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退院

漫画家を目指しながら、統合失調症が発症する主人公の群像劇。

「皆さん!お薬でえす!コップに水を汲んで、列に御並びくださあい!」と若い女性看護師が服薬の号令をかける。

 我々、精神病院漫研の部員は漫画道具を片付け、コップに水を汲んで、列に並ぶ。

 薬を飲むと、昼食の載ったトレイを受け取り、それぞれの席に座る。いつも亜美ちゃんが先に食べているのはどう言う訳だろう。

「何でいつも亜美ちゃんが先に席に座って食事を食べてるんだろう?」

「水を入れたコップを食堂のテーブルの上に用意してあるの」と亜美ちゃんが楽しげに言う。

「なるほど」

「今日は皆で一遍に氏川さんの漫画の世界を知ったわね」と亜美ちゃんが澄んだ目で言う。「あたし、氏川さんの漫画を一気に読むのに幻聴とか全くなかったの」

「ああ、それは良かったね」

「あたし達、癒しを与え合える仲になると良いね」と亜美ちゃんが笑顔で言う。

 今日の昼食はミート・スパゲッティーとアボガドと野菜サラダと野菜ジュースである。俺はミート・スパゲッティーを先ず平らげると、アボガドを食べ、野菜サラダを食べ、野菜ジュースを飲む。亜美ちゃんより後に食べ始め、食べ終えるのは俺の方が早い。本当は亜美ちゃんが食べている間に会話をした方が良いのだろう。俺は幻聴への不安でずっと会話をする心のゆとりがなく、食べ終えるとさっさとトレイを下げて、喫煙所に向かう。

 喫煙所にはタコミちゃんが先にいる。俺はまたタコミちゃんの白いパンティーを盗み見る。堪らん!

「タコミちゃん、有り難いものが見えてる」と俺はスカートを指差して言う。

「ええ、パンツ見えてる?早く言ってよ!」とタコミちゃんが明るい声で慌てふためく。タコミちゃんはスカートの先の膝頭にハンカチーフを被せる。

 俺は黙って何時までもタコミちゃんのパンティーを見ている訳にはいかなかった。その辺が俺の正直な面だ。そう言う正直な面が強くなったのも、精神分裂病になって、幻聴が聴こえ始めてからの事だ。心の中の事が他人に筒抜けになると言う妄想が根強くあるのだ。

 村野さんが喫煙所に来て、煙草を吸う。

「芸術家集団五人組の三人に入院した事言った方が良いかな?」

「入院初日に由里ちゃんに電話しておいたから、布居さんも三木谷さんも知ってると思うよ」と村野さんが言う。

「家には連絡来なかったな」

「氏川さんの家にも電話したけど、電話に出なかったよ」と村野さんが言う。

「買い物にでも行ってたのかなあ・・・・」

「もしかして、氏川さんって、遂に再発の入院?」と村野さんが探るように訊く。

「薬飲まずに通院もしなかったら、精神科の看護師達が家に来て」

「ああ、勿体ない。寛解がそれで十年遠退いたよ」と村野さんが心配げに言う。

「ええ、そうなんですか!」

「何年か正確な事は判らないけど、確実に寛解は遠退いたよ」と村野さんが生真面目な顔付きで言う。

「また苦しむのか・・・・」

 精神病院漫研のメンバーは食事が済むと、それぞれが道具を持ち寄り、一斉に漫画を描き始める。文学の方のメンバーは何の会も結成しない。文学のメンバーの方の事は村野さんに任せている。

 単独院内散歩をする。ヘルパーさんに病棟の扉の鍵を開けてもらい、病棟の外に出る。何故かこれが自由を勝ち取った事のように嬉しい。エレヴェイターに乗り、一階に降りると、本館の地下の売店に向かう。売店で亜美ちゃん用にカップの抹茶のアイス・クリームを買い、俺はチョコレイト・モナカを買う。漫画は病棟の本棚に患者が置いていった漫画を読めば良い。

 俺は病棟に戻ると、亜美ちゃんの病室を探し、女性病棟が続く方の廊下の一室に亜美ちゃんの姿を見かけ、「亜美ちゃん、抹茶のアイス買ってきたよ」と言って、亜美ちゃんにアイス・クリームを手渡す。

「ああ、ありがとう」

「俺はデイ・ルームでアイス食べてるから」と亜美ちゃんに言って、デイ・ルームに向かうと、ソファーに腰かけ、チョコレイト・モナカのアイス・クリームを食べる。後から亜美ちゃんが来て、俺の左隣に座ると、「戴きまあす」と亜美ちゃんが俺に言って、カップの抹茶のアイス・クリームを食べ始める。

「明日は同伴外出ね」と亜美ちゃんが言う。

「前回、六年前に入院した時は村野さんに同伴外出を頼んだんだよ」

「ああ、村野さんって、あの小説書く人か。今回は私よ。蒲田に漫画道具の足りない物を買いに行きたいの」と亜美ちゃんが爽やかな顔で言う。

「あのう、キッスして良いかな?」

「ええ!何で?何でじゃないか!はい!」と亜美ちゃんは慌てふためいて、目を閉じる。

 俺は亜美ちゃんの肩を抱き、亜美ちゃんに口付けする。何て柔らかい唇なのだろう。不意に真希ちゃんとのキッスを思い出し、突然悲しみが募る。亜美ちゃんとキッスをしながら、涙が溢れてくる。俺は亜美ちゃんの唇から唇を離し、ソファーから素早く立ち上がり、黙って足早にトイレに向かう。真希ちゃん!君の事が忘れられないよ!俺ももうそろそろ亜美ちゃんに馴れないといけないんだ。眼に見えない真希ちゃんの気配がいつも傍にある。トイレの個室に入り、蓋をした便器に座り、号泣する。

「真希ちゃん!逢いたいよ・・・・」

 こんなに真希ちゃんのいない悲しみに堪えていたのか。

『あたし、真希ちゃん、好き』と癒し系の女の子の元型が明るい声で言う。

 真希ちゃんらしき気配を体内に感じる。またアニマだろう。真希ちゃんの泣き声が口許に聴こえる。元型達も真希ちゃんに対する想いがあるのだろう。アニマを真希ちゃんのままにしていてはいけない。

『泣かないで!』と小野さんの声のアニマが背後から幻聴で言う。『あたしだって、真希ちゃんのいない生活は悲しいの。死んでさえいなければ、本当はあたし、ずっと真希ちゃんでいる筈だった』とアニマが口許で真希ちゃんの声で言う。

 もう亜美ちゃんの方に帰らないと。

『あたし、亜美ちゃんも好き』と癒し系の女の子の元型が苦しそうに幻聴で言う。

 俺はトイレの個室を出て、デイ・ルームに戻る。亜美ちゃんがソファーの先程と同じ位置に座っている。

「どうしたの?」と亜美ちゃんが悲しそうな眼で訊く。

「何か涙が溢れてきて、みっともないからトイレに入った」

「そうなんだ」と亜美ちゃんが笑顔で言う。

 ごめんね、亜美ちゃん。

「それじゃあ、また精神病院漫研始めますか!半沢さんはもう漫画描いてるのか。タコミちゃんは喫煙所で煙草を吸ってるな」

「精神病院漫研のメンバーが全員デビュー出来れば良いね」と亜美ちゃんが明るい笑顔で言う。

「何としても全員デビューしてもらいたいね。今回は何ヶ月で退院かな。薬止めると病気が再発して、寛解が遠退くって村野さんが言ってた」

「じゃあ、あたし、薬は欠かさず飲み続けるわ」と亜美ちゃんが不安げな顔で言う。

「でも、再発って言う程苦しい暮らしをしていた訳じゃないんだよ。薬止めると不思議な世界を経験して、がらりと変わった現実感の中で不安や恐怖から意識が解放されるんだよ。入院となってまた苦しみの世界に引き戻される面もあるんだけどね」

「苦しみって、精神病だけの病気の症状かな?」と亜美ちゃんが呟く。

 俺は何だか考え込んでしまい、答えられない。

「風邪の咳や発熱、アトピー皮膚炎の痒み、喘息の息苦しさ、病気は何でも苦しいか」と亜美ちゃんが慎重に言う。「糖尿病とかは痛くも痒くもないって、よく言うわよね」

「糖分やカロリー制限しないと、壊疽になって、脚をちょん切るような事にはなるよ」

「でも、何でこんな辛い病気になったんだろう」と亜美ちゃんが潤んだ眼で言う。「あたし、死んだら、静かなあの世に逝きたいな。あたし、幻聴と一緒にあの世に逝くんだろうか?死んでも、幻聴って聴こえるのかな?」

「そう言うの俺もよく考えるよ。じっくり物事を考える心のゆとりが片時もないんだよ」

「あたし達、助け合って生きていこうね」と亜美ちゃんが笑顔で言う。

「うん」

 力強い恋人だ。亜美ちゃんの事は俺が守ってあげなければいけないのに、亜美ちゃんの方から愛が来る。精神分裂病の闘病生活には絶対恋人がいた方が良い。

 俺は漫画道具一式を病室から持ってきて、食堂の先と同じテーブル席に腰を下ろす。

「半沢さんのネーム、何のジャンル?」

「またアート・コミックですけど、少し人間ドラマを取り入れてます。氏川さんの三作目の人間ドラマが意外と良かったので」と半沢さんが原稿から顔を上げずに言う。

「あれ、何で良いんだろう?」

「何て言うべきかな、体温のある作品だからかな」と半沢さんが慎重に言葉を選んで言う。

 タコミちゃんが漫画道具を持たずに精神病院漫研の様子を見にくる。

「芸術家の漫画は一番デビューに近いね」とタコミちゃんが落ち着いた声で半沢さんに言う。タコミちゃんは半沢さんの事を芸術家と呼ぶ。

「タコミちゃんの漫画も良いんだけどね」と半沢さんが心の籠もった口調で言う。

「あたしは自分の漫画が一番好きよ」とタコミちゃんが張りのある声で言う。

「俺も自分の漫画が一番好きかな」と半沢さんもタコミちゃんの発言に共感する。

「皆で漫画描くと楽しいね」

 亜美ちゃんが俺の向かいの席に漫画道具を置いて座る。

「あたしも道具持ってきて漫画描くか!」とタコミちゃんは言って、病室に引き返す。

 詩人の武田さんと小説を描く赤いドレッドロックスの髪の坂本さんが精神病院漫研の様子を見にくる。

「半沢君の漫画はアートですね」と武田さんがテーブルから距離を保って言う。

「半沢君も氏川さんもプロになるわね、多分」と坂本さんが明るい声で言う。

「武田さんも坂本さんも精神病院文芸部でも結成したら?」

「そうする?」と坂本さんが武田さんと顔を見合わせて訊く。

「じゃあ、病室からワード・プロセッサー持ってきて、俺も詩を書くかな」と武田さんが言い、病室に向かう。

「あたしもここで小説書こうっと」と坂本さんが調子良く言い、病室に向かう。

 村野さんが精神病院漫研の様子を見にくる。

「武田さんと坂本さんも精神病院文芸部を結成して、ここで詩や小説を書くみたいですよ」

「ああ、精神病院文芸部!良いねえ!俺も道具持ってきて小説書くか」と村野さんが大喜びして言い、病室に向かう。

 君白さんがデイ・ルームの冷蔵庫からコーラを出して飲んでいる。

「君白さん!武田さんと坂本さんと村野さんが精神病院文芸部を結成して、ここで精神病院漫研部員と一緒に詩や小説を書きますよ!君白さんも書けば?」

「ああ、楽しそうですね。じゃあ、あたしもそこで詩を書きます」と君白さんは言い、缶コーラを手に病室に向かう。

「半沢さんは精神分裂病モノの漫画って描く予定ある?」

「ううん。結構それ大変じゃありませんか?」と半沢さんが不安そうに言う。

「頑張れば力作にはなります。俺は描きます」

「ああ、俺も予定に入れとこうかな」と半沢さんが考え込むように言う。

 たこみちゃんが精神病院漫研の席に着く。

「あたしも精神分裂病モノの漫画は描くわよ」とタコミちゃんが穏やかな顔で言う。

「やっぱり、皆、精神分裂病モノって描くんだ。あたし、どうしようかな。あたし、トラウマの領域に入っていくような力はないし」と亜美ちゃんが弱気な発言をする。「あたしも氏川さんみたいに大学ノートじゃなくて、プリント紙にネーム描こうかな」

「亜美ちゃんの描き良いように描けば良いよ」

「あたしもネーム用の紙がいるのよね。とりあえずは売店で大学ノート買いにいってくるね」と亜美ちゃんが席から立ち上がって言う。

 俺も一緒に行こうかと亜美ちゃんに言おうとして、幻聴が騒いで精神状態が乱れる事を恐れ、言わずに済ます。俺の愛はそれ程のものなのか。

「亜美ちゃん!一緒に行こうか?」と俺は亜美ちゃんへの愛を示す。

「ううん。いいの。一人で行けるから」と亜美ちゃんが落ち着いた顔で言う。

 本当のところ、亜美ちゃんが一人で行くと言ってくれて、ほっとしている。

「何か二人だけラヴラヴね」とタコミちゃんがニヤニヤしながら言う。

「良いんじゃないですか。精神科の病棟でカップルが出来るのは良い事ですよ」と半沢さんが嬉しそうに言う。

「俺達の事、気になるの?」

「だってねえ?あからさまに恋人同士でね?」とタコミちゃんが半沢さんにひっそりとした口調で言う。

 坂本さんと武田さんと村野さんと君白さんが次々に我々精神病院漫研の隣のテーブル席に座る。武田さんだけワード・プロセッサーを用い、坂本さんと村野さんと君白さんは大学ノートに小説や詩を書くようだ。

「君白さんの詩、読ませてくださいよ」と半沢さんが左隣に座った君白さんに言う。そう言えば、この二人もカップルなのだ。

「じゃあ、あたしの詩見せるから半沢君の漫画も見せて」と君白さんが落ち着いた様子で言う。

「じゃあ、俺の漫画持ってくるよ」と半沢さんは言って、席を立つ。

 村野さんがタミコちゃんの漫画を右隣の席から見ている。

「何か何本も線を重ねて背景や人物を描くんだね」と村野さんがタコミちゃんに言う。

「一生懸命描こうとすると、どうしてもこうなるんです」とタコミちゃんが笑顔で答える。

 村野さんはタコミちゃんの好みに合うのかな。

「そう言う描写って、小説で言うところの細密描写かな?」と村野さんがタコミちゃんに訊く。

「どうかな。違うんじゃないかな」とタコミちゃんが不機嫌な顔付きで言う。「あたしの漫画の線は存在感の表現ですからね」とタコミちゃんが優しく言う。

 タコミちゃんの感情表現の変化は見ていて疲れる。それだけ人間関係に一生懸命なんだろうけど、あんなに態度ががらりと変わる気分には受けての心が振り回される。我々精神病者の心は何処か相手への気持ちが擦れ違っている。村野さんの右隣に坂本さんが座り、坂本さんの前に武田さんが座り、村野さんの前には君白さんが座っている。精神病院漫研の座席のように男子の列と女子の列が整頓されていない。

「これが俺の漫画!」と半沢さんが漫画の原稿を持ってきて、君白さんに差し出す。

「ああ、ありがとう。じゃあ、あたしも詩集のノート持ってくるわね」と君白さんが言って、席を立つ。君白さんは本当にマイ・ペイスの子だ。半沢さんが漫画を取りに行っている間に君白さんも自分の詩の原稿を取りにいけば良かったのだ。

「君白さんはマイ・ペイスだね」と半沢さんに言う。

「ああ、そうですかね。少し動作や反応が緩慢ですよね」と半沢さんが落ち着いた笑顔で言う。やはり、半沢さんにも恋人に対する特別な想いはあるのだな。

「君白さんって、何の病気?」

「何か細かいって言うか、小さい病名ですよ。何とか性人格障害みたいな。何か今一つはっきりと統合失調症って診断出来ない人が何々性人格障害って診断されるらしいです」と半沢さんが言う。

「そこ俺の席だから退いて、とか、話しかけて最悪な反応するような人達って、何て言う病気だろう?」

「ああ、それは知的障害を併せ持つ人達だよ」と村野さんが言う。

「ああ、彼らか。苦手なんだよな」

 俺はタコミちゃんの事を村野さんに眼で合図する。

「微妙だよね」と村野さんが声のトーンを落して言う。

「タコミちゃんは知的障害あるの?」

「赤ん坊の時に高熱を出しまして、少し知恵が遅れたんです」とタコミちゃんがセリフを言うような棒読み口調で言う。

 君白さんがノートを持ってきて、席に着くと、「これ、あたしの詩」と半沢さんにノートを差し出して言う。

「ああ、じゃあ、じっくり読ませてね」と半沢さんが言う。

「布居さんとかはどうかな?」とそれとなく村野さんに訊く。

「ああ、どうかな」と村野さんが宙に視線を彷徨わせて言う。

「君白さんは知的障害あるんですよね?」と半沢さんが君白さんに確認する。

「ああ、はい。学校は親の意思で普通の学校を卒業したんだけど、一寸、って言うか、かなり、読み書きとか計算とかが難しくて、勉強が遅れたの」と君白さんがのんびりとした口調で打ち明ける。

「やっぱり、精神って、知的に対する差別意識あるよね」

「そうなのかな。恥ずかしい事だよ」と村野さんが困ったように言う。

「差別はいけませんよ」とタコミちゃんが俺と村野さんの眼を交互に見つめて言う。

「反省します」

「反省します」と村野さんも言う。

「良し、良し」とタコミちゃんが笑顔で言う。

「武田さんって、どう言う女性が好みですか?」と坂本さんが武田さんに訊く。

 坂本さんは武田さんに気があるのか。

「割と古風な大人しい人が好きかな」と武田さんが真顔で答える。

「こう言う赤い髪した女とかダメですか?」と坂本さんが自分の事を武田さんに訊く。

「お洒落で良いんじゃないですか」と武田さんが重苦しい声で返事をする。

 鬱病の武田さんにロマンスは無理だろう。顔だけ見てるとトライしたくなる女性もいるのかな。

「でも、今の私はとても恋愛が出来るような精神状態にはありません」と武田さんが悩み深げな顔で言う。

「あたしが助けてもダメですか?」と坂本さんがストレイトにアプローチする。

「付き合うのは良いですけど、愛とか足りないと思いますよ」と武田さんが美しい影のある眼差しで言う。

「それはお互い様ですよ」と坂本さんが武田さんに言う。

「そうですね」と武田さんが気を取り直して言う。

「あたしと付き合ってください」と坂本さんが告白する。

「ああ、じゃあ、宜しくお願いします」と武田さんが改まった真面目な口調で言う。

「こちらこそ宜しくお願いします」と坂本さんが明るい顔で言う。

 もう恋人のいないのはタコミちゃんと村野さんだけだ。

 亜美ちゃんが売店からノートを買って帰ってくる。

「君白さんと半沢さんが付き合う事になって、武田さんと坂本さんが付き合う事になったよ」

「へええ、そうなんだ。良かったね」と亜美ちゃんが明るい口調で言う。

「あたしは村野さんがパンクの魅力を知ろうと努力するなら付き合っても良いよ」とタコミちゃんが女らしい態度で言う。

「パンクって、元々ノイって言うプログレのバンドが作り出したサウンドなんだよ」と村野さんが幅広いロックの知識を披露する。

「村野さんの世代って、パンク?」とタコミちゃんが目上の人への敬意を表わしたような優しい口調で訊く。

「まあ、そうだよ。ピストルズとかクラッシュとかダムドは普通に聴いたよ。ニューヨーク・パンクも一通り聴いた」と村野さんが懐かしそうに言う。「俺は結局、プログレの方に向かったけどね」

「プログレって、何?」とタコミちゃんが村野さんに自分の全然知らないジャンルのロックの質問をする。

 俺はその遣り取りが面白くて、黙って聴いている。

「ロックの王道だとよく言われるんだけど、日本人が特に好きなロックの一ジャンルだよ。プログレッシヴ・ロックの略称なんだ」と村野さんが聴く耳を持つタコミちゃんに熱心に語る。「幅広く音楽を楽しむような人達の中に時々プログレに懲り始める人間がいるんだよ。何でも聴く人にプログレのファンが多いよ。グラム・ロックやダーク・パンクなんかも確かに良いよね」

「ダーク・パンクって、何?」とタコミちゃんが唖然とした顔で村野さんに訊く。

「暗い悪魔的なパンクだよ」と村野さんが的確に答える。

「へええ、そんなのあるんだ!」とタコミちゃんが突然世界が開けたような喜びを以て言う。「じゃあ、村野さん的にはパンクの事判ってんだ?」

「まあね。パンクの精神までは共感するものがないかもしれないけれど、音楽的にはパンクの持ち味を理解しているつもりだよ」

「持ち味って言うのかな、あたしにとってパンクは全てだよ」とタコミちゃんが自信に満ちた態度で言う。

 俺はそれが或意味物凄く羨ましく感じられる。恐らく村野さんの胸にもタコミちゃんの言葉が響いた筈だ。

「タコミちゃんは深いよ。俺にはそれ程深く音楽から影響を受けた経験がないよ。結局さ、知識欲や蒐集癖としてCDを買って聴いてるんだよね」と村野さんが真面目に言う。

「あたしは自分って言ったら、パンクな訳よ」とタコミちゃんが言う。「って言うか、あたし、漫画描かないと!」

 結局、タコミちゃんと村野さんは付き合わないようだ。確かに人間が違い過ぎる。俺にとって魅力が感じられたのは村野さんではなく、タコミちゃんの方だ。知的障害者の言葉の確かさを痛感する思いがした。

「タコミちゃんはパンク・バンドやらないの?」と坂本さんが訊く。

「あたしがやりたいのはパンク・バンドじゃなくて、漫画なのよ」とタコミちゃんが答える。

 これもまた簡潔な答え方だ。そこにきて俺とタコミちゃんが同類である事が判る。

「あんた、絵上手いね。流石は美大出ね」とタコミちゃんが亜美ちゃんのネームを見て誉める。

「あたしもじっくりパンク聴いてみたい」と亜美ちゃんが言う。

「あんたは絶対パンクじゃないと思うわよ」

「ええ!あたしだけ仲間外れ?」と亜美ちゃんが愛想良く言う。

「時々、あんたみたいなお人形さんタイプがモヒカンにしたりすんのよ。そう言うのって、ロンドンでは観光客を相手にしたモデルさんなのよ」とタコミちゃんが言う。

「ええ!酷い!あたしにも中身ってあるよ?」と亜美ちゃんがタコミちゃんに喰らい付くように言う。

「あんた、ロックじゃないでしょ?」とタコミちゃんが亜美ちゃんを見下したように言う。

「ええ!ロックも沢山聴いたよ!」と亜美ちゃんがムキになって言う。

「どんなロックよ?」とタコミちゃんが追究する。

「ジャパンとか、PiLとか、バウハウスとか、ザ・キュアーとか、まあ、ニュー・ウェイヴかな」と亜美ちゃんが答える。

「そう言うの聴いてどんな事学んだの?」とタコミちゃんが可愛い物に触れるように優しく訊く。

「皆、お洒落で可愛くて楽しかった」と亜美ちゃんが簡潔に答える。

「それで自分の考えとか生き方が決まったの?」とタコミちゃんがからかうように訊く。

「アートに生きようと思った。二浪して美大に進学した」と亜美ちゃんが真剣な顔で言う。

「そうか。それは凄い事よね」とタコミちゃんが美大を出たと言う亜美ちゃんを別格視する。

 女性の言葉がこれ程簡潔に思われたのは初めてだ。言葉は至って簡単だが、『皆、お洒落で可愛くて楽しかった』と言う亜美ちゃんの言葉には強い感動を覚える。皆が楽しくアートに生きられるように時代を盛り上げた歴史的なムーヴメントに対して亜美ちゃんなりに表現したのだ。

 俺は夜の地方都市の場末のバーを描く。そこにハーレイに乗った四人組みの男達がやってきて、バーの前にモータサイクルを停め、バーの中に入ってくる。男達はバーの中を見回し、奥の暗がりのテーブル席を陣取る。ウェイトレスが注文を取りにくると、リーダー格の男が四人分のビールとホット・ドッグとタコスを注文する。他の三人は嘗め回すようにウェイトレスの体を眺めている。

「ヘッド!俺はこんな人が好みだな」の小柄の男が恥ずかしそうに言う。「何て可愛らしいお嬢さんだろう!」

 ウェイトレスが小柄の男ににっこりと笑顔を見せる。

「ヘッド!見たかい?この子が俺に天使の微笑みを見せたんだぜ!」と小柄の男が上機嫌で言う。

 注文を取ったウェイトレスは男達のテーブル席から離れる。店内にはジュークボックスからアメリカの六〇年代の音楽が流れている。

 半沢さんの方の漫画のネームを覗くと、温室の薔薇園の中の老人を描いている。亜美ちゃんの方のネームを見ると、ステイジ上のオペラ歌手を描いている。オペラ歌手は大柄な女性である。亜美ちゃんはオペラ歌手に当たるスポットライトの光線の加減を細かく描いている。

「どんな話にするの?」

「このオペラ歌手の家族の様子を描こうかなって思ってるの。一寸けばけばしい化粧をした金持ちの白人の一家みたいにね」と亜美ちゃんが俺のネームを覗きながら言う。

「ああ、カルトっぽい!」

「そうでしょう?」と亜美ちゃんが興奮したように眼を見開いて言う。

「ディフォルメが上手いね。アートだよ。ドナルド・サザーランドの『カサノバ』辺りを思い出すよ」

「そう!そう!その辺りよ!」と亜美ちゃんが嬉しそうに言う。

「半沢さんとも違うアート・コミックだね」

「半沢さんのはシュールレアリズムでしょ?」と亜美ちゃんが半沢さんに確認する。

「まあ、主にそう」と半沢さんが不服そうに言う。「漫画ですからシュールレアリズムもまだまだ新しいと思うんですよ」

「そうかなあ」と亜美ちゃんが正直に意見する。

「古いから入選しないのかなあ・・・・」と半沢さんの心が揺らぐ。

「シュールは絵画の方ではとっくに古いのよ」と亜美ちゃんが厳しい眼付きで言う。「あたしも絵画の方ではシュールもやるけど、特別な価値ある絵を描いているつもりはないの」

「もっと新しい芸術を模索しないとなあ」と半沢さんが考え込むように言う。

「明日、亜美ちゃんと同伴外出する事を看護師に言ってくるよ」

「あたしも一緒に行く!」と亜美ちゃんが喜んで言う。

「同伴外出は何処に行くの?」と坂本さんが亜美ちゃんに訊く。

「蒲田の画材屋に行こうと思ってるの」と亜美ちゃんが邪魔者を見るような警戒した眼で答える。

「あたし達も外出しませんか?」と坂本さんが武田さんに明るい顔で訊く。

「良いですね。近くに良い古本屋があるんですよ」と武田さんが坂本さんに言う。

「ああ、昔、氏川さんと一緒に行ったね」と村野さんが言う。

「ああ、行きましたね」

「帰りにお気に入りの喫茶店に氏川さんを連れていこうとしたら、氏川さんが体調不良で行けなくてね」と村野さんが懐かしそうに言う。

「ああ、そう言う事もありましたね。確か学生時代の友達に偶然に遇ったんです」

 俺は勤務室に亜美ちゃんと入り、「明日、高田さんと同伴院外外出をしたいんですが」と若い女性看護師に言う。

「ああ、じゃあ、明日、そこのノートに同伴者の名前と行き先を書いてください」と若い看護師が言う。

「判りました。明日で良いんですね」

 漫画のネームを描いて疲れると、病室に戻り、ベッドで仮眠を取る。


 辺り一面何にもないような赤い土の荒野に立ち、夕空を見上げる。何処かに座りたいのだが、白いズボンを穿いていて、土の上に座る訳にいかない。ポケットからハンカチーフを出し、地面に敷くと、突風が吹いて、ハンカチーフが飛んでいく。俺はそのハンカチーフを追いかけ、漸く足で踏み付け、ハンカチーフを捉えると、ハンカチーフがすっかり汚れてしまう。非常に残念に思っていると、夕焼けの赤い陽が病室に射し込んでいる。

 よく寝たな。

『よく寝た』と男の子の元型が言う。その幻聴の子はのんびりとした子で、忙しなく話しかける事がない。俺は夢の中のハンカチーフの事をアニマの小野さんが話すかもしれない事に不安な気持ちでいる。幻聴に夢と現実の橋渡しのような事を話される事に警戒しているのだ。

「ハンカチ」とアニマが小野さんの声で唐突に言う。

 たちまち俺の不安が募る。幻聴達は俺の方に注意を向ける。デイ・ルームの喫煙所に行くと、村野さんが一人で壁際の角の席で煙草を吸っている。俺は冷蔵庫から缶コーラを出し、喉の渇きを癒す。コーラの炭酸が口の中を刺激し、もやもやとした口の中がさっぱりとする。俺は缶コーラを持って村野さんの向かいの席に座り、煙草に火を点ける。食堂の方を振り返ると、精神病院漫研も精神病院文芸部も活動を終え、テーブルには誰も座っていない。

「皆さん、お薬でえす!コップにお水を入れて列に御並びください!」と若い女性看護師が言う。若い女性看護師には美人が多い。病室に美人看護師が現われると目を奪われる。恋人はいても、美人を鑑賞せずに遣り過ごす事は出来ない。看護師を恋人にする可能性もないとは言い切れない。たまたま病棟患者と恋愛をする関係で美人看護師とは大した関わり合いがないだけで、本来なら若い女性看護師と上手く遣り取りをして恋愛を実現させるのだろうと思う。病棟内患者の中には職員とばかり話している患者も多い。男も女も看護師達はちょくちょく俺に話しかけて、漫画を誉める。

 俺はコップに水を入れて、薬の列に並び、薬を飲むと、夕食のトレイを受け取り、自分の席に着く。向かいには亜美ちゃんが既に座って、夕食を食べている。

「昼寝してたら、精神病院漫研も精神病院文芸部もテーブルからいなくなってたよ」と俺が亜美ちゃんに話しかける。

「氏川さんがいなくなってからも、暫く皆創作してたわよ」と亜美ちゃんがミート・ボールを食べながら言う。

 今夜の夕食はミート・ボールとフライド・ポテトと野菜炒めと白米と豆腐と若布の味噌汁とバナナと桃とマスカットのミックス・ジュースだ。

「亜美ちゃんがいつも先に食べてるけど、食べ終わるのが先なのはいつも俺だね」

「あたし、食べるの遅いの。小学生の時の給食なんて昼休み一杯一杯まで時間がかかったの」と亜美ちゃんが笑顔で言う。その笑顔に小学生の頃の亜美ちゃんの顔が映る。

「何か今、亜美ちゃんの小学生の時の顔が見えたよ」

「ええ!あたしが今思い描いた自分の小学生の頃の顔が見えたのかな?」と亜美ちゃんが訊く。

「どうだろう」と俺は静かな感動を覚えながら言う。「俺達ってさ、超能力をよく経験しない?」

「うん。よく経験する。精神病患者って、元々神様だった人の生まれ変わりなんじゃないかな」と亜美ちゃんがフライド・ポテトを食べながら言う。

「何でそう思うの?」

「神様が現われた頃に神様がそう言ってたの」と亜美ちゃんが思いっきり非日常的な話をする。「神様って、人生の要所要所で現われるわよね」

「俺は入院前に守護霊様が現われた。そう言えば、すっかり守護霊様の事忘れてたよ」

「どう言う訳か神的な存在との出来事って忘れちゃうのよね」と亜美ちゃんが言って、唇を歪める。

 俺は白米の味をじっくりと味わい、味噌汁を啜る。確かに神的な存在との出来事は忘れてしまう。

『恋人は出来たな?』と守護霊様が後頭部の後ろから言う。

 はい。高田亜美さんです。

『前世の妻は真希ちゃんだ。高田さんは真希ちゃんの前世の後妻さんだったんだ』と守護霊様が言う。

 真希ちゃんって、早死にが多いんですね。

『真希ちゃんはあなたの母親だった時も三十二歳ぐらいで病死している』

「亜美ちゃんは俺の前世の後妻さんだって、守護霊様が言ってる」

「へええ、そうなんだ。あたしも神様に訊いてみる」と亜美ちゃんは言って、心臓辺りに右手を置く。亜美ちゃんは口の中で声もなく誰かと話している。「ああ、本当だ。あたし、氏川さんの前世の後妻さんだったんだ」

「最初の妻の方は前回の入院時に付き合ってた人なんだ」

「そうなんだ」と亜美ちゃんが俺の気持ちを労わるような眼で言う。

 亜美ちゃんはゆっくりと夕食を食べ、先に食べ終えた俺はトレイを下げ、喫煙所に向かう。喫煙所にはタコミちゃんが壁際の角の席に座り、武田さんが向き合って座っている。俺は武田さんの左隣の席に腰を下ろす。

「武田さんは詩の新人賞に作品投稿してる?」とタコミちゃんが武田さんに訊く。

「投稿してるんですけどね、なかなか入選しませんよ。今日は小説を書こうと思って考えていたんです」と武田さんが丁寧語で話す。

「何か思い付いた?」とタコミちゃんが武田さんに訊く。多分、武田さんの席からはタコミちゃんのミニ・スカートの間からタコミちゃんのパンティーが見える筈だ。

「私は谷崎潤一郎が好きなので、彼の作品を意識して女子高生に恋をする壮年の男の話を書いていました」と武田さんが冷静に答える。

「あたし、小説とかほとんど読んだ事ないのよね」とタコミちゃんが武田さんに唇を歪めて言う。「何か良い小説あったら教えてよ」

「文学はそれぞれに好みがありますからね。どんな小説を読みたいんですか?」

「やっぱり、自堕落な小説が良いわね。セックスばっかりしてる小説とか」とタコミちゃんが言う。

 タコミちゃんって、ほんとパンクな人なんだな。

「山田詠美辺りは女性に人気がありますよ」と武田さんが山田詠美をタコミちゃんに紹介する。俺も山田詠美はタコミちゃんに合っていると思う。

「昔の作家?」とタコミちゃんが武田さんにタメ口で訊く。

「今、活躍してる作家ですよ」と武田さんが楽しそうに言う。

 皆、タコミちゃんからパワーとか明るさをもらうんだな。

 俺は煙草を吸い、ソファーに君白さんと並んで座る亜美ちゃんの左隣に腰を下ろす。

「亜美ちゃんの絵画を観てみたいな」

「あたし、絵画の写真持ってるから見せようか?」と亜美ちゃんが言う。

「あるなら、見せてよ」

「じゃあ、今、持ってくる」と亜美ちゃんは言って、病室に向かう。

 君白さんがTVを観ている。本当に顔立ちの美しい人だな。

「君白さんは小説は書かないんですか?」

 君白さんは少し不快げな顔をして、「小説は今のところ書くつもりはありません」と面倒臭そうに答える。君白さんは俺と話す事で亜美ちゃんに後ろめたい思いがあるのかな。君白さんは俺とのコミュニケイションより女の友情の方を取るのか。あんな反応をされたら、こっちだって良い気分ではいられない。君白さんはTVに集中している。確か真希ちゃんと由里ちゃんの関係もこんな具合だった。

「持ってきたよ!」と亜美ちゃんが写真の束を手にして、走って戻ってくる。俺は写真の束を受け取る。

 亜美ちゃんの絵画は美大出だけあって、相当に上手い。最初の方は鉛筆デッサンだ。

「こんなに画力が高いのか。これで漫画を描いたら、世界一の漫画家だろう」

「漫画は漫画よ。漫画を描くって言うのは想像力でしょ?その辺の鉛筆デッサンの画力とは全く別物よ」と亜美ちゃんが言う。

 本当に素晴らしい鉛筆デッサンだ。最初の方の石膏デッサンの後には裸婦像や静物画が続く。漸く油絵が出てくると、今度はシュルレアリズム風の絵画が出てきて、その後に童画やファンタジーや抽象画などの数一〇枚の短いシリーズの作品が次々と続く。

「その辺のシリーズで自分の画風を確立しようって気にはならなかったのよね」と亜美ちゃんが俺の顔に顔を近付けて言う。亜美ちゃんは何とも良い匂いがする。モノが立ってきた。俺は亜美ちゃんの背中に右手を回し、亜美ちゃんの胸を揉む。君白さんは気付かない。俺は亜美ちゃんの項に唇を当てる。何処に連れていって服を脱がせようか。俺は亜美ちゃんの耳元に、「したい」と囁いて、亜美ちゃんの胸を揉み続ける。

「ええ、じゃあ、夜にトイレでする?」と亜美ちゃんが気の遠くなりそうな眼で言う。

「トイレじゃ悪いよ。ムードがない。明日の同伴外出でホテルに行こう!」

「良いよ。あたし、お金は持ってる」と亜美ちゃんが色っぽい眼で言う。

 俺は亜美ちゃんの胸から手を離し、亜美ちゃんの絵画の写真を観る。

「その辺は風景画の写生」と亜美ちゃんが俺のズボンの上からモノに触れて言う。「立ってるね。意外と硬い」

「観たければ、見せるよ」

「明日で良い。今日はこうして触ってるだけ」と亜美ちゃんが色っぽい笑顔で言う。

「写生の後はキャラクター作りをするんだね」

「ああ、ルドンとか、水木しげるの漫画を観て、キャラクターの力に興味が出てきたのよ。そこに来て今回は漫画のネーム作りに入ったの」と亜美ちゃんがしんみりとした口調で言う。「あたし、画家より漫画家になりたいなあ」

「今の時代、漫画だよね」

「うん。そう思う。嘗て前世で詩人や歌人や画家だったような人達がこの時代には漫画を描くんじゃないかな」と亜美ちゃんが言う。「漫画を描く事の何が面白いって、作品世界が詩や絵画に比べて奥深いのよね」

「映画やアニメイションなんかもこの時代に生まれてきた人達に人気のあるアートだけど、一人で作れないところがね、それで漫画なんだよ。でも、小説には興味あるな」

「小説で出来上がる作品世界の多様性が魅力あるわよね。映画の原作にするにも小説は漫画よりキャラクター・イメージを限定しないでしょ?それで小説が映画の原作になる事が多いのよ」と亜美ちゃんが熱心に語る。「小説と漫画じゃ、エンターテイメント的な面白さが圧倒的に漫画の方が高いじゃない?」

「うん。漫画が原作のエンターテイメント映画は確かに映像的にも面白いよ。それ以上に漫画そのものに魅力を感じるけどね」と俺は言い、「写真どうもありがとう」と言って、亜美ちゃんに写真を返す。

「明日は同伴院外外出だね。亜美ちゃんは画材屋で何を買うの?」

「スクリーン・トーンやネームのプリント紙やカラー原稿を描くための道具が欲しいの」と亜美ちゃんが宙の一点を見つめて、必要な物を一つ一つ挙げていく。

「俺もスクリーン・トーンは欲しいな」

「スクリーン・トーン使わない原稿がたまに入選するわよね。あの人達の描き込み方って普通じゃないわよね」

「あれをやろうとは思わないな。スクリーン・トーン使った方が楽に表現出来るし、原稿にお金を懸けた感もある」

「漫画の短編一作描くお金はラジカセ一台分に相当するって言われてるよね」と亜美ちゃんが漫画の事を楽しそうに話す。

 俺は冷蔵庫からよく冷えた缶コーラを出す。俺はコーラを持って亜美ちゃんの隣に再び腰を下ろすと、コーラの栓を開けて飲む。

「あたしもジュース飲もう!」と亜美ちゃんは言って、冷蔵庫の方に歩いていく。

「消灯でえす!」と若い女性看護師が廊下に出てきて言う。デイ・ルームの電気が消え、TVが消される。君白さんが立ち上がり、「それじゃあ、お休み!」と半沢さんに言って、デイ・ルームを立ち去る。亜美ちゃんが俺の右隣に腰を下ろし、缶の『ファンタ・グレープ』の栓を開けて飲む。

「君白さんと半沢さんって、お似合いね」と亜美ちゃんが言う。

「明日、外食の昼御飯何食べる?」

「ああ、明日にならないと判らないな」と亜美ちゃんがぼんやりとした声で言う。

「焼肉屋に行こうか?ビールとか一寸飲んでさ」

「ああ、良いかも!」と亜美ちゃんが楽しげに言う。「ビビンバとか食べた事ある?」

「ない」

「あたしはビビンバお薦めだな」と亜美ちゃんが明るい声で言う。

「ああ、じゃあ、食べてみるよ」と俺は言い、亜美ちゃんの左の頬にキッスをする。亜美ちゃんが笑い出し、俺の唇にキッスをする。俺はコーラを飲み干し、ゴミ箱に空缶を捨てると、「それじゃあ、お休み!」と言って、病室に向かう。病室の電気は既に消えている。俺は寝巻きに着替えて歯を磨き、ベッドに横たわる。病棟では半沢さんとしか話さない。半沢さんは暗い部屋の中でCDの山を手にしている。病室の他の患者達は静かに横たわっている。病室のベッドの向かい側の一番奥の患者は既に鼾を搔いて眠っている。俺も眼を瞑る。


 俺は浜辺でTシャツとブルー・ジーンズを脱いで、海に入る。海中の砂が柔らかい。足の届かない沖まで進み、海水に体を浮かせて、青空を見上げる。太陽がギラギラと輝いている。海水は冷たく、モノが小さく縮こまる。海水の中に人魚がいて、俺の海水パンツを脱がし、モノをしゃぶり始める。人魚の顔は魚のように醜い。それでもモノをしゃぶられるのは堪らなく気持ちが良く、人魚がしゃぶるままに身を任せる。俺は手で激しくモノを扱きたい欲求に駆られ、自分でモノを扱く。それがなかなかいかない。何としても射精しようとしていると、目が覚める。

 病室には朝日が射し込む。時計を見ると、まだ午前五時だ。俺は顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。

 着替えをしてデイ・ルームの喫煙所に向かう。俺は壁際の角の席に腰を下ろし、煙草に火を点ける。今日は亜美ちゃんとの同伴院外外出だ。俺が昼飯は焼肉屋に行こうと言うと、亜美ちゃんは同意し、ビビンバを薦めていた。デイ・ルームに君白さんが来て、ソファーに腰を下ろす。君白さんは単行本を手に持ち、読書を始める。本当に清楚で美しい容姿を持った詩人だ。そこに半沢さんが現われ、「おはよう」と言って、君白さんの左隣に腰を下ろす。

「おはよう」と君白さんも半沢さんに挨拶する。

 半沢さんも単行本を手に持ち、読書を始める。何だか不思議な光景だ。早朝に恋人と一緒に読書する事を始めたのか。俺は病室に戻り、戸棚からポテト・チップスのコンソメ味を出して食べながら、『子連れ狼』の続きを読む。幻聴が幻聴同士小声で話している。

「おはようございまあす!お薬でえす!コップにお水を入れて、列に御並びください!」と若い女性看護師が患者達を薬の服薬に呼ぶ。

 もう朝食か。『子連れ狼』を三冊も読んだ。読み終わった五冊をデイ・ルームの本棚に返し、新たに五冊借りていく。

 薬の列に並び、薬を服薬すると、朝食のトレイを受け取り、いつもの席に腰を下ろす。亜美ちゃんが今朝も先に座って、朝食を食べている。

「おはよう」と俺は亜美ちゃんに挨拶する。

「おはよう」と亜美ちゃんが笑顔で挨拶を返す。

 今朝はハムとチーズのサンドウィッチとレタスとトマトのサンドウィッチとカツ・サンドとポタージュと一〇〇パーセント果汁のグレープ・ジュースである。

「こう言う朝食って良いよね」と亜美ちゃんが幸せそうに言う。

「確かに家で朝から三種類のサンドウィッチは出ないよね」

「あたし、今日、同伴院外外出で画才屋さんに行ったら、貼り絵用に色紙と糊も買うわ」と亜美ちゃんが力の籠もった声で言う。

「貼り絵をやるの?」

「うん。昨日、山下清の番組やってたのよ。それで私も貼り絵やりたいなあって思ったの」と亜美ちゃんが明るく眼を輝かせて言う。

「新しい事始める動機は軽い方が良いんだろうね」

 俺はレタスとトマトのサンドウィッチのマヨネーズを味わいながら食べる。亜美ちゃんはハムとチーズのサンドウィッチを食べている。亜美ちゃんの顔は目鼻立ちがはっきりしていて、とても明るい。本当に俺の恋人になったのだろうか。亜美ちゃんが恋人になった実感がない。結構、触ったり、キッスしたり、心の距離感を縮める事はしてるんだけどな。美人過ぎる恋人は所有感を実感し辛いのか。今日はホテルで亜美ちゃんと一発やるのだ。久々のセックスだ。俺は亜美ちゃんより先に食べ終え、トイレを下げて、喫煙所に向かう。タコミちゃんが喫煙所の壁際の角の席に座っている。皆、壁際の角の席が好きなのだな。

「今日は亜美ちゃんと同伴院外外出だよ」

「お土産買ってきてね!」とタコミちゃんが明るい顔で言う。

「お土産何が良い?食べ物?」

「何でも良いよ。どうでも良い物は買ってこないで」

「判った」

 村野さんが喫煙所に来る。その直ぐ後に武田さんと坂本さんが来る。

「病院の近くの古書店って、どんな本が強いんですか?」と坂本さんが村野さんに訊く。

「希少価値の高い古本が一杯あって、よくある本は全部店頭のワゴンに百円で置いてあるよ」と村野さんが言う。

「ええ!楽しみ!」と坂本さんが一重の切れ長の眼に笑みを浮かべて言う。坂本さんの顔は能面みたいでとても美しい。俺は坂本さんの顔に日本的な伝統美を見出す。俺はそれを漫画に表現してみたい。坂本さんが能のような動きで微妙な顔の表情を表現する事を想像する。今回の精神病院漫研や精神病院文芸部は本当に素敵な芸術家集団のメンバーを獲得した。俺は煙草を吸い終え、外出の用意をする。

「氏川さん、何時に出る?」と病室の入口から亜美ちゃんが話しかける。

「もう用意してるよ」

「あたしも用意した」と亜美ちゃんが言う。

「それじゃあ、行くか」

「うん」と亜美ちゃんが子供のように素直に返事をする。少年の元型かな。まだ亜美ちゃんの中のアニマやアニムスを観察するようには話していない。うっかり忘れていた。こっちもアニマを抱えているのだ。アニマって、人間の恋人に嫉妬するのかな。それとも向こうのアニムスを恋人にするのかな。

『あたしは男なの』と小野さんの声でアニマが言う。

 男って、アニマは女性性だよ?

『男なの。あたしはゲイじゃない』と小野さんの声のアニマが言葉足らずのように言う。

 本当にゲイじゃないのか。昔から同性愛モノの小説や映画や漫画よく観る。まあ、ゲイじゃないとアニマが言うなら、それで一安心すれば良い訳か。確かに真希ちゃんや亜美ちゃんとの恋にも夢中になっている。

 俺は財布を持ってデイ・ルームに向かい、亜美ちゃんと共に病棟の扉から外に出る。エレヴェイターに乗ると、俺は亜美ちゃんの腰に手を回す。亜美ちゃんが俺の顔を見上げる。俺は亜美ちゃんの唇にキッスをしようかと思う。不意に男性美的なアニムスの存在を思い、アニムスを想って、キッスをする。これって、同性愛か。亜美ちゃんが舌を俺の口に入れてくる。アニムスとの接触が同性愛かどうかなんて関係ない。亜美ちゃんは亜美ちゃんなのだ。アニムスにキッスをしたからと言って、男性的な匂いが漂ってくる訳でもない。亜美ちゃんも恍惚とした顔で俺とのキッスに酔い痴れている。考え過ぎだな。

 エレヴェターを出て、バス亭でバスを待つ。

「恋人や奥さんのアニムスって良いね」

「あたしも男性のアニマの事とかよく考えるの」と亜美ちゃんが楽しそうに言う。「同性愛に対するアレルギーもあんまりないし、あたし自分の事ヴァイセクシャルなのかなってよく思うの。何か妖艶な魅力のある女性にキッスとかされたら、もう抵抗出来ないんじゃないかなって、よく思うの。あたし、BLって言う、男性のゲイの漫画とかを好きでよく読むの」

「へええ。大胆な発言だな。俺は絶対にゲイじゃない。間違ってもカマを掘られて喜ぶようなタイプではない。でも、性的な感情で男の体に触れるようなゲイの接触は反則だよね」

「でも、そうやって触られると気持ち良くない?」と亜美ちゃんが人が変わったような顔で訊く。

「気持ち良い・・・・・、ううん、まあ、そうかな」

「氏川さんは誠実な人ね。どんな質問にも嫌がらずに答えてくれる」と亜美ちゃんが怪しい眼付きで言う。

「多分、好きな話題なんだと思う」

 バスが来て、乗車すると、一番後ろの長椅子の窓際に亜美ちゃんを座らせ、俺はその左隣に腰かける。

「あたし、高校生の頃から同性愛に関心があるの」と亜美ちゃんが深刻な顔で打ち明ける。「中学生の時に霊感のある同性愛者の親友がいたの。交通事故で亡くなったんだけど、あたし、その子の事が物凄く好きでね、その子が時々体内に現われるの。その子がね、セックスの話をよくするの。好きな男性と初体験する事が憧れだったんだって。心残りを残して亡くなったのよ。その子が今日一緒にいるの」

「俺、その子が体内にいる亜美ちゃんとセックスするの?」

「ダメかな?やっぱり?」と亜美ちゃんが縋るような眼で言う。

「良いよ。別に問題ない。二人分の女性を愛するぐらいの愛はある」

「ああ、その子が元気がない。やっぱり、自分だけ想って欲しいみたい」と亜美ちゃんが霊に同情的になって言う。

「そう言う子、あんまり良い霊じゃないな」

「ううん。そうなんだって!」と亜美ちゃんが内なる霊に言う。「ああ、出ていった!」

「俺達のコミュニケイションって深いよね」

「うん」と亜美ちゃんが目元を右手の指先で拭って言う。

「俺、入院前に守護霊様が現われたんだ」

「へええ。それって老賢者じゃない?」と亜美ちゃんが親しみを籠めて言う。

「よくユング心理学をそこまで応用の利く次元まで勉強したね。俺はまだまだだよ」

「あたしの中には大人の女性と大人の男性の二人の元型しかいないの」と亜美ちゃんが訴えかけるような眼で言う。

「ああ、何かそう言ってたね」

「他にもいるのかな?」と亜美ちゃんが首を傾げて言う。

「俺は子供の男の子と女の子とトリック・スターの女の子と男の子とシャドーとアニマがいるよ。多分、老賢者と太母もいる」

「ああ、やっぱり、氏川さんって、普通の人よりスケールが大きいわ。勉強不足なんてないと思うわよ。多分、学問に対する劣等感があるのよ」と亜美ちゃんが力の籠もった声で言う。

「ああ、そうかもしれない。大学行ってれば良かったなあって、よく思うんだ。亜美ちゃんの中の大人の男女の元型って、シャドーとアニマ?」

「アニマとアニムスだと思う」

「ええ!女性にもアニマがいて、男性にもアニムスがいるの?」

「日本のユング派の心理学者はアニムスとアニマの両方が男にも女にもいるって本に書いてるわよ」と亜美ちゃんがハンドバッグからタオル出して、汗を拭きながら言う。

「ああ、じゃあ、発病当時のもう一人の自分が俺のアニムスだ!」

『俺だよ、アニムスは』と優しい口調の大人の男の声の元型が言う。

「やっぱり、そうだ!」

「そうでしょう?普通、人と話してると、幻聴って聴こえないと思わない?」と亜美ちゃんが眼を輝かせて訊く。

「うん。その辺は幻聴の御約束事だね」と言いつつ、アニムスが即答した事に気持ちが動揺している。俺は不安が募り、精神状態が乱れる。亜美ちゃんとの初めてのセックスの日に精神錯乱か。付いてない。今日は集中出来ないかもしれない。

「幻聴?」と亜美ちゃんが心配そうに訊く。

「うん。子供が沢山騒いでる。アニマもおかしい」

「ホテルに入ったら、一時横になろうね」と亜美ちゃんが気を利かして言う。

「ああ、それは有り難い。何よりもの気遣いだよ」と俺は言い、亜美ちゃんの後ろ髪を撫ぜる。

「いやっ!」と亜美ちゃんがアレルギー反応を起こす。「ああ、ゴメンね!」

「ああ、こっちこそゴメン。幻聴聴こえ始めてた?」

 亜美ちゃんは目を瞑って、何も答えない。

「幻聴が聴こえ始めて、発病すると、頭の中で誰かを想って話しかける事がなくなるよね」

「元型が人間の考えてる事に答えてくるからよ」と亜美ちゃんが片目を開けて言う。

「あの頭の仕組みが判らないんだよ。こっちの言う事に返事をしない聞き役は元型かな?」

「違うと思わない?」と亜美ちゃんが確認する。「元型って、話しかけると直ぐに返事するわよ」と亜美ちゃんが気を取り直して話に乗り出す。

「幻聴がなかったから元型が答える言葉が聴こえなかったんじゃないかな?元型の存在って、普通夢でしか捉えられないらしいよ」

「ああ、そうか」と亜美ちゃんが不安げに答える。

「デートの最中に幻聴の話題って、如何にも統合失調症カップルの話題だよね」

「嫌だった?」と亜美ちゃんが少し眼を尖らせて言う。

「いや、良いと思うよ。俺達にとっては重要な問題だからね」

「うん。そうでしょ」

 俺達は終点の蒲田駅でバスを下車する。

『ホテル行くのか』とシャドーの古田が俺の思っている事を言い当てる。俺はそれで心が動揺し、不安になる。

『あたし、亜美ちゃん、好き』と癒し系の女の子の元型が言う。

『あたしの亜美ちゃん、どの心か判らない』とトリック・スターの女の子が言う。

 自分で相手を探すんだよ。

『俺の相手、人間?』とシャドーの古田が訊く。

 俺は違うと言いたいところで黙り込む。

『俺の相手、人間だ』とシャドーの古田がまた同じ事を言う。

 違う。お前の相手は亜美ちゃんのシャドーだよ。

『亜美ちゃんのシャドー!』とシャドーの古田が甘ったれたような声で言う。

 どうもシャドーは気持ちが悪い。性格が明るいとか暗いと言う捉え方では上手くシャドーについての考えが纏まらない。守護霊様の声が聴こえない。やはり、老賢者が扮していたのか。

「何処のホテルに行くの?」と亜美ちゃんが訊く。俺達は相手を気にせず、何処に向かうともなく歩いていた。

「商店街の向こうにホテルがあったな。引き返すか」

 亜美ちゃんが不機嫌そうに黙っている。

「お互いにしっかりとした意思や目的を以て相手を気遣い、助け合って物事を実現させようね」

「ああ、うん!」と亜美ちゃんがはっとしたような顔で返事をする。

「俺達は精神錯乱すると多少我が儘になる」

「うん。そうね。ゴメンね」と亜美ちゃんが不安そうに言う。

「俺を怖がる必要はないよ。俺はいつも亜美ちゃんの氏川さんだからね」

「うん」と亜美ちゃんが万遍の笑みを顔に浮かべて返事をする。

 俺は精神錯乱を起こし、心臓が激しく動悸している。こんな事が続いたら、何時か心臓発作を起こしたり、心臓がダメになる。

 ホテルに着くと、ラヴ・ホテルだった。受付の機械で部屋を借り、鍵を持って二○七号室に向かう。

「何かエッチな感じね」と亜美ちゃんが恥ずかしそうに言う。

「エッチな事をするのは亜美ちゃんなんだから仕方ないでしょ?」

「ええ、一緒にエッチするのよ!」と亜美ちゃんが俺の冗談に明るく反応する。「一回、並んでベッドに横になろうよ!」

「うん」と俺は言って、二○七号室の前で返事をし、鍵でドアーを開ける。

「うわあ、良い空気!お花の匂いが微かにする」と亜美ちゃんが抑え気味にはしゃいで言う。亜美ちゃんはベッドに腰かける。「ベッドもふかふか。ラヴ・ホテルって、割と清潔なのね」

「何か飲む?」と俺が冷蔵庫を開けて訊くと、「うん。ファンタのオレンジかグレープあるかな?」と亜美ちゃんが屈んで、一緒に冷蔵庫の中を見る。「ああ!一〇〇パーセントのグレープ・ジュースがある!」と亜美ちゃんが明るい声で言う。「あたし、これで良い」

「俺はコーラだな」と言って、コーラを手にし、ソファーに腰かける。亜美ちゃんも俺の左隣に腰かける。俺はコーラを飲み、亜美ちゃんがグレープ・ジュースを飲む。

「何か、緊張するな」

「あたしも緊張してる」と亜美ちゃんが明るい目で言う。

「亜美ちゃんは初めて?」

「違うよ!」と亜美ちゃんが笑って言う。

「俺、てっきり亜美ちゃんは処女だろうと思ってた」

「あたし、二十七よ?」と亜美ちゃんが二十七歳に個人的な価値や意味を持たせるように言う。俺にとって二十七歳はまだ若く、純粋な年齢だ。確か亜美ちゃんはラヴ・ホテルを知らなかった。亜美ちゃんは恐らく処女だろう。

「男は恋人が処女の方が嬉しいものだよ?」

「でも、男性は処女とセックスするのはプレッシャーだって雑誌に書いてあった」と亜美ちゃんが首を竦めて言う。

「それ、童貞の場合だよ」

「氏川さんは童貞じゃないの?」と亜美ちゃんが不安げに言う。

「俺、二十三歳の初回入院の時に自殺した恋人がいたんだよ。その

恋人が処女だったんだよ。だから、何度もセックスを経験した訳ではないけれど、童貞ではないんだ」

「ああ、なら、安心してお任せ出来ます」と亜美ちゃんがほっとしたように敬語で言う。

「一緒にシャワー浴びようか?」

「はい」と亜美ちゃんが少女のように明るく返事をする。亜美ちゃんも元型はアニムスとアニマだけじゃないな。グレープ・ジュースを選んだのは男の子の元型かな。トリック・スターと子供はどう区別するんだろう。トリック・スターの男の子はやんちゃに冗談っぽく話す子かな。女の子の方もやんちゃな感じだろう。老賢者や太母やシャドーはどれだろう。シャドーは悪魔と解される一方、無意識の人とも言われる。ユングは悪魔の解釈が独特なのだ。通常言われる悪魔とはかなり違う。最低の神とも称する。亜美ちゃんの女の子の元型が可愛い。そう思った途端に良心が俺の性的欲望を咎める。

『私だ』と守護霊様が言う。亜美ちゃんが守護霊様は老賢者じゃないかって言っていた。亜美ちゃんの太母とセックスをする事に罪の意識を感じる。やっぱり、アニマとするのかな。ああ、違う!違う!俺は人間の亜美ちゃんと恋愛し、セックスをするのだ。

 俺と亜美ちゃんは脱衣所に入り、服を脱ぐ。亜美ちゃんの裸は美しい。ボーイッシュな短い髪型に男装の麗人のような印象を持っていた。俺は少々倒錯的だな。亜美ちゃんの体には至って女性的な美がある。御椀方の胸から薄い茶色の乳首が上向きに突き出している。SM雑誌に最高の胸と讃えられていた釣鐘型の胸だ。

 シャワー室に入り、暑い湯を浴びる。俺は亜美ちゃんの背後から亜美ちゃんの胸を揉み、亜美ちゃんの滑らか上半身の肌や腕に両掌を滑らせる。俺の勃起したモノの先が亜美ちゃんのお尻に触れている。俺は亜美ちゃんを自分の方に向け、モノの先端を割れ目に擦り付ける。亜美ちゃんは笑顔で、「大きい」と言って、喜ぶ。

「握ってごらん。そうしたら、不安が少しは消えるよ」

 亜美ちゃんが俺のモノをぎゅっと握る。俺は一度痙攣するように身震いする。良いモノの握られ方だ。少年かな。アニムスかな。シャドーかな。トリックスターの男の子かな。いやあ、亜美ちゃんで良いんだよ。相当にユング心理学にかぶれてるな。俺は亜美ちゃんの割れ目を右掌で蔽い、中指を割れ目に挟む。亜美ちゃんが短く甘い声を漏らす。

「早くベッドに行ってしよう!セックスしている最中には幻聴は聴こえないんだよ」

「そうなんだ。確かに今も聴こえない」

 幻聴ある統合失調症はセックスの最中にも幻聴への不安がある。不思議とセックスの最中には幻聴は聴こえてこない。神聖な儀式と解せる時間は神様が幻聴を聴こえなくするのか。

 俺と亜美ちゃんは脱衣所に出る。俺は自分のバスタオルで亜美ちゃんの濡れた体を拭く。亜美ちゃんも自分のバスタオルで俺の濡れた体を拭いてくれる。幻聴は全く聴こえてこない。なかなか亜美ちゃんに集中出来ない。俺は好きな人を前にしながら、幻聴への不安が常にある。俺はそんな統合失調症を呪う。

 統合失調症って何のカルマなんだろう。不安や恐怖に毎日襲われる。人を虐めたカルマだけでなく、人に怪談を聴かせて怖がらせたような事も罪なのか。うっかり元型に受け答えしたら、たちまち幻聴が聴こえ続ける。セックスの最中は本当に元型達が何も言わない。これも神様からの御約束事なのか。元型達は亜美ちゃんに集中している。

 俺と亜美ちゃんはバスタオルを体に巻き、並んでベッドに横たわる。

「安心してる?」

「幻聴が聴こえないの」と亜美ちゃんが泣き出しそうな顔で言う。

「俺も幻聴が聴こえない」「あたしをこの不安ごと強く抱いて」と亜美ちゃんが愛を乞うような目で言う。俺は亜美ちゃんの上に乗り、バスタオルをベッドの外に放り投げる。俺は亜美ちゃんの脚を両脇に押しやり、亜美ちゃんの両脚の間に両膝を突いて、半身を起こす。俺は亜美ちゃんの上に再び乗り、「上に乗ると苦しい?」と亜美ちゃんに訊く。

「苦しくない。何か女の人の体って、お相撲さんが上に乗っても平気らしいわよ」と亜美ちゃんが明るい顔で言う。

「そうなんだ。知らなかった」と俺は言い、亜美ちゃんの唇にキッスをする。俺は亜美ちゃんの両胸を揉み、亜美ちゃんの左の乳首を銜える。俺は右手でそっと亜美ちゃんのクリトリスに触れる。

「あっ」と亜美ちゃんが短く声を漏らす。俺は亜美ちゃんの股の間に顔を近付け、クリトリスを念入りに嘗めながら、膣に中指と人差し指を合わせて入れ、前後に動かす。

「痛いからもう一寸優しくして」と亜美ちゃんが息絶え絶えに言う。

 処女には激しいセックスは痛いだけだと雑誌で読んだ事がある。俺は亜美ちゃんの膣から溢れ出る汁を口で啜る。俺は亜美ちゃんの胸に両腕を伸ばし、胸を揉みながら、亜美ちゃんの汁を吸い続ける。

「いやあ、エッチな音」と亜美ちゃんが笑いながら言う。俺は亜美ちゃんの膣の中に右手の人差し指と中指を合わせて再び入れると、膣の中の水を掻き混ぜる。

「いやあ、変な音」と亜美ちゃんが楽しげに言う。

 俺は亜美ちゃんの股の間に両膝を突き、モノをゆっくりと亜美ちゃんの穴の奥に入れる。

「中に男の人が入ってくる感じって、これなのね」と亜美ちゃんがしみじみと言う。

 俺は真希ちゃんとのセックスを応用し、モノの竿の長さを活かした正しいピストン運動をゆっくりと繰り返す。

「気持ち良い」と亜美ちゃんが喜びの声を漏らす。

 こっちはなかなかイキそうにない。なるべく長く奉仕的なセックスをしよう。モノの方は亜美ちゃんの中で固くビンビンに立っている。腰を早く動かして、さっさとイキたい。そうすると亜美ちゃんが痛がる。処女とのセックスって、自分がイカないかもしれない自己犠牲があるんだな。

「あっ!イク!」と亜美ちゃんが叫ぶ。

「俺はこんなゆっくりな腰の動きではイカない。もっと強く中で締め付けてもらいたい」

「そうすると痛いのよ」

 俺はモノを激しく手で扱き、亜美ちゃんのお腹の上に射精する。

 俺は亜美ちゃんの右隣に仰向けに横たわる。俺はベッドから降り、脱衣所に行くと、自分の服と亜美ちゃんの服を持ってソファーに座る。ズボンから煙草を出し、一服する。俺は煙草を口に銜えたまま、冷蔵庫に向かい、「何か飲む?」とベッドに横たわる亜美ちゃんに訊く。

「コーラ頂戴!ごめんなさい」と亜美ちゃんが言う。俺は『リポビタンD』を取り、コーラと一緒にベッドに持っていく。俺がよく冷えた缶コーラを亜美ちゃんに手渡すと、ベッドの頭の上の棚から灰皿を膝の上の蒲団に載せ、煙草の火を消す。俺は『リポビタンD』を飲み、「ああ、意外と美味しい」と言う。

「あたし、それ飲んだ事ない」と亜美ちゃんが言うので、「飲んでみる?」と亜美ちゃんの顔の前に差し出す。亜美ちゃんは『リポビタンD』の瓶を手にして、上半身を起こすと、ベッドの柵に凭れかかり、そうっと『リポビタンD』を飲む。

「ああ、ほんとだ!美味しいね」と亜美ちゃんが『リポビタンD』の瓶を眺めながら言う。亜美ちゃんはベッドから降りて、冷蔵庫に向かうと、『リポビタンD』を持ってくる。「はい!これ、氏川さんのよ。先のはあたしが途中から飲んだから」と亜美ちゃんは言って、新しい方の「リポビタンD』を俺に手渡す。

「あたし達、漸く男と女の関係になったのね」と亜美ちゃんが満足げに言う。

「お腹空いてる?」

「焼肉屋さんに行けば、食欲は出るわよ」と亜美ちゃんが晴れやかな顔で言う。

 俺は『リポビタンD』の蓋を開けて飲む。

「先に画材屋に行く?」

「ああ、その方が良いわね。一杯お腹空かして焼肉屋さんに行こうよ」と亜美ちゃんが笑顔で言う。「セックスしてる時は幻聴が聴こえない事よく憶えておこうね」

「うん。でも、不安感はずっとあったよ」

「あたし、集中してた」と亜美ちゃんが爽やかな眼差しで言う。

「ああ、俺ももっと集中したいな。幻聴が聴こえない事に半信半疑だったんだよ」

「あたし、氏川さんにセックスしている最中は幻聴は聴こえないって言われて、すっかり信じたのよ」と亜美ちゃんが明るい声で言う。

「そろそろ服着て出ようか」

「うん」と亜美ちゃんは言い、『リポビタンD』を飲み干す。俺も『リポビタンD』を飲み干す。

 ホテルを出て、画材屋に行くと、亜美ちゃんはスクリーン・トーンを選ぶ。俺もスクリーン・トーンを二種類十枚ずつ買う。亜美ちゃんは修正液やカッターや漫画インクやペン軸やGペンのセットや定規類やネーム用のプリント紙などを買う。

 我々は画材屋を出て、焼肉屋に向かう。

 焼肉屋に入ると、ビビンバとカルビーを一皿注文する。

「亜美ちゃんは画業も続けるの?」

「絵画は漫画と並行して続けるわ」と亜美ちゃんが冷水のグラスを口に近付けながら言う。

「俺も絵画やろうかな」

「絵画は絵画で魅力があるわよ」と亜美ちゃんが真剣な眼で言う。

「俺も絵画の取っかかりはシュールレアリズムかな」

「今の時代、アートって言ったら、とりあえず思い浮かぶのはシュールレアリズムなのよ」と亜美ちゃんが暗い顔で仕方なさそうに言う。「私もそこから自分らしい絵画に行き着くには随分と時間がかかったわ。結局さ、新しいモチーフとか、新しい世界観が必要になるのよ」

「漫画は自作品の模倣をし始めると、似たような作品が続くんだろうな」

「その時に長編になるんじゃない?」と亜美ちゃんが明るい声で言う。

「ああ!そうかもね!ずっと短編を描き続ける訳じゃないんだよね」

 ウェイトレスがカルビーを運んでくる。俺と亜美ちゃんはカルビーを焼いて食べる。その裡、ビビンバも運ばれてくる。

「石焼きビビンバはね、こうやってスプーンでナムルと生卵と御飯を掻き混ぜて食べるの」と亜美ちゃんが食べ方の手本を見せる。俺はその通りに真似をする。

「ああ、美味しい!何か魂の記憶が蘇るような懐かしい味がする」

「へええ、氏川さんの前世って、朝鮮人なのかな?」と亜美ちゃんがカルビーをタレに付けながら言う。「あたし達日本人って、韓国の歴史とか文化を何も知らないわよね」

「小学校の時に在日韓国人の二世が友達にいたよ。芸能人のように珍しい存在だった」

「あたしは大学時代に韓国からの留学生に会ったわ」と亜美ちゃんがカルビーを食べながら言う。

「精神科に韓国人とかいないのかな?」

「いても韓国人だって言わないかもね」と亜美ちゃんが石焼きビビンバを食べながら言う。

「亜美ちゃんって、相当身近な縁者なんじゃないかな?」

「家族とか?何か生まれ変わりの恋愛や結婚って、前世の関係としては近親相姦になるような関係が一番良い結婚らしいわよ」と亜美ちゃんが俺の誤解を恐れるように慎重に言う。

「前世の妹だって思うような人は小学校時代や中学校時代にクラスメイトによくいたよ」

「あたしも前世の兄みたいな男の子によく出会った!氏川さんはそう言う人達と付き合った?」と亜美ちゃんが何かを突き止めようとするような眼で訊く。

「俺、奥手だったから、学生時代には恋愛を経験しなかった」

「あたしも恋愛はしなかった」と亜美ちゃんが寂しそうに言う。

「学生時代に彼氏作って、付き合いたかった?」

「あたし、男心って難しいなあって、結構、男の子には苦労したの。だから、今はあの子達が大嫌い」と亜美ちゃんが尖った目付きで言う。

「その人達、多分、童貞だよ」

「ええ!でも、した事あるって言ってたよ?」

「何で思春期って、そう言う嘘を吐くかな」

「嘘なんだ?」と亜美ちゃんが怒ったような眼で言う。

「多分ね」

 俺はビビンバを食べ終え、カルビーを焼いて食べる。

 昼食を済ますと、俺達はバスで病棟に帰る。俺は買った物を病室に置くと、漫画道具一式を精神病院漫研のテーブルの上に置いて、喫煙所に向かう。坂本さんと武田さんも古書店から帰ってきていて、喫煙所で煙草を吸っている。

「デイト楽しかった?」と坂本さんが俺に訊く。

「ホテルに行って、画材道具屋で漫画の画材買って、焼肉屋でビビンバとカルビー食べて帰ってきた」

「それとなく、ホテル行ったとか言うけど、もうそう言う関係になったの?」と坂本さんが楽しげに言い、坂本さんはちらりと暗い顔をして煙草を吸う武田さんの様子を窺う。武田さんは多分、何も聴いていない。

「氏川さんと高田さん、ホテル行ったんだって!」と坂本さんが明るい笑顔で武田さんに言う。武田さんは引き攣った顔で照れ臭そうに笑う。赤いドレッドロックスに能面のような一重の瞼の眼をした坂本さんは動作の一つ一つがとても芸術的に見える。武田さんは良い趣味しているなあと思う。見慣れると物凄く魅力的な女性だ。

「あたし達もホテルでしようよ!そうしたら、武田さんの鬱なんて吹っ飛ぶと思うわよ!ねえ?行こうよ!行こう!」と坂本さんが武田さんの腕を掴んで揺さぶる。

「うん。じゃあ、明日行こう」と武田さんが笑顔で言う。

 俺は漫画を描き始める。十二作目のネームのアイデアが出てくるまで紙と睨めっこをする。亜美ちゃんが漫画道具一式を持ってきて、向かいの席に座る。半沢さんが隣でネームを描き、君白さんが半沢さんの左隣でレポート用紙に詩を書いている。

「氏川さん、診察です」と若い女性看護師が伝えに来る。俺は勤務室の入口に並べてある椅子の一つに腰を下ろす。順番が来て、診察室に入ると、石橋先生が笑顔で、「何だか患者さん達が盛んに小説や漫画や詩を書いているみたいですね」と言う。

「ああ、精神病院漫研と精神病院文芸部です。俺が企画したんです」

「何かそうらしいですね」と石橋先生が感心したように言う。「体調はどうですか?」

「なるべく人と話したり、漫画を描く事に集中したり、病棟の本棚にある漫画を読んだりして、気を紛らわせているんですが、どうしても何かの拍子に幻聴が聴こえてきて」

「病気の対処としては素晴らしい出来です。何にもしない人達は無気力な陰性症状の患者達です」と石橋先生が言う。

「俺は自分の心理的な不安や恐怖が募り易い心を座禅とか瞑想でトリートメントしてます」

「それは試みとしては良いです。やはりね、患者さんの方でも積極的に病気を良くしようと思ってくれないと、病気が悪い方に向くままになるんです。我々は基本的に薬で良くしていく事をしますが、あんまり寝てばかりいる患者さんはなるべく起こすようにしてるんです。確かに向精神薬は眠る事で効果を発揮する面があるんですけどね」と石橋先生が言う。「氏川さんも幻聴を気にせず生活出来るようになると良いですね」

「それは難しいです。幻聴の方が私が受け答えをするまで頻りに話しかけてくるんです」

「そう言うのは無視し続けてください」

「何が自然なのかは判りませんが、頑なに無視していると、自分の心理を読まれて、心理を言い当てられるんです。そうなると不安や恐怖が募って、最悪の精神錯乱に陥るんです。そこで更に輪をかけるように幻聴が意識や心理を追い回しては心理に言葉で反応するんです。そう言う精神錯乱が一日に一回は必ず起きます」

「そうですか。少し薬を替えてみましょうかね。なるべく何かしながら、気を紛らわせてください」と石橋先生は言い、「はい、もう良いですよ」と言って、診察を終える。

 俺は診察室を出て、病室に向かう。ベッドの上に上がり、胡坐を組むと、肩の力を抜いて、座禅を試みる。その途端に幻聴が騒ぎ、俺は心を無にする事を試みる。癖になった機械的な心理を次々と無用な心理として意識から離していく。無の境地を目指しながら、幻聴が段々と静かになるところまで座禅を続ける。何だか幻聴を瞑想しているようで、意識が幻聴から離れない。これなら読書や漫画の創作をしている方が余程幻聴以外の事に集中していられる。

 間に夕食を挟み、寝る前の薬を待つ。 

「お薬ですよう!コップにお水を汲んで、並んでお待ちください!」と若い女性看護師が患者達に号令をかける。

 俺はコップに水を汲んで、薬を飲みに列に並ぶ。薬を飲むと煙草を吸いに喫煙所に行く。喫煙所には村野さんが壁際の角の席に座っている。

「先、座禅を組んで、心を無にしようと試みたんです。そうしたら、幻聴を瞑想しているみたいで、これはダメだなと思いました。癖になった心理が機械的に洗い流されるような感じは良いなと思ったんですが」

「座禅や瞑想は幻聴対策には役に立ちません。状況に応じて幻聴が聴こえてくると、人間はそれに対する同じ反応を繰り返すもので、結局トラウマ的に苦手な幻聴の言葉は何も変わらず、そのまま残るんです」と村野さんが苦しげな顔で言う。

 タコミちゃんが喫煙所に来る。その後に坂本さんと武田さんも喫煙所に来る。


 半年して亜美ちゃんの幻聴が消え、亜美ちゃんは一足先に退院する。俺はその後、亜美ちゃんと言う癒しの話し相手を失い、幻聴論などの書き物をしたり、幻聴の事をあれこれと考え、考え事ばかり繰り返す。その裡、幻聴が勢いを増して、嵐のように襲いかかるようになり、それが精神運動興奮と言う症状を引き起こすと、保護室と言う独房に入れられる。俺はゆっくりと心を立て直し、狂気の底から正常な心理に這い上がる。隔離中は一日三回まで煙草を吸いに病棟に出る事が許される。保護室からは二日後に出る。

 そんなこんなで一年程入院していたろうか。漸く退院の許可が出て、アパートメントでの一人暮らしに戻る。入院中に投稿した十一作目の漫画はまたもや落選。十一作目の作品の新人賞の結果に関する守護霊様の予言は外れ、あれは非真の守護霊であったのが判る。俺は入院中に描いた十二作目の作品を漫画新人賞に投稿し、十三作目のSF漫画のペン入れをする。

 俺は一人暮らしに戻るのに必要な事を整えると、早速亜美ちゃんに電話をする。

『はい、もしもし、高田ですけれど?』と落ち着いた大人の女性が電話に出る。

「あのう、私、氏川と申します。亜美さんはいらっしゃいますか?」

『ああ、氏川さん?あたし』と亜美ちゃんが少し声を高くして自分だと名乗る。

「ああ、亜美ちゃんか。俺、退院したよ」

「ああ、あめでとう」と亜美ちゃんが気楽な口調で祝福する。

「亜美ちゃんはずっと御両親の家に同居してるの?」

『うん。今ところはね。あたし、障害年金の申請をして、障害年金もらってるの』と亜美ちゃんが晴れやかな声で言う。

「俺もそうだよ」

『氏川さんって、アパートメントで一人暮らししてるのよね?』と亜美ちゃんが確認する。

「うん。まあね」

『あたし、考えたんだけどさ、氏川さんのアパートメントで一緒に暮らしちゃダメかな?』と亜美ちゃんが深刻な様子で言う。

「良いけど、御両親は何て言ってるの?」

『ううん。父には一寸言い出し難くて・・・・』と亜美ちゃんが口籠もる。『それとさ、あたし、妊娠したの』

「ええ!そうなんだ!って言うか、おめでとう!」

『産んで良いのね?』と亜美ちゃんが不安そうに言う。

「良いよ。生活保護世帯になって、子供を育てれば良いんだよ」

『生活保護って、何?』と亜美ちゃんが興味津々に訊く。

「理由があって働けず、収入のない人を国が保護してくれるんだよ」

『へええ!そんなのがあるんだ!』と亜美ちゃんが天国の扉が開かれるような喜びの声を上げる。

「だからさ、同棲より結婚しようよ。その裡、お金を貯めて、新婚旅行とかにも連れていくからさ」

『新婚旅行なんていいよ』と亜美ちゃんが遠慮する。

「すべき事をしない夫婦じゃいけないよ。結婚式も家族や親戚や恩師や友達を呼んで挙げようよ」

『うん・・・・』と亜美ちゃんが泣き声で言う。

「俺達は人並みに幸せにならないといけない」

『うん』と亜美ちゃんが鼻を啜りながら言う。『あたし、でもね、絵画では名誉ある賞に入選してるし、合同展覧会とかも毎年やってて、画家としては食べていけてるのよ』と亜美ちゃんが鼻を啜りながら言う。

「そうなんだ!知らなかった」

『画集とかも出版してるの』と亜美ちゃんが明るい声で言う。

「じゃあ、俺が漫画家デビューを果たすまでは亜美ちゃんに子供を養ってもらう事になるね。でも、そんな旦那で本当に良いの?」

『良いに決まってるよ!あたし、氏川さんにベタ惚れよ?尊敬もしてるし』と亜美ちゃんが楽しげに言う。

「俺、幸せ者だよ」

『もっと幸せになろうね』と亜美ちゃんが前向きな態度で言う。

「亜美ちゃんは幻聴も消えたもんね。良いよね」

『氏川さんもその裡幻聴消えるわよ』と亜美ちゃんが何の疑いもなく断言する。

「それなら良いんだけどね。希望を抱く事に少し疲れたよ」

『氏川さんは十分頑張ってるわよ。それはあたしが保証する。絶対、神様が見殺しにする訳ない』と亜美ちゃんが俺を励ます。

 物凄い恋人を持ったんだな。

「じゃあ、俺も両親に結婚の報告するよ」

『あたしは一寸自分では言い出し難いな。出来たら、氏川さんに家に来てもらって、父に言ってもらいたいの』と亜美ちゃんが申し訳なさそうに言う。

「俺の身分で娘さんをくださいって言うの?どんな顔して言えば良いんだろう。俺は俺みたいな男に娘はやらないよ?」

『そんなに難しい事じゃないわよ。実の娘だって精神分裂病なんだよ?』と亜美ちゃんが説き伏せる。

「亜美ちゃんのお父さんって、何してる人?」

『芸能記者。詩人でもあるんだけど、詩人としては余り有名じゃない』と亜美ちゃんがあっさりと父親を紹介する。

「お母さんは?」

『文芸の編集者。小説も自費出版してる』と亜美ちゃんが楽しそうに母親を紹介する。『氏川さんのお父様は何をされている方?』

「大学時代はジャズ研とかでジャズやってたらしいんだけど、今はK大学病院の外科で看護師をやってる」

『お母様は?』と亜美ちゃんが興味津々に訊く。

「母は生け花の師範」

『へええ、品の良さそうなお母様ね』と亜美ちゃんが考え込むように言う。

「そうでもないよ。母親としてはおばさん風の駄洒落とかもよく言うよ」

『そんなんだ!』と亜美ちゃんは楽しそうに言って、可愛らしい転がるよう声で笑う。『今日、大学の教授の個展に行ってきたの』

「どんな絵だった?」

『ヨーロッパの町並みの風景画と奥さんと娘さんの肖像画だった。恩師だけど、画家としての才能は凡庸かな』と亜美ちゃんが冷静に恩師の作品を判断する。『自分の恩師でなければ、先ず眼に止まらない絵かも。予備校の講師とか大学の教授の絵は大概平凡よ』

「俺、そう言うアカデミックな事には全く通じてないんだ」

『それって、或意味恰好良い事かも。あたしは美大芸大って、行かない方が良いと思ってるの』と亜美ちゃんが暗い声で言う。

「でも、大卒の芸術家ってなるよ?」

『そんなの、それが何?って感じよ』と亜美ちゃんが苛立ったように言う。『苦労して美大に入って、本当に幻滅する事が多かったな』

「それも経験があるから言える事だよ。俺には自慢にしか聴こえない」

『それって、学歴コンプレックスよ?』と亜美ちゃんが深刻な口調で言う。

「その通りだよ」

『良くないな。それなら大学に行った方が手っ取り早く問題解決が出来ると思う』と亜美ちゃんが俺のコンプレックスを問題視する。

「それも俺らしいから気に入ってるんだ」

『氏川さんって微妙に心が病んでるわね』と亜美ちゃんが意外そうに言う。『まあ、そう言う心の歪みを含めて良い漫画も描くんだろうけど」

「俺もそう思って、あんまり自分を弄らないようにしてる」

『あたしも画家としてはまだまだ平凡かな。絵は合同展覧会で毎回完売するけど、今一つ人より秀でた才能が発揮されないの。何か斬新な発想って言うと、壁にペンキを無造作に振り撒くような事しか思い付かなくて、今一つ深いところに入り込めないの』と亜美ちゃんが苦しげに言う。

「絵画で自分だけの作風を持つのは難しそうだね。ゴッホやダリの絵を観てると物凄く個性的だよね」

『自分だけの個性を持つなんて普通の画家には無理なのよ?』と亜美ちゃんがここぞとばかりに俺の盲点を突く。『基本的には人真似から始まって、色んな偶然が働いて自分の画風が確立されてくるんだと思うの。今ある画風を破壊する事でも偶然的に新しい画風が生まれてくるんだけどね」

「でも、結局は手馴れた作風に馴染まない?」

『そうね。確かに他人の眼からはそう言う風にしか捉えられない面があるわよね』と亜美ちゃんが気負った力を抜くように言う。『あたし、でも、漫画も頑張るな。絵画とはまた違う意味で興味があるの』

「俺は絵画は全くの専門外だけど、漫画に関しては少し自信があるんだ」

『今時の画家は時々遊びで漫画風のイラストレイションを描いたりするの。漫画家になれたら、漫画家になりたい人が多いんじゃないかな』と亜美ちゃんが現代画家の実態を語る。『画家が漫画も描けるって事は一時漫画を描いてたからなの』

「一枚絵の幾つかが有名で、この人って言ったら、これって言う作品を持つ画家がいるよね」

『それって、歌手が最大のヒット曲一曲しかTVでは歌わせてもらえないような事と同じよ?』と亜美ちゃんが俺の冴えない頭の盲点を突く。

「俺、幻聴が生じてからじっくりと物事を考える事をしなくなったな」

『幻聴の事や人間としての自分の事ばかり考えてるんでしょ?』と亜美ちゃんが言い当てる。『幻聴消えたら、元通りの自分の頭になるよ。あたしは無気力になるような陰性症状には陥らないように注意してる。氏川さんが毎日、コツコツと漫画を描いていられるのは病状が良くなってるからよ』

「絶えず幻聴に対する不安があるよ。どうあっても幻聴が聴こえてこない正常な頭になりたいよ」

『幻聴はその裡消えるわよ。私にはそれしか言えない。あたしは氏川さんの気持ちは痛い程判ってる。氏川さんが安心して私と付き合えるように見守るから、あたしの愛を信じて』

「信じたい。信じる事で救われるなら、何でも信じたい。藁にも縋りたいよう気持ちで亜美ちゃんに頼ってるんだ」

『あたしは神様に祈る事もなく幻聴が消えたの。薬を飲んで精神科病棟で一生懸命漫画を描いていたら、或朝幻聴が消えてたの』と亜美ちゃんが簡単に幻聴が消えた経緯を説明する。

「不思議な事だね。俺もそうなるのかな」

『なるわよ、きっと。あたしに叶った事が氏川さんに叶わない訳ない』と亜美ちゃんが前向きな態度をはっきりと示す。

「そうかな・・・・」

『絶望しちゃダメよ』と亜美ちゃんが女神様のように励ます。

「うん」

『それじゃあ、また明日電話するわね。氏川さんは私との結婚の事を御両親に伝えておいてね』と亜美ちゃんが俺との結婚の話を進める。

「うん。報告するよ」

『それじぁあ、またね』と亜美ちゃんが言う。

「うん。また電話するよ。それじゃあ』と俺は言って、電話を切る。

 神様に幻聴が消えるように祈ろうかな。神様抜きにはこの病気は治らないように思う。亜美ちゃんはカルマが軽かったのだろう。亜美ちゃんが経験したような、或朝起きたら、幻聴が消えていたと言うような幻聴の終わりを信じたい。お釈迦様、私の幻聴を消してください。漫画家として一生懸命この世の役に立つ作品を残します。私には信じる神様がいません。お釈迦様だけが頼りです。私は仏教の守護神のブラフマンに関心があります。ヒンドゥーではお釈迦様もブラフマンらしいですね。私は仏様より神様を信じる信仰に進みたいんです。私は何か困った時に、仏様助けて!とは言わず、神様!神様助けて!と言うタイプです。ヒンドゥーの教えはとっくに仏教に更新されていますよね。何か眉間に強い意識が集まってくる。

『釈迦である私を信仰すれば良いんだ』と胸の辺りから声がする。『私はブラフマンなんだ』とお釈迦様が現われる。

 お釈迦様が私を導いてくださっていたんですね。私はどの宗教に入信すれば良いですか?

『宗教には入らず、仏典を読み続けなさい。あなたは前世でも仏教徒だったんだ』とお釈迦様が言う。

 私の前世を御存知なんですか?

『知っている。あなたは道元だった』とお釈迦様が言う。

 家の宗教は曹洞宗で、道元禅師の家系です。

『私がそのように導いたんだ』とお釈迦様が言う。

 ありがとうございます。

『あなたは神我を信じていたな?』とお釈迦様が訊く。

 はい。

『それはヒンドゥー教徒だった時に道を極めたから信じているんだ。仏教では正しい信仰ではない。私はブラフマンとしての釈迦だ』とお釈迦様が言う。

 本当に正しくない信仰なんですか?

『このように仏があなたではなく別に現われるな?』とお釈迦様が訊く。

 はい。

『何れ私を消さなければ、あなたは真の悟りを得られないんだ』とお釈迦様が言う。

 私はお釈迦様が何時か現われる事を信じていました。

『知っている』とお釈迦様が言う。

 これから私はいつもお釈迦様と一緒にいられるんですね。嬉しいです。

『あなたはユング心理学を学んだな。私とユング心理学のどちらを取る?』とお釈迦様が訊く。

 お釈迦様です。

『そうか。あなたの心は定まっている』とお釈迦様が言う。

 私は直前の前世は小説家ではありませんか?

『あなたはヘルマン・ヘッセだった』とお釈迦様が楽しげに言う。

 やはり、前世は精神分裂病だったか。

『あなたは人の心の声が聴こえて、自分の心の中の事も人に筒抜けになるのは平気だったか?』とお釈迦様が確認する。

 どちらかと言うと苦手でした。最近は思考伝播に関する対人恐怖が大分和らいできました。

『あなたは子供の頃から神の耳と渾名されていたのを知っているか?』とお釈迦様が英知を発揮する。

 何か以前幻聴で聴いたような・・・・。

『実際にそう言われていた言葉なんだ。それをあなたが幻聴だと自分に納得させたんだ。そう言う耳で良いのか?』とお釈迦様が俺の願いを確認する。

 そう言う世界って、どう嘘を吐くんですか?

『あなたは嘘を吐きたいのか?』とお釈迦様が俺の心を指摘するように言う。

 いいえ。そう言う訳ではないんですが・・・・。心の中の言葉が人に判る世界で人前で性的な言葉を心の中で思い出してしまうのがとても恥ずかしくて、怖いんです。

『そう言う思い付きは皆、女性に好意を示すために利用しているんだ』とお釈迦様が明るい声で嬉しそうに言う。

 はああ、それは逞しい。私は微妙に繊細な心を残したいです。

『そう言う繊細な心で漫画を描いているか?』とお釈迦様が訊く。

 いいえ。ハードボイルド調の非感情的な主人公ばかり描いています。

『アメリカ人はシャイを病気だと見做す』とお釈迦様が例え話をする。

 はい。

『あなたは女性を軟派出来るか?』とお釈迦様が俺の能力を確認する。

 いいえ。出来ません。二回以上会える人には告白出来ますが。

『何で軟派が出来ない?』とお釈迦様が俺に問う。

 コミュニケイションが十分でないと、女性の心が開かないからです。

『・・・・、なるほど。それは聴こえていない子に出会った事が原因しているな。何処にそう言う子がいた?』とお釈迦様が問い詰める。

 ええと、ああ、ええと、ああ!小野さんだ!

『あの子は女神だ!』とお釈迦様が晴れやかな声で言う。

 やっぱり、そうですか。私は子供の頃に女神としての小野さんを見たんじゃないかと思っていたんです。

『男の初恋は女性の中の女神のオーラを見るものなんだ』とお釈迦様が意外な真実を伝える。

 そうなんですか。

『他にそう言う子がいたか?』とお釈迦様が念入りに私の周辺にいた人物の事を訊き出す。

 ええと、多分。ええと、・・・・。

『いないな』

 はい。

『あたし、離婚してると思う』と小野さんの声のアニマが言う。

『寝てる子は向こうの現実は何も憶えていなかったな?』とお釈迦様が訊く。

 はい。

『電話番号も住所も知らず、自分の家に案内する事も出来なかったな?』とお釈迦様が訊く。

 はい。小野さんの声って、アニマなんですか?

『先程、ユング心理学より私を取ると言ったな?』とお釈迦様が確認する。

 はい。

『元型と言うのは霊ではないんだ』とお釈迦様が言う。

 霊じゃないとしたら、何なんですか?

『心の産物だ』とお釈迦様が言う。『私は前世でも表われた。ヘッセは私の言う事を聴かないんだ。何者にも服従する気がないんだ』とお釈迦様が言う。

 ヘッセらしいですね。ヘッセは何で『シッダールタ』みたいな作品を書いたんだろう。主人公のシッダールタはお釈迦様に出会っていながら、仏弟子として出家しないんです。

『あれは本当におかしな小説なんだ』とお釈迦様が言う。

 今日は実家に帰り、亜美ちゃんとの結婚の事を親に伝えに行くんです。

『知っている』とお釈迦様が言う。

 俺はまだ話し足りない。話し足りなくとも、話したい事が思い当たらない。

 俺はお釈迦様を中に宿してバスに乗り、大森の実家に帰る。

「ただいま!」と実家の玄関のドアーを開け、家の中に声をかける。

 母は台所で漬物の手入れをしている。糠の臭いが鼻先を掠め、不快さに顔を歪める。

「あら、正道、今日は何か用?」と母が呆気らかんとした顔で挨拶もなく訊く。

「一寸ね。お父さんとお母さんが揃ったら、用件を言うよ」

「マンゴー・プリン食べるなら、冷蔵庫から出して食べて」と母が早速世話を焼く。

「家って、何時来てもお菓子や果物や甘い物があるね」

「お母さんがお客さんが何時来ても良いように買い置きしてるのよ」と母が糠を弄った手を流しの水道水で洗いながら言う。

「でも、それって、お客さんが来なかったら、家の者が食べる事になるんでしょ?」

「そうよ」と母が平然と答える。「勿論、全くのお客さん用として買ってる訳じゃないの」

「ああ、なるほどね」

「具合悪かったら、お母さんの部屋に行って寝てなさい」と母が俺を労わる。

「この頃、精神錯乱した時に横にならなくなったんだ。ベッドに横になる習慣が付くと、病人臭くなるからね」

「寝込まずに済んでるなら良いわね」と母が安心したように言う。

「ただいま!」と玄関から父の声が聴こえる。「おお、正道!来てたのか!」

「一寸、 お父さんお母さんに用があってね」

「ほう!何の用だ?」と父が興味深げな笑顔で訊く。

「一寸、お父さんお母さん、二人並んでソファーに座ってよ」

 両親が居間のソファーに並んで座る。

「あのさ、俺、結婚しようと思ってるんだ。結婚相手は精神科病棟で今回出会った高田亜美さんって言う二十七歳の漫画家志望の画家さん。彼女が俺の子供を妊娠しているんで、急遽結婚する事にしたんだ。障害年金で食べているような精神分裂病の男との結婚に両親は反対しないのかって確認したら、自分の娘だって精神分裂病の精神障害者なんだから、反対する理由なんてないって言うんだ。生活保護世帯になるかなって言ったら、彼女は美大を出て、名誉ある絵画の賞を得たような画家だから、絵画で十分食べていける収入があるって言うんだよ。子供を養う収入は当分彼女に任せられるんだ」

「あら、恋人が妊娠したの!」と母が呆れて言う。

「まあ、男としてのけじめを付ける訳だな」と父が満足気に言う。

「そうだよ」

「判った。向こうの親御さんにはもう挨拶しに行ったのか?」と父が訊く。

「明日、御会いしに行くよ」

「ちゃんとした挨拶の仕方は判るか?」と父が心配そうに訊く。

「土下座して、娘さんを私にください!でしょ?」

「まあ、そうだ。しかし、お前に恰好は付かないんだぞ」と父が厳しい目付きで言う。

「判ってるよ」

「じゃあ、気合入れて挨拶してこい!」と父が励ます。

「うん。判った。それじゃあ、用件は済んだから、俺は帰るよ」

「夕食食べていかないの?」と母が引き止める。

「ああ、じゃあ、御馳走になります」


 アパートメントに帰宅すると、電話が鳴る。

「もしもし、氏川ですけど?」

『ああ、あたし。亜美』と亜美ちゃんが親しげに名乗る。

「今日、両親に亜美ちゃんの妊娠と結婚の事を話してきたよ」

『何て言ってた?』と亜美ちゃんが興味津々の様子で訊く。

「了解してくれたよ。今度、家の親に亜美ちゃんを会わせたい。とりあえず明日は亜美ちゃんの御両親に挨拶しに行って、亜美ちゃんとの結婚を申し出るつもりでいる」

『判った。両親に言っておくわ』

「俺、お釈迦様が神我として表われてさ、直前の前世は小説家で詩人のヘルマン・ヘッセらしい」

『へええ、不思議な話ね』と亜美ちゃんが関心なさそうに言う。『あたしにまだ幻聴があったら、その神我のお釈迦様も幻聴と見做して、老賢者のような元型だろうと解釈すると思うんだけど』

「幻聴?今言った事の全てが?何か前も守護霊様として表われた声を老賢者だって言ってたよね?」

『うん』と亜美ちゃんが申し訳なさそうに言う。

「俺の世界観って突き詰め方が甘いな」

『でも、氏川さんって、素直』と亜美ちゃんが俺を誉める。

「何か亜美ちゃんに意見されると、ハッとする事が多いんだよね」

『幻聴の事考えるのが止まらないんでしょ?』と亜美ちゃんが遠慮勝ちに言う。『あたしは幻聴が消える前は幻聴にうんざりしてた。もうこれ以上幻聴の事知りたいと思わなかった』

「俺はユング心理学的な概念からも被害妄想があった。正直なところ、ユング的な世界観にも馴染みたくない。ユングって、内的な経験しか重んじないでしょ?」

『うん』と亜美ちゃんがユングを肯定するような返事の仕方をする。

「そう言う特徴をどう思う?」

『あたしはまだセルフの心の完成とかアニマが英知に目覚める事とかを信じてるの。でも、幻聴が消えたら、そう言う関心事って何だったのかなって思う』と亜美ちゃんが自分の混乱を打ち明ける。

「何か幻聴に突き動かされて関心持ってたでしょ?」

『うん』と亜美ちゃんが正直に認める。『あたし、ユング心理学を捨てて、お釈迦様の信仰に生きようかな』

「俺も何か一遍に問題が解決したよ。俺、お釈迦様の教えとか何も知らないのに自分の前世だと信じてたんだ」

『ユングの自伝を読んでも、仏の境地に達したとか、英知に目覚めたって言うような記述はないでしょ?』と亜美ちゃんがユングについて話す。

「何気なく描いた絵が中国の曼荼羅そっくりだったとは書いてあった」

『あたしもそれが凄いなって思ったの。それにユングって、基本的に霊能者でしょ?』と亜美ちゃんがユングを支持する。

「うん」

『正直なところ、あたしは自分に起きた元型的な現象と心霊現象の区別が全く出来なかったの。でも、そう言う事はもういい。幻聴はうんざりなの。あたしは幻聴を消すために神様仏様にお祈りするとかしないとか、そう言う事も考え付かなかった。とにかく幻聴が怖くて、もう幻聴は消えて欲しい、あたしの心の中からいなくなって欲しいって、強く思ったの。そう思ってたら、或朝起きた時に幻聴が消えてたの』と亜美ちゃんが俺の心に深く訴えかけるように言う。

「幻聴が消える時って解釈云々じゃないんだね」

『うん。あたしは幻聴が消える前には神様や仏様の御告げもいらないって思ってたの』と亜美ちゃんが自分の信仰上の思いを打ち明ける。

「ああ、そこが俺と違うところだな」

『それは幻聴があるからよ。混乱の最中にあるからよ』と亜美ちゃんが深く俺の心に訴えかける。

「精神分裂病の治し方とか漫画に描きたくない?」

『お医者さんの意見を沢山取り入れて、闘病記や自伝的な漫画を描きたいとは思う』と亜美ちゃんが打ち明ける。

「医者は薬を出すだけだよ?」

『そんな事ないよ!聴く耳を傾ける意思さえあれば、お医者さんは一杯助言してくれるわ』と亜美ちゃんが精神科医の事を話す。

「それが間違ってたら、どうする?」

『精神科医は実際の症例を沢山知っていて、どんな心がけを守って生活していた人達が幻聴が消えたとか、寛解したとか、沢山情報を持ってるのよ』と亜美ちゃんが自分の精神科医への信頼感を言葉にする。

「亜美ちゃんだって、幻聴は消えたかもしれないけれど、寛解した訳じゃないんだよ?」

『別にあたし、自分が病気じゃないなんて言ってない』と亜美ちゃんが俺との心の擦れ違いを悲しむように言う。

「ああ、何か俺、亜美ちゃんに自分の神性とか仏性を否定されたように感じて、堪らなくなったんだ」

『あたしはそんな氏川さんが大切にしている事まで否定する気持ちはない。口論を吹っかけているのでもない。氏川さんと知能でコミュニケイションする事も諦めてない』と亜美ちゃんが全ての俺の勘違いを正す。『結婚したら、口喧嘩しても、絶対に離婚とかしないように注意しようね』

「うん」

『明日、何処で何時に待ち合わせしようか?』と亜美ちゃんが明日の事を訊く。

「亜美ちゃんは蒲田に住んでるんでしょ?」

『うん』と亜美ちゃんが子供のような口調で返事をする。

「JR蒲田駅の広い改札口の前で待ち合わせしよう。何時なら御両親揃って御在宅されてるの?」

『明日は日曜日だから、朝から両親共に家にいるわ』と亜美ちゃんが明るい声で言う。

「じゃあ、朝の十時にJR蒲田駅の改札口で待ってるよ」

『うん。判った。それじゃあ、お休みなさい!』と亜美ちゃんが言う。

『お休み。それじゃあね』

 電話を切り、風呂に入ると、十三作目の漫画のペン入れに取りかかる。明後日、十三作目の漫画三十二枚を出版社に持ち込む。そう言えば、亜美ちゃんの漫画の結果はどうなったろう。言わないところを見ると、落選したのだろう。作品が返却されたら、一度読ませて欲しい。


 翌朝は六時前に目覚め、生卵かけ御飯とエノキの味噌汁と蜂蜜入りの梅干しで朝食を済ませる。今日は亜美ちゃんの御両親に結婚の申し出をしに行く。異様に緊張するため、ポータブル・CD・プレイヤーで音楽をイヤフォンで聴きながら、幻聴を紛らわせてJR蒲田駅に行く。俺の幻聴はイヤフォンの音楽の中にも紛れ込むため、全く幻聴を聴かない訳にはいかない。

 幻聴が聴こえたら、何があるのか。精神錯乱に陥る。何故、幻聴が聴こえると精神錯乱に陥るのか。姿形のない幻聴がありありと表われ、幻聴から気を逸らそうとする意識を追い回され、脅威を感じるのだ。幻聴がありありと表われると、何故脅威を感じるのか。自分の注意力を幻聴の外に向けられない閉塞感に苦しむのだ。幻聴は俺の心を自閉する。俺は常に外界に意識を向けようとしている。努めて外界に意識を向けないと外界に意識を向けられないのか。幻聴への関心の方が強くて、他に意識を逸らせないのだ。関心があるなら、幻聴を聴いていれば良いではないか。幻聴が俺に話しかけたり、質問したりする言葉に答えられず、全てを幻聴が考え、返事を決め付けるのだ。それは自分の考えと合っていないのか。合っている事が多い。それで問題が解決されたなら、幻聴に意識を向けていた甲斐があったではないか。それ以上に幻聴が人間追究をし、人間を無能な存在へと貶めるのだ。人間は幻聴に対して無能なのか。幻聴に意識を追い詰められ、心に入り込まれると、人間など非常に小さくて弱い意識の存在になる。それでも幻聴は俺の発言を餌に考える事を求め続ける。それは人間に対する精神的な虐めとなる。それがずっと続くのか。精神力の限界を遥かに超える苦しみとして寝込むまで続く。時には幻聴に眠り込む事も妨げられる。関心事の視野が狭いのではないか。幻聴が騒ぐと、心が幻聴の分析と幻聴に対する自己分析しか思い付かなくなる。幻聴が騒いでいない時は何を考えているのか。幻聴への不安に絶えず怯え、幻聴以外の事に関心を向けられずにいる。その関心事の狭さが問題なのではないか。買いたい漫画や小説やDVDの事を考えたり、自作品を振り返ったり、気持ちにゆとりがある時には漫画を執筆する事も出来る。そう紙に統合失調症者の自己問答の場面の言葉を書き付ける。

 他に何に関心を持とう。自炊をするようになって、料理の事を考えるようになったか。仏教の修行僧は掃除や洗濯や料理や食事等、日常のあらゆる行為が修行であると言う。俺は神様仏様に精神分裂病と言う難解なゲイムを攻略する使命を与えられたのだろう。俺にはこの問題を解決するだけの器が見込まれているのだ。

 何をするにも意識の片隅で聴こえなくなった幻聴の事を気にしている。亜美ちゃんはその生活にうんざりし、もう幻聴の事を知りたくないと思った。そんな思いで来る日来る日も生活している裡に、或朝起きたら、幻聴が消えていたのだ。

 玄関の外に出て、煙草を吸うと、口許に幻聴の声が煙草の煙を吐く息の音に重なる。俺は堪らなくそれに圧迫感を感じ、精神錯乱を起こして、過呼吸症状が表われる。ああ、俺は一向に救われない。俺は仕方なくベッドに横になる。また寝込む癖が始まるのか。

 以前、病気には波があると主治医が言っていた。病気の症状は年齢と共に少しずつ軽くなっている。病苦そのものは二〇代の頃よりは三〇代の頃の方がずっと軽い。幻聴が直接的な精神苦となり、苦しみが苦しみである事には変わりない。向精神薬がどう病気に作用して病気を改善しているのかが判らない。診察室で主治医に質問すれば、主治医は医学的な情報を提供してくれる。こちらが質問しなくとも、毎回、主治医は何らかの医学的な情報を与えてくれている。それが診察室を出ると、直前まで主治医が話していた事を忘却してしまうのだ。

 ユングは飽くなき探究心を内なるものへと向けた。俺はユングとは違う。違うけれども、ユングしか元型と言う幻聴の実態に関する教えを説く者がない。ユング心理学とは絶対的な教えなのか。参考程度に知っておくぐらいで良いのか。いいや、一度ユング心理学を勉強すると、ユング心理学的な関心事から解放される事がない。亜美ちゃんの幻聴解釈も完全にユング心理学を根拠に説明される。俺はユングを精神分裂病患者そのものだったのでないかと思っている。ユング心理学が当てにならないとあらば、この苦しみから救ってくれるものは精神安定剤や医師によるカウンセリングしかない。精神科医は『幻聴を気にしないで生活が出来るようになれば良いですね』と言う。ほんの少し幻聴を気にしないでいるだけで突然幻聴が騒ぎ出し、精神錯乱に陥る。そう関係付ける事自体が俺の妄想なのか。精神科医は精神分裂病患者の精神の指導を何処まで出来るのか。


 一時眠り込んで目覚めると、もう九時だ。そろそろ亜美ちゃんに会いに行く時間だ。幻聴は聴こえない。物事に集中している時には幻聴は聴こえない。関心事を増やし、生活のあらゆる行為に集中しなければいけない。

『生活のあらゆる事に集中する事!』と正義感に満ちた女の子の元型が確信を以て言う。

 幻聴を消すような身体部位の集中点はないのか。眉間にも幻聴の声が向き合う。お腹の音にも幻聴の声が重なる。胸の中にも幻聴が陣取って、神仏のように居座る。心臓か。心臓を集中点にしたら、心臓負担になるのではないか。あれ?何か後頭部が温かい。何だろう。

『俺だよ。ヘッセだ』

 ヘッセって、本当に俺の前世だったの?

『面識もない他人が体内に表われるか?』

『神我として表われたお釈迦様はあなたの前世だよ』とヘッセが日本語で言う。

 何で日本語が話せるの?

『前世の霊が分離するまではあなたとして生きてきたんだ。日本語をマスターするのは我々前世の方が早かったんだよ。後頭部の盛り上がりの境界線辺りに前世に通じるチャクラがあるんだ。我々は奥の方の前世まで後頭部の骨の内側辺りでギュッと圧縮されたように連なっているんだ。我々は代々代々ブラフマンとして生まれてきたんだ。インドのサイババもブラフマンの化身って言っているけれど、ブラフマンは一人じゃないんだ』とヘッセが言う。

 本当に元型じゃないのか。私は半信半疑でヘッセと名乗る幻聴の話を前世の話として聴いている。何で幻聴なしで内なる存在と交流出来ないのかな?

『カルマとして幻聴が生じているから仕方ないんだよ』とヘッセが言い難そうに言う。

 確かに前世の言葉には動悸を感じない。神我は微妙にドキドキした。

『あなたが元型を気にしながら、神我を捕らえたからだろう』とヘッセが言う。

 今日は恋人の高田亜美さんの御両親に結婚の申し出をしに行くんだ。

『知ってるよ。亜美ちゃんは俺の前世の三番目の妻の生まれ変わりなんだ』とヘッセが嬉しそうに言う。

 そうなんだ!

『俺達前世は前世の縁者の姿が最新の髪型で、最新の服を着て、最新の化粧をした当時のままの姿で見えるんだ。肌艶や骨格はほとんど当時のままだよ』とヘッセが言う。

 へええ。ああ、そろそろ出かけるよ。

『うん』とヘッセが言う。

 ヘッセはドイツ語が話せるの?

『俺は今、ドイツ語で話してるんだよ。あなたと会話する時にはあなたの言語に変換されるんだ。俺達はこの次元の伝達では日本語で話せないんだよ。我々の頭には現世人の時の記憶が保存されている領域と二回以上の世の頭があるんだ。俺達は二回以上の世の人生経験をレセプターを通じたアートワークに活かしてるんだ。俺達前世は自分の体では独自のアートワークをしないんだ』とヘッセが言う。

 へええ!外でアートワークをするの!誰の何て言う作品?

『その記憶はレセプターの頭に残してあって、ここにはないんだ』とヘッセが言う。

 はあ。それは残念。

『外でのアートワークは昔から前世域にあった仕事ではないんだ』とヘッセが言う。

 そうだろうね。小説家や詩人の数が急激に増したのはヘッセの時代からだもんね。況してや漫画家なんて職業は遂最近現われたものだしね。

『後ろの方は何度となく人生を重ねて生きてきているんだよ』とヘッセが言う。

 本当の永遠の生だね。

『まあ、そうだ。神我によると、我々は再び現世人に生まれ変われるらしいよ』とヘッセが言う。

 生まれ変わりって、俺が連続して生まれ変わりを繰り返してるんじゃないの?

『あなたが生まれ変わる次元は新しい現世人が生まれた後の未分化な時期までの話だよ。この時期までの我々はあなたの名と姿を自分の名と姿だと思ってるんだ』

 JR京浜東北線でJR大森駅からJR蒲田駅に向かう。

 JR蒲田駅の改札口に近付くと、亜美ちゃんが俺に手を振る。亜美ちゃんはピンクのブラウスに白いプリーツ・スカートを着て、赤いストッキングを穿き、白いサンダルを履いている。

「待ち合わせ場所に来るの早いね」

「いてもたってもいられなくて、思いっきり早く家を出てきたの。待ち合わせにあんまり早く来るのは失敗ね。昔から待ち合わせには早目に来ちゃうの。待ってる時間って本当に焦れるのよね」と亜美ちゃんが西口の階段の方に歩いていきながら、打ち解けた様子で話す。そこには赤の他人としての戸惑いがない。俺は亜美ちゃんのそんな親近感を距離感を以て受け止めている。俺はまた何時失うか判らない大切な命として亜美ちゃんの事を見ている。

『手を繋ぎたいんだが、ダメか?』とヘッセが俺に訊く。

 ああ、じゃあ、繋ぐよ。俺は亜美ちゃんの左手を握る。亜美ちゃんはハッとして俺の顔を横から見上げる。亜美ちゃんは満足気な笑顔を見せて、再び前を向く。

「何て結婚の話を切り出そうかな」

「もう結婚の申し出に来るって、はっきり言っといてあるわよ。氏川さんを見たら、直ぐに結婚の申し出をするものとして見てるわよ」と亜美ちゃんが冗談交じりに言う。

「そうなんだ!」と俺が大袈裟に驚いて、笑うと、亜美ちゃんも笑う。俺はまた真希ちゃんの事を想う。真希ちゃんの霊が亜美ちゃんの中に入る事を想像する。いいや、真希ちゃんは真希ちゃん。亜美ちゃんは亜美ちゃんだ。真希ちゃんは一緒に死んでくれる男を求め、俺を恋人にしたのだ。一歩間違えば、俺はもう死んであの世にいたのだ。俺の心を何時までも真希ちゃんに引き付けているのは真希ちゃんの霊なのか、前世の分離霊なのか、中の生霊なのか。幻聴は聴こえない。

「ここよ」と亜美ちゃんが自宅を指差して言う。青い屋根の二階建ての家だ。特別大きな家でも小さな家でもない。亜美ちゃんは門を開け、俺に道を譲る。俺は門の中に入り、亜美ちゃんと並んで玄関に向かう。

「ただいま!」と亜美ちゃんが家の中に声をかける。

「お帰り!」と亜美ちゃんの母親らしき人の声がし、間もなく母親らしき人が玄関に現われる。「お初にお目にかかります。亜美の母の徳恵と申します」と亜美ちゃんのお母さんが自己紹介する。

「お初にお目にかかります。氏川正道と申します。亜美さんとはT医大の病棟で出会い、一緒に漫画を描いていました」

「そのように娘から御聴きしております」

「氏川さんは精神病院漫研の創設者なのよ」と亜美ちゃんが楽しげに言う。

「何だか退廃的な団体名ね」と亜美ちゃんのお母さんが言って、笑う。「氏川さんがネーミングしたんですか?」

「はい」と俺が照れ臭そうに答える。

「なかなかの感性よ」と亜美ちゃんのお母さんが誉める。「どうぞ、中にお入りください」と亜美ちゃんのお母さんは言って、スリッパを出し、「どうぞ、このスリッパを御使いになって!」と言う。

 俺は家に上がり、スリッパを履く。亜美ちゃんのお母さんが家の奥に先頭を切って案内する。五メートルぐらいの廊下を経て、居間に入る。

 入って向かいの茶色い皮のソファーから亜美ちゃんのお父さんらしき人が立ち上がり、「お初にお目にかかます。亜美の父の光作です。宜しくお願いします」と俺に頭を下げて挨拶をする。

「お初にお目にかかります。氏川正道と申します。三十一歳です。今日は亜美さんとの結婚の申し出をしようと思って、お窺い致しました。亜美さんとはT医大の病棟で出会い、一緒に漫画を描いていました。私は漫画家志望で、画家でいらっしゃる娘さんを漫画の世界に御誘いしました」

「そうですか。どうぞどうぞ、ソファーに御かけになってください」

と光作さんが歓迎する。

 俺は窓向きのソファーの手前に腰かけると、光作さんも再びソファーに腰を下ろし、徳恵さんがその右隣に腰を下ろす。

「いやあ、娘が精神分裂病になり、これはもう結婚も諦めないといけないのかなと覚悟していたんです。ですから、こんな娘で宜しければ、是非幸せにしてやってください」と光作さんが眼を輝かせて言う。

「娘さんは必ず幸せにします。亜美さんとは喧嘩や口論をしても、絶対に離婚しないと約束し合いました。夫婦喧嘩が起きた家庭がどんな環境になるのか知りませんが、その約束をしっかりと守って、結婚生活を末永く続けたいと思っております。私は障害年金しか収入がありませんが、子供の養育費は亜美さんの絵画の売り上げに任せ、私は安心して漫画を描いて、少しでも早く漫画家になって収入を得たいと願っております」

「芸術家同士の結婚ですからね、収入がある方が家計を支えるのは当然です。その辺は本人同士の話し合いで自由に決めて良いと思います」と光作さんが労わるような眼差しで言う。

「亜美の絵は本当によく売れるんです。自分の娘の絵がそんなに売れるとは一寸信じ難いような気持ちで受け止めていますけどね」と徳恵さんが嬉しそうに言う。

「入院中から描いていた漫画は入選したの?」と右隣に腰かける亜美ちゃんに訊く。

「ああ、完全に落選した」と亜美ちゃんが残念そうに言う。「一発で入選するかと思ってたのよねえ」

「絵画が上手くいってるからって、考えが甘いんだよ、お前は」と光作さんが亜美ちゃんに注意する。

「氏川さん、今日は家で昼食を食べて戴けますよね?」と徳恵さんが訊く。

「ああ、すみません。御馳走になります」

「カレー・ライスはお好きですか?」と徳恵さんが訊く。

「ええ。大の好物です」

「家のカレーはインド式の本格的なカレーなんで、きっと喜んで戴けると思います」と徳恵さんが自信に満ちた顔で言う。

なかなか面白い群像劇になりました。

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