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亜美との結婚

漫画家を目指しながら、統合失調症が発症する主人公の群像劇。

 亜美ちゃんの家でインド・カリーを食べると、この日は緊張して仕方ないので直ぐに帰る事にする。亜美ちゃんがJR蒲田駅の改札口まで見送る。

「あたし達、結婚出来るのね」と亜美ちゃんが改札口の近くでしんみりとした口調で言う。

「漫画家になる前に結婚出来るとは思わなかった」

「あたしの絵に任せて、安心して漫画を描いて」と亜美ちゃんが笑顔で言う。「新婚旅行は氏川さんとあたしが漫画家になってからで良いわ」

「うん。無理しない方が良いかもね」

「あたし、妊娠中の心理や出産の気持ちを絵画や漫画にしたいな」と亜美ちゃんが宙を見ながら言う。「あたし、短編漫画三十枚ぐらいの原稿を月に一作描き上げられるぐらいになりたいの」

「出版社に持ち込みをして、担当が付くようにした方が良いよ」

「ああ、持ち込みとか担当が付くのって憧れなのよねえ」と亜美ちゃんが夢見るような眼で宙を見ながら言う。

「結婚式は何時頃にしようか?」

「あたし、貯金が二百万あるのよ」と亜美ちゃんが自慢気に言う。

「ええ!凄い!」

「ただし、あたしは赤ちゃんが産まれる訳だから、それで新婚旅行に行く訳にはいかないでしょ?結婚式の資金は貯金を使えばどうにかなるの」と亜美ちゃんが遠慮勝ちに言う。

「亜美ちゃん、自分達の記念になるような事を本当に自分のお金だけで実現したい?」

「あたしはあたし達の結婚を特別な結婚だと思ってる。精神障害者は結婚なんて諦めなけりゃいけないのかもしれないって思ってたの」と亜美ちゃんが真剣な眼差しで言う。「あたし達の結婚はあたしの執念の結婚なの」と亜美ちゃんがにやけた顔で言う。

 俺は思わず笑ってしまう。

「じゃあ、結婚式の資金は亜美ちゃんにお願いするね」

「うん」と亜美ちゃんが笑顔で返事をし、自分の胸を叩いて、「お金の事はあたしに任せて」と言う。

「うん。ごめんね」

「何で?夫婦の結婚生活は助け合いよ?」と亜美ちゃんが心の擦れ違いを悲しむような眼で言う。

「俺、よく夫婦関係とか考えた事がなくてさ」

「男の人はそんなもんかもね」と亜美ちゃんが心のゆとりを取り戻したような笑顔で言う。

 本当を言うと、俺はお金の問題こそが男の役割りだと思っていた。

「じゃあ、俺、帰るわ」

「うん。じゃあね!また電話するね!」

 俺は改札口を通り、階段を降りる。俺は停車している電車に乗り、シートに座ると、漸く亜美ちゃんの御両親に結婚の申し出を済ませられた事を喜ぶ。

『今生は漫画で行くんだな』とヘッセが言う。

 うん。お釈迦様、今回の漫画は入選しますかねと神我に訊く。

『佳作入選する事になっている』

 ええ!そうなんですか!神我が老賢者で、ヘッセの実態は何があり得るのか。アニムスだろうか。

『心理を読まれる事には緊張しなくていい。あなたは自由にものを考えれば良いんだ』とヘッセが言う。

『ユング心理学と私とどちらを取るんだ?』とお釈迦様が訊く。『ユング心理学で言う神我はセルフだな?』とお釈迦様が確認する。

 はい。でも、ユングの自伝にセルフが顕現したとは何処にも書かれていません。

『そうだな。私はヒンドゥーで言うアートマンだな?』とお釈迦様が確認する。

 そう言う事ですね。

『私は道教で言うタオだな?』とお釈迦様が確認する。

 はい。

『私は老賢者だと思うか?』

 判りません。

『私の声は幻聴か?』とお釈迦様が確認する。

 幻聴と変わりありません。

『幻聴なんだな、私の声は』とお釈迦様が口籠もる。

 何でも精神分裂病の影響を受けるんですかね?

『私は元型とは心の産物だと言ったな?』とお釈迦様が確認する。

 ああ、はい。幻聴が神我や前世の心の声に重なるんですね。

『そうだ』とお釈迦様が言う。

『俺達はこの後頭部の集中領域に女神が一緒にいるんだ』とヘッセが言う。『女神があなたと話したがってるんだが、良いか?』

 うん。

『あたしがヘルマンの女神で三番目の妻のニノンよ。宜しくね』とニノンさんが言う。

 ああ、宜しくお願いします。亜美さんとの結婚の申し出を御両親にしてきました。

『知ってるわ』とニノンさんが言う。

 ニノンさんはとても大らかで素敵な女性だ。ニノンさんの声は亜美ちゃんの声とも違う。

『あたしの声は幻聴よ』とニノンさんが言う。


 帰りにマーケットで夕食の竜田揚げと絹ごし豆腐と朝食時に食べる魚の缶詰を三つ買い、アパートメントに帰宅する。玄関の外の廊下にしゃがみ込み、煙草を吸う。煙草の煙を吐く息の音を男の子の声の霊が向き合うように擬音にする。また辛い幻聴が増えた。物凄く息苦しい圧迫感を感じる。ずっとゆったりとリラックスして煙草が吸えていたのに・・・・。

 俺は早速、十三作目の漫画のペン入れをする。

 俺は原稿を読み返し、風呂に入る。温かい湯の浴槽に浸かり、目を閉じる。裸になると幻聴が聴こえない。俺は湯に浸かったまま、一時眠る。

 風呂から出て、夕食を済ませると、TVで音楽番組を観る。そこに電話がかかってくる。

「もしもし、氏川ですけど」

『ああ、あたし。亜美』と亜美ちゃんが電話に出る。『あたし、今日、レンタルで『二〇〇一年宇宙の旅』を借りてきて観ちゃった。もう何回も観てるけど、観る度に感動があるのよね』

「俺は『二〇〇一年宇宙の旅』のヴィデオ・テープを持ってるよ。新品で買ったんだ」

『今、カラーの名作ヴィデオが安く手に入る時代よね。でも、あたしはレンタルで良い。レンタル・ヴィデオ・ショップにあるヴィデオ自体を自分のコレクションみたいに思ってるの』と亜美ちゃんが新感覚を強調するように言う。

「そう言う発想を漫画に描いたら?」

『漫画って、何でも表現出来るのね』と亜美ちゃんが楽しそうに言う。『氏川さんは今、どんな漫画描いてるの?』

「宇宙人の話だよ」

『SF?』と亜美ちゃんが驚いたように訊く。

「人物描写を濃くしてるけど、まあ、SFかな」

『あたしはカルトっぽくサスペンスを描いてる』

「今日、漫画観せてもらえば良かったな。緊張して直ぐに亜美ちゃんの家を出たから、観る機会逃しちゃったよ」

『今日の氏川さんは一〇〇点満点よ』と亜美ちゃんが喜んで言う。

「そう?」

『明日、落選作を持って、氏川さんの家に行って良い?』と亜美ちゃんが人懐こく訊く。

「ああ、良いよ」

『お昼御飯はあたしが手料理を作るわ』と亜美ちゃんが明るい声で言う。『JR大森駅の何処で待ち合わせしようか?』

「十一時に『RaRa』じゃない方の駅ビルの本屋で待ち合わせしよう」

『うん。判った』と亜美ちゃんが簡単に答える。

「それじゃあ、お休み!」

『お休みなさい』と亜美ちゃんが包み込むような優しい声で言う。

 俺は電話を切り、歯を磨いて眠る。


 翌朝六時に目覚めると、玄関の外に出て煙草を吸い、洗面と歯磨きと髭剃りを済ませ、秋刀魚の蒲焼の缶詰と納豆と御飯と若布と絹ごし豆腐の味噌汁で朝食を済ませる。その後は十三作目のSF漫画の消しゴムかけをし、亜美ちゃんとの待ち合わせまで小説や漫画の読書をする。漫画を描いている時と読書をしている時には幻聴が聴こえない。

 読書を済ませると、『今度の作品は面白い漫画だな』とヘッセが言う。『俺の奥も全部歴史に名を残した前世なんだぞ』

 そうなんだ!

『俺の後ろはシューベルトだよ』とヘッセが言う。

 俺は一つ奥に意識を合わせる。シューベルトは何で歌曲を多く作ったの?

『あなたも歌モノの音楽が好きだろ?』とシューベルトが訊く。

 うん。

『僕は好みがあなたに似てるんだよ。あなたは後ろの方にいた前世の再来だって言われてる』

 へええ!そうなんだ!シューベルトの後ろは誰?

『僕の後ろはモーツァルトだよ。モーツァルトは変わってるから余り相手にしない方が良いよ。俺も前世で散々苛々させられたんだ』とヘッセが言う。

『今のがモーツァルトだよ』とヘッセが咄嗟に言う。

 あの、そう言うの混乱するよ。気が狂いそうになる。

『ごめん』とモーツアルトが謝る。

『モーツァルトの後ろ辺りはあんまり話さないよ』とヘッセが言う。

『それもモーツアルト!』とヘッセが苛立って言う。『モーツァルトは嫉妬深いんだ』とシューベルトが言う。

『それもモーツアルトだよ!』とヘッセが言う。

 止めてよ!俺達の精神状態はふざけられるような状況下にはないよ!モーツアルトが答えない。『悪戯っ気が多いんだな』とモーツアルトが俺と一緒に言う。俺は思わず笑う。モーツアルトの反応は判らない。

『面白いか、そう言うの?俺はそう言う事に一回も笑った事がなかったよ』とヘッセが言う。

『前世に関心があるようだな』と神我のお釈迦様が言う。

 ああ、そうですね。でも、もう余り関わりたくありません。神我もモーツアルトには苛立つんですか?

『私が苛立つ事はない』とお釈迦様が言う。

 何か思った事考えた事に全部反応されるのは緊張します。

『そうか。あなたが我々の反応を求めているんだがな』とお釈迦様が言う。

 何かぐったり疲れました。

『前世域は笑いも何もかも、あなたとは感性の差があるからな』とヘッセが言う。『後ろの方が面白いと思えるような笑いはあなたからは出てこないんだ』

 外界での前世域の小説って、どんな感じなの?

『純文学じゃないんだ。想像力豊かに感じるエンターテイメント小説だよ。歴史的な真実を描いている事が多いんだが、そこで前世域にしか判らない難解な真理を表現していたりするんだ』とヘッセが言う。

 へええ。

『後ろの方には孔子や老子やイエスやクリシュナもいる』とヘッセが言う。

 へええ!

『それより新しい時代には芸術家が多いんだ。千利休や世阿弥や一休もいる。家が作ってきた生まれ変わりの歴史は比較的メインに近いんだ』とお釈迦様が言う。

 お釈迦様が自分達の体を中心とした存在を家と称するのがとても気分が良い。そろそろ亜美ちゃんとの待ち合わせの時間だ。俺は家に鍵を閉めて、亜美ちゃんとの待ち合わせ場所のJR大森駅の駅ビルの本屋に向かう。俺は自分と亜美ちゃんが飲む冷たく甘い缶コーヒーを買う。

 本屋に入ると、漫画を見て回る。

「氏川さん!」と亜美ちゃんが俺に声をかける。亜美ちゃんは本の入ったビニール袋と食材の入ったビニール袋を両手に持っている。亜美ちゃんは膝上ぐらいまでの白いワンピースを着て、黄色いサンダルスを履いている。

「ああ、亜美ちゃん、おはよう」

「おはよう」と亜美ちゃんが笑顔で挨拶する。「もう食材も買ってきたの」

「そうみたいだね。じゃあ、家に行こうか」

「うん。氏川さんの住んでるアパートメントってどんな感じだろう」と亜美ちゃんが夢見るような眼で言う。

「木造の古いアパートメントだよ」

「何間あるの?」と亜美ちゃんが興味津々に訊く。

「バス・トイレ付きの1DKだよ」

「一間は何畳?」と亜美ちゃんが更に問い詰める。

「六畳だよ」

「あたし、一人暮らしした事ないの」と亜美ちゃんが憧れの眼を輝かせて言う。

 駅ビルを出て、入新井図書館の方に向かう。商店街を通り、図書館の前を通ると、間もなく家のアパートメントの前に着く。階段を上って、二○一号室の鍵を開け、「どうぞ、中に入って」と亜美ちゃんを家の中に招く。

「何か男の人が住んでる匂いがする!」と亜美ちゃんが珍しそうに言う。

 玄関から入って直ぐ左側にキッチンがあり、右側はキッチンと一間のダイニング・ルームだ。俺は亜美ちゃんの胸を後ろから鷲掴みにし、「俺達、あれから随分してないよ」と亜美ちゃんの耳元に囁く。

「もう!あたし、お昼御飯作ろうと思ってたのに!」と亜美ちゃんが胸を揉まれながら、苦しげに言う。

「する事しないと落ち着かないよ」と俺は言い、亜美ちゃんのワンピースのスカートを捲り上げ、白いレースのパンティーの中に右手を入れる。クリトリスを指先で優しく刺激する。

「ああ!気持ち良い!」と亜美ちゃんが乱れた口調で言う。

「穴の方はもう濡れてるね。エッチな事考えてたの?」

「いやあ、恥ずかしい」と亜美ちゃんが快楽に酔い痴れるような甘い声で言う。

「俺のモノが恋しかった?」

「ええ、うん。毎日。氏川さんのおちんちん思い出して、自分でしてたの」と亜美ちゃんが穴の中に出し入れする俺の指の動きに息絶え絶えになって言う。

「入れくださいって言いなさい!」

「入れてください!」と亜美ちゃんが言われた通りにおねだりする。

「私は淫売ですって言いなさい!」

「私は淫売です!早く入れてください!」と亜美ちゃんが言いなりになって言う。

 俺のモノは固くそそり立っている。亜美ちゃんを流しの淵に手を付かせ、ワンピースを捲り上げると、白いレースのパンティーを膝まで下ろし、そそり立つモノをグイと前向きに引き下げ、亜美ちゃんの濡れた穴にずぶりと挿入する。

「大きい」と亜美ちゃんが呟く。

 俺はゆっくりと前後に大きく腰を動かし、亜美ちゃんの少女のような喘ぎ声を楽しむ。モノが自分の中心のように重要な役割りを担う。俺は亜美ちゃんのワンピースを頭から脱がし、白いレースのブラジャーの上から乳首を摘む。上手く乳首が摘めず、ブラジャーのフロント・ホックを外し、ムニュムニュと柔らかい胸を揉み、突き出した乳首を摘み、固く皺の寄った乳輪を指の爪で搔く。静止していたモノを再び前後に動かすと、亜美ちゃんがきつくモノを締め付ける。俺はモノを動かしながら、真希ちゃんの声が亜美ちゃんの口から聴こえてくる事を妄想する。真希ちゃんの声は聴こえてこない。確実に亜美ちゃんとセックスしているようだ。俺は亜美ちゃんの喘ぎ声を楽しむ。

「ああ、イク!」と亜美ちゃんがアダルト・ヴィデオ女優のような言葉を発する。

「痛い?」

「痛くない」と亜美ちゃんが落ち着いた声で言う。

 痛くないと聴いて、俺は激しく腰を動かす。

「ああ!ダメダメダメ!」と亜美ちゃんが叫ぶ。

 俺は尚激しく腰を振り、亜美ちゃんの中で射精する。

「ああ、良かった」と俺はモノを亜美ちゃんの温かい穴に挿入したまま言う。俺はモノを亜美ちゃんの穴から抜き、亜美ちゃんの手を握って、風呂場に連れていく。「シャワー浴びるでしょ?」

「うん」と亜美ちゃんが清々しい声で返事をする。

 俺と亜美ちゃんは立ったままシャワーを浴びる。俺はヘチマ・タオルにボディー・ソープを付け、亜美ちゃんの腋の下や背中を洗う。亜美ちゃんはまだ勃起した俺のモノを見下ろしている。俺は亜美ちゃんの割れ目を蔽う陰毛からシャワーの水が滴る様を見ている。それは何とも癒しある美しい光景で、シャワーの湯を体の穢れを洗い流す聖水のように思っている。俺はシャワーの湯を頭から浴びる亜美ちゃんが眼を瞑り、口に入る湯を吐き出す様を見て、シャワーの湯の中で亜美ちゃんに口付けする。亜美ちゃんは口に入るシャワーの湯を吐き出しながら、俺の口の中に舌を入れてくる。俺はその亜美ちゃんの舌の肉を啜り、唇を貪る。

 俺と亜美ちゃんは脱衣所に出て、服を着る。亜美ちゃんは白いレースのブラジャーを着け、パンティーを穿き、白いワンピースを頭から被る。俺は亜美ちゃんの動作を観察し、漫画に活かせるショットを探す。俺は二人共芸術家である事を思い出し、漸く亜美ちゃんの方にも観察眼がある事に気付く。

 亜美ちゃんは早速昼食を料理し始める。惣菜の唐揚げをレンジで温め、冷凍食品の餃子をフライパンで焼き、ジャーの中の米でチャーハンを作る。飲み物は一リットルの紙パックのアイス・ココアだ。

「随分と手軽に料理するね」

「誰でも好きなメニューにしてみたの」と亜美ちゃんが食卓の向かいの席に座って言う。「どうぞ、食べてみて!」

「それじゃあ、戴きまあす」と俺は言って、チャーハンから食べ始める。

「戴きまあす」と亜美ちゃんも言って、餃子をラー油と醤油と酢を合わせた小皿のタレに付けて食べる。「お惣菜の唐揚げをワン・パック買ってきたの。良かったら食べて」

「ああ、うん。美味しそうだね」と言って、鶏の唐揚げを食べる。「うん!ニンニクが効いてて美味しい!」

「あたしも美味しそうだなあと思って買ってみたの」と亜美ちゃんが笑顔で言う。

「結婚式、どう言う料理を出す?」

「スペアリブとか、ピザとか、ゴロンとした大きな肉の入ったピーフシチューとか、洋食が良いかなって思ってるの」と亜美ちゃんが鶏の唐揚げを食べながら言う。

「ああ、良いね。こっちまで食欲がそそられてくるよ」

「そうでしょ!」と亜美ちゃんがチャーハンを食べながら言う。「仲人は氏川さんにお願いするわね」

「ああ、仲人。中学時代の漫研の顧問だった先生にお願いしようかな」

「あたしも高校の時の美術部の先生とか呼びたいな。後は大学の教授とか、画家仲間かな」と亜美ちゃんがアイス・ココアを飲みながら言う。

「幼馴染みとか、小学校や中学高校時代の親友とかは呼ばないの?」

「従兄とか幼馴染みは呼ぶけれど、大学以前の親友とかは疎遠になってるの」と亜美ちゃんがチャーハンを食べながら言う。

 俺は完食し、合掌して、「御馳走様でした」と言う。

「唐揚げ、残ったのは冷蔵庫に入れておくから、明日の朝食にでも食べてね」と亜美ちゃんが餃子を食べながら言う。

「ああ、うん」

「まだ席立たないでよ!氏川さんは自分が食べ終わると直ぐに煙草吸いに行くでしょ?」と亜美ちゃんが俺を引き止める。

「間がもたなくて。子供の頃から食事を食べ終わると、会話しながら席にいるのが出来ないんだよ」

「それ、子供よ!」と亜美ちゃんがチャーハンを食べながら、険しい目付きで注意する。「あたし、病院では氏川さんが食べ終わって席を立つと、御飯残して直ぐに食事片付けてたのよ?」

「そうなんだ。ごめん。知らなかった」

「一回、好物のクリーム・シチューまで残した事があったの」と亜

美ちゃんが泣きそうな顔で言う。

「ごめん!ごめんね。知らなかったよ」

「あたしが食べ終わるまでいてよ」と亜美ちゃんが目元を右手の人差し指の甲で拭いながら言う。

「うん。食べ終わるまでいるよ」

「あたし、食べる事は生活の中で一番大切な事なの」と亜美ちゃんが餃子を食べながら言う。

「俺は精神錯乱になるくらいなら食事は残す」

「そうなんだ。あたしはそれが堪らなく悔しい」と亜美ちゃんが眼から涙を滴らせて言う。

 俺は亜美ちゃんの涙をハンカチーフで拭う。亜美ちゃんはにっこりと明るい顔で微笑む。

「あたしの事大切にしてくださいよ!」と亜美ちゃんが澄んだ眼で言う。それが何とも可愛い。

「大切にするよ。俺の未来の奥さんなんだからね」

 亜美ちゃんはニコニコしながら、チャーハンを食べ終え、餃子を食べ終え、アイス・ココアを飲み干す。

「ああ!完璧よ!これで私の一日が完全なる一日に近付くの」と亜美ちゃんがティッシュ・ペイパーで口許を拭いて言う。

「食器洗いは俺がやっておくよ」

「そう言うのは一緒にやるべきよ!」と亜美ちゃんがどんどん自分の性格や好みや意思を表に表わす。

「一寸、玄関先で煙草吸ってくるわ」

「あたしも行く!あたし、氏川さんが病院の喫煙所で皆と話しているところにいつも行きたかったの」と亜美ちゃんが自分の気持ちを打ち明ける。

「来れば良かったのに」

「煙草吸わないんだから、そう言う訳にはいかないでしょ!」と亜美ちゃんが少女のような口調で膨れっ面をして言う。

亜美ちゃんって、少女の元型がいるんじゃないかと言いそうになって止める。それは漸く幻聴が消えた亜美ちゃんの気持ちを労わり、亜美ちゃんの安らぎを大切に思うからだ。

 急にヘッセや神我のお釈迦様の事を思い出す。ヘッセもお釈迦様も何も言わない。

 俺は亜美ちゃんと玄関先に出て、壁に凭れてしゃがみ込むと、煙草に火を点けて、煙草を吹かす。肺に入れて味わえる訳ではないから、俺の喫煙は吹かし煙草だ。

「煙草って美味しいの?」と亜美ちゃんが子供のように興味津々たる眼で訊く。

「物凄く不幸な女性がいたら、俺は止められない事を前提に、煙草を吸う事を勧めるね」

「へええ、じゃあ、あたしも吸ってみたい」と亜美ちゃんが気軽に言う。

 俺はキャスターを一本亜美ちゃんに手渡し、「口に銜えて、火が付くまで吸い込んで」と煙草の火の付け方を教える。亜美ちゃんは俺に言われた通りにし、俺はライターの火を亜美ちゃんの煙草の先に近付ける。亜美ちゃんは煙草の煙に咳き込む。亜美ちゃんは慎重に煙を吸い込む。

「あっ!何か、ヴァニラの香りがする。良い匂い」と亜美ちゃんは言いながら、煙に眼を細める。「ああ、美味しい!この苦甘い感じがニコチン?」

「うん」

「あたし、帰りにこの煙草買って帰る!」と亜美ちゃんがキャスターを気に入る。

「俺はフィルターギリギリまで吸う」

「そうなんだ。途中で捨てる方が品が良いんでしょ?」と亜美ちゃんが早速お洒落な煙草の吸い方を確認する。本当に根っからのお洒落さんなんだな。

「うん。残せるものなら、そうした方が良いよ」

「残せないものなの?」と亜美ちゃんが不思議そうに訊く。

「残し辛いよ。残ってる分はちゃんと煙草として吸えるんだから」

「なるほど」と亜美ちゃんは言って、また煙に咳き込む。 煙草を吸い終えると室内に戻り、俺の寝室兼書斎の六畳の部屋に入る。

「これ、あたしの落選作」と亜美ちゃんが肩掛け鞄の中からB4の封筒を出して言う。

「ああ、読ませて!読ませて!」

「氏川さんの落選作と最新作が観たい」

「ああ、じゃあ、そこの机の上に落選作と十三作目の原稿があるから読んでて」

「畳に座蒲団敷いて、書き物机で漫画描いてるんだ!何かトキワ荘の漫画家みたいで、味があって良いね」と亜美ちゃんが部屋を見回して言う。

 亜美ちゃんの漫画の絵のクオリティーは非常に高い。人物はかなりリアルで、ストーリーらしきストーリーはなく、唯印象的な場面が展開し続けていくような漫画である。

「アート・フィルムみたいだね」

「氏川さんの漫画もそうよ」と亜美ちゃんが嬉しそうに言う。

「『イージー・ライダー』風なのに、『イージー・ライダー』より劣るから落選したのかなと思って」

「『イージー・ライダー』とは一寸テイストが違うけど、B級映画みたいなテイストでなかなか良い感じよ」と亜美ちゃんが俺の漫画を誉める。こんなに映画に詳しい女性は珍しい。

「亜美ちゃんの知識の得意分野って、映画だけ?」

「絵画や小説や詩や漫画や音楽もよく鑑賞するわよ」と亜美ちゃんがゆったりとした安定感のある口調で言う。

「俺、小説や詩はほとんど読まない。字読むのがかったるいんだよ」

「それだと古典の知識は頭に入ってなさそうね」と亜美ちゃんが俺を見下すように言う。

「漫画描く人間って、何知ってても良いよね」

「うん。この作品、ハーレイのチームの全体図が少ないのよ」と亜美ちゃんが指摘する。

「全体図を沢山描きたかったんだけど、面倒臭くなちゃってね」

「ああ、それはダメだ」と亜美ちゃんが言って、原稿を封筒に仕舞う。亜美ちゃんは早速十三作目の原稿を読む。

「亜美ちゃんの漫画って、密度が濃いね。夕食会での会話と御馳走を食べるシーンに力を入れたんだね。これはこれで良いと思うけどね。服装もヨーロッパの中世風のゴテゴテッとしたのを描くのが面倒臭そうだけど、しっかりと繰り返し描き込んでるね」

「ストーリーがないと落ちるのかなと思ったの」と亜美ちゃんがしょんぼりと言う。

「ああ、なるほど。映画的って言う視点は昔からあって、或意味古いって担当が言ってたよ」

「ああ、じゃあ、あたしの描きたい漫画の感じって、古い発想なんだ」と亜美ちゃんが残念そうに言う。

「いやあ、昔からの視点だって事だよ。映画みたいな漫画が少ないから追求するんだと思うんだ。音楽で言えば、男が女の声で歌ったり、女が男の声で歌ったりする事を武器にしていながら、実際には異性の歌声には聞こえないような事と一緒だと思うんだ」

「何かよく判らないけど、ええ!でも、あたし、男の声で歌えるよ」と亜美ちゃんが自分だけは例外のように言う。

「俺だって、女の声で歌えると思ってたよ」

「ええ!皆それは出来ると思ってるんだ!」と亜美ちゃんが意外な事実に驚く。「でも、あたし、子供の頃から人のいないところでは男の声出して歌ってたよ?」

「俺なんかは家族に聴こえるところでも女の声色で歌ってたよ」

「ええ、何かショック!大変な才能を喪失した感じ!」と亜美ちゃんが納得のいかない様子で言葉だけは歩み寄る。「ええ!でも、あたし、ジャニーズ風のロリロリっとした男の子の声も出せるんだよ?」

「それが腹話術的な女の声だったりするんだよ」

「へええ、そうなんだ!」と亜美ちゃんが自分の自信に拘る。

 何だか不穏な空気になり、二人共黙ってしまう。

「結婚式は来月の五月で良い?」と亜美ちゃんが話題を変える。

「ああ、良いよ。お金の事は亜美ちゃんにお任せだから、俺は何時でも良い」

「ああ、じゃあ、来月の式場の手配をしておく」と亜美ちゃんが具体的に話を進める。

「うん。そう言う事は亜美ちゃんにお任せするよ」

「結婚式の料理とかもあたしが注文しておく。結婚式の引出物もあたしが選んでおく。氏川さん側の招待客の数を教えて」と亜美ちゃんが積極的に役割りを買って出る。

「結婚式の御案内を送って、参加か不参加か判らないと招待客の数は判らないよ」

「ああ、そうね」と亜美ちゃんが納得する。


 翌日の夕方六時に駅前のコンヴィニエンス・ストアでペットボトルのコーヒーを買って、K社の外で煙草を吸ってから、漫画編集部に漫画の持ち込みをする。

「ああ、氏川さん、こんにちは」と担当の片桐さんが挨拶し、ソファーに腰を下ろすと、「どうぞ御かけになってください」と席を勧める。

「こんにちは。原稿出来上がりました」俺は言って、片桐さんの向かいのソファーに腰を下ろす。俺は封筒から原稿を出し、「宜しくお願いします」と言って、片桐さんに手渡す。

「氏川さんって、これで何作目なんですか?」と片桐さんが原稿をテーブルの上で整えながら訊く。

「十三作目です」

「ああ、結構描きましたね。早くデビューしたいでしょうね」と片桐さんが落ち着いた口調で原稿から顔を上げて言う。

「ああ、はい。一日でも早くデビューしたいです」

「氏川さんの漫画は良いんですよ。スランプにでも陥らない限り、必ずデビューすると思います」と片桐さんが笑顔で言う。

「そうですか」と俺がほっとして言う。

「コマ割りの時間計算も身に付いてきて、大分漫画にゆとりが出てきましたよ。懐の深いストーリーがなかなか描けないようですね」

「ああ、はい」と俺は言って、注意して片桐さんの言葉を頭に入れる。精神分裂病者はパラノイアの一面が人の言葉を全部頭から追い出してしまう。パラノイアでは漫画家は務まらないだろうと、敢て人の言葉を頭に入れる努力をしている。

「それでは原稿を拝見させて戴きます」と片桐さんが言って、集中して原稿を読む。

「ああ、はい。お願いします」

 事務員の女性が来て、「お茶どうぞ」と言って、俺の前のテーブルに茶托に載せた湯呑を置く。

「ああ、ありがとうございます」と事務員に頭を下げて、お茶の礼を言う。

 俺はペットボトルのコーヒーの蓋を開けて、甘いコーヒーを少し口に含む。精神科の薬を飲んでいると、喉が渇くのだ。本当は二リットルのペットボトルのミネラル・ウォーターを持ち歩きたい。

 片桐さんは集中して丁寧に原稿を読んでいる。幻聴が編集部内の人の声に混ざって聴こえる。遠くにある幻聴なのだから、迫ってくるような感じはしない。幻聴ある者には話し相手の沈黙が幻聴を引き起こす。それでいて会話を始めるとピタリと幻聴が止む。俺の心はいつも幻聴を心の片隅で意識しながら、不安な心理に支配されている。

 片桐さんが注意深く原稿を読み返している。何て感想を言うのだろう。俺は事務員の出してくれたお茶を飲む。お茶は飲み易い温かさだ。

 片桐さんが原稿を読み終え、テーブルの上で原稿の束を整えると、「これは多分、良い線行きますよ」と笑顔で言う。

「そうですか!」と俺は思わず笑顔で言う。

「じゃあ、これ、新人賞の方に出しておきますね」と片桐さんは言い、「氏川さん、夕食は食べましたか?」と俺に訊く。

「いいえ、まだ」

「夕食奢りますよ」と片桐そさんが笑顔で言う。

「ああ、御馳走になります」

「一緒に夕飯食いながら、また映画の話でもしましょうか」と片桐さんが明るい顔で言う。

「ああ、はい!」


 翌週の水曜日に芸術家集団総勢十一人が精神科への通院日を合わせ、旧メンバーとの初顔合わせをする。

「こっちにいるのが初代芸術家集団のメンバーの由里ちゃんと布意さんと三木谷さんと既に御存知の村野さん」と新たなメンバーの六人に紹介する。「それでこっちの新メンバー六人がタコミちゃんと坂本さんと武田さんと半沢さんと君白さんと俺の彼女の亜美ちゃんです」

「氏川さん、何気に俺の彼女のとか言ってる!」と布意さんがすかさず突っ込む。

「こっちの武田さんと坂本さんがカップルで、こっちの半沢さんと君白さんがカップルです」

「じゃあ、あたし達旧メンバーにはまだ恋人いないじゃない!」と由里ちゃんが冗談っぽく言う。

「あたしも恋人はいません。専らパンクな男が表われるのを心待ちにしているんですが」とタコミちゃんが親しげに由里ちゃんに言う。「由里さんって綺麗ですね」

「ええ!そんな事ないよ。タコミちゃんの方が個性的で可愛いわよ」と由里ちゃんが言う。

「ええ!嬉しい!」とタコミちゃんが親しげに由里ちゃんに話す。

「由里ちゃんとタコミちゃんと俺と三木谷さんは同じ年だよ」

「ええ、タコミちゃんって、三十一!」と由里ちゃんがびっくりした様子で言う。

「はい。三十一です」とタコミちゃんが年上に対するような礼儀正さで言う。

「何か由里ちゃん、すっかり元気になったね」

「あたし、鬱病が治ったのよ」と由里ちゃんが物凄く力のある声で言う。

「へええ。良かったね」

「おめでとうございます。僕も鬱病なんです」と武田さんが言う。

「一応、アートワーク別に御紹介しますと、こちらの由里さんと村野さんと、こちらの坂本さんが小説家志望で、こちらの武田さんと君白さんが詩人志望で、こちらの望ちゃんと三木谷さんと半沢さんと俺と俺の恋人の亜美ちゃんとタコミちゃんが漫画家志望です」

「何か俺の恋人のがイラッとするのよね」と俺は布居さんのくどい笑いに思わず笑ってしまう。

「ああ、やっぱりそうですか?でも、あたし、高田さんは基本的にお人形さんとして虐めないようにしてるんです」とタコミちゃんが真顔で言う。

「何であたしがお人形さんなのよ!」と亜美ちゃんがタコミちゃんに反論する。

「この人、どう見ても、お人形さんでしょ?」とタコミちゃんが亜美ちゃんの事を由里ちゃんに訊く。

「綺麗だからね、どんなお話する人なのか未知よね」と由里ちゃんが言う。

「この人、あたしが真剣に喋ってるとゲラゲラ笑うんですよ。失礼でしょ?」とタコミちゃんが亜美ちゃんの事を由里ちゃんに告げ口する。

「だって、変わってて面白いんだもん。あたし、タコミちゃんみたいなバリバリのパンクの人って出会った事なかったの」と亜美ちゃんが親しげにタコミちゃんに言う。

「何かこんな顔して親しげにあたしに話しかけたりするんですよ。こんなお人形さん相手に何喋ったら良いと思います?」とタコミちゃんが由里ちゃんに訊く。

「何か話す人なの?」と由里ちゃんが惚けた口調で俺に訊く。

「普通に何でも話すよ」

「何かこの人達、入院中の同伴院外外出とかでホテルに行って、ヤッたりするんですよ。それに影響受けてホテルに行ったのがこっちの武田さんと坂本さんなんです」とまたしてもタコミちゃんが由里ちゃんに告げ口する。由里ちゃんが笑いながら、「別に良いんじゃない。カップルなんだから」と言う。

 診察を終えた我々芸術家集団は新宿の食べ放題のピザ屋で会食をする。タコミちゃんが壁際左端の斜め前の席に座り、村野さんがその向かいに座り、ロックの話をしている。三木谷さんを探すと、三木谷さんは独り一番右隅壁側の二人用のテーブル席に座っている。俺の向かいの壁側の席には亜美ちゃんが腰かけている。皆、緊張するのか、誰も亜美ちゃんには話しかけない。

「二次会はまた三木谷さんの家に行く?」と村野さんが訊く。

「俺達は二次会を三木谷さんの家でやるんです」と俺の右隣の席の武田さんとその壁側の向かいの席の坂本さんに言う。

「ああ、行ってみたい!」と赤いドレットロックの長い髪を後ろで束ねた坂本さんが能面のように鮮やかな一重瞼の眼で言う。

「今日、精神病院漫研のメンバーはそれぞれ落選作持ってきたんでしょ?」

「俺、佳作入選したんです。それで掲載誌を持ってきました」と俺の右側の二つ隣の席に座る半沢さんが言う。

「おお!半沢君、良かったね!漸くデビューだね。おめでとう」と村野さんが祝福する。

「おめでとう。半沢さんには先を越されたな」と俺も半沢さんを祝福する。

「だから、半沢君は芸術家だって言ったでしょ?別格なのよ」とタコミちゃんがパイナップルのピザを食べながら、半沢さんに言う。

「でも、シュールは古いって高田さんに言われて」と半沢さんが躊躇いがちに言う。

「古いって、ダメって意味じゃないよ?」と俺の向かいの席に座る亜美ちゃんが半沢さんに言う。「佳作獲れたって事は評価もあった訳だから、それはそれで自信持って良いのよ」

「ああ、はい」と半沢さんが力なく返事をする。

「半沢さんって凄いね」と半沢さんの左隣の席にいる布居さんが尊敬の眼差しで言う。「お幾つなんですか?」

「二十二です」と半沢さんが自信満々に答える。

「あたしも早く小説家デビューしたいなあ」とサラミとピーマンのピザを手にしながら、由里ちゃんが言う。

「あたしも早くデビューしたい」と俺の右斜め前にいる坂本さんが言う。

「あたしも詩と小説書くんです」と坂本さんの右隣に座る君白さんがその左隣の席に座る由里ちゃんに言う。

「へええ、そうなの。何か若い綺麗な子が多いわね。この面子、氏川さんの趣味で集めたんじゃないの?」と由里ちゃんが俺の右の三つ隣の席から言う。

「趣味とかじゃないですよ。文学や漫画をやる人を全部芸術家集団に誘ったんだよ」

「男の人は全部彼女がいるし、あたし達も彼氏作らないと欲求不満になるわよね?」と由里ちゃんが向かいの席の布居さん言い、ちらりとタコミちゃんと話している村野さんの方を見る。三木谷さんは布居さんの左隣で平然とした顔で黙々とトマトとピーマンのピザを食べている。他のメンバーは誰も入選報告をしない。三木谷さんと布居さんとタコミちゃんの落選作と半沢さんの入選作を観たい。俺も今日は十一作目と十二作目の落選作を持ってきている。文芸部の方にも入選者がいないのかな。

「文芸部の方に入選者はいないの?」

「あたし、落ちた」と由里ちゃんが真っ先に答える。

「あたしも詩が落ちました。小説もなかなか書き終えられません。何かどんどん長くなっちゃって、かなり退屈なシーンがあって、添削しないといけないんですよね」と俺の左隣の君白さんがその左隣の由里ちゃんに言う。

「ああ、退屈なシーンって絶対に入っちゃいけないわよね」と由里ちゃんが君白さんに言う。「あたし、多分、添削が足りない」

「詩を書くと添削技術が高くなりますよ。って、別にあたしが添削技術が高い訳でもないですけど。ええ!あたし、先輩に何言ってるの!」と君白さんが慌てふためいて言う。

「じゃあ、あたしも詩を書こうかな」と由里ちゃんが気にせずに言う。

「聞き流してください」と君白さんが申し訳なさそうに言う。

「詩人で小説家って紹介されるのは憧れかな」と由里ちゃんが明るい声で言う。

「ああ、確かに」と君白さんの心理が漸く由里ちゃんの平常心に追い着く。

「私も詩落ちたんですよ」と右隣の席の年上の武田さんが俺に言う。「私も小説を書き始めたんですけど、中身がスカスカです」と君白さんが楽しそうに言う。

「俺も落ちた」と左斜め端の席の村野さんが暗い声で言う。

「三木谷さんの漫画はどうなった?」とジュースのグラスを持って席に帰ってきた三木谷さんに訊く。

「落ちたよ」と三木谷さんがあっけらかんとした顔で答える。

「布居さんとタコミちゃんはどうだった?」

「あたしは努力賞もらった」とタコミちゃんが少し嬉しそうに言う。

「ええ、凄い!」

「嘘よ。完敗」とタコミちゃんがソーセージとスクランブル・エッグのピザを食べながら、明るい声で言う。「もうあんまり落ち続けるとパワー落ちるよ」とタコミちゃんが脱力したように体を丸めて、俯いて言う。

「タコミちゃんの漫画は良いんだけどな」と左隣の席にいる村野さんが向かいの席に座るタコミちゃんを励ます。

「あたしも落ちた」と布居さんが残念そうに俺に言う。「結構、自信作だったからショックでね」

「亜美ちゃんも落ちたの?」と二つ左隣に座る由里ちゃんが俺の向かいの亜美ちゃんに訊く。漸く亜美ちゃんに話しかけてくれた!

「落ちたんですよ」と亜美ちゃんが残念そうに言う。

「二次会で漫画見せてね」と由里ちゃんが亜美ちゃんに言う。

「はい。観てください」と亜美ちゃんが明るい声で言う。

「あたしにも見せてね」と亜美ちゃんの左隣の布居さんが言う。

「ああ、観てください」と亜美ちゃんが少し強張った顔付きで話しかけられた事に戸惑うように言う。

「氏川さんって、あたしの漫画の師なの」と布居さんが亜美ちゃんに言う。

「そうなんですか!」と亜美ちゃんが意外そうに言う。

「だから、あたしのダーリンでもあるのよ」と布居さんが亜美ちゃんを真剣な眼で見つめて言う。

「ああ、はい。そうなんですね」と亜美ちゃんが恐々と言う。

「あら、冗談よ。純粋にあたしのお師匠さん」と布居さんが亜美ちゃんに笑顔で言う。「あの人があたしになかなかコクらないの」と布居さんが三木谷さんを顎で示しながら言う。

「ああ、なるほど」と亜美ちゃんが三木谷さんの黙々と食べる様子を見ながら言う。「あの方は無口なんですか?」

「ううん。普通に電話では漫画の事とかよく話すの」と布居さんが明るい声で言う。

「脈はあるんですか?」と亜美ちゃんが突っ込んで訊く。

「ううん。判んないのよね、その辺が」と布居さんは右の片目を疲れたように瞑って言い、溜息を吐く。

「御自分からコクるとか」と亜美ちゃんが布居さんに小声で提案する。

「ううん。微妙な感じね。そこまで好きなタイプって訳でもないし」と布居さんが打ち解けた感じで答える。

「何か今日、三木谷さん、おかしくない?」

「何か最近、三木谷さんの幻聴解釈がテレパシー説から変わったの」と布居さんが言う。「それで心が塞いでるのかなと思って。何か三木谷さんって、人間を神系と動物系に類別する独特な世界観だったじゃない?」

「ああ、うん」

「あの人も漸く普通に人間になったのかなあって、あたしは思ってるの」と布居さんが悪戯っぽい顔付きで言う。亜美ちゃんがペパローニ・ピザを食べながら頷く。

「それで今の三木谷さんの幻聴説って、何?」

「何か霊だって頻りに言うの」と布居さんが顔を顰めて言う。

 俺も幻聴説が変わった。それをどうにも言い出し難い。寝ている人の霊が中に入ってきて騒ぎを起こす現象だと言えないのだ。神我のお釈迦様や前世の分離霊に関する事にも若干疑問がある。人に全く言わないのは危険だから、亜美ちゃんにだけは伝えている。

「何処に行ってるんですかあ?」と布居さんが俺をからかうように俺の目の前で手を振って言う。

「一寸考えてただけだよ」

「こう言う風にね、ふと顔を見ると遠くの世界に行ってるのが氏川さんでもあるの」と布居さんが亜美ちゃんに言う。

 俺は何だかムッとして、怒りを覚える。その怒りを顔に出さないようにしてハムとピーマンのピザを齧る。


 ニ次会は皆で蒲田の三木谷さんのアパートメントに行く。夕食は女性陣が途中のスーパー・マーケットで食材を買い、料理をする事になった。

 三木谷さんのアパートメントに着くと、皆が漫画勢の漫画をそれぞれ読み始める。俺は半沢さんの入選作から読み始める。鮮やかなシュールレアリズム作品で、本当に美しく、ストーリーは幻影の恋人との幻想的な恋愛物語になっている。その後にタコミちゃんの漫画を読む。タコミちゃんの漫画は相変わらずの多重輪郭線描写でパワフルに受け入れ難い現実に取り組む女主人公の足掻きが描かれている。その後に布居さんの漫画を読む。布居さんの漫画は過食症の女の子が泣きながら食べ物を食べ、食べては吐き、食べては吐きを繰り返す切ない場面が印象的で、主人公の女の子に好きな人が出来ると、奇跡的に過食症が治り、恋が実ると言うハッピー・エンドのストーリーだ。続いて三木谷さんの漫画を読む。三木谷さんの漫画はお得意の巨大ロボットへの愛に満ちた作品で、ロボットの重量感がずっしりと重く感じられる。三木谷さんの絵は抜群に上手く、ストーリーは政府軍に氾濫を起こす労働者階級の民間兵と政府軍の戦争で、最後には労働者階級の民間兵が政府軍に打ち勝つ話になっている。それぞれが表現力を巧みに発揮し、なかなか面白い作品を作り上げている。

 全員が漫画勢の漫画を読み終わると、酒宴の席に代わり、駄菓子の串カツや『よっちゃんイカ』や『うまい棒』や『チロルチョコ』などを摘みにビールや『ワンカップ大関』を飲む。

 夕方になり、女性陣が夕食を作ると、鶏の唐揚げや味噌おでんや餃子や子持ちシシャモや若布と豆腐の味噌汁をおかずに御飯を食べる。

 ニ次会が終わり、JR蒲田駅で解散すると、俺は大森のアパートメントに帰宅する。帰宅すると、タイミング良く電話がかかってくる。

「もしもし、氏川ですけれど?」

『ああ、あたし。亜美』と亜美ちゃんが電話に出る。『今日は楽しかった!皆、良い人ね』

「ああ、楽しかった?それは良かった。毎回、あんな感じなんだよ」

『あたし達の結婚式には絶対に芸術家集団を呼ぼうね』と亜美ちゃんが上機嫌な声で言う。

「うん」

『あたし、大学や予備校の先生や大学時代の仲間も結婚式に呼びたいの』と亜美ちゃんが結婚式の事を話し続ける。

「呼べば良いよ」

『ダリは同じ奥さんと何度も結婚式を挙げたのよ』と亜美ちゃんが楽しげに話す。

「ああ、何かそうらしいね。有名な話だよね。結婚式なんて一回で十分だって言う日本人も多いけどね」

『結婚式の衣装は一緒に買いに行こうね』と亜美ちゃんがはしゃいで言う。

「何色のウェディング・ドレス着たいの?」

『一応決めてるのが白と紫』

「ああ、白は勿論良いけど、紫も似合うだろうね」

『あたし達の新婚生活は直ぐに子供が出来るのよ。二人きりになれる時間が少ないの』

「子供産まれたら、子育てに毎日が追われるな」

『そうなのよねえ。でも、あたし、氏川さんの赤ちゃんを産んで、育てたいの』と亜美ちゃんがはっきりと俺に対する愛を伝える。

「嬉しいよ。俺との赤ちゃんをそんなに愛してくれるなら安心だよ。体罰教育なしで子供を育てようね。でも、子供が親に暴力を振るう時はパンッて叩いてあげようね」

『産まれる前から子供を叩く話なんていらないわ』と亜美ちゃんが俺を批難する。

「ああ、そうだね。まだ何も悪い事してないもんね。ごめん」

『あたしはお腹に赤ちゃんがいるから話がリアルなだけよ』と亜美ちゃんが俺を慰める。『今日みたいな素敵な通院日が毎月あるのかあ。嬉しいなあ』

「気に入ってくれて良かったよ。最初は皆、亜美ちゃんに話しかけないから心配してたんだ」

『あたしも最初は相当に緊張してたの。話しかけ辛かったんだと思う』と亜美ちゃんが心細そうな口調で言う。『これからお風呂?』

「うん」

『じゃあ、お休みなさい。また明日電話かけるね』

「うん。お休み」

 俺は電話を切って、風呂に入ると、寝る前に十四作目の漫画のネームを描く。カフカの城を想いながら、迷宮の話を考え、キューブリックの映画『シャイニング』辺りも参考にする。俺はホラー漫画家やホラー小説家は不幸な作家と見做しているため、恐怖より不思議を題材にした作品を作るようにしている。何か幻想的な美を表現してみたい。直ぐにグリム兄弟の童話に意識が向き、誰々風をやりたい訳じゃないと、自分の陥り易いパクリに注意する。性夢を描こうかと思うと、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の黒人との乱交の場面を思い出し、何で村上龍は漫画のような小説を書きたいと思って小説を書いているのに、小説としての格調を維持出来るのかと考える。それは文学が維持してきた高貴なる歴史に関係しているのだろう。文学には漫画の到達出来ない独特な優雅さがある。そう思うと、ポルノグラフィーではなく、エロティシズムとしての性夢の世界を美的に描こうと思う。モノローグの中で詩文による性欲表現を文章化しようと思う。


『結婚と新人賞の入選』 

 今年二〇〇一年で三十二になる俺は結婚式の当日、既に一度顔を合わせをした双方の親達が丁寧に挨拶を交わし、双方の子供の結婚を祝福する。

 結婚式には家族や親戚や主治医の石橋先生や学生時代の友達や芸術家集団もきて、中学時代の漫研の顧問が仲人をしてくださる。

 結婚式が無事終わり、俺達は婚姻届けを出しに区役所に行く。

 俺達は結婚生活の新居として、品川区の下神明にある2LDKの木造アパートメントに引っ越す。一間を俺と亜美ちゃんのアトリエに使い、もう一間を寝室と決める。新婚旅行こそ後回しながら、新居での生活は非常に充実している。亜美は午前中に漫画を描き、午後に絵画を描く。俺は一日中休憩を挟みながら、漫画を描く。亜美との生活は楽しい。

 亜美は本当に文学芸術に関する知識が豊富だ。正に俺の妻たる中身を有している。亜美は絵画の新境地を目指している。

 俺は長編漫画の構想を立てている。最初は単巻長編から入り、将来的には全六巻ぐらいの長編を何作かと、全三十巻ぐらいの大作を三作は描きたいと思っている。

 時間があると神我のお釈迦様や前世の分離霊と心の中で対話している。俺は仏典を深く読み込み、神我のお釈迦様の真偽を追究する。神我は俺が悟りを得るには神我そのものを消さないといけないと最初から言っていた。

『私は消えた方が良いか?』と神我のお釈迦様が訊く。

 ううん。

『私はまだブラフマンではない』

 はい。でも、俺自身がブラフマンの生まれ変わりなんですよね?

『そうだ』

 消えて戴けるなら、消えて戴きたいです。

 ・・・・。お釈迦様!・・・・。

『消えたな』とヘッセが言う。『こっちにも話しかけないで欲しいのか?』

 ううん。ヘッセ達の事は悟りの妨げになるとは仰っていなかった。

『我々はほとんど自分の体にはいないんだよ。あなたは我々が体に帰ってきた時に我々を意識するんだ』とヘッセが言う。

 ああ、それならいつもいると思って、緊張する必要はないんだね。

『何で自分の前世に緊張するんだ?あなたが考える事は我々の考えている事でもあるんだ』

 そうなんだ。

「正道さん、一寸この絵を観て!」と亜美が興奮した声で言う。

「はああ。メタリックな絵の具を配合したのか。これは観た事ない」

「そうでしょ?でも、直ぐにパクられるけどね」と亜美が笑顔で言う。「こっちも観て!」と亜美が両隣の絵を手で指して言う。

「三作一遍に描いてるの?」

「アイデアが幾つか浮かんだから、さあっと一遍に描き付けたの」と亜美が落ち着いた様子で言う。

「新境地だね。なかなか良いよ」

「そうでしょ?」と亜美が自信に満ちた眼で言う。

 俺は再び机の前の椅子に座って漫画を描く。

『亜美ちゃんの前世は俺の姉でもあったんだよ』とモーツァルトが言う。『俺はお姉ちゃんが好きだったんだ』

 有名な話だよね。

 ・・・・。何か気分を害したのか?モーツァルト?・・・・いないのか。落ち着きのない人だな。

 電話が鳴る。

「はい、もしもし、氏川ですが?」

『ああ、こちら、K社の担当の片桐です。氏川さんの『さよならを言わない男』が大賞を受賞して入選しました』と片桐さんが入選の報告をする。

 やっと十三作目のSF作品で入選だ!

 俺は片桐さんから授賞式の日程と時間を聴いて電話を切ると、「亜美!漫画が大賞を受賞して入選したよ!」と真っ先に妻に報告する。

「ええ!凄い!やったね!」と亜美は笑顔で祝福する。「今夜はお祝いしないとね。外食が良い?」

「亜美ちゃんの手作りのスペアリブとドリアが良い」

「ああ、それじゃあ、一寸腕を揮って作りましょうかね」と亜美が御機嫌な様子で言う。

「うん!これで念願の漫画家だよ!やったああ!」と俺は声を限りに喜びの声を上げる。

「良かったね。これで新婚旅行にも行けるね」と亜美が腕を組んでじっくりとした口調で言う。

「新婚旅行、何処の国が良い?」

「あたしはパリに行きたい」と亜美が言う。

「じゃあ、パリに行こう!」

『やったな!念願の入選だ!』とヘッセが大喜びして祝福する。『俺は自費出版でデビューしたから、変名で新人賞に投稿して入選したら、新人賞を取り下げになったんだよ』

 ああ、そうだったね。


『漫画家デビュー』

 漫画家になると、先ずは新婚旅行でパリに行く。旅行中は雑誌掲載してもらうための短編漫画を創作しながら、新婚旅行を楽しむ事にする。俺も亜美も子供が産まれたなら、もう二人だけの生活はない。

 シャルル・ド・ゴール空港に着くと、予約してあるホテルにタクシーで向かう。

 ホテルにチェック・インし、部屋に荷物を置くと、貴重品を身に付け、近くのレストランにフランス料理のランチを食べに行く。食事を済ませると、本屋に行き、フランスのバンド・デ・シネを大量に買い込み、郵便でダンボール一箱分の本を船便で日本に送る。ルーヴル美術館とエッフェル塔の見学は明日行く事にして、俺達はそれぞれの自由行動に出る。俺はフランスのプログレッシヴ・ロックのコンサートを観に行く。

 コンサートを観終え、夕方、ホテルの部屋に帰ると、亜美はまだ帰っていない。携帯電話で電話をすると、亜美はフランスの暗黒舞踏を観ている最中だ。暗黒舞踏は間もなく終わり、亜美がホテルの部屋に帰ってくる。

「夕食、何食べようか?」

「フランスのピザって、どんなのかな?」と亜美が言って、生唾を飲む。

「ああ!俺も興味ある!美食の国のピザだからね。食べに行こうか?」

「うん!行こう!」と亜美が嬉しそうに言う。

「漫画用に写真撮らないとね」

「あたし、相当に写真撮ったよ」と亜美が首にかけたカメラを掴んで言う。

「俺も相当撮った。後で亜美ちゃんの写真見せて」

「良いよ。正道さんのも見せてね」と亜美が俺の写真にも関心を示す。

「うん」

 俺達はレストランに入り、フランス風のピザを探す。ほとんどがイタリアン・ピッツァである。店員にフランス風のピザはないかと英語で訊くと、フランス風のピザはタルト・フランベである事を知り、それを注文する。ピザは日本のビザの方が独特なものが多い。

 俺は食事をしながら、「亜美ちゃんの漫画の新作はどんな作品?」と訊く。

「沼の中に住む妖怪達の話を描こうと思ってるの」と亜美が俺の反応を期待するような眼で言う。

「へええ。良い感じ!」

「そうでしょ!」と亜美がやっぱりと言わんばかりの自信満々の様子で言う。「正道さんの新作は?」

「俺の新作はまどろんでは夢を見るような主人公が夢の中で理想の女性と愛し合い、何度も理想の女性に会いたくて夢の中に帰っては理想の女性と愛し合う性夢の話で、最後は現実世界でその理想の女性と交差点で赤の他人として擦れ違うんだ」

「ええ!面白い!それ描くの?」と亜美が嫉妬する。

「うん。最近、俺、何か見たり聴いたりすると、直ぐに連想が働いて、一日に三本ぐらいのあらすじが出てくるようになったんだ」

「へええ!凄い!」と亜美が感心して言う。「あたしも神様にお祈りして、連想出来るようにお願いする」

「お祈りとかするんだね」

「うん」と亜美が当たり前のように言う。「正道さんはしないの?」

「願いイコールお祈りって繋がってなくて、ほとんどお祈りをした事がない」

「あたし、質問から何から全部神様にお祈りするよ。そうすると、暫くすると何か不意に判ったりするの」と亜美が俺の偏見を心配するような眼で言う。

「へええ」と俺は感心したようなふりをしながら、亜美の妄想だと疑っている。障害者の恋愛の悲しいところだ。亜美も俺と同じで病気なんだと思う。神我・・・・・。いいや。ううん。お釈迦様!

『何だ?』と神我のお釈迦様が再び表われる。

 あんたは本当に神我ですか?

『そうだ。私はアートマンだ』と神我が言う。

 あなたは光の球体ですか?

『私には身体がある』

 あなたは私の中にいるんですか?

『そうだ』と神我が言う。

 ・・・・本当に神我なのか。違ったら、どうする?騙されたまま死ぬ事になるぞ。ほぼ疑いはない。と言うより、私にこの声を非真の神我だと否定する能力はない。『私は一旦消えるが、大丈夫か?』と神我のお釈迦様が確認する。

 はい。・・・・消えたのか?お釈迦様!

 幻聴が騒いでいる。

 俺達は夕食を食べ終え、ホテルに帰る。

「正道さんの写真見せて」と亜美がソファーに座って言う。俺はその左隣に腰かけている。

「良いよ」と言って、デジタル・カメラを亜美に手渡す。

「亜美ちゃんの写真も見せて」

「はい!」と亜美が自分のデジタル・カメラを俺に手渡す。

 亜美の写真は路地裏や古いアパートメントの写真や猫や犬やフランス人の男女の写真が続く。自動車や煌びやかな都会の風景写真もある。

「全くの漫画用資料だね」

「正道さんのはアート・フォトね」と亜美ちゃんがデジタル・カメラの液晶画面を観ながら言う。「アート・コミックを描こうとするなら、こう言う芸術写真でも良い訳ね」

「うん。一緒にお風呂入ろうか?」

「ああ、うん」と亜美が照れ臭そうに返事をする。

 風呂から出ると、もう夜の九時だ。

「バーに行こうか?」

「危ないわよ」と亜美が不安そうな顔で反対する。

「俺が一緒にいるよ。行こう!」

「うん」と亜美が安心した顔で同意する。

 俺達はライヴをやっているバーに行く。店内に入ると楽器の音やフランス語の歌声が聴こえてくる。席は満席である。我々はワインを注文して、立ち見でライヴを観覧する。亜美が俺の耳元に口を近付け、大声で、「来て良かったね!」と言う。俺は無言で頷く。

 俺達はライヴが終わると、ほろ酔い気分でホテルの部屋に帰る。それからは新婚旅行らしく、ロマンティックな初夜を迎える。


『絵画を描き始める』

 新婚旅行から帰国すると、俺は漫画家として猛烈に仕事を続ける。亜美は絵画と漫画の制作を両立する。

 実は俺は帰国してから時々絵画を描いている。亜美にはまだ見せていない。

「亜美のお腹も大分大きくなってきたな」

「時々、赤ちゃんがあたしのお腹を蹴るの」と亜美が安らかな笑顔で言う。

「もうそんなにはっきりとしてるのか。どんな子が生まれてくるのかな。俺は別に障害のある子が生まれてきても大切に育てるよ」

「精神分裂病の向精神薬や睡眠薬で畸形児が産まれる心配は原初からないって主治医が言ってた」と亜美が俺の目の奥に語りかけるように言う。

「そうなんだ。俺はてっきり妊婦さんが向精神薬や睡眠薬を飲んでいたら、畸形児が産まれる可能性があるんだとばかり思ってた」

「その辺の心配はないから安心して」と亜美が俺の不安を労わる。

「本当は俺が亜美を妊娠の不安から守ってやらないといけないのにごめんな」

「あたし達は対等よ。二人共同じだけの力しかないの」と亜美が俺に強く言い聞かせるように言う。

「判ってるよ」と亜美の言わんとする事に共感する。「俺も絵画を始めようかな」

「良いんじゃない。漫画にも役に立つわよ」と亜美が笑顔で言う。

「B4ケント紙にボールペン画とマジックペン画と水彩画と色鉛筆画を何枚か描いたんだ。良かったら、観てくれないか」と俺は言い、亜美にニ〇枚の絵を手渡す。

 亜美は真剣な目でじっくりと俺の絵画を観る。

「別に漫画がアートじゃないって言っている訳じゃないけど、かなり良い線行ってるわよ」と亜美が言う。「二〇枚も何時描いたの?」と亜美が俺の絵を見返しながら訊く。

「ここ一週間ぐらいずっと描いてたんだよ。漫画家と画家って、決定的な画力の落差があるものと思ってたから、亜美には内緒で密かに描いてたんだ」

「油絵を描かせたら、どうなるんだろう・・・・」と亜美が画家としての確かな鑑識眼で俺の絵の可能性を考える。

「まだアクリルとか油絵の具で描く事はしないよ」

「画材は気に入ってるの?」と亜美が俺の絵を観ながら訊く。

「気に入ってるって言うか、何とか使いこなせたかなと思ってる」

「実際、正道さんの絵はよく描けてるわ」と亜美が誠意ある眼差しで言う。

「俺は飽く迄漫画家だから、漫画を描く傍ら気分転換で絵画を描こうと思ってるだけだよ」

「もう一寸縁起の良い絵を描くと良いんだけどね」と亜美が困ったような顔で言い、俺の絵を俺に手渡す。「縁起の悪い絵も売れるには売れるけれど、縁起の悪い絵を買う人って悪魔よ?」

「ああ、なるほど。縁起の悪い絵は俺の心の癒しなんだ」

「神聖な絵を描くと、もっと心が癒えるわよ」と亜美が俺の心の奥に訴えかけるように言う。

「ああ、なら、今度は神聖な絵を描いてみるよ」


『神道の教え』

 子供の頃から禅僧に憧れていた。仏典は亜美と一緒によく読んでいる。弟が何時の間にか神道系の新興宗教に入信していて、言葉の質が大きく変わっている事に気付く。俺は弟の聴きなれぬ古い日本語表現を心配し、その宗教に入信して、教祖の著作物を読み、弟が受けた教えの真偽を検討してやろうと思う。俺の心配はいらぬ世話であった。弟は既に神通力まで持っている。

 俺は早速、憑依霊の救済除霊である救霊を受ける。救霊の最中に幻聴がしんみりとした声で話している。霊が除霊されたら、突然途絶えるように幻聴が消えるのか。救霊師さんに霊を感じようとしてはいけないと注意された事を固く守り、目に見えぬ神様に合掌しながら、特別変わった事もなく、救霊の様子を見ている。神業保証人の弟が同席している。最早、子供の頃の呆気らかんとした頼りない弟ではない。弟は随分と勉強し、とても豊かな経験を積んでいる。救霊中、ずっと幻聴が聴こえている。その聴こえたままの幻聴が最後まで残り、救霊が終わる。救霊師が合掌してお辞儀をする。私も合掌してお辞儀をする。

「これで本日の救霊が終わりました」と救霊師の女性が言う。

「そうですか。幻聴がずっと聴こえていたんですが、それはどうなったんでしょう?」

「その幻聴は霊ではありません。御自分で作り出している声です」と救霊師が厳しい目付きで言う。

「でも、幻聴の声や言葉には自分の発言感がありません」

「発言感を得ようとされていますか?」と救霊師が訊く。

「いいえ、不安や恐怖で距離を置いたり、繋がりを絶ったりして、縮こまって聴いています」

「先生は見える聴こえるはダメだと仰います。幻聴は無視するようにしてください。そうすれば消えます」と救霊師が教祖のF先生の教えを伝える。

「無視すると、返事をするまで聴こえ続けます」

「それでも無視するんです」と救霊師が俺の眼の奥の意識に焦点を合わせるようにして言う。

「ああ、はい」

「今回は地獄界に落ちた先祖霊の一部が救霊されました。今回、一番喜んでいるのはその獄界先祖の霊の方々でしょう」と救霊師が笑顔で言う。

「そうですか。ありがとうございます」

 これで生活を切り詰めて作った五万円を奉納する訳か。てっきり長年苦しんだ幻聴が消えるのだとばかり思っていた。

「お兄ちゃん、先生の教えに幻聴を消す方法があるんだよ」と弟の清が言う。

「そうなの?」

「毎朝、朝日を観ながら、三十分ウォーキングをするんだよ。凝り固まった頭で考え事ばかりしてると幻聴が生じるらしいんだ。心と体のバランスが崩れて幻聴が生じるんだよ。幻聴なんて毎日ウォーキングしていれば、直ぐにバランスが回復して消えるようなものらしいよ」と清が落ち着いた口調で言う。

「ふううん。毎朝、三十分のウォーキングか。出来なくもない」

「うん。そうでしょう。それで実際に幻聴が消えた精神分裂病の会員さんがいるんだよ」と清が笑顔で言う。

「へええ。じゃあ、何とか時間作ってやってみるよ」

「今日、一緒にお昼御飯食べる約束してたけど、これから人に会うんだよ」と清が今日の自分の予定を言う。

「ああ、なら、昼食は一人で食べるからいいよ」

「それじゃ、またメール送るね」と清が心配そうな眼で言う。

「うん。じゃあね」

 早速、幻聴が聴こえてくる。また家に帰るまで幻聴の嵐に苦しむのだろうか。ああ、通りの向こうにイタリアン・レストランがある。あそこで昼食を取るか。長年、一人でレストランで食事をすると、幻聴と一緒に食事をしているような不安に苦しんできた。その異常な不安や恐怖による緊張感はどうあっても慣れるようなものではない。食事など安心して一人で食べたい。外出や外食の際には幻聴の御守りをする。何かを飲んだり、食べたりしていると、幻聴が飲み食いしている音が聴こえる。飲み食いの際に幻聴は音を立てる事で飲み食いを満足させているのだろう。『御自分が作り出している声です』か」

 イタリアン・レストランに入ると、店員が席に案内する。噴水のある中庭側の席に着くと、「御注文がお決まりでしたら、この呼び鈴でお呼びください」と店員が呼び鈴を指差して説明する。店員が去り、メニューを眺める。ピッツァが食べたい。じゃがいもとベーコンのピッツァが美味しそうだ。それにアイス・ミルク・ティーにしようか。早速、呼び鈴を鳴らす。

 店員が直ぐに来る。店員に注文すると、ポータブル・MD・プレイヤーにイヤフォンを嵌め、U2の『焔』を聴く。これで幻聴が騒いでも、音楽のオブラート越しに聴こえてくるから安心して食事が出来る。イヤフォンを嵌めて音楽を聴いていても、幻聴は聴こえてくる。

 幻聴の口調が忙しなくなったら、帰りは幻聴の嵐になる。執筆を予定していたなら、外出は控えねばならない時がある。なかなか締め切りに追われるような連載には入れない。幻聴がある裡は連載は無理だ。締め切りの期日が迫っても、体調を崩していたら描けない。責任ある身故にギリギリの精神力で行う連載は避けねばならない。長編連載は原稿が全て仕上がった時点で開始しよう。

 先の女の店員がピッツァとアイス・ミルク・ティーをテーブルに運んでくる。美味しそうなピッツァだ。早速ピッツァを食べる。

 俺もウィキペディアに名前が載る程の漫画家になるのか。これで歴史に名を残す一歩に踏み込んだ訳だ。今後は映画を一本撮るような気持ちで単巻長編を描いていきたい。ガロ系漫画に親しむと、単巻長編を好むようになる。単巻漫画は圧倒的に短編集が多い。少年誌に親しむような読者は短編集など先ず買わないだろう。何時か歴史モノや伝記漫画を描いてみたい。


 弟は元型などないと言い、幻聴は自作自演の頭の中の独り言だと言う。被害妄想に苦しみ、被害妄想が止まらないから幻聴になっているのだと言う。弟は精神分裂病の治療として、毎日太陽を見て、体を動かし、筋肉を鍛えて、幻聴を気にしない事が教祖の教えだと言う。幻聴を気にしないなんてとても出来ない。返事をするまで繰り返し同じ言葉が聴こえてきたり、意識を追い詰めて言葉を詰まらせ、呼吸や鼻息や咳払いの音に幻声を被せて、圧迫感を感じさせたり、とにかく日常的に関わってくる。弟は毎日三〇分ウォーキングをすれば幻聴は消えると言う。

 翌朝、試しにウォーキングを実践したら、五分や十分しか時間が経っていない。ウォーキングをして帰宅すると、俺の疲れと同じように幻聴が息を荒げて、言葉を発しない。まるで生きた者のように体との関係性が似ている。


『息子の誕生』

 遂に亜美が待望の赤ん坊を出産する。男の子である。男の子が産まれる事は事前に知っていた。俺達は自分達の息子を『陽平』と命名する。

「赤ちゃんって、小さいんだね」

「これでも産むのは物凄く痛かったのよ」と亜美が経験の言葉を語る。

「無事に産まれて良かったよ。亜美ちゃん、頑張ったね」

「赤ちゃんが産まれたら、あたしのお役目は終わりね」と亜美が役割りから解放されたように言う。「後はあたしと正道さんの二人で育てるのよ」 

「家の両親も子育ての助っ人には来てくれるよ」

「それは心強いわ」と亜美が笑顔で言う。

「産まれて良かった」

「息子が生まれたなら、双方の親も満足ね」と亜美が安心し切った笑顔で言う。

 亜美には唯お疲れ様と言う感謝の気持ちだけである。陽平はどんな子に育つのだろう。


『スピリチュアル・セックス』

 突然モノが疼いたり、意味もなく勃起する現象に意識が囚われる。本当に一人の時に起きる意味のない勃起は全て自分の体の働きなのか。じっくりと落ち着いて検証した事がない。モノが疼いたり、意味もなく勃起する時に自分が浮かべたのではない知人の顔が不意に眼前に浮かぶ。自分の好みではない不美人の顔が不意に思い浮かぶ事もある。

 夜毎九時近くになると、下半身に怪しい気配が伝わってくる。過去に私に自慰行為を経験させたオナペット達の記憶が蘇る。オナペットにした女性はどの人も俺の心の恋人のように大切な存在だ。

 嘗ての俺に夢中になった女性達の気持ちを想うと、彼女達に優しくしてあげられなかった事に罪悪感を感じる。自慰行為に愛という秩序を持たせようとしたら、愛の下に魂のグループが同居するような、霊的なコミュニティーが思い浮かぶ。俺は既婚者をオナペットにオナニーをすると罪悪感に苛まれる。そもそも自慰行為の世界は無秩序で出鱈目な愛の宇宙である。夫や妻という性の相手が存在する者達がオナペットには全然違う人を選ぶ。それがセックスとオナニーの違いだ。オナニーは肉の交わりではない。セックスより下層にある愛の宇宙だ。特定の男女に限られるセックスの愛の規模は極めて狭い。無秩序なオナニーは宇宙的な愛を育む。

 或日、一人で読書している時に意味もなく勃起すると、自分が女性にオナペットにされているのではないかと思う。そう思うと、高がオナニーに物凄く緊張する。自分の手淫の動作が女性の性器の中のピストン運動として機能するのだろう。俺はオナニーを時空の隔たりを超えたスピリチュアル・セックスなのだと解する。

 俺は自然勃起して漫画編集部の山川美知さんと言う二十代の編集の顔が浮かぶと、リアルなオナニーを試みる。山川さんには大人の奉仕的なセックスを経験させ、俺とのオナニーに夢中になるように仕向けたい。自分と相手の体温を感じさせるような十分な前戯を経て、モノのリアルな感触を感じさせるような扱き方をすると、口から山川さんの喘ぎ声が聴こえてくる。やっぱりオナニーはスピリチュアル・セックスなのだ。俺はオナニーを一日に一回しかしないタイプなのに、山川さんをオナペットにしたら、一日に三回もするようになる。俺はオナペットのコミュニティーに忠誠心を抱き始める。自分より年上の女性をオナペットに選ぶ事をサーヴィスと見做す。オナペットは自然勃起した時に或程度自然に決まる。俺は不美人の顔が不意に思い浮かぶ時には別のオナペットに替える事がある。そう言う時は単なる手淫となる。自慰行為の無秩序な愛の宇宙観にも、男女の気心が通じ合えば、そこには必ず清らな愛が生まれる。こんな事を公の場で語り始めたなら、悪魔的なコミュニティーだと批判されるだろう。これは別にカルト宗教の怪しい教えなどではない。

 性の乱れた世の中の恋愛遍歴や離婚問題にはそろそろ歯止めをかけねばならない。その時代的な解決策はこのスピリチュアル・セックスとしての自慰行為以外にない。

 この愛は生身の体と体が触れ合う訳ではない。現実と言うよりは寧ろ、最高に夢見心地な優しい感覚的な快楽だ。二人の間に交わされる愛の言葉は常に心の声で異空間を飛び交う。その言葉は絶妙にエロティックで、性愛的な愛情に満ちた温かい言葉ばかりだ。異空間で交わされた愛の行為の後には、その人の残り香が薄っすらと部屋に残る事もある。愛の行為の後には夫婦や恋人達が交わすようなロマンティックな会話が経験される。

 どんなに年を重ねていっても、長年のオナペットに対しては特別な愛情を抱く。恋愛関係にはならなかった相手でも、プラトニックな恋仲としては何時までも爽やかな気持ちでいられる。このような夢見心地な片思いの恋心だけで満足し、現実的な結婚に出遅れる男女もいる。彼らのような存在は神々が身を乗り出してまで恋愛に導きたい人達だろう。自慰行為による愛の宇宙はスピリチュアル・セックスにより、プラトニックな愛の夢見心地が際限無く高まりゆく。

 俺をオナペットに自慰行為してくれる女性達が無性に愛おしい。オナペット云々より、モノを使われる喜びを感じる。

 時々、自慰行為中に、まだ射精もしていないのにモノが萎える事がある。あれは女性がこちらにイカせるイメージをしているのだ。それが何とも腹立たしい。

 ベッドに腰かけていると、また自然勃起し始める。オナニーをしようかと思う瞬間にオナペットが性的な反応をするようなオナニー・タイムの関係が出来上がっているのか。相手の受け入れを確認するようにモノを膣内で静止させ、一度手の動きを止める。モノが膣内で締め付けられる気配があれば受け入れられている。向こうの膣の中で勃起状態が最大限に高まると、ゆっくりと手を動かす。相手は誰だろう。オナニーをスピリチュアル・セックスとして認識していない者は自分勝手に早くイク事ばかり思って、機械的な早い扱き方でさっさと射精する。こんな世界を女性が知っているのか。女体は見えない男性器を受け入れる仕組みになっている。なるほど。俺は女の秘密に触れてしまったのか。相手の頭の中にイメージで入り、相手の身体映像を見れば、相手が誰だか判る。異様に緊張する。とりあえずは普通に見えない者同士しよう。誰の姿も浮かべないで手でモノを擦っていると、オナペットの映像が見えてくる。何と初恋の小野英理子さんだ!こんな現実が本当にあるのか!確かに小野さんをオナペットにオナニーをした事は昔から数知れない。俺がする時に性的な反応をする程の親しい仲なのか!

 して良いですか?と言う私の遠方からの声を小野さんの耳の近くに送る。

『ええ、いや!』と小野さんの声が反応する。

 いつも俺でしてるの?

『ええ、エッチ!』

 女性が性器の感覚で捉えられるモノの扱き方の速さを考える。実際的なピストン運動以上の速さでモノを扱くと、向こうの穴の中で空回りしたような感じになるのではないか。女性器をリアルにイメージし、ゆっくりとモノを扱いたなら、女性の気持ちがセックスのリアリティーに近付き、膣内の感覚をこちらの性器の感触に近づけるだろう。

 気持ち良い?

『何か、おかしくなりそう』

 俺が優しい言葉を囁いて、小野さんが反応する言葉は小野さんの心の中では全て自分の空想や連想のように思うようだ。やはり、スピリチュアル・セックスの一般認識は単なる個人のオナニーと解すべきなのだろう。

 夏の或日、俺と亜美のアトリエを別々にするための引越しが決まる。新居は大田区の久が原で、第二京浜国道の直ぐ近くにある。

 引っ越してきたばかりのアパートメントの荷物整理を終えると、俺は窓辺に立ち、煙草を吹かす。俺が引っ越してきたアパートメントの二階の窓からは坂の途中にある向かいのコンドミニアムの三階の部屋の様子が見える。向かいのコンドミニアムの三階の窓辺で、黒い下着姿で煙草を吸っている白人女性がいる。その白人女性が私に笑顔で手を振る。彼女に部屋の中の喫煙の様子を見られないように、そうっと玄関の外の共用廊下に出る。すっかり彼女の下着姿が目に焼き付いている。ああいう性的な事柄に関して解放的な考えを持っているような女性は、スピリチュアル・セックスにおいても気軽な相手だ。俺は過去に白人女性と関係を持った事がない。マスターヴェイションの次元のセックスなどを経験などと表したら笑われるかもしれない。裸の感じも白人女性となると、外国版の『プレイボーイ』でしか見た事がない。普通の日本人女性と違って、異人種とのスピリチュアル・セックスは困難に感じる。同じ場に居合わせる見知らぬ女性のクリトリスをイメージで摘むような事はスピリチュアル・セックスを自覚的に経験した者にしか思い付かない。スピリチュアル・セックスの経験者が現実的な軟派男に転身するような際にはイメージでクリトリスを摘むような事を必ずするのだろう。イメージで女性のクリトリスを摘むような刺激は女性に性欲を感じさせる程度の刺激だ。

 世の性犯罪防止には自慰行為の自由が社会的な秩序を担っている。もしもスピリチュアル・セックスが一般的に知れ渡ったら、男女共にオナペットに拒絶される事を想って、自慰行為そのものに極度な緊張や不安を抱く事だろう。

 煙草を吸い終えた俺はカーテンを閉めた薄暗い部屋のソファーに腰かける。先程から意味もなく勃起している。向かいの窓の女のようだ。俺はあの女性を想って手淫に耽る。勃起した性器が萎える様子もない。どうやら俺は受け入れられたようだ。女性の体内にイメージで入り、白人女性と同じ方向を向いて、胸や股間などの身体映像を見る。不意にスピリチュアル・セックスを可能足らしめるのはアニマが女性側に飛んだ時だと判る。忙しない手の動きの感触が正確に自分の手にあるところを見ると、向こうのアニムスが既にこちらにいるようだ。白人女性と一体になった肉体感覚で、白人女性の喘ぎ声を自分の口許から聞く。こちらを早くイカせるような変な癖のある人だ。男は長時間ピストン運動を繰り返し、限界まで募ったところで一回イケば良い。それをあの女性は知らないのか。恐らくスピリチュアル・セックスよりフィジカル・セックスの方が現実的な人なのだろう。

 セックスが終わると全身が汗でびっしょ濡れになる。俺はソファーから立ち上がり、カーテンの隙間から女の様子を窺う。女が窓辺にいない事を確認すると、窓を閉め、冷房を点ける。

 冷房の効いた涼しい部屋の中でゆったりとソファーに座り、『ブルー・ヴェルヴェット』のDVDを観る。何度観ても独特な映像美だ。自分の中の悪趣味が肯定されるような気持ちになる。


 毎日、向かい窓の女性の生活を覗くのが楽しみになっている。向かいの窓の女性はカーテンも窓も閉めずに服を着替え、風呂上りの全裸姿で窓の前を横切る。全て明け透けな生活をしている女の部屋の中を堂々と見る事も出来ず、俺はいつもカーテンの隙間から覗き見ている。彼女を知ってから既に三ヶ月が経過している。季節は既に秋の半ばである。

 彼女の部屋には複数の男が出入りしている。日中の彼女はいつも部屋にいるようだ。夕方になると、向かいの窓の女は窓とカーテンを閉める。外出しているのかどうかは判らない。俺は逆に夕方になるとカーテンを開ける。

 冬の夜の九時過ぎに煙草を切らし、俺はポータブル・MD・プレイヤーで音楽を聴きながら、コンヴィニエンス・ストアーに煙草を買いに行く。音楽は尾崎のお気に入りの曲だけを入れたオリジナルのベスト盤だ。コンヴィニエンス・ストアーは車の行き交う第二京浜国道沿いにある。

 夜は楽しい。空には星が美しく煌めき、人気のない静かな夜の高級住宅地には誰の眼にも触れない開放感がある。まるで俺だけしかいない世界に生きているようだ。

 夜のコンヴィニエンス・ストアーの店員の心温まる存在感。俺は雑誌を立ち読みし、食料や飲み物を籠に入れてレジスターの前に立つ。可愛い女の店員の顔を彼女がこちらを向いていない時だけ穴の開く程舐め回すように見つめる。俺が心密かに恋をしているその店員の名は松野小百合さんと言う。彼女の名前は彼女の制服の名札を盗み見て知った。

 店を出ると、歩いてアパートメントへ戻る。部屋の中の平和な温もりをいつも幸せに思う。こんな寒い冬に住む家があるのは本当に有り難い事だ。書斎兼アトリエは俺が一番落ち着く場所だ。

 俺はソファーに座り、コンヴィニエンス・ストアーで働いている最中の松野さんをオナペットにスピリチュアル・セックスをする。松野さんの淫らな恰好を想像し、自分の口から聞こえてくる松谷さんの心の中の色っぽい喘ぎ声を聴く。俺はフィジカルなセックスの経験を活かし、ゆっくりとしたピストン運動で彼女の性欲を満足させる。瞑想的な官能を松野さんに経験させるため、彼女をスピリチュアル・セックスの愛人に選ぶ。男は長い時間をかけたセックスでただ一回の解放的な射精があれば、女性の官能的な喜びの声を聴いているだけで満足出来る。俺は人妻をオナペットにしない。三〇の時に初めて自分に加えた自慰行為の制限だ。

 正直なところ、欧米人のようなフリー・セックスに憧れる気持ちもある。フリー・セックスには良心の痛みを覚え、神仏の視線を感じるだろう。

 堂々と下着姿や裸を晒すような女性に対し、俺は一体何を遠慮しているのか。俺は思い切って日中から部屋のカーテンを開ける。煙草も堂々と部屋の窓際で吸う。

 向かいの窓の女性は俺が窓際で喫煙していると、また下着姿で手を振る。あの白人女性は本当に俺に下着姿や裸を見られる事が平気なのか。俺は向かいの窓の女性に笑顔で手を振り返す。彼女は俺に自分の部屋に来いと手招きする。俺は笑顔で結婚指輪を嵌めた手を見せる。正直なところ、妻がいなければ、異人種との恋愛にも挑戦してみたい。

 気晴らしにぶらりと本屋に行く。道行く女の子達のミニ・スカートから出る白く細い脚を見る。しゃぶり付きたくなる。女子高生など性の玩具に見える。

 冬の本屋は温かく、都会のオアシスのようだ。この幻聴地獄は何時止むのだろう。

 また夜にコンヴィニエンス・ストアに買い物に行く。また松野さんに会える。松野さんは俺の事を大切に想ってくれている。性的な対象として意識してくれるのが見た目に判る。

 嫌な事を我慢して行う必要はない。好きな事をとことんやるべきだ。俺は漫画の素晴らしさを感じて漫画家を目指した。俺は毎日、規則正しく漫画を描く生活を厳しく自分に果たしている。辛さを経験しても尚続けていられるのは漫画を描く事自体に嚙めば嚙む程味が出るような楽しさがあるからだ。漫画は歴史モノや大河ロマン作品を描く事が円熟期の大きな評価に繋がる。それだけに歴史は若い頃からコツコツと地道に研究を深めていかねばならない。

 スピリチュアル・セックスが文字通り霊とのセックスなのかもしれないと思うと、俺はオナペットの声を普通に想像し、自由にオナペットの裸を想像力で思い浮かべて、リアルなセックスをイメージする濃厚な自慰行為へと変わっていく。


『直美との出会い』

 単巻作品の単行本をコンスタントに出している。漫画で『北の国から』や『ふぞろいの林檎たち』のような長い傑作群像劇を描くのが夢だ。

 二〇〇二年、三十三歳の夏、暑い中、冷房の効いた部屋で漫画を描いていると、スマートフォンに電話がかかってくる。

「はい、もしもし、氏川ですが?」

『ああ、高校一年の時のクラスメイトで、同じマン研部員として漫画を描いていた川田と申しますが』と学生時代より弱冠声が低くなった川田さんが言う。

「ああ、何だ、川田さんか!どうしてますか?元気にしてますか?」と俺は舞い上がった調子で話す。

『お陰様で何とか元気にやってます。今や結婚して沢田敏子になりました。三人の子持ちの母です』と沢田さんが明るい声で話す。

「そうなんだ!漫画家にはなれたんですか?」

『大学時代も漫画家を目指したんですけど、就職して今の主人に出会って結婚してからは全く漫画を描かなくなりました。子育てに追われる裡に漫画家になる夢も遠くなりました』と沢田さんが平然とした態度で答える。

「よく俺の電話番号判りましたね」

『高校時代のマン研の後輩が氏川さんが漫画家になったって言ってたので、御実家に電話して、お母様から電話番号を御聞きしました』と沢田さんが申し訳なさそうに言う。

「高校時代のマン研の後輩って言うと、渋谷の映画館で偶然再会した宮城だな」

『そうです。宮城君です』と沢田さんが陽気な口調で言う。

「で、俺に何か用ですか?」

『あのう、私の母の妹の子の年の離れた従兄が漫画家を目指してるんです。二十三歳の女の子なんですけど、その子の漫画を見てやって欲しいんです。なかなか上手い漫画を描く子なんだけど、新人賞には立て続けに落ちてるんです』と沢田さんが成熟した落ち着いた口調で話す。

「俺なんて大した漫画家じゃないけれど、俺で良ければ、漫画観させて戴きます」

『ああ、じゃあ、住所教えてください』と沢田さんが昔に帰ったような打ち解けた口調で言う。

「ああ、はい。じゃあ、住所言いますよ」

『はい、どうぞ』

「大田区**一の五の二十二メゾン北川二○二号室です。白い壁に青い屋根のあるアパートメントです」

『白い壁に青い屋根ね。判りました。何時頃が御都合宜しいでしょうか?』と沢田さんがお母さん的なおばさん声で言う。

「今日か明日なら大丈夫です」

『ああ、それじゃあ、今日は日曜日で、彼女も仕事が休みだと思いますので、今日の昼過ぎにお願いしたいです』と沢田さんが昔ながらの優等生然とした手際の良さを示す。

「ああ、はい。大丈夫です」

『それでは今日の昼過ぎにお伺いさせて戴きます』と沢田さんが陽気に言う。

「はい」

『それでは失礼致します』と用件の済んだ沢田さんは言い、電話を切る。人妻の温もりある声の余韻が耳に残る。二十三歳の女の子か。美人かな。


 昼の一時頃、インターフォンが鳴る。俺は漫画の子だなと思い、「はあい!」と返事をし、玄関のドアーを開ける。ドアーの前に眼鏡をかけた長身で細身の若い女性が立っている。

「お初にお目にかかります。漫画を観て戴きに参りました松田直美と申します」と女性が自己紹介する。

「どうぞ、中にお入りください」とドアーを抑えて、直美さんを家の中に招く。直美さんは玄関に入る。

「どうぞ、上がってください」とドアーを閉めて言うと、直美さんは靴を脱ぎ、しゃがんで靴の向きを外向きに直す。

「あら、お客さん?」と亜美がアトリエから出てきて訊く。

「高校時代の漫研部員のクラスメイトの従兄の方で、松田直美さんって仰るんだけど、漫画家を目指していらして、俺に漫画を見せにいらしたんだよ」

「妻の亜美です。あたしも漫画描くんです。なかなか新人賞に入選しなくて、デビューがまだなんですけどね」と亜美が直美さんに自己紹介する。

「松田直美です。宜しくお願いします」と直美さんが亜美に挨拶をする。

「こちらこそ宜しくお願いします」と亜美が挨拶をする。

「何か飲み物とお菓子をお願いするよ」

「判った」と亜美が返事をする。

「どうぞ、中にお入りください」と書斎に直美さんを招く。「そこのソファーに御かけください」

「失礼します」と直美さんは言い、封筒から漫画の原稿を出して、「これがあたしの漫画の原稿です」と原稿を差出す。

 俺は直美さんの大量の原稿を受け取り、ソファーに腰掛けた直美さんの左隣に腰を下ろすと、「早速、拝見させて戴きます」と言って、原稿を読み始める。

「何にもありませんが、コーラとお菓子、良かったら、お召し上がりください」と亜美が俺の書斎に入ってきて、テーブルの上にコーラの入ったグラス二つと皿に持った御菓子を置いて言う。「それでは私は失礼します」と亜美は言って、部屋を出ていく。

「飲み物と御菓子を召し上がっていてください。その間に原稿を拝見させて戴くんで」

「ああ、はい。宜しくお願いします」と直美さんは言って、コーラのグラスを手に取り、「戴きまあす」と言って、コーラを飲む。なかなか素直で良い子だ。直美さんはミルクとオレンジが混ざったようなとても良い匂いがする。何だか初めて会うのにとても親しみを感じる。恐らく前世の縁者だろう。この子も我々の芸術家集団に加えたら、どうだろうか。

 直美さんの漫画は三十二枚の短編二作と六十枚に及ぶ大作である。

「直美さんは持ち込みの御経験は御ありですか?」

「ああ、はい。中学生の頃から持ち込みをしていまして、担当もいます。今は漫画家の佐藤美奈子先生のアシスタントをしています。三作目の長いのはまだ投稿していません」

「まだ内容は判りませんが、絵が最初からかなり御上手ですね」

「一様O芸大の漫画学科を卒業しました。漫画は小学校の頃から描いていて、中学時代、高校時代と漫研に所属していました。大学では漫画愛好会に所属して、同人誌に毎号四枚ぐらいの作品を投稿していました」と直美さんが落ち着いた口調で言う。「今回は同人誌の作品も持って参りました」

「ああ、なら、後で同人誌の方も見せてください」

「ああ、はい」と直美さんが青い分厚いビニール袋を胸に抱えて言う。

 短編の一作目は少女詩人が世界の有り様を詩的な言葉で綴り、大人になる事への不安を語る作品で、二作目の短編は同性愛者の少年の憧れの少年とのプラトニックな恋心を描写した作品で、三作目の未投稿の大作は世界とどう向き合って生きれば良いのかを模索する少し心の病んだ少年を描いた作品である。

「ううむ。どれも絵は上手いんですけど、どれも際立ったアイデアに欠けてますね。当たり前の事を当たり前に言える大人は現実的な面では一人前の大人として評価されますが、漫画家がそれだけで良いかと言うと、そこが一寸普通の人には求められない特別な資質を必要とされるんです」

 直美さんは黙って頷く。私も何とコメントすれば良いのかが具体的には判らない。

「でも、この六十枚の大作は少し作者の戸惑いがリアルに表現されていて、心の揺らぎがとても良く描けています。ただ見せ場見せ場のコマが小さいですね。全コマが見せゴマの連続になっているような玄人的な面はあります。その辺りはアシスタント経験から良い影響を受けているんだろうなと思います」

「際立ったアイデアがないと言うのは漫画家として致命的な才能の欠落なんですか?」と直美さんが不安げに訊く。

「ううむ。特殊な職業を漫画にするような事が一般的な際立ったアイデアなんですけど、面白い漫画は特殊な職業の話だけではありませんよね?」

「ええと、一寸動揺してしまいまして、御質問の意味が頭に入り難いんです」と直美さんが取り乱して言う。

「ガロ系の漫画にあるような作者独特な感性で描く漫画があるでしょ?」

「はい」と直美さんがはっきりと返事をする。

「ああ言う独特な個性があれば、面白い漫画が或程度描けるんです」

「ああ、あたしはそっちに行きたいんです」と直美さんが照れ臭そうに言う。

「うん。確かにそっちの色合いが濃いですよ」

「それではこちらの大学の漫画愛好会時代の同人誌を観て戴けますか?」と直美さんは言い、同人誌の束を俺に手渡す。俺は読んだ三作の原稿を直美さんに手渡し、「それでは同人誌を拝見させて戴きます」と言う。

 同人誌のページを捲り、直美さんの漫画を探していると、他の同人の絵もかなり上手い。普通の大学の漫画愛好会のレヴェルとは断然違う。

「この同人にプロになった人はいますか?」

「二十二人中六人がプロです」と直美さんが誇らしげな笑顔で言う。

「なるほど。それは良い同人誌ですね」

「はい」と直美さんが爽やかな笑顔で言う。眼鏡を外した顔が意外と可愛いのかもしれない。眼鏡をかけた顔も取り分けブスだとは思わない。

「ああ、よく出来たショートショートですね。壷を心得てる。これで良いんですよ」

「でも、短くて小粒ですよね?入選する作品にそう言う短い作品はありません」と直美さんが自分の能力を問う。

「今回の六十枚の大作の見せ場を大ゴマや見開きにすればかなり良いと思います。この手のショートショートはかなり上手いです。間違いなくプロになる人です」

「見せゴマを大ゴマや見開きにするんですか。なるほど。描き直してみます」と直美さんが要点を掴んで言う。

「うん。そうした方が良いでしょう」

「それでは漫画を観て戴いてありがとうございました。お邪魔しました」と言って、直美さんが同人誌を青いビニール袋に入れて言う。

「今回の大作は多分入選しますよ」

「そうですか。嬉しいです。それでは失礼します。ありがとうございました」と直美さんは言って、立ち上がり、俺の書斎を出て、玄関で靴を履く。「貴重な御意見、ありがとうございました。それでは失礼します」と直美さんは言って、ドアーを開けて外に出ると、頭を下げて、ドアーを閉める。

「お帰りになったの?」と亜美がアトリエのドアーの隙間から顔を出して訊く。

「うん。間違いなくプロになる子だよ」

「あたしも今回入選すれば良いな」と亜美が新人賞の入選に期待して言う。

「今回の『無重力LOVE』は入選するだろうな。毎回、アイデアには際立った個性があるんだけど、コマ割りに苦心が足りないんだ。機械的な統一感を持たせようとするから平面的になるんだよ。漫画のコマを映画のスクリーンみたいにしたいんだな」

「それを今回は止めたから、一寸期待してるの」と亜美は言って、アトリエのドアーを閉め、中に戻る。

 俺はアトリエで絵画を描く。内科の病院の待合室で観た歪んだ静物画を思い出す。その絵により写実的に描くばかりが絵画の良さではない事に気付かされた。エナジーの結晶化のような絵画もよく見かける。二十一世紀的な視点の喪失した細かく色んな物を描き込む絵ばかりが絵画でもない。神聖な絵と言うと、神仏が結跏趺坐を組んだ姿でチャクラを輝かせるような神像や仏画が多い。聖典の各場面を絵にするライフワークは評価が高い。神像や仏画には描き方の手本もある。二十一世紀のこの時代にはダリやギーガーの絵を模倣する画家も多い。何よりタルコフスキー的な感性が皆のものになっている。タルコフスキー映画が若い人に必見の映画になったのだろう。二〇世紀の映画事情を知る者には意外な傾向だ。

 水飛沫を細かく描いた滝の絵を仕上げ、亜美に見せに行く。

「亜美、絵を描いたから観に来てくれないか?」とアトリエの中にいる亜美にドアー越しに声をかける。

「ああ、観る!観る!」と亜美がアトリエから出てきて、俺のアトリエに来る。

「ああ、滝の絵ね。良いんじゃない」と亜美が誉める。「マジックペンやボールペンの点画シリーズも良かったわよ」

「古の原風景みたいな空想画を描くのが好きなんだ。古代遺跡の絵には写真の傑作が沢山あるから独自の視点を儲け難いんだけど、古の原風景を空想するのはかなり自由な領域だから、これからどんどん描きたいんだよね」

「あたしは結局、絵画は自分らしい絵を描いていれば、それで良いのかなって思うの」と亜美が滝の絵に魅入りながら言う。

「自分らしいって難しいね」

「直美さんって、家らの芸術家集団に入るのかな?」と亜美が俺の意見を訊く。

「俺も入れようかなって思ったんだけど、精神病院漫研や精神病院文芸部が基礎の集団だから、一寸毛色が違うかなあと思って誘わなかったんだ」

「健常者だもんね」と亜美が力なく言う。亜美は自分のアトリエに帰る。

 俺は漫画のネームに取りかかる。映画『フィールド・オブ・ドリームス』や『奇蹟の輝き』を想っても統合失調症モノを描く連想が働かず、映画『レナードの朝』や『十七歳のカルテ』を想う。それでもなかなかアイデアが降ってこない。不意に『霊界マンション』と言う最上階の天国から地下の地獄までのマンションの話を描こうと思い付く。

 どうやら自慰行為をスピリチュアル・セックスと称したのは全くの妄想だったようだ。女の子の声の幻聴がオナペットの喘ぎ声を発しているだけだった。

 

『亜美の漫画家デビュー』

 亜美に出版社から電話がかかってきて、亜美に代わる。

「えっ!ほんとですか!ありがとうございます!」と亜美が大喜びする。

 亜美はしばらく話し込み、電話を切ると、「正道さん、あたし、漫画新人賞に入選したよ」と大喜びして言う。

「おお!やっと入選したか!これで漸く漫画家だな。今日はお祝いに銀座のレストランで夕食を食べよう」

「ええ!一寸、こんな嬉しい事経験した事ないよ!」と亜美が大はしゃぎして言い、今度は突然泣き出す。

「俺も入選した時は嬉しかったな」

「あたし、落選する度に悔しかった!」と亜美が泣きながら言う。「ずっと何で自分の作品が落選するのか納得がいかなかったの」

「落選作が全部短編集に入ったら、怒りも消えるよ」

「漫画家への道は本当に険しかったわ」と亜美がハンカチーフで涙を拭きながら、しみじみと言う。「芸術家集団の皆も揃って入選すると良いね」

「皆に電話で報告しなよ」

「うん」と亜美は言い、早速由里ちゃんに電話し、次々とメンバーに報告する。


 夕食は銀座のイタリアン・レストランに入り、豪勢な夕食をする。「亜美は俺の漫画家デビューを羨ましく思ってたみたいだけど、俺はずっと亜美が幻聴が消えた事が羨ましいんだ」

「ああ、幻聴・・・・。そう言えば、正道さんはまだ幻聴から解放されていないんだよね。あたし、幻聴の事はとっくに忘れて生活してた」と亜美がお絞りを手で弄りながら、物静かに言う。

 ウェイトレスがドリアとピザ・マルゲリータとスパゲティ・アッラ・カルボナーラとベーコンとチーズと三つ葉のサラダを盛った皿四つをテーブルの中央に置き、小皿四つを俺と亜美と陽平の席の前に置く。

「漫画家デビューしても絵画を精力的に描くの?」

「描くわよ」と亜美が当然の事のように言う。「実はあたし、小説にも興味があるの」

「ああ、小説は全然違うフィールドだって編集が言ってた。俺も小説を書こうかなあって一時思って、編集に相談したら、そう言われたんだよ」

「ああ、やっぱり、小説には小説の修業が必要なのね。そうよね。早々甘くはないわよね」と亜美がしみじみと反省するように言う。

「亜美は夢とかって、どんな夢見る?夢の中で幻聴の声が聴こえる?」

「ああ、夢・・・・。憶えてないな。目覚めた時にワン・シーン記憶に残るか残らないかのノンストーリー的な夢が多いかな。何で?」と亜美が言って、訊き返す。

「いやあ、亜美も夢には幻聴が表われるのかなと思って」

「ああ、幻聴は夢の中でも聴こえない」と亜美がドリアを食べながら、陽平の小皿にドリアを置いて言う。陽平はスプーンで苦心してドリアを口に運ぼうとし、皿から零れたドリアを手掴みで口に入れる。

「美味しい?」と亜美が陽平に訊くと、「美味しい」と陽平が笑顔で答える。俺は陽平の顔を向かいの席から見つめる。俺は胸の前で手を組んで目を瞑り、陽平が精神分裂病になりませんようにと神様に祈る。

「何のお祈り?」と亜美が訊く。

「陽平が精神分裂病になりませんようにって祈ったんだ」

 そう俺から聴いた途端、亜美も胸の前で手を組んで祈る。

「俺達、親らしくなったな」

「そりゃそうだよ。赤ちゃんが実際目の前にいるんだもん」と亜美がサラダを自分と陽平の皿に盛りながら言う。俺はピザを一切れ皿に盛って、ナイフとフォークで食べる。

「後、何人子供産まれるのかな?」

「一杯産まれると良いね」と亜美が笑顔で言う。

「子沢山は養育費に苦労するよ」

「あたし達の収入なら、何とかなるわよ」と亜美が楽観的に言う。

「飯の量、野菜を切る量だって、子供が一人増えたら全然違うよ」

「子供が増えたら、確かに御飯の量も違うわね。でも、あたしは沢山子供が欲しいな」と亜美が笑顔で言う。

「陽平育てた苦労で、二人目からは応用が利いて楽だろうな」

「長男は初めての子だから、手をかけるけど、二人目三人目からは小慣れたものだって母がよく言ってた」と亜美が楽観的に構える。

 亜美がスパゲティ・アッラ・カルボナーラを自分の皿と陽平の皿に盛る。


 夜の池上線の千鳥町駅から陽平を負ぶった亜美と並んで歩く。

「陽平には何を習わせる?」

「水泳とか英会話が良いかなって思ってるの」と亜美が寝ている陽平を起こさないように声を抑えて言う。

「ああ、良いね。俺も水泳はスイミング・スクールで習ったよ」

「あたしね、習い事は続かなくとも、色んなちょい特技に自信が持てれば良いと思ってるの」と亜美が楽しげに言う。

「親のために習い事をしているような気分で通わされるのが一番可哀想だよな」

「それで一番辛い習い事がピアノやヴァイオリンみたいな音楽らしいわよ。ビアノを習わせても、子供が嫌がったら、直ぐに止めさせれば、絶対音感だけは身に付くらしいの」と亜美が確信を以て言う。

「俺も寝る時に毎日クラッシックのテイプを聴く英才教育で絶対音感が身に付いたんだよ。でも、電子オルガンの習い事とかは辛くて直ぐに止めた」

「そう言う昔習ってたって事で自信を持てる事が沢山あるのが重要なのよ」と亜美が笑顔で言う。

「俺も電子オルガンとの音楽繋がりで自分からエレクトリック・ギターを練習し始めたもんな」

「そうでしょ?絶対にそうなのよ。あたしも子供の頃に短い間ピアノを習ってたの。それで音楽は他の子達より得意だと思えたの」と亜美が確信を以て言う。「あたし、ピアノ教室辞めてからの方がよくピアノを弾いたわ。大学ではバンドもやって、自分で作詞作曲したオリジナル曲があったの。クラッシックの素養のあるシンガー・ソング・ライターとして相当に自信があったわ。ピアノ習ったのは三歳から僅か五歳までの二年よ?あたし、CDーRWで編集したオリジナルCDを持ってるの」

「へええ、今夜聴かせてよ。俺も学生時代のバンド活動のカセット・テイプを持ってるんだ。四トラックのMTRで録音したんだ」

「へええ!聴かせて!」と亜美が興味津々に言う。

「良いよ。一緒にオリジナル曲の聴かせっ子しよう」

「音楽一緒にやろっか?ル・クプルみたいで良くない?」と亜美が音楽活動を提案する。

「片手間なら、何とかやれるよ」

「あたしも片手間にしかやれない」と亜美が漫画家になる事を意識したのか、好奇心を抑制するように言う。

 アパートメントの階段を上り、ニ階の部屋に入ると、陽平をベッドに寝かせ、俺の書斎で亜美とオリジナルの音源を聴かせっ子する。先ずは亜美のピアノとキーボードの弾き語りの曲である。サウンドもメロディーもJポップ寄りだ。俺のは洋楽調のロックのイメージであったのが、今聴くとヴィジュアル系のハシりのように聴こえる。

「あたしの曲、多分、売れないわ」と亜美が自信喪失して言う。

「俺のも大した事ないな。やっぱり漫画家を目指して正解だったよ」

「あたしも。音楽って、意外と深いね」と亜美が反省するように言う。

「一緒にお風呂入ろうか」

「うん。久しぶりだね」と亜美が嬉しそうに言う。

 俺達は一緒に風呂に入り、お互いの体を洗い合うと、バスタブの湯の中でセックスをする。

なかなか面白い群像劇になりました。

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