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精神科退院後

精神病院漫研と精神病院文芸部との交流。

 一九九五年、退院から早くも一年が経つ。私も誕生日を迎えて、三十六になる。漫画は退院後に五作目と六作目が落選する。六作目は時代劇風の妖怪モノで、やさしいほのぼのとした妖怪達の遣り取りを作品化した。今、描いている七作目は恋人のいない寂しさを感じた男子高校生がアルバイト先のコンヴィニエンス・ストアに来る女子高生の客に恋し、ラヴ・レターを渡すタイミングを計る。男子高校生はなかなかラヴ・レターを手渡すタイミングが掴めない。男子高校生は悶々とした日常の中でセックスに対する不安をどうしても解消出来ず、到頭花の高校生時代に恋愛を経験出来ずに卒業式を迎える話だ。

 アパートメントで七作目の短編漫画の原稿にぺン入れをしていると、電話がかかってくる。

「はい、もしもし、氏川ですが」

「ああ、あのう、T医大の精神科病棟でお会いした片瀬由里と申しますが、憶えていらっしゃいますか?」と由里ちゃんが以前より元気な声で言う。

「ああ、由里ちゃんか!」

「はい、そうです!あのう、あたし、先月、退院したんです」と由里ちゃんが明るい声で言う。

「ああ、それは良かったね」

「布居さんは私より一ヶ月前に退院してます」と由里ちゃんが弾むような口調で話す。

「通院日が違うんですね。三木谷さんや村野さんは俺と通院日が同じなんです。由里ちゃんと布居さんが通院日合わせてくれれば、昼食会のメンバーが増えるんだけどな」

「今度の通院日、何日なんですか?」と由里ちゃんが軽快に訊く。

「十二月九日の水曜日」

「ああ、その日に布居さんと一緒に通院します」と由里ちゃんが即決する。

「通院日換えてくれるの?」

「だって、そうしないと会えないじゃないですか!」と由里ちゃんが笑いながら言う。

「ああ、じゃあ、お願いします」

「はい。氏川さんって漫画の人でしたよね?」と由里ちゃんが話題を変える。

「ええ。由里ちゃんは小説家志望だっけ?」

「はい。今も毎日コツコツ小説書いてます」と由里ちゃんがすっかり元気になって話す。

「村野さんが小説家志望なんですよ」

「村野さんって、頭の良い三〇代ぐらいの人ですよね?」と由里ちゃんが以前とは全く違う明るい口調で言う。

「はい。布居さん、まだ漫画描いてるのかな」

「描いてるみたいですよ」と由里ちゃんがすっかり布居さんに親しんだ様子で言う。

「漫画家志望は俺と三木谷さんと布居さんの三人いるんですよ」

「漫画描くのって大変でしょ?」と由里ちゃんが本当に翳りのない明るい声で訊く。

「まあ、確かに大変なのは大変です。漫画描くのが好きじゃないと続きません」

「あたしも小説書くのは好きなんです」と由里ちゃんが楽しげに言う。

「何か、由里ちゃん、声が明るくなったね」

「ああ、そうかもしれない。氏川さんに出会った頃は最悪な精神状態だったんです。真希ちゃんの事って、今でも思い出しますか?」と由里ちゃんが別人のように言う。

「うん、まあ」

「真希ちゃん、可愛かったもんね」と由里ちゃんが真希ちゃんに対する想いがすっかり整理されたように言う。

「はい」

「やっぱり、そうか。そうだよね。忘れられないよね。ああ、じゃあ、十二月九日にT医大の精神科の外来の待合室で!ああ、何時に外来に行ってるんですか?」と由里ちゃんが待ち合わせの詳しい時間を訊く。

「午前中ですよ。九時には来てます」

「判りました。それではまた電話します。布居さんも誘っておきますね」と由里ちゃんが爽やかな口調で言う。

「はい。お願いします。それじゃあ、失礼します」


 発病前に始めた事が今の俺の生活を支えている。布居さんも発病前に漫画を描いた経験があった。布居さんには原稿用紙にコマ割りをして、実際に漫画を描いて絵の勉強をするようにと勧め、その上でイラストレイションを描けば良いと助言した。

 電話がかかってくる。

「はい、もしもし、氏川ですが」

「ああ、あのう、T医大の精神科病棟で一緒でした布居望と申しますが」と布居さんがすっかり落ち着いた声で言う。

「ああ、布居さん!久しぶりですね」

「ああ、あたしの事憶えていてくださったんですね!」と布居さんが懐かしい口調に戻って言う。

「漫画描いてますか?」

「描いてます。短編を新人賞に投稿しました」と布居さんが満足気に言う。

「へええ、凄い!もう短編一作描いたんですか!」

「氏川さんに言われた通りにスケッチやイラストレイションでも絵の勉強をしてます」と布居さんが俺に対して年下の女性のように敬意を払う。

「目覚めたんですね」

「ええ。氏川さんの漫画の原稿を観たら、これだ!って、ピンと来たんです」と布居さんが明るい口調で言う。病人臭さは微塵も見受けられない。

「俺の漫画で良かったんですかね」

「氏川さんの漫画は素晴らしいですよ」と布居さんが尊敬の念を込めて言う。

「俺は漫画をコンコンと描いてます。漫画を直接描く事が絵の勉強にもなってるんです」

「スケッチやイラストレイションを並行してやると、画家を兼ねるような喜びがあります」と布居さんが晴れやかな声で言う。

「器用な方ですね」

「由里ちゃんみたいに小説も書いてみたいです」と布居さんが文学や芸術に対する積極的な姿勢を示す。

「ほお!」

「精神分裂病って辛いでしょ?」と布居さんが話題を変える。

「ええ、まあ」

「辛い分、自分の好きな世界作りをとことんやりたくなるんです。辛い幻聴から離れて作品世界の創造に没頭するんです」と布居さんが真面目な口調で話す。

「創作に入り込む訳ですか」

「はい、頭の先から爪先まで創作に集中するんです」と布居さんが晴れやかな声で言う。

「凄いな、それ!俺はどうしても幻聴の嵐が始まると寝込みます」

「寝込まずに漫画机の前で静かに座っている方が良いですよ。その方が病人っぽい生活が気持ちだけ和らぎます」と布居さんが助言する。

「椅子に座ったままじゃ永遠と幻聴が続きますよ」

「どっち道続くんじゃありませんか?」と布居さんが達観したように言う。

「確かにどっち道幻聴は続きますね」

「そうでしょう?椅子に座ったまま乗り越えられたら、気持ちも少し楽になるんです」と布居さんがはっきりとした判断を示す。

「ああ、じゃあ、俺もそうします。でも、横になりたいかな」

「横になるのが癖になってるんですよ。で、一寸寝込む生活が好きなんじゃありませんか?」と布居さんがからかうように言う。

 そうかな。ううむ。

「確かに蒲団に寝込む時は気持ちが良いし、気分も楽かな」

「それじゃあ、漫画家は務まりませんよ」と布居さんが漫画家になる将来の注意点を示す。

「うん・・・・。じゃあ、もう寝込むの止めます」

「そうでしょう!横になるのは消灯後だけで良いんですよ」と布居さんが明るい口調で冗談っぽく言う。

「どんな漫画描いてるんですか?」

「今回、投稿した作品は中学校の校舎の中で微妙な異界に紛れ込んで、一寸混乱し、一寸恐い思いをする話です。その前後は普通の学園生活なんです。異界も物凄く現実に似ています」と布居さんが自分の作品の説明をする。

「それって面白いのかな」

「自由に考え、自由に空想するんです。それを幻聴がどう受け止めるかとか、幻聴を警戒するような創作を止めるんです。後々の幻聴の嵐に自分の思考や空想がどう作用するかとか、そう言う不安を捨てるんです。その時はその時なりに自分の思考や空想が幻聴の言葉に影響するだけです。そういう事を管理しようとする役割りを止めるんです。放棄するんです。もっと自分の本音に生きるんです。幻聴を気にするのを止めないと自分の心が本当に疲れるでしょ?」

「ああ、なるほど」

 随分と正直な発言だな。布居さんは頼りになる。発言の内容も信頼出来る。

「あたし、実は幻聴が消えたんです」と布居さんが打ち明ける。

「ええ、ほんとに!へええ、良かったね。羨ましい」

「はい。ありがとうございます。それじゃあ、また電話します」と布居さんが改まって言う。

「ああ、はい。それじゃあ」


 幻聴を気にせず、自由に考え、自由に空想するか。もう幻聴を警戒しない。幻聴を警戒する役割りを止める。何れにしろ、幻聴は人間の思考や空想の影響を受ける。その時はその時で良い訳か。もっと心が自由になる訳か。たった今から実践すれば良い訳だな。ホラー漫画のアイデアが浮かんでくる。胸の中からトラウマが溢れ出しそうなくらい不安や恐怖が募っている。もっと平和な癒しある作品が描けないものか。自由に考え、自由に空想していれば、その裡平和な癒しのある作品が描けるのかもしれない。ホラーはホラーとして夢中になって描けば良いんだな。

 旅人の漫画を描きたいな。釣りだけで生活するホームレスの話が描けないものか。テントや大きなダンボールの中で毛布に包まって眠るようなホームレスの冬を描きたい。そこに三十一ページに納まる短編的なアイデアがいる。ホームレスの生活そのものを表現しようか。そうなるとドキュメンタリー的な取材が必要になり、そこに重点が置かれる。もっとホームレスへの憧れを思い巡らして表現しなけれぱいけない。複数のホームレスが密集している地域で、ホームレスの遣り取りをドラマ化させれば良い訳か。

 早速、原稿用紙に直接ネームを描いていく。原稿用紙に一コマ下書きが出来上がる前に、思い切って大学ノートにネームを描く事に挑戦する。これを漫画を描く手順として素直に受け入れていれば良かった訳だな。描きかけの原稿が沢山ある。


『芸術家集団・五人組』

 通院日の朝、鞄に落選作六作を入れて、家を出る。

 病院の外来に着くと、物凄くお洒落で綺麗な女性が、「氏川さん!」と言って、俺に手を振る。俺は誰だか判らず、会釈する。その女性が近づいてきて、初めて由里ちゃんだと気づく。

「ああ、何だ!由里ちゃんか!随分綺麗になったね!」

「ああ、入院中と違って、しっかりメイクもしてるから印象が良かったんでしょうね」と由里ちゃんが笑顔で言う。どれだけ由里ちゃんが綺麗になっても、俺はあの病棟で自分が真希ちゃんの方を選んだ事に筋を通す。俺の心理や思考に合わせて、無言の由里ちゃんの顔が複雑に変化する。俺は生まれて初めて人と対峙している時の自分の顔の表情の変化を気にするようになる。こっちの顔の表情の変化に相手の顔も一つ一つ反応するのだ。

「ええ!氏川さん!」とトイレから出てきた大柄の女性が声を上げる。こちらの女性の方は直ぐに布居さんだと気付く。布居さんが近づいてきて、「あたし、氏川さんに会いたかったんですよ!」とはしゃいだように言う。布居さんの声は少し大き過ぎる。

「今日、布居さんと三木谷さんに見せようと思って、落選作七作の漫画の原稿を持ってきたんです」

「えええ!見せて!見せて!」と布居さんが俺の鞄を見下ろして言う。俺は床に置いた鞄の中から原稿を取り出し、「これなんですけど」と布居さんに差し出す。

「観ても良いですか?」と布居さんが俺の原稿を受け取り、興味津々に言う。

「どうぞ!もう二人は診察終わったんですか?」

「終わりました」と布居さんが答え、最前列の空席の方に立ち去る。

「あたしも終わりました」と由里ちゃんが笑顔で俺を見上げて言う。

「村野さんと三木谷さんは何処にいるんだろう?」

「ああ、二人は売店に行きました。何かお菓子と飲み物を買いに行くって言ってました」と由里ちゃんが明るい顔で言う。

「おお、氏川さん!」と背後から誰か男の声が俺に声をかける。

 振り返ると、三木谷さんと村野さんがいる。背後から声をかけたのは村野さんだと判る。

「氏川さん、由里ちゃん、うんと綺麗になったろ?」と三木谷さんが明るい声で訊く。

「ああ、最初誰なのか判らなかったです」

「俺もそうだったんだよ」

「布居さんは直ぐに判ったな」と村野さんが左脇から笑いながら言う。

「俺も布居さんは直ぐに判りました」

「あれ?布居さんは?」と三木谷さんが布居さんの行方を見回す。

「一番前の席で俺の漫画読んでます」

「ええ!もう氏川さんの漫画読んでるの!」と三木谷さんは言って、布居さんの方に歩いていく。

「飲み物とお菓子買ってきたから、販売機の隣のベンチに座って一緒に食べよう!」と村野さんが言い、由里ちゃんと俺は村野さんの後から販売機の方に歩いていく。

 販売機の隣のベンチに三人並んで座る。我々は鈴カステラやスナック菓子を食べながら、缶コーヒーやコーラを飲む。由里ちゃんも俺も自分が食べる分はしっかりと村野さんにお金を払う。

「由里ちゃんは小説書いてますか?」と村野さんが右隣に座る由里ちゃんに訊く。

「小説は書いてます。もっと新しい感性で小説を書かなくてはデビューは出来ないなって思ってます」と由里ちゃんが改まった口調で言う。

「新しい感性ね。俺の小説は理屈っぽくていけない。語りばかりでアクションがないって、父に言われました」と村野さんが言う。

「語って伝える小説って、確かに小説ではないですね。もっと出来事が次々に起きて、出来事の結果にメッセージ性を持たせるべきだと思います」と由里ちゃんが村野さんに意見する。

「それって、まどろっこしいですけれど、撥ね付けてはいけない問題ですね」と村野さんが真面目な口調で言う。「でも、近頃は中身のない小説が非常に増えていますね」

「日常の遣り取りを普通に人間ドラマのように描く事が小説である訳でもないし、もっと文学的な新しい感性で物事を表現した小説が求められているように思うんです。或短い時間の出来事や気持ちが切り取られるだけの小説の何が新しかったのかと言う事が追究されているんだと思うんです」と由里ちゃんが真面目な口調で言う。

「ああ、確かにそれは文学だ」と村野さんが由里ちゃんの意見に同意する。

「その人らしい特徴がその人オンリーの明確な個性として表われるのがプロの小説だと思うんです。既成の小説を読んで小説らしい書き方を感性で捉えたら、その書き方を敢て捨て去るのがデビュー組の小説の特徴なんじゃありませんか」と由里ちゃんが自信に満ちた心でプロの小説を語る。

「ああ、そう言う明確な個性ですか・・・・」と村野さんが口籠もる。

 こう言う二人の議論が二人にとって良いと言うのはとてもよく判る。私は炭酸の効いたコーラを一気に飲み干す。もっとコーラの炭酸のように痛くて刺激ある個性で漫画を描かねばならない。

「漱石のような小説は永遠の中で漱石一人で良い。春樹のような小説は永遠の中で春樹一人で良いのがプロの文学史です」と由里ちゃんが笑顔で村野さんに言う。

「アマチュアの文学にはそう言うオンリーの個性はないんだろうか・・・・」と村野さんがしょんぼりとした声で言う。

「何でアマチュアに留まるような事を考えるんですか!もっと苦しんで、もっと頑張らないといけませんよ!」と由里ちゃんが村野さんを鼓舞する。

「ああ、そうですね。力強い言葉です」と村野さんが弱った顔で言う。

「氏川さん、診察室にお入りください」と俺の名が呼ばれる。

 五人組の診察が終わり、電車に乗って蒲田に行く。我々は馴染みの焼肉屋に入ると、座敷に上がり、それぞれ上着を脱ぐ。

「あたし、後何作でデビューするのかな。あたし、絶対デビュー諦めないです」と布居さんがやる気を示す。

「望ちゃんのデビューは意外なスピードで実現するかもね」と三木谷さんが明るい口調で言う。

「ええ、何で?」と布居さんが三木谷さんに訊く。

「ヘタウマが売りだからだよ。望ちゃんの場合、完成形に近いところからの始まりだからね」と三木谷さんが答える。「俺はストーリー作りに本当に息詰まってる。ストーリーにオリジナリティーがないんだよ。自分ならではの新しい話が書けないんだよ。才能がないのかなあ」

「才能云々の話は止めようよ!皆ノリノリで書いてるんだからさ」と由里ちゃんが力強い口調で言う。

 由里ちゃんの小説の特徴は物事の周辺を細かく描くところにある。何か中心に大変な心の闇を抱えているのだろう。由里ちゃんの小説にはトラウマにグイグイ入り込むような積極的な意思が全く感じられない。全体に満ちる淡くて美しい面には芸術的な才能を感じる。三木谷さんの漫画には確かにストーリー性が足りない。イラストレイションならばともかく、漫画のストーリーとしては新しさや独自性が感じられない。画力はプロのレヴェルと比較しても高い。村野さんはスランプだと言う。落選を繰り返し、感覚的に小説の書き方が判らなくなってきたと言う。

 布居さんがビールを飲み干し、肉を焼きながら、「由里ちゃんや村野さんみたいに文学やるのも良いわよね」と言う。

「文学には歴史があるしね」と三木谷さんが言う。

「歴史があるから遣り難いって事もあるんです。自分が書いている小説を漱石や芥川なんかの文学と比較されたら堪らないですよ」と村野さんが言う。

「近代文学は飽く迄近代文学ですよ。そう言う時代たったんだと思うんです」と三木谷さんが言う。

「近代文学がそれ程良ければ、それはもう近代文学に倣うべきだと思うな」と村野さんがビールのジョッキの口に掌を載せながら、真っ赤な眼をして言う。

「新しい文学を生み出す事の方が大切なんじゃないの?」と由里ちゃんが焼き鳥の串を村野さんの方に振りながら、からかうような笑顔で言う。

「御尤もでございます!失礼致しました!」と村野さんがテーブルに手を突いて、申し訳なさそうに自分の言葉を撤回する。何かMっぽい人だな。

「いやあ、でも、近代文学を全く無視する事は出来ませんよ。長い歴史からしたら、遂此間の事じゃないですか。新しい時代の文学へと正確に移り変わったと言える分岐点のような作品が果たして現代文学にありましたか?」

「それはもうダブル・ムラカミに続く時代の顔が次々と文壇に登場しています」と村野さんが言う。「現代文学は近代文学と比較しても全く引けを取りません」

「ううむ。そうかな。本当にそうかな」

「いやあ、私が変な物の言い方をしたので、この場に大きな混乱を齎してしまったんです!」と村野さんが慌てるように言う。「今の若い人達は近代文学なんかに中途半端に立ち返って文学を議論するような事はしませんよ。実際、現代文学には漱石や芥川の文学にはない面白さがあるでしょう?」

「ええ。でも、文学を漫画と同じように面白い面白くないで判断する文学論なんて馴染みがありませんよ」

「文学も結局、詰まらなければ読まれなくなります」と村野さんが言う。

「ああ、なるほど。面白いって、本来、肯定的な価値を表わす言葉なんですね」

「そうですよ!」と村野さんが向かいの席から俺の額を人差し指で指し示して言う。

「村野さん、責任重大よ」と由里ちゃんが笑顔で言う。

 村野さんが背筋を正し、講釈師のように箸でテーブルを叩く。

「はいはい、判ってますよ。要はですね、漫画文化が発生する時点より現在まで一度も文学と同次元で漫画を語る場が現われなかった訳ですよ。赤塚不二夫の漫画を文学的な次元で解釈するような事が難しかった訳です」と村野さんが真剣な眼差しで言う。「あだち充の漫画や高橋留美子の漫画ですら文学の世界では語られなかった」

「俺は『北斗の拳』が衝撃的だったな」

「『北斗の拳』は赤塚不二夫の漫画の全盛期より更に新しい時代です」と村野さんが言う。「村上龍は小説は漫画のようであるべきだと言ったんです」

「何でかなあ」

「単純に面白いからですよ」と村野さんが言う。

「でも、村上龍は絵心がありながらも文学を選んだ訳でしょう?」

「彼は文学の他に映画にも関心がありました」と村野さんが村上龍の事を思い入れたっぷりと語る。

「ああ、僕も本当は漫画より映画をやりたかったんです」

「文学で表現したか、漫画で表現したか、映画で表現したか、音楽で表現したかと区別する事には大した意味はありません。何でも出来るような人材が豊富にいる時代でもあります。そういう状況下で黙々と音楽制作をしたり、文学表現を繰り返す事も間違ってはいません。しかし、受け手はあらゆる表現媒体に深く接するべきです。ダブル・ムラカミ以外にも面白い小説を書く作家は沢山います。私が言いたいのは村上龍の本は何故売れるのかと言う事です。面白いから売れるんだと言う事を先ず掴んで欲しいんです」と村野さんが言う。「評論家や受け手には新しい文学は生み出せません。受け手は作り手より遥かに時代遅れであるのが普通です。表現方法さえ判り易ければ、新しい物は常に求められています」

「ああ、でも、俺の文学コンプレックスを引き起こしたのは文芸評論家の漫画批判でした」

「ああ、今時、漫画批判する評論家はダメです」と村野さんが苦しげに言う。

 村野さんは搔き込むようにビビンバを食べる。ここに本当は真希ちゃんがいる筈だった。別に俺は真希ちゃんとの恋で今生の恋が全て終わったのだとは思っていない。至る場面に真希ちゃんの存在を透かし見ている。由里ちゃんが俺を心配そうに見ている。俺は咄嗟に由里ちゃんから視線を逸らす。

「氏川さん、大丈夫?」と由里ちゃんが心配そうに訊く。

 俺は俯く。俺は黙々と焼肉を焼いて食べる。由里ちゃんの鬱病は大分回復に向かっている。誰にでも心の恋人のような人がいる。由里ちゃんや布居さんは俺にとっての心の恋人のような存在である。

「ああ、食った!食った!」村野さんが腹を叩きながら言う。

「じゃあ、家で二次会やろう!」三木谷さんが真っ赤な顔をして号令をかける。 

 焼肉屋での昼食会が終わり、三木谷さんの家での二次会に行く。

 右から村野さん、俺、三木谷さんが並んで歩き、その後ろから布居さんを左に由里ちゃんが着いてくる。

「村野さんは初めから小説家志望ですか?漫画家になりたいと思った事はないんですか?」と三木谷さんが村野さんに訊く。

「ううん。漫画家になりたいとは思った事はないな。漫画家は絵を描くのが得意な人が目指す職業だと思うんです」

「漫画原作者になりたいと思った事はありますか?」と三木谷さんが更に村野さんに訊く。

「ないですね。漫画原作者って言うのは俺が一番考えない文筆業です」

「嫌ですか?」

「自分の小説のコミカライズなら良いんです」

「同じ事でしょう?」と三木谷さんが村野さんの盲点を突くように言う。

「あたしは小学校の時に漫画を描いてました!」と後ろから由里ちゃんが三木谷さんに言う。三木谷さんは後ろを振り返り、「へええ、それは意外だな」と笑顔で言う。

「でも、あたしも漫画原作者になる事は望みませんね」と由里ちゃんが本当に嫌そうに言う。

「漫画原作者って、作画家より主役なんだけどね」と三木谷さんが由里ちゃんに言う。

「どっちも主役なんでしょうけど、作品の評価が作画家と半分ずつになるじゃないですか?」と由里ちゃんが漫画原作者に対する不満を言う。

「ああ、なるほど。確かに半分ずつの評価ですね」と三木谷さんが腕を組んで首を右に傾げながら頷いて言う。

 三木谷さんのアパートメントの近くのコンヴィニエンス・ストアでビールやジュースや食べ物を買い、全員揃って三木谷さんのアパートメントに入っていく。

「俺、餃子、焼いて温めよっかね」と三木谷さんが言う。

 由里ちゃんが立ち上がり、「ああ、それ、あたしがやります」と三木谷さんから餃子のパックを奪って言う。

「ああ、じゃあ、由里ちゃんに任せるよ。サラダ油とフライパンとフライパン返しを出しとくね」 

「その辺は大体判るのでお皿出してといてください」と由里ちゃんがテキパキと場を仕切る。

「ああ、はい」と三木谷さんが了解する。

 由里ちゃんが本当に元気になった。

「あたしに何か手伝える事ある?」と長身の布居さんがのそのそと部屋から台所に歩いてきて訊く。

「じゃあ、布居さんは三木谷さんのグラスやお皿出す用意を手伝ってあげて!」と由里ちゃんが手際良く指示を出す。

「布居さんって、御自宅何処ですか?」と三木谷さんが布居さんに訊く。

「あたし、大森ですよ」

「ああ、じゃあ、氏川さんと同じですね」と三木谷さんが言い、「由里ちゃんの御自宅は何処ですか?」と由里ちゃんに訊く。

「あたしは蒲田」と由里ちゃんが出来合いの餃子をフライパンで焼きながら答える。

 俺と村野さんは部屋の畳の上に胡坐を搔き、皆が来るのを待っている。この四人は二つのカップルになるかもしれない。漫画家と小説家志望のカップルになるのか、漫画家志望は漫画家志望同士で、小説家志望は小説家志望同士が結ばれるのか。布居さんがビールとジュース用のグラスとお菓子を入れる皿を部屋に運んでくる。

「氏川さん達は通院の度にここで二次会やってたんですか?」と布居さんが畳に腰を下ろして訊く。

「まっ、大体飯食ってここに来る感じでした」

「はあい!餃子ねえ!」と由里ちゃんが明るくはしゃいだような声で言って、三木谷さんと一緒に部屋に入ってくる。

「三木谷さんの落選作観せてよ」と布居さんが三木谷さんに言う。

「ああ、俺も観た事ないな」

「落選作は所詮落選作だよ。俺は自信作を観てもらいたいね」と三木谷さんが言う。

「それじゃあ、デビューするまでどんな作品描く人か判らないよ」

「言っとくけど、絶対自信作ではないよ?」と三木谷さんが酔っ払っておどけたように言う。

「うん」

「そこ判ってないといけないよ?」と三木谷さんがおどけて念を押す。

「うん」

「じゃ、一寸原稿出してくるね」と三木谷さんが調子よく言う。

「うん」

 三木谷さんが押入れの中から大きな封筒の束を出し、「これが俺の落選作の全て」と俺と布居さんの前の畳の上に置く。「一番上から順々に一作目二作目ってなってる」

「はい。それでは拝見させて戴きます」と布居さんが真剣な顔つきで袖を捲くり、第一作目から目を通す。俺は布居さんが読んだ原稿を一枚一枚受け取って読む。

「メカ上手過ぎだよね」と布居さんに言う。「三木谷さんはメカを描く上で何か現実的な機械の仕組みにも詳しいんですか?」

「いやあ、ほとんど想像だよ」と三木谷さんが腕を組んで俺達の様子を見ながら答える。

「俺が人体の筋肉をリアルに描くみたいにメカに力入れるんだろうね」

「ああ、それは当たってると思うな」と三木谷さんが楽しそうに答える。「俺の場合、メカを描くためのストーリーだからね」

「何でそんなにメカが好きなんだろう・・・・」と布居さんが呟く。

「一種のフェティシズムでしょ」と村野さんが言う。村野さんは俺の次に原稿を読んでいる。その後に由里ちゃんが物珍しそうに読んでいる。

「あたしも原稿持ってくれば良かった」と布居さんが三木谷さんの漫画を読みながら言う。

「後であたしと村野さんにも氏川さんの漫画読ませて」と由里ちゃんが俺に言う。

「ああ、良いですよ」と俺は答え、「ここに置いておきます」と言って、自分の漫画を由里ちゃんの近くに置く。

「三木谷さんって、もう七回落選してるのか」と布居さんが三木谷さんの原稿の入った封筒の数を数えて言う。

「学生の頃の落選作が一作あるんです」

「あたしはまだ二作目なんです」と布居さんが言う。「氏川さんには学生の時の落選作があるのか」

「俺は学生ん時の作品が一作で、社会人になってからの作品が三作あるんです」

「高校の時の作品があるの!」と三木谷さんが驚いたように言う。「俺は中学高校時代は模写かイラストでしたよ」

「俺は模写とイラストは中学の頃までです」

「由里ちゃんの小説作品は何作あるの?」と布居さんが由里ちゃんに訊く。

「落選作は長編が二作で、短編が四作」と由里ちゃんが答える。

「村野さんの小説作品は何作?」と由里ちゃんが村野さんに訊く。

「俺は落選作が二作で、ずっと描き続けてる未完の長編が四作ある。とりあえず短編の形にしたのは六作ある」と村野さんが答える。

「流石に年上だけの事はありますね」と布居さんがからかうように言う。

「三木谷さんは美大出ただけあって、画力は高いですね。最初はストーリーの役割りがロボットのバトルに入るためなんですね」

「ずっとそれは変わらないよ」と三木谷さんが答える。

「ええ!七作この調子のストーリーなんですか!」

「基本は変わらないんですよ。少しずつ漫画らしくなるだけです」と三木谷さんが答える。

「七作ロボットもの読む程メカに興味ないな」と村野さんがうんざりして言い、俺の漫画を読み始める。「ガンダムみたいなアニメを漫画で描きたいんですか?」

「はい。それはそのものズバリです」

「あたしもこのロボットものばっかの漫画はダメ!」と布居さんが三木谷さんの漫画を二作目の途中で読むのを止める。確かに女性の好みの漫画とは思えない。

「俺もこれ程ロボットものの漫画読むタイプではない」と村野さんが言って、二作目で三木谷さんの漫画を読むのを止めて、俺の漫画を読み始める。

「あたし、結構ロボットものの漫画も行けると思ったんだけど、ストーリーに工夫がないわよね」と由里ちゃんが言い、二作目で三木谷さんの漫画を読むのを止める。「読んだ原稿、あたしに渡してください」と由里ちゃんが俺の漫画を読む村野さんに言う。

 結局、三木谷さんの漫画を読破しようとしているのは俺だけになる。俺は三木谷さんの漫画は嫌いではない。買ってまで読むかどうかは微妙なところだ。

「氏川さんって、元々ホラー漫画描いてたんですか!」と村野さんが言う。「結構、個性的な絵ですよね。俺、暗い漫画は好きなんです」

「何か女性読者全く意識してない男の人の漫画って感じよね。ああ、でも、あたしも小説書く時に男性読者って意識してないかな」と由里ちゃんが言う。

「女性って、一寸とした事でも怖がるから、女性読者を怖がらせるように描くホラー漫画って、あんまり怖くならないじゃないですか」

「ええ!そんな事ありませんよ!由里ちゃんみたいなタイプの女性読者意識して描いたら、確かに煮詰め方甘いけど、あたしタイプの女性読者はトラウマ級のホラーで漸く怖がります」と布居さんが飾らない口調で言う。

「ああ、確かに布居さん虐待するような気持ちでホラー漫画描いたら楽しそうですね」

「ええ!酷い!それって、あたしの師匠である事忘れてませんか?あたしにはちゃんと愛で意見してくれないと!」と布居さんがすっかり自分のキャラを固定して言う。

 俺は妙にウケて笑う。布居さんに関しては元々太ってた女性と言うイメージがあって、なかなか美人女性とは見做せない。

「布居さん、病棟で描いた漫画はどんな漫画になったんですか?」

「統合失調症女性の心理漫画です。幻聴とかを工夫して表現しました」と布居さんが答える。

「ああ、俺も統合失調症モノの漫画は描きたいな」

「ホラー・テイストで描くんですか?」と布居さんが探る目で訊く。

「ここんところ俺、人間ドラマを漫画に描くようになったんで、統合失調症漫画はリアルでシリアスに描きたいですね」

「統合失調症の漫画となると、やっぱり苦しみばかり表現しがちですよね」と布居さんが顔を顰めて言う。

「うん。病気に対する思い入れもあるし、ふざけた作品にはしたくない」

「あたしは小説で鬱病の事書くなら、コミカルで自嘲的な作品にしたいわ」と由里ちゃんが明るい口調で言う。「苦しみに共感される事を求めるより、憂さ晴らしを目的に書きたい」

「俺は統合失調症の事なんて描きたくもないよ」と三木谷さんが嫌気が差したように言う。「統合失調症の事なんか現実の苦しみだけでうんざりだよ」

「ああ、俺もそうだな」と村野さんが三木谷さんの意見に共感する。

 布居さんとは相性が良い。神様が真希ちゃんの後釜として布居さんと引き合わせたのなら、布居さんとも付き合ってみたい。それに対する神様の答えは得られない。布居さんは整った顔ながら、正直なところ、余り好みではない。こう言う押しの強い女性は学生の頃には何人も近くにいた。俺もそれなりに彼女らに親しんだ。それがどう言う訳か告白するまでには恋心が募らなかった。セックスをしたいだけで、中身に興味がないのだ。布居さんはその点少し良い線を行っている。漫画家志望同士で、自分を師匠として尊敬してくれる。何より胸が大きいのが良い。その上、ユーモアのセンスもあるし、男性的でさっぱりとした性格をしている。どうやら布居さんは三木谷さんとは結ばれないように思う。俺は自分の恋人として丁度良く釣合うような女性より、少しときめきを感じるような女性に恋をする。布居さんを女友達としてキープ出来るなら、結構贅沢な女性関係が築ける。由里ちゃんも女友達で良い。女にモテるからと、全部とヤッちゃいけない。そこに自分の品性が表われる。

「ああ、三作目辺りからホラーを離れて人間ドラマになってくるんですね」と由里ちゃんが言う。

「ホラーも好きなんですけど、ホラーだけでは満足しないんです」

「四作目はアート・コミック的になりますよ」と村野さんが由里ちゃんに言う。

「へええ、楽しみ!」と由里ちゃんが村野さんの読む漫画を覗き見て言う。

「餃子、冷めるよ!」と三木谷さんが皆に言う。

「ああ、食べよう!食べよう!」と村野さんが割り箸を掴み、俺の漫画を脇に置いて言う。由里ちゃんは三作目の俺の漫画を読み終え、「あたしも餃子食べよ」と言って、割り箸を手に取る。「五作目辺りから詩的な人間ドラマみたいな感じになってくるのよ」と布居さんが由里ちゃんに言う。「あたしなんかからしたら、正に師匠の貫禄よ」

 由里ちゃんは返事もせずに餃子を食べる。女の子らしい微妙なジェラシーが見て取れる。由里ちゃんと布居さんのどちらが好みかと言えば、由里ちゃんの方が好みだ。そこに真希ちゃんを比較対象に入れると、二人との魅力の差はぐんと引き離される。俺だって女なら誰でも良い訳ではない。由里ちゃんは文学の人だから、小説家に職業的な劣等感を抱く漫画家志望としては尊敬の念もある。

「この餃子、皮が厚いね」

「歯応えがあって良いわよ」と布居さんが言う。

「いやあ、俺には微妙に不味い」

「ええ、そうなんだ」と布居さんが餃子を食べながら言う。

 

 アパートメントに帰り、全裸で幻聴を心に受け止める事への不安を感じながら、何とか風呂に入り、体を清潔に洗う。

 消灯後、ベッドに横たわる。豆電球だけの赤茶けた薄明かりの中で天井を見つめる。これからは幻聴が騒いでも、日中にベッドに寝込むような精神状態の整え方事は止めた方が良い。常に椅子に座って仮眠を取るように体調を整えた方が良い。創作に専念出来るような深い集中力も身に付けねばならない。漫画も心の安全圏内ばかりで創作していてはいけない。自分の人生経験や一つの主義に縛られるような創作も詰まらない。作品宇宙の完成を目指して様々な作品を描きたい。

 寝る前に考え事をすると寝そびれる。仕方なく煙草を吸いに玄関の外に出る。三日月が夜空に光り輝いている。最近、キャスターからセヴン・スターズに煙草の銘柄を変えた。軽いけれど、キャスターが一番好きなようだ。周囲に漂うヴァニラ・フレイヴァーの香りの評判も良い。このアパートメントの玄関先にしゃがみ込んで煙草を吸う事に幸せを感じる。煙草は真希ちゃんが勧めて吸い始めたものだ。早く新しい恋人を探さないといけない。自殺をすると地獄に落ち、生まれ変わるともっと酷い人生を経験するらしい。真希ちゃんはそう言う事は知らなかった。俺も本で知る以前は知らなかった。俺は絶対に自殺はしない。どんなに統合失調症の諸症状が辛くとも決して自殺はしない。

 再び消灯してベッドに横たわる。


『アルマゲドン』

 明日は通院日である。芸術家集団五人組は毎回通院日に顔を合わせる。普段は編集の人としか話さない俺は通院日を非常に楽しみにしている。

 翌朝、朝食は生卵かけ御飯と若布と豆腐の味噌汁で済ませ、JR大森駅に向かう。普段、心の中の言葉を人に聴かれる事に心を硬直させているのに、次々と五人組との想像上の会話に言葉が溢れてくる。プラットフォームでも電車の中でも五人組に対する想像の会話が止まらない。周囲の誰もがこの事に気づかない。心の中の言葉なんて普通人には聞こえない事がよく判る。

 外来に着くと、三木谷さんと村野さんと由里ちゃんと布居さんの五人組がいる。

「何てったって、氏川さんは私の漫画の師匠ですからね」と布居さんが言う。

「いやいや、師匠だなんて、漫画を描く基礎的な手引きをしただけですよ」

 診察の順番が来て、診察室に入る。俺が主治医の石橋先生の向かいの席に腰を下ろすと、「どうですか?」と石橋先生が様子を窺う。

「幻聴の嵐が起きて、精神錯乱した時に、必ずベッドに横になって、仮眠を取って乗り越えていたんです。ベッドに横になって、仮眠を取ると、目覚めた時に幻聴の様子が穏やかになるんです。それに味を占めて、一日に何度も仮眠を取っていたんですけど、病人臭さから脱するために、椅子に座ってやり過ごすようにしました」

「ああ、生活の改善ですね。氏川さんは自己改善が出来るんですね。でも、幻聴で気持ちが動揺して、少し横になるぐらいの仮眠は良いんですけどね。そのためによく眠れる薬を処方しているんです。睡眠は頭や心の整理に役立つんです。寝る前にもそう言う気持ちで眠られると良い睡眠効果が表われます」と石橋先生が俺の眼を見て言う。

「そうなんですか。毎日、漫画家を目指して、働く事なく漫画を描いています。全ては障害年金のお蔭です。通勤の憂鬱とか、普通の人が経験する苦しみを経験せず、好きな漫画を描きたいように描けるのは幸せな事です」

「決して贅沢な十分な額はもらえていないでしょうけど、国に感謝しないといけませんね」と石橋先生が俺に感謝の心を教える。

「ええ。そう思います。本当に有り難いです」

「病気が良くなると働き始める患者さんもいますがね、あんまり頑張り過ぎない事です。漫画を描くのも余り頑張り過ぎると病気が悪化して、辛い思いをするのはあなたです。くれぐれも頑張り過ぎないように気を付けてくださいね」と先生が俺に注意する。

「はい」

「はい。それじゃあ、もう良いですよ」と石橋先生が前傾姿勢から椅子の背に凭れて言う。

「ありがとうございました」


 幸せな未来の理想世界を前にハルマゲドンが立ち塞がっている。我々には輝かしい幸せな未来などないのか。本当に世界は終わってしまうのか。本当に人類は滅びてしまうのか。世界の終わりを前にして幸せな未来を考える事は無駄なのか。世界が終わる時は全てが終わるのだ。幻聴により絶え間ない不安と恐怖で体の芯がいつもひんやりと冷たく、真夏でも恐怖で冷汗が出て、睾丸がいつも凍えたように冷えている。

 一九九八年、映画『アルマゲドン』を映画舘に観に行った。どんな映画かと過剰な期待を以て観た。結果、単なるフィクションの娯楽映画で、何のメッセージもなかった。この映画によりハルマゲドンを思い詰めるような不安が立ち消えたように思う。映画『アルマゲドン』が上映されるまでは、日本ではアルマゲドンをハルマゲドンと称していた。

 翌年、一九九九年七月を迎えると、世界は映画『マッド・マックス』や劇画『北斗の拳』のような核戦争は起きなかった。一九九九年七月を迎えるまで、我々は明るい未来を自由に思い描く事すら出来なかった。我々はアルマゲドンを前にして思考停止状態で生きてきた面が突如として解放された。


 障害年金で生活している事が自分を精神障害者だと物語っている。精神科の外来に通院し、向精神薬を飲むのも精神障害者を意味し、精神分裂病の身の上を証明している。俺も何時かは健常者の世界に帰るのだろうと信じている。芸術家集団五人組は精神障害者の仲間でもある。普通の仲間ではない。漱石や芥川や太宰は精神障害者の作家だった。彼らを小説家と解さず、単なる精神分裂病者と解する者はいない。俺も漫画家になれたら、単なる精神分裂病者ではなくなる。精神分裂病の完治は寛解と言って、薬を飲み続ける事を条件にした完治である。俺が一番描きたい漫画は精神分裂病の主人公の物語である。

 漫画を描いて、休憩していると、ふとした時に幻聴が聴こえ始める。漫画を描く事に集中していても、余り無理をすると幻聴が騒ぎ始める。漫画を描く事に集中していると幻聴が聴こえないと言う事は、幻聴も俺の漫画が好きなのだろう。好きな事ばかりしていれば、ずっと幻聴の様子は穏やかなのか。幻聴がそのような簡単な関係性にあるならば良い。幻聴は人間と話したいようで、騒ぎ始めると思考の主体であろうとし、人間の意識を追い詰めては自分で結論する事を繰り返す。今ではユング心理学に倣い、幻聴を元型と解している。俺のシャドーやトリック・スターの性格は非常に明るい。俺のシャドーやトリック・スターは俺の漫画を読む。シャドーは無意識の人だとか心の影だとか悪魔と解され、トリック・スターはやんちゃ坊主と解される。幻聴は毎日一回は騒ぎ、俺を苦しめる時間がある。何とかして幻聴と仲良くしたい。それが出来たなら、今度は幻聴のない静けさや安らぎを味わいたい。幻聴のある生活は苦しいと解し易い。厳密には精神錯乱を起こさせるような、忙しない口調で意識を追い詰める幻聴が辛いのだ。元型の思いを汲み取ると、元型は全部自分で自分達の事を考えたいのだと思う。元型は元型同士話す事を幻聴を通じて行う事がある。元型同士が幻聴なしに話す事があるのかどうかは判らない。幻聴の波動は不安を引き起こし、幻聴の畳みかけるような話し方は人間の心に恐怖を募らせ、精神錯乱を引き起こす。

 精神分裂病の発病以来、幻聴による苦しい日々が続いている。心霊番組で知った守護霊と言う救いの存在を想い、『守護霊様、どうか私の幻聴を消してください』と祈ると、守護霊様が後頭部の辺りから、『やっと祈ったな』と言う。俺は心の中で、幻聴を消して欲しいんですとお願いする。

『その者らは霊じゃないんだ』

 はい。ユングは元型と称しています。

『お前達は個人的無意識の者だな?』

『はい』と男の子の元型が返事をする。

 幻聴を消すスウィッチのようなものはないんですかと俺が訊くと、『私もそれを探しているところなんだ。幻聴を消すのは難しいんだ。あなたが元型を思うと幻聴があなたに話しかけるな?』と守護霊様が言う。

 はい。

『精神科医が幻聴を気にしないで生活出来れば良いですねと言わなかったか?』

 はい。言いました。

『そう言う注意の背後にある意思を読むと、気にしないでいる努力が必要なんだ。私もこの手の病人の守護は初めてなんだ』

 生まれ変わる度に守護してくださっているんですかと守護霊様に訊くと、『私は氏川家の遠い先祖だ』とTVで聴いた通りの事を言う。『私はあなたの知らない言葉や知識は伝えられないんだ。あなたに未知の言葉や知識を受け取る力がないからだ』

 そうなんですか。

『精神科に通院したり、向精神薬を服薬する一定期間は患者の守護霊が医師の守護霊と話し合って決めるんだ』 

 そうなんですか。

『守護霊が表われたら、もう通院も服薬もいらないと石橋先生が言っている』と守護霊は言って、暫く沈黙すると、『石橋先生が薬を家の外に捨てるようにと言っているな』と言う。『良いか、薬を公園のゴミ箱に捨てに行くんだ』

 判りましたと俺は心の中で言って、早速、精神科の薬をスーパー・マーケットのビニール袋に入れる。

 障害年金はどうするんですか?

『働いて自分で生活費を稼げるようになるまでは貰っていても良いらしい』

 玄関を出ると、秋の冷たい風を顔に受ける。俺はアパートメントの階段を下りながら、それは良かったと心の中で守護霊様に言う。そこのマンションの中庭の公園ですね?

『そうだ』

 俺はマンションの中庭に入り、ゴミ箱に向精神薬や睡眠薬の入ったビニール袋を捨てる。

『良し。家に戻るぞ』

 はい。

 何とも嬉しい。守護霊様がこの世界に働きかけて、世界が動いているのか。やっぱり、幻聴は霊ではないのか。ずっと半信半疑でユング心理学を勉強していた。本当の悪霊の事は知らないけれど、守護霊様に幻聴は霊ではないと言われても、まだ霊のような気がしている。

 清々しました。必ず健常者の世界に帰るんだろうと思っていました。

『そうか』

 しかし、長かった。

『長かった』と男の子の元型が楽しげに言う。

『守護霊様か』とトリック・スターの少年が残念そうに言う。

 守護霊様は私の前世が判りますか?

『あなたの前世・・・・』と守護霊様が考えている。『小説家だよ』

 私は思わず本棚に目を向ける。

 有名な小説家ですかと小説や詩集の文庫本を眺めながら聴くと、芥川龍之介に視線が止まり、『その男だ』と守護霊様が言う。

 やっぱり自殺者だったか。幻聴が他の人に比べて随分と辛いなと思っていたんです。自殺をすると、来世はもっと辛い人生になると或霊能者が言ってました。

『そうなんだな。まあ、過ぎた事を悔やんでも仕方ない』と守護霊様が明るい声で言う。

 はい。私はてっきり漱石の生まれ変わりだと思っていました。

『そうか。漱石と芥川とどちらが自分の才能に近い?』と守護霊様が姿も見せずに訊く。

 ううむ。どっちかと言うと、短い小説しか書けない芥川の方かな。

『そうだろう。あなたの前世は芥川なんだ』と守護霊様が嬉しそうに言う。

 文学や芸術で歴史に名を残したような前世には魅力があります。

『そうだろう。昔は学者や画家だったんだ』と守護霊様が誇らしげに言う。

 誰だったんですか?

『あなたはずっとヨーロッパに生まれていたんだ。私はあなたの前世の学者や画家の名前を既に言ったんだが、キャッチ出来ないだろ?』と守護霊様が感情の起伏の少ない口調で言う。

 はい。

『あなたの知らない学者や画家だ』と守護霊様が俺の反応を気遣うように言う。

 ああ、なるほど。それは残念だ。

『世界的に名の知れた学者や画家ばかりが歴史上人物ではないからな』と守護霊様が俺の発想を正す。

 はい。そうですね。私はずっと歴史上人物なんですか?

『いやあ、そんな事はない。農夫や職人や商人だった事もある』と守護霊様が職業差別など微塵もないような公平な態度で言う。

 王族に生まれた事はありますか?

『フランスの王だった事が一度ある』と守護霊様が明るい口調で言う。

 そうですか。名前は何と?

『今、言ったんだ。あなたの知らない王なんだ』と守護霊様が冷静な口調で言う。

 ああ、なるほど。

 漫画を描くために机の前の座蒲団に腰を下ろすと、『その作品は入選する』と守護霊様が言う。酔っ払いの幻覚世界を描いた話の十一作目の短編漫画である。

 そうですか!大賞ですか?

『佳作だ。編集者の言う通りに改善すると良い』と守護霊様が助言する。

 ああ、はい。描き直すのか。

『プロでも描き直すんだ。漫画や小説は編集者と作るものでもあるからな』と守護霊様が私に言い聞かせるように言う。

 はい。そうですね。

 やっと漫画家デビューか。この夢は叶うと、ずっと信じてきた。

 何だか頭が疲れてきて、ベッドに横たわり、仮眠を取ろうとしたら、なかなか寝入らない。何が何でも寝ようと粘る。瞼を閉じた闇をずっと見続け、なかなか眠りに落ちない。意地でも寝てやると思って、永遠と目を閉じ、頭をぼやかしている。幻聴が喋り続ける中、妙な幻覚がちらちらと見えてくる。夢ではない。目を開ければ、直ぐに目覚めるような、眠りとは言えない休息だ。

 粘っても粘っても眠れず、段々と苛立ってくる。仕方なく目を開けると、時計はもう夕方の六時で、辺りは薄暗い。眠気はもうない。粘って粘って、結局、眠りには落ちなかった。その不満のせいで、物凄く不快だ。

 眠れませんでしたと守護霊様に言うと、『浅いが寝てはいるんだ』と守護霊様が言う。

 夕食に丼の御飯に納豆を二箱分かけ、刻んだ長葱と七味唐辛子をかけた納豆丼を夕食にする。朝作った豆腐と若布の味噌汁も食べる。

 守護霊様が元型の幻聴に何やら話しかけて、元型の心を整理している。俺は漫画の最後の二ページのペン入れをし、完成させる。電話で明日の持ち込みの予約を取る。

 夜になり、愈々眠れると思って、蒲団に入ると、瞼を閉じた闇の中を見つめながら、なかなか眠りに落ちない。粘りに粘っていると用足しを思い付き、起き上がってトイレに行き、玄関の外で煙草を吸う。

『日中長く寝たから、今夜はもう寝れないぞ』と守護霊様が言う。『これからは睡眠薬がないから、日中に仮眠を取るなら、一時間ぐらいにしなさい』

 ああ、はい。俺、漫画の書き出しをノートに書き溜めてるんです。

『うん。知ってる』と守護霊様が当然のように言う。

 時間があると、漫画の書き出しやあらすじを書き止めるんです。

『うん』と守護霊様が俺の事なら何でも普通に知っている事を示す。

 何か冬なのに暑いな!アイス・クリームでも食べましょうか。

『うん』と守護霊様が楽しげに言う。

 予定では次の通院日が三日後の水曜日だ。もう通院をしなくて良いのか。

 病気が治った記念に明日は何か美味しい物を食べましょうかね。

『うん。良いな』と守護霊様が晴れ晴れとしたような声で言う。

 明日の夜は焼肉にします。

『うん』と守護霊様が楽しそうに言う。

 朝方まで漫画の書き出しのネームを描き、漸く眠くなると、ベットに横になる。目を閉じると、巨大な刃物を勢いよく振り下ろすような恐ろしい風の音が顔の上に降りかかり、はっとして目を開ける。何もいない。

『霊だ。私が追い払った』と守護霊様が緊張感のある声で言う。

 心臓の鼓動が乱れている。気持ちを落ち着けようと、ベッドから出て、煙草を吸いに玄関の外に出る。ああ言うのは悪霊だな。元型達じゃない。

 煙草を吸い終え、再びベッドに横たわり、目を瞑る。


 祖母の住む島原半島の田舎道をTシャツと海水パンツとゴム草履で歩き、近くの長浜海水浴場に行く。自転車に乗った女子高生が俺を追い越すと、女子高生のスカートが風に吹かれて黄色いパンティーが丸見えになる。俺は路上の隅に横たわり、誰もいない事を確認して、モノを扱く。なかなか勃起しない。短くて柔らかいペニスの亀頭を局部的に扱く。

「こんなところでそんな事してちゃダメよ」と老婆が通りかかって注意する。老婆は立ち去らずに俺のモノを眺めている。恥ずかしいから早くイキたいのに、モノがなかなか硬くならない。

 俺は漸くベッドの上で目覚める。俺はそのままオナニーをして、ティッシュ・ペイパーに射精する。やっとイッた!俺は守護霊様の事を思い出す。いるのかいないのか耳を澄ます。

 守護霊様!と心の中で呼びかけると、『おお、起きたか』と漸く守護霊様が表われる。時計を見ると昼の二時になっている。俺は洗面と歯磨きと髭剃りを済ませ、『カップ・ヌードルの醤油ラーメン』にお湯を入れ、少し早めに仕上げて、腰のあるラーメンを食べる。

 朝食を済ますと、自転車で夕食の焼肉の肉を買いに行く。守護霊様と話しながら、カレーのらっきょうや福神漬けや納豆や牛乳を買い、アパートメントに帰宅する。

 シド・バレットの『帽子が笑う・・・不気味に』を流しながら、何か用があった事を思い出そうとする。俺は漫画の原稿を持ち込みする予定がある事をはっと思い出し、急いで電車でK社に向かう。俺は担当さんと話す事を考える。

『担当の言う事は作品を売るためのアイデアだったり、作品を入選させるための手引きなんだ』と守護霊様が言う。

 はい。

『自分の作品の何処が売りなのかを言えば良いんだ。それで向こうがどう意見を返してくるかをしっかりと聴くんだ』と守護霊様がアドヴァイスをする。

 はい。

 K社に着き、入口で煙草を吸ってから編集部に向かう。

「持ち込みの予約を取っていた氏川と申しますが、担当の片桐さんはいらっしゃいますか?」と事務員に訊く。

「一寸お待ちください」と事務員は言って、編集部のデスクの方に入っていく。

「ああ、氏川さん、こんにちは」と片桐さんが編集部から応接間に出てきて挨拶をする。

「こんにちは。やっと描き上がりました」

「うん。じゃ、早速拝見」と担当の片桐さんがソファーに腰かけ、「どうぞ、腰かけてお待ちください」と言う。俺は片桐さんの向かいのソファーに腰かけ、原稿の入った封筒から原稿を取り出し、片桐さんに手渡す。俺は片桐さんに漫画を読んでもらい、感想を待つ。片桐さんは眼を輝かせて原稿を読む。やっぱり今回のは面白いんだな。

 片桐さんが原稿を読み終え、「まあ、これで新人賞に出しておくけど、何とか入選すれば良いね。狙いは良いと思うし、回を重ねる度に確実に良くなってます」と言い、暫く無言で原稿を見つめる。

「面白いんですか、面白くないんですか?」

「面白くなってきてはいるんです。ただ漫画的じゃないんだな。私は氏川さんの個性を潰さないように注意しながら、アドヴァイスしてるんです。視点とかストーリーとか、そう言った点は毎回良いんです。人物の表情も微妙な描き分けが出来てます。ただ漫画的って言うよりは、映画的、かな」と片桐さんが言い辛そうに言う。

「ああ、なるほど。確かに映画的な表現は狙いとしてあります」

「うん。そうだよね。でもね、映画的って漫画は手塚先生の初期作の頃から試みられていて、或意味、漫画の発想や着眼点としては古い時代の視点でもあるんです。今の時代、漫画的な新しさは漫画らしい新しさなんです。いやあ、氏川さんとは映画の趣味とかも物凄く合うから、僕としては面白い漫画を描く人だなとは思ってるんです」と片桐さんが笑顔で言う。

「ああ、なるほど。映画的な漫画って、古いんですか」

「それじゃあ、結果を待って、何だったら、結果が出る前に、また次のネームを持ってきてください」と片桐さんが次回作を催促する。

「ああ、はい」

 俺は電車に乗り、担当が俺の漫画を漫画的じゃなく、映画的だと言った事について考える。漫画を描く上で漫画的って言うのは普通の漫画じゃないですか?漫画の可能性を追究するって言うのは僕も物凄く重要な事だと思うんです。でも、既製の漫画を真似る時代性って、今限りの評価しかなされないと思うんですよね。

 電車に乗りながら、心の中でこんなに喋り捲るのは珍しい。俺は不意に自分の心の中の言葉が周囲の人に聴こえたのではないかと思考伝播が気になり、周囲を見回す。誰も俺を見ていない。

『良かったんじゃないか』と守護霊様が言う。

 ああ、守護霊様とも話しながら、電車に乗っていたんだな。

 今日の担当さんの反応がですか?

『うん。何も悪くは言ってないよ。絶対に入るって断言出来るような原稿でもないみたいだがな』と守護霊様が冷静な判断する。

 ああ、俺の漫画って、そう言う次元なのか。

『大賞を取ったような人の作品を軽く読み流してるな?』と守護霊様が注意する。

 はい。

『毎回、佳作を取るような作品を面白いと思ってるだろ?』と守護霊様が全てを見通して確認する。

 はい。

『それで今回のは佳作入選なんだ』と守護霊様が予言する。

 まあ、佳作ぐらい取れるなら良いんですけど。毎回、何の賞ももらえないんで。

『うん』と守護霊様が俺の心の中の大喜びしたいような気持ちを見通すように言う。


『アリシア』

 深夜、眠れずに起きていると、幻聴が騒ぐ中で、『あなたには生まれ変わる度に必ず出会って、結婚する女性がいる。その女性が今、あなたの中に来ている』守護霊様が言う。

 俺はそう守護霊様が告げた瞬間、直ぐに小野英理子さんの事を想う。

『その人だよ、あなたの運命の女性は』と守護霊様が斜め前の天井の上の方から言う。

 何と俺の勘は的中してしまった!俺は緊張の余り、一言も言葉が出ない。聖なる女性に対して祈るような気持ちで心を澄ませる。その途端、俺はわっと悲しみに襲われる。

『悲しむ必要はない。その人は死んでしまった訳ではない。あの世の実在についてあなたの眼を開かせようとしているのでもない。その人はまだ生きている』と守護霊様が斜め前の天井の上の方から言う。

 生霊?

『うむ。そのようなものだ。違う!あなたのショックを和らげようとか、そういう事ではない。あなたはただ彼女がこの世にある事実をそのまま受け止めるだけで良いんだ』と守護霊様が俺の勘違いを正す。

 何だ!小野さんは死んでないのか。

『安心しなさい』と守護霊様が力の籠もった優しい口調で言う。

 初恋の人。記憶の中で死ぬまで変わらずに輝き続ける穢れなき人。その眩しき姿。あなたが誰と何処で何をし、どれ程私との年月の隔たりがあろうとも、あなたは私の心の中ではあの頃と同じ輝きのままずっと眩しく輝き続けています。小野英理子。私はその輝きに満ちた名に永遠に神の祝福がある事を祈ります。あなたの存在がなければ、私の心はもうとっくの昔に穢れてしまい、女性に対する純粋な想いなど完全に失われていた事でしょう。

 たった一度の恋愛で唯一の恋人と死別して以来、私はほぼ恋愛とは無縁に生きてきました。その年月は少年期の延長のように見るもの聞くものの全てが真新しく、夢中の裡に過ぎていきました。あなたはとっくの昔に結婚され、今では大きなお子さんもいらっしゃると聞きました。今のあなたは雲の上に突き抜ける程美しく成熟している事でしょう。私の心は今も尚子供の頃のままです。気の利いた台詞一つ言えず、世間話一つ満足に出来ません。私の心の中のあなたは小学生の頃のままです。あなたは私のハートの永遠のときめきの中で今でも眩しく輝いています。

『そんな風に思っていてくれたのね』と小野さんの霊が体内から幻聴で話し始める。

 僕はずっとあなたの事が好きで、初めて転校先の小学校のクラスであなたを見て以来、あなたへの恋の虜になってしまいました。僕はあなたと同じ塾の近くの公園で一緒に鬼ごっこをした時に、一度だけあなたに手を引かれ、「一緒に鬼ごっこやろうよ」と話しかけられた事がありました。その時に僕は、「僕は見てるだけで良いよ」と言葉を返しました。その時、あなたに握られた手の感触だけがずっと僕の思い出でした。あなたは僕の初恋の人だったんです。その時の事は憶えていらっしゃいますか?

『そりゃあ、憶えてますよ。私だってあの時の一言しかあなたと話す機会がなかったんですから』と小野さんの霊が言う。

 俺は小野さんとの再会を喜ぶ。俺は思わず涙が出てきて、声を押し殺して泣く。

 小野さんは確かもう結婚されていて、お子さんもいるんですよね?

『離婚しました』と小野さんの霊が明るい声で言う

 そうですか・・・・。

 俺は小野さんが最早処女ではない事をとても悲しく思う。俺は直ぐに真希ちゃんとの事を思い出す。

『女性はね、男性が別の女性とセックスをしても、男性が他の女性を想って自慰行為をしても、運命の男性の性器が必ず自分のところに入ってくるものなんです』と小野さんの霊が不思議な話をする。

 えっ!そうなんですか・・・・。

『他の人とは性的な関係にはなれないものなんです。他の女性とすると、その女性の中心に運命の女性の霊体が入るから、本当は何にも接触がないんです。女性の方もその人の運命の男性の性器だけが感じられるように出来てるんです』と小野さんの霊が神秘的な話をする。

 はああ・・・・。

『要はですね、女の方も物理的な次元では他の男性と肉体関係になる事があっても、実際には運命の男性の霊体が相手の男の人の中心に入って、対の関係にある相手としか接触行為が出来ないようになってるんです。別の男性とのセックスの最中に遠く離れた所にいる運命の男性も知らずと性欲を感じて、何らかの性欲の発散を自慰行為なり、セックスなどでするものなんです』と小野さんの霊が話し続ける。

 へええ・・・・、なるほど。

『判りました?』と小野さんの霊が明るい声で確認する。

 はい。

 小野さんは俺の自動書記で自分の住所と電話番号を書く。俺は早速その電話番号で小野さんに電話をかける。

『この電話番号は現在使われておりません・・・・』

 小野さんは何回か自分の書いた電話番号を訂正し、その度に俺はその電話番号に電話をかける。

『この電話番号は現在使われておりません・・・・』

 翌朝、俺は小野さんの霊に導かれ、小野さんの家を探す。三丁目の白い一軒家だと小野さんが言う。ほとんどの家が白い一軒家なので、カーテンの色を訊くと、青いカーテンだと言う。青いカーテンの窓を見つけては表札を確認する。これも違う。あれも違うと袋小路の奥の家までも調べる。住宅街を突き抜け、大通りに出ると、『ああ、そうだ!此間マンションに引越したんだった!」と小野さんの霊が言うので、建ち並ぶマンションの一軒一軒に入り、ポストの表札を調べる。名前の書いていないポストの多い事多い事!『家、ポストに名前書いてないのよね』と小野さんの霊が言う。『ああ!これがそう!』と小野さんの霊が三階の三号室だと言うので、三階に上がって、呼び鈴を鳴らす。どうやら留守のようだ。小野さんの霊はまだ俺の体内にいる。トイレに行きたくなり、駅ビルのトイレで用足しをして、マンションの部屋の前に戻ると、部屋の中から物音がする。呼び鈴を鳴らすと、見知らぬ主婦が出てくる。

「ここ小野さんのお宅ですか?」と訊くと、「いいえ、家は佐川です」と言う。

 そんなこんなで夜の八時過ぎまで小野さんの家を捜し歩く。生霊には現実の電話番号や住所や所在地は記憶出来ないようだ。

 俺は小野さんの霊を体内に受け入れ、買い物や読書や芸術鑑賞を楽しむ。小野さんの私に対する干渉が段々と病的になり、遂に小野さんと付き合う事を止めたら、今度は別の女性が体内に現われる。何と有名女優の結野久子さんだ。俺は彼女の大ファンなのだ。

 俺、結野さんのファンなんです。

『ずっと応援してくださっているのは守護霊様から聴いていました。あたし、学生時代に『アリシア』って呼ばれてたんです。宜しければ、アリシアって呼んでください』と結野久子が言う。翌朝、ソファーに座ったまま一日中アリシアと過ごし、通院日の事をすっかり忘れて過ごしていると、主治医の石橋先生から電話がかかってくる。

『氏川さん、通院を忘れてませんか?』と石橋先生が訊く。

「ああ、もう精神科に通院するのは止めます。精神科への通院は自分がもういいと思ったら、終わりなんですよね?」

『いやいや、通院はあなたの義務です。家の病院が嫌なら、他の病院に通院する事も出来ます。その場合には私の紹介状が必要になります』と石橋先生が心配そうに話す。

「そうなんですか」

『薬は飲んでますか?』と石橋先生が服薬を確認する。

「ああ、ゴミ箱に捨てました」

『ああ、じゃあ、直ぐに病院に来て戴けますか?』と石橋先生が困ったような声で言う。

「いやあ、精神科はもういいです」

『ああ、では、救急車でそちらに向かいます』と石橋先生は言って、電話を切る。

 俺はソファーに腰かけたまま、ずっとアリシアと話をしている。トイレに行き、洗面所で手を洗っている時にふと鏡を見ると、酷く痩せこけている。

 三〇分程して、インターフォンが鳴る。新聞の集金だろうか。玄関のドアーを開けると、看護服を着た若い男性二人が立っている。

「氏川さん、病院に行く支度をしてください。鞄に着替えと日用品と貴重品を入れてください」と若い男性看護師の一人が指示する。

「ああ、はい」

「眠れてますか?」ともう一人の若い男性看護師が訊く。

「いやあ、蒲団の中て目を瞑っても、朝まで眠りに落ちなくて」

「そうですか。それでは眠れるようになりますから、この薬を飲んでください」と男性看護師が言う。

「ああ、薬はもう止めたんです」

「お薬は勝手に止めてはいけないんです」と看護師が厳しい口調で言う。

 俺は嫌々薬を飲む。看護師らが辛抱強く私が鞄に荷物を詰めるのを待っている。

「ああ、眠くなってきたな」

「薬が効き始めたんですよ。荷物はそれでもう良いです。立てますか?」と先の若い男性看護師が気遣う。

「漫画道具一式と音楽のCDと本が幾つかいるんです」

「ああ、そう言うのは保護者の方に連絡して持ってきて戴けば良いです」と看護師が苛立ったように言う。

「ああ、判りました」

 俺は鞄を持って立ち上がる。私がよろけると、「おお!大丈夫ですか?歩けますか?」と看護師の一人が俺の体を支えながら言う。

 俺は階段で一階に下り、救急車の寝台に横になると、堪らなく眠たくて目を瞑る。

「氏川さん、着きましたよ!」と男性看護師の声で再び眼を開ける。看護師が俺を起こす。何と一瞬にして病院の敷地内に移動している。俺は看護師らに両脇を掴まれ、病棟の建物に入る。エレヴェイターに載ると、「氏川さんって、漫画描いていらっしゃるんですよね?」と男性看護師が話しかける。

「ああ、はい」

「退院されてどのくらいになるんですか?」と男性看護師が訊く。

「二十四歳で退院して、今、三十歳ですから、六年目ぐらいですかね」

「漫画家になるのって大変でしょう?」と男性看護師が笑顔で訊く。

「まあ、大変になるくらい描ければ、大変なんでしょうね」

「ああ、なるほど」と男性看護師が笑って言うと、エレヴェイターの扉が開く。男性看護師がブザーを押すと、ピンク色の制服を着たヘルパーの女性がガラス張りの病棟の入口の鍵を開ける。

「おお!氏川さん、大変でしたねえ」と石橋先生が笑顔で俺を出迎える。

「一回目を瞑って、再び目を開けたら病院に着いていたんです」

「ああ、そうですか」と石橋先生が笑顔で言う。


『保護室』

 診察室に入ると、石橋先生が、「どうぞ、そこにおかけになってください」と席を勧める。俺は椅子に座り、幻聴が聴こえないのを不思議に思う。

「何か聴こえますか?」と石橋先生が笑顔で訊く。

「いやあ、それが、幻聴が聴こえないなあと思いまして。診察室って、幻聴を防音する何かがあるんですか?」

「幻聴の防音装置とか、そう言うものは存在しません。でも、診察室に入ると幻聴が聴こえなくなるって患者さんは結構多いんです」と石橋先生が口許に笑みを浮かべて言う。

「そうですか」

「少し落ち着かないようなので、暫く保護室に入って戴きます」と石橋先生が笑顔で言う。

 診察室から病棟の廊下に出ると、廊下の奥にある鉄の扉の鍵を若い男性看護師が開けて、中に入っていく。俺もその後から扉の中に入っていく。何だか刑務所の独房のような部屋が並んでいる。俺は一番奥の部屋の鉄格子の左端にある鉄の扉から男性看護師に続いて入る。囲いのない和式便所が部屋の隅にあり、奥の壁の下の方に曇りガラスの灯取りの窓がある。その空間の中央に体操用のマットのようなものが敷かれ、そこに看護師が枕と毛布を置く。

「この服に着替えて、この部屋で寝てください」と若い男性看護師が病棟服を俺に手渡して言う。俺は着替えをすると、若い男性看護師が脱いだ服を外に持ち出す。

「あのう、煙草吸わせて戴けませんか?」

「煙草は保護室を出て、病棟で生活出来るようになるまで吸えないんです。申し訳ありません」と若い男性看護師が色白な顔の異様に赤い唇の間から真っ白い歯を見せて言う。

「そうですか。仕方ないですね。それではここのところ不眠が続いてたので眠らせてもらいます」

「お休みなさい」と若い男性看護師は言って、保護室の外に出ると、鉄格子の端の鉄の扉の鍵を閉める。


 頭から意識の芽のようなものが頭皮に生じ、その意識の茎の先端が空に向かって伸びていく。体内にある意識と空に向かって伸びていく意識は人間と凧のような関係にあり、空に向かって伸びていく意識がゆらゆらと風に揺らめく。大空の風に揺らめく意識が風に引き千切られないよう、蒲団の上に横になりながら、風の動きに合わせて、自然の動きに任せるように体を揺らし、調整する。

 夢から目覚めると、間もなく若い女性看護師が昼食を乗せたトレイを持って、保護室に現われる。夢の効果か、頭の中が妙にすっきりとしていて、不思議な浮遊感がある中、マットの蒲団の上で昼食を食べる。昼食は回鍋肉と鳥の唐揚げと白米と若布と豆腐の味噌汁である。

 昼食を食べ終えると、体内にいるアリシアの生霊を気遣って、アリシアが閉塞感を感じてパニックを起こさないようにと眠り込む。


 もう保護室に何日いるのか。食っちゃ寝、食っちゃ寝を繰り返し、数日が経っている。もう朝方なのか夕方なのかも判らない。


「氏川さん」と男性の声が寝ている俺を起こす。

「ああ、おはようございます」

「どうですか?大分落ち着いたようですけど、そろそろ病棟の方に移りますかね」と石橋先生が笑顔で言う。

「ああ、はい。やっと煙草が吸えますね」

 俺は前回入院した時の部屋より一つ奥の大部屋に入り、手前右の壁に隣接したベッドに案内される。確か前回は右奥の窓際のベッドだった。同じ広さの病室ながら、前回とは病室も違えば、ベッドの位置も違う。

「あのう、前回は右奥の窓際のベッドだったんで、右奥の窓際のベッドに替えて戴けませんか?」と女性看護師に言うと、「空いているベッドに寝て戴くしかないんですよ。済みませんねえ」と女性看護師が猫撫で声で言う。「それではここでお休みください。御用が御有りでしたら、勤務室の方にいらしてください」と女性看護師は言って、病室を去る。俺は喫煙所に煙草を吸いに行く。前回はここの面子に由里ちゃんと布居さんと村野さんがいた。喫煙所には誰もいない。今回も精神病院漫研を結成するような漫画家志望の仲間が出来るのか。久々に頭がくらくらっとするような煙草を吸い、病室に戻ると、ベッドに横たわり、疲れた頭を休めようと、目を閉じて、仮眠を取る。

なかなか面白い群像劇になりました。

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