精神科への再入院。
漫画家を目指しながら、統合失調症が発症する主人公の群像劇
『再発による再入院』
「正道!」と女性の声に名前を呼ばれ、眼を開ける。ベッドの脇に母が立っている。ここは何処だ?何故母がいるのか?ああ、今日、救急車に運ばれて、精神科に入院したんだった!
「ああ、お母さん」
「薬も飲まず、通院もせずにいたらしいわね」と母が厳しい目付きで言う。
「ああ、守護霊様がもう薬は飲まなくていい。精神科への通院は自分が必要ないと思ったら、止めれば終わるんだって仰ったから、薬を捨てて、通院もしなかったんだよ」
「そう言うのは守護霊様なんかじゃないらしいわよ」と母が叱るように言う。
「何でそんな事判るの?」
「先生がそう仰ったのよ」と母が真顔で言う。
「精神科医って無神論者なのか」
「そうじゃないと思うわよ」と母が医師の肩を持つ。
「一寸煙草吸ってくるわ」
「お母さんなら、まだいるから焦らなくてもいいのよ」と母が俺を安心させる。
俺はベッドから下りて、デイ・ルームの喫煙所に煙草を吸いに行き、病室に戻る。
「お母さん、今度面会に来る時に俺の机の上の漫画の原稿全部とインクとペン軸とペン先のケースと修正液と定規と」
「憶えられないから、持ってきて欲しい物は全部この紙に書いて!」と母がメモ用紙とボールペンを差し出して言う。
「ああ、判った」と俺は言い、母に持ってきてもらいたい物を全て書く。
「よお!氏川さん!」と背後から男性が声をかける。振り返ると、村野さんが笑顔で立っている。
「あれえ、また村野さん、再入院?」
「幻聴が酷くて、自炊が出来なくなって、おまけに煙草の本数が増えて、障害年金じゃ生活が出来なくなって、病院に駆け込んだんだよ」と村野さんが常連の患者然たる落ち着いた態度で言う。
「俺は守護霊様の御告げで薬はもういらない、精神科への通院は自分が必要ないと思うなら、もう行かなくても良いって言われて、薬を捨てて、通院もせずにいたら、先生から電話が来て、病院に来るように言われたんだけど、もう精神科には行きませんって言ったら、看護師の人達が救急車で家に来て、それで再入院したんです」
「まあ、俺も昔似たような事を経験しました。俺はお釈迦様の御告げで薬止めたんです」と村野さんが自分の経験に照らし合わせて言う。
「俺、今、運命の女性と出会うための時期にあって」
「俺は運命の人との出会いは諦めました。生霊の言う事って、全部間違ってるでしょ?こっちが知らない事は運命の人の霊も判らないでしょ?」と村野さんが苛立ったように言う。
「ああ、そう言う感じでした。俺も相当捜し歩いて、到頭運命の人の家には行き着きませんでした。でも、違う相手と結婚するのって上手くいかないじゃないですか?」
「運命の人が中にいるような人にしか出会わないと思うんですよ。大体ツウィン・ソウルが同じ国に生まれると思いますか?普通はソウルメイト程度の人と結婚するのが一番幸せな結婚なんです」と村野さんが精神世界的な知識を披露する。
「五人組は何時デビューするんですかね」
「いやあ、再発とか繰り返してると、あっと言う間に三〇代ですよ」と村野さんが開き直ったような笑顔で言う。
「小説は書いてるんですか?」
「自分で面白いと思えるような小説は書いていません」と村野さんが不満気に言う。
「自作品の第一のファンは自分じゃないといけないと思うんです」
「俺も二〇代の頃にはそう思ってました。今や俺には才能の片鱗なんて何処にもありません」と村野さんがすっかり自信を失って言う。
「皆で頑張って、何とかデビューしましょうよ。詰まらない小説なんて書かない方が良いですよ」
「そうなんでしょうね。書きたいものなんて何もないのに、どうしても書かずにいられないんです」と村野さんが小説の執筆への愛を語る。
「面白くない作品が全集に収まると、読者離れに繋がる作品になりますよ?」
「ああ、それなら、当分書きません。今書いてる三作の長編はアイデアも何もない日常モノの会話文ばかりの小説なんです」と村野さんがすんなりと俺の意見に同意する。
「ああ、それはダメだ。推敲して会話を十分の一ぐらいに減らして、生きた会話だけ残すと良いですよ」
「氏川さんは漫画描いてるの?」と村野さんが俺の様子を探る。
「酔っ払いの幻覚世界の漫画を描き上げて、新人賞に投稿しました。俺はまたここで精神病院漫研を再結成して、新しい仲間を作ろうと思います」
「俺も文学の仲間作って、五人組に文学の面子を増やそうかな」と村野さんが積極的に文学仲間を探す事に目覚める。
「そうすると良いですよ」
「ここは俺の事書いてるだろって、文句言ってくる奴が沢山いる環境でもあるから、気を付けた方が良いですよ」と村野さんが病棟内の頭のおかしい患者について言う。
「ああ、妄想の人達か。我々にも妄想はありますけどね」
「うん。まあね。そろそろ昼飯ですよ」と村野さんが病棟内のスケジュールを伝える。
「皆さん!お薬ですので、コップにお水を入れて、一列に並んでくださあい!」と若い女性看護師の声が食堂辺りで患者達を呼ぶ。
久しぶりの精神科の入院は以前より環境に抵抗感がない。漸く俺も精神科病棟の常連になったか。こう言うところに住み慣れるのも良いものだ。俺は薬を飲んで、昼食を食べる。ハンバーガーとスクランブル・エッグと麦芽コーヒー豆乳だ。初回入院時はよく食べ物が喉を通らず、随分と苦労した。村野さんは左奥の席で五〇代ぐらいの男性と話をしている。俺の前には二〇代後半ぐらいの女性が座っている。なかなかの美人だ。髪型はボーイッシュで短く、白い無地の半袖Tシャツを着て、胸の辺りが心持ち少し膨らんでいる。均整の取れたはっきりとした顔をしていて、大きな口に赤い口紅をしている。俺はその女性に話しかける。
「あのう」
「ああ、はい」とその女性が笑顔で返事をする。
「俺、今日入院してきました氏川正道と申します。宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします。高田亜美と申します」と高田さんも自己紹介する。
「俺、漫画家志望なんですけど、創作系の方ですか?」
「あたし、大学が美大の油絵科で、絵を描いています。あたしも漫画は中学の時に描いてました」と高田さんが笑顔で話す。
「漫画はもう描かないんですか?俺、前回の初回入院時にも精神病院漫研をここで結成したんです。精神病院漫研に参加しませんか?」
高田さんは笑いながら、「精神病院漫研!」と楽しげに言い、「良いですね、精神病院漫研」と言う。
「何か怪しいカルト教壇っぽくて良いでしょう?」
「そうですね」と高田さんが笑って言う。「あたし、結構カルト映画は観る方なんです」と高田さんが意外な個性を示す。
「へええ、女性にしては珍しい」
「あたし、自分の事男かなって思う事があるんです」と高田さんが笑顔で言う。
「アニムス」
「ああ、ユング心理学のアニムス。あたし、幻聴があるんですけど、アニムスとアニマと二つともいるみたいなんです」と高田さんがユング心理学的に幻聴解釈をする。
「へええ」
この人、美人なのに面白いな。もしや『この人は』と、恋人になる予感もする。中にアリシアがいるのか。体内のアリシアが全く話しかけない。いないのか。
「一緒にここで漫画描きませんか?」
「あたし、ストーリーが作れないんです。漫画風のイラストレイションとかはたまに描くんです」と高田さんが申し訳なさそうに言う。
「俺、漫画にストーリーらしきものはいらないって思う事があるんです。繋がりのない出来事の連続とか、何も起きないって言うのもありだと思うんです」
「ああ、なるほど。あんまりお話然としたストーリー漫画は低俗ですよね。あたしもアート・コミックとかなら挑戦してみたいです」と高田さんが漫画を描く意欲を示す。
「それで良いですよ!精神病院漫研に入って、ここで漫画描いてください!」
「ああ、はい!じゃあ、久々にあたしも漫画描きます!」と高田さんが改まった顔で言う。
「絵画はどんな絵を描かれるんですか?」
「ああ、常に新しい絵画を模索中です。一時シリーズを描いては、また他の作風に移ってます」と高田さんが多才ぶりを示す。
「俺、今年三十なんですけど、年齢はお幾つですか?」
「もう二十七なんですよ」と高田さんが困ったような顔をして言う。
「個展とか開かれるんですか?」
「個展は大学卒業してから一回やった事あります。N展にも入選しました。今は合同展示会によく参加します」と高田さんが順調に進んだ表現活動の事を話す。
「絵はよく売れるんですか?」
「まあ、ぼちぼち」と高田さんが自信ありげに言う。
「ああ、凄いな」
幻聴を気にせず生活するには物事に対する集中力がいる。幻聴は生活の端々で聴こえてくる。幻聴が何故突然騒ぎ始めるのかは判らない。カルマだとしても、何のカルマか判らない。虐めの幻聴だから、学生時期の虐めのカルマなのだろうか。
昼食を食べると診察待ちで廊下の折り畳み椅子に座る。一人診察室に入っては前の方に席を詰める。診察待ちをしていると幻聴がチラホラ聴こえてくる。隣に座る老婆が、「音楽は聴きますか?」と話しかけてくる。
「ええ、主にロックですけど、音楽は大好きです」と答える。
「私は娘からチャラとスピッツのCDをもらいましてね、時々聴いているんです」と老婆の患者が色情溢れる眼差しで言う。
「チャラとスピッツか。俺は音楽はピンク・フロイドと尾崎豊しか聴きません」
「そうですか。あなた、氏川さんって仰るんでしょう?」と何故か老婆が俺の名前を知っている。
「ええ、よく御存知ですね」
「綺麗な御顔をされている男性なんで、何て言う方なんですかって、看護婦さんに訊いたんです。そうしたら、氏川正道さんって言うのよって、看護婦さんが教えてくださったんです」と老婆が何の恥じらいも見せずに言う。
「ああ、そうですか」
「あたし、若い頃に旦那と離婚したんです。ですから、今は独身です」と老婆が眼を輝かせて言う。「氏川さんは甘い物お好きですか?」
「ええ、好きですよ」
「じゃあ、この甘納豆食べてください」と老婆が袋を差し出して言う。
「ああ、はい。ありがとうございます」
袋に入った甘納豆が袋の底に三つ程残っている。俺は袋の中に手を入れて、甘納豆を一粒摘むと、「戴きまあす」と言って、甘納豆を一つ食べる。
「美味しいでしょ?」と老婆が笑顔で言う。
「美味しいです」
「氏川さんは独身でらっしゃいますか?」と老婆がまた俺との色恋のきっかけを掴もうと、俺の事を訊いてくる。
「ええ、まあ」
「あたしも独身なんです」と老婆が目を輝かせて言う。
このお婆さんは自分を老人だと思っていないのだろう。
「氏川さん、診察室にお入りください」と診察室から看護婦が出てきて、俺を呼ぶ。
「それじゃあ、また後でね」と老婆が俺に笑顔で言う。「あたしの診察はあなたの後だから」
何であんなお婆ちゃんが俺と付き合えると思うんだ。相当に自分に自信があるんだな。あのお婆ちゃん、何歳なんだろう。恐らく八〇代ぐらいだろう。仮にもっと若かったとしても七〇代後半ぐらいだろう。
「氏川さん、おはようございます。どうぞ、おかけになってください」と主治医の石橋先生が席を勧める。
「おはようございます」
「どうですか?久しぶりの入院ですね」と石橋先生がPC越しに訊く。
「ええ。六年ぶりです。幻聴とかは相変わらず時々あります」
「氏川さんはまたここで漫画を描かれるんですか?」と石橋先生が興味津々と訊く。
「ええ、また精神病院漫研を結成しました。今、メンバーは私と高田さんの二人です。この病棟に村野さんが入院していますね」
「ああ、村野さんね。彼は一寸障害年金のお金を一遍に遣い過ぎましてね、それで病院が引き取ったんです」と石橋先生が笑顔で言う。
「そうらしいですね。先程お聴きしました」
「何か困っている事はありませんか?」と石橋先生が訊く。
「特に今のところは何も困っていません」
「そうですか。はい、では、もう良いですよ」と石橋先生は言って、診察を終える。
「ありがとうございました」
俺は診察室を出て、喫煙所に向かう。喫煙所では唇にピアスを付けたロック系の女の子が壁際の角の席で煙草を吸っている。その女の子が不貞腐れたような顔で俺の顔を見る。逆立てた長い髪をピンクと紫に染めている。余り関わりたくない。
「あんた、何してる人?」とロック系の女の子が不貞腐れた顔で訊く。
「ああ、俺ですか。漫画家目指してます」と危険を感じながら答える。
「あたしも漫画家志望。よろしくね」と濃いアイラインの化粧をした眼と黒い口紅を塗った大きな口の笑顔を見せて言う。
「どんな漫画描くんですか?」
「パンクスのイカれた漫画」と女の子は口角を上げた笑顔で意味深げに言う。
「へええ、読んでみたいな」
「じゃあ、今、持ってくるね」と女の子は言って、立ち上がり、病室の方に向かう。
あの子の漫画は多分面白いな。漫画への愛が自分を着飾る事にまで溢れてるんだろう。漫画家はああじゃなきゃいけない。俺も赤と紫のモヒカンにしようかな。それとも漫画に全ての愛を注入しようか。いやっ、俺はモヒカンにしたい。あの子を恋人にしたら、どんな恋かな。女の子が大きな紙袋を持って、走って戻ってくる。
「はい!これ、あたしの漫画!」と女の子が紙袋を俺の胸に突き付ける。
「俺、氏川正道と言います。年齢は三十です」
「ああ、あたしも自己紹介しようかな。名前は岩下清美、三十です」と岩下さんも自己紹介する。
「ああ、じゃあ、同じ年だ」
「ペンネイムはスージー・オクトパスって言います」と岩下さんがペンネイムを名乗る。
「オクトパスって、タコだっけ?」
「そう。だから、皆、あたしの事タコミって呼ぶの。あなたも良かったら、タコミって呼んで」と岩下さんが親しげに言う。
「タコミちゃんね。判った。そう呼ぶよ」
「氏川さんって、ペンネイム何?」とタコミちゃんが俺のペンネイムを訊く。
「俺のペンネームは本名と一緒ですよ」
「もっとガッと人の心捉えるペンネームにした方が良いと思うよ。良いペンネイムだと名前で憶えてもらえるって事がある訳じゃない?」とタコミちゃんがペンネイムの効力を説明する。
「ああ、なるほどね。じゃあ、考えてみるよ」
「うん。絶対その方が良いよ」とタコミちゃんが煙草を銜えて、火を点けながら言う。タコミちゃんは顔を上げ、煙に眼を細めながら、「早く読んでよ」と突慳貪に言う。
「ああ、今、読むよ」
この手の女の子とは話した事がない。ノリが判らない。あんまりスウィートな感じもしない。心が冷たいのかな。俺は煙草を揉み消し、紙袋の中から三百枚ぐらいあるケント紙を出して、畳んだ紙袋を喫煙所のテーブルの上に置く。一枚読んでは裏返しにして、紙袋の上に置いていくつもりだ。
殴り書きのような荒々しい筆致だが、物凄くカッコ良くて魅力がある。こんなに沢山作品描いて落選するのか。内容が足りないのかな。暴力描写の多い女性キャラがふとした時に女性らしい素顔を見せるのが良い。相当に魅力のある漫画なのに何故落選するのか。これと言った代表作的な短編になっていないのだろうか。何作も読み継ぐと楽しくなる事が編集に伝わらないのか。
「良い漫画ですね。何で入選しないんだろう」
「あたしもそれが判んないの」とタコミちゃんが怒ったような目付きで言う。
この子は漫画家としては魅力があるけれど、恋人としては怖いな。
「残り病室で読んでも良い?頭が痛くて」
「原稿汚さなければ良いよ」とタコミちゃんが笑顔で言う。
笑えば、意外と可愛い。
病室に入り、ベッドに上がると、車付きのテーブルを自分の前に引っ張って、テーブルの上に封筒を置き、先読んだ分の原稿を紙袋の上に裏返しにして置く。作品に表われた作者のがさつさが女性漫画家の作品であると思うと、とても個性的で良い。
「それ、タコミちゃんの漫画でしょ?」と見知らぬ患者が右隣のベッドから言う。振り返ると二〇代ぐらいの青年で、スケッチブックが机の上に置かれている。
「氏川正道と言います。宜しくお願いします」
「半沢義則と申します。宜しくお願いします」と半沢さんが自己紹介する。「俺も漫画描くんですよ」
「へええ、俺もです。前回、ここに入院した時に、病棟にいた漫画家志望の患者達と精神病院漫研を結成したんです。また今回も精神病院漫研やろうと思ってるんですけど、入部しませんか?」
半沢さんが少し大きな声で、「精神病院漫研って良いですね!」と言って、妙にウケている。
「今度、漫画見せてくださいよ」
「良いですよ。ここにあります。どうぞ」と半沢さんは言って、封筒を三束手渡す。
「他にも漫画描いている患者はいますか?」
「小説描いている女性が一人いますかね。詩を書いてる人は男一人と女二人います」
「高田さんが精神病院漫研に入りました」
「ああ、あの美大出の綺麗な人か」
「好みですか?」
「結構好みではあるんですけど、年齢が向こうの方が上だと思うんですよ」
「俺は狙ってます」
「ああ、そうなんですか!」と半沢さんは言って、笑う。「氏川さんって、お幾つなんですか?」
「三十です」
「若く見えますね」と半沢さんが言う。
若く見えるって、俺はまだ若いと思ってるよ。
「俺は二十一です。漫画の専門学校に通ってたら、幻聴とか聴こえてきちゃって」と半沢さんが苦笑して言う。
「ああ、それは災難でしたね。俺も幻聴はあります。幻聴って、何だと思いますか?」
「霊だと思います」と半沢さんが真剣な眼をして言う。
「普通の霊ですか?怪談に出てくる幽霊みたいなゾッとする霊ですか?」
「いえ、もっと明るい、妖怪みたいな変な言葉を話す霊です」と半沢さんが笑って言う。
「子供の声とか、女の声ですか?」
「ええ、そう言うのもいます。大人の男の声とか、友達の生霊の声とかもいます」
「生霊ね。俺はユング心理学で言う元型だと思います」
「もっと普通に霊だと考えれば良いんじゃないですか」と半沢さんが苛立ちを抑えたような顔で言う。
この人、怒りっぽい人かな。言い争いはしたくない。小説組や詩人組も退院後に我々芸術家集団に加えないといけない。高田さんとタコミちゃんと半沢さんが漫画組か。
「小説書く女性と詩を書く男女は煙草吸いますか?」
「小説書く女性と詩を書く男性は煙草を吸ってました。詩を書く女性はほとんど病室にいます。その人は夜、デイルームにTVを観に出てくるんです。そこでよく話すんです。二〇代前半ぐらいの俺より二つ上の女性です。結構俺の好みの女性なんだけど、年上なのがな」
「二十一じゃ、同じ年ぐらいの女性は患者にいないかもね。退院したら、芸術家集団五人組に紹介するけど、多分、恋人が欲しくなるよ」
「普通の美人では良いなあと思ってる人がいます」
「ああ、じゃあ、そう言う人の電話番号とか住所を聞いておいた方が良いよ。芸術家集団五人組の一人は、今、一緒に入院してるんだよ」
「何て人ですか?」
「村野さん」
「ああ、あの近代の文学論をいきなり語り出す人ですか。あの人、霊に取り憑かれたような顔してますよね!」と言って、半沢さんが笑う。
「村野さんが最年長なんです。五人共全部、半沢さんより年上です。一寸、タコミちゃんの漫画急いで読みます」
「ああ、はい。後で俺の漫画も読んでください」と半沢さんが控え目に願う。
「はい」
面白くなってきたな。タコミちゃんの漫画は良い。物凄く個性的だ。主人公の女の子のワイルドな感じが本人そのものだ。この殴り書きのような線の多さが良い。人物や背景の輪郭を何本もの線で描くのだ。ゴッホの塗りたくるような画風とも似ている。
「氏川さん、漫画読んだ?」と病室の入口の方からタコミちゃんの声が訊く。
俺はそちらに振り返り、「今、読んでる」と言う。「線が良いよね」
「ああ、ゴシゴシガリガリ描く線か。じゃあ、読んだら返してね」
「うん」
タコミちゃんが去っていく。
「タコミちゃんって、幻聴が騒ぐと倒れて狂ったように暴れて泣くんですよ」と半沢さんが苦しげに言う。
「激しいね」
スピード感のある漫画だけど、なるべくゆっくりと丁寧に絵を観て読みたい。読み終わるのが勿体ないような漫画だ。
何とかタコミちゃんの漫画約三百枚を読み終え、デイルームに行く。タコミちゃんはTVの前のソファーに座り、アイスクリームを食べている。
「ああ、読んだ?どうだった?」とタコミちゃんが俺に訊く。
「良かったよ。読むのが勿体なかったです」と俺は感想を言い、タコミちゃんが俺の手から原稿の入った紙袋を受け取る。
「嬉しい!描いた甲斐があったわ!」と荒々しい口調でタコミちゃんが喜びの声を上げる。
タコミちゃんの荒々しい声を聞いてると酷く心が乱れる。
「今度は半沢さんの漫画を読みます。半沢さんも精神病院漫研に入るって言うけど、タコミちゃんも入部しますか?」
「精神病院漫研って、パンクよね!」とタコミちゃんが妙にウケて笑う。「あたしも入る!入る!他に誰がいるの?」
「高田さん」
「ああ、あの女か。合わないけど、まあ、いいや。お人形さんだから、ムカつく事も言わないしね」とタコミちゃんが高田さんを毛嫌いする。
「何で合わないんですか?」
「どう見てもタイプが違うっしょ?あの人、あたしと違って、お嬢様風で品が良いでしょ?あの女、あたしが話してるとずっとウケて笑ってんのよ。訳判んない。氏川さんとは合うかもね。あたし、ここにも外にも自分に合う男がいないのよ。パンクな男に出会わないのよ」とタコミちゃんが荒々しい口調で話す。
「やっぱり、パンクな男が好きなんだ」
「氏川さん、高田さんでしょ?」とタコミちゃんが俺の心中を突く。
俺は図星で言葉に詰まる。
「ああ、氏川さんは正直だわ!」とタコミちゃんが言って、笑う。
「じゃあ、次、半沢さんの漫画読んできます」
「あの子の漫画はシュールよ。あの子は芸術家!」とタコミちゃんが愛情を込めて半沢さんを語る。
「ああ、面白そうだな」
「絵も上手いの」とタコミちゃんが半沢さんの漫画を誉める。
「へええ。興味あるな」
急いで病室に戻り、半沢さんの漫画を読みにかかる。
「タコミちゃんが半沢さんの漫画を物凄く高く評価してたよ。あの子は芸術家って言ってた」
「俺にもよく、よお、芸術家!、おはよう!芸術家!って言うんです」と半沢さんが不満たらたらと言う。
「あの子の性格、荒々しいね」
「うん。あの話口調の声を聴いてると動悸がしますよね。あんまり話したくないんですよ、あの人とは」と半沢さんがタコミちゃんを毛嫌いする。
「対人的な性格は良いけどね」
「ううむ。でも、慣れてくると鬱陶しい程人をからかうんですよ」と半沢さんが苦しげに言う。
「ああ、虐めをやる子なのか」
「それでカルマ受けては幻聴聴いて気い狂うんです」と半沢さんが笑いながら言う。
「懲りない人だね」
「はい」と半沢さんが同意する。
「じゃあ、一寸、漫画を拝見!」
「はい。どうぞ」と半沢さんが嬉しそうに言う。
うわあ、処女作がいきなり六十枚の大作だ。何と一コマ目に大ゴマのアート!それは出エジプト記でモーゼがユダヤ人の群集を連れてエジプトから脱出する時の海が割れて道が出来るシーンだ。その次が宇宙空間の果てのような黒々としたページ半分くらいのコマで、その次が地球の絵で、その次が横長のコマの新宿の高層ビル群の絵だ。そこから新宿のガード下のホームレスの長細いダンボールの住居が現われ、中からホームレスが現われる。無精髭に髪がボサボサした薄汚いホームレスが酔っ払って、よろけながら、ダンボールから出てくる。モノクロの写真のような陰影で人物を描き、人物の輪郭は闇の中に何とか識別出来るような陰影で描かれている。これはプロ同然の漫画だ!何でこれが落選するのか。半沢さんはガロ系の漫画が好きなんだな。タコミちゃんに芸術家と讃えられるのが本当によく判る。アル中のホームレスの日常を描いた作品である。ああ、ダンボールの中で眠り込んで、人知れず死んでいくのか。その後に街中の人混みの中にあの世の霊になったホームレスがモノローグで呟くページが三枚続いて、話が終わる。
「半沢さんの漫画凄いよ!」
「ああ、それ、処女作です」と半沢さんが照れ臭そうに言う。
俺は続けて二作目を読む。今度は月夜の砂漠から始まり、駱駝を連れた行商人が寝袋の中で眠っている。それを姿のない幽霊のような存在が近くで見下ろし、瞬間移動していくコマが流れる。そこで夏の日本の田舎の家の縁側で学生らしき若者が昼寝から目覚める。玉蜀黍焼いたよ!と母親がダイニング・ルームから主人公を呼び、主人公が焼き玉蜀黍を貪る。口の周りに醤油が付いている顔のアップと、食べ物が喉に痞えて、グラスの水を喉に流し込む。そこに近所の同じぐらいの年齢の女の子が現われ、主人公は女の子を自転車の荷台に乗せて出かける。自転車が風のように走行し、作中の風を感じるような表現が巧みな絵で表現されている。二人は図書館に入り、本も読まずに椅子に凭れてクーラーに涼み、缶のソーダー水を飲んで、取り留めのない会話をしながら、憧れの東京の話をして盛り上がる。退屈な田舎の暮らしを年若い主人公が愚痴り、女の子をトイレに連れ込むと、大の方の個室でセックスをする。その後、主人公は女の子と夕陽の綺麗な川原の草の上に寝転がり、自分の鼻先を猫じゃらしで擽ると、くしゃみをする。主人公がうたた寝をしている女の子の鼻先を猫じゃらしで擽ると、女の子もくしゃみをする。女の子は再び寝入り、また主人公が女の子の鼻先を猫じゃらしで擽ると、女の子がくしゃみをして、「もう!」と怒る。主人公は板チョコの欠片を半分女の子に分け与え、二人で美味しそうにチョコレイトを食べる。それで終わりだ。
「何か爽やかで良いですね」
「それ、ストーリーがないでしょ?」と半沢さんが横目に俺を見て、気軽な口調で訊く。
「ストーリーらしきものはなくともムードはありました。良いと思いますよ、こう言うのも」
「そうですか。ありがとうございます」と半沢さんが冷静な顔でお礼を言う。
俺は三作目を読む。
神社のお祭りの風景が何カットか描かれ、神社の境内の影でセックスをする若い男女が描かれる。クレイターまで見える満月が描かれ、お稲荷さんの石造が「コーン」と鳴く。若い男女が服を着て、神社の賽銭箱の前に腰を下ろし、綿菓子を食べながら、「学校の仲間の悪口を言い合う。卒業したら、アルバイトでお金を貯めて、アメリカに留学しようと男の子が言う。女の子は大賛成し、アメリカに行ったら、何処何処に行って、何をして、どんな家に住みたいかを言う。男の子は家の学校の生徒でアメリカに留学するような奴はいないよなと言うと、そうだよねと女の子が共感する。男の子はバンドで音楽家デビューする夢を語り、女の子は画家として歴史に名を残す夢を語る。そこからロスアンゼルスの高層ビル群がワン・カット入り、様々な国からの留学生のいる英語学校の教室のカットが入り、二人の住む町のカットが三つ入る。女の子がカレッジ・タウンのアパートメントで夕食を作っている。男の子は英語でジャック・ケロアックの『オン・ザ・ロード』を辞書を引き引き読んでいる。二人は夕食を食べ、男の子はギター・ケイスを抱えて、ストゥーディオに向かう。コンゴ人の黒人がドラムを叩き、白系のフランス人の男がベイスを弾き、男はギターリスト兼ヴォーカリスで、ドイツ人の女がキーボードを弾き、韓国人の男がリード・ギターを弾いている。作詞作曲はバンド・メンバー全員で行い、韓国人の男がファースト・アルバムのジャケット・デザインを皆に見せる。学校の休みの日曜日に二人は男のバンド・メンバーと共にメキシコに旅行する。そこで女の子がフランス人の男と浮気をし、アメリカに帰ると、間もなく女の子が別れ話を持ちかける。男の子は女の子の浮気にショックを受け、途方に暮れると言う話である。
「これ、一番物語りらしい作品だけど、中途で終わってませんか?」
「ああ、一様それで終わりなんですけど、中途で終わる感じがするか」と半沢さんが首を傾げて言う。
「半沢さんは絶対プロになるよ!」
「頑張ります。氏川さんも頑張って!」
「ああ、ありがとう」
私は喫煙所に煙草を吸いに行く。ニコチンが切れていて、口の中に強烈な飢えを感じる。煙草を吸ったのは良かったのか、悪かったのか。煙草を吸うと気持ちが落ち着く。煙草程簡単な気分転換は他にない。精神医療的にも患者の煙草は心を落ち着ける効果があると認められている。
喫煙所に行くと、村野さんが男女一人ずつの患者と文学の話をしている。
「ああ、氏川さん、こちら武田英仁さん。詩を書く人です」と村野さんが詩を書く男性を紹介する。
「武田と申します。私は詩を書きます。私は鬱病で入院しました。宜しくお願いします」と壁側の隅に座る長髪で美的な顔をした武田さんが自己紹介する。
「氏川と申します。前回、この病院で精神病院漫研を結成したものです。私は精神分裂病です。私は三十ですが、武田さんはお幾つですか?」
「三十二です」と武田さんがうっすらとした力ない笑顔で言う。
「ああ、割と年齢が近いですね」
「いえいえ、私はもうオッサンです」と武田さんが真面目な顔で言う。
「武田君がオッサンなら、俺なんかもう三十九だよ。来年で四〇だよ」と村野さんが迫るようなパワーを発して言う。
「村野さんって、もう三十九なんですか!御会いした時は三十二歳でしたよね。当時は三十二歳と言う年齢も相当な年長者に感じました」
「そうだろうな。俺も学生の頃は年齢差のない人間付き合いをしていたから、アルバイト先に二、三歳上の年長者がいると、随分と年上に感じたものだよ。こちらが小説を書く坂本愛さん」と武田さんの右隣に座る女性を村野さんが紹介する。
「坂本と申します。私は村野さんと一緒で小説を書きます。宜しくお願いします」と長いドレッドロックスを赤く染めた一重瞼の切れ長の眼をした女性が自己紹介する。「私は精神分分裂病です。氏川さんは幻聴とかありますか?」
「ええ、あります」
「幻聴って、何だと思いますか?」と坂本さんが俺に訊く。
「低級霊って思う時と、元型って思う時があります」
「元型って、ユング心理学によく出てくる概念ですよね」と坂本さんが言う。「幻聴の声達の事って、ユング心理学以外に出てこないでしょう?」
「ええ。でも、霊って言う人が多いんですよ。幻聴って、何処までも自分の能力を支配しようとするでしょ?」
「ええ。自分!とか、心だって言います」と坂本さんが私の心を探るような眼で言う。
「霊だったら、魂の輪廻の歴史とかに大きく影響すると思うんです。それをお構いなしに人間の情報ばかり貪るでしょ?」
「ええ、あたしの言葉が詰まるところまで入り込んでくる事もあります。そうなると、必ず精神錯乱を起こすんですけど、理性でグッと堪えてやり過ごしています」と坂本さんが苦しみを思い出して、不安げな顔で言う。
「そんな霊、いると思いますか?」
「いるも何も幻聴は幻聴として実際に存在しますからね」と坂本さんが辛そうに言う。
「霊だとしたら、ホラーですか?」
「ううむ。寝床に入って、眠ろうとしている時に、悪霊みたいな声が話しかけるでもなく聴こえてくる事があるんです。そう言う声と日常的に幻聴として表われる声ははっきりと区別してます。もっと何て言うかな、こっちの気持ちを理解せず、いつもあたしに意識していてもらおうとするような明るい無邪気な感じが普段の幻聴です。言葉も知能ある言葉と言うより、あたしが心の中で言った言葉を執拗に反復したり、あたしの意識を不安や恐怖に追い詰めるようなトラウマ的な言葉を一言言ったり、言葉の押し付けみたいな話し方が多いです」と坂本さんがよく考えながら話す。
「ああ、同じだ。で、霊なんですかね?」
「ううん。結局、ユングの言う元型って言うのが一番それらしいかな」と坂本さんが問題の息詰まりを告白するように言う。
「霊じゃありませんよね。俺にはこれが霊だって言うような、はっきりした心霊体験が金縛りぐらいしかないんです」
「あたしもそうです。あたしはとにかく幻聴が怖くて、聴こえてない時に幻聴を想うのも不安で」と坂本さんが目元を右手の人差し指の甲で押さえながら言う。
「統合失調症はセルフの存在的な病だって言われてるでしょ?セルフって言う元型は仏らしいんです」
「仏に存在的な病があるんですかね?」と坂本さんが困ったような顔で言う。
「そうらしいんです」
「この絶え間ない不安がセルフの存在的な病なんですかね?」と坂本さんが俺に答えを乞うような眼差しで訊く。
「そうでしょうね。幻聴が聴こえ続ける事もセルフの病なのかなと思ってるんです」
「セルフの存在的な病って、絶望的ですよ。本当に本にそう書いてあるんですか?」と坂本さんが心配げに訊く。
「そう書いてあるんです。ユングはユングの分析心理学が精神分裂病治療に適応させられた事が一番残念だったらしいです。ユングはセルフの心の完成についても言うでしょ?」
「そう言う本は読んだ事ありません」と坂本さんが目を尖らせて言う。
「坂本さんはお幾つですか?因みに俺は三十です」
「あたしは今年でニ十九になります」と坂本さんが気を取り直して、笑顔で言う。「あたしもユング心理学関連の本はもう少し深く読みたいです」
「入門書みたいな本を幾ら読んでも、統合失調症を詳しく言い当てたような内容は出てきませんよ」
「そうなんですか」と坂本さんが眉間に皺を寄せて言う。幻聴とは幻聴ある統合失調症者の人生最大の謎だ。
「もう一人女性の詩人がいるみたいですね」と俺が武田さんに言うと、「ああ、その人は夕方TVを観に病室から出てきます。煙草を吸わない人で、ほとんど寝ている人なんです」と武田さんが言う。「二〇代前半の若い人です」
「へええ。漫画描いてる半沢さんの好みの女性らしいんですけど、年齢が上なのがなあって言ってました」
「氏川さんは何回目の入院ですか?」と武田さんが遠慮がちに訊く。
「二回目です。武田さんは?」
「私は今回が初めてです」と武田さんが心細そうな顔で言う。
「芸術家集団五人組に片瀬由里さんって人がいて、その人が鬱病です。退院したら、会わせますよ。小説を書く人です」
「ああ、その人の事は村野さんから御聞きしています」と武田さんが生真面目な丁寧語で言う。
俺は前のめりになって話している事に気づき、椅子の背に凭れる。
「氏川さん!お母様からお電話です!」と若い女性看護師が勤務室の窓から顔を出して呼ぶ。俺は煙草の火を消して、勤務室の方に行く。
「はい、もしもし、氏川です」
『漫画の道具は明日の午前中に持っていきますから』と母が受話器越しに言う。
「判った。悪いね。それじゃ!」と言って、電話を切る。
高田さんが女性病棟の方から先程の無地の半袖Tシャツと裾の短いスリムなデニムのパンツを穿いて出てくる。肌にフィットしたデニムのパンツ越しに太腿のラインが見える。太腿は肉感的で、所謂棒のような足ではない。
「高田さん、母が明日、漫画道具一式を持ってきてくれるみたいです」
「あたしも明日、母に画材道具を持ってきてもらいます」と高田さんが笑顔で言う。
「高田さん、俺の恋人になりませんか?」
「ええと、はい!宜しくお願いします!」と高田さんが即答する。
「やった!」
「ええ、そんなに喜んでくれるの!あたし、氏川さんの顔、好みなんです!」と高田さんが胸の前で腕を組んで言う。
「皆、高田さんの事を綺麗な人って言ってます」
「ええ、そんなの幻想ですよ!」と高田さんが笑いながら言う。
「漫画道具って、ウチの母に言っても、判んないと思うんですよ。今度同伴外出で一緒に蒲田に行ってくれませんか?」と高田さんが頼み込むような眼で言う。
「ああ、良いですよ。まだ同伴院内散歩も許可されませんけどね」
「看護師さん!」と勤務室の窓から勤務室の中にいる女性看護師に声をかける。
「はい。何でしょう?」と黒縁の眼鏡をかけたモデルさん風の若い女性看護師が応対する。
「患者さんと同伴院内散歩しても良いですか?」
「ああ、どうぞ!誰と行かれるんですか?」と看護師が明るい顔で訊く。
「高田さんと」
「ああ、じゃあ、高田さん、お願いね」と看護師が勤務室の窓から脇に立っている高田さんに親しげに言う。
「ああ、はい」と高田さんが笑顔で返事をする。
「同伴院内散歩から何段階で同伴外出になるんですか?」と看護師に訊く。
「ええとですね。一回同伴院内散歩をして戴いて、その後に単独院内散歩をして戴いて、その後が同伴外出二回で、その後に単独外出の許可が下りて、最後が同伴外泊になります」と看護師は言って、眼鏡を指先で少し上げる。
「判りました」
俺は高田さんと手を繋ぎ、「それじゃあ、売店にでも行きますか。アイスクリーム奢りますよ」と言う。
「ええ!嬉しい!お菓子も買いましょう」と高田さんが笑顔で言う。
「入院中はお菓子が楽しみですよね」
高田さんの中には果たしてアリシアがいるのか。
「アリシアさんですか?」と高田さんの顔に顔を近付けて訊く。
「はい?」と高田さんが悲しげな眼で問い返す。
「いえいえ。私の世界からの確認です」
「あのう、そう言うの止めてください。二度としないでください」と高田さんが不安そうな眼で今にも泣き出しそうな顔で言う。
「済みません。一寸、入院前に関わっていた世界が十分解決していなくて、高田さんと付き合う上で、一度はっきりと確認したかったんです」
「そうなんですか。判りました」と高田さんが安心した顔で言う。
「実は体内に生きた人が現われる現象があるんです」
「それって、アニマじゃありませんか?」
「ああ、なるほど。アリシアって、女優の結野久子の事なんです」
「あたし、結野久子には似てませんよ!」と高田さんが笑いながら言う。
「いやあ、結野久子が中にいるのかと思ったんです」
「そう言う視点であたしを見ないでください」と高田さんが少し怒ったような顔で言う。
「はい。判りました」
俺はヘルパーさんに病棟のドアーの鍵を開けてもらい、外に出ると、高田さんとエレヴェイターで一階まで下りて、本館の地下の売店に向かう。
「俺、一回目に入院した時にも恋人が出来たんです」
「そうなんですか。氏川さん、モテそうだもんね」と高田さんが気楽な様子で言う。
「俺、その彼女と一緒に自殺する筈だったんです。同伴外出を機に彼女が一緒に死のうって言って、蒲田のビルの屋上に上ったんです。俺達がそこから飛び降り自殺をしようとしたら、彼女一人だけビルの屋上から落下して、俺は見えない手に肘を引かれ、飛び下り損なったんです」
「見えない手って、守護霊様みたいな方ですかね?」と高田さんが興味津々に訊く。
「それは判りません。俺も大凡そんな存在だったのだろうとは思っています」
「私もそう言う霊的な現象には昔から関心があって、TVでその手の不思議な出来事を特集する番組があると必ず観るんです」と高田さんが落ち着いた口調で言う。
俺達は売店に来て、約束通り高田さんにアイスクリームを一つ選んでもらい、自分のヴァニラのカップのアイス・クリームと一緒に高田さんが選んだチョコレイト・モナカを手に持ち、『ポテト・チップス』のコンソメ味や『キャラメル・コーン』を缶コーラ二本と一緒に買う。高田さんもスナック菓子やキャラメルや缶コーヒーなどを買う。
売店から病棟の建物に戻り、エレヴェイターを待っていると、「氏川さんは亡くなった恋人との事は心の整理が出来てるんですか?」と高田さんが深刻な口調で訊く。
「ええ。心の整理をして、新たな恋愛のために高田さんに告白するまでに六年かかりました」
「六年は長いですねえ」と高田さんが気の毒そうに言う。
エレヴェイターの扉が開き、我々はエレヴェイターに乗る。
「人間、生きていれば、何度も同じ人生で死別を経験するんでしょうね」
「あたし、死別って経験にないんです」と高田さんが明るい声で言う。
「珍しいですね。両親のお祖父さんやお祖母さんは全部御健在なんですか?」
「ええ。元気に皆生きています」と高田さんが陽気に言う。
エレヴェイターの扉が開き、外に出ると、若い女性看護師が病棟の扉の鍵を開けて、ドアーを開ける。我々は病棟に入り、俺は高田さんにチョコレイト・モナカを手渡す。
「それでは御馳走になります」と高田さんは言って、デイルームのソファーに腰を下ろし、アイスクリームの封を開けて食べ始める。「どうぞ」と俺は言い、缶コーラ二本にマジックペンで名前を書いて冷蔵庫に入れると、『ポテト・チップス』のコンソメ味と『キャラメル・コーン』を病室の棚に置きに行く。それが済むと高田さんの左隣に座り、ヴァニラのカップのアイス・クリームを木のスプーンで食べる。
「ヴァニラ好きですか?」高田さんがアイスクリームを食べながら訊く。
「ええ。純ヴァニラのカップのアイス・クリームが特に好きなんです」
「他のアイス・クリームはダメなんですか?」と高田さんが俺の顔を見て食べながら訊く。
「そう言う訳ではありません。幾つか選べるような時にはヴァニラのカップのアイス・クリームを必ず入れますけどね」
「あたし、その日の気分だな」と高田さんがあっさりとした口調で言う。
「明日から漫画一緒に描けますね」
「ああ、はい。何描こうか決めておかないといけませんね」と高田さんが自分のチョコレイト・モナカを見つめて言う。
今日、入院してからも幻聴は聴こえている。それがアリシアとの楽しい一時などが影響して余り気にしないでいられる。高田さんが結野久子の生霊をアニマじゃないかと言っていた事を思い出す。もう夕方だ。二〇代前半ぐらいの女性が俺の左隣に座る。半沢さんが好みだと言っていた詩人かなと思い、「あのう、俺、今日入院してきた氏川と申します。もしかして、詩を書かれている方ですか?」と話しかけてみる。
「ああ、はい。そうです。君白秋歌と申します。宜しくお願いします」と宝石のように澄んだ大きな眼をした君白さんが陽気な声で言う。
「俺、三十ですけど、お幾つなんですか?」
「二十三です」と君白さんが溌溂とした口調で言う。
「秋ちゃん、氏川さん、あたしの彼氏になったのよ」と高田さんが俺の前に顔を出して、君白さんに言う。
「へええ、良かったですね」と君白さんが高田さんを明るい声で祝福する。
「氏川さん、あたしの事、亜美って呼んでください」と高田さんが俺の方に向き直って言う。
「ああ、じゃあ、亜美ちゃんって呼びます」
やっぱり恋人が他の女性と喋っていたりすると不安なのかな。
「氏川さんは文学の方なんですか?」と君白さんが訊く。
「俺は漫画です。俺、前回の入院時にここで精神病院漫研を結成したんです」
「漫画描かれているんですね。精神病院漫研って、何か凄いですね」と君白さんが笑顔で言う。
「俺は前回の入院仲間と芸術家集団五人組を結成したんですけど、その中に小説を書く男女が二人いて、その中の一人が今、一緒に入院してるんです」
「ええ!誰だろう」と君白さんが上の方に視線を泳がせて考える。
「村野さんって言う三十九歳の男性です」
「ああ、村野さんか。知ってます」と君白さんが笑顔で言う。
「退院したら、俺達の芸術家集団に入りませんか?」
「ああ!入ります!」
「退院すると、愈々精神障害者としての孤独な人生が始まるので、仲間は絶対にいた方が良いです。俺達は通院日を同じ日にして、通院日の帰りに毎回会食してます」
「ああ、楽しそうですね。あたしも仲間に入れてください」と君白さんが明るい声で眼を輝かせて言う。
「あたし、それ言われてない!」と高田さんが甘えるような膨れっ面で言う。
「ああ、もう言ったかと思ってた。亜美ちゃんは逸早く精神病院漫研に入ってくれたから安心してたんだよ」
「芸術家集団五人組に何人漫画描く人がいるの?」と亜美ちゃんが熱心に訊く。
「男一人と女一人いるよ」
「何歳ぐらいの人達なの?」と亜美ちゃんが訊く。
「三木谷さんって言う男性が俺と同じ三十歳で、布意さんって言う女性が俺より三つ上の三十三歳」
「新しいメンバーの方が若いわね」と亜美ちゃんが俺の前に顔を出して、君白さんに言うと、君白さんはコクリと亜美ちゃんの方に頷く。
俺はカップのヴァニラ・アイス・クリームを食べ終え、ゴミ箱に空箱を捨てに立ち上がる。幻聴達が嵐のように話しかけてくる。俺は一瞬の気の弛みで精神のバランスを失う。またこれか。俺はゴミをゴミ箱に捨てると、亜美ちゃんのいるソファーの方に引き返し、「一寸、幻聴で精神状態乱れてるから、部屋で横になるね」と言う。
「じゃあ、直ったら、また話しましょうね」と亜美ちゃんが笑顔で言う。
俺はその言葉に幻聴が襲いかかるような不安を抱く。どうも人間は幻聴の嵐の勢いに加勢するような働きをする。こんな病気を抱えて、果たして漫画家が務まるのか。一度横になると決めると、横にならずにいられない。精神状態が乱れては寝込む生活が物凄く病人臭い。椅子に座ってやり過ごす事を覚えなくてはいけない。
ベッドに横たわると、冷房の効いた部屋で蒲団を被り、顔だけひんやりとする気持ち良さを味わいながら、眼を瞑る。頭が物凄く疲れている。今日は幻聴を忘れてタコミちゃんや半沢さんの漫画を一気に読み、そのまま横になる事もなく、亜美ちゃんと売店に買い物に行き、君白さんと話した。何かに夢中になっていれば、幻聴など聴こえないのか。いいや、完全に聴こえていなかった訳ではない。それでも比較的会話や読書や買い物に集中出来たかな。その間、幻聴に対する不安はあった。一か八かと、一気に行動を押し通してみたのだ。これは心臓に悪い。幻聴がなくても、幻聴が騒ぐ事を想っては不安になる。
赤い屋根に赤い塀の家が建ち並ぶ路上に服も顔も赤い人間達が家から出てくる。俺はそれが無性に怖くて、早くこの界隈から抜け出そうと、早歩きで歩こうとする。それが足取りが妙に重く、なかなか前に進まない。赤い子供が着いてきて、俺の手を握る。
「僕だよ」と子供が真剣な顔で俺を見上げて言う。幻聴の男の子の声の一人である。俺の手を握る手の力が強い。俺はこの子が怖かった。少年は俺の手を握ったまま立ち止まる。俺は早くこの子から逃れたい。俺が少年に手を握られ、動けずにいると、除々に気持ちが落ち着いてくる。
俺はベッドの上で目覚める。ああ、ここは病室か。夢は落ち着いて幻聴を受け止めるようにと言うヒントなのか。本当に幻聴が夢に表われたのか。それとも脳が作り出した夢なのか。
『僕だよ』と幻聴の男の子の声の一人が言う。
俺は動揺する。幻聴の少年の声が夢の中と同じ事を言う。寝ている間も安心出来ないのか。
『僕は心!』
心って、心霊か。元型って、憑依霊の事なのか。
『僕、霊』と夢に出てきた幻聴の男の子の声が他の元型にぽつりと呟く。
『あたしも霊?』と悪に傾倒した女の子の声の幻聴が夢に出てきた幻聴の男の子の声に訊く。
元型の事は今度の教授回診の時に質問しないといけない。
『この人、あたし、怖い』とアリシアが言う。
俺が怯えると、『この人、あたし!』とアリシアが大声で俺を呼び
止める。呼び止めると言っても、俺が何処かに行く訳ではない。幻聴へのアンテナを外して、幻聴を聴かないようにしようとしているだけだ。
『あたし!』とアリシアが大声で私の意識に詰め寄ってくる。
俺はベッドから起き上がり、亜美ちゃんのいる人間の世界に逃げ込む。
デイルームに行くと、亜美ちゃんがいない。喫煙所にはタコミちゃんが一人で煙草を吸っている。タコミちゃんの話し声は動悸がするから余り話しかけたくない。アリシアがアニマ。アニマは声を変えて色んな女性になるのか。アリシアも他の幻聴と同じように幻聴なのか。アリシアから逃げると、安らぎの元型がいなくなる。
「夕食前のお薬でえす!」と若い女性看護師が薬の乗ったワゴンの傍で病棟内の患者らを呼ぶ。「コップに水を入れていらしてくださあい!」
俺は不安の裡に病室に引き返し、コップに水を入れて、薬待ちの列に並ぶ。
俺は薬を飲み、食堂の自分の席に座る。間もなく亜美ちゃんが向かいの席に腰を下ろす。
「体調整いましたか?」と亜美ちゃんが訊く。
「夢の中に幻聴の男の子の声が表われて、落ち着いて幻聴の子達の声を受け止めれば良いんだなと思ったんですけど、目覚めたら、夢の中に表われた幻聴の男の子が夢の中の言葉と同じ事を言ったんです。その後、アニマの忙しない自己主張が始まって、気持ちが動揺して」
「幻聴の声は何人いるんですか?」と亜美ちゃんが気遣うような眼で訊く。
「イレギュラーを含めると、正確には数えられないですけど、普段は四、五人の声が聴こえます」
「あたしは大人の男と女がカップルみたいにいて、その二人が・・・・。ああ、ここまでが話せる限界です。その先は精神錯乱が起きる領域のトラウマです。トラウマの手前で心が黙り込んで話せなくなるんです」と亜美ちゃんは言って、目元を右手の人差し指の甲で拭う。
「ごめんね。話したくない事話させちゃって」
「話したくない訳ではないんです。寧ろ徹底して話して、気持ちの整理をしたいんです」と亜美ちゃんが真剣な眼で俺を見つめて言う。
今夜はハヤシライスとエビグラタンと紙パックのミックス・ジュースだ。
「今回の入院前に色んな過去の好きな人が幻聴に表われて、少し幸せな幻聴世界にいたんです。でも、亜美ちゃんが言うように、そう言う女性達が一人のアニマだと解し、そのアニマを警戒し始めたら、もう俺には安全圏がないんです」
「何かあたし達、敬語で話してるね」と亜美ちゃんが笑顔で言う。
「ああ、ほんとだ。別に敬語で話す話題って訳じゃないよね」と俺は言って、笑う。食べ物はすんなり喉を通る。亜美ちゃんといると気持ちが落ち着いて、心強い。
「絵画はどんな絵を描いてるの?」と話題を変える。
「シュールな絵とか、幻想的な絵とか、結構あれこれ模索しながら描いてるんだけど、漫画みたいな絵でイラスト風の絵を描く事もあるかな」と亜美ちゃんの態度や話し口調ががらりと芸術家然となる。
「絵画って面白い?」
「うん。まあ。それなりに」と亜美ちゃんがハヤシライスを食べながら、俯いて言う。
俺はハヤシライスを猛スピードで食べ終え、エビグラタンに取りかかる。食べられる裡に早く食べる習慣があるのだ。幻聴が生じてから、落ち着いて味わって食べる事がなくなった。こんなんではいけない。食べ物が飲み込めず、永遠と嚙み続けているような時の恐怖が強烈なトラウマとして意識にある。エビグラタンを食べながら、亜美ちゃんの美的な顔を眺める。亜美ちゃんがお皿から俺の顔に視線を上げ、「ええ、何?何かおかしい?」と笑いながら訊く。
「いやあ、気持ちが安心するから亜美ちゃんの顔を見てたんだ」
「ええ、あたしって、癒し系?」と亜美ちゃんがおどけて言う。
俺は笑顔で、「癒し系だよ」と返事をする。
長年、俺のアニマは初恋の小野英理子さんの声だった。初回入院から退院すると、小野さんの声は子供っぽくなっていき、小野さんの声はぽつりぽつりとしか話さなくなった。俺も最早、小野さんの声をテレパシーの声だとは思わなくなった。それが薬を止めて、急性期が再発し、再び本当の小野さんだと思ったのだ。俺はエビグラタンを食べ終え、ミックス・ジュースを飲み終えると、トレイを返して、喫煙所に向かう。喫煙席の壁側の角の席にタコミちゃんが座っていて、煙草を吸っている。
「明日、母親に漫画道具一式持ってきてもらう事になった」とタコミちゃんに話しかける。
「あたし、氏川さんの漫画読んでみたい」とタコミちゃんが眼光の強い眼で言う。
「ああ、じゃあ、電話で持ってきてもらうように言うよ」と俺は言い、煙草に火を点ける。
「あたし、漫画家には向いてると思うのよね。描くのも早いし。でも、漫画が新人賞に落ちる度に自分って才能ないのかなあって思うの。それがさ、半沢君とか氏川さんに誉められる裡に一寸自信取り戻したのよね」とタコミちゃんが煙草を吸いながら、俺の顔を見て言う。
「タコミちゃんの漫画は個性的だよ。一生懸命空白を埋めようと描き込むところが良い」
「何時になったら、デビュー出来るのかなあ・・・・」とタコミちゃんが疲れたように呟く。
デイ・ルームに亜美ちゃんの姿はない。病室のベッドに上がり、『キャラメル・コーン』を食べる。幻聴にはイレギュラーで本当のお父さんお母さんのような声が何事かの小ドラマに出演する事がある。お父さんお母さんの声の幻聴は癒し系だ。古田の声の幻聴のように実在する人物の声の幻聴が聴こえてくる事もある。それらには実在する人物と同じ知能の高さを想い、被害妄想的な不安が募る。
「氏川さん、『キャラメル・コーン』とか、スナック菓子食べるんですか?」と半沢さんが訊く。
「俺はお菓子食べない日って、生まれてから一日もないよ。半沢さんは?」
「俺は小腹が空いたら、お菓子より焼き立ての惣菜パンを食べるかな」
「ああ、惣菜パンも美味しそうだね。親が出してくれたら、惣菜パンも食べるな。半沢さんは自分で惣菜パンを買いに行ったりもするの?」
「はい。買いに行きます」と半沢さんが笑顔で言う。
「明日、母親に漫画の原稿持ってきてくれるように頼んだよ。届いたら、読んでね」
「ああ、はい。かなり興味あります」
「明日、単独院内散歩をしたら、明後日辺りに本屋に行って、漫画買ってくるわ」
「同伴外出でですか?」と半沢さんが笑顔で訊く。
「はい」
「俺が一緒に行きますよ」と半沢さんが軽い口調で言う。
「ああ、亜美ちゃんと行こうと思ってるんだよ。ゴメンね」
「亜美ちゃんって、誰ですか?」と半沢さんが思い出せない記憶に顔を歪めて訊く。
「高田さんだよ。俺の彼女になったんだよ」
「ああ、高田さんか!ええ!もう彼女にしたんですか!凄いですね!俺も君白さんを彼女にしようかな」と半沢さんが緊張した顔で言う。
「漫画家志望同士のカップルじゃなくて良いの?」
「特にそう言う拘りはありません」と半沢さんが真顔で言う。「恋人が自分と違うアートワークやっている方が尊敬出来ると言うか」
「相手の意思を尊重するんだね」
「はい」と半沢さんが笑顔で返事をする。「俺、恋人いた事ないんですよ」
「童貞?」
「はい」と半沢さんが縋るような眼で言う。
「アダムとイヴみたいに初めて同士下手なセックスをすれば良いんだよ。女の方も初めての時は緊張してるもんだよ」
「そうなんですか。いやあ、俺、女性が一寸怖くて」と半沢さんが不安そうな眼で言う。
「童貞の頃は誰でもそうだよ」
半沢さんが思い詰めたような顔付きでベッドから下り、病室を出ていく。俺はデイルームの本棚に読みたい漫画を探しに行く。半沢さんが君白さんの隣に座って話している。
デイルームの本棚に小島剛夕の『子連れ狼』が全巻揃って置いてある。俺は五冊手に取り、病室で読む。
何か初回入院の時とは違うな。物凄く気分が爽快だ。次々に色んな事を始められる。アリシアの声のアニマの声が幻聴で聴こえる。アリシアは女の子の幻聴と戯れている。俺も幻聴が聴こえる中で始める読書にすっかり慣れてしまった。活字を読み出すと、幻聴も俺の心の声に重なって読む。幻聴はいつも同じ事に集中する。それが不意に何らかの間が出来た時に話しかけてくる。退院までに『子連れ狼』を読破してしまおう。夜のこの時間が良いだろう。明日からはデイルームで亜美ちゃんと一緒に漫画を描く。多分、タコミちゃんや半沢さんも精神病院漫研の部員として一緒に漫画を描くだろう。
「氏川さん!」と半沢さんがはしゃいだように病室の入口に来て呼ぶ。「君白さんと付き合う事になりました!」
「ああ、良かったね!」
「多分、イケるだろうとは確信してたんです」と半沢さんが俺の顔を見ながら、笑顔で言う。
「寝る前のお薬でえす!」とデイルームから若い女性看護師が病棟内の患者らを薬に呼ぶ。「コップに水を汲んで、列に御並びくださあい」
俺はコップに水を汲み、薬を待つ列に並ぶ。自分の番が来て薬を飲むと、歯を磨いて喫煙所で寝る前の煙草を吸う。タコミちゃんと村野さんと小説を書く坂本さんと言う女性と詩を描く武田さんと言う男性もいる。
「創作系は大概煙草を吸うな」と村野さんが年長者らしい貫禄を以て言う。
振り返ると、亜美ちゃんがソファーに腰かけ、君白さんと話している。
俺は煙草に火を点け、寝る前の煙草を吸う。
煙草を吸い終えると、デイルームのソファーに座っている亜美ちゃんと君白さんに、「それじゃあ、俺は寝るよ」と言って、「お休みなさい」と二人に言う。
「ええ!もう寝るの?」と亜美ちゃんが名残り惜しそうに言う。
「何かまだ話す?俺はもう眠りに逃げたいよ」
「ああ、じゃあ、今はあたしの方が精神状態良いんだ」と亜美ちゃんが冷静に状況を判断する。
「そう言う事だよ。それじゃあ、お休み!」
「お休み!」と亜美ちゃんが恥ずかしそうに言う。
俺は病室に行き、ベッドに入る。
物分りの良い恋人を得た。真希ちゃんと言い、恋人とは常に分かり合える関係にある。俺は恋人に恵まれている。真希ちゃんは俺の亜美ちゃんとの出会いを祝福してくれているのか。俺の心は今、幸せで一杯だ。真希ちゃん・・・・。悲しみが募り、涙が溢れてくる。真希ちゃん、君のいない世界にはどうしても馴れないよ。俺は今でも真希ちゃんが一番好きだよ。俺は自分の心を整理し、この世に生きている者と死んだ者とを区別する。真希ちゃんの事を何時までもこの世の者のように懐かしんでいてはいけないのだ。
『再発の幸せな暮らし』
翌朝、目覚めると、アパートメントの天井が違う。四方の壁は白く、人目見て病院の中だと判る。なるほど。薬を止めて、再入院したのか。俺はベッドから下りて、顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。
まだ廊下は薄暗い。ああ、亜美ちゃんが恋人になったのか。直ぐに真希ちゃんを想う。真希ちゃんが俺を想っているのかな。
『良くない事だとは判っていても、あたし、ずっとあなたの中にいるの』と体内の真希ちゃんの声が体外に聴こえる。
『アニマだろ?女優の結野久子じゃなかったのか?』とからかうと、直ぐに元通りの小野英理子さんの声になり、『あたし、霊』と言う。
『お前は元型だよ』
『あたし、元型?』とアニマが少女のような口調で甘える。
朝っぱらから幻聴だ。精神錯乱は嫌だ。喫煙所に煙草を吸いに行こう。
『あたし、真希ちゃん好き』と女の子の元型が言う。
不味いぞ。幻聴に意識を追い詰められる。発病以来、この不安にずっと付き纏われている。心の中で幻聴に受け答えしていると、意識の心に元型が入り込むのだ。そうなると元型の憑依とでも言おうか、頭の中の言葉が詰まり、心が苦しくなる。その時に人と話をすると、心が晴れ、会話をする言葉が追い詰められた意識を開放させる。精神錯乱した状態で人間と会話をすると、対人恐怖のような不安が募る。安心して人間と話せる状態はその先で、幻聴から心が開放される時だ。こうなると、幻聴は執拗に俺の意識や心を追い詰め、撤退する事がない。
喫煙所に行くと、詩を書く武田さんと言う男性が先に煙草を吸っている。武田さんは確か俺より二つ上の三十二歳。自分の事をもうおじさんだと思っている鬱病の人だった。
「おはようございます」と俺が挨拶をすると、「おはようございます」と武田さんが美的な暗い眼で挨拶を返す。
武田さんは本当に美しい顔をした詩人だ。
「武田さんはシェリー並みに美的な御顔をした詩人ですね」
「ああ、シェリーですか。実は私はシェリーを自分の前世かなと思ってるんです。氏川さんは御自分の前世を誰だと思ってるんですか?」
「俺はお釈迦様とイエス・キリストとヘルマン・ヘッセの生まれ変わりだと思ってます。俺は本当は小説を書きたかったんですけど、ヘッセの時に詩や小説を書いていたから、今生は漫画で行こうと思ったんです」
「氏川さんは前世と違う事に挑戦するタイプですね」と武田さんが意外そうに言う。「私は毎回詩人になる魂だと思ってるんです」
「魂って、自分自身の事なんですかね?」
「魂は真の自分ですよ」と武田さんが気真面目に受け答えする。
「ユング心理学って、勉強しましたか?」
「大学で習いました。精神科医はユング派とフロイト派に分かれるんですよ。私はフロイト派なんです。理由は簡潔で判り易いからです」
「ユングは夢判断も個人の環境や心理的な背景により異なる判断をしますよね?こう言う夢を見たら、こう言う無意識の表われだと決め付けるんじゃなくて」
「それが厄介でしょ?物理が重力の法則を自然界に定めたように、夢の中のディテイルは特定の意味に纏め上げる方が万人に共通した科学的な判断だと思うんです」と武田さんが暗い眼で冷静に語る。
「ああ、なるほど。そうなるとユング心理学の夢解釈は科学的な次元で捉えるには如何様にも解釈出来るような非学問的な特徴がありますね」
「ユングの言い分ばかり重視するとユング派になるのは自明の事です」と武田さんが手に持った煙草を吸わずに言う。武田さんはそう言うと、手にした煙草を眺めながら、なかなか煙草を吸おうとしない。煙草って、忙しなく吸う必要はないんだな。武田さんの喫煙の仕方には十分な心のゆとりが感じられる。
「おはよう!」と村野さんが背後から元気良く挨拶する。俺と武田さんは、「おはようございます」と各々村野さんに挨拶を返す。
「ユング心理学は幻聴を元型で解釈するでしょ?」
「私は鬱病で、統合失調症の人のように幻聴がないんで、元型って言う不可解な概念が非常に判り辛いんです。とにかくユング心理学と言うのは複雑で難解です。私は人間的な魅力としてもフロイトのシンプルさに惹かれます」と武田さんが自信あり気に言い切る。
「何、フロイト派とユング派の議論になってるの?」と村野さんがおちゃらけて話に加わる。
「村野さんはどっち派なんですか?」
「確かに両派の意見を折衷出来るような問題ではないよね。俺は超心理学の本まで読んだぐらいだから、どちらかと言うとユングの個性に惹かれるんだけれど、フロイトが正しいか、ユングが正しいかって言う判断の域には到底考えが及ばないよ。幻聴に関する元型って言うのが集合的無意識って言う他者や霊界にも通じる無意識の世界からの人格化と言われてるよね?何でユングは元型を集合的無意識の人格化と称し、憑依霊と表現しなかったのかが判らないんだよ」と村野さんが言う。
「元型と霊って、どう区別して意識するんだろう?元型を霊だとも解釈していると、元型が突然悪霊に様変わりするんです」
「ううむ。それで俺も幻聴の様子が恐怖の世界に変わるんだよね」と村野さんが顔を顰めて言う。
「元型って、自分だと思うんですよ。霊って、要は他人でしょ?」
「ああ、なるほど。自分だとか、心だって、確かに元型はよく言うよ」と村野さんが長年の問題に漸く答えを得たような晴れ晴れとした口調で言う。「三木谷さんとかともこの手の話はしなくなったな」
「鬱病って言うのは統合失調症と比較すると、精神の病としてはずっと浅いところにある病気らしいんです」と武田さんが言う。「御二人共小説や漫画で表現をする関係か、議論の仕方が非常に具体的です」「俺達が退院後につるんでる芸術集団五人組の中に片瀬由里さんって言う小説を描いてる鬱病の女性がいるんです。俺と同じ三十歳ですけどね。退院したら、俺達の芸術家集団に加わりませんか?」
「ああ、良いですね」と武田さんが沈んだ心で精一杯明るく振舞うように言う。
「退院した後は愈々精神障害者としての人生が始まり、本当に寂しい思いをします。早く生活保護費なり、障害年金をもらうなどして親許から自立すべきです。親許にいて自分だけ病人扱いされてると、確実に心がスポイルされていきます。やれ、育て方を間違えたとか、躾のし直しだとか、何を話しても否定否定で、家族と一緒に住んでいて良い事は三度の飯を用意してくれる事ぐらいしかありません。早く自炊のペイスを覚えた方がうんと気楽ですよ」
「ああ、退院したら、精神障害者ってなるのか・・・・」と武田さんの顔に暗い影のような気配が帯びる。
「鬱状態だけの心って辛いでしょうね」
武田さんが苦しげに言葉を搾り出すように、「ああ、そうですね。暗い音楽とか、ホラー映画とか、心霊漫画とか、元々文学芸術の好みが暗いんです。そう言う陰湿な趣味の読書や芸術鑑賞が出来るのは心の中に光があるからです。今は心の中に光がないので、そう言う暗いものは見たくないし、聴きたくもありません」と言う。
「武田さんは詩人として食べていけるようになりたいんですか?」
「まあ、欲を言えば、詩人としてだけで食べていきたいですけれど、現実的には小説も書かないと食ってはいけないでしょう」と武田さんが自信に満ちた顔で言う。
「じゃあ、小説も書くんですか?」
「書こうとは思ってます。ストーリーが浮かばないんですけど、ぼちぼち書き出しだけでも書こうかなと思っています」と武田さんが心にゆとりある様子で言う。
「入院中に書いてみれば良いのに。この入院時期を利用しないと、後でもっと入院中にも頑張れたんじゃないかって思いますよ」
「私も頭では判ってるんです」と武田さんが苦しげな顔で言う。「頭が思うように働かないんです」
「暗い小説を書かないようにしてるからじゃありませんか?」
「暗かろうが、明るかろうが、書けるものなら書きたいです」と武田さんが俺の心に直接訴えかけるような強い眼差しで言う。「いやあ、でも、暗い小説を書く事には浸れないかな」
「暗いって言うのは、深刻な問題をストーリー仕立てに表現するって意味ですよ」
「ああ、なるほど。入り込み易いのは自分の問題をそのまま書く事ですね」と武田さんの眼差しに希望の光が入ったように顔付きが明るくなる。武田さんの白人のような美的な顔を見ていると、自然と眼前に武田さんの顔の絵を描いている。十代の終わり頃から発病まではよくそれをしていた。発病後は相手と話しながら、相手の顔を眼前に描いていると、心の中の事が相手に筒抜けであるような事に関係して、相手に気付かれるように思ってしまう。武田さんが瞼を閉じる時の、窓のブラインドーが眼の窪みに下りるような瞼の形に見蕩れる。発病前は漫画の主人公に白人をよく描いた。武田さんは鬱状態と闘ってるから顔付きの明暗が極端に変化するのかな。武田さんは煙草を吸いながら、小説の事でも考え始めたのか、すっかりと黙り込む。
「おはようございます」と小説を書く坂本愛さんが俺の左隣に腰かけて挨拶する。坂本さんの長いドレッドロックスを赤く染めた髪が一際目立つ。坂本さんの横顔の一重の切れ長の眼を見つめ、古の日本の女神様を想像する。
「坂本さんって、身長幾つですか?」
「一七一です」と坂本さんが一重の眼を黒目だけこちらに向けて答える。
「俺より背高いですね。俺は一六九・七しかないんです」
坂本さんは返事をせずに煙草を銜え、火を点ける。何か悪い事言ったかな。何だか坂本さんが不機嫌な顔をしている。
「坂本さん見てると、古の日本の女神様を想います」
坂本さんが歪んだ笑みを浮かべる。坂本さんは俺と同じ精神分裂病で、幻聴があるらしいから、幻聴でも聴こえてるのか。俺もこう言う無愛想なリアクションを人にしてるのかな。気を付けないといけない。話してると、精神障害者の顔は百面相のように細やかに変化する。精神障害者の心理は話し相手との関係だけで働くのではない。通院の診察の時に主治医の石橋先生が精神障害者は皆優しいと言っていた。
「タコミちゃんが来ないね」
「タコミちゃん、朝苦手なの」と坂本さんが顔を引き攣らせて言う。
「坂本さんって、どんな小説書くの?」
「あたしの小説の基本的なテーマは異常な話です。異常な話、異常な話と常に心に念じてます」と坂本さんが美しい笑顔で言う。やはり、一重の瞼がミステリアスだ。
「『ドグラ・マグラ』とか、『家畜人ヤプー』とか、『一九八四年』辺りは読みましたか?」
「その辺は高校生の時に読みました」と坂本さんが明るい笑顔をしょんぼりとした顔に変化させて言う。
「早いですね!」
精神障害者の百面相なんかに気付かなければ良かった。相手の顔の表情の変化をいちいち考えてしまう。
「氏川さんは小説読むんですか?」と坂本さんが憂鬱そうな顔で訊く。
「読みますよ。奇書珍書を好んで読みます」
「ああ、良い感じですね。あたしもこれからそう答えようかな」と坂本さんが俺の眼の奥を見つめるような眼差しで言う。
俺は人と話してる時はどんな顔をしているんだろう。
『いいい』と悪魔のような女の子の声の幻聴が言う。何が気に食わないんだ。俺はたちまち不安になる。俺は喫煙所から立ち去り、病室のベッドに入る。不安になった時は眠るのが一番だ。椅子に座って遣り過ごす事がここでは出来ない。精神科への入院中はたっぷりと寝て、神経を休めるものだ。幻聴の多くの声があの悪魔のような女の子の声の幻聴を聞いてから嵐のように騒いでいる。
「朝のお薬でえす!コップに水を入れて列に並んで順番をお待ちくださあい!」と若い女性看護師が我々を呼ぶ。俺は蒲団を跳ね除け、ベッドから下りると、コップに水を汲んで、列に並ぶ。自分の番が来ると、朝食の載ったトレイを受け取り、自分の席に腰を下ろす。前には既に亜美ちゃんが座って、朝食を食べている。
「おはよう」と亜美ちゃんに挨拶をする。
「おはよう」と亜美ちゃんが笑顔で挨拶を返す。「今日は単独院内散歩ね」
「うん。アイス・クリームでも買いに行くよ。亜美ちゃんもアイス・クリーム食べるなら、奢るよ」
「ああ、じゃあ、抹茶のアイスが食べたい。ええ、でも、奢ってもらってばかりでゴメンね」
「いやあ、良いよ。気にしないで」
今朝の朝食は納豆と白米と鯵の焼き魚と大根おろしと若布の味噌汁と紙パックの牛乳である。俺は納豆に醤油と和辛子を混ぜて、あまり掻き混ぜずに、納豆がしっとりと醤油に濡れる程度にして白米の上にかける。俺は納豆を一気に食べて、鯵の焼き魚に大根おろしを載せて食べると、味噌汁を一気に飲み、牛乳を一気に飲み干し、トレイを見下ろして合掌し、「御馳走様。南無釈迦無二仏」とお釈迦様に感謝して、席を立つ。
俺は喫煙所に向かう。タコミちゃんが先に独りで煙草を吸っている。
「おはよう」とタコミちゃんに挨拶し、壁側の角の席にいるタコミちゃんの向かいの席に座り、煙草に火を点ける。
「おはよう」とタコミちゃんが眠たそうな眼で挨拶を返す。タコミちゃんの二重の瞼が腫れ上がっている。どうやら昨晩泣いたようだ。
今朝のタコミちゃんは白のスウェット・スーツの上下ではなく、黒い合成革のミニ・スカートに黒い胸までのタイトな服を着て、黒い髪を逆立てている。その脚を組んだミニ・スカートの隙間から白いパンティーが見えている。何だか物凄く得をした感じがする。
「氏川さん、今日から漫画描くんでしょ?」とタコミちゃんが新しい今日に気付いたような明るい声で訊く。
「描きますよ。タコミちゃんも精神病院漫研の部員として一緒に漫画描くんでしょ?」
「精神病院漫研の部員って、何人出来たの?」とタコミちゃんがウキウキしたような口調で訊く。
「俺とタコミちゃんと亜美ちゃんと半沢さんの四人だよ」
「結構優秀な部員ね」とタコミちゃんが楽しそうに言う。「何、高田さんとラヴラヴで漫画描く訳?」
「漫画を描く時には恋愛なんて心から離れているよ」
「そう言いつつニヤニヤしてるけどね」とタコミちゃんが黒く化粧で縁取った眼で探るような眼差しを向けて言う。
「そうかな?」と思わずニヤ付いて言う。「ああ、ほんとだ」
「ねえ?恋愛気分よ、やっぱり」
タコミちゃんの白いパンティーが堪らなく良い。煙草を早目に切り上げ、病室で自慰行為をするのは恥ずかしいので、トイレの個室で自慰行為をする。モノの感度は激しい扱きに慣れていて、軽く扱いたぐらいではなかなか射精しない。真希ちゃんとのセックスの時にも、手で扱くような強い感度は得られなかった。セックスを良くするには竿を刺激して射精するような自慰行為の方が良いのかも。亜美ちゃんとも何れはセックスするのだから、自慰行為の感度は低いので満足しておこう。タコミちゃんの喘ぐ顔は意外と良いな。胸もそこそここんもりとあった。乳首は明るめの茶色で良いか。タコミちゃんの体温を想像しないとリアルじゃない。あっ!イッちゃったか。次回の自慰行為の改善を計画して、今日はこれで満足しよう。
病室で『子連れ狼』の一巻を読み終え、また喫煙所に行く。俺も節目節目で煙草を吸うようになったな。お金が馬鹿にならない。煙草はすっかり気に入ってしまった。石橋先生が喫煙には気持ちが落ち着く効果があると言っていた。
想像の世界で犯し捲ったタコミちゃんを前にして煙草を吸おうと思ったら、喫煙所にタコミちゃんの姿がない。ヒンドゥー哲学で言う自性と言うものにタイミングのズレが生じたのか。自性の乱れは精神状態の乱れと関係があるのか。言霊で自分の宇宙を安定させる事はよくやっている。ヒンドゥーの哲学に関しては仏教の守護神であるブラフマンへの関心で勉強し始めた。
誰も喫煙所に来ないので、病室に戻り、『子連れ狼』の続きを読む。子供の頃に『子連れ狼』のドラマを好んでよく観た。時代劇では『座頭市』も好きでよく観た。
「今日、母に漫画道具一式を持ってきてもらうんですよ。その時に過去の落選作も持ってきてくれるように頼んだよ。原稿届いたら、読んでくれる?」と半沢さんに訊くと、「是非読ませてください。氏川さんの漫画には相当に興味あります」と半沢さんが笑顔で言う。精神障害者の笑顔の中の微妙な表情の変化がすっかり気になるようになってしまった。自分の顔が相手の顔の表情の変化に反応しているのが顔の筋肉の動きで判る。精神分裂病者の顔は能面のように無表情になる事があると本に書いてある。俺の顔も能面化しているのを鏡でよく見かける。
「『子連れ狼』読んでるんですか?」と半沢さんが訊く。
「ええ」
「俺も読破しましたけど、全巻揃ってるなんて欲しくなりませんか?」と半沢さんが俺の心を探るような目で言う。
「ああ、確かに欲しくなる」
「誰が置いていったんですかね」と半沢さんが俺が手に持つ『子連れ狼』を見つめながら訊く。
「前に入院した時には病棟に漫画なんてあったかなあ・・・・」
俺は『子連れ狼』を読む事に集中する。
「幻聴って、何で幻聴が生じる前の事を思い出せないんですかね?」と半沢さんが唐突に訊く。
「一種の神様が定めた秩序だと思うな」
「幻聴って、嘘言いますか?」と半沢さんが重要な判断を人に任せるように質問をする。
「それは自分で判断した方が良いですよ」
「ああ、はい」と半沢さんが反省したように生真面目な返事をする。
俺に関して言えば、幻聴は嘘を吐かない。仮に嘘を吐いたとしても真実を言わずにいられない。
ユング心理学を少し齧った事で自分の幻聴が元型である事には確信を得た。老賢者や太母や自我や自己と言う元型はまだ見当たらない。トリック・スターと子供と言う元型の事がごっちゃになっている。アニマとの擬似恋愛の一件で、元型の幻声は他の声に変化すると思うようになった。実際、ユング派の精神科医曰く、アニマが一時的に二つに分裂する事はあるらしい。俺のアニマはもう一方の幻聴で騒ぐアニマを自分ではなく、子供の声真似だと言う。俺はどうも違うように思う。
俺はアニマを小野さんと呼んでいる。もう一人のアニマの事は物真似芸人のように解している。男の子の元型のあの声がいないなあと思うと、間もなくその声が幻聴として表われる。あの声がいないなあと思った僅かな静寂は幻聴の一部を聴かないで過ごせた癒しの時間である。勿論、長時間漫画の創作や読書に集中して幻聴が全く聴こえない時間は間違いなく癒しの時間である。
「正道!」と母が病室の入口から俺を呼ぶ。
「ああ、お母さん!」
「こっちの袋に入ってるのが漫画道具一式で、こっちの紙袋の中に漫画の原稿を入れてきたから。それとコーヒーと砂糖と粉ミルクとマグカップとお菓子を持ってきたからね」と母が丁寧に説明する。俺がぼんやりと母の話を聞いていると、「ちゃんと聴いてるの?」と母が確認する。
母が朝方早々に漫画道具一式と落選作の原稿とコーヒー類やお菓子を持ってきてくれた事にはもっと深い感謝の念がいる。俺は入院した家族のためにこんなにマメに面会や差し入れが出来るだろうか。少なくとも幻聴が騒いでいる時には命懸けだろうし、命懸けの面会や差し入れをこんなにマメに行う事は不可能だろう。私は絶え間ない幻聴がトラウマになっている。トラウマとは本来触れられない心の領域だ。それが引っ切りなしに容赦なく聴こえてくる。その事は幻聴ある統合失調症が如何に辛い病気であるかの理解に繋がるだろう。
「あんたも心ここにあらずね。それは昔からよ。子供の頃から人の話や注意を満足に聴いてないの」と母が真剣な眼で言う。
こんな気が散漫でプロの漫画家が務まるのか。好い加減に編集者の言葉を聴いていたら、何時か大変な事になるだろう。俺にはウルトラマンのカラー・タイマーのように活動時期と活動時間に制限がある。
「それじゃあ、お母さんはもう帰るからね。お母さんも仕事があるから毎日は来れなくなるわよ。入院中のお小遣いは二万円あげときます。これで自分で遣り繰りしてね」と母が二万円を俺に手渡して言う。
「ああ、ありがとう」
「それじゃあね」と母が優しい眼で励ますように言う。
「うん」
母は病室を出て、ヘルパーさんにドアーを開けてもらうと、病棟の外に出て、エレヴェイターに乗る。俺はその母の様子を一部始終見ている。
この病気になって、人の手助けをする心のゆとりが全くなくなった。俺は子供の頃から親の手伝いや学校の当番を嫌がった。面倒臭かったのだ。それが幻聴により統合失調症が発病して、いつも不安や恐怖が隣り合うようになり、人の手助けが全く出来なくなった。
「これ、俺の漫画だけど、読んでくれる?」と半沢さんに訊く。
「読ませてください。氏川さんの漫画は観てみたいです」と半沢さんが言う。
俺は自分の落選作の原稿の束を紙袋ごと半沢さんに手渡す。
俺は喫煙所に煙草を吸いに行く。煙草を吸う口許で息を吐く音に幻声が重なるのが不快だ。その一点だけでも煙草を吸っている事が悔やまれる。真希ちゃんは煙草を買おうとするギリギリの時点で自分は煙草を吸わないと自制した。俺は尚生きるために煙草を吸い始めたのか。俺も何時かは禁煙しなければいけない。障害年金から煙草代を払うと、お小遣いはそれでもうなくなってしまう。俺は障害者等級が二級だから、一級の人程多くは障害年金をもらえない。
村野さんが喫煙所に来る。
「村野さんはアルバイトとか正社員就職はしないんですか?」
「俺は二十代後半から三十ぐらいまではカラオケ屋でバイトしてたよ」と村野さんが自分の人生の優位を示すように言う。
「俺もアルバイトしようかな」
「自分に出来るアルバイトをすると良いよ」と村野さんが気楽に言う。「って言う俺はとっくに働いてないけどね。何とか障害年金でやっていけたから。しかし、今回の出費は手に終えなかった。煙草を一日二箱半吸ってたんだよ」
「ああ、それは吸い過ぎだ」
「病院に保護される形で入院したんだよ」と村野さんが楽しそうに言う。
「そうらしいですね」
「愈々来年は西暦二〇〇〇年だな。西暦二〇〇一年から二十一世紀になるんだったっけ?」と村野さんが訊く。
「そうです」
武田さんが喫煙所に来る。
「今、診察でワード・プロセッサーの持ち込みを許可してもらいました」と武田さんが言う。
「武田さん、ワープロ使うの?」と村野さんが意外そうに言う。「俺は相変わらず手書きだよ」
「本当はパーソナル・コンピューターが欲しいんですけど、お金がなくて」と武田さんが経済的な事情を打ち明ける。
「時代はどんどん変わっていくね」と村野さんが何事かを噛み締めるように言う。
「俺は家族からワープロを譲り受けました」
「今はインターネットを活用する時代だから、パソコンがないと時代に着いていけないんですよ」と武田さんが言う。
「インターネットって、噂には聞くけど、何の事か判らない」と村野さんがニヤけた顔で言う。
「俺も判んないですよ」
「私はネットカフェで少し弄ってみました」と武田さんが言う。「私は引き籠りを三年続けてたんです」
「何で引き籠りなんですか?」
「とにかく何もしたくなくて」と武田さんが苦しげに言う。「新しい物に飛び付く事だけが時代を知る事ではありませんが」
「次に来る時代に備えるような働きが必要なんですよね」
「はい」と武田さんが意外な理解者を得たような笑顔で返事をする。
「そう言うのって、自分が文学をやっている事が肯定的に受け止められるな。次に来る時代に備えるような働きって、文学や芸術以外では難しい事だよ」と村野さんが安堵したような落ち着いた口調で言う。
「皆で新しい時代を作っていると言う意識が大切なんですよ」と武田さんが声を強めて言う。
「武田さんは詩人なんだなあ」
「いえいえ」と武田さんが困ったような顔付きで謙遜する。
「じゃあ、俺は漫画でも描くか」
「漫画描く道具があるの?」村野さんが訊く。
「先、母に持ってきてもらったんですよ。落選した漫画原稿も持ってきてもらいました」
「武田さんは漫画読むの?」と村野さんが武田さんに訊く。
「あんまり関心ないですね」と武田さんがあっさりと切り捨てるように言う。
俺は病室に戻り、「食堂で精神病院漫研やりますよ」と半沢さんに言い、食堂のテーブル席に漫画道具一式を持っていき、席に腰を下ろす。何だか長い事描いていなかったような億劫な気分がある。漫画もやっぱり、毎日描き続けた方が良いんだな。入り込み難いところに入り込んでいくような創作の取っ掛かりは苦痛この上ない。半沢さんが後から食堂のテーブル席に漫画道具を持って現われる。半沢さんは俺の左隣の椅子に腰を下ろす。俺の落選した原稿の入った紙袋も持ってきている。半沢さんは俺の漫画をここで読むようだ。そこに亜美ちゃんがデイルームに現われ、「ええ!もう精神病院漫研始まってるの!あたしも漫画道具持ってくる!」と言って、病室に引き返す。駆け足で廊下を行く亜美ちゃんがタコミちゃんにぶつかりそうになり、避ける。
「えっ、半沢君、それ誰の漫画?」とタコミちゃんが半沢さんに訊く。
「氏川さんの漫画です」と半沢さんが答え、「読み終わった方読みますか?」とタコミちゃんに訊く。
「読む!読む!」とタコミちゃんが興奮したように言い、半沢さんの向かいの席、俺の左斜め前の席に腰を下ろす。
「あたしも漫画道具持ってきたよ!」と亜美ちゃんが言って、俺の向かいの席に座る。「ええ、誰の漫画?」と亜美ちゃんがタコミちゃんに訊く。
「氏川さんの漫画」とタコミちゃんが冷ややかな声で言う。
亜美ちゃんとタコミちゃんの関係って、タコミちゃんが一方的に亜美ちゃんを嫌ってるんだな。
「タコミちゃんが読んでるの何作目?」と亜美ちゃんがタコミちゃんに訊く。タコミちゃんは集中していて答えない。
「タコミちゃんが読んでるのが一作目ですよ」と半沢さんが言う。「一、二作目まではホラーなんですよ」
「へええ!じゃあ、読み終わったら、こっちに渡してね」と亜美ちゃんが半沢さんに言う。
「あたしが読み終わった分は横に置いてるから、そこから読めば」とタコミちゃんが原稿から目を離さずに突き放すような口調で言う。
「ああ、うん!」と亜美ちゃんが明るい声で言うと、その亜美ちゃんの横顔をタコミちゃんが冷やかな目で一瞥する。
今、漫画を描こうとしている部員は俺だけらしい。描きかけの十二作目のネームを読み返し、主人公がハイウェイをオープン・カーで走行するシーンの助手席にタコミちゃんをモデルにした粗野な恋人を描き込む。登場人物は今のところ白人だけだ。ここに黒人や黄色人種やアラブ系の人物を登場させるつもりだった事を思い出す。映画『バグダッド・カフェ』や『ブルー・ヴェルヴェッド』辺りを意識して描いている。ネームのプリント紙を新たに用意し、メモ代わりにもう一つの十三作目のネームの書き出しをさっと描く。そっちは宇宙刑務所の人工惑星の大ゴマの後に刑務所内の囚人の作業風景を描く。そこから囚人の主人公と他の囚人との喧嘩が起こり、刑務所の職員に主人公が取り押さえられる。主人公は独房に入れられ、暫く反省を促される。
「それ、SFのネームですか?」と半沢さんが俺のネームの質問をする。
「そうです。二作並行してネームを描いてるんだよ」
「主人公が両方共白人ですね」と半沢さんが興味深そうに言う。
「日本人の漫画の主人公が日本人って言うのは日本人の漫画家が描いているからって言うのはよく判るんだけど、俺はこの国の日本人ばっかりの日常に少々うんざりしていてね」
「日本を出たいんですか?」と半沢さんが軽い口調で訊く。
「出来れば、フランスに住みたいね」
「BDの国ですね。俺もフランスの漫画には興味があります」と半沢さんが楽しそうに言う。「いやあ、氏川さんの漫画の低予算映画みたいな作風が良いですよ。面白いです。映画の絵コンテみたいです」
「そこが担当編集者の人が言うには落選理由らしいんだよ。絵もストーリーも良いって言われてるんだけれどね。今回投稿した作品で漸くネームを描き始めて、担当の意見を聴きながら、原稿仕上げたんだよ」
「俺は最初から漫画の描き方通りにネームを描いていました」と半沢さんが俺の漫画を読みながら言う。「二、三作目辺りまではあらすじ的でストーリーやドラマ性が薄いですね」
「うん。そうなんだよ。未だにそう言うところがあるんだ。ゆったりとした作品の奥行きが欲しいんだけど、どう描いたら、そう言うのが表現出来るのかが判らなくてね」
「難しい事ですね。要は如何に自分の作品を客観的に捉えるかって事でしょ?」と半沢さんが俺の漫画を読みながら言う。「でも、よく煮詰めて描き直せば、面白いアイデアばかりですよ。或意味羨ましい才能です」
「その辺りは描いていて物凄く詰まらなかったよ」
半沢さんが三作品をタコミちゃんの方に渡し、タコミちゃんが読み終わった分を亜美ちゃんが読んでいる。タコミちゃんは二作目を読んでいる。
「ああ、それは微妙な判断ですね。ドラマ性が表われてきてますよ」と半沢さんが俺が否定する作品を高く評価する。
「ああ、なるほど。そうかもしれない」
「描きたい題材じゃなかったんだろうと思うんです」と半沢さんが好意的に判断する。
「うん。全然俺が本当に描きたいものとは違ってた」
「担当編集の人にはそう言う作品こそ見せるべきです。何処に自分の取り柄があるのかは全部見せないと担当には判りません」と半沢さんが言う。
「気に入らない方向に進められるのは幸せじゃないよ」
「我々の場合、とりあえずはデビューだと思うんです」と半沢さんが言葉少な目に意見する。
「四作目はアート・コミック風になってきますね」と半沢さんが嬉しそうに言う。
「ああ、それね。それもやはり詰まらなかった」
「ホラー漫画でも人間の心理をちゃんと描くのね」と亜美ちゃんが言う。「第一作目の割りには絵が上手いのよね。この暗い感じにしたそうな主人公が何処か明るいわね」
「うん。そうなんだよ。俺自身の性格が明るくて、今一つ作品に入り込めないんだよ」
「二作目は割りと暗いホラーになってくるのよ」とタコミちゃんが亜美ちゃんに言う。「いやっ、でも、二作目も暗さは中途半端よ。何か時々コミカルな仕種するの」
「うん。ホラーは向いてないなと思ったんだ」
タコミちゃんが三作目を読み始め、亜美ちゃんが間もなく二作目を読み始める。
「ああ、ほんとだ。何か尻つぼみみたいに終わる」と半沢さんが残念そうに四作目の原稿をタコミちゃんの方に置く。
「五作目、六作目は気に入ってるんだよ」
「読んでみます」と半沢さんが厳しい顔付きで五作目を読む。
「二作目の方がホラーとしてはレヴェルが高いわね」と亜美ちゃんが言う。
「映画っぽいのが良いんですよ」と半沢さんが亜美ちゃんに言う。
「ああ、五作目は詩的な漫画だ。アート・コミックへの切り口を変えるんですね」と半沢さんが嬉しそうに言う。
「うん。そうなんだ。芸術って言う視点が少しはっきりしてきて、表現が自由になるんだよ」
「ほんとだ。何か暗さに徹しないホラー漫画ね」と亜美ちゃんが言う。
「この三作目の人間ドラマは良いわよ?セリフも少なくて読み易いし、良い感じに表現出来てると思うけど。もっと続けば、かなり良い気分で作品に浸れるのに」とタコミちゃんが残念そうに言う。
「俺もそう思いました」と半沢さんが言う。
タコミちゃんは四作目を読み始める。
「これはアート・コミックだ」とタコミちゃんが呟く。
「ううん。ホラーは向いてないってね。そうなのかな・・・・。描き続けてれば、その裡良いホラーが描けるようになるかもしれないのに。性格が暗さに徹せないのか」と亜美ちゃんが不満気に言う。
亜美ちゃんは三作目を読み始める。
「ああ、五作目からは本領発揮ですね。かなり良い作風で出来上がってます。詩的な漫画ですね」と半沢さんが嬉しそうに言う。
「今、十一作目の結果を待ってるんです」
タコミちゃんは明るい口調で、「ああ、文字のないアート・コミックに挑戦するのね。何か判らなくもないなあ。でも、絵で見せるって言う漫画の極みはこれよね」と言い、五作目を読み始める。
「ええ、三作目の人間ドラマは良いわよ?主人公の寂しい気持ちとかよく描けてるし。これ、話がもっと続いてたら、相当に入り込めたと思うのよね」と亜美ちゃんが残念そうに言う。
「どうも三作目の人間ドラマの作風は捨てちゃいけないんだな」
「そうよ!」と亜美ちゃんが自信を持って保証し、四作目を読み始める。
タコミちゃんが五作目を集中して読み込んでいる。
「ああ、四作目でアート・コミックに挑戦するのね。あたし、こっちの方は絵画の方で通ったのよね。漫画で芸術やるって、こう言う事なのね」と亜美ちゃんが明るい顔で言う。
「これが芸術だろ?って確認していながら、この作品自体にアートとしての新しさが何もないでしょ?」
「あたし、実はそこまで厳しく自分の絵画と向き合った事がないのよね。何となくアーティストとして本物になれなくて、合同展示会とかで同じような才能の子達と個性を競うんだけど、どうもその他大勢の寄せ集め的で、画家の一人一人って、こんなもんだろうと思って、絵を描いてたのよ」と亜美ちゃんが苦笑して言う。亜美ちゃんは四作目の原稿をしっかりと両手に掴み、読後感を確認している。亜美ちゃんは溜息を吐き、五作目を読み始める。
「ああ、五作目は良いわね。詩的な感じで。これも違う視点による一種のアート・コミックよね。この辺になると、プロに近いわね」とタコミちゃんが誉め捲る。
「五作目は俺もピンと来るものが確かにあったよ」
「それで落選って、やっぱり、映画的だからかな・・・・」と半沢さんがかなりの好評価を持ちながら、落選に納得がいかない様子でいる。
亜美ちゃんは五作目を集中して読む。
「六作目は時代劇風の妖怪モノか。この作品は御自分の評価では百点満点中何点なんですか?」と半沢さんが訊く。
「俺は自信を以て百点満天を与えてるんだけど、担当はやはり、漫画と言うよりは映画的って言うんだよ」
「漫画は難しい時期に来てますよね」と半沢さんが苦しげに言う。
「ああ、五作目は観た事のないオリジナリティーがあるわね」と亜美ちゃんが言う。「言葉の少ない詩的な感じが何かふんわりと軽くて心地好いと言うか。あたしはかなり好きだな」
「でも、それで落選?」とタコミちゃんが納得のいかない様子で訊く。
「うん」
「漫画の落選は本人評価では意外な結果よね。プロとアマの境界線みたいなものが正確にあるなら、是非とも担当に言ってもらいたいけど、担当は飽く迄読み手の一人なのよね。入選間違いなしとゴー・サイン出した作品が完敗する事って、担当がよく経験する事でしょ?」とタコミちゃんが言う。
「ああ、六作目はゆったりとした時間感覚がありますね」と半沢さんが嬉しそうに言う。「妖怪のデザインとか、かなりオリジナリティーがありますよ。怖い話かと思ったら、癒し系の妖怪モノなんですね」
「水木しげるの妖怪に対する愛に憧れて描いたんだよ」
「ああ、そんな感じですよ」と半沢さんが笑顔で言う。半沢さんは作品に入り込み、夢中になって読んでいる。
「読み終わったら、直ぐに渡してよ」とタコミちゃんが半沢さんを急かす。
「いやあ、この作品、結構、表現力が深くなってきてますよ」と半沢さんが言う。「文学的って言うのかなあ。純文学テイストですよね」
タコミちゃんが六作目を読む。
「ああ、何か一寸、ノンストーリー的なんですね」と半沢さんが七作目を読み終えて言う。
「ええ。何の恋のアクションも起こさない思春期の少年の話なんです」
「確かに普通、高校生活って、恋愛とかありませんよね」と半沢さんが自分の過去に不満を表わす。
タコミちゃんが七作目を読み始める。
「過激さとか、そう言う荒削りな描き出しを止めて普通に作品に入るのね。面白いのかな」とタコミちゃんが首を傾げて言う。
「描く事描いたら、そう言う文学テイストの作品を描き始めたよ」
「文学テイストって、確かにやってみたいよね」とタコミちゃんが意外な興味を示す。
「ガロ系にも文学テイストの漫画家が一杯いるけど、タコミちゃん的な漫画って、ガロに投稿すると良いと思うよ」
「あたし、やっぱり、ガロ系かな?」とタコミちゃんが嬉しそうに言う。
「全くガロ系だよ」
「ガロ系にも女の漫画家がいるのよね」とタコミちゃんがガロ系を目指す兆しを表わす。
「ああ、六作目は妖怪もの!これ、描いてて楽しかったでしょ?」と亜美ちゃんが訊く。
「うん。妖怪のデザインとか動きとか、何か絵を描く事に自由感があったよ」
「ああ、確かに七作目は安定感がある。これ、確かにテイスト変えたね」とタコミちゃんが七作目を読み終えて評価する。「氏川さん、人間ドラマで行くの?」
「カルトっぽい漫画と並行して人間ドラマを作っていきたいと思ってるんだ」
「あたし、これはこれで良いと思うよ」とタコミちゃんが作品を気に入ってくれる。「カルトっぽい人間ドラマって、どんな感じ?」
「俺、『ブルー・ベルベッド』が好きでさ」
「えええ!あれ、病気だよ!」とタコミちゃんが率直に意見する。
「あの映画の病気っぽさって、俺達とは違うと思わない?」
「ううん。根っ子は一緒なのかなと思う」とタコミちゃんが断言する。
「はっきり言われちゃったな」
「知りたくなかった?」とタコミちゃんが悪戯っぽく訊き、「あっ、ゴメン」と謝る。
「そこで謝ってくれる人って、俺達の環境にしかいないよ」
「ああ・・・・」とタコミちゃんの顔に不安が過ぎる。
「どうした?何か悪い事言ったなら謝るよ」
「うん」とタコミちゃんが目元を右手の人差し指の甲で押さえる。
「ああ、八作目はサイケデリックなパラレル・ワールドですね」と半沢さんが興奮を抑えるように言う。「ストーリー性って、やっぱりどんどん切り捨てていった方が良いんですかね」
「その点は描き手の好みで分かれるね」
「ああ、六作目の妖怪モノは結構好きだな。癒しがある」と亜美ちゃんは言い、七作目の原稿を手にする。
「ああ、何か八作目の最後はかなりショッキングに主人公の人格の崩壊を描いてますね」と半沢さんが嬉しそうに言う。「独特な漫画だな」
「皆、これを純文学テイストって言ってるのね。確かに純文学テイストよ。あたし達の漫画に対する批評眼って結構的を得てるんじゃないかな?」と亜美ちゃんが七作目を読みながら言う。
「書き手の批評眼には具体的な着眼点があるからね」
「八作目辺りからまた絵の陰影を強調するのね」とタコミちゃんがしんみりとした口調で言う。「絵にも磨きが懸かってくるわね」
「ああ、それは八作目にして、一周して原点に帰るような感じで描いたかな。それ、努力賞もらったんだよ」
「へええ!」とタコミちゃんが原稿を読みながら、笑顔を浮かべて言う。
「ああ、七作目は淡い恋の話ね。何にも起きないのに読み手の心は結構揺さぶられるのよね」と亜美ちゃんが七作目を読み終えて言う。亜美ちゃんは八作目を手に取る。
「九作目はタッチが変わりますね」と半沢さんが嬉しそうに言う。
「そう言うタッチの漫画を何作か見て、一寸取り入れてみたんたけど、良くない?」
「いやあ、良いと思いますよ。カフカの『城』とかに影響されてますか?」と半沢さんがストレイトに訊く。
「ああ、カフカは確かに俺の中の最重要作家の一人だよ」
「何か現実に対する不信感みたいな事を表現し始めるんですね」と半沢さんが夢中になって読みながら言う。
「ああ、八作目はもう自立的な作品になってくるのね」と亜美ちゃんが言う。「何か極限まで物事に悩んで問題を解決するには本当に人格崩壊があるのかな?」
「いやあ、それは飽く迄フィクションだよ」と俺は言って、笑う。
「九作目がカフカの『城』って、どう言うところが?」とタコミちゃんが半沢さんに訊く。半沢さんが十作目を読むのを中断して、何とか説明しようと努める。「何かそのう、徒労とか、迂回とかさ」
「ああ、ねえ。なるほど。でも、無理にカフカの『城』にこじ付ける必要はないように思うんだけどなあ」とタコミちゃんが半沢さんに意見する。
「俺もそれ程カフカの『城』を意識して描いたつもりはないんだけど、確かに俺もカフカ的な感性を用いる事を奥の手みたいに隠し持ってたりするんだよね」
亜美ちゃんは唇を摘みながら、九作目を読み始める。
「ああ、十作目はもう完全に氏川さんのオリジナル・カルト漫画ですね」と半沢さんが言い、「『ブルー・ベルベッド』が好きって、難しい課題ですね。あれ、何度観ても、あれ以上あれ以下のアイデアは浮かばないでしょ?伏線回収がきっちりとされているからか知らないけれど、何て言うかな、場面場面は只のインパクトの強いアイデアでしょ?場面場面にインパクトの強いアイデアを連続させるって事が学びなんじゃないですかね?」と訊く。
「ううん。そうなのかな。あれを超えたら、俺も自作品に満足するんだけど」
「十作目はもうリンチと同じ次元にあると思いますよ。氏川さんが思い入れがあるだけだと思うな」と半沢さんが全作品を読み終えて言う。
タコミちゃんが十作目を読み始める。
「ああ、これがカフカの『城』を意識してるような感じは私もするな」と亜美ちゃんが言う。
「俺の創作の懐にある重要作品の一つが『城』だから、その辺の指摘は当たってるよ」
「ああ、十作目はカルト映画マニアには堪らないと思うな。これはもうプロと同じ次元よ。売れる売れないで審査員が解釈したなら、一般的な作風からはほど遠いし、売れないと見做されてるのかな」とタコミちゃんが言う。「ああ、十作目は良いわ。これ、あたしにはかなり影響力大だな」タコミちゃんは十一作目を手に取り、「カルト映画って、あたしもよく観るのよ」と言う。
「へええ。そうなんだ。意外だな」
「あたしがカルト映画好きって繋がり難い?」とタコミちゃんが更に突っ込んで訊く。
「タコミちゃんは誰の影響も受けてない感じがする」
「ええ!そんな事ないよ!」とタコミちゃんが嬉しそうに言う。
亜美ちゃんが十作目を読み終え、「ええ!この十作目語るのに何で『ブルー・ベルベッド』を態々引き合いに出さないといけないの?」
と訊く。
「それはやっぱり、カフカの『城』同様に俺の懐にある作品だからかな。懐にある作品の感性って言うのは俺の奥の手なんだよね」
「ええ!その辺はもう既に骨肉化してると思うわよ」と亜美ちゃんが言う。
「ああ、そうかな。そうかもしれない」
「何かこれからが楽しみな漫画家さんね。読ませてくれてありがとう。ためになりました」とタコミちゃんが言う。
「ああ、いえいえ。こちらこそ読んで戴けて光栄です」
「いやあ、ほんと、ためになりましたよ」と半沢さんが言う。
「いえいえいえ」
「ほんと、あたしもためになったわ。氏川さん、読ませてくれてありがとうね」と亜美が俺に感謝する。
「いえいえ、こちらこそ」と俺は言い、「皆、作品誉めてくれて、ありがとう。益々頑張ろうって気持ちになったよ」と言う。俺が原稿を紙袋に仕舞うと、タコミちゃんが暗い顔で席を立って、「あたし、一寸、ベッドに行くわ」と言う。
「タコミちゃん、どうしたのかな?」と左隣の席に座る半沢さんに訊く。
「タコミちゃんは気難しいから、あんまり気にしない方が良いですよ」と半沢さんが不機嫌な顔付きで言う。「あの人は自分ってものを誰よりもはっきりと持っているけれど、人に触れられたくない自分って言うのも沢山あって、いっつも限界ギリギリの知能で自分の障害と闘って生きてるんですよ」
「ああ、なるほど。いやあ、でも、良い感想が聴けて良かった」
「こっちも描き手だから、辛口批評はあんまり言えないんですよ」と半沢さんが頭を搔きながら言う。
なかなか面白い群像劇になりました。




