精神科病棟への入院
漫画家を目指す主人公に統合失調症が発症する群像劇。
父のレコードがターン・テーブルの上で回っている。扇風機も回転式の機械だ。洗濯機もか。べちゃくちゃと煩いな。トラウマに近い恐怖を感じる。部屋の外の廊下を裸の子供達が大勢横切る。レコードは聴いた事のない日本のフォーク・ソングだ。あっ、目覚めていく。起きがけに幻聴を聴きたくない。そうっと目を開けて起きるか。
小さな幻聴の滓のような幻声が耳に入る。真希ちゃんが待ってるな。夢にまで幻聴の音声が加わったのか。俺の常識を超える異変だ。無意識の心は夢を作るような存在なのか。脳の働きと心はどちらが主体なのだろう。脳の働きと心は同一視すべきなのか。夢とは妙な現象だ。
ダリの絵のような漫画を描きたい。ダリのあの画力で着色した絵にストーリー性を持たせて漫画を描けば、漫画は絵画や文学から派生した立派な芸術の一様式として認められる。映画の精密な脚本と解するのは自立性がなく、魅力もない。
デイ・ルームのソファーに真希ちゃんが俯いて座っている。単行本の漫画を読んでいるようだ。もうそろそろ昼食だろう。喰っちゃあ寝、喰っちゃあ寝が入院生活なんだな。御菓子の食べ過ぎは太るだろう。コンソメ味の『ポテト・チップス』が食べたいな。取ってきて真希ちゃんと一緒に食べるか。
『ポテト・チップス』の袋を開けながら、真希ちゃんの隣に腰を下ろす。
「食べませんか?」
「あたし、『ポテト・チップス』は太るから絶対に食べないんです」と真希ちゃんが断わる。
「真希ちゃんの体つきは本当に日頃の努力の成果あるスタイルですよ」
「いえいえ、これでも意外とぽっちゃりしてるんです」と真希ちゃんが些細な事に拘る。
「何読んでるんですか?」
「高野文子の漫画です」と真希ちゃんが漫画の表紙を見せて言う。
「知らないな。俺、漫画は男の作家しか読んだ事ないです」
「あたし、男女の領域が分かれてるところを平気で乗り越えてくるような男の人があんまり好きじゃないです」と真希ちゃんが女の領域を主張する。
「男も普通は女性の領域にある文化に何でも触れて良いとは思わないものです」
「あたしは男の子の漫画とかも観ちゃうんですけど、女が領域を越えないと、男の子が女の子の好きな物に関心示す事って余りないじゃないですか?」と真希ちゃんが矛盾した事を言う。
「本当は男に女の領域に関わってもらいたいんですか?」
「好きな人には関心持ってもらたいです」と真希ちゃんが細やかに女心を語る。
「女心って複雑だな」
「女は女として男の人と遣り取りをして関係を深めたいんです」と真希ちゃんが補足する。
「女性の漫画を無断で読むってどういう事なのかよく判りました」
「そうですか」と真希ちゃんが笑いながら言う。
真希ちゃんの体に平然と触れられる人っていないんじゃないかな。独特な緊張感を漂わせている。色白な体の全体が輝いて見えるのだ。
「院内外出出来るんですよね?一緒に外に行きましょうよ」と真希ちゃんが院内外出に誘う。
「うん。行きましょう!」
恋人が出来たっていう満足感がない。この胸の隙間を真希ちゃんの愛で満たしてもらいたい。真希ちゃんのエナジーなら、きっとこの胸一杯に愛を注いでくれるだろう。集中力は散漫ながら、幻聴は消えている。ソワソワと落ち着きない気分が常にある。
「看護師さん、ドアー開けてください」と真希ちゃんが病棟の入口のドアーの前で若い女性看護師に言う。
「ああ、俺もお願いします」
「氏川さんは院内外出の許可が出たんでしたね」と若い女性看護師がドアーの鍵を開けながら言う。
「ああ、はい」
「はい、どうぞ」と看護師が開いたドアーを抑えながら言う。「気をつけて行ってくださいね。お帰りになる時はドアーの外からブザーを押してください」
「ああ、はい」
真希ちゃんはエレヴェイターの前にいる。俺は病棟の外に出ると、看護師が職員室に入っていく後ろ姿を見届ける。エレヴェイターが三階に来る。扉が開き、真希ちゃんの後からエレヴェイターに乗る。
「売店に案内しますね」と真希ちゃんが頼もしく言う。
「ああ、はい」
「外出許可が出たら、ホテルに行きましょ。近くにあるんです」と真希ちゃんがセックスに積極的になる。
「真希ちゃん」
「はい」と真希ちゃんが訳が判らずに返事をする。
「男は結婚前に恋人とセックスをしたら、飽きるかもしれませんよ」
「でも、しなかったら、他の誰かに取られるかもしれないし」と真希ちゃんが焦りを示す。
「してたら、余計に浮気心が強くなると思う。別の人としてみたいって欲望が次々と広がっていくと思う。真希ちゃんがしたいなら俺もしたい」
「あたし、セックスの良さを知ってる大人の女性に憧れてるんです」と真希ちゃんが本音を言う。
「それならしよう」
「じゃあ、氏川さんが外出許可が出るのを楽しみにしてます」と真希ちゃんが嬉しそうに言う。
これで何かの話し合いになったのか。結局、真希ちゃんは男に都合の良い女になるんだな。したい同士すれば良いだけなのか。真希ちゃんが俺に顔を近づけてキッスをする。俺は真希ちゃんの唇を貪るように求める。俺は洋服の上から真希ちゃんの胸を揉む。エレヴェイターのドアーが開く。二人共咄嗟に離れる。老女が俺達と入れ替わりにエレヴェイターに乗る。レストルームに入れば出来るな。
「氏川さん、唇にあたしの口紅付いてます」と真希ちゃんが言って、ハンカチーフで綺麗に俺の口を拭ってくれる。俺は真希ちゃんのお尻に触る。
「氏川さん、外では止めてください。あたしからキッスしたのに本当にゴメンなさい!」と真希ちゃんが俺に時と場合の弁えを持たせる。
「ああ。そうだね」と俺は真希ちゃんの体から手を離す。俺は体が凍りつくように反省する。恋愛のマナーを知らない事を恥じ入る。
「売店は通りを渡った本館の地下にあるんです」と真希ちゃんが明るい声で説明する。
真希ちゃんの口調に不機嫌さはない。
「確か通りの向こうの本館って外来がある方だよね」
「はい、そうです」と真希ちゃんがはっきりとした認識力で答える。
「来た時の道順を逆行するのか」
「ああ、それは自由になった感じがするでしょうね。あたしもそうでした。隔離されてるような感じが院内外出の許可出るまで物凄く嫌でした」と真希ちゃんが過去の気持ちを打ち明ける。
「息苦しいですよね。窓とかもガラスに針金が入っていて、外側には柵があって、窓は十五センチぐらいしか開かないし」
「ああ、それは気にし始めると閉塞感がありますよね」と真希ちゃんが不満気に言う。
「思い出させちゃってゴメン」
「いえいえ、そういうのは私も同じ気持ちです。あたしは不満を口に出す力もないくらい息苦しかったんです。あたし、売店に行ったら、アイス・クリームを買います」と真希ちゃんが流れるように話す。
「ああ、アイス・クリームは良いですね。俺はヴァニラが好きなんです」
「キャスターって言う煙草がヴァニラの香りがするの知ってますか?」と真希ちゃんが意外な知識を披露する。
「そうなんですか。俺は煙草は吸わないんで、煙草の事は全く知りません」
「あたし、高校の時に一回だけ吸った事あります。由里ちゃんとかが煙草吸ってると、時々、煙草吸いたいなあって思うんです。病院の中って、長くいると暇ですからね」と真希ちゃんが煙草の話をする。
「煙草かあ。ああ、あそこが売店か?じゃっ、俺、煙草一箱買ってみます」
「ああ、じゃあ、あたしも買います」と真希ちゃんも煙草を買おうとする。
「キャスターがヴァニラの香りなんですか?」
「そうです」と真希ちゃんがはっきりと確信を以て答える。
「じゃあ、キャスター買います」
「あたしは何かメンソール系が良いですね」と真希ちゃんが自分の憧れを打ち明ける。
「ああ、メンソールか。俺もメンソールが良いかな」
「あたし、メンソール吸う男の人ってあんまり好きじゃないです」と真希ちゃんが気難しく男の好みを語る。
「ああ、じゃあ、やっぱり、キャスターにするか」
「あたしの好みの男性になるのにキャスターにしてくださるんですか?」と真希ちゃんが嬉しそうに訊く。
「はい」
「好み煩くてゴメンなさい!煙草ぐらい自由に選んでください」と真希ちゃんが申し訳なさそうに言う。
「キャスターにしますよ」
「本当にゴメンなさい!後でメンソール試しに一本あげます」と真希ちゃんが嬉しそうに言う。
「薄荷の飴みたいな物なら態々煙草みたいな有害物質を体内に摂取する必要はないですよね」
「煙草止めるのって無理って言われてます」と真希ちゃんが喫煙に必要な覚悟を示す。
「ああ、どうしようかな。スモーカーになると、本当に金がない時にも食事代より煙草代を確保しなければならなくなるって親父が言ってました」
「じゃあ、止めましょう!」と真希ちゃんが気変わりを口にする。
「俺は買います」
「あたしは止めときます」と真希ちゃんが喫煙を自制する。
俺は売店の入口の煙草の販売機でキャスターを一箱買う。
「ライターは皆、病棟のを使ってるみたいです」と真希ちゃんが病棟の事を説明する。
「一応ライターも買っておきます。中かな。アイス・クリーム選んでからにするか」
俺は真希ちゃんを恋人として獲得した喜びを楽しんでいる。絶対に真希ちゃんを失いたくない。必ず結婚までこの恋愛を発展させたい。したから飽きるって結末は自分で勝手に決めつけているだけだろう。真希ちゃんが俺の左肘に両手で掴まる。振り返ると真希ちゃんは俯いている。俺はミルクの入ったヴァニラのカップのアイスを二つとライターを買う。真希ちゃんがレジスターの前で俺の左肘を掴んだまましゃがみ込む。
「真希ちゃん、大丈夫?」と俺は心配して真希ちゃんの体調を伺う。真希ちゃんは何も答えない。体調の悪くなった時にその場にしゃがみ込むというのはとても勝れた判断だ。俺は外面を平然とした顔で装う。俺は真希ちゃんの隣にしゃがみ込み、真希ちゃんの両膝を両膝頭で挟む。
「ゴメンなさい。幻聴が恐くて、しばらくこのままにさせてください」と真希ちゃんが苦しそうに言う。
「うん、良いよ。ずっと一緒にいるよ」
「看護師さん呼びますか?」と売店のおばさんが俺に訊く。
「いえ、しばらくこのまま様子を見ます」
「そうですか。おねえちゃん、ここの椅子に座ったら?」と売店のおばさんが真希ちゃんに椅子を勧める。
「大丈夫です。本人がここにしゃがんでいたいんです」
「そうですか」と売店のおばさんが心配そうに言う。
こんな体調の不安定な二人がセックスなんて出来るのか。真希ちゃんがフラッと背後に倒れそうになる。俺は急いで真希ちゃんの腕を掴み、体を抱き留める。
「あの、看護師さん呼んでください!気を失いました!」
「ああ、はいはい」
力の抜けた女性の体は重い。俺は真希ちゃんを地面に横たわらせる。下着が見えないようにスカートを整えてやる。頭の下にハンカチーフを敷いてやる。自分の方の幻聴も騒がないか不安になる。不安が募り、早くベッドに横になりたい。真希ちゃんを安全な場所に運び終えるまでは命を懸けてでも守り抜く覚悟がある。幻聴なんて幾ら騒ごうとも死ぬ訳ではない。真希ちゃんの顔が死体のように蒼白く血の気が引いている。額に掌を当てると、真希ちゃんが薄っすらと目を開け、再び瞼を閉じる。気を失っている訳ではないんだな。真希ちゃんの右手を握る。肌理の細かい滑らかな肌だ。指が細くて白い。ほんのりと温かく、口の中に入れてしゃぶりたくなる。真希ちゃんのような美人がこういうところに横たわっているのがとても不自然で、違和感がある。真希ちゃんは本当に美しい。
『真希ちゃん、死んでる?』と可愛らしい小さな男の子の声が訊く。
生きてるよ。
『真希ちゃん、死んでる?』と少し大きい男の子の声がふざけたように訊く。
生きてるよ。
『真希ちゃん、生きてるのか』と中ぐらいの男の子の声の幻聴が言う。
『あたし、真希ちゃん好き』と癒し系の女の子の声の幻聴が言う。
僕も好き。
自分以外に大切な人を得た喜びは非常に大きい。この人との子供を養わねばならない。十分にゆとりある収入を得るには売れっ子漫画家になるのが一番だろう。自分には才能は確かにあると信じている。もっとわくわくするような楽しい漫画を描かねばならない。感動も欠かせない。夢中になって食い入るように読ませる漫画でなければならない。真希ちゃんの顔は強い生命の光を発している。しっかりとした存在感がある。
看護師らが駆けつけ、真希ちゃんの様子を見る。
「氏川さんは心配しなくていいですよ。桜井さんは出先で幻聴が騒ぐと必ずこうなるんです。気絶はしてないんです。じっと横たわってるだけなんです」と若い女性看護師が真希ちゃんの容態を説明する。
「へええ、変わってる」
病棟に戻ると、楽しみにしていたキャスターの封を開け、片瀬さん達がいる喫煙所の席に座る。
「氏川さん、煙草吸うんですか?」と片瀬さんが俺に訊く。
「長い入院生活だから、煙草でも吸おうかなって思って」
「吸ったら、止めるのは無理ですよ」と片瀬さんが心配そうに言う。
「俺、性格が変に生真面目なんで、ストレスが溜まり易いんです。煙草吸うぐらいが丁度良いかなって思って」
俺はキャスターを一本口に銜え、テーブルに備えつけのライターで煙草の先端に火を点ける。片瀬さんがじっと俺の顔を真面目な顔で見つめ、「吸い込みながら火を点けるんです。そうそう。点きましたね」と言う。俺は煙に咳き込む。何だか楽しい。俺はたちまち煙草が気に入る。煙草を吸い終えた片瀬さんが席を立つ。どちらかと言うと、片瀬さんも俺の好みのタイプだ。片瀬さんとは機会ある毎に舞い上がって会話をしている。向こうも全く俺に興味がない訳ではないだろう。片瀬さんは恐らく真希ちゃんとの友情を守っているのだ。片瀬さんの態度は不自然によそよそしい。俺としても片瀬さんの事は真希ちゃん程好みではない。真希ちゃんみたいな美人には二度と出会えないような気もする。その点、片瀬さんは俺にとっては特別な女性ではない。そこら辺に幾らでもいる美人の一人だ。俺は昔から真希ちゃんのような人懐こい体当たり型の女性を邪険に扱ってきた。いつまでも少年っぽい恋愛音痴は考えものだ。真希ちゃんの顔立ちが一際美形だから、自分の犯し易い癖に注意力が働いているのだろう。俺は真希ちゃん程の魅力ある女性には出会った事がない。それに真希ちゃんのように自分から積極的に接してくる美人もいなかった。過去の俺は全く恋愛とは無縁だった。恋愛に無縁な自分に無自覚でもあった。異性に恋する事なく素通りするのは女性だって普通の事ではないだろう。俺は好みの女性と出会っていながら素通りしてきたのか。そう言う事は女性の人生にはないのだろうか。男にあって女にはないと言い切れる確信はない。恋って神様の仲立ちあって叶うものなのか。悪魔のような遊び人の恋はどうなる。悪魔が味方して叶えるのか。精神状態の落ち着かない者同士恋愛しても集中力は散漫だろう。こっちが寝込んでいる間は向こうがこっちを想い、向こうが寝込んでいる間はこっちが向こうを想う。それが相思相愛なのか。恋はいつも擦れ違い。なるほど。何か恋の歌の歌詞にあったな。意味とか理由もなく、当たり前に恋人のいる人生があるんだな。別れたら、今、付き合ってる人いません、ってね。長年の憧れの実現じゃないか!
昼食はナポリタンのスパゲッティとサラダと紙パックの麦芽コーヒー豆乳だ。真希ちゃんは寝たきりで、一向に病室から出てこない。ナポリタンは今や日本人の食生活に欠かせないメニューになっている。古き日本の洋食屋のメニューが大きく様変わりし、異国の食べ物が日本人の食生活に多く入ってきた。ラーメンもパスタも蕎麦もうどんもチャンポンも等しく麺類として日本人の食生活に親しまれている。
『僕、スパゲッティー食べる!』と男の子の声の幻聴が言う。
また聞こえてきた。急いで食べないと食いそびれる。聴こえてくる幻聴への辛抱が利かない時には心臓の鼓動が乱れに乱れる。健康や栄養を気遣うだけなら、食べるという行為を自動飲食にしてしまいたい。
『僕、サラダも食べるよ!』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
とにかく完食を心がけよう。サラダのひんやり感には恐怖を感じる。感じ方が敏感過ぎるのか。ナポリタンのケチャップの量は丁度良い。やはり、麦芽コーヒー豆乳は美味いな。飲む事は全く苦ではない。
幻聴の言葉に意識を追い詰められ、段々と寝たきりになっていくのか。病棟内では行動に制限がある。創作体勢を確保しなければ、何の利益もない無駄な時間を過ごす事になる。母に電話し、漫画道具を持ってきてもらおう。
真希ちゃんは一向に起きてこない。俺は何とか昼食を完食した。また煙草でも吸うか。
片瀬さんの向かい、村野さんの左隣で煙草を吸い終えると、病棟の電話機で母に電話する。
『はい。もしもし氏川ですけれども』と母が電話に出る。
「ああ、俺だけど、俺の部屋のケント紙の束と漫画用のペン軸とペン先と製図用インクと修正液と三十センチ定規とCDプレイヤーと尾崎とピンク・フロイドのCD全部とアドレス帳とボールペンを持ってきてくれないかな?」
『ええ、何々?』と母が訊き返し、『メモするからもう一回言って」と言う。
「ケント紙の束と、漫画用のペン軸と、ペン先と、製図用インクと、修正液と、三十センチ定規と、CDプレイヤーと、尾崎豊とピンク・フロイドのCD全部と、アドレス帳と、ボールペン」
『はい。判りました。夕方にまた面会しに行くから、その時持っていくわね』と母が穏やかな声で言う。
「うん。お願いね」
『それじゃあね』と母は言って、電話を切る。
「正道、頼まれた物持ってきたわよ」と女性の声が聴こえる。
目覚めた俺は母の存在を確認する。深い眠りだった。夢も見ていなかった。鉄格子のある窓の向こうの景色は夕暮れで薄暗い。ああ、外の空気を吸いたい。俺は二〇センチぐらいしか開かない窓を開け、外の空気を肺深く吸い込む。母の方に振り返ると、母が俺の様子に絶句している。
「明日から同伴院外散歩の許可が出るわよ。はい、これ、CDとCDプレイヤーと漫画道具とアドレス帳とボールペンね」と母が笑顔で俺が注文した物の入った紙袋を差し出す。
「ああ、ありがとう。同伴院外散歩は真希ちゃんとするよ」
「ああ、あの美人さんね。これからは病気を理解し合える友達が必要かもね」と母が笑顔で言う。母は周囲の人達よりうんと明るく品が良い。
「生まれて初めて恋人が出来たよ」
「恋人って、あの子?」と母が訊く。
「うん。年も同じなんだよ」
「女の子の方の病気は色恋が特徴らしいわよ」と母が言う。
「女の子は色恋が病気の特徴なの?」
「そうらしいわよ」と母が楽しげに言う。
珍しくすんなりと母の言葉を受け入れられた。反論する余地のない真実に思える。恋愛は本来、出会って一日で発展するような関係の深まりではない。
「氏川さん!あっ、氏川さんのお母様でらっしゃいますか?私、氏川さんとお付き合いさせて戴く事になりました桜井真希と申します。宜しくお願いします」と真希ちゃんが母に挨拶をする。
「正道が御世話になっております。まだ病院の事を何も知らないんで、色々と困っていたら教えてあげてくださいね」
「ああ、はい。判りました。氏川さんとお付き合いさせて戴いても宜しいでしょうか?」と真希ちゃんが我々の交際に関して俺の母の許可を求める。
「長い入院生活になりそうですから、お互いの気持ち一つで決めたら良いんじゃありませんか」と母が落ち着いた口調で言う。
「そうですよね。これから宜しくお願いします」と真希ちゃんが嬉しそうに言う。
「こちらこそ宜しくお願いします」と母が若い子を相手にするように気軽に挨拶をする。
「ああ、親子水入らずのところ済みませんでした」と真希ちゃんが頭を下げて言う。「それじゃあ、また後でね」と真希ちゃんは言って、気を利かして病室を去る。
「良い子は良い子ね。早々とお母様なんて言ってたけど」と母が笑いながら言う。女同士の嫉妬心や独占欲は感じない。
「見た目に美人なのにツンとお高く留まってる感じがしないんだよ。病人っぽい暗さもないしね」
「あなたの好きそうなお顔よね。ああ、そうそう、『まるごとバナナ』と『レーズン・ビスキー』を持ってきたわよ」と母が言う。
「ああ、食べたい!」
「入院中にあんまり太らないようにしなさいよ」と母が注意し、「缶ジュースとか、また名前書いて冷蔵庫に入れてありますからね」と言う。
「ああ、ありがとう。あんな綺麗な人に今後出会えるのかなあ」
「よく見極めなさいよ」と母が注意する。
「うん。でも、冷静に恋する人っていないと思うんだけど・・・・」
「女の子を顔で選んじゃダメよ」と母が更に注意する。
「うん。でも、顔が物凄く好きなんだよなあ」
「性格とか趣味とか、ちゃんと中味を確認しなさいよ」と母が念入りに注意する。
「うん。探りは入れてるよ。文化的な事柄にも深く通じてる子なんだ」
「礼儀正しい賢そうな感じはするわよ」と母が真希ちゃんを誉める。
「うん」
俺は『まるごとバナナ』を食べる。
「他に何か持ってきてもらいたい物はある?本とかは売店で気楽な本買って読みなさい。週刊誌とかが肩が凝らなくて良いわよ」と母が読書を勧める。
「無意味に活字を追いたい気分じゃないな。読まなくてもいい文章は全く読みたくない」
「じゃあ、外泊が出来るようになったら、駅ビルの本屋さんにでも寄って、自分が読みたい本を買いなさい。お母さんが買ってあげるから」と母が言う。
「うん。甘い物を無償に食いたいな」
「動いてる訳じゃないだろうけれど、精神的に疲れてるからかもしれないわね」と母が心配そうに言う。
「ああ、そうだろうね。幻聴に引っ切りなしに話しかけられてると疲れるんだよ」
「横になって頭を休めなさい。あんまり考えてばかりいちゃダメよ」と母が注意する。
「考えたくなくても、考えずにいられない感じなんだよ」
「夕食前のお薬でえす!デイルームに薬を飲みに並んでください!」と女性看護師が大声で病棟の患者達を呼ぶ。
「お母さんはまだいるから、あなたは夕御飯食べてきなさい」と母が俺を安心させる。
「うん」
薬を飲んで、夕食の載ったトレイを受け取り、片瀬さんの向かいの席に座る。
夕食はカツ丼とほうれん草の胡麻和えと紙パックのアップル・ジュースだ。
『ジュース飲む!』と男の子の声の幻聴が言う。
『アップル・ジュース!』と癒し系の女の子の声の幻聴が言う。
『あたしがアップル・ジュースなの!』と悪に傾倒した女の子の声の幻聴が言う。
『僕、食べる!』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
俺は幻聴の『僕、食べる!』で気持ちが動揺する。カツ丼は俺の好物なのに、不安で食べ物が喉を通らなそうだ。食べないと後で腹が空く。さっさと食べなければいけない。
『この人が食べてる!』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
『僕、食べてるよ』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
なかなか飲み込めない。心の不調和だろうか。幻聴の本体は中にいるのだ。アップル・ジュースを飲んで、喉の通りを良くする。嚙む動作の最中に自我がはっきりとしてくる。自我意識が張り詰め、幻聴の意識が自分に向くと、途端に不安が募る。俺は食事を残し、残飯をゴミ箱に捨てる。口の中の食べ滓を内なる幻聴が頻りに嚙んでいる。俺は素早く水道の水で口の中を濯ぐ。
古田の声でお腹が鳴るような擬音の幻聴が聴こえる。不安が更に募る。俺は幻聴を聴かないで済むように、感覚的操作を常にしている。その感覚的操作の苦心惨憺の結果が頭の疲れになる。病室のベッドに横になり、幻聴に疲れた耳を自分の手でマッサージする。
『耳のマッサージ』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
『あたし、いるよ』と小野さんの声の幻聴が言う。
『聴こえないようにする!』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
空気を奪われたように息苦しくなり、深呼吸をする。その深呼吸の音に悪に傾倒した少女の声の幻聴の擬音の声が重なる。一人だけで正確に深呼吸をする。その深呼吸に合わせて少女の呼吸の擬音の声が重なる。精神錯乱しそうだ。呼吸停止や死を覚悟し、心を落ち着ける。別に死ぬような事ではないか。自然に呼吸はしてるな。一種の病的な神経質さに原因したパニックだろう。ゆっくりとパニックから心を落ち着ける。少女の声の呼吸の擬音の幻聴から聴覚の焦点を微妙にズラし、何とか一人で満足出来る深呼吸を可能足らしめる。
「御飯もう食べたの?」と母がベッドの脇から話しかける。
「幻聴の言葉聴いてたら、不安で食べられなかった。周囲の人達に対して理性的に振舞う事は自分の信用のためにしてるけど、本当は大声で叫んで発狂しそうな程辛いんだよ」
「ああ、じゃあ、もう寝てなさい」と母が仕方なく眠る事を勧める。「うん。折角来てくれてるのにごめんね」
「それはいいのよ。ちゃんと明日もまた会いに来ますからね」と母が俺を安心させる。
「うん。ありがとう。何か顔面の神経が強張る程不安が募って、話すのが辛いんだよ」
「ああ、じゃあ、お母さんはそろそろ帰るわね」と母が気を利かして言う。
「うん。それじゃあね。また明日」
「氏川さん!」と若い女性看護師の声に起こされる。
「ああ、はい」
「寝る前のお薬飲みにきてください」と若い女性看護師が言う。
「ああ、はい」
気持ちの良い眠りだった。直ぐに幻聴への不安が思い出される。このまま気の休まらない不安に日常的に苦しむ事になるのか。デイルームで女性看護師に睡眠薬を口に入れてもらう。冷蔵庫から冷たいコーラを出して飲む。真希ちゃんが俺の前に何時の間にかいて、笑顔で俺を見ている。
「今夜またここで会えますか?」と真希ちゃんが爽やかな笑顔で訊く。
「辛くなったら直ぐにベッドに駆け込むけど、それで良ければ良いですよ。いやっ!良いですよとかゴメンなさい!」
「辛い時にあんまり気を遣わないでください。あたしだって、精神状態が最悪に乱れてる時は言葉遣いとか間違いますよ」
「真希ちゃんは本当に俺にとって大切な人なんです。絶対に傷つけたくありません」
真希ちゃんが強く瞼を閉じて、顔も隠さず、上を向いて声を上げて泣き出す。俺は真希ちゃんを強く抱き締める。俺と大して背は変わらない。体つきは壊れそうな程華奢で女らしい。太っている訳でもないのに、とても温かくて柔らかい。
「真希ちゃん、俺、先、母に、女性の精神分裂病の特徴は色恋に走る事だって言われて、真希ちゃんへの誓いを破ろうとしたんだよ。俺、今後、真希ちゃんみたいな綺麗な人に出会えるとは思えないんだ。今、真希ちゃんを逃したら、一生恋愛に縁がないかもしれない」
「氏川さんってカッコいいから、そんな事はないだろうって思うけど、あたしを逃したらって考え方が特別な感じがしなくて悲しいです。あたしは一目見てこの人は好みだって思ったから、彼氏にする事に焦ったんです。ああ、同じか」と真希ちゃんが涙を拭いながら言う。
「同じでしょ。俺達まだ昨日出会ったばかりだよ」と笑いながら言う。
「あたし、何か氏川さんに特別な想いで愛されたいです。ああ、求めるばっかりでゴメンなさい!」と真希ちゃんが細やかなコミュニケイションを取る。
「いやあ、そんなのいいですよ」
「あたし、恋ってどんな経験をするのか全然判らなくて」と真希ちゃんが戸惑いを顔に表わして言う。
「俺も判らないですよ」
「子供産んで、精神分裂病が子供に遺伝したら、氏川さん、あたしの事恨みますか?」と真希ちゃんが不安そうに言う。
「遺伝ですか。自分の子にこの病気が遺伝するのかな。それは辛いなあ」
「やっぱり、そうですか。あたしとしたいだけならしましょうよ。女のこの病気の特徴って確かに色恋なんです。あたし、物凄くセックスがしたいんです」と真希ちゃんがはっきりと自分の欲望を言葉にする。
「へええ、やっぱり、そうなんだ」
「普通の女の子とあたし、何か違うでしょ?」と真希ちゃんが客観的に自分を捉えて言う。
「ううむ。好き合った者同士の恋の発展だとしか思えません」
「それは確かにそうなんですけど、今のあたしの心の状態って本当に淫乱なんです」と真希ちゃんが俺のそそる事を口走る。
「あんまり正直に打ち明け過ぎなんじゃないの?真希ちゃん、今、心のゆとりがなくてカッコ付けられないんだと思うんだ」
真希ちゃんが硬く目を閉じて首を傾げ、「ああ、また自己嫌悪に陥るのか・・・・」と辛そうに言う。
「真希ちゃん、今、本当は辛い時なんじゃないの?俺のために一緒にいてくれてるんでしょう?」
「あたし、氏川さんのために自分に出来る事をしたいんです」と真希ちゃんが自分の愛を言葉にする。
「辛いのはお互い様なんだから、あんまり俺にしてくれるばかりだと遂甘えちゃうよ」
「じゃあ、甘えてくださいよ」と真希ちゃんが笑顔で言う。
「何だか甘い気分になるなあ。ああ!そうだ!明日から同伴院外外出の許可が出るんだよ」
「同伴院外外出は患者同士でも良いんですよ!」と真希ちゃんが嬉しそうに言う。
「ああ、じゃあ、明日、一緒に出かけようよ」
「はい、任せてください」と真希ちゃんが自信を以て言う。
「俺、先、キャスター吸ってみたよ」
「あたし、煙草買わなかったな」と真希ちゃんが戸惑いを顔に見せて言う。
「吸ってみる?」
「いいえ、あたしはいいです」と真希ちゃんが煙草を拒む。
「俺は結構煙草が気に入ったよ。あっちの喫煙席に行こうよ」
俺は真希ちゃんと喫煙席の暗がりに行く。俺は喫煙席の奥の席に腰を下ろし、その向かいに真希ちゃんが座る。俺は煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐き出す。
「何かヴァニラの良い香りがしますね」と真希ちゃんがキャスターの香りを楽しんで言う。
「うん」と俺は返事をすると、激しく咳き込む。
「大丈夫ですか?」と真希ちゃんが笑顔で心配する。
「大丈夫です。風邪の咳とは違うんですよ。煙を吸うタイミングの悪さで咳き込むんです」
「美味しいんですか?」と真希ちゃんが興味津々の顔で訊く。
「うん、まあね」
「良かったですね」と真希ちゃんが俺の幸せを喜ぶ。
「煙草で体が汚れるなあ」
「・・・・」
真希ちゃんが目許を右手の人差し指で拭う。また何か涙が出るような感動を覚えたのかな。真希ちゃんが灯の消えたデイ・ルームを見回す。
「誰もいませんね。またキッスしてください」と真希ちゃんがキッスを求める。
「ああ、はい。します。煙草吸った口を濯いできます」
「そのままで良いです。在りのままの氏川さんが良いんです」と真希ちゃんが嬉しい事を言ってくれる。
俺は煙草の火を消す。少し長いまま消したかな。もう二、三服で消した方が良かったのか。俺は真希ちゃんに腰を中腰に浮かして、ゆっくりと顔を近付ける。真希ちゃんは目を閉じる。柔らかい唇だ。本当に結婚前にキッスなんてして良いのだろうか。俺、本当に恋人を獲得したんだな。俺は真希ちゃんの左隣に移動し、真希ちゃんの胸に触れる。真希ちゃんをカーペットの上に寝かせ、真希ちゃんの脚に脚を絡める。真希ちゃんを強く抱き締める。モノは立っていない。真希ちゃんの檸檬の香りがとても良い匂いだ。真希ちゃんの舌に自分の舌が触れる。真希ちゃんの唇を貪り、真希ちゃんの唾液を啜る。真希ちゃんの髪はシャンプーの良い匂いがする。
「このまま続くとしちゃうね」
「して良いですよ」
「そこはぐっと我慢です」
「そうですか」
俺は真希ちゃんのお尻に触れる。真希ちゃんのパンティーの中に左手を入れる。
「ああ・・・・」と真希ちゃんが甘い声を漏らす。
「俺、女の人の穴の事とかよく知らないんです」
「もう一寸奥にあります」と真希ちゃんが俺の目を見つめて言う。
「何にもないみたいだな」
「そこです。傷がつかないように気をつけてください。あんまり激しいと痛いかもしれません」と真希ちゃんが細やかに注意する。
「はい、判りました。ゆっくりと気をつけて動かします」
真希ちゃんの抑制したような甘い声が色っぽい。真希ちゃんが俺のモノに触れる。モノはなかなか硬くならない。真希ちゃんが手で俺のモノを扱く。
「誰も来ないですね」と真希ちゃんが落ち着いた声で言う。
「こんなとこで良いんですか?」
「あたしは大丈夫です」と真希ちゃんが積極的な態度を示す。
モノは真希ちゃんに手で扱かれて硬くなってくる。ゆっくりとモノを温かい穴の中に入れる。俺は真希ちゃんの体の上に乗り、腰を動かす。ピストン運動が意外と難しい。周囲の様子を見ながら、ゆっくりと腰を動かす。看護師も勤務室の中にいる。モノが体の中心にあるような誇らしさを感じる。
「痛くないですか?」
「大丈夫です。痛くないです。あのう、穴に入ってる分が中で動いてないんです」と真希ちゃんが何か不都合を指摘する。
「腰は振ってるんだけどなあ」
「多分、ゆっくりでも良いんです。確実に中でおちんちんが動いていれば」と真希ちゃんがセックスの指導をする。
女をイカせる事を想う程に気持ちに余裕がある。想像上の早漏とは大きく違うところだ。デイ・ルームの暗がりでのセックスに密やかな怪しいムードを感じる。手淫と違って、なかなかイカない。真希ちゃんのパジャマの上着を捲くり、真希ちゃんの胸を見る。真希ちゃんの胸を手で押し付けるように揉む。乳輪の大きさは小さ過ぎず、大き過ぎず、丁度良い。挿入した穴の辺りを見る。規則正しいピストン運動が男の仕事のように感じる。真希ちゃんは横を向いて手で自分の口を押さえている。段々とピストン運動の良い体勢を掴んでいく。静かなデイ・ルームの暗がりに幻聴は聞こえない。真希ちゃんが口から乱れたような甘い声を出す。その声に刺激され、俺は腰の動きを少し早くする。真希ちゃんの声が大きくなる。俺は真希ちゃんの顔を見て、「しいっ!」と注意する。真希ちゃんは口を閉じ、鼻から甘い声を漏らす。勤務室から看護師が出てきそうな気がする。中途半端に止めるのが嫌で、勝手な速さで激しく腰を動かす。真希ちゃんが声を潜めるのを止める。人が来そうで心配になる。真希ちゃんの声の調子が大きくなる。イッたのか。こっちはもう一寸だ。モノはなかなか破裂しない。何が何でもしっかりとイキたい。来た・・・・。俺は膣外射精をするつもりでモノを穴の外に出し、真希ちゃんのお腹の上に射精する。真希ちゃんが呼吸を荒げている。初めてにしてはまあまあだと思う。
素っ裸の真希ちゃんが暗がりのカーペットの上で下着を身に着ける。俺は喫煙席に座り、煙草を吸いながら、真希ちゃんの姿を眺める。本当に綺麗な人だ。真希ちゃんがにっこりと俺の顔を見て微笑む。真希ちゃんは声を失ったように何も話さない。幻聴は聞こえない。
「あたし、好きな人とセックスをしたら、もうこの病気の苦しみとお別れしたかったんです。あたし、もう本当にクタクタに疲れてるんです。氏川さんは死にたくありませんか?」と真希ちゃんが苦しげに自分の精神状態を語る。
「ああ、俺も実はクタクタです。死にたいって想っちゃいけないと思ってました」
「あたし、もう死にたいんです。こんな苦しみに一生耐え抜くなんて馬鹿げていると思います。何でこんなに苦しまなきゃいけないのかって思うんです。これが悪業の報いなら、あたし、自殺を考えさせるような苦しみなんて人に与えた事ありません」と真希ちゃんがはっきりとした言葉で話す。
「人生には負けてはならない場面があるんじゃないかな」
自殺をすると地獄に落ちると言われている。ショーペンハウエルやヘッセの言葉を信じるべきなのか。彼らの言葉は人間の言葉か。自殺は罪ではありませんよと神様が言ったなら、俺は自殺を選ぶのか。自殺は未遂に終わる事が多い。死期あって死因があるだけなのだ。自殺を想うと良心の痛みを感じる。人生には良心が導いている面がある。道徳心の事だ。ロックの歌詞のフレーズのように軽い気持ちで道徳を批判した事はある。真剣に物事を考えて道徳を批判した事はない。良心は人間の持つ大切な判断基準だ。良心は人間の誤った判断や意図をとんでもなく高い次元から再考させる。人は良心を母親の小言のように煩く喧しい心だと感じる。人は良心を無視して意識的に悪業を為す。非情さや吝嗇や暴力的な言動の後には必ずこの良心と向き合う事になる。道徳的に生きようとする事自体が損な生き方に感じられる。良心とは絶えず人間の意識に付き纏う。信仰心は良心から生まれてくるのか。神や仏になる修行は人生の何処かで始めなければいけない。愚かしい生まれ変わりを繰り返したくない。義務教育で身についた学問は決して楽な努力ではなかった。何度も何度も生まれ変わる度に同じ努力を繰り返しているのか。嫌気が差してくる。同じ試練を繰り返しているという発想は生まれ変わり説を信じて得た。人間は立派な人になるために生まれくるのか。偉人の人生を簡単に嘲笑ってきた。俺はきっと自分が思うよりずっと凡人なのだ。俺は天才漫画家と称される未来を自由に想像する。根拠のない自信を維持するには自惚れがいる。自惚れこそが自分の才能への自信に繋がっている。いいや、そんな大それた結論を出せるような人生の栄光は何も辿っていないぞ!
「あたしの人生には必死に生き抜くような価値は何もありません。勉強は出来なかったし、自分の信じる宗教の教えを布教する信仰心もないし、罪とか、罰とか、何をしたからこう言う結果になったのかも判らないし、あたしは唯毎日毎日苦しいばかりです」と真希ちゃんが心の中を打ち明ける。まるで神様や仏様への祈りの言葉のようだ。
今夜は最高に美しい特別な夜だ。
「人生って修行なのかな。滑り台の坂を上るように、何度も滑り落ちては這い上がる事を繰り返してるのかな。それが生まれ変わりなのかな。だったら、堪らなく苦しい人生時期に差しかかったら、もう死んだって良いよね。また生まれ変われば良いんだからさ」
「人間の中には神様や仏様にはなれない人がいるんじゃないですかね。あたし、頭悪いから、多分、動物や虫に生まれ変わっても、結構幸せに暮らしていくと思うんです。あたしは別に地獄に落ちるような邪悪な人間ではないし、生身の体で必死に生きる一人のか弱い女です」と真希ちゃんが苦しげに自分の事を話す。
ずっと自分をお釈迦様やイエス様の生まれ変わりだと思って生きてきた。お釈迦様やイエス様の生まれ変わりとして今生は華々しく漫画家としてデビューし、歴史に名を残そうと思ってきた。修行は聖者の世で終わっているものと見做してきた。俺は本当にお釈迦様やイエス様の再来なのか。俺は精神分裂病を患い、世界中の人々の苦しみを一心に背負う事になったのか。一切の苦しみを拒んで自殺する事が本当に人生の勝利なのか。生まれてきたからには今生は今生で修行の成果を収めねば神ではあり得ない。子供の頃から『一休さん』のアニメイションを観て、出家や修行に憧れてきた。俺は何処で人生を誤ったのか。
「今日はもう寝るよ」
「うん、じゃあ、また明日!お休みなさい!」と真希ちゃんが明るい笑顔で言い、俺の唇にキッスをして、デイルームを去っていく。今夜はぐっすり眠れるだろう。
消灯時間を過ぎた病室に戻ると、向かいのベッドに『大丈夫だ!』の中西栄太君が枕元の電気を点けてベッドに腰かけ、テーブルの上のカセットテープの山を整理している。
「氏川さん、音楽好きですか?」と中西君が俺に訊く。
「ピンク・フロイドと尾崎豊をよく聴くよ」
「僕は『イカ天』のバンドが好きです」
「へええ、中西君は何歳?」
「十九です。氏川さんは何歳ですか?」と中西君が親しげに訊く。
「氏川君はみっちゅう!」と俺がふざけて答えると、中西君は苛立った生真面目な顔で、「本当は何歳ですか?」と聞き直す。
「二十三です」
「年齢近いですね。友達になってください」と中西君が乞うような目で言う。
「ああ、はい」
年齢近いですねって、こっちは年上だぞ!中西栄太君が手帳とペンを持って、俺の方に近付いてくる。
「氏川さん、これに名前と住所と電話番号を書いてもらえますか?」
と中西君が頼み込むように言う。
「ああ、良いですよ」
「僕のも書きましょうか?」と中西君が何か低姿勢で訊く。
「ああ、じゃあ、このアドレス帳に書いてください」
「ああ、はい」と中西君が嬉しそうに返事をする。
「今、十九だよね?『イカ天』観れたんだ?」
「はい、ヴィデオに録画して観てました。兄貴が夜中観てたのを僕も観たいって言ったら、お母さんが録画して観なさいって言ったんです」と中西君が子供のような口調で家族の事を話す。
「あれ、良い番組だったよね」
「はい。未だにヴィデオで観てます。第一回目だけ持ってないんですよ」と中西君が残念そうに言う。
「確か二回目までは土屋昌巳が審査員で出てたよね」
「ああ、はい。すみれ、セプテンンバ、ラ、アーアーの人ですよね?」と中西君が明るい声で言う。
「うん。そう。はい、書いたよ」
「じゃあ、僕のも書きます」と中西君が嬉しそうに言う。
入口から直ぐ左のベッドに寝ている島田さんと言う二〇代ぐらいの人が、「氏川さんは病名は何ですか?」と俺に話しかける。昨晩は話に加わらなかった人だ。
「精神分裂病です」
「幻聴とかありますか?」と島田さんが気遣うような口調で訊く。
「はい、あります」
「そうですか」と島田さんが呆気なく話を済ませる。
他の残りの四人は寝ている。女性看護師が見回りに来る。
「消灯後はお喋りしてはいけませんよ。栄太君も灯を消して早く寝ましょうねえ」と夜勤の看護師が小声で注意する。
「はあい」と中西君が素直に返事をし、看護婦の言う事を聞く。俺が寝巻きに着替え、ベッドに入って天井を見つめていると、中西君が俺のベッドの方に来て、「それじゃあ、これ、僕の名前と住所と電話番号書きました」と言って、俺にアドレス帳を返す。
「ありがとう」と俺は中西君に礼を言い、中西君の住所と電話番号の書かれた手帳をテーブルの抽斗に仕舞う。
今夜は特別な夜だった。畸形児や精神病が遺伝した子供が産まれる事は望まない。子供はなくとも、真希ちゃんとの結婚や夫婦生活は実現させたい。望み得る人生経験の中でも恋愛や結婚には特に魅力を感じる。このまま独りで苦しむばかりの余生は嫌だ。何か精神苦の人生の代償として幸福な一面を得たい。辛い闘病生活に恋愛が一筋貫かれるのはとても幸せな事だ。精神苦の最中にある精神病患者同士に心が通い合うのかどうかは判らない。闘病生活に恋人の存在がいる事は救いだと思う。幸せは積極的に求めるべきだ。若い頃は苦しみや不幸に憧れ、何としても経験したいと思っていた。精神分裂病の苦しみは耐え難い。死期を自殺で早める必要はない。人生は可能な限り長い方が良い。生きていれば良い事も必ずある。
今日は母が漫画道具一式を持ってきてくれた。明日からは病棟で漫画を描こう。
真希ちゃんの体の温もりが思い出される。結婚前に悪い事をしたのに、何故だか神様に赦されているように感じる。体がとても温かい。
温かい水の中で目覚める。口を開けると湯が口の中に流れ込む。空気を吸い込むように無害だ。体内に水を受け入れて眠っていたのか。このように発想を変えて風呂の湯の中に潜れば、魚のように水の中で生きられるのだな。水面に出たら、地上の動物に帰ってしまう。水面に少しずつ浮かび上がっていく。ああ、水面から顔が出る!
目覚めた俺の耳に雀の囀りが聴こえてくる。窓の外は蒼白い光で明るんでいる。洗面と歯磨きと髭剃りの前にデイ・ルームで冷たいコーラを飲もうか。チョコレイトを食べたいな。棚の中にチョコレイトがあるかな。ああ、板チョコやソフト・キャンディーがある!チョコレイトの封を開け、丸齧りする。この板チョコをパリッと歯で齧って折る音が子供の頃から好きだった。チョコレイトを齧りながら、デイ・ルームに向かう。三木谷さんがまた絵を描いている。デイ・ルームの冷蔵庫から冷たいコーラを出す。
「三木谷さん、おはようございます!」
「ああ、氏川さん、おはようございます」
「また絵を描かれてるんですか?」と三木谷さんの絵を見下ろして訊く。
「昨日の絵の続きです。この絵にもう四日も取られてます」と三木谷さんが片目を瞑った笑顔で答える。
「普通、何日で一枚仕上げるんですか?」と三木谷さんのロボットの絵を見下ろして訊く。
「下絵があれば、二、三時間で一枚仕上げる事もあります」と三木谷さんが自分の絵を手にして眺めながら、平然と答える。
「へええ!凄い!物凄いパワフルですね!僕も今日から漫画を描きます」と俺が本物の芸術家に出会ったような喜びを顕わにして言う。
「僕も美大入って、ずっと漫画を描いていました」と三木谷さんが翳りのある眼差しで言う。
「今は?」
「ストーリーの閃きがなくって、漫画を描きたくても描けないんです。氏川さんはストーリーの閃きはあるんですか?」と三木谷さんか縋るような目で訊く。
「俺は古い時期のアイデアが一杯溜まっています。新しい事もたまに思いつきますけど」
「僕も古いあらすじはあるんですが、表現上自分には難し過ぎるんです。やっぱり漫画描き続けた方が良いですよね」と三木谷さんが不安げな声で言う。
「どういう漫画描かれるんですか?」
「僕は巨大ロボットものです。氏川さんは?」
「俺は人間ドラマです」
「僕は人間ドラマの面が描けないんですよ」と三木谷さんが顔を顰めて言う。
「俺はカルト映画的な感性で人間ドラマを描きたいんです」
「ああ、僕、リンチの『ブルー・ヴェルヴェッド』が好きです」と三木谷さんが控えめに眼を輝かせて言う。
「俺も好きです。でも、今後、病的な作品をどう見直すのかな」
「ああ、こう言うところに入りましたからね。リンチ的な病的な個性が演技に感じられますよね」と三木谷さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「あんな病的って感性は精神病にはありませんよね?」
「ないですね」と三木谷さんがあっさりとした口調で答える。
「でも、あの感性は精神病的ですよね?」
「まあ、イメージ上のね」と三木谷さんが困ったような顔で答える。
「漫画は細かいところを執拗に描き込むタイプですか?」
「台詞より絵の描き込みに燃えます」と三木谷さんが自信に満ちたはっきりとした口調で答える。
「ああ、良い感じだな」
「それってアシスタントに向いてると思いませんか?」と三木谷さんが自分を嘲るように確認する。
「ああ、なるほどね。でも、人物だけ描く漫画家になってもなあ」
「楽しみを全部独り占めしたら、アシスタントは雇えませんよ」と三木谷さんがプロを意識した発言をする。
「そうですよね」
「確かに一人で描いてる漫画家って、有名な漫画家にもいますけどね。そういう漫画家は代表作はドンとあっても、寡作ですよ」と見木谷さんが言い切る。
服に着替えて、病室から漫画道具一式を三木谷さんの席の近くに持ってくる。
「これだと精神病院漫研になりますね」
「そうですね」と三木谷さんが楽しげに言う。「いつかビッグになって、俺達のこの青春を懐かしく語り合おうぜ!」
「ああ、はい」と俺は笑いながら言い、「何か一風変わったトキワ荘みたいで良いですね」と言う。
「何か物凄くここで頑張りたくなってきたな」と三木谷さんがやる気満々の顔で言う。
「そうですね」
「それ、漫画の道具ですか?」と突然、背後から女の人の声が話しかける。
「ああ、びっくりしたあ!」
振り返ると真希ちゃんが笑顔で俺を見下ろし、「済みません」と謝る。女って幽霊みたいだな。顔が蒼褪めているのが自分でも判る。即真希ちゃんを赦せる程出来た人間ではない。今朝の真希ちゃんは白い長袖のブラウスにオレンジ色のミニ・スカートと白いストッキングを穿いている。
「音も立てずに後ろに立つね」
「済みません。氏川さんが何を持ってきたのかに全部興味が行っちゃいまして」と真希ちゃんが申し訳なさそうに言う。
真希ちゃんは本当に俺に夢中なんだな。胸がほんわかと温まる。
「これから病棟で漫画描こうかと思って、昨日、母に漫画道具一式持ってきてもらったんですよ。三木谷さんと精神病院漫研結成しました」
「へええ、楽しそう!あたし、『ファンタ・オレンジ』飲もうかな」と真希ちゃんは言って、冷蔵庫の方に歩いていく。俺を驚かせた罰として、後で三木谷さんのいないところでパンティーの色確認してやる。
夢の中でうっとりとキッスをする少年の絵を描き始める。人でなく、夢空間に犯される場面を描こう。
「それ夢ですか?」と真希ちゃんが俺の顔の右側近くで訊く。俺はまた驚き、「ああ、びっくりしたあ」と真希ちゃんの横顔に言う。
「はい」と真希ちゃんが飲みかけの『ファンタ・オレンジ』を俺の口許に差し出し、飲ませてくれる。ああ、美人の飲みかけの缶ジュース!幸せって、こういう事を言うんだな。
「美味しい!」
「全部飲んでも良いですよ。私は缶ジュースは丸々一本は飲めないんです」と真希ちゃんが笑顔で言う。
「俺はもういいよ」
「じゃあ、由里ちゃんに飲ませるか」と真希ちゃんは言って、由里ちゃんがいる喫煙所の方に歩いていく。よく考えてみると、俺が真希ちゃんのパンティーの色確認とか無理だな。幻想的なエロスの世界を漫画にしようか。
「三十二枚は少ないし、上下編の六十四枚は多過ぎるんですよね」と三木谷さんに話しかける。
「漫画の原稿が三十二枚って足りないんですか?」と三木谷さんが意外そうに言う。
「はい」
「僕には漫画の三十二枚って、結構多いんですよ」と三木谷さんが辛そうな顔をして言う。
「これまでに何作落選しましたか?」
「三作です」と三木谷さんが暗い顔で言う。
「俺、四作落ちました」
「僕、多分、プロになっても、ストーリーは書けませんよ」と三木谷さんが弱音を吐く。
「俺はコマ割りが下手なんです」
「ああ、ネイムですね。漫画連載はネイム段階が厳しいんですよ。プロでもネイムには相当な時間を割くらしいです」と三木谷さんが真剣に俺の目を見つめて話す。
「ネイムって、ノートに台詞とコマ割りとかやる奴ですか?」
「そうです」と三木谷さんが蔑むような目で答える。
「いきなり原稿にコマ割りしちゃいけないんですか?」
「それでも良いんですけど、コマ割りした後に直ぐにペン入れすると描き直しが厄介なんですよ。決まったプロセスを面倒臭がらずに通るべきです。建築なんかの手順と同じですよ。土台のしっかりとした建物でないと建築物として不安定でしょ」と三木谷さんが漫画の基礎を語る。
「ああ、そうですね。ネイムって、建築の土台に当たるのか」
「巨大ロボットものはストーリー性より、基本ロボットの動きが楽しいじゃないですか?」と三木谷さんが巨大ロボットものの漫画への愛を語る。
「ああ、はい」
「人間に対するロボットの質感が堪らなく良いんですよ」と三木谷さんがマニアックな事を楽しそうに話す。
「俺はロボットものは『ロボコン』とか『新造人間キャシャーン』が好きです」
「僕はダントツに『マジンガーZ』や『ガンダム』ですね」と三木谷さんが応戦するように自分の好きな漫画を挙げる。
「俺は『ワイルド・アット・ハート』とか『時計じかけのオレンジ』みたいな作品を大量に描きたいんです」
「ああ、ぶっとい短巻モノの漫画ですか!映画みたいでカッコいいでしょうね」と三木谷さんが単行本次元の発言をする。
「はい」
「ワイルド・アット・ハート」のネイムを完成させれば、コマ割りの問題は解決されるんじゃないですか?」と三木谷さんが提案する。
「ああ、良いアイデアですね。あれ、コミカライズはされてませんからね」
「僕は自分が生まれ変わる度に読む必読書に出会いたいんです」と三木谷さんが話題を変える。
「俺は前世でも読んだような本は一冊も読みたくないです」
「新しい人然としてますね」と三木谷さんが独自の宗教観で言う。
「この世は全くの新しい人の世界ですよ」
「本当にそう思いますか?」と三木谷さんが予想外な発想に出る。
「ええ」
「僕は毎回、童貞や結婚の問題にぶち当たったり、夢を追いかけたり、幻聴が生じては心の中が外に漏れなかった頃の世界を名残り惜しんだりしているんじゃないかと思ってるんです」と三木谷さんが進歩のない生まれ変わり説を語る。
「ああ、幻聴がなかった時期ですか・・・・。ええ!まだ心の中の言葉が外に漏れるって信じてるんですか?」
「勿論ですよ。それを否定したら間抜けじゃないですか」と三木谷さんが精神分裂病者が共通な経験として持つ事にかなりの自信を以て言う。
「いやっ、精神科医に確認してないんですか?」
「確認しましたよ。精神科医とか医療関係者って知らない人達だと思いませんか?」と三木谷さんが患者の優位を主張する。
「ああ、どうだろう・・・・。俺の心の中の言葉って聴こえますか?」
「いやあ、気にしてなかったんで聴こえていませんが、我々って心の中の言葉が外に漏れないように、心の中で自由に話す事を抑制していませんか?」と三木谷さんが俺に確認する。
「ああ、そうですね。確かに心の中でうっかり話さないようにする訓練みたいな事をしてきましたね」
「俺達って絶対道行く知らない人とかに、あなた、知らなかった人?とかテレバシーで話しかけて、あなた、童貞とか?処女?とか聴いて、セックス恐いなら、優しくクリトリスをくりくりして、ゆっくりと穴に入れて動かしてあげるよとか言わないじゃないですか?」と三木谷さんが早口に言う。
「ああ、はい、まあ」と俺は笑いながら返事をする。
「いやあ、あいつらみたいに聴こえない人に心の会話とか教えないですよね?」と三木谷さんが心の中の事が筒抜けの世界を人間界の実態として話す。
「俺は心の中の事が筒抜けなのは他人の中の憑依霊の世界だと思うようになり、精神科医にはそれを幻聴だと教わりました」
「何か神系の人間が動物の人間を苛めたり、動物の方の人想ってオナニーしたりすると、カルマで幻聴が聞こえてきて、動物の世界に落ちるらしいんですよ」と三木谷さんが怪しい情報源を曝す。
「人間を神系と動物に分けるんですか」
「精神科医とか医療関係者に幻聴の事訊いても、神系だから判らないんですよ。動物の世界に落ちると、心の中が筒抜けの、オナニーをセックスと区別しないような世界の人間に出会うじゃないですか?」と三木谷さんが当たり前の共通経験のように話す。
「三木谷さんは俺と同じような事経験しているのに解釈が違うんです」
「オナニー自体は元々神系の性文化らしいんですよ」とまた三木谷さんが独特な情報源からの情報を開示する。
「独特な解釈だな」
「神系で高卒とか中卒って言うのは大概精神科に来るらしいですよ。神系で資格取らずに働いてると、動物系の職場に入るんです。神系が動物とか虫に落ちると、牙のある猛獣とか毒のある生き物に生まれて、動物系が動物とか虫に落ちると比較的人間に従順な動物とか菜食系とか毒や鋏や針や牙のない生き物に生まれ変わるらしいんです」と三木谷さんが独自の世界観を示す。
らしいんですって、何の事だ。
「氏川さんは芸術芸能の夢系なんだから、資格を取ろうとしている人と同じですよ。芸能界は正に神系の楽園ですからね」と三木谷さんが自分の世界観で話し続ける。
「皇室の人って、本当に神なんですか?」
「ああ、あの方々は全くの神系ですよ」と三木谷さんが確信を以て言う。
「動物系って、具体的に言うと、どんな人達なんですか?」
「通り縋ったり、近くにいても姿の印象が薄い、何かこう見えないような、存在にも発言にもインパクトの薄いような人達ですよ。相当顔が良いのに異性にモテなかったり、人気とは無縁だったり、神系に対して屁みたいな生意気な発言をして、学校や社会でもゴツンと懲らしめられるような弱者です。神系は彼らの失言にカッときて、ゴツンとしちゃいけないんです」と三木谷さんが楽しげに話す。
「ああ、そういう事したなあ・・・・。学生時代は弱者と知性で平等に付き合う事をしなかった」
「神系で勉強や仕事を怠けると、相当重いカルマになって、来世は動物に落ちるらしいんです。神系の親は普通、動物を飼わせないのが特徴らしいです。神系が動物を飼うと、動物系と同じく幻聴が聞こえるようになるらしいんです。動物系の親の下に神系の子が生まれて、カルマで幻聴が聴こえてきて、苦しみを打ち明けたりすると、精神科に預けたまま面会や差し入れなしみたいな非情な仕打ちを受けるらしいんです。神系が動物に落ちてから動物系の人間に生まれ変わると、無学文盲みたいな知的障害者になるらしいです。そうやって知的障害者に生まれ変わった元神系の動物系を虐めると、精神障害を併せ持つ重複知的障害者に生まれ変わるらしいです。虫から人間に生まれ変わるには家畜に先ず生まれ変わり、動物から人間に生まれ変わるにはペットに生まれ変わらなければならないらしいです」
「あのっ、もういいです!そんなに聴いたら、頭がパンクします!」
「ああ、済みません!」と三木谷さんが慌てて謝る。
人の妄想世界を丸のみするなんて、俺も相当な御人好しだな。神系とか動物系とか、しっかりと頭に記憶しちゃったよ。
「三木谷さん、また差別の話!」と真希ちゃんが喫煙席の方から大声で三木谷さんを注意する。この人、皆にあの差別の話をするのか。漫画や絵画の方では付き合えるな。三木谷さんとは幾つか確認し合えたところもある。精神科医の頭にはこの手の患者達の妄想体系が丸々入るのか。精神科医って凄いな。自分の現実が混乱するような、自分の幻聴体験がないのか。一つの変わったジャンルの漫画を貪り読むような感じだな。外科医は毎日他者の体内の癌細胞を見ていても、発癌妄想で発狂する事はない。妄想性発癌ってあるのかな。
『僕、妄想性発癌!』と男の子の声の幻聴が言う。
嫌な病気だ。
『動物系は普通にこの世界にいるよ!』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
『動物系は皆、癌になるよ!』と三人目の男の子の幻聴が言う。
『動物系、癌で死ぬ!』と一人目の男の子の幻聴が興奮したように大声で言う。
『僕、動物系』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
『僕、神系!』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
これから三木谷さんの妄想差別体系を常に考える事になるのかな。
『あたし、妄想差別体系!』と悪に傾倒した女の子の声の幻聴が言う。
この幻聴に対応出来る頭脳が確立するのかな。不安や恐怖に押されてばかりで自分の心を護り切れないようではいけない。
『俺、三木谷さん?』と古田の声の幻聴が言う。
何で俺の内にある存在が俺の不安や恐怖を弄べるんだろう。不安や恐怖に怯えているのは俺ばかりだ。
『僕、悪魔だよ』と男の子の声の幻聴が言う。
『あたし、悪魔じゃない』と癒し系の少女の声の幻聴が言う。
『あたし、悪魔?』と小野さんの声の幻聴が訊く。
お前はトントンと少女の声の幻聴を名づけ、お前はオマンマと小野さんの声の幻聴に言う。
『あたし、トントン』と癒し系の少女の声の幻聴が楽しそうに言う。
『あたし、オマンマとかじゃない』と小野さんの声の幻聴が言う。
お前はオマンマ。
『この人、勝手にオマンマとか名前付けてる』と小野さんの声の幻聴が不良少女のような不満そうな口調で言う。じゃあ、お前はお色気だから、ポルノ。
『あたし、ポルノとかじゃない』と小野さんの声の幻聴が渾名を拒む。
じゃあ、お前は女優さん。
『あたし、女優さん』と小野さんの声の幻聴が嬉しそうに言う。
幻聴は幻声を自在に変えられるのか。複雑な聴き方を整理して、もっと聴き方を単純化しなければいけない。複雑な解釈に流されるままだと気疲れしてくる。段々と誰と特定出来る人物像からコミカルにキャラクタライズドされてくる。古田辺りの声の性格も原形を留めなくなってきた。何となく幻聴世界には、『ドクター・スランプ』のアラレちゃんの言葉のような幼児漫画の性格が入っている。霊と解するには余りに知能が低い。存在自体があやふやで、言葉の滓だとか、心の切れっ端とでも称すべき不必要さで存在している。人間との関わりがなければ自分では存在する理由すらないような曖昧な存在の仕方なのだ。
漫画の創作は閃きによる心の刺激もなく、図面を引くように決まった事を決まったように描くだけでは全然面白くない。もっと制作中に次々とアイデアが溢れてくるような楽しさがなくてはならない。
「朝のお薬でえす!」と女性看護師が病棟内患者に声をかける。もう薬の時間か。
「氏川さん、後で漫画読ませてください」と突然、真希ちゃんが俺の後ろから話しかける。
「ああ、びっくりしたあ!」
「氏川さんって幽霊を意識してませんか?」と真希ちゃんが俺の意識的な対象を良い当てる。
「ああ、はい、してます」
「あたしをしっかりと心に受け入れてください。そうすれば、何時話しかけてもびっくりしません」と真希ちゃんが真剣な眼で言う。
「ああ、そうですね」
真希ちゃんだって、突然背後から男に話しかけられたらびっくりするんじゃないの?真希ちゃん、男はいつも恋愛気分ではいられないんだよ。
真希ちゃんが俺の耳元で、「今日、院外外出してホテルに行こう」と囁く。
「うん、良いけど、お金がない」
「お金は私が持ってます」
朝食を載せた台車が病棟内に入ってくる。女性看護師が患者の名前を呼び、自分の名札が載ったトレイを受け取る。自分の席に着き、向かいの片瀬さんの顔を鑑賞する。真希ちゃんがいなければ、間違いなく片瀬さんに恋していたろう。片瀬さんは真希ちゃんより知的な顔つきをしている。真希ちゃんの自由奔放なヤリマン的な可愛さにはどうしても片瀬さんの方が劣って見える。真希ちゃんの顔の方が放っている光が圧倒的に強い。今朝の朝食はフレンチ・トーストとマッシュ・ポテトとアップル・パイと紙パックのオレンジ・ジュースだ。
『僕、オレンジ・ジュース!』と少年の声の幻聴が言う。
また始まった!今日は真希ちゃんとホテルに行くのだ。精神状態が乱れたなら、体が触れ合う事にも神経質になる。
『この人、ホテルに行く!』と悪に傾倒した少女の声の幻聴が言う。不安が一気に募り、鼻がツンと痛む。今朝の朝食は俺の好物ばかりだ。何とか完食したい。
人間と話していると幻聴が聴こえないため、「片瀬さんは一日何本煙草吸うんですか?」と人間界にしがみつくように片瀬さんに話しかける。恋人は必要だ。友達も必要だ。女友達も必要だ。家族も必要だ。精神科医や看護師も必要だ。必要な人全てを揃えてこの生き地獄を乗り越えよう。そのためにはもっと興味深く魅力的な人間にならなければいけない。
「あたし、一日二箱ぐらい吸うんです。ヘヴィー・スモーカーなんですよ」と片瀬さんがはっきりとした口調で言う。
「ああ、相当吸いますね」
「喫煙は精神不安を和らげる効果があるって、先生が言ってました」と片瀬さんが俺を気遣うような眼で言う。
「確かに煙草吸うと、気持ちが落ち着きますよね。しかし、痩せてますね」
「御菓子とか、間食を全くしないんです」と片瀬さんがそれとなく痩せている理由を打ち明ける。
「スレンダー美人ですね」
「そんな事言って、真希ちゃんが心配しますよ」と片瀬さんが険しい目付きで注意する。
「ああ、そうですね」と俺は反省し、フレンチ・トーストを味わい、オレンジ・ジュースをストローで飲む。「このアップル・パイ、絶対美味しい筈ですよ」
「あたしも多分美味しいだろうと期待してます」と片瀬さんが笑顔で言う。
「じゃあ、一寸食べてみますかね」
「じゃあ、あたしも」と片瀬さんがリズミカルに俺の行動に同調する。
「ううん、やっぱりサクサクですね」
「ああ、ほんとサクサク」と片瀬さんが万遍の笑顔を顔に浮かべて言う。
「中の林檎も甘くてプリンプリンしてますね」
「ああ、やっぱりアップル・パイ美味しい!」と片瀬さんが美味しい物を食べた感動を言葉にする。
片瀬さんの痩せ方は下手すると拒食症の女性のように胸が陥没し、肋骨が見えているような細さかもしれない。色白で肌艶が良く、頬骨はまだこけていない。ああ、真希ちゃんがこっちを見ている。俺は真希ちゃんに手を振る。真希ちゃんも笑顔で手を振り返す。
『アップル・パイ!』と癒し系の少女の声の幻聴が嬉しそうに言う。
『僕、オレンジ・ジュース飲むよ!』と男の子の声の幻聴が言う。
「氏川さんは退院後何されるんですか?」と片瀬さんが退院後の予定を訊く。俺は幻聴を聴いて、少し心がパニックになっている。
「デイ・ケアですかね」と何とか答える。
「精神病の人の道筋ですね」と片瀬さんが蔑むような目で言う。
「自分のやりたいように生きたいように生きようと思います。夢中になって何かに打ち込んだり、深く自分の人生を見つめたり、時には精神錯乱して寝込んだりしながら、一杯思い出作りをしたいです。楽しい時は楽しみます。必死に努力しなければ手に入らないものが欲しくなったら、それを獲得するために一生懸命努力します」
「氏川さんはパワフルですね。あたしも氏川さんの近くで生きていけるようにデイ・ケアに通おうかな。あっ、いけない!氏川さんは真希ちゃんの彼氏だった!」と片瀬さんが微妙な思いをそれとなく口にする。
こんなにモテた事ない!多くの人を引っ張っていく人生か。
「片瀬さん独りで生きてるんじゃないんですよ。皆と一緒に生きているんです」
「ああ、はい!そう言って戴けると心強いです」と片瀬さんが嬉しそうに言う。「あたしの事は由里で良いですよ。片瀬さんって言われると堅苦しくて」
「ああ、じゃあ、由里ちゃんって呼ばせてもらいます」
「はい」と由里ちゃんは言って、両の目元を指先で触れる。
皆、苦しいんだな。二股かけるような恋愛は一人の恋人をじっと見つめ続ける事が出来ない人の女遊びだ。
朝食を終え、トレイを片付ける。そのまま喫煙席に向かう。煙草は良いな。せめて煙草が買えるぐらいの収入を得ないと。今日は真希ちゃんとホテルでセックスするのか。楽しみだな。由里ちゃんで一発抜くかな。いいや、セックスで存分に発散しよう。真希ちゃんと子供を養うのか。妻子あれば、辛い苦しいからと働かない訳にもいかない。漫画家は寝こみたいような時に必死に締め切りに間に合うように仕事をしなければならない。結婚には相当な覚悟がいる。病室に入り、真希ちゃんとホテルに行くための体調を整えるためにベッドに寝転がる。ベッドに横になると、男の子の声の幻聴が同じ蒲団の中に急いで潜り込もうと焦りを見せ、嬉しそうにはしゃぐ。
『この人、セックスする!』と悪に傾倒した少女の声の幻聴が不満そうに言う。
『僕、セックスする!』と明るい男の子の声の幻聴が言う。
こいつらの方に意識が散ってはセックスに集中出来ない。
『あたし、真希ちゃんのところにいる!』と小野さんの声の幻聴が言う。何でその女が向こうにいるんだ。セックスって大勢の人の心が二人の心に集まって行うものなのか。
俺は赤茶けた気だるい夕焼け空を見上げて浜辺に横たわり、波打ち際の水音を聴いている。目には眠気が溜まり、体にはどんよりと重苦しい熱を籠もらせている。疲れていて、金縛りにでも遭ったように体の自由が利かない。一発抜きたい。カップルが近づいてくる。俺は俯せになり、カップルに気づかれないように下半身を砂浜に擦り付ける。さっさと手でしたい。真希ちゃんとのセックスを思い出す。男がさっさと射精したら、女性をセックスで満足させる事は出来ない。ゆっくりと腰を動かし、砂浜になった真希ちゃんの色っぽい声を聴く。俺は真希ちゃんの体を掘り出そうと、浜辺の砂を掘る。
「氏川さあん」と女性の声が寝ている俺を呼ぶ。
俺は目覚めて、「はい」と女性に返事をする。病室の入口に真希ちゃんが立っている。何で意味もなく寝ている人間を起こすんだ!いや、今日は真希ちゃんと二人でホテルに行くんだった。
「外出の用意してください」と真希ちゃんがご機嫌な口調で言う。
「ああ、今直ぐ用意します。済みません。一寸不安があったんで寝込んでいました」
「焦らず、ゆっくりで良いですよ」と真希ちゃんが落ち着き払った態度で言う。
「ああ、はい」
お金は真希ちゃんが持ってるんだな。俺も一応財布は持っていくか。他に必要な物はあるか。こんな用意でホテルに入れるのか。
「必要な物って、何ですかね?」
「お金は私が持ってるので、着ていく服を決めるだけです」と真希ちゃんがリードする。
「ああ、じゃあ、もう行けます」
俺は真希ちゃんのいる病棟の入口に向かう。真希ちゃんが先に勤務室の方に歩いていく。
「氏川さん、今日から同伴院外外出なので、私が同伴します」と若い女性看護師に真希ちゃんが言う。
「ああ、じゃあ、気をつけて出かけてくださいね」と看護師が明るい笑顔で言う。
「はい」と真希ちゃんが明るい声で返事をする。真希ちゃんは俺の方に振り返り、「行きましょう!」と言う。看護師が病棟の出入り口のガラス張りの扉の鍵を開ける。俺と真希ちゃんが出入り口から外に出る。真希ちゃんがエレヴェイターのボタンを押す。真希ちゃんと俺はエレヴェイターを待つ。
「ホテル行くのはバレてないですね」と真希ちゃんが首を竦め、悪戯っぽい目で言う。真希ちゃんが俺と腕を組む。ああ!これは恋人同士のやる事だ!俺は真希ちゃんの手を握る。
「男の人と手を繋いで歩くの初めてです」と真希ちゃんが初々しい感動を以て言う。
「もうする事はしましたけどね」と俺は笑いながら言う。
「そうですよね」と真希ちゃんも笑いながら言う。
俺と真希ちゃんは上がってきたエレヴェイターに乗る。
「この近くに旅館があるんです」と真希ちゃんが近辺の話をする。
俺は真希ちゃんのお尻に触れる。とても弾力があって柔らかい。俺は真希ちゃんの唇にキッスをする。この檸檬の香水には頭がクラクラしてくる。中学高校とこの匂いのする女の子達に必ず性欲を掻き立ててきた。俺は真希ちゃんの胸を揉む。エレヴェイターの扉が開く。俺はさっと真希ちゃんの唇から口を離す。エレヴェイターから出て、病棟の建物を出る。俺は真希ちゃんとバス通りを手を繋いで歩く。
バス通りから少し奥まったところに進むと、「ここです」と真希ちゃんが建物を指指して言う。真希ちゃんは先頭を切って旅館に入っていく。俺は真希ちゃんの後から旅館に入る。
「お泊りですか?休憩ですか?」と受付のおばさんが訊く。
「三時間ぐらいいるのは休憩ですか?」と真希ちゃんがおばさんに質問する。
「休憩です」とおばさんは品のある笑みを顔に浮かべて答える。
「ああ、じゃあ、休憩です」と真希ちゃんが積極的に手続きをする。
「只今お部屋に御案内致します」とおばさんが手で方向を案内して言う。旅館の内部は意外と静かで清潔な印象を受ける。おばさんは一階の廊下の奥の部屋のドアを開け、部屋に入っていく。我々もその後から部屋に入る。
「お飲み物はこの冷蔵庫に入っています。何か御用が御有りでしたら、枕元の電話でお呼びください。それでは失礼致します。ごゆっくり」とおばさんは言って、部屋を去っていく。真希ちゃんは部屋の様子を興味深げに見回し、ベッドの脇に腰かける。俺もその右隣に腰かける。
「あたし、シャワー浴びようかな」と真希ちゃんがベッドから立ち上がって言う。
「一緒に浴びようか?」と俺が真希ちゃんの肩に手を回して言う。
「ああ、はい」と真希ちゃんが恥ずかしそうな顔で言う。
自然とチンコが立ってくる。チンコが女性の前で勃起する時は隠したいものだった。チンコにしっかりとした役割りが出来ると、勃起したところを誇示したくなる。脱衣所に入ると、俺は真希ちゃんのお腹にチンコを当てるように真希ちゃんを抱き締める。俺は真希ちゃんのブラウスのボタンを一つ一つ外し、真希ちゃんの黒いブラジャーの上から胸を掴む。真希ちゃんのオレンジ色のミニ・スカートを捲くり、白いストッキングの下の黒いパンティーを眺め、割れ目を手探りする。真希ちゃんが小さく色っぽい声を漏らす。真希ちゃんが白いストッキングを脱ぐ最中に胸元を見下ろす。ぼうっと見下ろすばかりの自分に気付き、ふと我に返ると、ブラック・ジーンズと白い襟付きシャツを脱ぐ。モノが勃起した赤いビキニ・パンツだけの姿になる。真希ちゃんがレースの黒いブラジャーと黒いパンティーを脱ぐ。真希ちゃんの白い肌に見蕩れる。本当に綺麗な人だ!
「氏川さんの下着姿セクシーね」と真希ちゃんが俺の下着を見下ろして言う。俺は下着を脱ぎ、「じゃ、シャワー浴びよ!」と素っ裸の姿で言う。脱衣所は黒味がかった落ち着いた木造の壁に囲まれ、洗面所も床も非常に綺麗だ。俺は浴室に入り、シャワーの湯加減を調節する。真希ちゃんが背後から抱き付いてくる。背中に真希ちゃんの乳首の感触が伝わる。シャワーの湯を浴びながら、真希ちゃんの両肩に素手で触れる。俺は真希ちゃんの胸を揉みながら、真希ちゃんの額や頬や首筋に唇を這わす。俺は真希ちゃんの耳元に顔を近付け、「好きだよ」と囁く。俺は真希ちゃんの股の間に右手で触れ、真希ちゃんのシャワーの湯に濡れた陰毛の感触に性欲を掻き立てられる。真希ちゃんがシャワーの湯の中で目を開けたまま、「入れて」と可愛らしい声で言う。俺は真希ちゃんの右足を左手で抱え、真希ちゃんの股の間の穴の位置を手探りする。何とかモノを温かい穴の中に挿入し、立ったまま突き上げるように腰を動かす。真希ちゃんの漏らす乱れた声に刺激され、モノが太く長く硬くなる。モノと自分との一体感が心底自分の存在を男らしく感じさせる。
「もっと中できゅっと閉めつけられない?」
「こう?」
「そうそう。もっときゅっと強く」
「こう?」
「うん、そう」
モノを外してしゃがみ込み、好きなだけ真希ちゃんの割れ目を嘗める。
「ここ」と真希ちゃんが指で示す。何があるのかと指先で探る。
「これが何?」
「クリトリス」
「へええ、これがクリトリスか!」
「触れられると気持ちが良いの。でも、優しくしてね」
「うん」
真希ちゃんの気持ちの良さそうな声を聞きながら、何か女体の物凄い秘密を教えられたような満足感を覚える。クリトリスを指先や舌で念入りに刺激し、真希ちゃんの色っぽく乱れた声を楽しむ。俺は立ち上がり、「ベッドの方に行こう」と真希ちゃんに言うと、真希ちゃんの手を引いて浴室を出る。真希ちゃんの体をタオルでよく拭いてやる。
「あたしも拭いてあげる」と真希ちゃんは言って、俺のモノを念入りに拭う。他は全く拭いてくれない。俺は真希ちゃんの体を拭いたタオルで自分の体を拭く。女の肌を拭いたタオルで自分の体を拭く事を物凄く穢れた事のように思う。真希ちゃんは俺のそそり立つペニスをじっと見下ろしている。俺は真希ちゃんの体を両手に抱え、真希ちゃんの頭や脚が壁に当たらないように気をつけながら、ベッドの上に真希ちゃんの体をそっと降ろす。ベッドに静かに横たわる真希ちゃんの美しい白い体を見下ろし、またあの乱れた色っぽい声が聴きたくなる。
「早く来て」と真希ちゃんが潤んだ目で甘えるように手を伸ばして言う。
俺は真希ちゃんが膝を折って横たわる両足の間に膝を突く。真希ちゃんの股の穴が大きく赤く口を開いている。俺は真希ちゃんの合わさった両膝を両手で開き、割れ目に顔を近づけ、アダルト・ヴィデオ男優のように熱心に嘗める。真希ちゃんが静かにされるがままの快感に浸っている。真希ちゃんの割れ目を嘗めながら、真希ちゃんが色っぽい声を漏らすのを聴いている。俺は真希ちゃんの体の上に乗り、真希ちゃんの唇を貪る。
「また入れて」と真希ちゃんが催促する。俺は左手をベッドの上に突き、右手でモノを真希ちゃんの穴に入れる。俺は腰を振りながら、真希ちゃんの柔らかい太腿の付け根や脹脛に手で触れる。
「もっと中で動かしてくれる?ゆっくりでも良いの」と真希ちゃんがうっとりとした目で言う。その目が妙に色っぽい。
「中で動いてない?」
「動いてない。出し入れみたいな動きが気持ち良いの」と真希ちゃんが注文を付ける。
「なるほど。穴の中で棒が大きく前後に動く感じが良いんだな」
「ああ、気持ち良い!気持ち良い!」と真希ちゃんが官能的な声を上げる。
正確なピストン運動がこれ程までに真希ちゃんに性的な喜びを与えるのか。これなら独り善がりなペニスへの刺激以上に、セックスにおける男の役割りが得られる。
セックスをし終えた俺と真希ちゃんがベッドの上で並んで横たわっている。俺はセックスをし終えた後の憧れの一服に浸る。
「ねえ、氏川さん、もう死にませんか?こんな病気抱えて生きる人生には何の価値もありませんよ。死んでもおかしくない程苦しくないですか?」と真希ちゃんが言う。
「俺は今生に何が何でも果たしたい夢があるんです。精神分裂病の諸症状は確かに辛いです。でも、自分の全人生が辛いだけの人生ばかりだとは思いません」
「あたし、本当に辛いんです」と真希ちゃんは言って、体を俯せに反転させて枕に顔を埋める。真希ちゃんは涙声で、「こんなの辛過ぎますよ。あたし、こんな辛い苦しみに無感覚にはなれません!」と泣き叫ぶ。俺は真希ちゃんの嘆きに自分の判断が本当に鈍っていた事に気づかされる。
「いやあ、本当にそうだね。確かに辛過ぎるよ。俺、自分独り生にしがみつくのに必死で、この苦しみとまともに向き合った事がなかった。真希ちゃんの判断は正しいよ。ほんと、異常な苦しみだよ」
「そろそろここ出ましょう。確実に死ねるところを見つけたんです。あそこからなら氏川さんも楽に死ねます」と真希ちゃんが俺の顔をまじまじと見て言う。
俺と真希ちゃんは服を着て部屋を出る。真希ちゃんは速やかに会計でお金を支払う。二人揃って旅館を出ると、俺は眩しい陽射しに目を細める。
俺と真希ちゃんは近くの八階建てのコンドミニアムのエレヴェイターに乗り、八階で降りる。八階の廊下には何者にも冒されぬ温かい家庭の安らぎが漂っている。俺はこの廊下にしばらく留まり、しっかりと自分の気持ちを確認したい。真希ちゃんはそんな俺に構わず非常階段の扉を開ける。真希ちゃんは我先にと階段を上がっていく。俺も急いでその後ろから階段を一段一段上っていく。今なら引き返せる。俺の死ぬ決意を固めてくれた真希ちゃんの意思の強さを思う。屋上のドアーには鍵がかかっていない。屋根のない屋上に出ると、強い風が全身に吹きつける。俺は旅館を出た時の強い陽射しを思い出す。全身に吹きつける強い風に疲れた心を直に触れさせたい。真希ちゃんは高いフェンスを攀じ登る。俺もフェンスを攀じ登る。俺と真希ちゃんはコンドミニアムの屋上の淵の段の上から蟻のように小さな路傍の人々を見下ろす。
「皆、活き活きと楽しそうに生きてますね」と真希ちゃんが冷静に人間観察をして言う。
「そうだね。病気がない人は良いね」
「何か私に伝えておきたい事はありませんか?」と真希ちゃんが俺のハートに迫るようにして訊く。
「いやあ、真希ちゃんは本当に死ぬ気あるの?」
「もうこれで全てお終いにしましょ。肩の力を抜いて、自分の中のクタクタになった心を解放しましょうよ。まだ死にたくありませんか?ここで死ぬ機会を逃したら、また幻聴の嵐に苛められますよ」
「そうだね。馬鹿みたいな事と闘ってるよね。幻聴に優しさや気遣いの心なんてないもんね。小学校や中学の時に人を苛めた業の報いかな」
「じゃあ、行きますよ。せえので一緒に飛び降りるんです。良いですね?」
「ああ、うん」
俺は迷いを振り払い、飛び降りる決意を固める。
「せえの!はい!」
俺は右足を前に出す。真希ちゃんの気配に合わせて飛び降りようとしたら、誰かの手が俺の右肘を力づくで引っ張る。俺はよろめいて段の後ろに尻餅を突く。俺の前に真希ちゃんの姿はない。俺は慌てて両膝を突いて段の上に覆い被さり、飛び降りた真希ちゃんの姿を遥か下の路上に探す。下の道路上に頭から血を流した真希ちゃんが倒れている。幾ら見下ろしていても真希ちゃんが動く気配はない。
俺は泣きながら、「真希ちゃん、俺、ダメだよ。俺、やっぱり死ねないよ。ゴメン」と真希ちゃんの霊に謝る。
俺は何かに引っ張られた右肘を左手で掴み、周囲を見回す。俺の右肘を掴んだ人の手の感触を思い出す。周囲を見回しても、屋上には俺の肘を引っ張った者など誰もいない。俺は先まで死のうとしていた自分の視界の暗さを思い返す。先とは別世界のように視界が明るい。俺はこんな病苦から逃れるために自殺を選ぶような人間ではない。何故、その事を自信を持って真希ちゃんに言ってやれなかったのか。俺はもう一度路上に倒れる真希ちゃんを見下ろす。俺はフェンスを攀じ登り、非常階段を全速力で駆け下りる。俺は非常階段を駆け下りながら、大急ぎで生に引き返そうと幾重もの異次元のカーテンを通り抜ける。俺は一階に辿り着くまでに必死になって現実の今に達する努力をする。一階の地に右足から下り立つと、何か背中から不快な暗いエナジーがふわりと抜け出る。俺は非常階段の扉を開け、人だかりを掻き分けて前に進む。血だらけの真希ちゃんの死体の頭から脳が飛び出している。俺は俯せに横たわった真希ちゃんの傍に跪き、真希ちゃんの左手を両手で握り締める。俺は眼前に浮かぶ光の中の真希ちゃんを見つめ、頻りに言葉で何かを伝えようと努める。真希ちゃんへの言葉が思うように出てこない。
誰かが温かい手で俺の肩を叩く。俺ははっとして我に返る。俺は自殺現場で警察官に事情聴取され、精神科に入院中の精神分裂病患者だと言うと、パトカーで警察病院に連行される。俺は殺人の疑いをかけられ、警察病院の方で無罪を主張する。俺は真希ちゃんとの心中未遂を訴え、殺人容疑が無事晴れる。夕方、パトロール・カーで元の大学病院に移送される。
病棟に帰ってきた俺は病室のベッドに横たわる。光の中の真希ちゃんの事を必死で思い出そうとする。ここは既に何重もの幕であの世と区別されている。自殺を想った苦しみを思い返す。俺は真希ちゃんと伝え合った事を全く憶えていない。悲しみに暮れていると、再び幻聴がちらほら聞こえてくる。幻聴などすっかり忘れていた。子供の幻声を可愛らしいと思ったら、また幻聴に険悪な感情が見え隠れし始める。こいつらと和やかに過ごすのは無理なのかもしれない。私との存在の距離感が非常に不鮮明なのだ。もっと突き放して捉えるべきなのか。もう幻聴の感情が乱れている。煙草を吸ってないな。まっ、良い気分転換だ。煙草を吸いに行くか。病室を出て、喫煙席に向かう。由里ちゃんがいる。由里ちゃんの向かいの壁側の手前の席に腰を下ろす。由里ちゃんは俺から視線を逸らすように俯いている。世界から真希ちゃん一人がいなくなると、こんなにも人間関係が希薄になるのか。TVで霊能者が、自殺をすると生まれ変わった人生がもっと辛くなると言っていた。真希ちゃんは俺よりうんと苦しんでいた。俺と同じ病名でも、俺と同じ苦しみとは言えない。
「あのう、氏川さん」と由里ちゃんが顔を強張らせて俺に話しかけ
る。
「ああ、はい」
「ええと、何て言ったら良いのかな」と由里ちゃんが考え込むように言う。
「お互い失ったものは大きいです」
「はい」と由里ちゃんは泣き出しそうな顔で返事をし、自分の両手で顔を覆う。「あたし、氏川さんを慰めようと思ったのに・・・・」と由里ちゃんが泣き声で言う。
「由里ちゃん、心配してくれてありがとうね」
真希ちゃんはもういない。死を選んで楽になったのだ。自殺すると、天国に行けず、この世を彷徨う事になるのか。あの転落した場所に地縛するのか。真希ちゃんは屋上から地面に転落して痛い思いをしたのか。
『真希ちゃん、いるよ』と男の子の声の幻聴が言う。
恐ろしい!真希ちゃんの霊は怨念霊と化して俺に取り憑くのか。幻聴は心の耳が捉えるままに当たり前のように聞こえてくる。幻声が聴こえてくるのは俺の意識のアンテナが幻聴に合っているせいなのか。確かにこんなアンテナは幻声が聞こえてくる以前にはなかった。何か特殊な感覚が捉えている声なのか。自分にある特殊な感覚が初めて対象を得たのか。聞かないようにすれば聴こえなくなるのか。真希ちゃんを恐怖や不安の対象にしたくない。最早、真希ちゃんをオナペットにする事もない。生き残った俺には新しい恋人が出来るのか。真希ちゃんの霊は嫉妬するのだろうか。一度は死ぬ覚悟をした人生だ。俺は尚たった一人で生きていく。真希ちゃんは俺の生きる力を断ち切って道連れにしようとした。本当に俺の事を愛していたのか。由里ちゃんが喫煙所の席から立つ。後ろを振り向くと、三木谷さんが絵の道具を食堂のテーブルに置き、食堂の席に座る。静かに瞑想に耽りたい。俺はデイ・ルームの絨毯の上に腰を下ろし、胡坐を掻いて真我を瞑想する。
『この人、お坊さん』と悪に傾倒した少女の声の幻聴が言う。
俺の前世はイエス様とお釈迦様だ。
『この人、お釈迦様!』と少年の声の幻聴が叫ぶ。
『この人、イエス様』と小野さんの声の幻聴が陽気な声で言う。
いきなり深い瞑想状態に初めから入れる筈がない。毎日、瞑想を試み、集中力を身に付けねばならない。十年、いいや、二十年経っても神我が表われるのを求め続けねばならない。普通の人の人生では経験されない事を沢山経験したい。人間はこの世に生まれては何事かの仕事を果たして他界する。そんな事の繰り返しでは十分ではない。神我顕現の遥かなる夢へと踏み出さねばならない。
『僕、いるよ』と少年の声の幻聴が言う。
『あたし、後ろにいるよ』と後頭部にへばりついた悪に傾倒した少女の声が言う。
俺はぞっとして目を開ける。俺は瞑想を中断し、病室に入って、ベッドに横たわる。ベッドに横になると子供の声の幻聴達が同じベッドに慌しく潜り込もうと、『ここだ。ここだ』と言いながら、嬉しそうにはしゃぐ。
幻聴とは本当に霊に似ている。三木谷さんは幻聴をテレパシーと称していた。精神科医は人と共有出来ない知覚領域を幻と見做す。もしも、幻聴が俺の霊感による特殊な知覚領域にある存在ならば、精神安定剤に頼る俺は霊の声を聴く特殊能力を病気と見做した事になる。果たして精神安定剤で幻聴が消えるのか。
俺は腰を下ろし、眼前の大きな岩と向き合っている。枯れた大地の砂を岩に投げつける。何日も人の温もりのない荒野を歩いてきた。真希ちゃんはもういない。俺はこの大地から離れて生きる事は出来ない。真希ちゃんのいない悲しみが募り、涙が溢れる。声を出して泣こうとしても、声が思うように出ない。力を籠めて声を絞り出す。ほんの少し声を出したら、漸くベッドの上で目覚める。また煙草でも吸いに行くか。
『煙草だ!』と少年の声の幻聴が楽しそうに言う。何処か遠くにいる少年のテレパシーの声なのか。完全にこっちの環境を意識した言葉だ。俺の目を通して見ている別空間を楽しんでいるのか。単純に俺の体に憑依している霊なのか。
『僕、心』と小さい男の子の声の幻聴が言う。
心霊?小さい男の子の声の幻聴の返事がない。心って、俺だって心だ。俺以外の心か。俺以外の心ならば、心霊だろう。精神分裂病・・・・。俺の心から分離した心なのか。意識的に対象化した自分でもない。客観的に自分を見つめるのとも違う。幻聴が話す事を事前に予測する事も出来ない。俺の思考は純粋に俺の思考だ。心理的な言葉の面は彼らが同時に話し、結論は必ず自分が出している。その結論が彼らの意思を同時に表わしている面もある。英語のハートは心臓の他に心の奥を意味する。彼らの慌てふためく心の動きは俺の心の乱れとなる。俺の不安や恐怖は常に抑制している。幻聴から意識を逸らそうとすると、テレパシー空間を共有する重要な軸を失うかのように幻聴が動揺する。幻聴は明らかに体内から生じている。幻聴により俺の存在が見えない殻で蔽われるように感じると妙な不安を感じる。
誰もいない喫煙席に腰を下ろす。
「氏川さん!」と遠くの方から若い女性看護師が声をかける。
「ああ、はい」
「夕御飯食べられますか?眠っていらしたので起こさなかったんです」と看護師が夕食の載ったトレイを持って、笑顔で訊く。
「ああ、食べます。煙草を先に吸わせてください」
「では、こちらの食堂の席に置いておきますね」と看護師がトレイを食堂のテーブルに置いて言う。
「ああ、はい。ありがとうございます」
正直な気持ち、死者の霊との関わりは不安だ。真希ちゃんは俺を巻き添えにして死のうとした。俺の生きようとする気力を折ろうとした。そういう人の霊が死後善的な影響を与えるとは思えない。眩暈がする・・・・。
「氏川さん、大丈夫ですか?」と女性の声が俺を起こす。
目を開けても言葉が思うように出てこない。視界も何となく暗い。頭の中が暗い。俺、死ぬのかな。
「氏川さん、私の声が聞こえますか?聞こえたら、返事をしてください」と女性の声が言う。
はい。はい!声が出ない。
「口は動かしてるわね」と女性の声が言う。
男性看護師がしゃがんだ若い女性看護師の頭上から顔を出す。綺麗な眼をした男だな。
俺はゆっくりと目を開ける。ベッドの上か。若い女性看護師が点滴の用意をしている。部屋の中は眩しいくらい明るい。
俺はゆっくりと目を開ける。もう消灯後の深夜か。頭が疲れている。真希ちゃんの霊を思うと恐い。真希ちゃん、一緒に死ねなくてごめんね。閉じた瞼から涙が溢れる。真希ちゃん、俺を恨まないでね。今は真希ちゃんの事を冷静な広い心で考えられない。俺、幽霊とか恐いんだ。映画『ゴースト』とか、前は素敵な映画だと思っていたけれど、今はそういう気持ちにはなれない。ごめんね。部屋の人達の幸せそうな寝息が聞こえる。霊は見えない。そんなものは見たくもない。煙草を吸いたいな。起き上がれるかな。ああ、大丈夫だ。俺はベッドから下り、煙草を持って病室を出る。デイ・ルームの電気は消えている。喫煙所におじさんがいる。眩暈は起きない。奥の壁側の喫煙席に座る。キャスターを一本口に銜え、煙草の先端に火を点ける。俺は煙草を吸い始める。真希ちゃんは煙草を吸わずに人生を終えた。新しい試みをした者が生き延びるのか。物事には常に積極的でありたい。背筋に寒気が奔る。南無釈迦牟尼仏!精神病院の中は何か嫌な気配がする。向かいの席のおじさんは俯いた憂鬱そうな顔で静かに煙草を吸っている。真っ暗なデイルームに由里ちゃんが入ってくる。真希ちゃんとはこんな喫煙所の直ぐ隣の絨毯の上でセックスしたんだな。死者の霊とセックスをしたような記憶ではない。由里ちゃんが黙っておじさんの隣の席に腰を下ろす。真希ちゃんの霊に嫉妬されたくない。俺は立て続けに三服吸って煙を吐き出し、由里ちゃんと話すのを避けて、席を立つ。冷蔵庫から冷たいコーラを出し、ソファーに腰を下ろす。コーラの栓を開け、冷たいコーラを飲む。炭酸が口の中で爽やかに泡立つ。ああ、甘くて美味しい!若い女性看護師が勤務室から出てくる。
「氏川さん、お腹空いてませんか?宜しかったら、夕御飯取っておいてありますから召し上がりませんか?」と若い女性看護師が明るい声で訊く。
「ああ、はい。食べます」
「今、レンジで温めますので、しばらくお待ちください」と看護師が嬉しそうに言う。
「ああ、ありがとうございます」
若い女性看護師が勤務室に入る。由里ちゃんが俺から視線を逸らし、黙って女性の部屋側の廊下の方に歩いていく。あの時、俺の右手を掴んだ手!あの手はきっと神様の手だろう。
俺が座っているソファーの前のテーブルにトレイに載った夕食が運ばれてくる。今夜はクリームシチューと白米とレタスのサラダとオレンジ・ジュースだ。幻聴は子供の声が小さく囁いている。ゆったりと楽しんで食事が出来る幸せを全く失ってしまった。俺はクリームシチューをスプーンで飲む。涙が出てくる。悲しみが募り、声を押し殺して泣く。夕食が美味しい。真希ちゃん、一緒に死ねなくてゴメンね!本当に死にたかったのは真希ちゃんだけだったんだよ。どうか俺の気持ちを理解してね。俺は裏切ったんじゃない。死にたくなかったんだよ。俺はこれからどんなに病気に苦しもうと長生きしたいんだよ。俺が遅い夕食を食べ終えると、「綺麗に食べ終えましたね。それじゃあ、食器をお下げします」と女性看護師が言って、トレイを持ち去る。
先程の女性看護師がデイ・ルームに戻ってきて、「氏川さん、寝る前のお薬を飲んでください」と言う。
「ああ、はい。今、カップに水入れてきます」
俺は病室に戻り、カップに水を汲むと、デイ・ルームに引き返す。若い女性看護師が俺の口の中に睡眠薬を入れる。俺は病室で歯磨きを済まし、寝巻きに着替えてベッドに横になる。ベッドに横になると、子供の声の幻聴が嬉しそうにはしゃぐ。ここでどれだけ人生の遅れを取るのか。明日からは毎日漫画を描いて過ごそう。病室の仲間はもう皆寝ている。俺にも守護霊はいるのか。あの時、飛び降りようとする俺の右肘を力付くで後ろに引っ張ったのは守護霊なのか。
チンコが疼き、自然に勃起してくる。俺は由里ちゃんを想ってチンコを扱き、機械的な速さで性欲を処理する。自慰行為はもっと本当のセックスのように自分に可能なピストン運動の速さでモノを扱くべきなのか。オナニーは愛の宇宙を形成する。世の中には不特定多数の女性とセックスをする男もいる。不特定多数の男性とセックスをする女もいる。ゲイやヴァイセクシャルも存在する。俺を想ってオナニーをするゲイもいるのか。流石に真希ちゃんでオナニーをする気にはなれない。
多摩川の土手に腰を下ろし、河原で凧を上げている子供達を見下ろしている。凧は対岸の上空辺りを飛んでいる。凧に描かれた浮世絵の歌舞伎役者の顔がくるくると回転している。肺が苦しい。咳払いをする。息が詰まる。深呼吸が出来ない。息を吐くばかりで酸欠状態になっている。息を吸い込んでも、肺に穴が開いたように酸素が溜まらない。体が金縛りに遭ったように動かない。ゆっくりと心を解きほぐし、勢いよくベッドから半身を起こす。
もう朝か。蒼白い窓外から朝日が射し込んでいる。苦しかった。俺はベッドから下り、デイ・ルームにジュースを飲みに行く。三木谷さんが既に起きていて、食堂のテーブルで絵を描いている。
「三木谷さん、おはようございます」
「ああ、氏川さん、おはようございます」と三木谷さんが笑顔で挨拶する。
「その山の風景画、想像力だけで描いたんですか?」
「実際に田舎で見た記憶にも助けられてます」と三木谷さんが自分の絵に見入りながら言う。
「絶景の風景画って、想像力だけで簡単に描いた絵ではリアルじゃないんですかね?」
「ううん、何の描き込みが絵画のリアリティーに繋がるのかは判りません。電線を描くから山の大きさが迫ってくるとか、空き缶が浮いているから川の水が表現出来るとか、実際にリアリティーを出す取り組みをして描かないと判らない事ですからね」と三木谷さんが絵画について語る。
「なるほどね」
俺は冷蔵庫から『ファンタ・グレープ』を出す。
「確かに漫画の背景では全くの写実性を重視する人が多いですね」
「漫画ねえ。僕はどっちかって言うと、ストーリー作りや人物描写より、細かい背景屋さんしかやっていけないのかなって思ってるんです」と三木谷さんが漫画家になる事への諦めを語る。
「その三木谷さんの諦めとか挫折感みたいな口調が悲しいんですよ」
「だって、実際に才能がそこまでなら、そう言う風に言うしかないじゃないですか」と三木谷さんが平然と言う。
「ううん、まあ、そうだ」
俺は冷たい『ファンタ・グレープ』を飲む。何かこの人は悲しいな。俺は『ファンタ・グレープ』を飲み干し、着替えと歯磨きと洗面と髭剃りをしに病室に戻る。
朝の支度が済むと、漫画道具一式を持って、再びデイ・ルームに向かう。食堂のテーブルに漫画道具一式を置き、椅子に腰かける。
「それ、どんな内容の漫画なんですか?」と三木谷さんが俺に訊く。
「昭和の下町を舞台にした妖怪モノです」
「トタン屋根とか、金物屋とか、乾物屋とか、昭和の下町の細かい風景描写を入れるんですか?」と三木谷さんが興味津々と訊く。
「はい」
「面白そうですね」と三木谷さんが羨ましそうに言う。
「三木谷さんも精神病院慢研らしく漫画描いてくださいよ」
「会話のない漫画描こうかな」と三木谷さんが想い付きを口にする。
「会話って本来、非日常的な出来事ですよね」
「確かに会話に飢えるような現実は余り漫画には表現されていませんね」と三木谷さんが考え込むように言う。
「会話は本来、日常に癒しを齎します。会話のない漫画って、アートで、ストイックで、なかなか良いですよ」
「会話文とか、ストーリー作りは苦手なんでね」と三木谷さんが顔を顰めて言う。
既成の漫画に縛られず、自由で新しい漫画を描かなければいけない。俺も会話のない漫画を描いてみようか。
「氏川さん、また真希ちゃんの事考えてるんでしょ?」と三木谷さんが俺に確信に満ちた真剣な眼差しで訊く。
「いえいえ、漫画の事を考えてたんです」
「そうですか。それならそれで良いんです。霊に引っ張られないように気を付けてくださいよ」と三木谷さんが俺に注意する。
幻聴を想うと、心の中で自由に考え、主張する事に、相当な緊張感が付き纏う。たまたま今、幻聴が聴こえないって事もある。問題をはっきりさせるのに十分な精神力がない。今、はっきりさせておかなければ、問題は繰り越される。三木谷さんがこちらの顔を一瞥する。
「あのう、三木谷さんは人の心の中の言葉って聴こえますか?」
「時々聴こえます」と三木谷さんがはっきりと答える。
「自分ばっかり心の中の事が人に筒抜けなんですかね?」
「じゃあ、人の心の中の声を聴こうとした事ありますか?」と三木谷さんが真剣な眼差しで訊き返す。
「ないです」
「聴こうとしないから聴こえないって言うのは違うでしょうね」と三木谷さんが真剣な目で話す。
「何時から聴こえる常識に目覚めたんですか?」と俺は三木谷さんの過去を探る。
「テレパシーをキャッチしてからかな」と三木谷さんか首を傾げ、顰めっ面をして答える。
「何歳からテレパシーが聴こえ始めたんですか?」
「二十一歳の頃かな」と三木谷さんが口を歪めて答える。
「テレパシーが聴こえて、人の心の中の声も聴こえるようになったんですか?」
「テレパシーと人の心の中の声ははっきりと違います。人の心の中の声の残響が幻聴なんです」と三木谷さんが眼に自信を湛えて答える。
「へええ。俺の幻聴解釈と違うな。俺は幻聴を霊の声かなあと思ってるんです。俺の体内で共存してる霊が大気中に放つ心の声が幻聴なんだと思うんです」
三木谷さんは眉間に皺を寄せ、真剣な口調で、「それは憑依ですね。単に霊の声が聴こえるならば、それは霊感により聴こえているだけだと思います。霊感により聴こえている声ならば、話しかけるなと厳しく言うべきだし、憑依している霊ならば、きちんと追い出すべきです。霊も元々人間ならば、人に憑依して居座り続けるのは良心の痛みを覚えると思うんです」と言う。
「精神異常者のように居座るんです」と俺は三木谷さんに自分の苦悩を打ち明ける。
「悪霊とか、悪魔って事ですね」と三木谷さんが俺を気遣いながら言う。
「もう一寸声の感じは無邪気かな」
「声は声ですよ。悪霊かどうかはどういう害悪を齎すかです」と三木谷さんが真剣な眼差しで言う。
「一方的な言葉の嫌がらせです。声を聴くだけで心が動揺し、不安や恐怖が募ります」
「除霊してもらいに行ったらどうですか?」と三木谷さんが心配そうに言う。
「霊って呼べるような高い知能が感じられないんです」
「じゃあ、何なんですか?」と三木谷さんがじれったそうに訊く。
「強いて霊とするならば、低級霊かな」
「TVの心霊番組なんか観てても、霊は神のような霊ばかりじゃないでしょ?」と三木谷さんが俺の認識を最確認させる。
「映画の『エクソシスト』だとか、『ポルターガイスト』みたいに、人の首を一回転させたりするような事はしないんです。よく心だと自分達の事を言い表わします。それを俺が心霊と解釈してるんです」
「人の体に憑依するって事を当然の事のように思う霊ならば、それは人間としての権利をしっかりと主張するなり、除霊しないといけません。他人の霊と同じ体内に共存するのって気持ち悪いでしょう?」と三木谷さんが面倒臭そうに俺の決意を煽る。
「まあ、そうですね。緊張します。でも、俺と同じ体内にある事や、俺に話しかける事を当たり前のように思ってる霊なんです」
「それは押しつけですよ。しっかりと自分の心のゆとりや安心感を守らなければいけません」と三木谷さんは言って、口を固く閉じる。
「そうですね。でも、勢いに押されて、対処の仕方が判らないんです」
「精神分裂病って、精神科医が解決出来るような問題ではないんですよ。患者の話を聞けば、ケイスは一人一人違うし、薬も一生飲むようにと義務付けられます。何か時々騙されているような気持ちになるんです。僕は神通力を授かった事で、自分に薬や医療の助けが必要な事を自覚したんです」と三木谷さんが眉間に皺を寄せて言う。
「乗り越えるべき時期に精神医療の力に頼ったのかな・・・・」と俺は呟き、自分の入院前の状況を振り返る。
「それは一種の罠に引っかかったんですよ。科学万能時代の穴です」と三木谷さんが戸惑いの欠片もないような自信に満ちた口調で言う。
「無意識だとか、潜在意識って何ですかね?」と俺が三木谷さんに訊く。
「そういうのは自分を通じて深く理解されるべき未知の領域です。霊感とか神通力の領域とは全く別です。霊が憑依しているならば、薬なんかで消そうと思わない事です。憑依により精神状態が不安定ならば、薬で精神状態を安定させようとか思わずに、除霊すれば良いんですよ」と三木谷さんが力ある眼差しで言う。
「俺のケイスと三木谷さんのケイスは別なんですかね?」
「僕は少なくとも霊に憑依なんてされていません。テレパシー等、神通力がある事に関しては一部同じです」と三木谷さんが蔑むような眼差しで言う。
「自動書記をした事はありますか?」
「いいや、ないですね」と三木谷さんが自信の揺らいだ顔で答える。「自動書記が実現したら、霊の憑依を考えると思うんです。それで俺は憑依した霊が体内から発する言葉に幻声が加わると結論したんです」
「それはシンプルな考えじゃないなあ」と三木谷さんが蔑むような眼で言う。
「まあ、そうですね。俺は憑依する霊を振り切って、駆け足で逃げた事があるんです」
「うん」と三木谷さんが興味を示す。
「そしたら、憑依した霊の幻声が俺の体と一緒に空間移動するみたいに一定の距離を保って着いてきたんです。つまり、同じ体内にあって、同じ自転車に乗っているんです」
「ううん」と三木谷さんは眉間に皺を寄せて考え込む。
「自転車に乗り、販売機にジュースを買いに行った時に、憑依霊に脚の動きを解放したら、憑依霊が自転車のペダルを漕いだんです」
「だからね、この世界には神通力が当たり前にあるんですよ。自転車のペダルを漕いだのは遠方で氏川さんの体に感覚を合わせていた人間ですよ」と三木谷さんが弱冠声を荒げて言う。
「幻聴が自分は心だって言った事があるんです」
「ああ、それなら、ユング心理学の元型に関する辺りを読むと良いですよ。僕の幻聴もお前は何だって以前訊いたら、心だって答えた事があるんです」と三木谷さんが俺の意見を求めるように言う。
「げんけいって、どういう字ですか?」
「元気の元に中型大型の型です」と三木谷さんが答える。
「今度外泊が許可されたら、駅前の本屋に寄るんで、場合によっては取り寄せして本を買ってみます」
「ユング心理学の本は新書辺りじゃ活き活きと幻聴の様子を描写するようには書かれていません。多分、何の事かさっぱり判らずに読み終えると思います」と三木谷さんが確信に満ちた口調で言う。
「難しいんですか?」
「ううん、学問的に説明される硬い言葉だけでは臨場感も情景描写も上手く伝わらなくて、全くリアルに心に迫ってくるようなものがありません」と三木谷さんが言葉を選ぶように慎重に答える。
「へええ、そうなのか」と俺は半分、三木谷さんを疑い、自分には判るかもしれないと思っている。
「書いてるユングって学者自体が統合失調症で、幻聴体験や元型との直接的な言葉の遣り取りを経験しているんです。アニマ・アニムスだとか、トリックスターだとか、専門用語も重要な事は外来語をそのまま使っていたり、一般的でない難解な日本語で説明するんです。アウフヘーベンに対する止揚みたいな訳語です」と三木谷が難解な例えで説明する。「特に精神分裂病患者がユング心理学の本を読む時にはユング心理学の学問的な網羅が直接的な目的ではない事が多いと思うんです。精神科医も大きく分けると、フロイト派とユング派に分かれるらしいです。精神科医が精神医療の専門家として身につける知識に関しては判りません。フロイトやユングの学説を新書なんかで通り一遍に読破したところで、結局何も得られないのが現実です。独学は更に困難です。フロイトの精神分析学を読んでも、リビドーの意味を繰り返し国語辞典で引き、意識、前意識、無意識と頭の中で暗誦する事からなかなか先に進まないんです」と三木谷さんが教養人らしく、またしても難解な例えで説明する。
「遠い場所の見知らぬ人からのテレパシーか」と俺は考え込むように言う。俺は少し三木谷さんの視点に近づいて考える。
「恐らく氏川さんはテレパシーの相手の事は誰も想定していないでしょうね。複数の人との連想を一心に受け止めるようなアンテナです」と三木谷さんが蔑むような口調で言う。
「それが俺のアンテナの巡らせ方ですか」
「創作の関係でストーリーの全容に至るような閃きや連想を想うでしょ?」と三木谷さんが子供に話すような笑顔で確認する。
「ああ、はい」
「そういう類のアンテナですよ。純粋な会話や人間関係の深まりを目的とした連想ではないんです」と三木谷さんが優しい眼差しで言う。三木谷さんの話は意味が判らない。狂人の戯言のように聞こえる。
何時の間にかデイ・ルームに人が集まっている。
「お薬でえす」と年配の女性看護師が病棟内の患者に声をかける。患者は一斉に列をなす。俺も病室から水を入れたカップを持って、列に並ぶ。
薬を飲むと、朝食のトレイを受け取り、席に着く。前には由里ちゃんがいる。由里ちゃんは俯いたまま食べる事に集中している。今朝の朝食は生卵と白米と味噌汁と鯵の焼き魚と紙パックのグレイプ・ジュースである。由里ちゃんの眼は悲しみで一杯だ。恐らく真希ちゃんの死を悲しんでいるのだろう。由里ちゃん自身は生きる事が辛いのか。自殺は止めて欲しい。唯でさえ俺は心が弱り切っている。これ以上死別の衝撃には耐えられない。当面由里ちゃんの心を支えねばならない。由里ちゃんの存在は既に俺の人生に関わりがある。どんなに辛い時期にもそれ相応の出会いはあるけれど、由里ちゃんを恋人にする訳にはいかない。それだけははっきりとした筋を通さねばならない。
「氏川さん、真希ちゃんと一緒に死のうとしたんですか?」と由里ちゃんが涙を零しながら、俺に訊く。「真希ちゃん、本当は私と一緒に死ぬ筈だったんです。氏川さんが現われて、急に氏川さんと死のうと決めて、私を置いて死んでいったんです」
「真希ちゃん、相当に辛かったんですね」
「あたし、もう生きる力が残されてないんです。真希ちゃんがあたしに、私達はこんな苦しみに耐えなければいけない人間じゃないって言ったんです。あたし、真希ちゃんにそう言われて、自分の人間としてのプライドを取り返したような気持ちになりました」と由里ちゃんが妙に真希ちゃんに対する尊敬の念を強調する。
「ダメだよ、由里ちゃん!真希ちゃんに悪い考え一杯植えつけられてるよ!真希ちゃんは一緒に死ぬ人を探してただけだよ」
「何で氏川さんはこの苦しみを背負えるの?」と由里ちゃんが泣きながら言う。
「生き残った俺達は縺れた糸を解かないといけないんだ。二つ三つ峠を越えなくてはならなくとも、俺は独りでこの危機を乗り越えます。自殺した人の死に関する言葉に打ち勝つのは相当に困難だけれど、俺は何とか乗り越えます」
由里ちゃんは俯いて黙り込む。由里ちゃんも死に取り憑かれてるんだな。
「自殺って、本来、俺の発想じゃないんです。人生には解脱って言う、二度とこの世に生まれ変わらない高い目標がありますよね?TVの霊能者が、自殺をすると、来世もっと苦しい思いをするって言ってます。生きよう、生きようって、強い意思を以て、どんなに辛くとも死にたいなんて弱音を吐かず、必死で前世や現世の悪業の報いに耐えていくのが人生だと思うんです。それは信仰のある人達の常識ですよ」
「自殺して来世もっと苦しむ事になっても、今、自分がもうダメだって思ってしまったら、自殺も人生の自由な選択の一つなんじゃないかしら?今の最悪な苦しみから逃れられるのならば、来世受ける悪業の報いは来世で受け止めれば良いだけだと思うんです」と由里ちゃんが自分に自殺を赦す。
「それでまた来世も苦しかったら、来世も自殺するの?」
「そんな事は人間に判る筈がないですよ。私は今の最悪な精神状態と今の最悪な状況の乗り越え方について話してるんです」と由里ちゃんが霊能者の言う事を無視して、今の自分の苦しみから逃れる事ばかりを主張する。「あたし、一生懸命、精一杯頑張りましたよ。もう全てを終わりにしたいんです」と由里ちゃんが涙を流しながら言って、朝食のトレイの食べ物の上に泣き崩れる。
由里ちゃんに関わっていたら、何れ自分も共倒れするだろう。由里ちゃんは自分を真希ちゃんの発言の被害者だとは思っていない。由里ちゃんには由里ちゃんの考えがある。由里ちゃんは真希ちゃんの発言に共感し、その考えを自分のものとして煮詰め、その考えを俺にまで植えつけようとする。由里ちゃんが俺の命を護る事はない。鯵の焼き魚を解し、口に運ぶ。また幻聴を意識してしまう。
『由里ちゃん、死ぬよ!』と少年の声の幻聴が言う。
『お魚!』と悪に傾倒した少女の声の幻聴が楽しそうに言う。
自分が生きるので精一杯だ。不安と恐怖が募ってくる。この異常な不安や恐怖は誰もが経験するものではない。これは本当に唯の病気なのか。一体俺の何がおかしいのか。俺自身は何もおかしくないのだ。幻聴を経験した者が幻聴を思い出すのは正常な心の働きだろう。
『僕、食べてるよ』と少年の声の幻聴が言う。
白米に醤油をかけた生卵をかけ、搔き込むように平らげる。真希ちゃんはこの病的な精神不安を終わらせた。真希ちゃんは神に対してこの辛さをはっきりと拒絶したのだ。極端に鈍感で身勝手な存在が感覚の中に入り込み、体が強張ったように食べる速度が遅く、体の動きが硬い。急いで味噌汁を飲み干し、トレイを片付けに席を立つ。
病室に戻り、ベッドに横になろうとしたら、煙草が吸いたくなる。煙草を吸い始めたのは失敗だった。思い切って禁煙しようか。ああ!吸いたい!
喫煙所に向かう。壁の向かいの手前の喫煙席に腰かけ、煙草の先に火を点ける。由里ちゃんが悲しみに沈んだ暗い顔で俯きがちに歩いてくる。食堂の方も患者達が次々に席を立つ。由里ちゃんの顔立ちは相当な美形だ。真希ちゃん程眩しく輝いてはいない。真希ちゃんと比較して、由里ちゃんを普通の子とするには美人過ぎる。由里ちゃんが喫煙席の壁側の向かいの席に腰かける。
「真希ちゃんって、解脱とか知らないんですかね?」と由里ちゃんが真顔で俺に話しかける。「自殺って、罪だって知らないんですかね?」
「どうですかね」
『どうですかね』と暗い少年の声の幻聴が反復する事を想像する。幻聴の反復は人と話している時にはない。本当にそうか。
食事中からの不安がまだ晴れない。由里ちゃんに話しかけられると、由里ちゃんの声が迫ってくるようで恐い。由里ちゃんの鬱病の憂鬱さが自分の頭に入ってくるような不安もある。こんな思いは男らしくない。気持ちを落ち着け、もっとゆとりある広い心でいたい。喫煙を終えた俺は由里ちゃんとの会話を避けて席を立つ。由里ちゃんを恋人にするのはダメだ。もう入院中に節操もなく恋人を作ってはいけない。病室に戻り、ベッドに横になる。こんな寝たきりの生活をしていたら、体がだれてくる。これ以上精神不安とは闘えない。
「氏川さん」と男性の声が俺の名前を呼ぶ。俺は目を開ける。石橋先生だ。「どうですか?」
「ああ、ええと、人に話しかけられると、相手が心に迫ってくるような恐怖を感じます。それと今の先生もそうなんですが、自分が精神的に不安定な時に限って人に話しかけられます。そう言う時に話しかけられると、心が硬直しちゃうんです。蛇に睨まれた蛙みたいな感じなんです。自分の事を蛇に睨まれた蛙みたいに解釈するのも本当は嫌で、ギリギリの理性で何とか暴力衝動を抑えているんです」
「入院中にしっかりと心と頭を休めてください」と石橋先生が厳しい目付きで言う。
「はい」
「桜井さんの事で気持ちが落ち込んだりしませんか?」と石橋先生が心配そうな顔で訊く。
「真希ちゃんの自殺には相当なショックを受けました。一時的に生きる気力を失いました。何とか気持ちの回復を心がけています。病気と闘い続ける気のない人の言葉の影響はとても強いです。先も食堂で片瀬さんが自殺を肯定する話しをしていました」
「ああ、片瀬さんも相当に悪い影響を受けているみたいですね。何か私に質問とか御有りですか?」と石橋先生が救いの手を差し延べるように訊く。
「いいえ」
「そうですか。それではまた様子を診に来ます」と石橋先生は言って、病室から立ち去る。
「氏川さん、入浴されませんか?」と女性看護師が病室の入口で訊く。
「ああ、入ります」と俺は言って、入浴の支度をする。
脱衣所に入り、服を脱ぐ。風呂場に入り、一週間ぐらい歌を歌っていない事に気づく。俺は体を洗いながら、尾崎豊の『アイ・ラヴ・ユー』を歌う。久々に歌う声は明らかに弱っている。これから時々歌を歌おう。水の音に大騒ぎする子供達の声の幻聴はどうしようもない。
入浴を終えると、気晴らしに売店に行こうと、勤務室に向かう。勤務室のドアーを開け、勤務室の中にいる若い女性看護師に、「売店に行くのでドアーの鍵を開けてください」と言う。看護師は速やかにドアーの鍵を開け、「はい、どうぞ」と言う。俺はエレヴェイターに乗り、一階まで下りていく。売店の文庫棚には現代作家の文庫本が並んでいる。俺は武者小路実篤の『真理先生』を手に取り、真希ちゃんが薦めていた作家のお薦めの小説であるのを思い出す。俺は『真理先生』をみたらし団子と一緒に買う。
「あら、今日はお一人でいらしたんですね」と売店のおばさんが言う。
「あの子、亡くなりました」
「あら、何か御病気で?」と売店のおばさんが暗い顔をして訊く。
「自殺です。俺も一緒に死のうとしていたんですが、死に損ないました」
「そう。でも、あなた、あなたが死なずに生きている事は素晴らしい事よ。おばさんもあなたと話せて嬉しいの」とおばさんが包み込むような優しい声で言う。
「俺、死なずに病気を乗り越えようと頑張りたかったんです」
「自分の本当の意思を思い出せたのも、あなたが今生きているからよ。あの子は随分と苦しんだわね。あなたも苦しいだろうけれど、精一杯人生を生き抜くのよ」とおばさんが俺を励ます。
「はい」
「おばさんだって辛い事は沢山あるの。本来、病院の売店の店員なんて仕事が楽しい筈がないの。でも、おばさんは一生懸命この仕事に喜びを見出そうと努力しているの。判る?これは嫌い、あれは嫌いって、何でも嫌な事を放り投げ、避けていたなら、この今を精一杯幸せに生きる事は出来ないの。おばさんはその上無趣味で夢も何もない。両親がいて、夫がいて、子供がいる事が幸せなの。両親は何れ死ぬ。夫も私より先に死ぬかもしれない。世の中には子供の方が先に死ぬような本当に可愛そうな御家族もいるの」とおばさんが人生の本質を仄めかす。
「酷い世界ですね」
「そうよ。本当に酷い世界なの。この世界はきっと神様と生きるためにあるんだと思うの」とおばさんが自分の信仰心を言葉にする。
「俺、真希ちゃんとマンションの屋上から飛び降りようとした時に、見えない誰かの手にぐいっと右手を引っ張られたんです」
「へええ、それはきっと霊か何かね。私達はいつも目に見えない神様のような存在に見守られているのね」とおばさんが不思議な現実感を語る。
「真希ちゃん、よくこの売店の前で倒れていたんですよね?」
「そうなの。いっつも店の前で倒れては看護師さん達が来て、病棟まで運んでいかれるの。気を失ってる訳じゃないみたいなの。霊の声が騒ぎ始めると、全てを放り投げて、ぱたりとその場に倒れるらしいの」とおばさんが懐かしそうに笑顔で言う。
「真希ちゃん、傍でこの話を聴いてるのかなあ」
「あなた、あの世の存在が信じられるのね。だから、見えない者に手を掴まれて、命拾いしたりするのね。ああ、そうだ!あの子、何か本を取り寄せしてたのよね」とおばさんは言って、棚の中から本を出す。「ああ、これこれ」
おばさんが出してきた本は安野光雅の『手品師の帽子』とリチャード・バックの『かもめのジョナサン』である。
「ああ、それ、支払いは済んでるんですか?」
「支払いはまだよ」
「じゃあ、俺が買います」
「何だかあの子の置き土産みたいで素敵ね」
「そうですね」
俺は安野光雅の『手品師の帽子』とリチャード・バックの『かもめのジョナサン』の文庫本を買う。それらの本を先買った『真理先生』とみたらし団子とキャスター一箱と一緒に病室に持ち帰る。真希ちゃんは最後に自分が注文した本が精神病院の中に持ち込まれる事をどう思うだろう。いいや、真希ちゃんは病院の中でこの二冊を読もうとしていたんだ。俺がここを去る時は真希ちゃんの霊も一緒に外の世界に出さないといけない。
『ポテト・チップス』のコンソメ味の袋を持ってデイ・ルームのソファーに座る。コンソメ味は何度食べても濃厚な美味しさがある。
入口の辺りで女性の声が真希がどうのこうのと話している。真希ちゃんのお母さんなのか。挨拶すべきかな。俺なんかが挨拶して良いのか。良し!思い切って挨拶しよう!
勤務室の前に小柄で細身の五〇代ぐらいの女性がいる。真希ちゃんの事を話しているのはその女性だ。
「あのう、真希ちゃんのお母様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうです。真希がお世話になりました。御名前は何と仰るんですか?」と真希ちゃんのお母さんが憔悴した顔に微かな笑顔を浮かべて言う。
「氏川と申します。真希ちゃんとは婚約していました」
「ああ、あなたが氏川さん。真希が自殺の巻き添えにしようとしたらしいですね」と真希ちゃんのお母さんが親しみを示す。
「真希ちゃんは率直に自分の苦しみを語って、一緒に自殺する人を探してました。真希ちゃんは本当に苦しんでいました。周囲の誰からも愛されていました」
「真希の事忘れられますか?」と真希ちゃんのお母さんが潤んだ眼で訊く。
「忘れたくありません」
「真希との思い出はあなたが病気と闘って生きていく力にはなれませんよ。一日でも早く真希を忘れてください。御自分の幸せを素直に求めて生きた方が良いです」と真希ちゃんのお母さんが涙を流しながら、厳しい目付きで言う。
涙が溢れる。俺はしゃくり上げるように声を押し殺して泣く。俺が真希ちゃんのお母さんを慰める筈だったのに・・・・。
「氏川さん、もう病室に戻りましょうね」と女性看護師が俺の背中に手を当てて言う。
「真希ちゃんを救えなくて済みませんでした!」と俺は真希ちゃんのお母さんに深く頭を下げて謝る。
「いえいえ、そんな!真希が死んだのはあなたのせいではありませんよ」と真希ちゃんのお母さんが俺の両肩の脇に触れて言う。
俺は真希ちゃんのお母さんの足下に土下座し、「本当に済みませんでした!」と大声で謝り、床に額を付ける。
「氏川さん!病室に戻りましょうね!」と男性看護師二人が俺の両腕に腕を通して立たせると、強引に俺を病室に連れていこうとする。
「放せよ!放せ!」と俺は二人の看護師に怒鳴り付ける。
「あんまり興奮するようでしたら、保護室に隔離しなければいけませんよ!」と右側の若い男性看護師が言う。
「病室で静かに心を落ち着かせましょうね」と左側の壮年の男性看護師が言う。
「何でお前らは俺のやる事を何でも病気と解釈するんだよ!」
「ベッドのサイド・テーブルの上に病棟内ルールを記した説明書がありましたよね?病棟内で大声を出したり、他の患者さんに暴力を振るったりするような迷惑行為を禁止してありますよね?」と若い男性看護師が叱るように言う。
ああ、あの入院契約書のルールか。俺は看護師達にベッドに連れていかれ、ベッドに腰かける。
「しばらく、お部屋で静かにしていてください」と若い男性看護師が腰を屈めて、俺の顔を下から覗き込むようにして言う。
「あのう、煙草吸いたいんですけど」
「では、喫煙をしたら、落ち着くまで病室にいてくださいね」と若い男性看護師は言うと、二人共病室を去っていく。
喫煙所に向かう。壁側の奥の喫煙席に腰を下ろす。煙草に火を点け、煙草を吸う。由里ちゃんはいない。過剰な謝り方をしたという認識はある。食堂の前で若い男の患者達が怒鳴り合っている。片方が相手を殴り、相手が殴った方に掴みかかる。先程の男性看護師二人が喧嘩を止めに入る。
「動物系の癖して神系の体に触れてんじゃねえよ!」と相手を殴った片方である三木谷さんが怒鳴り付ける。
「テメエ!憶えてろよ!」と殴られた方のヤンキースの帽子を被った男が言い返す。看護師がヤンキースの帽子を被った男を病室に連れていく。三木谷さんは再び絵を描くために食堂の椅子に腰かける。
「今度、暴力とか振るったら、保護室に入れますからね」と若い男性看護師が三木谷さんの傍らに立ち、三木谷さんに注意する。
「あいつが先にチョッカイ出してきたんですよ!皆があいつに迷惑してるんです!」と三木谷さんは身震いしながら大声で言う。三木谷さんは瞬時に気持ちを切り替え、人が変わったように静かにスケッチブックに見入る。
病室に帰ると、ベッドに横になる。ベッドに横になろうとすると、子供の声の幻聴が同じ蒲団に潜り込もうと嬉しそうにはしゃぐ。
「氏川さん、どうしましたか?」と石橋先生の声が聴こえる。
俺は眼を開け、「真希ちゃんのお母さんに謝っただけです」と返事をする。
「そうですか。氏川さんも彼女の死に関しては色々と思うところがあるんでしょうね」と石橋先生が理解を示す。
「真希ちゃんの自殺を防げず、一緒に死ぬ事も出来なかったんで、真希ちゃんのお母さんが現われたら、何だか物凄く謝りたくなって」
「あんまり悩んではいけませんよ。自殺なんて決して良い事ではありませんからね」と石橋先生が説得する。
「自殺が良い事ではないとは先生の信仰上の御考えですか?」
「ううん、まあ、そうですね。気持ちが落ち着いたら、それでもう良いですからね。それではまたお話を伺いに参ります」と石橋先生は言って、病室を去っていく。
気持ちが落ち着いたら、か。真希ちゃんの霊が近くにいるような不安がある。
『真希ちゃん、あたし達と一緒にいるよ』と小野さんの声の幻聴が悲しそうに言う。
あたし達と一緒って、小野さん、あの世にいるの?待てよ、夏八木さんやレンタル・ヴィデオ・ショップの古田の声も聴こえている。霊の声真似なのか。真希ちゃん、いるの?
『あたし、恐がられるのは嫌・・・・。何だか悲しい』と真希ちゃんの霊が弱々しく返事をする。声は少女の声だ。そっちに知っている人はいないの?
『知っている人は誰もいない』と真希ちゃんが不安そうに言う。
人間は見えるの?
『見えるけど、霊かもしれない。触る訳にもいかないし、霊か人間か確認する事も出来ない』と真希ちゃんが人間らしく言う。
ふふうん。霊って、人間そっくりなんだな。ごめんね、一緒に死ねなくて。真希ちゃんに続いて飛び降りようとしたら、見えない手に右腕を引っ張られて、死に損なったんだよ。
『多分、そういう風に霊に救われるような人は死んじゃいけない人だと思う。あたしは死にたかったの。もうどうしても生きていけなかったの』
後悔はしていないんだね。限界まで頑張ったんだと思う。決して皆が乗り越えられる壁を乗り越えられなかった訳ではないと思うよ。
『そっちは夜?』と真希ちゃんが不思議な事を訊く。
まだ午前中だよ。もう少ししたら昼御飯だと思う。
『こっちは真っ暗。御日様なんて一度も見てない。蛍光灯とか、電気の灯もない』と真希ちゃんが不安そうに言う。
人の姿は全部影みたいに黒いの?
『真っ暗で影一つないの』と真希ちゃんが恐々とあの世を説明する。
俺、深く心を落ち着けようと瞑想を始めたんだ。幻聴に意識が逸れ易いから、しっかりと昔のように心を安定させたい。
『どうせ目を開けても真っ暗だし、あたしも瞑想しようかな』と真希ちゃんが冗談とも取れるような事を言う。
「お昼のお薬でえす!」と女性看護師がデイ・ルームで患者達を呼ぶ。
全く食っちゃ寝食っちゃ寝の繰り返しだな。
薬を飲んで、昼食のトレイを受け取る。自分の席に腰を下ろすと、前には由里ちゃんがいる。昼食はスパッゲッティー・ミート・ソースとあんぱんとポテト・サラダと紙パックの調整豆乳である。真希ちゃんに憑依されるのは危険なのか。自殺霊には違いない。
『あたし、氏川さんに憑依なんてしませんよ』と真希ちゃんが俺の右肩の直ぐ後ろで言う。俺は背筋にぞっと寒気が走る。真希ちゃんは何も言わない。失礼だったかな。真希ちゃん?返事がない。
由里ちゃんの食事の食べ方は本当に辛そうだ。
『氏川さん、やっぱり由里ちゃんの事好きなんですね』と真希ちゃゃの霊が再び話しかける。
俺はまた背筋に寒気が走る。由里ちゃんとは意地でも付き合わないよ。俺はここでは真希ちゃんを選んだんだ。
『ここでは、か。やっぱり、何れは恋人を探すんですね』と真希ちゃんが恨めしそうに言う。
真希ちゃんは悪霊の部類なのか。
『霊が人に取り憑くって、こういう事もですかね?』と真希ちゃんが明るい声で言う。
真希ちゃんを不幸な気持ちにはさせたくない。
『氏川さんに他の好きな人が出来るんですか?』と真希ちゃんが生きた者のように好奇心を表わす。
今は真希ちゃんを失ったばかりだから、恋人は直ぐには作れないよ。俺、ショックが強過ぎて、まだ立ち直れてないんだ。
『死ね』と悪に傾倒した少女の声の幻聴が言う。この子が真希ちゃんに扮していたのかな。真希ちゃんの霊の声と同じ部類だな。ミート・ソースが美味い。真希ちゃんは空腹感はあるの?
『ある』と真希ちゃんが遠慮がちに言う。
どうしよう。
『どうしても人間の食べ物が食べたければ、誰かに憑依するのかな』と真希ちゃんが霊の事を人間の俺に訊く。
憑依を悪い事だと思う?
『人間の常識としては悪い事だって憶えてます』と真希ちゃんが常識を示す。
飢餓感はある?
『うん』と真希ちゃんが苦しそうに言う。
辛い?
『まあね』と真希ちゃんが面倒臭そうに言う。
中に入って、一緒に食べる?
『あたし、そんなに自分を卑しい存在に貶めたくない。氏川さんだって、死んだらこうなるんですよ。何でそんな冷たい体や蛆虫が湧いたような汚らしい体を想像するの!』と真希ちゃんが泣き声で言う。
ゴメン。真希ちゃんの心を傷つけてしまったか。真希ちゃんの返事がない。真希ちゃんの声を探して耳を澄ます。真希ちゃんはいなくなったのか。意外と温かいんだね。生きてる時と同じ香水の匂いがすると、真希ちゃんの霊が憑依する前に色々と台詞を用意する。あんなに心の中が筒抜けなら、気取った台詞は言えない。あんぱんが美味い。調整豆乳も美味しい。
『真希ちゃん、いなくなったよ』と少年の声の幻聴が明るく言う。
こいつら霊なのか。古田のように生きた人の声も聴こえる。生霊なのだろうか。
食事を終え、トレイを片付け、病室に入る。棚の扉を開け、食べたい御菓子を探す。チョコレイトがある!これにしよう。チョコレイトの封を開け、板チョコを齧る。甘苦くて美味しい。
「氏川さん」と入口で若い女性看護師が俺を呼ぶ。
「はい」
「同伴外出をもう一日されたら、次からは単独外出の許可が出ます。今日辺り、どなたかと外出されませんか?」と若い女性看護師が提案する。
「ああ、誰と外出しようかな」
「どなたか氏川さんと外出してくださいませんか?」と看護師が病室の人達に呼びかける。
「私が一緒に外出しましょうか?」と隣のベッドの村野さんが言う。
「ああ、じゃあ、村野さんにお願いしましょうかね」と看護師が言う。
「ああ、お願いします」
「何処に行きましょうか?近くに良い古書店がありますが、そこに行きますか?」と村野さんが丁寧な口調で言う。
「ああ、その古書店に連れていってください」
村野さんが外出の着替えをし、勤務室で外出許可用紙に行き先と時間を記入して提出する。入口の扉を出て、エレヴェイターで一階に下りる。村野さんの後に着いて蒲田方面に歩いていく。
「古書店の帰りにコーヒーでも飲みませんか?」と村野さんが提案する。
「ああ、良いですね」
幻聴が騒ぐ事を想うと、喫茶店でコーヒーを飲むのも命懸けだ。古書店で時間を潰すのは昔から好きだ。ゆっくりと古書を見られたら良い。いつも心の片隅で幻聴の様子を気にしている。何の心配もなく、思うままに一日を過ごせた日々を想う。一日中喉の渇きを唾で補いながら、じっくりと古書や中古レコードを眺めていた。それが何よりもの楽しみだった。今では不安により水分を小まめに取る必要性に駆られ、我慢出来ない。唾で補う事も出来ない。それを完全に諦めた訳でもない。
『この人、何処か行く!』と少年の声の幻聴が言う。
『僕、行くよ!』と別の男の子の声の幻聴が畳み掛けるように後を継ぐ。
折角外出するのにまた幻聴に意識を追い回されるのか。
『この人、何処かに行くよ!』と動揺したような三人目の男の子の声が言う。
鬼の玲一の邪魔をするな。
『この人、鬼の玲一?』と一人目の男の子の声の幻聴が言う。
『俺が鬼の玲一だよ』と俺の声に似た大人の男の声が言う。
お前が鬼の玲一?
『俺は鬼の玲一じゃないか』と先の大人の男の声が動揺したように言う。
鬼の玲一は歯向かう者を叩き潰す。ほれ、往復ビンタ!幻聴がうろたえる声を漏らす。顔面パンチ!
『鬼の玲一さんだ』と男の子の声の幻聴が言う。
腹に蹴り!悲しい気持ちになるぞ!
『俺達は鬼の玲一さんです』と俺の声に似た大人の男の声が泣き声で言う。何だかあべこべに俺の眼から涙が流れる。
氏川正道は鬼の玲一の奥にいる!氏川正道は愛の人!鬼の玲一は氏川正道の僕!鬼の玲一は短気!
『この人、氏川正道だよ』と悪に傾倒した少女の声の幻聴が反撃を試みる。
俺が微かな不快感を表わすと、『この人、鬼の玲一さん』と怯えたように大人しそうな少女の声が言う。言葉に効果がある。俺の言葉通りに幻聴の感情に変化が起きる。
『この人、鬼?』と男の子の声の幻聴が反撃を思いつくように言う。
鬼の玲一は神の僕!又の名を若山玲一!
『若山玲一、この人の昔の漫画!』と別の男の子の声の幻聴が言う。
若山玲一は俺の昔の不良モノの漫画の主人公だ。未完の漫画で、相手の眼をナイフで斬りつけたり、腕や脚の骨を素手でへし折る残酷な喧嘩で『鬼の玲一』と恐れられる主人公だった。
『この人が若山さんです』と俺の声に似た大人の男の声の幻聴が媚びるように言う。
『恐ろしい漫画ね』とおばさん風の声の幻聴が母親風に言う。
『若い頃の漫画だな』とお父さんの声の幻聴が聴こえる。おばさん風の声の幻聴や父の声の幻聴は何かの拍子に時々聴こえる。父の声の幻聴は何を言うと特徴付けられるような事は特にない。
俺は自分を自作の漫画の主人公の名前で分析する。幻聴にも漫画の主人公の名前に合致した性格があるだろうか。ああ!村野さんと話さないといけない。村野さんも黙ったままだ。楽しい会話が溢れない人といるのは退屈だ。自分も無口な方なので、人を批難出来る立場にはない。
「そこですよ」と村野さんが明るい声で言う。
「ああ、近いですね。ここならまた来れる」
幻聴が消える。人と話すと何で幻聴が消えるのだろう。幻聴は自らを分けるという意味なら自分と称すべきだろう。自分自身ではない。幻聴の声と言葉は俺の意識に一語一語なぞらせるように聴こえる。正確には他人の言葉のように不意に話しかけられるような驚きはない。一拍か半拍、話しかけられる前に心の準備が出来る。幻聴の声を聴くと酷い動悸がする。心臓を護るために眉間の一点に集中している。
「ここです。入りますか」と村野さんは言って、自動ドアーの前に立つ。幻聴が消えると、今度は人の声や言葉が頭に侵入するような不安を感じる。幻聴が頭の中から聴こえてくるのではないかと思うのだ。店内から冷房の冷気が溢れてくる。何とも気持ちが良い。冷房は夏の生活に欠かせない。俺は冷房に涼む夏が好きだ。村野さんはSF小説の文庫棚の前に立つ。俺はその奥の単行本の棚の前に立つ。俺は村野さんが言った読むに値しない昔の小説の事が気になっている。帯に第何回芥川受賞作とある単行本を手にして棚に戻す。俺は劇画調の絵の短巻漫画を手当たり次第に抱え込む。嬉しい事に古い劇画調のエロ漫画が沢山ある。漫画の単行本を沢山抱えて村野さんの背後を通る。レジスターの前に立ち、漫画を机の上に置く。六十近い老店員が会計し、「三五〇〇円です」と言う。俺は財布から四千円出し、おつりを受け取る。
「ありがとうございました」と店員が言う。「いらっしゃいませ。どうぞ」
背後から俺の右脇に村野さんが現われる。村野さんは本をレジスターの机の上に置く。俺は自動ドアーから店の外に出る。店の前の一〇〇円均一の漫画や小説の文庫本を眺める。
「氏川!」と背後から誰かが俺を呼ぶ。背後の間近に車の音がする。
俺は振り返る。
「おお、皆川!」
「今日、休み?」と皆川が俺の人生の異変に全く気付かずに訊く。
「今、そこの大学病院の精神科に入院してて」
皆川はどう思うだろう。
「精神科?」と皆川が探るような眼で訊く。
「うん。幻聴が酷くてね」
「幻聴って、何?」と皆川が好奇心を顕わにして訊く。
「何にもない空間から声が聴こえるんだよ」
「霊じゃないの?」と皆川が眉に皺を寄せて訊く。
「ううむ。そうじやないかなと俺も思った事はある」
「霊か!それなら除霊だろ、普通?」と皆川が笑って言う。「それじゃあ、またな!今度飲もう!」
皆川が自動車で去っていく。やはり、異常体験をしてたのか。何で修行も何もしてない俺が突然霊感に目覚めるんだろう。
「友達ですか?」と村野さんが俺に訊く。
「中学の時の友達です」
「幻聴って、テレパシーだと思うんです」と村野さんが幻聴に関する自論を言う。
「自転車に乗りながら幻聴を聴いたり、走りながら幻聴を聴くと、幻聴との間隔に定規で測ったような一定距離がありせんか?」
「ああ、はい。ありますね」と村野さんが確信を以て答える。「私の場合、外に出た途端に幻聴が空に舞い上がるんです。明らかにこっちにいる側の空間認識ですよ」と村野さんが自信を以て言う。
「こっちの生活をこっちの眼を通して見てるんじゃないですかね」
「そんなに人の生活にのめり込むような事しますか?」と村野さんが問う。
「三木谷さんはテレパシーが当たり前なのは動物系の人間だって言います。テレパシーが日常的なコミュニケイションに含まれないのは神系の人間だって言うんです」
「へええ。神系ね。それじゃあ、動物系の方が優れてますよね。普通、眼に見えない存在の声が間近で聴こえたら、思い当たる事は霊って言う概念しかないと思いませんか?」と村野さんが詰め寄る。
「俺は色々と突き詰めた結果、自分の内側を通じて聴こえてきている声だと思ったんです。五感や意識や心を共有するような特徴もあります」
「霊の憑依じゃないですか?」と村野さんが幻聴を霊と解する方向に議論を持っていく。
「息が上がると呼吸する空気も奪い合います。一つの空気を奪い合った結果、自分が息苦しくもなります。同じ魂に根差すって事じゃないですかね?人の魂の数だけ大気は別々に存在し、魂が違えば、空気を奪い合う事もありません。呼吸の音に呼吸の擬音のような声が重なって、苦しくなる事がありませんか?」
「ああ、はい。あります」と村野さんが動揺したように返事をする。「それって、呼吸を必要としない、呼吸機能のない存在に身体機能を停止されるような現象だと思いませんか?つまり、霊の憑依です。霊が自分の身体に憑依したら、心肺停止状態にまでなると思うんです。霊による生きた人の身体機能との融合なんて絶対に有り得ないと思うんですよ」
「でも、幻聴がなく、幻聴の主体が体内にいる事を意識していても、気持ちが落ち着いている時などは呼吸困難になるような事はありませんよね?」と村野さんが問い詰める。
「ええ。一寸喫茶店に寄って話しませんか?」と村野さんが上機嫌な口調で誘う。
「一寸ベッドに横になりたくて。済みません」
「じゃあ、また今度行きましょう」と村野さんがあっさりと諦める。
「はい」
村野さんと病院に引き返す。無理に話したい気分ではないのに、静寂を人との会話で埋めたい。人と会話している時には幻聴がないからだ。村野さんは沈黙を何とも思わないのか。
「確かに俺も幻聴を霊の声とする説や憑依に関しては繰り返し考えるんです。幻聴がない時の平常心にも、実際には微弱なパニック症状が常にありますよね?完全に安心して、心が解放された状態には戻れなくなってるんです」
「私は二十歳の頃からこの病気と付き合ってきて、今回は二回目の再入院なんです。初回入れて三回目の入院です」と村野さんが過去を打ち明ける。
「初回入院じゃないんですか!」
「違いますよ。社会復帰も二〇代、三〇代と、二回程してます」と村野さんが俺との経験値の差を強調する。
「お幾つでしたっけ?」
「三十二歳です」と村野さんが拘りなく答える。
「通りでよく研究されてる筈ですよ!」
「いやあ、進歩向上のない順繰り順繰りした思考パターンの繰り替えしです。精神科で説明する幻聴論のドーパミンの過剰分泌説なんて全く理解の外なんです」と村野さんが頭を搔きながら言う。
「そういう説があるんですか?ドーパミンって何ですか?」
「脳内分泌物の一種で、アドレナリンなんかと同じような概念です」と村野さんが説明する。
「アドレナリンは知ってます。俺達って、脳に異常があるんですかね?」
「もし、そうなら、そう言う精神疾患とか、精神障害みたいな捉え方を認められますか?」と村野さんが怒ったような眼で確認する。
「納得のいく説明をしてもらえるなら受け入れますよ」
「そうですか」と村野さんががっかりしたように言う。「ああ、そうだ!昨日、幻聴が頭の中から聴こえてくる事はないって主治医が言ってました」
「へええ、そうなんですか。何でも主治医に質問すると良いんですね」
「精神科医は精神分裂病に関する情報を相当持ってますよ。こっちが幻聴の事を語るばかりで、滅多に質問しないだけなんですよ」と村野さんが笑顔で言う。
「そうですね」
行きより帰りの方が病院までの距離が短く感じる。村野さんとエレヴェイターに乗り、病棟の扉の前でブザーを押す。病塔内の壮年の男性看護師が勤務質から出てきて、病棟の入口のドアーの鍵を開ける。村野さんが先に病棟に入る。俺はその後から続いて入り、病室へと向かう。煙草を吸いたい。俺は病室のテーブルの上に買い物袋を置き、直ぐに喫煙席に向かう。
喫煙所には由里ちゃんが座っている。由里ちゃんは壁側の奥の席に座っている。俺は由里ちゃんの斜め前の手前の席に座る。由里ちゃんの顔が強張って見える。由里ちゃんは何か俺の事を意識して視線を逸らしている。やはり、由里ちゃんとは真希ちゃん程合わない。こんな何でもない心の擦れ違いで話し辛くなるのだ。この人は恐らく一寸した口論が原因して、直ぐに離婚に至るような人だろう。相性を確認するにはこれ程の時間を必要とするのか。結婚に焦りは禁物だ。よく相手を見極めなければいけない。俺は煙草の先に火を点ける。由里ちゃんが困ったような顔をしている。
「由里ちゃん、大丈夫?」
「氏川さん、あたしの事避けてないですか?」と由里ちゃんが悲しげな眼で言う。
「俺はここでは真希ちゃんを選んだんで、由里ちゃんが好きでも付き合う訳にはいかないんです」
「あたしの何処が好きなんですか?」と由里ちゃんがじっと真剣に俺の眼を見て言う。
「美人で知的なところかな」
由里ちゃんがにやける顔を不自然に歪める。
「それなら私は氏川さんに好きって言ってもらえたので諦めます」と由里ちゃんがあっさりと身を引く。
「言っとくけど、俺、真希ちゃんと二回したよ」
「そんな事言う必要ありませんよ!」と由里ちゃんが険しい顔付きで言う。
「言っておかないと美化されます」
由里ちゃんは俯き、落ち着いた小声で、「そうですね」と言う。
「俺達の身に大変な事が起きています」
「ああ、はい」と由里ちゃんが深刻な顔付きで身構えるように同意する。
「ここにいる誰もが本気になって自分の人生に挑みます」
「はい。そうですね。あたしは小説で身を立てようと思っています」と由里ちゃんが自分の夢を打ち明ける。
「俺は漫画です」
「氏川さんって、漫画家志望なんですか!」と由里ちゃんが驚いたように言う。
「ええ、まあ、そうです。由里ちゃんは漫画には興味ないんですか?」
「あたし、絵は下手なんです。虎を描いたら、猫になります」と由里ちゃんが笑顔で言う。
「由里ちゃんって大学出ですか?」
「そうです」と由里ちゃんが誇らしげに言う。
「俺は人生のスタートに大きく遅れました。大概の人達は大学に進学し、卒業しています。俺は高校を卒業して、勉強はもういいなって思ったんです。何とか漫画を描き続けて、さっさとプロになれば良いって思ったんです」
「随分と強気ですね」と由里ちゃんが俺の心を見透かしたように言う。
「周囲の動きが見えてなかったんです。皆が自分の将来のために四年間学業に専念し、資格を得ようとしていたのにね」
「高が大卒の資格を取るだけなら、これからでも遅くないですよ。漫画家になるのはそれより遥かに難しい事です」と由里ちゃんが大卒者として言う。
一体自分の何に自信があったのだろう。漫画の糧となる専門知識もない。何でもこれからだと思うのは由里ちゃんの言葉にも通じている。未来の実力発揮は誰であろうと未知の出来事なのだ。由里ちゃんが黙って席を立つ。俺は煙草を吸い終え、絨毯に腰を下ろし、瞑想を試みる。瞼を閉じ、ハートの真我を想う。心を無にして、じっくりと心を落ち着けたい。男の子の声の幻聴が『君が代』を歌い始める。その歌声に俺の意識が繋がってしまう。幻聴と自分の意識を断ち切りたい。無我の境地!自分の意識が残る事がいけないんだ。
『無我の境地!』と男の子の声の幻聴が叫ぶ。
『無我の境地』と別の男の子の声の幻聴が呟く。
眉間で幻聴と繋がった自分の意識を消そうと試みる。
『この人!』と三人目の男の子の声の幻聴が叫ぶ。
『あたしもいる』と大人しそうな少女の声の幻聴が不安そうに言う。
幻聴の無意味なお喋りに意味を解してしまう。じっくりと心を落ち着けたい。お釈迦様を想い、限界を超えて沈黙を守り抜く事を目指す。
『後ろにいるよ』と暗い男の子の声の幻聴が突然背後で言う。
俺の背筋に寒気が走り、思わず目を開ける。気持ちが動揺して瞑想を続けられない。お釈迦様はこの恐怖をも乗り越え、悟るまで七日間瞑想し続けたのか。俺は再び目を閉じる。瞑想は心を落ち着けるだけでも意味がある。何より真我が表われるのを待つ。真我を心の中で呼び続けるのも良いだろう。真我さん!表われてください!最悪な状況に陥りました。真我の返事はない。心を落ち着かせ、真我の中に逃げ込むイメージをする。真我は光の中にあるのか。闇の中にあるのか。
何時の間にか座ったまま眠りに落ちていた。俺は食堂のテーブルに病室から持ってきた漫画道具一式を置き、三木谷さんの席の向かいに腰を下ろす。三木谷さんは西洋風の城の絵を幻想的に描いている。
自分の好きなように漫画を描きたい。自分の好きなように漫画を描けるなら、それで良い。好きなように漫画を描くには線の一本一本にアイデアがいる。アイデアが降ってこなければ、線一本まともに選べない。以前のように楽しく漫画を描きたい。
「今日、金曜日は教授回診ですので、皆さん病室に入ってお待ちください!」と女性看護師がデイ・ルームや各室に連絡する。ベッドに横たわり、教授が来るのを待つ。
教授と医師の卵らが病室に入ってくる。教授が手前のベッドの患者から順々に診察をする。順番が来るまでに幻聴が騒がないようにと幻聴から意識を逸らし、気持ちを落ち着ける。
「氏川さん、こんにちは」と白衣を着た教授が挨拶する。
「こんにちは」
「早川と申します。宜しくお願いします」と教授が自己紹介する。
「氏川正道と申します。宜しくお願いします」
「口がぽかんと開いたりしますか?」と教授が問診する。
「ああ、何か、気づくと口が開くようになりました」
「どんな薬にも作用と副作用があるものなんです。精神科の薬は副作用が酷いのが現状でして、副作用を抑える薬を処方出来るようにと患者さん方の様子を窺っているんです」と教授が処方された向精神薬の説明をする。
「そうなんですか」
「喉が渇き易いですか?」と教授が更に問診する。
「はい。水分を取らないと不安になる事もあります」
「手の震えはありませんか?」と教授が問診を続ける。
「手の震えはありませんが、身体的なバランスは入院前から乱れています。安心する事がないんで、デイ・ルームで少し瞑想をするようになりました」
「それは良い事です」と教授が俺を誉める。
「幻聴って、頭の中から聴こえる事はないって本当ですか?」
「ありません」と教授がにっこりと笑って言う。
「一寸腕を前に伸ばしてください」と助教授が妙な注文をする。
俺は両手を前に伸ばす。
「指をピンとしてください」と助教授が指示する。
腕が震える。指を伸ばすことでも手が震える。
「ベロを出したり、引っ込めたりしてください」
「はい」と俺は返事をし、ベロを出し入れする。
「はい。良いですよ」と助教授が言う。
「やはり、震えがありますね。夜はよく眠れていますか?」と教授が質問する。
「はい。眠れてます」
「幻聴はありますか?」と教授が温かい眼差しで訊く。
「ああ、言うのを忘れていました。入院した日は幻聴が消えていたんですが、この頃は限度を越えた嫌がらせの幻聴が聴こえるようになりました。自転車で移動中に幻聴との距離感に差が出ないので、遠くにいる人のテレパシーなんじゃないかと思った事があります」
「なるほどね。自転車で移動中に幻聴との距離感に差が出ないと言うのは御自分の脳が引き起こす現象である事に関係があります」
「私は脳に異常があるんですか・・・・。この頭蓋骨の中の脳が私を拒絶しているとか?」
「精神分裂病、広くは精神病全般がストレスの病とも言われています。幻聴に関する分析や追究が絶え間なく続いて、精神的に参ってしまうような方が非常に多いんです。患者さんにはなるべくベッドに横にならず、幻聴から関心を逸らす生活をお勧めしています。そのためのトレイニングをOTで実施していまして、そこで書道や木工などを週に一回行って戴くようにしています」と教授が入院生活を案内する。
「ああ、あんまりやりたくないですね。私は漫画家を目指しているので、病棟では漫画を描いているんです」
「ああ、漫画の創作で十分です」と教授が笑顔で言う。
「これが私の漫画です」と俺は漫画の原稿を教授に差し出す。
「ほう、なかなか上手いもんですね。私などの子供の頃の漫画は四コマ漫画や新聞の風刺漫画しかありませんでしたから、こう言う劇画って言うものが子供の頃にあったら、さぞかし夢中になって読んでいたろうと思うんです」と教授が俺の漫画を読みながら言う。教授は食い入るように俺の漫画原稿を読んでいる。読むスピードは異様に早い。「はい。ありがとうございました。なかなか面白い漫画ですね。今度また続きを読ませてください」
「ああ、はい」
「将来、プロの漫画家になれるように頑張ってください」と教授が俺の夢を応援する。
「ああ、はい。ありがとうございます」
教授らが病室を出ていく。俺も病室を出て、喫煙所に向かう。
由里ちゃんが壁側の奥の喫煙席に座っている。俺がその向かいの席に腰を下ろすと、由里ちゃんが入れ違いに席を立つ。由里ちゃんに嫌われようと、真希ちゃんへの誠意を貫きたい。一生真希ちゃん以外の恋人を作らない訳ではない。この病棟では二度と恋人を作らないのだ。
脳が引き起こす幻聴が何でこんな脅威を齎すのか。俺は再び喫煙席の脇の絨毯の上に胡坐を搔き、瞑想を試みる。何だか無性に眠くなってきた。眠りの方が確実に必要な事だと感じる。オナニーもしたい。俺は目を開け、病室のベッドに向かう。
ベッドに横たわり、性の玩具のように由里ちゃんを想って、蒲団の中で激しくモノを扱く。由里ちゃんは何かと都合が良い。由里ちゃんは痩せ型で、胸もお尻もない。由里ちゃんの穴の中を想像してモノを扱いていると、由里ちゃんの色っぽい声が口の中から聴こえてくる。オナニー中に色っぽいオナペットのリアルな声が口から聴こえてくるのはとても恵まれている。もしかして、由里ちゃんは今、オナニーの最中なのか。そればかりは確認しようがない。恋人の真希ちゃんになら確認出来たろう。はっきり確認する事に罪の意識を感じる。
ベッドの上でまた瞑想をする。何だか、また眠くなってきた。俺はベッドに横たわる。
なかなか面白い群像劇になりました。




