
「何そんなに怒ってるんだよ?」
『正道さんって鈍感ね。全く女心が判ってないんだから』とTVドラマのセリフのように言う。
「あああはははは!」と俺はのけぞって大笑いする。「あれ?」
大笑いして目を開けると、小野さんの姿がない。
俺はエレヴェイターに乗り、十階のボタンを押す。エレヴェイターの中の室内がやけに暑く、エレヴェイターの中の空間が大きく深呼吸を繰り返すように膨らんだり、小さくなったりしている。三つ子の話声がエレヴェイター内の空間に大きく満ちている。何かアニメイションの戦闘シーンのような爆発音も聞こえる。俺の意識は今にもパタリと倒れ、気を失いそうな程朦朧としている。真っ暗な大きな穴が突然眼前に浮かぶ。目を凝らしてよく見ていると、何時の間にか俺は一人真昼の真っ青な海の波打ち際に立っている。子犬が俺の靴の臭いを嗅いでいる。誰の飼い犬かと思い、犬がやって来た左の方を見ると、「セサミ!」と長い髪をした顔立ちのはっきりとした背の高い美しい女性がこちらに向かって歩いてくる。十六歳の時に俺が漫画に描いた女性にそっくりだ。俺は左脇にノート・パソコンを抱えている。
「すみません」と女性は犬を抱き上げながら、俺に言う。
「人懐こい犬ですね」
「そうなんです。人がいると一人でたったったって走っていっちゃうような子なんです」と女性が親しげに言う。
「東京の方ですか?」
「いいえ、つい五月ぐらいまで東京の大学に通ってたんですけど、中退してこっちに帰ってきたんです」と女性が言い辛そうに話す。
「失恋ですか?」
「ええ、まあ、そんなところです」と女性が苦笑して言う。
確か弟の清がこの女性の出てくる俺の漫画をとても誉めてくれた。それは僅か五ページのショートショートだった。
「坐って一緒にDVD観ませんか?」
「映画ですか?」と女性が眼を輝かせて訊く。
「ええ、僕の好きな『らせん』って言う日本映画です」
「『らせん』って、貞子の?」と女性が明るい顔で確認する。
「ええ、そうです」
「大丈夫なんですか、そんなに非現実的な映画をこんな真昼間に観て?」と女性が奇妙な事を言う。
俺は女性の顔をまじまじと見つめる。誰だ、この人・・・・?俺は消えろ!と心の中でその女に怒鳴りつけると、女の顔がぐにゃぐにゃに歪み、異次元への渦の中へと消えていく。その途端、蛍光灯の電気でも消すように真っ暗な夜になる。ああ、こんな暗い中ではさすがに『らせん』は観られない。俺は夜の浜辺に音楽が流れている事に気付く。シャツの胸ポケットに入れたポータブル・MD・プレイヤーのイヤフォンからピンク・フロイドの『原子心母』が流れている。携帯電話にメールが届く。小野さんからだ。
『正道さん、そろそろ夕食だから、なるべく早く帰ってきて』と書かれている。
俺は長崎の島原半島の神代長浜海水浴場を出て、第二京浜国道に出る。家族の待つ家に帰ろうにも記憶がない。第二京浜国道沿いを歩いていると、硬貨があちらこちらに落ちている。落ちている硬貨には大した興味はない。その歩道を歩いていると、俺は何時の間にかベッドの柵に凭れ、脚を伸ばして座っている。
ああ、夢と現実が段々と区別出来なくなっている。病院に行かないといけない。ああ、ここはホテルの中か。夢の使者は何処にいるんだ。煙草を吸おうとシャツの胸ポケットに手で触れる。煙草もライターもない。ああ、そうか。俺は禁煙してたんだった。いやっ、その後の入院中にはまた吸ってたなあ。ああ、コーヒーでも飲みたい。レストランにでも行こうか。ああ!薬だ!薬を飲まないと!俺はベッドの脇のテーブルの上に置いたナップザックの中から向精神薬を取り出し、水差しの中の水をグラスに注ぐ。俺は薬を口に入れ、水で流し込む。振り返ると、窓の外は真っ暗だ。幻聴も聞こえない。そう思った途端、『病院行くよ』と妖精の男の子の一人が心配そうな声で言う。妖精は脚を開いて伸ばした股の辺りで俺を見上げている。もう一人の妖精の男の子が俺の胸の中からもっこりと出てきて、『マー君、寝ないの?』と俺に訊く。俺はもう二日も眠らずに起きているのだ。今の俺には幻覚を見ているか、幻聴を聞いているかしか出来ない。薬の飲み忘れも大分溜まっている。俺は携帯電話で病院に電話をかける。電話の呼び出し音が鳴る。
『はい、もしもし、涼風病院です』と女性の声が応対する。
「あのう、私、統合失調症の者なんですが、幻覚が酷くて、病院に行きたくても行けないんです」
『今、何処にいらっしゃるんですか?』と女性が訊く。
「ホテルの中です」
『何処のホテルですか?』と女性が訊く。
「よく判りません」
『とにかく、病院にいらしてください』と女性が何も判らない俺に病院まで来るようにと要求する。
「ああ、はい。それでは失礼します」と俺は言って、電話を切る。
原稿は何時までに仕上げないといけないんだろう。病院の中にはPCを持ち込めない。俺はベッドから下りて机に向かう。机の上のPCを開き、起動させる。俺はファイルの中を調べる。なるほど。長編三作のセリフの推敲中なのか。締め切りに困る事はない。残りの仕事は文章で書いたストーリーを基に漫画を描けば良いだけだ。恐らく長い入院生活にはならないだろう。救急車が迎えにくるまでに飲み忘れの薬を全部飲まないと。
俺はPCをシャットダウンして、鞄に仕舞うと、ベッドに戻り、飲み忘れの薬を数える。「ええ、今日は何日だ?携帯電話のカレンダーでチェックするか。ええ、今日は八月二十一日だから、あれ?ちゃんと飲んでるなあ」
「病院行く?」と妖精の男の子が俺に訊く。いやっ、こいつは幽霊少年だ!なるほど、こいつら、大人の声になったり、子供の声になったりするんだな。アニマもそうだとしたら、四人しか実際にはいない訳か。幽霊少年は悪霊だ。態と俺の心が動揺する発言をして、俺を怖がらせる事を遊びにしているのだ。三つ子の『僕は幽霊』が、大人になった時の方だな。この研究にはうんざりだ!幻聴や幻覚について、あれはああで、これはこうでとノートにメモをしていた頃は部屋中に狂人日記があっと言う間に貯まった。その狂人日記のメモの中に一行でも真実が記されていれば良い方だ。自動書記で自由に妖精達や三つ子に小説や詩を書かせる方が余程益しだ。ちび丸は何処にいるんだろう。要するに、妖精みたいな少年が四人に、妖精みたいな少女が四人いて、大人は三つ子なんだな。それにアニマが加わると、全部で十二人になる訳か。正確にはイレギュラーな幻聴が他にもいる。今、何時だ?俺は携帯電話で時間を確認する。まだ朝の十時半じゃないか。なら、そろそろ、通院にでも出かけるか。ええと、荷物はと、ナップザック一つ持って行けば用は足りるか。俺は部屋の鍵を閉め、廊下に出ると、エレヴェイターの方に歩いていく。エレヴェイターの前に来ると、俺はボタンを押す。幻聴がなくてやけに静かだ。夢の使者も現われない。小野さんもいない。そうだ、詩作でもしながら、電車で病院に行くか。
エレヴェイターの扉が開き、エレヴェイターに乗り込む。一階のボタンを押す。俺はエレヴェイターの壁に寄りかかる。荷物もお金もある。JR五反田駅に向かえば良い訳だな。エレヴェイターの扉が開く。一階かと思って出ようとすると客室の階である事に気付き、白人の一家と共に再びエレヴェイターに乗る。エレヴェイターの扉が閉まる。外国人の一家がフランス語で話している。フランス語は全く判らない。幻聴が俺の意識を追い回し始める時の事を思い、不安が募る。
『あっ』と三つ子の一人が俺の不安に反応し、無邪気な声を上げる。
『妄想!』と三つ子の一人が叫ぶ。俺は不安が募り、病院に無事辿り着く事だけを願う。幻聴は執拗に俺の意識を追い回し、俺の不安や恐怖心を弄ぶ。額に脂汗が滲み、体の芯が凍えるように冷たい。こういう危機的な時に限って大便を催す。急いで便所に行かないといけない。お漏らしは避けたい。JR五反田駅まではまだ距離がある。本屋に入り、便所を借りる事にする。会計の女性に、「トイレ、お借り出来ませんか?」と訊く。
「ああ、奥の突き当たりのドアーの中です」と会計の女性が言う。漏れそうだ!幻聴の心の一つがせっかちに音を立てておならをする。怒りが込み上がる。俺は突き当たりのドアーを開け、向かいの便所に入る。便所には誰もいない。俺は大便の個室に入り、ドアーを閉めると、鍵もせずにズボンを脱ぐ。便器に腰かけた途端に大便が溢れる。幻聴が頻りに俺の心を苛立たせる。俺はトイレット・ペイパーで尻を拭き、大便の個室を出る。手洗い場で手を洗いながら、鏡で自分の顔を見る。目の表情に異常な不安が見える。俺は便所を出て、「ありがとうございました」と会計の女性に礼を言って、店を出る。俺は一安心し、幻聴が騒ぐ中、交差点で信号待ちをする。心臓の鼓動が酷く乱れている。泣こうとしても幻聴の心が泣かせてくれない。悪魔のようにとことん意地の悪い心だ。何でこんな地獄のような精神苦を自分一人誰にも助けらずに受けているのか。前世で人を殺したような悪業の報いのようだ。子供の頃の虐めが原因なのだろうか。俺の虐めは俺を仲間外れにする者への正義感の表われだった。暴力を振るわれた訳でもないのに暴力で仕返しをした。俺は腕力の弱い者と知的に付き合うのが苦手だった。何か嫌な事を言われると、直ぐに喧嘩腰になり、脅しにかかる癖があった。悪業の報いは全て受けねば解脱は出来ない。この人生で全ての悪業の報いを受けて、綺麗にカルマを清算したい。苦しみには耐えられる。自殺を思うようなタイプではない。俺は自分の事を精神的に強い人間だと思っている。
JR五反田駅でJR蒲田駅までの切符を買う。薬の副作用でポカンと口を開けていたら、すっかり喉が渇いてしまった。俺は天然水を自動販売機で買い、電車待ちをしながら、喉を鳴らして水を飲む。幻聴の言葉に間が置かれ、攻撃性の弱い言葉に変化してくる。水を飲む事に或程度集中しているんだな。心理にしつこく反応されるのが一番嫌だ。
JR山手線がプラットフォームに入ってくる。電車の轟音に合わせて興奮したような男の子と女の子の声の幻聴が騒ぐ。この苦しみは何だ!発病前は騒音を愛するような人間だった。席が空いている。少しの間目を瞑って安静にしていられる。
俺は空席に腰を下ろし、目を瞑る。寝てしまったら、下車駅を寝過ごしてしまう。ポータブル・MD・プレイヤーで音楽を聴くにも、神経を逆撫でするノイジーなサウンドは不安を募らせる。今は音楽自体聴ける精神状態にはない。
『小さくして聴けば良いよ』とちびっ子みたいな可愛らしい声で三つ子の一人が言う。
そうだね。
『小さくして聴けば良いよ』ともう一人の三つ子の一人が言う。
うん。
『小さくして聴けば良いよ』を次々に色んな声の幻聴が楽しそうに繰り返す。一瞬可愛いと思っては再び精神苦の領域まで幻聴が俺の心を追い詰める。結局、幻聴には苦しめられている時の方が多いのだろう。俺はヴォリュームを小さくして、ポータブル・MD・プレイヤーでピンク・フロイドの『ファイナル・カット』を聴く。電車の騒音に音楽の細部が掻き消される。幻聴はイヤフォンをした音楽の隙間からも聞こえてくる。医者はイヤフォンの外の騒音が音楽の音に勝る現象をどう説明するだろう。結局のところ、統合失調症の諸症状を経験的に事細かに研究しているのは患者自身なのだ。精神科病棟には何十年と入院生活をしている老患者がいる。彼らは大好きなお酒を何十年と飲まずに入院生活をしている。焦って幻聴が消える前に退院しても、退院後の患者の現実は精神苦の連続だ。病院に閉じ込められた患者達の事を想えば、リハビリテイションを兼ねて社会生活をしている患者は幸せなのかもしれない。こうして何とか通院出来るなら良い方だ。今日は明らかに頭がおかしい。入院すべきだろうか。入院したら、原稿を落とす事になる。根つめて仕事をして無理が祟ったのか。
何とかJR蒲田駅まで来る。病院まではバスで十分ぐらいだ。今回の病棟仲間との会食は辞退すべきか。薬の飲み忘れはないのに、何故こんなに錯乱した精神状態に陥るんだ。毎回、普通に出来ていた事が出来なくなった。幻聴が嵐のように騒いでいる。
って、夢か!俺は長い夢から目覚める。
完
『霊的構造との肉声の会話』
外気は凍えるように寒い十二月の或日、霊的構造七つを想っていたら、幻聴が霊的構造に扮する。俺は幻聴を霊的構造の声とは認めない。
何日かして幻聴に表われた霊的構造の何処かに幻聴とは異なる知能や言葉が思い当たる。そう思うと、幻聴ある生活の不安や緊張感からの解放を求めて、自分の声に似た御本霊や元津御魂の事を気にし始める。そうこうする裡に霊的構造七つに潮来のように肉声で話させる。
俺が元津御魂が話すのを待っていると、「俺は幻聴が生じる前はあなたの事を知らなかったんだ。幻聴が聴こえるようになって、頭の表面に幻聴に受け答えするあなたの存在を知ったんだ」と奇魂が言う。
「あなたは何?」
「奇魂」と奇魂が言う。「幻聴は俺達なんだ」
「俺は幻聴が怖い」
「幻聴は俺達の病気だよ」と奇魂が言う。
「統合失調症の事?」
「うん」と奇魂が答える。
「奇魂は英知、直感、霊感、芸術的な感性を特性とする知を司る魂だったね」
「うん」と奇魂が答える。
「俺達は元々人間なんだよ」と元津御魂が言う。
「四魂や元津御魂が話す時は四魂や元津御魂の座である額の中心に集中点が定まるね」
「へええ、そう」と奇魂が言う。
幻聴が聴こえる中、御魂達と肉声の会話が出来るのは安心感がある。
「幻聴で話すのを止めて欲しいんだ」
「その裡、やらなくなるよ。俺達が表われたら、幻聴が終わるんだ」と奇魂が言う。
俺が御本霊を思うと、「ヘッセとして表われたのが俺、御本霊だよ」と御本霊が言う。
「そうなんだ。でも、ヘッセとして表われた時は幻聴だった」
「ずっと幻聴だったんだなあ」と御本霊が申し訳なさそうに言う。
「俺は神我のお釈迦様として表われた」と荒魂が言う。
「そうなんだ。神我のお釈迦様も幻聴だった」
「ヒンドゥーの聖者はあれが神我顕現だよ」と元津御魂が言う。
「ヒンドゥーの修行者って言うと、偉いお坊様ってイメージなんだけどな」
「ヒンドゥーの聖者になりたいのか?」と元津御魂が訊く。
「いいや、俺は元々仏教徒だから、悟りを思うよ」
「でも、神我って概念はヒンドゥーだろ?」と元津御魂が訊く。
「ああ、なるほど。俺も随分と曖昧な信仰心だな」
どうやら霊的構造は肉声で会話する事が出来るようだ。御魂達全部と一通り言葉を交わし、肉声の感じの特徴を捉えようと努める。元津御魂と奇魂と荒魂と御本霊の声や口調の特徴は捉え易い。
幸魂と和魂と腹霊の声や口調の特徴が判り辛い。幻聴とのギャップが激しいのだ。これと言って、印象的な発言もしない。
清に霊的構造との肉声の会話についてメールを送ると、執着になるから止めた方が良いと言う。
人間には神様への正確なアンテナがない。具体的にどう神様をイメージしたなら、神様に祈りが届くのか。愛の高い存在を神としたなら、愛情深い心霊にも意識が合ってしまう。恐らく人間の祈りを受け止める神様の方に人間へのアンテナがあるのだろう。そう清にメールを送ったら、『人間の清らかな祈りが神様に通じるんだよ』と返事が来る。
お祈りをすると神様の返事を期待してしまう。その願いにより守護神様が表われると、その喜びの第一報のメールを弟の清に送る。弟の清は、『神様の御告げはない。普通の人に神様が降臨する事もない。自分で作り出した自作自演の神様だよ』と言って、守護神の現われを否定する。
『漫画の未来のために』
閻魔大王の前にいるような心構えで漫画を描いている。邪悪な文学芸術は悪の心で作られる。自分の作り出した漫画により、その作者が地獄に落ちる事があるらしい。殺意や暗い視点で描くだけで地獄に落ちると弟の清は言う。俺はホラーを否定しない。自分には必ず良質なホラーが描けると信じている。俺はエロティシズムの漫画も描く。俺は閻魔大王を想って、『ポルノグラフィーより芸術を!』
と『主人公が成長を遂げる新時代のピカレスク漫画を!』と唱える。二十一世紀は普遍的な漫画の礎を築く時代になるだろう。
『長女/愛歌』
俺も今年二〇〇二年で三十三歳になった。陽平は来年三年保育の幼稚園の年少組に進学する。亜美は二歳の陽平に毎晩寝る前にクラッシックのCDを聴かせている。幼稚園に上がったら、陽平には英会話と水泳を習わせると言う。我々は陽平に漫画や絵画を教えようと思っている。陽平が将来、どんな大人になるのか非常に楽しみだ。
夕方、西日が漫画塾『漫画天国』の教室に射し込む。生徒ら四人の子供達が漫画を描いている中、俺も自分の漫画を描いている。
「あなた!」と書斎の閉じたドアーの後ろで亜美が俺に声をかける。
「何?中に入りなよ」
亜美が書斎のドアーを開ける。
「何か用?」と漫画のペン入れを止めて、振り返って訊くと、「一寸良い?」と亜美が真面目な顔で俺を教室の外に呼ぶ。
「ああ、うん」
俺は書斎兼漫画塾の教室を出る。何か嫌な予感がする。
「何?どうした?」と俺は深刻な口調で亜美に訊く。
「実はあたし、二人目の子を妊娠してるの」と亜美が遠慮がちに言う。
「ほう!やっと二人目が出来たか!おめでとう!男の子?女の子?」と大喜びして訊く。
「病院で赤ちゃんの事調べてもらったら、女の子みたいなの」と亜美が笑顔で言う。
「へええ!今度は女の子か!何て名前が良いかな」と俺は早速、赤ちゃんの名前を考える。
「あたし、愛歌にしようかと思ってるの。愛情の愛に歌」と亜美が自信に満ちた口調で言う。「陽平の時はあなたが名前を付けたから、今度はあたしに赤ちゃんの名前付けさせて」
「ああ、良いよ。愛歌か。良い名前だな」
「じゃあ、赤ちゃんの事は漫画塾が終わったら、また話しましょう。それじゃあ!」と亜美は言って、自分のアトリエに戻る。
俺は漫画塾の生徒の子供達を自分の子供のように思い、可愛いがっている。幼稚園の年中組の吉川直人はカラーの原稿を描き始め、童画の流れを汲んだ仄々とした絵柄で、ぼんやりとした男の子の不思議な日常の漫画を描き続けている。小学二年生の原吉日は一日に三作ものあらすじを出す連想力を発揮し、最近は東京湾の主の心温まる怪獣漫画を描き続けている。小学五年の相沢直美は妖怪退治の漫画を描き続け、妖怪のキャラクター・デザインにずば抜けたセンスを発揮している。中学二年の高原仁哲は電車モノの漫画を描く事に夢中になり、近頃は鉄道員達の人間模様も描くようになる。どの生徒も人の漫画からの物真似が少なく、俺は子供達の絵を見て、何をどのようにディフォルメしたのかをはっきりと自覚させている。
生徒らは我々夫婦の本棚から読みたい漫画を自由に持ち帰って読んでいる。日常、師が読んでいる漫画を生徒らが読むのは、漫画の描き方を教える上で非常に都合が良い。他者の漫画からの影響関係が似てきて、彼らが描きたい漫画を同人的な範疇に留める事が出来る。漫画塾では『漫画天国』と言う漫画同人誌も作っている。そこには勿論、我々夫婦の作品も掲載している。生徒らは我々夫婦の漫画の執筆にも深い関心を示す。
『坂本さんのデビュー』
夏の或朝方、アトリエで絵画を描いていると、誰かから電話がかかってくる。
「はい、もしもし。氏川ですが?」
『ああ、坂本です。こんにちは』と小説家志望の坂本さんが珍しく電話をしてくる。俺は赤いドレッドロックスに能面のように芸術的な一重瞼の坂本さんを思い浮かべる。
「どうしました?」
『あたし、遂に小説新人賞に入選しました!』と坂本さんが明るい声でかなり興奮気味に新人賞の結果報告をする。
「ああ、それは良かったですね。おめでとうございます。今度、皆でお祝いしましょうね」
『ありがとうございます。漸く私もこれでプロです。全ては由里ちゃんのお蔭です』と坂本さんが涙声で言う。『まあ、一様御報告をと思って、連絡させて戴きました』
「態々ありがとうございます」
『それでは失礼します』と坂本さんは言って、話を切り上げる。
「はい」
電話が切れる。
俺は亜美のアトリエのドアーをノックする。
「はい、どうぞ!」と部屋の中から亜美が返事をする。
俺はドアーを開け、「坂本さんが文学新人賞に入選したよ」と亜美に伝える。
「ええ!凄い!」と亜美が大喜びする。「残るは三木谷さんと村野さんね」
「何かね、弟の清が言うには、芸能界デビューや、文学新人賞や漫画新人賞に入選して華々しく小説家テビューや漫画家デビューをするような人達は前世で一杯良い事をした御褒美の人生を生きてるんだって。或意味、著名人になったり、歴史に名を残すような人生が定められた人達らしいんだよ」
「へええ、そうなんだ!じゃあ、あたし達は御褒美の人生を生きてるんだ」と亜美が湖に降り立つ白鳥の絵の彩色をしながら言う。
「だからね、場合によってはそう言う人生を生きてるんじゃないかもしれない三木谷さんや村野さんには俺達芸術家集団がお金を出し合って、彼らの自費出版デビューのお手伝いをさせてもらった方が良いのかなって思ってるんだ」
「ああ、ねえ。でも、そんな事こっちが言って嫌がられないかな」と亜美が意見する。
「勿論そのまま言う訳じゃないよ」
亜美は溜息を吐き、「難しいところね」と言う。「誰にでもプライドがあるから。自分達が自費出版でデビューしたければ、自分達で何とかするんじゃない」
俺は亜美の意見を自分の守護霊様の間接内流、つまり、他者の口を通じて送られてくるメッセージとして受け止める。
「そうだよね。自費出版でデビューしたければ、自分達で何とかするよね」
「あたしは芸術家集団のメンバーがデビューするかしないかで仲間としての評価が変わる訳ではないし、デビューしていないメンバーが自分より劣っているとも思わない」と亜美が仲間への愛を語る。「特に文学芸術上の成功って、偶然的な力がかなり強く働いていると思うの。あなたは突出した才能が際立って高い芸術家って、未だに実在する?」
「ああ、若い頃にはそう言う尊敬する芸術家が漫画家や画家に沢山いたけど」
「今はいないでしょ?」と亜美が突き詰める。
「ううん。いない、かなあ」
「でしょ?」と亜美が嬉しそうに言う。「あたし達の漫画や絵画の感性もそれだけ進歩したのよ」
「確かに判らない感性って言うのはないな」
「それだけあたし達も物を観てきたって事よ」と亜美が明るい声で言う。
俺は自分のアトリエに戻り、再び海賊船の絵の続きを描く。何だか漫画でも海賊の話を描きたくなる。漫画と絵画の両立は互いに影響し合い、非常に相性が良い。
『統合失調症の時代』
幻聴が生じてからは頭の中の一人お喋りをしなくなった。弟はその頭の中の一人お喋りの代わりが幻聴を生み出す頭の働きになっているのだと言う。
或昼、亜美と抹茶ワッフルと紅茶の昼食を楽しんでいると、「漫画塾の生徒達の漫画も大分進歩したわね」と亜美が言う。
「うん。直人君も幼稚園の年中組になって、何か人間関係らしいものを表現するようになったしね」
「あたしも吉川直人君には期待してるの。あたし達にはあの子みたいな漫画は描けないわ」と亜美が抹茶ワッフルを食べながら言う。「幼稚園の頃の漫画作品があるのって羨ましいわね」
「原吉日君も小学二年生になるのか。俺はあの子にも期待してるんだ。あの調子で毎日三作分のあらすじを出していたら、一年にして一〇九五作になる。将来は大漫画家だよ」
「漫画塾を始めて良かったわね」と亜美が幸せそうにうっとりとした眼で言う。
「佐々木美和子さんの精神分裂病モノの漫画は落選したけど、長編化して自費出版するんだよね?」
「劇画調の画風なら、幻聴描写もリアルなんだけど、彼女の絵って癒し系の漫画チックな絵じゃない?」と亜美が何か蔑むような笑みを浮かべて言う。
「ううん。ファンタジックに見えるよね」
「まあ、でも、あたしはそれはそれで良いんじゃないかなって思ってるの。読者が不安なく入り込める統合失調症モノの漫画となると、癒し系の漫画チックな絵ぐらいが却って安心感があるのかもしれない」と亜美が話している裡に考え直し、抹茶ワッフルの最後の一欠片を口に放り込む。
「山木さんのつげ義春風の貧乏漫画は恐らく今回入選するんじゃないかな?」
「そうしたら、皆でお祝いしないとね。山木正治さんは漫画歴長いのよ。中学生の頃から描いてるらしいの」と亜美が笑顔で言う。
「久我野さんの恋愛漫画も近々入選しそうだね」
「うん。あの人の漫画は半沢君と同じで芸術的よ」と亜美が久我野さんの漫画を讃美する。
「あの人も美大出の画家でしょ?」
「そう。画家としてやっていた人が漫画家への夢を諦め切れずにまた漫画を描き始めたの。久我野雅子さんの漫画は美的な演出が優れてるわよね。あたしもかなり久我野さんの漫画からは影響を受けたわ。あの作風見て真似しない女性漫画家はいないわよ」と亜美が久我野さんへの尊敬の念を言葉に表わす。
「俺は今年二〇〇二年で三十三。今年は精神分裂病が統合失調症と病名が改まった年でもあるな」
「あたしは今年で三〇。もう三〇よ!これからどんどんおばさんになって、お祖母ちゃんに近付いていくのよ。長年、統合失調症を精神分裂病と称してきた主治医がね、あなた方は別に精神なんて分裂してないんだよなって、調子よく言うの」と亜美が笑いながら言う。
「精神分裂病って、物凄い病名を付けたもんだな」
「あなたも毎日三〇分の息が上がるぐらいのウォーキングで幻聴が消えたら良いわね」と亜美が笑顔で言う。
「ああ、そうだね。走った後に幻聴が俺と一緒にはあはあ言いながら、俺と一緒にクタクタになって、静かに椅子に座ってたんだよ」
「へええ、可愛い!」と亜美が笑顔で言う。
『小説への挑戦』
蒸し暑い七月の半ば、冷房の効いた夕食の食卓で天ぷらを食べながら、「俺、小説書き始めたんだよ」と亜美に打ち明ける。
「ええ!あたしも書こうと思ってたのに!」と亜美が焦りを見せて言う。「どんな小説書いてるの?」
「最初は統合失調症モノの小説『夢との戯れ』を一気に書いて、その後に『ブレードランナー』の二次小説として、サイバー・パンクの短編小説を書いたんだけど、もっと長くしたいなあと思って、今、書き足してるんだ」
「あたしが小説書くなら、『緑茶』みたいな幻想怪奇小説かな」と亜美が俺の知識を探るように言う。
「『緑茶』は高校時代にアンソロジーで読んだ。自分の妻が『緑茶』を知ってるなんてねえ」
「一妻とは言え、画家で漫画家でもあります」と亜美が誇らしげに言う。
「俺も『緑茶』はコミカライズしたいなあって思ってたんだよ」
「ああ、良いかも」と亜美が感心したように言う。「サイバー・パンクの小説にはレプリカントとか出てくるの?」
「一様出てくる」
「何かマニアックな企画ね。『ブレードランナー』へのオマージュなのね」と亜美が眼を輝かせて言う。
「俺、フィクションって、別の主人公の名で誰かが受け継いでる世界なんじゃないかって思ってるんだ」
「ああ、なるほど。面白い発想ね。虚構世界のお医者さん的な作家もいるわよね」と亜美が意味ありげに言う。
「ああ、殺しちゃいけない登場人物とかを他の作家が生き返らせるような話だね」
「あたし達って、本当に何でも話し合えるわね」と亜美が明るい顔で言う。
「亜美は最高の奥さんだよ」
「正道さんも最高の旦那様よ」と亜美が笑顔で言う。「じゃあ、一寸、あたしもPCで小説描いてくるわ」と亜美が食卓の席を立って言う。
小説を書くための語彙の豊富さはこの時期小説を書くには抜群のコンディションにある。小説を書くのは漫画を書くより楽だ。小説家に転校した漫画家を何人か知っている。
サイバー・パンク小説の内容が気になり、なかなか漫画に集中出来ない。若い頃は前世は小説家だろうと思っていた。不意に発病当時に前世の分離霊として表われた漱石の事を思い出す。すっかり忘れていた。
「漱石として表われたのは俺だよ。御本霊」と御本霊が肉声で言う。
「そうなんだ!」
「結局、前世は判らず仕舞いだな」と御本霊が言う。
「F先生の本によると、あの世には三百年から四百年いるらしいから、俺達の知ってる作家が生きた時代はほとんど俺達があの世にいる時期なんだよ。この時代の作家の前世となると、日本では戯作者が現われた辺りだな」
「殺意や暗い世界を書くだけで地獄に落ちるらしいけれど、ホラーとかサスペンスとかハードボイルドって、盛んに読まれていて、深く愛されてるよな」と奇魂が言う。
「地獄には落ちたくない」
「文学や芸術で良い仕事をすると、文学芸術の神様の天国に行けるらしいな」と元津御魂が言う。
「文学芸術の神様の天国に行きたいな」と幸魂が言う。
「俺達は相当に進歩したぞ。これから小説も書くし、創作上、罪を犯さないような仕事をしないといけない」
「漫画家辞めて小説家に転校しようか?」と元津御魂が言う。
「小さく纏まるのは簡単。精神力の限界に達するような人生を生き抜きたいんだよ」
「俺はもう疲れてきたよ」と幸魂が言う。
「疲れは一晩眠れば、翌朝には癒えてる。幻聴が消えれば、全ての問題が解決されるんだ」
書斎のドアーをノックする音が聴こえる。
「はい。どうぞ!」
亜美が書斎のドアーを開け、部屋の中を見回す。
「誰と話してるの?電話?」と亜美が興味津々の眼で訊く。
「霊的構造と話をしてるんだ」
「へええ。珍しい」と亜美が俺との距離感を作るように言う。
「別に病気ではない」
「弟さんには言った?」と亜美が疑いの眼で訊く。
「言った。執着になるから止めるようにって言われた」
「で、止めないの?」と亜美が俺の気を疑うように訊く。
「必要だから、今は止めない」
「そう」と亜美はすんなりと俺の意思を受け止め、黙ってドアーを閉めて出ていく。
霊的構造と会話する事の何がいけないんだよ。俺は霊的構造と話をして、大分、心が整理されたし、幻聴の様子も良くなってきたんだよ。ああ、頭の中の一人お喋りを久々にしたな。話そうとして頭の中のお喋りをすると幻聴になるんだよな。亜美は幻聴が消えて良かったな。俺も早く幻聴がなくなると良いんだけど。
ああ、早く漫画を描かないと!
漫画の執筆が一段落すると、早速、小説を執筆する。
『長女/愛歌の誕生』
秋の暮れ、亜美が長女の愛歌を出産する日が来た。亜美の出産の際には俺が一階のロビーで陽平の面倒を見る。病院の売店で陽平に御菓子やジュースを買い与え、陽平の御守りをする。陽平は母親のいない時間の寂しさになかなか耐えられない。寂しがる赤ん坊や幼児に男親の存在はほとんど効果がない。ロビーのソファーに座って、御菓子を食べる陽平に、スケッチブックとクレヨンを出し、絵を描かせる。母が言うには俺もこのくらいの年で外出した時には、毎回、母親がスケッチブックやらくがき帳やクレヨンを必ず持って出かけ、絵を描かせられていたらしい。幼い頃の落ち着きない俺も、絵を描かせている間は大人しくしていたらしい。陽平の絵はふわふわと人物が空中に浮いている。俺は陽平の描く絵を観て、自分の画業にインスピレイションをもらう。何か象徴的な人物の周辺に犬を描いたり、母親や父親らしき者を描いている。俺は陽平が目一杯画面に絵を描き込むところに才能を感じている。目に見える物の具象化もよく出来ている。丸や幾何学的な絵は音や匂いを描いているのだろう。俺も自分の手帳に色んな絵を描き、これは何?と、一つ一つ陽平に描いた絵が何であるかを確認する。陽平はバシュとか、アイシュとか、ワンワンと答える。陽平は幼児言葉を話す。俺の幼年時代ははっきりとした言葉を話す賢い子だったとよく父が誇らしげに言う。父は俺をもしや神童かと思ったとよく言う。幼児の絵の隙間に大人の絵を挿入したら、どうなるんだろう。化学反応を起こして表現力が向上するのか、個性を潰す事になるのか。何だか怖いから後者の説を取って、大人の絵を描き込む事を止める。
陽平が母親の不在を思い出す事のないように売店で絵本や車の雑誌を買って御守りをする。俺は陽平を車の名前に詳しい子に育てようと思っている。俺の幼年時代には大人の雑誌を教材に使う事はせず、世界の国旗や物の名称を憶えるような絵本が教材として用いられた。俺が黒糖かりんとうを食べていると、陽平が食べたがる。我々夫婦は陽平が肥満体にならないように注意している。アルカリ性食品などは体に良いから、陽平にかりんとうを一つ手渡す。陽平は疑いなくかりんとうを口に入れると、余りの苦さにペッと吐き出す。幼児は味覚的に受け付けない物はペッと吐き出す。
愛歌を出産し終えた亜美の病室に行くと、陽平は直ぐに亜美にしがみ付く。
「お母さんも頑張ったよ。陽平も頑張ったね」と亜美が自分のベッドの横に潜り込む陽平に言う。
「大変だったね」
「ほんと出産は大変なの。でも、陽平の時よりは楽だったわ」と亜美が素ッピンの蒼白い顔で言う。
「少子化の時代に子供を沢山産むと、国からの援助金が出るらしいな」
「もう次に産まれる子の話は止めて」と亜美が険悪な声の調子で言う。
「ああ、ゴメン」
『山木正治さんのデビュー』
十二月の初めの或夕方、大人の漫画塾の教室に貧乏漫画の山木正治さんが逸早く現われ、『今晩は!』と明るい声で挨拶する。亜美はアトリエのドアーを開けっ放しで掃除をしており、まだ漫画塾のテーブルの準備もしていない。
「あら、山木さん、今日は早いわね」と亜美が掃除機のコードを仕舞いながら言う。
「亜美先生、私、漫画の新人賞に入選しました!」と山木正治さんが入選の報告をする。
「ええ!おめでとうございます!良かったですね!今回は絶対入選すると思ってました!」と亜美が山木さんを祝福する。
俺はダイニング・テーブルでショート・ケイクを食べながら、「山木さん、おめでとう」と山木さんの後ろ姿に向かって山木さんの入選を祝福する。
「家の漫画塾から遂にデビュー組が表われたわね」と亜美はしみじみとした口調で言い、「今夜は焼肉屋の食べ放題で山木さんのお祝いをしましょうかね」と亜美が山木さんの右手を手で包み込んで言う。
「ああ、ありがとうございます!」と山木さんが嬉しそうに言う。
亜美は山木さんを居間に招き、「山木さん、食べたいケーキ選んでください」と山木さんに言う。「ああ、はい」と山木さんは言い、「私はシュー・クリームが良いです」とホイップ・クリームのシュー・クリームを選ぶ。
「カスタードではなく、ホイップ・クリームのシュー・クリームですけど、良いんですか?」と亜美が山木さんに確認する。
「ああ、私もホイップ・クリームのシュー・クリームの方が好きなんです」と山木さんが自分の好みを言う。
「飲み物は何になさますか?コーラとコーヒーと『午後の紅茶』のミルク・ティーがあるんですけど」と亜美が山木さんに飲み物を選ばせる。
「ああ、ミルク・ティーが良いです」と山木さんは言って、俺からペットボトルのミルク・ティーを受け取る。
「それでは戴きまあす」と亜美がケイクと飲み物を前に合掌して言う。「今回は久我野さんも入選すると思うわ」
「ああ、あの人は入選するでしょうね」と山木さんがシュー・クリームを食べながら、御機嫌な様子で言う。「ああ、美味い!」
夕方の六時になり、続々と漫画塾の大人の生徒達が教室に現われる。
今夜は漫画塾の授業を止め、生徒達を連れて焼肉の食べ放題で山木さんの入選祝いをする。費用は勿論我々漫画塾の講師持ちである。
山木さんはこの日を機に漫画塾『漫画天国』を卒業する。
『長編漫画連載に挑む』
なかなかリアル・タイムで描き継ぐ長編連載には自信が持てない。俺はガロ系の漫画家のような単巻長編作家で良いと思っている。毎回、四枚から六枚の作品なら、何とか長期月刊連載も出来そうだ。俺は詩的な小話を連載しようと計画し始める。何作かネームを描いて、編集に見せると、「これで長期連載ですか。良いんじゃないですか」と編集が言う。それで早速、長期月刊連載を試みる。
「あたしもあなたみたいに四枚から六枚の作品の連載をやってみようかな」と亜美が夕食の食卓で生姜焼きを食べながら言う。
「良いと思うよ。亜美と二人で実践するのは心強いよ」
「じゃあ、あたしもやる!」と亜美がガッツ・ポーズをして張り切る。
「小説は進んでるの?」
「進んでるけど、文章が古典的な幻想怪奇小説っぽくならないのよ」と亜美が苦しげに言う。「あたしは漫画描いてれば良いのかな。文学的な才能はないみたい」
「幻想怪奇漫画を描くって事?」
「そう」と亜美が何処となく暗い眼差しで言う。
「俺は漫画の執筆より小説の執筆の方が楽しい」
「文体は確立した?」と亜美が俺の文学的な基礎を確認する。
「何とか推敲を重ねて、読み易い文章にはしてるけど、それが文体と言えるようなレヴェルなのかどうかは判らない」
「漫画って無限の個性のヴァリエイションを獲得出来るアートだと思うのよね」と亜美が漫画を語る。
「ううん。そうかな。俺は既に手馴れした作風が出来上がってきた」
「ああ、それで漫画の執筆が面白くないのよ」と亜美が俺の漫画の執筆の仕方の悪さを指摘する。「長期連載って、そう言う手馴れした時期にやるのかな」
「ああ、そうかもね。作中の絵にも安定感が出るし」
「じゃあ、当分あたしは短編を描くわ」と亜美が自分の状況に気付く。
「短編が連作長編化していくんだよ。俺も連作短編の単行本を二冊出した」
「ああ、あたしもそっちをやろう」と亜美が物事の順序を正す。
『読書の筋道と広がり』
二十代の読書は濫読だった。三十代の読書は二十代の濫読を自分のものにするため、以前読んだ本を再読したり、一つの事柄について複数の本を読み重ねている。本は一回熟読した程度では大して記憶に残らず、知識も自分のものにならない。学生の頃に読んだ翻訳小説を再読すると、理屈っぽくてとても読めない。翻訳小説や翻訳詩集には作者の言霊が活きていない。外国語の原書を読む程外国語に通じている訳でもない。とにかく日本人の言霊ある本を読もうと思っている。
やはり、統合失調症の作家の小説をよく読む。知識人達はさっさと一人の作家の作品群を読破する。集中的に一人の作家の作品宇宙を楽しむのだろう。高校時代の読書家の友人がそう言う読み方を学生の頃からしていた。大学に進学した中学校時代の読書家の友達もそう言う集中的な読破を繰り返していた。俺はあっちを摘み、こっちを摘みして読書をする。もしかしたら一作一作じっくりと読後感に浸りたいのか。いいや、そんな優雅な暮らしはしていない。
二十代の頃は幻聴とは何であるのかを知りたいばかりに宗教聖典を読み漁っていた。幻聴らしきものを記録した本はユング心理学にしか見当たらなかった。ユングの自伝を読んだら、幻聴が最悪に悪化し、不安な存在として幻聴を捉えるような日々が続いた。ユング心理学にはうんざりしている。幻聴が消えた亜美はユング心理学的な解釈で人間を見る事をなかなか止めない。人それぞれ座右の書は異なるから亜美の好みを尊重して、敢て亜美にはユング心理学を批判しない。
『霊的構造との肉声の会話2』
「神我のお釈迦様は本当に荒魂?」と荒魂に訊く。
「俺の自作自演の幻聴だ」と荒魂が言う。
「俺はあのお釈迦様とは胸の中の心が一つだった」
「俺もだよ」と御本霊が言う。
「俺は頭だった」と元津御魂が言う。
「人間はなろうと思って、ブラフマンになれるものではないってF先生が言ってるよな?アートマンって存在は人間の魂ではなく、人間から独立した神そのものだとも仰ってる」と奇魂が言う。
「誰の自作自演の神って知る方法があるのかな?」と俺が元津御魂に訊く。
「神的な存在の自作自演の幻聴はほとんど俺だよ」と荒魂が言う。
「清は幻聴を自作自演の頭の中の独り言としか解さないよな?」
「うん」と奇魂が言う。
肉声の会話と言う独り言の最中にも幻聴がちらほら聴こえてくる。
「俺達って心霊体験はしてないのかな?」
「真希ちゃんは俺だよ」と和魂が言う。
「自作自演か。神我の顕現や神様の御告げを強く願ってたのは俺だからな」
霊的構造と肉声で話し合っていると、幻聴が俺の言った言葉を反復する。俺は自作自演の幻聴防止がこの霊的構造との肉声の会話だと確信している。霊的構造との肉声の会話を幻聴が反復していると、必ず幻聴の世界に巻き込まれる。肉声による魂達の人格が人格者とするならば、幻聴の人格は非常に幼稚で知恵足らずだ。幻聴が消えている間は消えている間で不安や緊張感が募り、再び幻聴が聴こえてくる。創作をしている間はほとんど幻聴はなく、煙草休憩の時に少し聴こえてくる。
幻聴を気にしながら、幻聴が悪化して精神状態が乱れる時と、幻聴を気にせずに暮らしていて、思いがけず幻聴が生じて精神状態が乱れる時との結果は同じ幻聴の変化だ。ならば、幻聴を気にせず、完全に物事に集中し、行けるところまで最高に幸せな時間を過ごす方が良い。
『欲望を制限する』
ジュース販売機で一本缶ジュースが飲みたい時などに、コーラも飲みたい、缶コーヒーも飲みたいと、一本に絞り切れない時がある。その時に二本飲みたいのを納得がいかないままに一本に絞ると、後々また飲みそびれた一本を飲みたくなる。その解決は霊的構造に整理させて、どうしても飲みたい一本に絞らせて選ばせる。
『漫画の努力と根気』
同じ映画を繰り返し鑑賞すると、漫画の見せ所に関する大きな気付きが得られる。映画はありのままの現実やセットをそのまま撮影するだけで場面の細部を何度となく簡単に映せる。漫画の執筆には細かい絵を描き込んだ同じ場面を何度も角度を変えて描くような根気がなければいけない。松本零士の『銀河鉄道999』などでは機関車をモデルにした999のカットを何度も何度も描く。そうする事でとても豊かな作品になった。漫画の大ヒット作品の絵の木目細かさは相当な根気で描かれている。二〇世紀後半の日本では写真を素に背景を描く劇画が物凄く流行った。俺は人物のリアルさに応じた背景を描く事で作品のバランスを保つようにしている。漫画らしい人物を描き、人物の描き方に見合った背景の描き方でバランスを取ると、作品の調和が最高度の効果を発揮する。漫画の細密な描き込みは漫画の普遍的な価値に繋がる。猛スピードで流し読みするような読者を基準に手抜き作業をするような漫画の描き方は間違っていると言えよう。
『闘病記を自伝的小説として書く試み』
以前から、寛解したら、統合失調症の闘病記を書こうと考えていた。それを自伝的小説のように書く事を考え始め、それだけでは飽き足らず、フィクションとしての統合失調症モノの小説『夢との戯れ』を書いた。サイバー・パンク小説を書いていて、統合失調症の幻覚妄想世界がサイバー・パンク小説に匹敵するエンターテイメント性がある事に気付く。
『陽平と愛歌の英才教育』
陽平が幼稚園に入園すると、陽平が愛歌と寝る時にクラッシックのCDを流し、陽平と愛歌に絶対音感が身に付くようにと英才教育を施す。幼稚園生になった陽平には我々の漫画塾で他の生徒と一緒に漫画を描かせるようになる。陽平には更にエレクトリック・ギター教室と英会話教室とスウィミング・スクールに通わせる。親馬鹿と言われそうだが、陽平の漫画にはキラリと光る感性の冴えが見られる。習い事は陽平が辞めたいと言ったら、直ぐに辞めさせるつもりでいる。習い事をさせると、人は将来、幼い頃や若い頃に習っていたと言うだけで根のある自信に繋がる。
一歳になる愛歌には陽平にさせていたように、暇さえあれば、お絵描きをさせている。再来年、愛歌が幼稚園に入学したら、愛歌にはエレクトリック・ギターの代わりにキーボードを習わせ、漫画塾で漫画を教え、英会話教室とスウィミング・スクールに通わせようと思っている。我々は子供達が将来、天才漫画家になる事を強く期待している。
「陽平や愛歌が漫画を描く事に飽きたら、どうする?」と亜美が朝食の食卓で俺に訊く。俺は生卵かけ御飯を搔き込み、「漫画を描く事って嫌いになるかな?」と自分の経験にない事だけに即答出来ない。
「万が一嫌いになったら、どうする?」と亜美が突き詰める。
「その時はその時だな。仕方ない事だよ。親の計画通りに子が育つなんて俺が一番信じてない事だよ」
「そうでしょう?子供って、親に反抗するものよね?」と亜美が俺の眼を深刻な眼で見つめて確認する。
「うん。俺も小学一年生ぐらいから親に反抗するようになった」
「知的な子には育つと思うのよ」と亜美が楽観視する。
「問題なのは小学校に進学して、読み書きを習い始めた時点で、読書をする子に育つかどうかだよ。俺は学校で習った事が丸ごと嫌いで、読書もしなかった」
「あたしは幼い頃から読書に夢中で、ずっと絵を描いてきたの」と亜美が自分の過去を打ち明ける。
「俺は小学校六年生ぐらいの時にロックンローラーや不良少年の絵を描き始めて、中学一年の時に漫画を読み始めたら、中学二年の時には本格的に漫画家を目指すようになったんだ」
「あたしも漫画は中学の時に描き始めたのよ。でも、ストーリーが作れなくて、一旦漫画家になる事に挫折したのよね。家の子達って、漫画家になったら、サラブレッドでしょ?」と亜美がにやにやしながら言う。「あたし、思うんだけど、家の子達は親とは違う職業に就くんじゃないかな。子供の頃をどう過ごしたかってところで親がやらせた習い事を思い出すような人生を歩むと思うの」
「うん。それはあり得る。俺は子供達が自分のやりたい事が判る大人に育てば良いと思ってるんだ」
「そうよね。何か親ばっかり子供の将来を想って盛り上がってたわよね」と亜美が子持ちシシャモを食べながら、あっけらかんとした顔で言う。
「医者の家系とか、僧侶の家系とか、会社の社長さんの家系って、子供を後継ぎにするよな?そう言うのって何だろう?親の言いなりの子を育てるのって、親の権限としてあるのかな?」
「あたし達があんまり信じていない事よね」と亜美が味噌汁を吸いながら言う。「もっと子供には自由に育って欲しいわ。親が教えてあげられる事を全部教えたら、後は子供達の好きなように生きて欲しいの」
「うん。何か俺、物凄く子供の将来を夢見てたよ」
「あたしもそう!」と亜美が生卵かけ御飯を食べながら、にやにやした顔で言う。「さあ!御飯食べたら、お皿洗って、陽平を幼稚園に連れていって、帰宅次第絵を描きましょうかね。あたしも今度の合同展示会用の絵を五十点描かないといけないの」
「亜美の絵画は本物だからな。俺は飽く迄漫画家だよ。それに将来、小説が加わるけど、基本的には漫画家だよ」
「音楽もダメ、小説もダメって、あたし、結構、力試ししたのよ」と亜美は言って、俺と陽平と愛歌の皿を洗い場に下げ、皿洗いを始める。
「一寸、亜美の生活はハード過ぎはしないか?」
「あたしは漫画家で画家でもあるけれど、あなたの妻であり、この子達の母親でもある事を普通に受け止めてるの。色んな事が疲れてきたら、食事を外食にしたり、お惣菜でも買って、先ずは料理の方を省略するわ」と亜美が皿を洗いながら、こちらに背を向けて言う。
亜美のパワーは凄い。頭の働きも抜群に冴えている。幻聴が消えるだけでこんなに能力差が出るのか。俺は神道の師のF先生の教え通りに毎日三〇分のウォーキングを行う事で幻聴を消そうとしている。
「俺には幻聴の原因になっている魂達が肉声で表われて、魂達の自制心一つで幻聴が消える事を確信したんだ」
「どの魂が幻聴を生じさせるの?」と亜美が興味を示す。
「四魂を元凶とした六つの魂全部なんだよ」
「四魂って、一霊四魂としての根源的な魂よね。何か、ユングが言う、セルフの病って説に似ているわね」と亜美が眉間に皺を寄せて言う。
「うん」
「何でユングはセルフって存在を特定出来たんだろう?」と亜美が眉間に皺を寄せて訊く。
「ううむ。そこは確かに謎だな」
『久我野雅子さんのデビュー』
亜美と一緒に近所のスーパー・マーケットに行き、買い物をして帰宅すると、亜美のアトリエに入り、亜美の絵画を眺める。
「亜美はこんなにリアルな空想画が描けるのか!」
「最近、天国の絵を描いてるの。自分の画力のレヴェルを遥かに超える画業になってきたわ」と亜美がオーディオから流れる八〇年代のニュー・ウェイヴのオムニバスCDの音楽に合わせて、筆を振りながら言う。
「俺も今年二〇〇三年の誕生日で三十四歳。何か大きな文学芸術上の転機を迎えたいよ」
「あたしは今年で三十一」と亜美が自分の年齢をじっくりと噛み締めるように言う。「そろそろ漫画家としても古い感性の部類に含まれてくるわ。絵画の方はまあまあの線を行ってると思ってるの」
「亜美は漫画も絵画に劣らず、新しいと思うけどな」
「ずっと新しいって思われてる漫画家っている?」と亜美が強く額を摩りながら言う。「あたし、この頃、高血圧気味なの。疲れ易くて、時々日中に仮眠を取るの」
「俺は幻聴があるから仮眠なんて毎日取ってるよ」
「こんにちは!」と恋愛漫画家志望の久我野雅子さんが早目に漫画塾に現われる。「亜美先生!あたし、漫画新人賞に入選しました!」と久我野さんが亜美に第一報を伝える。
「ええ!久我野さんも入選したの!おめでとうございます!」と亜美が大喜びして言う。「久我野さんの漫画は少女漫画の新しい波になるわよ」
「ええ!そんな事言って戴けるなんて嬉しいです!」
「今日は皆で恒例の焼肉食べ放題の店で久我野さんの入選祝いをしましょうね」と亜美が言う。
「久我野さん、入選おめでとう!」と俺も久我野さんを祝福する。
「山木さんの時にも山木さんが早目にいらして第一報を報告してくださってね、居間で一緒にケーキを食べたの。久我野さんとも一緒にケーキを食べましょうかね」と亜美が笑顔で言う。
「ええ!御二人の居間なんかにお邪魔しても良いんですか?」と久我野さんが大喜びして言う。
「別に居間だろうとバスルームだろうと、塾生に入られたら困るようなところはないわ。塾生は私達の大切な生徒ですからね」
我々は居間に行き、久我野さんとソファーに並んで座る。亜美がケイクの入った箱を持ってきて、お皿と三種類の飲み物を持ってくる。
「久我野さんはどのケーキが良い?」と亜美が久我野さんに訊く。
「ああ、あたし、この紫のお酒の入ったケーキが良いです」と久我野さんが嬉しそうに言う。
「紫のですね」と亜美は言って、紫のケイクを皿に盛り、久我野さんの席の前に置く。「飲み物は何が良い?コーラとコーヒーとミルク・ティーがあるんだけど」
「ああ、その微糖のコーヒーが良いです」と久我野さんが答える。
「はい、じゃあ、コーヒーをどうぞ!」と亜美は言って、久我野さんにペットボトルのコーヒーを手渡す。「それじゃ、あたし達もケーキと飲み物を選びます。あなた、モンブラン?」
「うん。それとコーラ」
「あたしはチョコレイト・ケーキとコーラにしよう」と亜美は言い、
「それでは戴きまあす!」とケーキを前に合掌して言う。俺と久我野さんも、「戴きまあす」と言って、ケイクを食べる。
夕方、六時になると、統合失調症漫画の佐々木美和子さんが来る。
「佐々木さん、久我野さんが漫画新人賞に入選したの!」と亜美が佐々木さんに報告する。
「ええ!凄い!これで全員デビューですね。まあ、私は自費出版デビューですけど」と佐々木さんが満足気に言い、「久我野さん、おめでとうございます」と久我野さんを祝福する。
「ああ、ありがとうございます」と久我野さんが佐々木さんに感謝する。
我々は今夜の漫画塾の授業を中止して、久我野さんの入選祝いに焼肉の食べ放題のレストランに行く。費用は勿論我々漫画塾の講師持ちである。
久我野さんと佐々木さんはこの日を機に漫画塾『漫画天国』を卒業する。これで社会人の部の生徒が一人もいなくなる。
『漫画学校の設立』
社会人の部の生徒がいなくなり、我々は社会人の部の生徒募集のチラシを阪急デパートの掲示板に張る。
翌日、それにより三人の新たな社会人の生徒が電話をしてきて、漫画塾『漫画天国』に入学する。我々は直ぐに阪急デパートの掲示板から生徒募集のチラシを回収する。
三人の新たな生徒は片瀬好美二十三歳と北川愛奈二十四歳と佐藤勇気三十三歳である。三人共俺より年下で、三人共普通科の大学を出ている。それぞれ漫画歴は学生の頃から続いている。三人共絵のスタイルは完成形に近い。新たな生徒ら三人にはストーリーのあらすじを出す連想法を教える。何を見ても聞いても一つの視点から物語のあらすじを連想するストーリー作りは誰にも判り易い。本当は自分の経験としては漫画の書き出しを何作か描いて連想が働くようになると言う手順を踏んでもらいたい。それが社会人の部の生徒達は漫画歴が長く、既にストーリーを書けるレヴェルにあるので直ぐに連想法を伝授する。学生の部の生徒らも高校入学前後ぐらいになったら、次々とプロ・デビューするだろう。
片瀬好美二十三歳はファンタジー漫画家を目指し、北川愛奈二十四歳はホラー漫画家を目指し、佐藤勇気三十三歳はカンフーや空手や剣術によるアクション漫画家を目指している。佐藤勇気は実際にカンフーや空手や剣道やボクシングなどの技を身に付けた総合武道家でもある。
漫画塾は我々が講師を続ける限り、次から次へとプロの漫画家を輩出し、繰り返し新たな生徒を募集していくだろう。
昼食にパンケイクを食べながら、「俺達の漫画塾を漫画学校に発展させるのって、どう思う?」と亜美に意見を求める。
「講師を雇うような学校経営?」と亜美がパンケイクを食べながら訊く。
「うん」
「漫画の描き方みたいな本を書いたりする事の方が実現させ易いわ」と亜美が新たな仕事を提案する。
「その漫画の描き方を教科書にする学校だよ」
「あたし達が教科書を書いて、その教科書を漫画学校を作る人達が採用すれば良いんじゃない?あたし達には自分の仕事がある訳じゃない?」と亜美が俺の提案に意見する。「あたし達は漫画塾『漫画天国』で少人数の生徒相手に漫画の描き方を教えるので精一杯よ」
「ああ、そうなのかな」
俺は霊的構造との会話で漫画学校の設立の事を盛んに話し込んできた。俺は亜美の言葉を守護霊様の間接内流のメッセージと見做して意見を訊く事をよくする。
「漫画塾『漫画天国』はあたし達の奉仕活動よ。漫画学校の設立となると経営の分野になるわ」
「そうだな。F先生みたいなオールマイティーな人生を実践するなら、経営も経験したいんだがな」
「来世も御褒美の人生を生きるには奉仕活動や善行や御神業で徳を積まなければいけないわね」と亜美が俺の心を整理する。
「うん。そうだな。でも、これで漫画学校を設立したなら、神上がりするかもしれないよ?」
「やっぱり守護霊様になるような事を考えるのね」と亜美が心に仕えていた物がふと抜けるような晴れやかな顔で言う。
『人生の仲間』
「村野さんの小説も三木谷さんの漫画も落選続きだな」
「その裡、自己出版費用貯めて出版するんじゃない」と亜美が楽観的に捉える。
「俺の絵画の個展も計画しないとな」
「今、何作目?」
「三十二作目だよ」
「個展やるなら百作は描かないとね」と亜美が助言する。「あたしは合同展示会が多いの」
「俺は亜美以外に絵画の仲間がいないんだ。毎回、新たな作風を生み出す事を続けていると、シリーズも出来ないし、自分のスタイルも確立されない」
「シリーズやスタイルは或意味息詰まりよ?」と亜美が真実を打ち明ける。
「やっぱり、そうか」と自分の辿る画業に自信を得る。「来月の四月でそろそろ陽平も幼稚園の年中さんだな。愛歌も二歳になるのか。子供達がすくすくと育っていくな」
「二人目からは子育ても楽よ。愛歌は多分、神経質な子にはならないわ」と亜美が愛歌が白玉団子を食べる様子を見ながら言う。「白玉団子美味しかったわね」
「美味しかった」
「また作ろうね」と亜美が左隣の席に座る愛歌を見ながら言う。「愛歌、美味しい?」
「美味しい」と愛歌が亜美の顔を見て答える。
人生を共に生きる仲間は今の友人知人達なのだろう。陽平や愛歌も例外なく我々の人生の仲間だ。縁者との出会いはこれからもある。これからどんな新たな縁者と出会うのだろう。漫画塾の生徒や仕事上の仲間も増え続ける。出版社の編集も次々に代わる。どの人も重要な仲間ばかりだ。学生時代の出会いで付き合いが続いている人達はいない。学生時代の出会いに恵まれていない分、社会人になってからの出会いが飛躍的に恵まれてきた。有能な仲間に出会うと、人生は大きく展開する。障害を患いながらも、これ程の仲間を増やせた事に自信を得ている。障害者としての人生を歩むに当たって、障害者との出会いの中から仲間を作ってきた事は大成功だった。人生は一人で生きていくような発想になり易い。学生時代にも有力な仲間になるだろう人物が何人かいた。俺は自分の成功ばかり追い求め、刺激ある人間関係を無駄にしてきた。絵の上手い人、楽器の演奏に秀でた人、映画監督を目指していた人、どの人も将来的には目があった。それを自分の現在より劣っているように感じて付き合わなかった。彼らが卒業後にどうなったかは知らない。
芸術家集団とは相変わらず通院日に会食をし、三木谷さんのアパートメントでニ次会を行い、作品を見せ合っている。デビュー組は本が出版される度に新作を仲間に送り付ける。
通院日の今日はホテルのビュッフェで芸術家集団と会食する。
「最近、俺も実はサイバー・パンクものの小説を書いてるんです」と初めて芸術家集団に小説を書いている事を打ち明ける。
「あたしもエンターテイメント的な小説に挑戦したいわ」と由里ちゃんが言う。「純文学ばかり真面目腐って書いてると、段々と小説を書く事に飽きてくるのよね」
「氏川さんも遂に小説を書き始めたか!」と村野さんが喜んで言う。
「統合失調症モノの幻覚や妄想世界の小説もサイバー・パンクに引けを取らないエンターテイメント性がある事に気付いて、サイバー・バンク小説と並行して書いてるんです」
「漫画には統合失調症モノ描かないの?」と布居さんが訊く。
「ああ、漫画でね」
「うん」と布居さんがしょんぼりした顔で言う。「何か精神科の外来に置いてあるような精神医療が企画したような漫画ではない統合失調症モノの漫画を描きたいのよね」
「幻聴のシーンとかを繰り返し読み込んで推敲を重ねるのがハードだよね」
「幻聴のシーンは読者が諸に苦しみを経験するでしょう?読者の心のケアが欠かせないだろうなって思うの」と布居さんが真剣な眼で話す。
「読者の心のケアね。幻聴の経験のない読者には臨場感を以てリアルに幻聴を描写すると、ホラー感覚で読めるんたろうけれど、統合失調症モノの漫画の愛読者は統合失調症の人達だから、当然心のケアがいるよね」
「統合失調症の人って、ほとんどが読書しないでしょ?」と布居さんが統合失調症患者の現実を言い当てる。
「うん。百人に一人の割合で統合失調症が発症するらしいけど、読書をする統合失調症患者は極めて稀で、おまけに文学芸術創作をする統合失調症患者となると、更に少ないよね」
「デイヴィッド・クローネンバーグの『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』みたいなホラーにして、エンターテイメント性を増した表現をするのも良いんじゃないですかね」と半沢さんがベーコンで巻いたアスパラガスを食べながら意見する。
「うん」ととりあえずは半沢さんの意見にも相槌を打ったものの、どちらかと言うと、布居さんの意見の方に共感している。
「由里ちゃんは何で恋人を作らないの?出会いがないの?」
「あたし、出会いがあるような場に行かないのよね」と由里ちゃんがパイナップルとチーズのピザを食べながら言う。
「小説ばっかり書いてるの?」
「うん。全くそれなの」と由里ちゃんが力ない返事をする。「編集の人からプロポーズを受けたんだけど、あたし、氏川さんや亜美ちゃんみたいに芸術家の男性と幸せな結婚をしたいのよ」
由里ちゃんには長年恋の相手として熱い眼差しを向けられている。俺は決してその誘惑には乗らない。
「家の漫画塾の卒業生に紹介しようか?」
「うううん。いいの」と亜美ちゃんが苛立ちを見せる。
「布居さんは彼氏がいるんだよね?」
「もう二年も付き合ってるのになかなかプロポーズされないのよ」と布居さも苛立つように言う。
「布居さんの彼氏って、漫画家だっけ?」と三木谷さんが再確認する。
「音楽家よ。ロックンローラー」
「ロックンローラーの彼氏がいる人ってイメージはないなあ!」と三木谷さんが笑いながら言う。
「結構イケてる彼氏よね?」とタコミちゃんがからかうような眼で言う。
「タコミちゃんは彼氏いるの?」と由里ちゃんがタコミちゃんの秘密を突くように訊く。
「去年、半年ぐらい付き合った彼氏がいたの。パンクな奴だったんだけど、二股かけてたから、ぶん殴って別れたの」とタコミちゃんが口ピーを右手の指先で弄りながら言う。
「半沢さんと君白さんの結婚は?」と由里ちゃんが半沢さんと君白さんに訊く。
「秋歌が結婚はまだ考えてないって言うんですよ」と半沢さんが不満そうに言う。
「二人はまだ若いしね」と由里ちゃんが串カツを食べながら言う。
「俺、もう二十五になるんですよ?秋歌は今年の誕生日で二十七です」と半沢さんが苛立ちを顕わにして言う。
「結婚は必ずするから安心してって言ってるでしょ!」と君白さんが年下の彼氏を優しく宥めるように言う。
「ああ、そうだ!私、鬱病治ったって今日の診察で言われたんです」と武田さんが笑顔で言う。
「ええ!良かったですね!武田さんは今年の初めぐらいから随分と表情が明るくなってましたよ」
「一人カラオケをよくやるのよね?」と赤いストレイトのショート・ヘアの旧姓坂本さん事、武田夫人の愛さんが言う。
「バンド組んで音楽作ってるんですよ」と武田さんが俺に力強い眼差しで言う。
「ロックですか?」
「ええ。オールタナティヴ系の音楽です」と武田さんが金髪のポンパドールの髪の左脇を左手で押さえながら言う。
「武田さんは出会った時とは全然違いますよ。お洒落も派手になってきてるし、愛さんの影響ですかね?」
「愛が昔から髪を赤く染めるので私も自然と髪を染めるようになりました」と武田さんが左手で金髪の髪を弄りながら言う。「私も今年の誕生日で三十六になりますからね、遣り残した事を全部やるつもりで音楽を始めました」
「我々夫婦は音楽はダメです」
「俺、今度、自費出版デビューします」と村野さんが由里ちゃんに言う。
「ああ、村野さんも愈々デビューか!」と由里ちゃんが喜んで言う。
「それを聴いて俺も漫画を自費出版しようと思ってるんだよ」と三木谷さんが明るい顔で由里ちゃんに言う。
「ああ、これで全員デビューだ!」と俺はほっとした気持ちで喜びの声を上げる。
家で夕方の漫画塾の授業まで小説を描いていると、電話がかかってくる。
「はい。もしもし、氏川ですけれど?」
「ああ、あのう、氏川さんの高校時代の漫研部員の沢田敏子の従兄で、以前漫画を観て戴いた松田直美です。お久しぶりです」と直美さんが落ち着いた声で名を名乗る。
「ああ、何だ、直美さんか!あなたはもう漫画家の安奈テラで良いんですよ?」
「何か氏川さんにペン・ネイムで自分の名を名乗るのが申し訳なくて」と松田直美さん事、漫画家/安奈テラが恥ずかしそうに言う。
「そんな事ありませんよ。これからはもっとクールにペンネイムで呼び合いましょう。まあ、私は本名ですけどね」
「はい。ああ、あのう、実はあたし、結婚する事になったんです」と安奈テラが打ち明ける。
「ああ、良かったですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」と安奈テラが陽気な声で言う。
「家の漫画塾の一期生三人が入選しました」
「凄い漫画塾ですね」
「神道の教えによると、芸能界や作家デビューって、前世で一杯良い事をした人達への御褒美の人生らしいんです。我々は或意味著名人の人生を生きる事を定められているらしいんです」
「本当ですか?」と安奈テラが疑わしそうに訊く。
「そう言うのは私の入信している神道系の新興宗教の教祖の高い英知で示された真実なんです。私の考えではないんです」
「神道って、神社の宗教ですよね?」と安奈テラが意外そうに訊く。「神道に新興宗教があるんですか」
「神道系の新興宗教は時代を象徴する新興宗教です。神道は全ての神様や仏様を崇めます」
「へええ、知らなかった。ああ、そうだ!結婚式に御夫婦揃っていらして戴けませんか?」と安奈テラが用件を言う。
「ああ、是非参加させて戴きます」
「お忙しいのに済みません。そろそろ電話切りますね」と安奈テラは言う。
「ああ、それでは、これから漫画家としても頑張ってください」
「ああ、はい。ありがとうございます。氏川さんも頑張ってバリバリ面白い漫画を描いてください」と安奈テラが言う。
「頑張ります」
「それでは」と安奈テラは言って、電話を切る。
俺は亜美のアトリエのドアーをノックする。
「どうぞ!」と中から亜美が返事をする。
俺はドアーを開け、「松田直美さんが結婚するよ。俺達、結婚式に招待された」と報告する。亜美が笑顔で振り返り、「へええ!そうなんだ!遂に結婚か!」と言う。
「うん。これからは電話でも安奈テラと名乗るように言っておいたよ」
「皆、どんどんデビューするね」と亜美が目元を右手の人差し指の甲で押さえながら、笑顔で言う。
「ジャンプ系の漫画家とかも縁者なのかな?」
「ええ!何それ?コンプレックス?」と亜美が妙にウケている。
「だって、どう考えてもジャンプ系と俺達とは知名度も売り上げも違い過ぎるだろう?」
「売れる漫画を描けば同じ事よ」と亜美が俺の頭を整理する。
「俺も一様、売れる漫画を描こうとしてるよ」
「あたし達って、どう歴史的に括られる漫画家なのかな?」と亜美が歴史に名を残す事を当たり前のように考えて訊く。
「やっぱり、『精神病院漫研』や『精神病院文芸部』や『芸術家集団』のメンバーとか、『漫画塾/漫画天国』の講師とか、俺達が夫婦関係にある事だろう」
「あなたって、あたし達の人生を商業的なフレーズで捉えてるのね」と亜美が感心したように言う。
「ああ、そこは確かに人任せには出来ないところだね」
「あなたって、演出家の仕事とか向いてるんじゃない?」と亜美が大真面目な顔で言う。
「話は変わるけどさ、平成の漫画の神様って、まだ出てないよね?」
「ええ!それ、自分用なの?」と亜美が呆れたように言う。
「違うよ!流石に平成の漫画の神様と言われるとは思ってないよ」
「昭和の漫画家が大勢君臨してて、それでその辺りが言われないのよね」と亜美が真剣な眼差しで言う。
亜美には否定してみせたものの、俺はよく平成の漫画の神様と称されるような事を夢想する。
俺は早速、サイバー・パンク小説の執筆に取りかかる。
サイバー・パンク小説の舞台は近未来都市。そこに殺人の罪を犯して命乞いをするレプリカント達をモンスターや宇宙人や古典的なロボットのボディーに改造する芸術家達がいる。彼らは殺人の罪を犯したレプリカントの依頼で次々にレプリカントのボディーを違法改造し、奇妙な姿のレプリカントに変えて、彼らの命を守っている。そこに一人のブレードランナーが侵入し、違法改造レプリカントの実態を見抜いて、次々に破壊していく。
なかなか面白い群像劇になりました。




