帰京
漫画家を目指す統合失調症の主人公の群像劇。
『帰京』
俺はセックスに対する自信を得て、再び東京に帰る。
内なる霊の声を外界から聴きながら、気楽に人とテレパシーの会話もする。買い物に出かけ、憑依霊を振り切って駆け出すと、頭から一定の距離を保って、憑依霊の声が体ごと空間移動するように着いてくる。自転車で近所のジュース販売機にジュースを買いに出かける時にも体ごと空間移動するように霊の声が一定の距離を保って着いてくる。どう考えても俺の身体に憑依している霊だ。霊は憑依しさえすれば、自転車にも乗れるのか。憑依霊に脚の動きを解放すると、脚が勝手に動いて、自転車を漕ぐ。自転車に乗っている間に身体感覚の外に霊を出すイメージをする。霊の声は動揺しながらも、一定の距離を保って着いてくる。霊は走って追い駆けてきているのか。空中を飛んでいるのか。滑るように空間移動しているのか。霊の声には機械的な一定感覚が保たれている。
仕事を続けていく自信は直ぐに崩れる。実家の部屋で漫画を描いていると、「正道、夕御飯よ」と母が呼ぶ。
「はあい」と俺は返事をし、居間に向かう。父と弟がダイニング・テーブルの席で夕食を食べている。
「正道、早く仕事を探しなさい」と母が食卓の右斜め迎いの席で言う。
「仕事をした後に漫画を描きなさい」と父も右脇の席から言う。仕事もせずに漫画を描くのは良くない」
「外に出て仕事をする自信がないんだよ」
「何か何処か悪いのか?」と父が心配そうに尋ねる。
「自分の心の中の事が霊に筒抜けの現実に気づいて、どうにも落ち着かないんだよ」
「お父さんは霊の声なんて聴こえないよ」と父が言う。
「お母さんも聴こえないわよ」と母も言う。
「僕も聴こえないよ」と弟の清も打ち明ける。
「やれ、霊の声が聴こえるとか、前々からあなたの様子がおかしいとは思っていたのよ。突然、お祖母ちゃんと九州に住んだり、向こうで就職するのかと思ったら、また東京に帰ってきたでしょう?」と母が心配そうに言う。
「仕事なんてとても出来ないよ。家で漫画を描いていても根本的な問題解決が成される訳でもないんだ。でも、もう一寸コンディションを整えるための時間がいるんだよ」
「あなた、大丈夫?」と母が心配そうに訊く。
「心の中の事が全て霊に筒抜けの現実なんて大丈夫な訳ないでしょ」
「あんまり酷いようなら病院に行きましょう。それじゃあ、なるべく早く仕事探しなさいよ」と母が一旦、俺の判断に任せる。
ウチは家族全員霊の声が聞こえないのか。俺は夕食を終えると、もしかして精神科に相談するような事が起きたのかと独り自分の部屋の中で考える。俺は明日独りで精神科の診察を受けに行く事にする。精神科医は姿なき霊達の事をどう説明するのだろう。とりあえずは精神科の問題かどうかを確認したい。その後にお寺のお坊さんにでも相談しに行こう。
『精神科』
俺はT医大の精神・神経科の待合室のソファーに座り、診察を待っている。精神・神経科の外来に来ている人達の顔は皆んな不安混じりの独特な表情をしている。ぼんやりとした眼で遠くを見ているような人がいるかと思えば、爛々と血走った眼を見開いている人、如何にも不安や恐怖で怯えている人、意味ありげに人を睨みつけている人、それぞれが何らかの心的世界を通して外界を見ている。
「氏川正道さん、第二診察室にお入りください」と俺は外来の受付の女性看護師に名を呼ばれ、診察室に入る。
壁を背にした机越しに白衣を着た精神科医が椅子に腰かけている。黒い髭面の体格の良い五〇代ぐらいの男性だ。医師は書き物を終えると、ふと顔を上げ、人の良さそうな穏やかな低い声で、「どうぞ、そこにおかけください」と自分の向かいの席を俺に勧める。「石橋と申します。宜しくお願いします」
「ああ、氏川正道と申します。宜しくお願いします」
「どうしましたか?」
「あのう、ええと、誰もいない空中から沢山の見えない霊の声が聴こえるんです。最初はてっきり近所の人の噂話かと思ったんです。それが何か知能の低い下級霊とか低級霊みたいな、自分を構成する要素のような声だって判ったんです。更に実態的には自分と同じ体内にいる存在である事も判ってきました。そいつらが物凄く鬱陶しくて、夜、疲れて眠ろうとすると、いつも邪魔されて、眠れなくて、何だかくたくたに疲れちゃいまして、それでもう精神科に行って、この問題を解決してくださる先生に相談しようと思ったんです」
「そうですか。それじゃあ、一寸血圧を測ってみましょうかね」
「はい」
診察室の左奥に腰かけて書き物をしている女性看護師に、「一寸血圧測ってくれるかな?」と精神科医が体を捩って振り返りながら言う。看護師はさっと立ち上がり、血圧計を診察机の上に置くと、俺の血圧を測る。
「上が一四〇の、下が九〇ですね」と看護師が精神科医に言う。
「少し高いね」と石橋先生が言う。
「先生はテレパシーについてもよく御存知なんでしょうか?」
「主にそういう関係の事を相談されます。何かテレパシーについて御関心がお有りなんですか?」と石橋先生が俺の顔を見つめて言う。
「関心って言うか、或日突然、霊に心の中の会話を強いられて、自慰行為中にはオナペットの声が聴こえたり、人間のテレパシーをキャッチするようになったんです。僕はそういう現実には馴染みがないので早く元の世界に戻りたいんです。でも、自分の心の中の事を霊の方が聴いている限り、それは無視出来るような現実ではありません。ぼんやりとしている事も出来ず、苦しみを感じています」
「それは空中の何もないところから聴こえる幻の声と同じ現象なんです。それを精神科では幻聴と言います」と石橋先生が真剣な眼差しで言う。「あなたが霊だとか、人間のテレバシーだとか区別して、人間の方だけをテレパシーと解釈されていますが、どちらも同じ幻聴です」
「げんちょうってどういう字ですか?」
「幻に聴覚の聴、聴くっていう字です」と石橋先生が説明する。
「俺は病気なんですか?」
「精神分裂病と言う病気の特徴的な症状の表われです」と石橋先生が冷静な態度で言う。
「あのう、超能力が本物であるか偽者であるかは精神科医さんが御判断されるんでしょう?」
「私は医師として病気の症状をお伺いし、病気である場合には治療する事をお勧めします。精神科医は飽く迄医師です」と石橋先生が御自分の立場をはっきりと示す。
「私は超能力というものはてっきり精神科医さんが証明して、初めて公的に認められるのだとばかり思っていました」
「超能力のせいで日常生活に妨げがあるような場合にはほぼ病気に因る症状が複雑化したものであるケースが多いです。そもそも自分が全くの超能力者であると信じるなら、あなたも態々精神・神経科に受診に来る必要はない訳です」と石橋先生が問題を突き詰める。
「ああ、そうですね」
「自分の超能力が本物だと思うなら、超能力者として社会でお仕事をされる事だって出来ます」と石橋先生が超能力者について説明する。
「僕が初めてテレパシーを経験したのは」
「ええ、それは何時頃でしたか?」と石橋先生がカルテに何かを書きながら訊く。
「一週間ぐらい前です」
「なるほど」と精神科医は言って、カルテに何かを書き込む。
「僕が初めてテレパシーを経験した時は周囲の人達の噂話だと思いました。それが体内にいる存在だと判ったのは、自動書記で絵を描く能力を彼らに発見した時です。その後に感覚の気圧みたいなのが破裂しました。今でも昔のようなバランス感覚が戻っている訳ではありません」
精神科医は引き続きカルテに何かを書き込む。
「最初は東京でストーカーみたいな人達の噂話を聴いていたんです。周囲にいる人達に心の中が筒抜けになっている事に気づいたら、一時対人恐怖症のようにもなりました。長崎に引っ込んでからも、東京の人間の生霊の噂話や人間に憑依する霊の声を聴いたり、イギリスに留学しているらしい初恋の人とテレパシーで話したりもしました」
「なるほど」と精神科医は言って、何かカルテに書き込む。「人の噂話が気になり始めたのは何時頃ですか?」と石橋先生が質問する。
「ううむ、それも一週間前ぐらいですね」
「それ以前におかしな事はありませんでしたか?」と石橋先生が質問する。
「高校の頃の寝起きによく幽霊のようなヴィジョンを見ました」
「今、何歳でいらっしゃいますか?」と石橋先生が質問する。
「二十二です。今年の誕生日で二十三になります」
「高校時代は四、五年前ですね。ホラー映画とかはお好きですか?」と石橋先生が質問する。
「はい。最近は不安で観なくなりましたが、昔はよく観てました」
「ああ、無理に観ないのは良い事です」と石橋先生が俺の判断を誉める。
「でも、何か異変があったからと自分が好きだったものを捨てるのは嫌なんです。今は精神状態が不安定なので観ないだけです」
「ですからね、それは良い判断なんです。嫌だなと思っている時に嫌なものを無理して観るのはおかしいんです」と石橋先生が真剣な目で言う。
「なるほど。その辺の事は自分の精神力の弱さかと思ってました」
「氏川さんは幻聴が聴こえてきて、一週間が経過した時点で精神科を受診されました。どちらかと言うと、病院に保護されるのが非常に早いんです。発見が遅い方は御自分で努力され過ぎていて、こちらの言葉をあまり素直に受け入れてくださらない事が多いんです。幻聴塗れの中で新たに御自分の生活スタイルを組んでしまって、それをこちらが壊す訳にもいきません。そう言う方には長く入院して戴いて、前の生活から離れて戴くんです。そう言う長い入院過程を経て戴いても、退院後長く幻聴が消えないケイスもあります。一生幻聴が消えないような人も三〇パーセント程いるんです。そう言う方は御自身でもとても勉強されます。身になった御経験も非常に多いです。しかし、我々が診察を通してよく見受けられるのは、病気の症状の波が繰り返し起きる事です」と石橋先生が長期的な治療計画を説明する。
「私の症状は軽いんですか」
「幻聴というものは必要な現象ではないんです」と石橋先生がはっきりと言い切る。
「確かに必要なものではありません」
「氏川さん、初回診察で精神疾患が認められた場合には、治療のため一定期間入院して戴くんですが、宜しいですか?」と石橋先生が確認する。
「ああ、そうなんですか。いやあ、正直なところ、精神病院は恐いんです。色々と先生に教えて戴いて大分気持ちが落ち着いたので、通院にして戴けませんか?」
「楳図かずおの『へびおばさん』みたいなのがいる暗くて恐い病棟ではありません。近代的な冷暖房を完備した清潔で静かな病棟です。変な人がいるというイメージをされるかもしれませんが、あなたが話しかけたら、あなたと同じように一寸変わった経験談を話すような患者さん達がいるだけです。皆さん、あなたと同じぐらい穏やかな人達です。凶暴な麻薬中毒者が入るような病棟ではありません」と石橋先生が病棟の説明をする。
「ああ、そうですか。でも、今日は一端家に帰りたいな」
「御自分ではお気づきにならないかもしれませんが、相当に疲れている筈です」と石橋先生が客観的な視点で判断する。
「ええ、まあ、そうですね」
「今、注射を打って、ぐっすりと病棟で眠れるようにします。入院手続きや入院生活に必要なものは御家族の方に御連絡して、お家から持ってきて戴きますから、御安心ください。ちゃんと御家族の方にも御会い出来ますから」
「ああ、いやあ」
女性看護師が注射の準備をする。背後から二人の男性看護師が俺の体を押さえる。女性看護師は俺の腕にゴムを巻く。
「一寸チクッとしますが、我慢してくださいね」と女性看護師が一見優しそうな緊張感のある声で言って、注射を打つ。俺はこの流れが物凄く暴力的な展開に感じ、悲しみを募らせる。無抵抗の者に注射を打つ必要はないだろう!これは絶対に違法行為だ!
「それではお疲れでしょうから、これから病棟の方に御案内致します」と俺は若い男性看護師に案内され、診察室のある本館の外に出る。何処に連れていかれるんだろう。段々と体の力が抜けていく。眠たくて足元もふらついている。
「大丈夫ですか?」と若い男性看護師が笑顔で訊く。
「はあ。何か体の力が抜けてきて、段々と眠くなってきました」
俺はこんなに疲れていたのか。
「病棟に着いたら幾らでも眠れますから、もう少し頑張って歩いてくださいね」と若い男性看護師が笑顔で俺に言う。
若い男性看護師と道路向こうの別館に入る。若い男性看護師がエレヴェイターのボタンを押す。エレヴェイターが降りてくる電子音が鳴り、エレヴェイターの扉が開く。若い男性看護師二人が俺の両脇に腕を通し、俺をエレヴェイターに乗せる。若い男性看護師の一人が三階のボタンを押す。エレヴェイターの中の沈黙が妙に緊張する。幻聴は不思議と聴こえてこない。
エレヴェイターが三階に着き、扉が開く。若い男性看護師の一人が病棟の扉を鍵で開ける。赤い寝巻きを着た三〇代前半ぐらいの虚ろな目をした女性患者が俺の目の前を横切る。我々は病棟に入る。我々は広間を通って、手前から二つ目の病室に入っていく。
「じゃあ、このベッドで休んでいてください」と若い男性看護師の一人が言う。
「はい」
俺はもうこれ以上立っていられない。俺は素直にベッドの上に上がり、ベッドに体を預けるようにして横になる。溜まっていた疲れが一挙に出る。これでやっと眠れるのか・・・・。
俺は夢も見ず、赤い夕日が窓から差し込む六人部屋で重く気怠い目覚めを迎える。窓際のベッドから頭を起こして周囲を見回すと、真向かいの窓際に十代後半ぐらいの青年がいて、その左隣に三〇代ぐらいの青年がいて、二人共俺を見ている。左隣のベッドの三〇代ぐらいの男性はベッドの頭の柵に背を凭れ、週刊誌を読んでいる。 精神病院の中はテレパシーを遮断する何かが仕かけられているのか。病棟の中にいる患者達は、皆、俺より元気そうに見える。俺はベッドから足を下ろし、靴を履いて立ち上がる。俺は膝から落ちるように体のバランスを崩す。よろめいて左隣のベッドとの間のテーブルの角に強く額を打ち付け、左膝も強く床に打ちつける。
「大丈夫ですか!」と左隣の週刊誌を読んでいた男性が俺を心配して声をかける。余りの痛さに声も出ない。俺は床に胡坐を組むように座り込む。額と左膝をよく摩る。こんなに力を失う程疲れていたのか。俺はベッドの横の柵に手をかけ、再びベッドの上に戻る。子供の頃からこういう打ち身が不思議と大事に至らない。
病室に若い女性看護師が一人入ってきて、「氏川さん、お目覚めですか?」と俺に笑顔で訊く。なかなかの美人だ。
「もう少ししたら、先生がいらっしゃいますから、もうしばらくお待ちください。今、御両親が氏川さんの入院手続きをされてます。ちゃんといらしてますからね。何か冷たいものでもお飲みになりますか?御両親が買ってきてくださったジュースがデイルームの冷蔵庫に入ってますけど」と女性看護師が状況を説明する。
「ああ、喉がカラカラなんで飲みたいです」
「もう歩けますよね」と看護師が笑顔で言う。
「どうかなあ」と俺は言い、ベッドからゆっくりと足を下ろし、靴を履いて歩いてみる。「今、先、ベッドから下りて立ち上がったら、よろけてお隣のベッドとの間のテーブルの角に頭を打ち付けちゃって、左膝も強く床に打ち付けたんですよ」
「頭と左膝はどうですか?」と看護師が心配そうな顔で訊く。
「何ともないです」
「そうですか。気をつけてくださいね。その棚のところにお母様が買っていらしたお菓子もあります」と看護師が説明する。
俺は棚を見上げて確認すると、「はい」と答える。
「一緒にデイルームに御案内します」と看護師が先頭に立って振り返りながら言う。
「はい」
俺は若い女性看護師にデイルームに案内される。
「こちらがデイルームになっております。患者さん同士のお喋りはなるべく病室の外のこのデイルームでなされるように御案内しております」と看護師が病棟の規則を説明する。
「ああ、はい」
「デイルームの冷蔵庫はこちらです」と看護師は言って、冷蔵庫の扉を開ける。「こちらに氏川さんとマジックペンでお名前を書いたジュース類があります」
「ああ、はい。じゃあ、コーラを一本飲みます」
俺はよく冷えた『コーク』を取り出し、缶の蓋を開けると、炭酸の刺激を口の中に受けて、冷たいコーラを喉に流し込む。
「うう、美味い!」
俺はデイルームと呼ばれる広間を見回す。俺はよく映画『カッコーの巣の上で』を好きで観ていた。精神病院の中に全く関心がなかった訳ではない。若い女の子も沢山いる。元気そうな若い女の子達が反対方向の廊下沿いにある病室から続々と現われる。
『桜井真希との出会い』
「今日、入院された方ですか?」とその中の一人の女の子が俺に声をかける。長く黒い髪に金縁眼鏡をかけた、一七〇センチぐらいの背丈の二〇代前半ぐらいの女の子だ。眼鏡が知的な印象を与えず、何処となく色っぽい。顔立ちはなかなかの美形だ。ヤリマンと言う表現がぴったりな女の子で、やたらとセックスを期待させる。こんなところで思いがけずセックスが出来そうで、精神病院の入院生活に楽しみが加わる。
「ええ、そうです」
「向こうのソファーに座って、お話しませんか?」と女の子が俺を誘う。
「ああ、はい」
俺はその女の子と並んで、誰も座っていない大きなTVの前のソファーに腰を下ろす。女の子は俺の右隣に腰を下ろす。
「お名前何て仰るんですか?」と女の子が俺に訊く。ミニスカートの脚が色白で細い。
「氏川正道と申します」
「私、桜井真希って言います」と女の子が明るい声で名前を名乗る。
アイ・ラインの化粧が七〇代風で濃い。俺好みの女の子だ。俺は桜井真希ちゃんの魅力に喰らいつくような勢いで、「何か病気なんですか?見たところ全然そう言う風には見えませんけど」と積極的に話しかける。
「幻聴とかが少しあるんです」と桜井さんが不安気な顔で言う。
「幻聴。その言葉、先、診察室で聞いたばっかりです」
「私もここ入って教わりました。幻聴あるんですか?」と桜井さんが親しみを感じさせる態度で言う。
「ええ、まあ。今はないですけど」
「お幾つですか?」と桜井さんが探るような好奇の眼で言う。
「二十二です」
「私も二十二です!同級生ですね!今年二十二になったんですか?」と桜井さんが積極的に訊く。
「いいえ、今年の五月で二十三になります」
「ああ、やっぱり、同級生です!」と桜井さんが嬉しそうに言う。
「へええ、そうですか。じゃあ、同じ年ですね」
「何処に住んでらっしゃるんですか?」と桜井さんがどんどん俺の実像に迫る。
「大森です。住所と電話番号教えっこしましょうか?」
「良いですよ。じゃあ、私、今、部屋に行って紙に書いてきます」と桜井さんがソファーから立ち上がりながら言う。
「俺、今、書くもん持ってないんです」
「ああ、じゃあ、メモ用紙持ってきます」と桜井さんが気を利かす。
「ああ、済みません」
細いけれど、体に柔らかな丸みがある。胸も全くない人よりは形の良い胸がふっくらと盛り上がっている。眼鏡の似合う綺麗な子だ。お母さん達来ないなあ。ああ!そうだ!部屋にお菓子があったっけ!お菓子を取りに行って、あの子と一緒に食べよう。六人部屋に再び戻ると、同室の人達が俺を見る。俺は病室の入口に立ち止まり、「今日、入院してきました氏川正道と申します。どうぞ宜しく御願いします」と挨拶をする。同室の人達はとても感じの良い人達で、一人一人笑顔で自己紹介し、「よろしく御願いします」と挨拶する。
ベッドの脇でお菓子を選んでいると、一〇代後半ぐらいの細っこい小柄な男の子が近づいてきて、「僕、中西栄太って言います。済みませんけど、僕の肩を両手で掴んで、『大丈夫だ!』って言って戴けませんか?」
「良いですよ」と俺は言い、栄太君の両肩を掴み、「大丈夫!」と言ってあげる。
「あの、『大丈夫!』じゃなくて、『大丈夫だ!』って言ってください」
「ああ、はい。ごめんごめん。じゃあ、行くよ。大丈夫だ!これで良い?」
「はい、ありがとうございました。ああ、不安が消えたあ。一寸待っててくださいね」
栄太君は自分のベッドに戻り、『週刊少年ジャンプ』を持ってくる。
「これ、お礼に差し上げます。昨日出たばっかりの『ジャンプ』です。僕はもう読んだので、宜しければ」
「いやいや、いいですよ、お礼なんて。お気持ちだけ受け取らせて戴きます。ありがとう」
俺は『キャラメルコーン』を持って急いでデイルームに戻る。桜井さんがソファーに座って俺を待っている。
「一緒に食べましょう」と俺は桜井さんに言い、桜井さんに『キャラメル・コーン』の袋を開けてあげ、「はい」と言って、袋ごと『キャラメル・コーン』を桜井さんに手渡す。
「ああ、済みません。いただきまあす!・・・・ああ、美味しい!」と桜井さんが笑顔で言う。
「俺、実は『キャラメルコーン』大好物で、昔から時々食べるんです」
「私も!あのこれ、名前と住所と電話番号と私の生年月日と血液型を書いた紙です。失くさないでくださいね」と桜井さんが花柄の模様のお洒落な紙片を差し出す。
「ああ、ありがとう」
「この手帳に氏川さんの事書いてください」と桜井さんが手帳とボールペンを差し出す。
「ああ、書く書く」と俺は言って、桜井さんの手帳とボールペンを受け取る。
俺は桜井さんが黙々と『キャラメルコーン』を食べている音を左隣に座って聞きながら、彼女のアドレス帳に自分の名前と住所を書く。
「字、上手いですね」と桜井さんが俺の字を誉める。
「いやあ、字はあんまり自信なくて」
「上手いですよ」と桜井さんが力強く字に自信を持たせる。
「そう?ありがとう。あなたの字はほんと達筆ですね」
「あたし、習字習ってました。二段です」と桜井さんが誇らしげに言う。
「おお!凄いね!」
俺は電話番号を書き、生年月日と血液型を書く。
「桜井さん、蒲田に住んでるんですか?」
「ああ、はい。真希で良いですよ」と桜井さんが砕けた呼び名を提案する。
「ああ、じゃあ、真希ちゃん」
「親許で暮らしてます。仕事もしてたんですけど、入院する事になっちゃって。これ、最後に皮付きのピーナッツが残るんですよね。それがまた美味しくて、子供の時は底の方に手を入れて、先にピーナッツ食べてました」と真希ちゃんが俺に子供の頃の自分の事を話す。
「ああ!俺もよくやった!やった!はい。俺の住所とか色々書いたから、とりあえず返しときますね」
「ああ、はい。ありがとうございます。へええ、大森に住んでるんですか。電話とかしても良いんですか?」と真希ちゃんが積極的に俺との心の距離感を縮めていく。
「ああ、勿論良いですよ。入院生活長いんですか?」
「半年経ちました」と真希ちゃんが明るい顔で言う。
「へええ!半年もいるの!しかし、遅いなあ。なかなか来ないな」
「誰がですか?」と真希ちゃんが慌てたように言う。
「親なんですけど、今、ずっと来るの待ってて。あっ!来た!」
「あの人がお母様ですか?」と左隣に座っている真希ちゃんが俺の両親を首を伸ばして見る。
「ちょっと行ってきます」と俺は真希ちゃんに言って、出入り口の方に向かう。可愛い女の子がもう一人いるな。あっちの二人の女の子は全然地味だ。
出入り口のドアの鍵を割烹着を着たお婆さんが開けている。扉が開くと、父と母が病棟に入ってくる。母が出入り口の前の廊下で私と向き合い、「どう?落ち着いた?」と俺に様子を窺う。
「うん、まあね」
「突然、精神科から電話があったから、びっくりしたわよ。お母さん達、先生とよくお話してね、病気の事色々と説明して戴いたからね」と母が散々心配した様子を顔付きに残して言う。
「うん」
「何で何の相談もせずに独りで精神科なんかに診察受けにいくのよ!」と母が泣き出しそうな顔で言う。
「いやあ、相当キツかったし、緊張感が並じゃなかったから、精神科医に救いを求めたんだよ。でも、即精神病院に入院とは思わなかった」
「毎日、夕方に面会しに来て、差し入れもしてあげるからね」と母が愛情深く言う。
「うん。ありがとう」
「お部屋の方々にはちゃんと御挨拶した?」と母が俺の細かい礼儀を確認する。
「うん、した」と俺は少し母を気遣って答える。
「着替えとか日用品は家から持ってきて、お部屋に仕舞ってあるからね。判んないといけないから、今、お部屋に行って、お母さんが仕舞った場所教えるから」と母が俺の世話を焼く。
「うん」
俺は母の後に着いていく。母の存在がとても温かく、頼もしくもある。俺は母との話し方や歩き方が真希ちゃんやもう一人の可愛い子にマザコンぽい印象を与えないように注意する。病気の治療より、あの子達のどちらかと初体験したい。頭の中に全部の声が収まったのか。幻聴は真っ直ぐ同じ体の方向と姿勢で狭いところに犇くように詰め込まれているのか。自分だけ幻聴に囲まれて不安が募るのを我慢していたんだな。
「聴いてる?」と母がこちらを見上げて何か確認する。
「えっ?ああ、今、考え事してた」
「何かここのところいつも心ここにあらずでいたわよ。あんまり変な事に気を取られちゃダメよ」
「どうですか、氏川さん?」と背後の入口辺りから男性の声に呼びかけられる。振り向くと白衣を着た背の高い石橋先生が病室の入口に立っている。「先程診察室でお会いした石橋です。これから私が氏川さんの主治医として診察や治療をさせて戴きます」
「ああ、宜しくお願いします」
「よく眠れましたか?」と石橋先生が俺の様子を訊く。
「はい、ぐっすり眠れました」
「病室の人達と病気について話したり、よく眠って神経を休めたりしながら、心が落ち着くまで様子を診ていきましょう」と石橋先生が入院生活の案内をする。
「ああ、はい。ここ、幻聴を遮断してるんですか?」
「幻聴を遮断する機械なんてものは存在しません。ここに入ると聞こえませんか?」と石橋先生が笑顔で言う。
「はい、全然」
「それは良い事ですね。これから毎日、私が顔を出して御様子をお伺いしますから、何か質問が御有りでしたら、何でも私に訊いてください」と石橋先生が確かな存在感で俺を安心させる。
「ああ、はい。ありがとうございます」
この先生は先々まで俺の病気の進展を見通してるのか。医師と患者。俺は自分の精神力の限界に達してこの病院に飛び込んできた。自分の経験している不思議な現実を病気とも判断出来なかった。
「病気が治るまでには長い時間がかかるかもしれません。でも、完全に治るまで入院させておく訳ではありません。病気を治す事ばかりではあなたの人生が闘病生活だけになってしまいますからね。お薬に関してもその内説明させて戴きます。ここの生活の良くないところがありましたら、詰所や私に言いに来てください。しばらくしたら、院内外出も出来るようになります。病棟内だけにずっといたら、息が詰まりますからね。院外外出や外泊もその内出来るようになります。少しゆっくりとここで静養してください」
「ここに来る途中、立ってるのがやっとで、こんなに自分は疲れていたのかって思いました」
「ああ、それは診察室で注射を打たれたでしょう?その薬の効き目です。ああ、そろそろ夕食ですね。今度は夜の分の薬を飲んで戴きます。寝る前には睡眠薬も出ます。人間、睡眠薬なしにはそんなに一日に何度も眠れるものではありませんからね。病気の治療上、病棟の消灯後は眠るのが規則です。初回入院後は早寝早起きの生活を守って戴きます。その規則が守れず、再び不眠が見られる場合には再入院して戴く事もあります。良いですか?」
「はい」
女性看護師がデイルームの方で、「お薬ですので、カップにお水を汲んで、列に並んでください!」と大声で病塔内患者に呼びかける。
「カップ?」
「カップは売店で買ったのをそのベッドの脇のテーブルに置いてあるわよ」と母が言う。
「ああ、これか。あんまり汲んだお水が美味しそうじゃないな」
「グラスがダメなんですって」と母が説明する。
女性看護師が一人、病室の入口から入ってきて、「「氏川さんは初めてなので、一寸説明させて戴きます。氏川さん、夕のお薬と夕食の御時間なので、デイルームの方にいらしてください」と俺に言う。その看護師がまた可愛いくて、デイルームの冷蔵庫に案内した看護婦ともまた違う。
「じゃあ、お母さんはお部屋であなたが食べ終わるのを待ってるから、あなたは安心して夕食を食べてらっしゃい」と母が俺に言う。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。ベッドに座ってて良いよ」
「お母さんは大丈夫だから、あなたは何も心配しないでゆっくりと御飯食べてきなさい」と母が落ち着いた口調で言う。
「お水を病室の水道からカップに汲んで、表の薬待ちの列に並んでください」と看護師が説明する。
「ああ、はい」
俺はカップを手に取り、病室の水道からカップに水を汲み、病室を出ると、あっと言う間に廊下に薬待ちの行列が出来ている。
自分の番が来ると、男性看護師が薬の子袋を手に持ち、「お口開けてください」と言い、俺の口に薬を入れる。
「お薬を飲んだら、夕食の載ったトレイを受け取って、御自分の名札のあるトレイかどうかを確認してください」と看護師が説明する。
「ああ、はい」
夕食の載ったトレイを女性看護師が手渡す。患者の名前の札がトレイ一つずつに載っている。受け取った夕食の載ったトレイには自分の名札が載っている。日付け入りの献立表の紙もある。漫画の役に立つかもしれないと、献立表の紙を集める事にする。
俺が食事のトレイを受け取ると、「お食事のお席は毎回所定の席でお願いします。氏川さんはここです」と女性看護師がデイルームの通路越しにある食堂の右端の列の一番手前に案内する。俺はその席の前にトレイを置き、椅子に腰を下ろす。夕食はハンバーグとフライド・ポテトとサラダと茶碗に盛った御飯と小さな紙パックのグレープ・ジュースだ。トレイに載った夕食の献立表を確認する。席の眼の前には先程のもう一人の可愛い子が座っていて、夕食を食べている。真希ちゃんの体よりずっと細く、美形の顔立ちも骨っぽい。首や手首はほとんど骨の細さだ。俺は彼女が顔を上げるまで見つめ続ける。彼女が俺を一瞥する。彼女は再び食事に集中し、視線を食べ物に向ける。俺と喋る気はないんだな。向かいの列の一番奥の席に真希ちゃんが座っている。真希ちゃんは席から立ち上がり、トレイを持ってこっちの方に歩いてくる。もう食べ終えたようだ。真希ちゃんはトレイの上の食事を大分残している。ハンバーグは薄味だ。
「氏川さん、夕食食べ終えたら、またお話ししましょうね」と真希ちゃんが俺をもう一人の可愛い子の背後から見下ろして言う。俺は緊張気味に、「ああ、はい」と返事をする。真希ちゃんの方が顔も体も良い。真希ちゃんは声に張りがあり、非常に元気が良い。可愛いのを当たり前に受け止め過ぎて、美声である事を軽視していた。もう少し好きって気持ちを素直に前面に押し出したい。うっかりしていたら、折角の可愛い女の子を横合いから奪い取られそうだ。何とか真希ちゃんに自分の気持ちを告白したい。焦り過ぎかな。まだ遇ったばかりか。向こうの中味は全く知らない。
夕食を食べ終え、病室にいる母のところに行く。
「食べた?」と病室に立っている母が俺に訊く。
「食べたよ」
「洋服や下着は上の扉に整理して置いといたからね」と母が上の物置の扉を開いて説明すると、「じゃあ、明日の夕方にまた面会しに来ますから、それじぁあね」と言う。俺は母が去る事を告げた途端に心細くなる。
「もう帰るの?」
「また明日来ます。今夜はゆっくりと寝て、疲れを癒してね」と母が帰り辛そうに言う。
「うん」
何だか子供みたいに泣き出しそうだ。俺は母に、「それじゃあね。また明日」とお別れを言う。周囲の人達の存在を意識し、少しカッコ付けたくなる。子供の頃から母に去っていかれる経験をした事がない。母はいつも自分の傍にいてくれる温かい存在だった。母は独り出かけていく俺をいつも見送る役だった。俺は母に着いていき、出口まで付き添う。母が勤務室の扉を開け、看護師らに挨拶をする。若い男性看護師が勤務室から出てきて、病棟の入口のドアーの鍵を開ける。母は丁寧にお礼をして出ていく。「それじゃあね」と母が手を振って病棟を出ていく。母が鍵を閉めたガラスの扉の向こうで俺に手を振る。悲しみが募る。何で自分がこんな悲しい思いをさせられるのか理解出来ない。母はエレヴェイターの中に姿を消す。俺はデイルームを見回し、真希ちゃんの姿を捜す。デイルームにはいないようだ。ソファーのテーブルの上に俺の『キャラメルコーン』が置いてある。ソファーはTVを観ている老人達で埋まっている。俺はテーブルの上の『キャラメルコーン』を取り、カーペットに腰を下ろす。TVには音楽番組が映っている。俺は『キャラメルコーン』を食べながら、幻聴の事を思い出す。
「氏川さん!」と頭の上の方から女性の声が『キャラメルコーン』を食べる俺の名を呼ぶ。顔を上げて見上げると真希ちゃんが素晴らしい笑顔で立っている。白い寝巻きを着た清潔感のある美しい姿だ。何でこんな綺麗な子がこんなに積極的に俺に話しかけてくるんだろう。こんな綺麗な子にモテる経験は過去に一度もない。こんな可愛い子にこれ程積極的に話しかけられるような経験も一度もない。俺は昔から硬派で、女にデレデレとした態度を取る事を厳しく自分に禁じてきた。ヤレる女を微妙な好みの関係でヤラずに済ませてきた。これは恋人を作るチャンスなのか。この子も恋人にせずに素通りするのか。セックスが恐い。動く温かい女の体を抱くなんてとても出来ない。セックスへの流れも切っかけも判らない。膣が股の何処にあるのかも判らない。判らないから経験のないままこの年になったのだ。二十二歳の童貞なんて世の中まだまだ沢山いるだろう。結婚して童貞を解決する人生では女性遍歴は築けない。今の時代、女性遍歴を持たない男なんて余程生真面目な男だ。幻聴で盛んに指摘されたのは童貞の事だった。俺は心の中でしっかりと彼らに童貞である事を打ち明けた。入院中に真希ちゃんとヤレるなら、外に出ても普通の人になれる。婚前交渉をするような人間が果たして普通の人だと言えるのか。そんな事で天国に行けるのか。しっかりしないと危険だ。俺は過去の悪業ですっかり天国に入る自信を失っている。ずっとセックスの機会にギラギラと眼を光らせて生きてきた。この病気になったのは天国に入るために必要な悪業の報いなのか。このままでは天国には入れないのか。姦淫の罪はきっと重いだろう。学生の時には婚前交渉をするのは西洋人だけだと思っていた。姦淫をする西洋人は全部地獄に堕ちると思ってきた。日本人が変わってきたのか。日本人が西洋化し始めたのか。果たして西洋人や西洋人の影響を受けた日本人は全て地獄に堕ちるのか。そんな訳ないだろう。セックスなんて好き合った者同士自由にしても良いんじゃないだろうか。これはチンコを中心にした性欲で判断しているのか。学生の頃はチンコを中心にした性欲で判断するような男性的な性の目覚めはなかった。
「『キャラメルコーン』美味しかったですよ」と真希ちゃんが明るい顔で言う。
「ああ、良かったですね」
もう話しかけられてる。セックスはしたい。この子は本当にヤリマンなのか。寝巻き姿は天使のように別人だ。真希ちゃんが俺の真ん前の絨毯に腰を下ろす。ああ!この生きた女の前の緊張感!体が不自然に震えてくる。女って、好きなタイプの男とは結婚前にもしたいのか。
「何か考え事してますか?」と真希ちゃんが不安そうに訊く。
「うん。一寸してます」
「氏川さんって、彼女いるんですか?」と真希ちゃんが俺に探りを入れるように訊く。
「彼女なんて生まれてからずっといませんよ」
「あたしもいません。恋愛経験も一度もありません」と真希ちゃんが自分の事を打ち明ける。
「へええ!経験者に見えましたよ!」
「氏川さんって、あたしの完璧な好みの男性なんです。あたし、病的な面食いでなかなか恋人が出来ないんです」と真希ちゃんが半分自慢するように言う。
「俺、病的な面食いの人に好かれる程モテないですよ」
この子、怪しいな。誰でも良い女の癖して物凄く業とらしい言葉で口説きやがる。こんなヤリまくってるような女なんて、たとえヤッたとしても、絶対に恋人になんかしてやるものか。ヤリマンって感じの女はこれまで通り敵視しなければいけない。
「あたし、よく遊び人に見られるんです」と真希ちゃんが打ち明ける。
「ああ、美人だからね。僕もよくそう見られます。真希ちゃんは恋人とかいたんじゃないの?」
「あたし、昔から家族とか親戚の中では美人ってポジションにはいないんです。面白いとはよく言われます。女の子達の中でも面白いで通ってるタイプです。好みではない男の人には相当意地悪で冷たいです」と真希ちゃんが意外な真実を打ち明ける。
「へええ!そういう風に自己紹介されると、イメージが修正されます」
「イメージ定まってきましたか!良かった良かった。氏川さんってクールですね。氏川さんって相当モテてるタイプだったと思いますよ」と真希ちゃんがまた俺を誉める。
「いやあ、女性には告白された事もないです。ヴァレンタイン・デイは毎年手ぶらで帰宅。クリスマス・イヴは家で家族と御馳走。東京ディズニー・ランドで恋人と一泊なんて経験は全くないです」
「ややっこしいな。これは手強い。あたしは気合を入れて、ちゃんと氏川さんを彼氏にしてみせます!」と真希ちゃんが力の籠もった声で言う。
俺は心の底から大笑いする。本当にこの子は面白い子だ。俺って恋愛相手にするのが手強いタイプなのか!クールとかって、俺が作り込んでる自分の事だよ。それ以上にクールな面があるのかな。この子の色気は漫画っぽくて可愛い。
「女性がとことん褒め上げたような痕跡もないようですね。でも、心からカッコ悪いって思い込むような次元のルックスでもないです」と真希ちゃんが俺を分析する。
「あのう、俺の事恋人にしてください!」
「ええ!あたしの恋人になってくれるんですか!嬉しい!」と真希ちゃんが胸の前で手を組んで言う。
「いやあ、真希ちゃんのミテクレでそこまで素直にモーションかけられたら、どんな男でも落ちますよ」
「どんな男でも良い訳じゃないんです!最高に好みの男性が現われるのを辛抱強く待ってたんです!」と真希ちゃんが自分の真面目さを強調する。
「へええ!そういう風に言ってくれるのか!感激だなあ」
「秀樹!感激!ですか?」と真希ちゃんがふざける。
「ああ、はい(笑)。まあ、そんなところです。秀樹じゃないですけど」
「済みません!秀樹じゃないですよね!プライド傷つきますよね!そういう表現って無神経ですよね!あたしも何だろうと他人に例えられたらムッとします。済みませんでした!」と真希ちゃんが俺の心に一切の蟠りも残させまいと俺の心を整理するように謝る。
「いやいや、そこまで謝らなくてもいいですよ」
「でも、当たってますよね?」と真希ちゃんが問題を追究する。
「当たってます。根っこから謝ってくれてありがとう。満足です」
「氏川さんって、趣味何ですか?」と真希ちゃんが質問する。
「ああ、映画を観る事ですかね」
「あたしも話題作は必ず借りて観ます」と真希ちゃんが文化的な事にも通じている事を主張する。「好きな映画は何ですか?」
「『ブレードランナー』かな」
「どんな映画なんですか?」と真希ちゃんが俺の好きな映画に興味を示す。俺はそれが堪らなく嬉しい。
「近未来モノのSF映画です」
「面白いんですか?」と真希ちゃんが興味津々に訊く。
「俺にとっては最重要作品です」
「へええ、あたしもヴィデオ・レンタルで借りて観てみます」と真希ちゃんが映画『ブレードランナー』に興味を持つ。嘗てここまで食い付いてきてくれる女の子には出会った事がない。
「監督名まで知ってる映画ってありますか?」
「黒澤明の『夢』とか、『羅生門』ぐらいかな。好きな監督が沢山いるんですか?」と真希ちゃんが自信なさそうに言う。
『デイヴィッド・クローネンバーグに、デイヴィッド・リンチ、アンドレイ・タルコフスキー、スタンリー・キューブリック辺りは俺の中でも最重要監督ですね」
「聞いた事ないです。ヴィデオとか一杯持ってるんですか?」と真希ちゃんが尊敬の眼差しで訊く。
「持ってます」
「いっそ映画監督になれば良いのに」と真希ちゃんが提案する。
「俺、漫画家目指してるんです。でも、映画は撮ってみたいな」
「漫画好きなんですか?」と真希ちゃんが俺の胸の中に入り込むような眼差しで言う。
「好きな漫画は少ないんです。だから、自分で描こうと思ったのかもしれません」
「漫画って映画の精密な絵コンテと脚本を兼ねるようなジャンルですよね」と真希ちゃんが嬉しい事を言ってくれる。それは俺も以前からそう思っていた事だ。
「そうですね。俺、真希ちゃんの美貌を映像に収めたいな」
「美貌とか、そういうの錯覚ですよ!」と真希ちゃんが照れ臭そうに言う。
「自然に生きてる人なんですね」
「はい。音楽は好きですか?」と真希ちゃんが話題を変える。
「音楽は尾崎豊とピンク・フロイドしか聴きません」
「あたしは加藤登紀子とかザバダクとか溝口肇が好きです」と真希ちゃんが独特な好みを以て音楽鑑賞をしている事を打ち明ける。
「へええ、知らないアーティストばかりだな」
「CDとかテープ貸しますよ」と真希ちゃんが気軽に言う。
「ああ、じゃあ、俺も親に持ってきてもらって、CDとか貸しますよ」
「あたし、氏川さんの拘りの強さみいなのは直感的に判りましたよ」と真希ちゃんが女の勘を主張する。
「へええ!頭とかも良さそうですね。大学は何処ですか?」
「あたし、高卒です」と真希ちゃんがけろりとした顔で打ち明ける。
「ああ、俺と同じだ」
「同じじゃないですよ!」と真希ちゃんが怒ったような顔で言う。
「ああ、ゴメンゴメン」
「氏川さん風をやってみただけです」と真希ちゃんが言って笑う。
「はは!結構根に持つタイプですね。僕も無自覚ながら、多分、そういうところあります」
「俺もとか一緒にしてんじゃねえよ!」と真希ちゃんがふざけたような口調で言う。
「いやあ、さすがにそこまでズケズケ言えるタイプではないですよ」
真希ちゃんが俺の眼を見てにっこりと微笑む。ふざける時の変な顔と動物っぽい声が堪らなく可愛い。
「本って、どんな本読まれるんですか?」と真希ちゃんがまた話題を変える。
「本は小説をたまに読むぐらいです。安部公房とか村上龍の小説をコツコツ読んでます」
「あべこうぼうって知らないですね。何処の文庫に入ってる作家ですか?」と真希ちゃんが質問する。
「新潮文庫です」
「あたしは夏目漱石とか武者小路実篤が好きです」と真希ちゃんが自分の愛する作家を打ち明ける。
「夏目漱石は『こころ』を読みました。武者小路実篤って、薄い文庫本の人でしょ?」
「はい。あの薄い文庫本の中に武者小路の人生観や物事の価値感が魅力的に表現されてるんですよ。あの文庫本の薄さにこそ武者小路の美意識が表われてるんです。絶対、武者小路は読んだ方が良いですよ。『真理先生』とかがお薦めです」と真希ちゃんが自信を以て推薦する。
「漱石っぽいんですか?」
「武者小路も純文学の人だから、漱石と無関係ではないですね」と真希ちゃんが簡単に説明する。
「読む価値がある小説って事でしょうね」
「ええ。あたし、無駄な読書はしないタイプです」と真希ちゃんが自分の主義を主張する。
「真希ちゃんは文章とか書くんですか?」
「時々一行詩みたいな文章を書くぐらいですね。氏川さんは小説書けますか?」と真希ちゃんが俺の事を探る。
「小説も書こうと思えば書けると思います」
「ウチの姉が学生の頃に小説とか詩を書いてました」と真希ちゃんが家族の話をする。
「お姉さんがいるんですか」
「ええ、一人。二人兄弟です」と真希ちゃんが更に家族の事を話す。
「俺の兄弟は弟が一人いるだけです」
「この病院、書道とか木工とか色々とやらされるんですよ」と真希ちゃんが面倒臭そうに言う。
「へええ。何か始める切っかけにはなりますね」
「何の切っかけにもなりませんよ」と真希ちゃんがうんざりしたように言う。
「他に何をやるんですか?」
「絵を描いたり、楽器を習います」と真希ちゃんが病院の事を案内する。
「そっちの方が良いな」
「あたし、元々ピアノを習ってたんで、作業療法ではいつもピアノを弾いてます」と真希ちゃんが意外な特技を打ち明ける。
「作業療法って、ギターとかも教えてくれるんですか?」
「ギターはどうかなあ。ああ、弾ける人が自分のギター持ってきて弾いてますよ。川島さんって言う四十歳ぐらいの男の人です。その人から習えば良いんじゃないですか?」と真希ちゃんが突き放すように言う。嫉妬したのだろうか。
「ううむ、歌は音域が狭く、作詞作曲の才能はないけど、ギター弾けるようになりたいなあ。絵も良いなあ。油絵とかも始めたい」
「作業療法に油絵教えられる人なんていませんよ。クレヨンとか色鉛筆とか水彩絵の具ですよ。あたしは退院したら、デイケアとかには絶対に通いません。仕事を探します」と真希ちゃんが退院後の予定を語る。
「デイケアってつまんないんですか?」
「見学しに行った事があるんですけど、ノロノロっとした動作で、ヘロヘロっとした薄ら笑い浮かべて話す、パッパラパーみたいな頭の人達だけが物凄く内輪のノリで楽しそうに盛り上がってるんです。あたしとかが行くと、言葉とか字をよく知ってたり、計算が出来たりするだけで一目置かれたりするんです」と真希ちゃんは言って、笑う。
「へええ」と言って、俺も笑う。
「あっ!ユリアあああああ!あたたたたた!」と真希ちゃんが突然大声で俺の背後の方を見て叫ぶ。
「真希ちゃん、それ恥ずかしいから止めてよお」とその女性が不快げに言う。
「いいじゃん。あたしのユリアなんだから」と真希ちゃんがその女性への愛を主張する。
先のもう一人の可愛い子だ。
「ユリア、この人、新しく入院してきた氏川さん。あたしの彼氏になってくれたの。ユリア、氏川さんはあたしのだからダメだよ!」と真希ちゃんがその子に自分の恋人として紹介する。
「恋愛なんてする元気ないよ。あのう、あたし、片瀬由里って言います。宜しくお願いします。真希ちゃん、良い子なんで、宜しくお願いしますね」と片瀬さんが自己紹介し、女の友情を示す。
「ああ、はい。俺、氏川正道と申します」
片瀬さんは簡単な挨拶をし、直ぐに喫煙者のいるテーブルの方に歩いていく。
「何か向こう見てませんかあああ!氏川さああん!」と真希ちゃんが冗談とも本気とも見分けの付かない嫉妬心を曝す。
「いやいや」と俺は言って、笑い、「ちゃんと真希ちゃんの事想ってるから心配しなくていいですよ」と真希ちゃんを安心させる。
「ちゃんと私の事想ってるんですね!ちゃんと私だけを見てますね!」と真希ちゃんが俺が浮気をしていないか念を押す。
「うんうんうん。俺は浮気とかする自分は知らないけど、真希ちゃんの事は大好きだよ」
「あたしも氏川さん大好きです」と真希ちゃんは真面目な顔をして言い、目尻を手で拭う。涙?こんなに一人の女の子に好かれると、何かその内、自分を勘違いしそうだ。俺は幸せが全身に満ちるのを静かに味わう。声は似てないけど、『北斗の拳』の真似をする女の子って、男が皆好む女の子だ。「『北斗の拳』知ってるんだね」
「知ってますよ。氏川さん、ケンシロウに似てますね。眉毛がもっと太かったら、劇画総なめの顔ですよね。眼とかは少女マンガっぽくてキラキラですけど」と真希ちゃんが早口に言う。
「ああ。眼とかは昔から女の子が接近して見てました。眉毛は本当はもっとぶっといんです」
「じゃあ、あたしも接近して見ます」と真希ちゃんが身を乗り出して言う。
真希ちゃんの顔が間近に接近する。俺は素早く真希ちゃんの唇にキッスをする。勢い歯が真希ちゃんの歯に当たり、「ゴメン」と静かに謝る。
「あたし達遂にキッスをしましたね!あたし、多分、妊娠します!」と真希ちゃんが照れ臭そうにふざける。
「はは!」
「これから毎朝晩キッスしてくださいね!」と真希ちゃんが催促する。
「はい。します」
これから毎朝毎晩真希ちゃんにキッスが出来るのか!これが恋人を獲得する喜びなのか!漸く俺の人生に恋愛が訪れたんだな。
「氏川さんって、煙草吸うんですか?」と真希ちゃんが訊く。
「吸いません。真希ちゃんは吸うんですか?」
「あたしも吸いません。お酒は飲みますか?」と真希ちゃんが俺の事を探り続ける。
「アルコホールは全身が熱くなって、酔う感じが不快でダメなんです」
「あたしもお酒ダメなんですよおお。楽しみは何ですか?」と真希ちゃんがテンポ良く話す。
「先も言いましたが、ヴィデオ借りて、映画観る事ですかね」
「ああ、先、訊きましたよね。結構、家にいて楽しむ人なんですね」と真希ちゃんが意外そうに言う。
「ええ。そうですね。旅行とかもしたいんですけど、親父に似て出不精なんです」
「あたしを旅行に連れていってください!」と真希ちゃんが可愛らしくお願い事をする。
「ああ!俺、そういう表現されると調子に乗りますよ。俺、そう言うの本当に嬉しいんです」
「はああ」と真希ちゃんが本当の俺を知ったようにじっと俺を見つめて言う。
「ああ、なるほど。俺の事本当に好きなんですね」
「好きですよ。あたしの好みの男性です」と真希ちゃんが再び俺への愛を主張する。
「俺、ほんと、信じられなくて。この嬉しい気持ちを一人になって味わいたいんです」
真希ちゃんがにやりとする。何か面白いだろうか。
「あのう、あたしもそうなんですけど、これ、現実ですよ」と真希ちゃんが真面目な顔で言う。
「はい。そうでしょうね」
「幻聴聴こえてたの、今回の診察で初めて人に話しましたか?」と真希ちゃんが意外な事を訊く。
「はい。まあ」
「幻聴聴こえてから女性と話したの初めてですか?」と真希ちゃんが何かを探る。
「はい」
「あたし、本物の人間の女です」と真希ちゃんが俺の頭の何かを整理する。
「ああ、はい」と言って、笑うと、「そうですよね」と言って、理解者のいる幸せを感じる、
「あたしは氏川さんが好みの男性なんです」とまた真希ちゃんがラヴ・コールを送ってくる。
「ああ、嬉しいなあ」
「あたしも人生で初めて恋人が出来たんです」と真希ちゃんが嬉しそうに言う。
「信じられないなあ。真希ちゃんって物凄く可愛い美人さんですよ」
「そんな事言われた事ないです!」と真希ちゃんが厳しい目付きで否定する。
「ああ、真希ちゃんの人生はちょっと変わってるなあ。美人って感じで人に接してないのか。性格的には確かに美人の性格じゃないですよ」
「そうでしょう!だから、あたし、性格で恋愛に不向きってパスされるんです」と真希ちゃんが美しい顔をして意外な事実を打ち明ける。
「確かに性格に色気がないです」
「そうでしょう!やっとあたしが見えてきましたね!あたし、男にも女にも強気で生きてきたタイプなんです」と真希ちゃんが自信を以て言う。
「ああ!なるほど!そういう風に過去を説明されるとよく理解出来ます」
「好きな人は代々いましたけど、あたし、その、女に弱いところを見せられる男の人が好きなんです」と真希ちゃんが自分の女心を打ち明ける。
「ああ!それは俺だ!俺だ俺だ」
「氏川さんも変わってるって言えば変わってますよね」と真希ちゃゃんが笑いながら言う
「よくそう言われます」
「退院したら、何するんですか?」と真希ちゃんが退院後の俺の予定を訊く。
「直ぐに仕事をする自信はありません」
「デイ・ケアですか?」と真希ちゃんが残念そうに訊く。
「何とかプロの漫画家になりますから、俺のお嫁さんになってください」
「ええ!嬉しい!」と真希ちゃんが万遍の笑みを顔に浮かべて言うと、手で顔を覆い隠して俯く。泣かしちゃったかな。困ったな。笑顔で喜んでくれれば、それで満足したのに。どうしたら良いんだ。俺は真希ちゃんの直ぐ隣に移動し、真希ちゃんの頭を自分の胸に押し付ける。女子高生風の爽やか檸檬の匂いがする。真希ちゃんが俺の体に抱き付く。うわあっ!これは幸せだ!これが恋人のいる男の幸せか!恋愛って、こんなに幸せな気持ちなのか!肩に手を回す。柔らかくて温かい体だ。興奮し過ぎて鼻血が出そうだ。真希ちゃんの骨が折れないように優しく抱き締める。ムラムラとしてくる。密室にいたら、とっくにしたいようにしてるだろう。モノが立ってこない。真希ちゃんの顎を右手の指先で上げ、また唇にキッスをする。真希ちゃんの口の中は女の子らしい良い匂いがする。勢い舌を真希ちゃんの口の中に入れる。これが口の中の味か。真希ちゃんの舌が俺の舌を貪る。気持ちが良い。真希ちゃんがズボンの上から俺のモノに触れる。ああ、下着の中でイキそうだ・・・・。俺は真希ちゃんの左の胸を揉む。女の人の胸ってこんなに柔らかいんだな。ブラジャーしてないな。真希ちゃんの寝巻きの下から手を入れ、直に真希ちゃんの胸を触る。真希ちゃんが小声で、「痛い」と言う。
「ああ、ごめん。興奮して強く掴み過ぎました」
看護師が俺達の様子を見ている。
「真希ちゃん、看護婦さんが見てるから体離すよ」
「ああ!うん」と真希ちゃんが急いで俺の体から離れる。
「俺、一寸周りが見えてないよ」
「あたしも何か頭が熱くてぼうっとしてます」と真希ちゃんが朦朧とした目で言う。
「あの、俺、胸とか勝手に触っちゃって、ごめん」
「えええ!そんな事謝らないでくださいよ!あたしも何かお父さんの眼とか真っ直ぐ見て話せなそうです」と真希ちゃんが笑顔で言う。
「あの、何度も確認するようだけど、本当に俺と結婚してくれるの?」
「はい。結婚してください」と真希ちゃんが姿勢を正して言う。
「そうなんだ。そうなのか」
「氏川さんって真面目な人ですね」と真希ちゃんが言って、笑う。
「いやあ、それがそうでもないんだよ。先からずっと理性の限りを尽くして自分の欲望を抑えてるんだよ」
「嬉しい!」と真希ちゃんが胸の前で手を組んで、嬉しそうに言う。
真希ちゃんは両手で顔を隠して俯く。また泣かしちゃったかな。俺は真希ちゃんの肩を抱く。この柔らかい感触は大切なものの堅さなんだな。この檸檬の香りにむらむらっとした気持ちになる。また別の看護師が見てる。
「また看護婦さんが見てる」と俺は言って、真希ちゃんの肩から手を離す。
「ああ、ほんとだ」と真希ちゃんは言って、腰を浮かして座り直す。
「氏川さんは仕事は何してたんですか?」
「ヴィデオ・レンタル・ショップの店長やってました」
「あたし、バイトやってたんですけと、あんまり仕事続かないタイプなんです」と真希ちゃんが困ったような顔をして言う。
「今回は幻聴と妄想の関係で仕事辞めたんですけど、結婚したら、もう絶対に簡単には仕事を辞めません」
「あたしは入院前は化粧品屋の売り子をしていました」と真希ちゃゃんが俺の第一印象通りの仕事の事を打ち明ける。
「ああ、確かに化粧品屋のお姉さんって感じがします。やっぱり、仕事も美人業じゃないですか!」
「憧れですよ!憧れ!」と真希ちゃんが男の子のような口調で言う。
「誰が見ても美人としか思わない筈なんだけどなあ。見た目より中味の明るさがわあっと直ぐに外に出るから、美人だどうのってのが通り過ぎちゃうのかなあ」
「いえいえ、勿論、自分のナルシシズム的には相当に綺麗なお姉さんだと思ってますよ。周りが私を知れば知る程美人として認知しなくなるんです」と真希ちゃんが楽しそうに自分の事を語る。
「ああ、なるほど。多分、美人一つで通す女性としては面白過ぎるんでしょうね」
「でも、内にあるものを隠そうとしたところで、いざ人前で爆発的に喋っちゃったら、同じ事だと思いませんか?」と真希ちゃんが確認する。
「まあ、そうですね」と笑いながら言い、「でも、隠すって普通、人前では爆発しないものなんですよ」と言って、また笑う。
「ああ、そうか。そうなんだ」と真希ちゃんが自分の心を見つめるように言う。
「俺、人生設計とかって上手く思い描けなくて」
「私達まだ若いですからね。人生これからですよ。でも、夫婦揃ってバイトじゃ子供は養えないですね」と真希ちゃんが現実的な話をする。
「そうですね」
「寝る前の薬でえす!デイルームに来てくださあい!」と若い女性看護師が病棟の患者達に呼びかける。患者達が薬の載ったワゴンの前に一列に並ぶ。順番が来ると、患者達は一人ずつ口を開け、女性看護師に薬を口に入れてもらう。
「ああ、氏川さん、カップにお水を入れてこちらに来てください」と若い女性看護師が言う。
「あっ、はい」
俺は自分の胸に顔を埋めた真希ちゃんに、「真希ちゃん、薬だよ」と耳元で囁く。真希ちゃんがゆっくりと俺の体から離れ、「コップ持ってこないと」と言って、よろけるように立ち上がる。真希ちゃんは本当に肉感的で魅力的な体をしている。その上、あれだけ色白で美形の顔なのだ。
病室のテーブルの上の黄色いプラスティックのカップを取って、再び廊下に出る。女性看護師達は美人揃いで、俺の好みの女性が何人もいる。冷房の効いた快適な空間。清潔と言うよりも消毒された空間。椅子を引く音。スリッパの足音。寝巻きを着た病的な蒼白い顔の患者達。女性看護師が患者一人一人の名を呼ぶ声。両親の手から離されていく不安。鉄格子のある窓の外はすっかり暗く、室内には何時の間にか皓皓と白い蛍光灯の灯が点いている。喉がからからに渇いている。要約俺に薬の順番が回ってくる。
「氏川さん、これが氏川さんのお薬です。確かに氏川さんのですね?」と若い女性看護師が俺の名前が印刷された薬のセロハンの袋を俺の目の高さに掲げて確認する。
「はい」
「お口をああんって開けてください」と綺麗な顔をした若い女性看護師が俺に優しい声で言う。俺が口を開けると、看護師はセロハンの袋の中の薬を手馴れた手つきで俺の口の中に入れる。何とも苦い錠剤だ。こうやって薬漬けにされていくのか。異様な眠気。だるさ。口の中の渇き。こんなところには決して永くはいられない。カップを置きに病室に入る。
「氏川さん!」と病室の入口から女性の声が俺の名を呼ぶ。俺が振り向くと、真希ちゃんが入口に立っている。
「ジュース飲みながら、また一緒にお話しませんか?」と真希ちゃんが言う。
「ああ、今、行きます」
要約また横になれると思っていたところに真希ちゃんが呼びにきた。頭が猛烈に熱い。どんなに体調が悪く、環境が気に入らずとも、美人と過ごす時間だけは最優先だ。それは良い気晴らしにもなる。
「ここに二人座らせて戴いて良いですか?」と真希ちゃんがソファーに座ってTVを観ている老婆に言う。老婆は快くソファーの端に寄る。
「ここにどうぞ」と真希ちゃんが俺に席を勧める。俺がソファーに腰を下ろすと、真希ちゃんは先と同じく俺の右隣に座る。
「あのう、また手繋いで良いですか?」と真希ちゃんが律儀に確認する。
女性が右隣に座ると物凄く緊張する。
「ああ、良いですよ」
こんな世界ないだろ!
「氏川さんの手、綺麗ですね」と真希ちゃんが俺の手に触れて、自分の目の高さで俺の手を眺めて言う。
「ああ、そうですかね。真希ちゃんの手も綺麗ですよ。芸術家の手みたいです」
「氏川さん、手小さいんですね。ほらっ」と真希ちゃんは言って、目の高さに俺の手を上げ、俺の掌に自分の掌を合わせる。真希ちゃんの手の指は俺の手の指より関節一つ分ぐらい長い。真希ちゃんは再び俺の右手を握り、自分の太股の上に置く。真面目な子なのか、遊び人なのか、なかなか判断が付かない。俺がぼうっとしていると、真希ちゃんは俺の右手を握った手を赤いミニスカートの股間の上に持っていく。
「足も細いね」と俺が言うと、真希ちゃんは俺のブラック・ジーンズを穿いた股間の上を左掌で蔽う。
「したい時は言ってくださいね。外に出れば、多分出来ます」と真希ちゃんが発情したような目で言う。
俺は真希ちゃんの赤いミニスカートから出た素足を見ている。
「ここじゃダメなんです。前にいた子がここで彼氏としようとしたら、直ぐ職員さんが来て注意されました。消灯後に私が手でしてあげます」と真希ちゃんが自分の愛を示す。
「あっ、いやあ・・・・」
「面会室のところでも良いですか?」と真希ちゃんが先走って言う。
こんな世界ないだろ!夢見てるみたいだ!俺は真希ちゃんに案内されて面会室に入る。そこで俺はブラック・ジーンズのスライド・ファスナーを真希ちゃんの手で下ろされる。勃起している筈の縮み込んだ一物に真希ちゃんの華奢な手が触れる。
「よく見ても良いですか?」と真希ちゃんが繁々と俺のモノを見ながら言う。
「いやあ・・・・」
真希ちゃんは机の下の俺の足元にしゃがみ込み、俺の一物を眺めると、思い切って俺の一物を銜える。モノが真希ちゃんの口の中で温かく蔽われる。物凄く深い愛情で愛されているような喜びを感じる。女性にも色欲があるんだな。自分とモノが一つの魅力をなして一人の女性に愛される。俺はその事に非常に感動している。モノの方はなかなかイカない。それでも真希ちゃんは根気良くしゃぶってくれる。俺は真希ちゃんの頭を両手で股間の方に押さえ込んで撫でる。ああ・・・・、気持ち良い!歯でモノを傷つけられるような不安が少しある。こうしてモノを銜えられていると女性を信じる力が高まる。そろそろイクな。女には娼婦の資質が備わっているのか。
「美味しい?」と真希ちゃんにエロい質問をしてみる。
「美味しい」と真希ちゃんが淫乱のように言う。
夢の中のようにエロいな。チンコって、こんなに女には魅力があるのか。
「あそこ、濡れてきた?」
「いやっ、エッチ」と真希ちゃんが恥らう。
仕事のようにしゃぶってるのかな。夢中になってしゃぶってるのかな。なかなかイカない。イクまでしてくれるのかな。余り体勢をリラックスさせ過ぎると、銜えられ続ける事に慣れて、射精の緊張感が失われてしまう。
「ああ、良い感じになってきた」
「ああっ!イキましたね!今度は私のを見せます」と真希ちゃんは言い、ソファーの右隣に座る。真希ちゃんはスカートを捲くる。白い女子高生風のパンティーを穿いている。真希ちゃんは白い下着を膝まで脱ぐ。俺は椅子に座った真希ちゃんの股の間を覗き込む。真希ちゃんのアソコはまだとても綺麗なピンク色だ。毛の方はそんなに濃くない。俺の一物を真希ちゃんが根気良く左手で扱いている。
「今度は私の中に入れてください」と真希ちゃんが発情したように俺のモノを求める。
「ああ、うん」
「乗っても良いですか?」と真希ちゃんがやる気満々に言う。
「窓から丸見えだよ」
「じゃあ、氏川さん、窓の下に体が隠れるように、ソファーに横になってもらえますか?」と真希ちゃんが知恵を凝らして言う。
俺がソファーに横になろうとすると、突然女性看護師が入ってくる。
「面会室には入らないでくださいね!お話するなら、デイルームで御願いします」
「出よう」と俺が真希ちゃんに言う。
「はい。外出出来るようになったら、公園に行って手を繋いだり、キッスも出来ます」
「うん、そうだね」
真希ちゃんと俺は下着を穿いて、服装を整える。面会室を出ると、
真希ちゃんとデイルームのソファーに腰かける。ソファーの背後には勤務室がある。消灯後の暗いデイルームには看護師も患者もいない。俺は真希ちゃんの太腿をパジャマのズボンの上から撫ぜる。真希ちゃんの温かい体の感触に興奮を覚える。真希ちゃんは俺に体を触れられても全く拒絶しない。俺は真希ちゃんの腰に手を回し、真希ちゃんの体を右半身に密着させる。俺が真希ちゃんの肩を抱くと、真希ちゃんは俺の肩に頭を凭せかける。俺は真希ちゃんの股間にパジャマの上から触れる。真希ちゃんは声も出さずにじっとしている。悪い事をしているような気がする。どうせ罰が当たるなら、一度始めた悪い事を途中で止めるのは勿体ない。今、止めれば、罰は当たらないのか。南無釈迦牟尼仏。真希ちゃんを恋人にし、将来は結婚する予定でいる。近頃は初夜を待たずにセックスを経験する女性が多い。女にも異性の体に欲情する心があるのは判った。
「真希ちゃん」
「何ですか?」と真希ちゃんが返事をする。
「結婚すると、初夜を迎えるよね?」
「はい」と真希ちゃんがきょとんとした顔で返事をする。
「俺と結婚してくれるの?」
「はい。私は氏川さんと結婚出来たらなあって思ってます」と真希ちゃんが自分の気持ちを打ち明ける。
「初夜までしない方が良いんじゃないかな?真希ちゃんって、天国とか地獄って信じる?」
「はい、まあ、信じてます。でも、愛は罪じゃないですよ」と真希ちゃんが自信を以て婚前交渉を肯定する。
「先の事は俺も望みました。罪は同じです」
「そうですよね。安心しました。でも、やっぱり、誘ったのは私ですよね?」と真希ちゃんが俺を庇う。
「同時に想った事です」
「そうですか。良かった。でも、本当に同時に想いましたか?誘ったから想ったんじゃありませんか?」と真希ちゃんが俺を気遣う。
「ええ、まあ。でも、俺は真希ちゃんとしたかった」
「ああ!じゃあ、するのは初夜まで待ってください!」と真希ちゃんが胸の前で手を合わせて言うと、「お願い!ごめんね!」と言って、硬く眼を閉じる。
「結婚を約束してくださるなら待ちます」
「必ずお約束致します!」と真希ちゃんが祈るような目で言う。
何か真希ちゃんの態度は性的な苛めを考えさせる。段々と女に対する亭主関白な態度に目覚めてくる。
「そろそろ寝ようか?また明日手を繋げるでしょ?」
「ああ、そうですね。あたし、今、かなり動揺してるんです。それじゃあ、お休みなさい」と真希ちゃんが取り乱して言う。
「お休み!」
キッスなんて外国人なら誰でもする。日本人はダメなのか。日本人には日本人特有の掟があるのか。真希ちゃんがキッスを忘れて去っていく。本当に俺の事が好きなのか。まあ、今夜はこれで歯を磨いて眠るか。
病室で歯を磨いていると、真っ暗な病室にカリカリと食べ物を嚙む音が聴こえてくる。音のする方に振り返る。『大丈夫だ!』の中西栄太君がベッドの頭の柵に背を凭れ、スナック菓子の袋を抱えて御菓子を食べている。無性に御菓子が食べたくなってくる。歯を磨いた後に御菓子を食べて、また歯を磨くのは面倒臭い。歯磨きセットを持って、窓際の背の高いベッドに乗ると、横になって目を瞑る。余り病室の患者とは親しくなりたくない。病人ばかりの部屋だと思うと病気のエナジーの充満を部屋の中に想像してしまう。色んな病気に対して部屋の中の消毒が施されているような印象も受ける。
「氏川さんは病気何ですか?」と左側の体格の良い三〇代ぐらいのおじさんが話しかけてくる。
「ああ、精神分裂病です」
「幻聴とかありますか?」とおじさんが訊く。
「ええ。あります。それで夜眠れなくて、ここに飛び込んできたんです」
「あのう、僕、村野って言います。宜しくお願いします」
「ああ、宜しくお願いします。氏川正道と言います。御幾つですか?」
「三十二歳です。氏川さんはもっと若いでしょ?」と村野さんが俺の年齢を訊く。
「二十二です。もうここ長いんですか?」
「三ヶ月と二日です」と村野さんが苦しそうに答える。
「長いですね」
「中には一年近く入院している人もいますよ」と村野さんが病棟の患者の情報を齎す。
村野さんの耳からイヤフォンの黒いコードが垂れ下がっているのが月明かりで見える。
「音楽聴かれてるんですか?」
「ええ。レベッカのファーストです」と村野さんが言う。
「ああ、レベッカですか。俺は音楽は尾崎豊とピンク・フロイドしか聴きません、村野さんは音楽の人なんですか?」
「僕は文学です。氏川さんはどんな本を読みますか?」
「安部公房とか、村上龍です」
「安部公房は面白いですね。村上龍も良いです。私は本当に意味のない読書を重ねました。一杯本を読んだ人だって思われたくて、薄い文庫本の小説や戯曲を読み捲くる時期がありました。世の中には読む価値のない本っていうのが沢山あります。そんな本を幾ら読んだところで、本棚に本が増える以上の結果は何も齎しません」
「僕は『太陽の都』とか、『脂肪の塊』とか、『異邦人』辺りに差しかかった時に、古いのはもういいなって思いました。小説の読書自体教養とはあんまり関係ないと思いました。世の中の動きや特徴は過去に関しても今と同じように捉えるべきだと思います。古い本だから読むべきだと考えるのはおかしいと思います」
「私は今、小説家を目指す関係で、芥川賞作品と直木賞作品をじゅんぐり読んでます」と村野さんが読書の話を続ける。
「ああ、目指し易い読破ですね」
「実際、楽しい読書です。『月山』辺りは本当に格調高い文章だったな。でも、芥川賞受賞作には、受賞後の作品も含めて、一纏めにざあっと捨て去るべき作家の一群があります。読まなくてもいい本を小説家名鑑の網羅みたいに読む読書が一番無駄な読書です。現代日本文学の中でも正確に意味やテーマが見えてこないタイトルの小説群はほとんど読むに値しません」
「私は全く本を読みません」と村野さんの向かいの三〇代ぐらいのおじさんが話に参加する。
「俺も本は全く読まないなあ」とそのおじさんの入口側の隣の五〇代ぐらいのおじさんも話に参加する。そのおじさんの向かい、村野さんの左隣の二〇代ぐらいの若い人はじっと沈黙を守っている。ここの病室は六人部屋である。
「明治以降に漱石と鴎外が始める日本文学、小説の系譜を、西洋文学史の視点から説明されると、日本の文学者の半数は非常に満足すると思うんです。その双璧の片方の漱石が精神分裂病文学の祖と説明されると、我々、精神分裂病を患う者らが自分達の文学的な役割りに目覚めて、自分独自の文学を始める大きな励みにもなると思うんです」と村野さんが独自の文学論を語る。
入口側のおじさんが明るい声で、「ここの病院は消灯後にも冷房が点いているのが良いね」と言う。村野さんの向かいのおじさんが腹立たしげに、「本当に規則の厳しい病院が多いよなあ。患者に押し付ける規則にも限度ってもんがあるだろう」と言う。
「昔の精神科は酷かったよ。煙草なんて一日五本しか与えなかったんだ。酒なんて飲んで病棟に帰ると、罪人を罰するように保護室にぶち込むんだからなあ」と五〇代ぐらいのおじさんが胸苦しく過去の思いを語る。「エロ本買って病棟に入ろうものなら、女の職員にエロ本を確認されるし、セクハラだろう」と村野さんが苛立たしげに言う。「氏川さんは煙草は吸われるんですか?」
「ああ、僕は吸いません。酒の方も全くの下戸です。飲んだら、必ず吐いてしまうんです」
「酒かあ。精神科ってなあ、体からアルコール分を搾り出すように酒を飲ませねえからなあ」と五〇代ぐらいのおじさんが独り言のように言う。
向かいの中西栄太君は話に加わらず、イヤフォンで音楽を聴いている。そろそろ眠ろう。久々に夜を寝て過ごせるのだ。幻聴は外来で診察を待っていた時以来ぴたりと止まっている。病室の話し声が続く。こんな話し声で睡眠妨害されては寝そびれてしまう。
「あのう、眠れないんで、少し静かにしてもらえますか」と俺が言うと、「ああ、済みません」と村野さんが謝る。
俺は真希ちゃんを捜して大学病院の建物内を歩いている。石橋先生が向こうからやってくる。私は石橋先生に真希ちゃんとのデートの事を隠し、黙って擦れ違おうとする。
「氏川さん、こんなところで何をしているんですか?」と石橋先生が訊く。
「いや、一寸、人と逸れてしまいまして」
「桜井さんを捜してるんじゃありませんか?」と石橋先生が言い当てる。
「ああ・・・・、はい、そうです」
「桜井さんは恋愛中毒症なんです。この半年間の入院中に三人もの男性と性的な関係になっているんです」と石橋先生が言う。
「ああ、やっぱり、そう言う人なんですか」
騙された!でも、別れるのはしてからにしたい。
俺は真希ちゃんとのセックスを想って目覚める。真希ちゃんみたいな美人が俺の恋人になるなんて夢を見てるようだ。
『精神科病棟での朝』
まだ皆寝てるな。歯磨いてデイルームに行くか。
デイルームに行くと、既に二人患者がいる。一人は『ユリアアアアア』の片瀬由里ちゃんで、角の喫煙席で背を向けて煙草を吸っている。もう一人は食堂のテーブル席に腰かけた、今朝初めて見かける金縁の眼鏡をかけた俺と同じぐらいの背の細身の青年の男である。青年は何かスケッチブックのような物を開いて何かを書いている。俺は冷蔵庫から冷たいコーラを出し、デイルームのソファーに腰を下ろす。
辛い闘病生活中に恋人を一人獲得出来た事は幸いだ。あの青年のように俺も入院中に漫画を描こうか。隣のベッドの村野さんは確か小説家を目指しているんだったな。真希ちゃんが言ってたデイケアの利用者にギターを習って、ギターを弾けるようになりたい。入院生活で太らないように注意しないとな。青年の方に歩いていく。
「絵を描かれているんですか?」と青年に話しかける。
「ああ、はい」と青年が機嫌良く答える。
青年の絵を見ると、画力はお絵描き程度のお粗末なものではない。鉛筆画の下書きに水彩絵の具で着色をしている。何か金属的な植物を強烈な色彩感覚で描いている。
「物凄くリアルな絵ですね」
「ああ、僕、一応これでも美大出てるんです」と青年が照れ臭そうに言う。
「そういう感じですね。いやあ、僕も絵を描いて過ごしたいな」
「誰でも時間が無駄になるのは嫌なもんですからね」と青年が共感を示す。
「そうですね。スケッチブックとか、画材って、親に持ってきてもらうんでしょうかね?」
「売店にも売ってますよ」と青年が情報を提供する。
「ああ、じゃあ、売店で買ってきてもらおう」
青年の絵はダリのシュールレアリズムに近い。
「ピカソみたいなシュールレアリズムの絵を描くのに美大芸大出る必要あるんですかね?」
「そういう人は意外と多いですよ。そのタイプの絵で美大芸大を出ずに成功した画家もいますけどね」と青年が画壇の話をする。
「画家の成功って、絵で食べていく事ですかね?」
「まあ、そうですね。それって難しい事なんですよ」と青年が画家の現実を語る。
「時給に換算したらでしょ?」
「そうです。絵では普通食っていけないんですよ」と青年が画家の厳しい現実を語る。
「御名前、何て仰るんですか?」
「三木谷修治と申します。宜しくお願いします」と三木谷さんが自己紹介する。
「僕、氏川正道と申します。宜しくお願いします。年齢は二十二歳です」
「ああ、同じ年かな?」と三木谷さんが俺の年齢を確認する。
「昭和四十四年生まれです」
「ああ、同じ年ですね。氏川さんって、大学何処ですか?」と三木谷さんが大卒で当たり前のように訊く。
「俺、高卒です」
「はあ、そうですか」と三木谷さんが拍子抜けしたように言う。
特別厭味なところはない。大学は行けば良かった。
「俺も大学に行くべきだったかな」
「何歳になっても、向学心があるなら大学には行くべきです」と三木谷さんが大学進学を勧める。
「偏差値が五十以上行った事がないんですよ」
「美大系はそういう人多いですよ。絵の浪人じゃなくて、学科の浪人が多いのが美大浪人の実態です。美大に入っても、絵が下手な人が上手くなって卒業するっていうのはないです」と美大の現実を語る。
「元々上手い人が入って卒業するんですか?」
「まあ、そうですね。忌野清志郎が才能のない奴は大学に行けって言ってたでしょう?あれって本当の事ですよ。学歴目当てに美大芸大出る人は別ですけど、一般に大学で芸術を学ぶような人には才能がありません。芸大に入ったから駄目になるという訳でもありません。美大芸大出の画家っていうのは面倒臭い複雑な風景や物の写生をせっせとやるのが取り柄みたいな画家です。自転車廃棄場の色んな状態にある百台の自転車の絵を一週間で細密描写して完成させるような人は間違いなく芸大出の画家です」と三木谷さんが皮肉な口調で言う。
「彼らは写真を観て描くんですかね?」
「大卒だろうと、高卒だろうと、想像力だけで絵を描く画家は稀ですよ」と三木谷さんが画壇の現実を語る。
才能の有る無しをはっきりと線引きする人だな。俺は努力次第でどんな才能の高みにも達すると信じている。
「想像力で絵を描くんですね」
「ええ。僕は自分の想像力にしか興味ありません。写真で撮れば手に入るような作品は欲しくないんです」と三木谷さんが明確に自分の理想の絵画を示す。
「自作品として欲しい作品を描いてるんですか」
「そうです」と三木谷さんが明確に答える。
「画家さんなんですか?」
「僕、自分の描いた絵を売れないんです。だから、絵を描いてるってだけで、画家とは言えません」と三木谷さんが自分の難点を打ち明ける。
「氏川さん、おはようございます!」と背後から女の人が俺に元気な声で挨拶をする。振り返ると白いブラウスに丈の短いスリムな青いデニムのパンツを着た真希ちゃんが立っている。髪を後ろで束ね、男装の麗人のような引き締まった顔で真っ直ぐ俺を見つめている。俺はその眼差しの清らかさに緊張する。幻聴が病棟全体に広がって聴こえ始める。途端に精神不安が生じ、対人恐怖の緊張感で一杯になる。俺はたちまち立っていられなくなる。
『また聴こえ始めちゃったね』と男の子の声の幻聴が可愛らしく言う。
『お尻に汗掻いてるよ』と別の男の子の声の幻聴が言う。
『何か恐い!』と女の子の声の幻聴が取り乱したように言う。
『僕達、ずっとここにいたよ』と先の男の子の声の幻聴が言う。
俺は身体感覚に触れるような言葉に神経質になる。閉鎖空間にも息苦しさを感じる。外からのあらゆる刺激が恐い。今直ぐ人のいない病棟の外の空気に触れたい。
「氏川さん、どうかした?」と真希ちゃんが迫ってくるような笑顔で俺の様子を窺う。
「一寸、今、幻聴が聴こえてきて、体調悪いんだ。あんまり近寄らないでくれるかな。視線もあんまりじっと俺の眼に合わせないで欲しいんだ。一寸、暫く俺から離れててくれないかな?」
「ええ!氏川さん、どうしたの?何か違う人みたい。ここにいるのはあたしよ!あたしがいるから大丈夫よ!」と真希ちゃんが執拗に関わってくる。俺はその迫ってくるような感じに恐怖心が募る。俺は真希ちゃんを残して病室のベッドに向かう。
『あたし、真希ちゃん、好き』と先の女の子とは別の女の子の声の幻聴が物柔らかな口調で言う。
『この人、恐い』と先の女の子の声の幻聴が不安げに言う。
先程『お尻に汗搔いてるよ』と言った男の子の声の幻聴が、『お水飲みたい!』と言う。
『ここ霊が一杯いるよ』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
真希ちゃんの存在が精神不安の原因に感じられる。幻聴の片言の日本語のような、色んな意味にも取れる独特な言葉に不安と恐怖を感じる。お水は確かに飲みたい。お水は一端ベッドで安静にしてから飲もう。精神科病棟は確かに頭のおかしい霊が沢山いるように思う。『あたし、真希ちゃん、好き』『この人、恐い』『お水飲みたい』『ここ霊が一杯いるよ』頭の中で幻聴の言った言葉が繰り返し思い出される。聞こえてくる幻声自体に聴く者の心にアレルギー反応を起こさせるような違和感や不快な要素がある。感覚的な身体がバラバラになったような不調和が起き、ベッドに横たわる。ベッドに横になろうとすると、子供の声達が楽しそうにはしゃぐ。どの道幻聴が消えないなら、早く幻声の聴こえる生活環境に心を馴染ませたい。心臓の鼓動が極度の不安と恐怖で乱れている。
『心臓がドキドキしてる』と悪の傾向にある方の女の子の声の幻聴が言う。
『角膜破れるよ!』と一人目の男の子の声の幻聴が言う。
『鼻血出る!』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
『ずっと眠れないよ!』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
止めろ!恐怖で気が狂いそうだ!心臓を護らないといけない。頭は強い。内臓にストレスが堪らないように頭の中に不快感を集中させる。内臓に表われる痛みが一番辛いだろう。どれだけ悪魔的な言葉を浴びせられようとも自分だけは純粋な心でありたい。心に純粋さを失ったら、漫画家にもなれない。必ず漫画家になってみせる!少し眠ろう。
『この人、眠ろうとしてる!』と一人目の男の子の声の幻聴が言う。
『お水飲みたい!』と二人目の男の子の声の幻聴が再び言う。
『あたしもいるよ!』と悪の傾向にある女の子の声の幻聴が言う。
『永眠』と三人目の男の子の声の幻聴が俺が思った言葉を言語化する。
死ぬ程の事じゃない。喉がカラカラに渇いている。唾が出ない。ああ!水飲みに行くか。ベッドから起き上がり、カップを持って病室を出る。
『この人、お水!』と一人目の男の子の声の幻聴が言う。
『僕、お水飲む!』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
デイルームの冷水機で水を汲み、渇いた喉に冷水を流し込む。冷たくて美味い!またベッドに横になるか。
「氏川さん、もう大丈夫なんですか?」と喫煙所の方から真希ちゃんが話しかける。ああ!イライラしてる時に何で忙しない確認をするんだ!俺は真希ちゃんに何の返事もせず、黙って病室のベッドに戻る。真希ちゃんを結婚する程に愛し続けられるのか。今なら相手を変えられる。あんなに可愛い子にまた出会えるのか。俺は女嫌いなのか。昔から女のしつこい愛にはうんざりする。
『氏川さん、もう大丈夫なんですかって訊いてる』と癒し系の女の子の声の幻聴が言う。
『僕、氏川さんだ』と三人目の男の子の声の幻聴が言う。
『あたしは違う感じ』と悪の傾向にある女の子の声の幻聴が言う。
『お水飲む』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
もう水は飲んだよ。
『もうお水飲んだ』と一人目の男の子の声の幻聴が言う。
『お水?』と二人目の男の子の声の幻聴が言う。
『股のところに汗掻いてるよ!』二人目の男の子の声の幻聴が言う。
『あたし、真希ちゃん、好き』と癒し系の女の子の声の幻聴が言う。
もう幻聴と恋愛をするような親しみは感じない。好きな人への優しさや気遣いは常に維持してなくてはいけない。ベッドに横たわり、天井を真っ直ぐ見上げる。視界の病室の入口辺りに人影が入る。入口の方に顔を向けると、真希ちゃんが心配そうな顔で俺を見ている。
「桜井さん、男性の病室を覗いてはいけませんよ」と若い女性看護師が病室の外で真希ちゃんに注意する。
「氏川さんの様子が心配で」と真希ちゃんが不安げな声で言う。
「氏川さんは今、ベッドに寝てます。またデイ・ルームにいらしたら、お話すれば良いんじゃないですか」と若い女性看護師が言う。
「氏川さん、頑張ってまた元気になってね!」と真希ちゃんは大声で言って、病室の入口から去っていく。本当に可愛いらしい声だ。真希ちゃんのアソコは綺麗だったなあ。昨日は真希ちゃんに銜えてもらったんだった。俺は気分屋なのか。幻聴が聴こえてきて以来、隠れていた本当の自分が表面に出てきたのか。随分と心ない人間になってしまった。精神状態が不安定だと話しかけてくる人の姿が心に迫ってくるような感じがする。精神状態が乱れている時は、本来、人と理性的に話が出来る状態にはない。その狭い心を病気と言うなら、病気である。俺はイライラを人に当り散らさない主義だ。真希ちゃんには後で謝ろう。疲れ切ってしまった。こんな不安を抱えていてはとても起きていられない。一時眠って気分転換をしよう。
『この人、眠ろうとしてる!』と一人目の男の子の声の幻聴が言う。
あいぺん、はう。
『あいぺん・はう!』と俺のナンセンス言葉を二人目の男の子の声の幻聴が反復する。
おーちゅん、ぴん。
『おーちゅん、ぴん!』と二人目の男の子の声の幻聴が反復する。
あまむ。
『あまむ』と三人目の男の子の声の幻聴が反復する。
『何なの、それ!』と一人目の男の子の声の幻聴が叫ぶ。
幻聴から頭を休めるためのアドリブのナンセンス言葉である。心を落ち着けて、深く眠りに中に落ちるイメージをする。
空が燃えるように赤く染まっている。苦しみで視界が赤らんでいる。精神病患者達が衰えた不安定な足取りで荒野を歩いている。終末的な風景の背後に、祈るようなソプラノ歌手の歌声が壮大な美しいオペラとなって聴こえる。体が重く、目玉に熱が籠もっている。
目覚めると病室の外の物音が騒がしい。幻聴が小さな音量で微かに聴こえる。俺はベッドから出て、デイ・ルームに向かう。ソファーに座った真希ちゃんがイヤフォンで音楽を聴いている。俺は真希ちゃんの前に立ち、顔を上げた真希ちゃんに微笑みかける。真希ちゃんは悲しい顔をして俯く。俺は真希ちゃんの足下にしゃがみ込み、真希ちゃんの両手を握る。俺は自分の手の温度で真希ちゃんへの愛を伝える。
「氏川さん、苦しい時に一人で苦しまないで」と真希ちゃんが悲しそうに言う。
「ああ、先はゴメン」
「あたしも精神状態が不安定な時の心理はよく判ってます。無理するにも限界があります」と真希ちゃんが泣きながら言う。
「うん。そうだね。俺、真希ちゃんの事、人生で最初で最後の美人との出会いだと思ってます」
「美人とか錯覚ですよ!」と真希ちゃんが口許を歪めて照れ臭そうに笑って言う。真希ちゃんの眼が輝きを取り戻したように明るくなる。俺は両手で真希ちゃんの両手を包み込むようにして、ソファーの左隣に座る。真希ちゃんは俺の手を自分の股の間に持っていく。俺は真希ちゃんの股を右手で覆う。真希ちゃんが小さく呻く。俺は段々場所も弁えず、その気になる。俺は真希ちゃんのアソコを手で刺激する。どの部分がどう感じるのか。真希ちゃんはアソコを弄られながら、荒い息を抑え、俺の唇にキッスをする。真希ちゃんはキッスも上手い。真希ちゃんのアソコに触れてる俺の指が思わず止まる。入院中、毎日こんな事するのかな。
「もっと強く触って」と真希ちゃんがキッスをしながら、色っぽい声で言う。俺は自分の股間に手で触れる。まだ立っていない。おかしいなあ。俺は真希ちゃんの気持ちの良さそうな声を聞きながら、指で真希ちゃんの性感帯を探る。
「俺、何か立たないよ」
俺はモノが立たない事に酷くショックを受ける。
「薬の副作用だと思います」と真希ちゃんが俺のモノに触れて言う。
「薬?」
「うん。薬の副作用。向精神薬を服用していると、男の人はインポテンツ、女の人は生理不順になるって説明されてます」
真希ちゃんは手で俺のモノを扱きながら、「また口でしましょうか?」と言う。真希ちゃんは俺が返事をする間もなく、俺のブラック・ジーンズのスライド・ファスナーに手をかける。
「ここじゃ拙いよ」
「面会室にまた行きますか?」と真希ちゃんは言い、また返事も待たずに男性病棟の方の廊下に向かう。真希ちゃんは振り返り、ソファーに座ったままの俺に、「早く」と笑顔で呼びかける。俺はソファーから立ち上がり、真希ちゃんの後から廊下の方へと歩いていく。真希ちゃんの後から面会室に入ると、看護婦が背後から、「桜井さん!面会室には入らないでくださいね!氏川さんとお話するなら、デイ・ルームでお願いします」と注意する。真希ちゃんは明るい声で、「はあい、判りましたあ」と言って、素直に面会室を出る。真希ちゃんはデイルームの方へ廊下を引き返していく。
俺は再び真希ちゃんと並んでソファーに座る。
「氏川さんの院外外出の許可が下りたら、二人でホテルに行きましょ。あたし、氏川さんと結婚する前にセックスしておきたいです」と真希ちゃんが自分の想いを言葉にする。
「それは男が断わらない事ですよ」
「あたし、氏川さんを信じます」と真希ちゃんが明るい眼差しで言う。
ここはしっかりと腹を決めなければいけない。真希ちゃんにとって別れるって話はないんだな。
「男はすると別れる事がありますよ?」
「そうなんですか・・・・」と真希ちゃんが不安そうな目をする。
「今の時点でも相当満たされてます」
「ああ!あたし、せっかちでおっちょこちょい!あたし、ダメだなあ」と最後は泣き声で言い、「これ、あたしの独占欲の表われなんです」と言う。
勤務室から看護師が出てきて、「お薬でえす!」とデイルームで病棟の患者達に声をかける。たちまち薬を待つ患者達の列が出来る。
「薬ですよ」と俺は真希ちゃんに言う。
「あっ、行かないと!」と真希ちゃんが急いで病室に駆けていく。
女の子の性欲に関する自制心は人生の幸不幸にも関係してくる。俺は結婚してセックスを経験出来れば、それで良い。婚前交渉は結婚を望む理由を判らなくさせる。男にとってセックスは女性の愛を一方的に貪るような行為。セックスを実現し、心が満たされたなら、遊び人の男が恋人に飽きるように、相手に対する愛は弱まるだろう。愛はより多くの人々を愛する方へと拡大していく。性愛はセックスの実現により、一時的に愛の完了を錯覚させる。男は女性の愛欲の意思表示だけでなく純粋な愛まで引き出してしまう。男は高が女性の肌に触れるためだけに跪くような態度まで顕わにする。
薬を飲んだり、飯を食ったり、ベッドに横になったり、入院生活は本当に病人の生活だ。真希ちゃんとの甘い生活は本当に自分に獲得された幸せなのか。今、真希ちゃんを手放したら、俺は一体どんな喪失感を経験するのだろう。精神科病棟で出来たような恋人と退院後も交際するのか。内科病棟で出会って獲得された恋人なら退院後も付き合うのか。
真希ちゃんが女性看護師に薬を口に入れてもらっている。真希ちゃんの顔は病塔内一の美しさだ。真希ちゃんにキッスをされた俺の唇が浮気禁物と約束させられている。俺も別の女性看護師に薬を口に入れてもらう。
真希ちゃんが近づいてくる。
「あのう、真希ちゃんさ、精神科病棟で出会った恋人と退院後も付き合う事をどう思いますか?」
「何科病棟かどうかなんて私達の出会いには何の関係もありませんよ」と真希ちゃんが自分の愛に確信を以て言い切る。
「そうですか。それなら良かった」
「精神病の人を精神障害者って呼ぶのを知ってますか?」と真希ちゃんが俺に現実を突き付ける。
「ああ、何か実感湧かないな。俺、精神障害者になったのか・・・・」
「あのう、私が付いてますから、自分一人で苦しんだり、悩んだりしないでください」と真希ちゃんが心強い事を言ってくれる。
「ああ、ありがとう」
「確かに私達、これから相当に落ち込むでしょうね。入院中は社会的な現実を目の当たりにはしませんからね」と真希ちゃんが俺に精神障害者としての心構えを抱かせる。
「うん・・・・」と俺は力ない声を漏らす。
「私達が子供を作ったら、両親共に統合失調症です」と真希ちゃんが力強い眼差しで言う。
「ああ、そうですね」と俺は思わず暗い声で反応する。「よくそう言う事考えるんですか?」
「もう半年もここにいますから、色々と先生からお話を伺う機会も多かったんです。だから、氏川さんよりは病気や社会的な事情にも詳しいと思います。私と今一緒にいるの嫌ですか?」
「ごめんね。少し独りになりたいんだ」
「謝らなくていいですよ。私もそうでした。多分、今、ブルーなんだろうなって思います」と真希ちゃんが落ち着いた声で言う。
俺は一人病室に戻る。病室の誰にも話しかけられたくない。中西君が話しかけてきそうだ。嫌な顔で反応しないように気をつけないと。ああ、中西君は音楽を聴いてるのか。母に電話して、カセット・テープとラジカセを持ってきてもらおう。
幻聴がずっと話し続けている。幻聴って話し続けて喉が渇くとか、疲れる事がないんだな。聴いてるこっちはうんざりしてくる。
真希ちゃんは今や俺の恋人なんだなあ。精神障害者か。この病気に何の意味があるんだろう。普通の人には幻聴は聴こえないのか。幻聴が聴こえないなりに、聴こえない精神苦があるのかな。俺の記憶では健常者にそんな苦しみはない。とんでもないものが聴こえるようになった。幻聴が聴こえる聴こえないは紙一重なんじゃないか。
朝食中、離れた席に座る真希ちゃんを眺める。真希ちゃんは本当に美人さんだ。あっ!こっち見た!真希ちゃんがにっこりと俺に微笑んで手を振る。俺も真希ちゃんに手を振り返す。こんなにデレデレと緩んだ心の自分は知らない。
『僕、食べてるよ』と男の子の声の幻聴が言う。
『あたし!』と小野さんの声が言う。
『この人、真希ちゃん好き』と癒し系の女の子の声の幻聴が言う。
『真希ちゃん、俺の恋人?』と別の男の子の声の幻聴が言う。
自分で考えろ!いちいち食べてるとか言うな!
朝食は市販のクリームパンとスクランブル・エッグとウィンナーとサラダと紙パックの牛乳だ。急いで胃に入れないといけない。喉の通りが何でこんなに悪いんだ。嚙んだり、飲み込んだりする事にこんなに不安を感じた事はない。ウィンナーをゆっくりと味わいたい。
『僕、食べてるよ』と先の男の子の声の幻聴が同じ言葉を繰り返す。
食べるという行為に自覚的になる。一回一回嚙む動作が遅く感じられる。食欲が煩わしくなる。異常な程緊張感が募る。ああ!クリームパンだけ食べて終わりなのか!俺はトレイを持って、残飯を捨てに立ち上がる。牛乳は残飯のゴミ箱の前で立って飲もうか。
『僕、食べてるよ』と先の男の子がまた同じ言葉を繰り返す。
俺は精神不安を治そうと再び着席して食べる。牛乳は何としても飲むぞ!このまま幸せを削り取られていく訳にはいかない。段々と痩せ衰え、何も食べられなくなっていくのだろうか。
『僕、卵食べる』と先の男の子の声の幻聴が言う。
『僕、ウィンナー食べる』と別の男の子の声の幻聴が言う。
俺は牛乳の紙パックの封を急いで開ける。スクランブル・エッグもウィンナーも本当は食べたいけど、幻聴でお前らが色々言うから精神状態が乱れて食べられない。俺は牛乳を飲む。
『僕、卵食べるよ』先の男の子の声の幻聴が言う。
『僕、ウィンナー食べる』と先の別の男の子の声の幻聴が言う。
俺はスクランブル・エッグを仕方なく食べ始める。物を嚙む顎の動作が煩わしく、喉の通りが悪い。美味しい!ウィンナーも食べよう!食べ物を無駄にしようとすると良心が痛む。これで良かったんだ。こいつらが体内の者であるのがよく判る。
『田舎の人ですか?』と片瀬さんがちらっと俺の顔を見て心の声で話しかける。いいえ。東京生まれですけど。やらせて!済みません!片瀬さんが困ったような顔で、『気にしなくていいですよ』と気遣う。片瀬さんの様子を目で観察する限り、確かに心の会話が成立している。これも一種の幻聴だとするには肉声の言葉で直接確認しなければいけない。
「済みません。俺と今、心の会話してましたか?」
「心の会話?」と片瀬さんが不思議そうな顔をして訊く。
「はい」
「いいえ」と片瀬さんが俺の事を警戒して答える。
「幻聴ありますか?」
「いいえ、ないです。あたし、鬱病です」と片瀬さんが暗い顔をして打ち明ける。
「確認出来て良かったです。ありがとうございます」
「いいえ、そんな事で宜しければ何時でも訊いてください」と片瀬さんが笑顔で言う。
「ああ、有り難いです。真希ちゃんは俺と同じ統合失調症なんで、最終確認の相手には向かないんです」
「真希ちゃんは良い子ですよ」と片瀬さんが真希ちゃんを俺の恋人に推薦する。
「はい、そうですね。退院後は精神障害者の人生ですね。そう言うの大丈夫ですか?」
「ああ、そうなるんですね」と片瀬さんがまた暗い顔をして言う。
「真希ちゃんが言ってました」
「今は精神障害者かどうかより病気の現実が辛いです」と片瀬さんが自分の苦しみを打ち明ける。
「確かにそうですよね」
「あたし、ここに入る前にリスト・カットを繰り返してたんです」と片瀬さんが自分の過去を打ち明ける。
「死んだら元も子もないですよ。辛い事が生きるに値しない訳でもありません。でも、それって、苦しんでる最中の人には酷なんですかね?」
「氏川さんは苦しいですか?」と片瀬さんが目を潤ませて訊く。
「ええ、まあ。幻聴が俺を苦しませようと色々と言葉で仕かけてくるんです。だから、自殺って、何か俺には違うんですよね」
「幻聴って、実態は霊ですか?」と片瀬さんが複雑な顔をして訊く。
「自分を構成する要素みたいな感じです」
「ああ、それって、ユング心理学の元型みたいなものなのかな?昔の人は無意識の領域を霊の住む世界だって思っていたらしいです」と片瀬さんが俺の知らない知識を提示する。
「ユング心理学のゲンケイと言うものに似てるんですか?」
「はい」と片瀬さんがはっきりと答える。
「お釈迦様の教えって、どんな本買えば良いんですかね?」
「岩波文庫の青に沢山あります」と片瀬さんが知識を分配する。
「へええ、買ってみます。岩波の青って、ショーペンハウエルの本を一冊読んだ事があるな」
「あたしも『自殺について』って本を読みました」と片瀬さんが笑顔で言う。
「ああ!俺もその本でした!それで仏教哲学に興味を持ったんです」
「あたしはお願い事が出来る宗教を探してます。お釈迦様にはお願い事ってしないものじゃないですか?」と片瀬さんが宗教的な話をする。
「ああ、そうですね。お願い事っていうと神社ですよね」
「氏川さんって、お幾つですか?」と片瀬さんが俺に年齢を訊く。
「ニ十二です」
「ああ、じゃあ、あたしと氏川さんと真希ちゃんと三木谷さんは同じ年だ」と片瀬さんが笑顔で言う。
心の声の会話って、俺の心の中で言う事思う事に外から反応してくる訳だから、幻聴と同一の実態だな。心の声の会話って本当にないんですか?
「俺が今、心の中で質問した心の声は聴こえましたか?」
「いいえ、何も聴こえませんでした。あたしは先、心の中で『あたし、クリームパン大好きなんです』って心の中で氏川さんに話しかけたんですけど、声に出して言うのを止めました」と片瀬さんが判り易い例えを添えて心の声の会話の事を話す。
「ええ、聴こえなかったな。俺は片瀬さんに『田舎の人ですか?』って訊かれたり、『やらせて』って思わず片瀬さんに心の中で言っちゃったのを謝ったら、『気にしなくていいですよ』って言われました」
「ええ!あたし、絶対そんな事言わないですよ!」と片瀬さんが楽しげに言う。
「そうですか・・・・」
やっぱり、心の声の会話ってないな。幻聴だ。科学的な証明も成されてるのかな。気持ちが動揺して食事をじっくりと味わえない。サラダは残すか。俺は席を立つ。
『僕、食べてるよ』と先の男の子の声の幻聴が言う。
サラダはもういい。
『サラダはいいの?』と別の男の子の声の幻聴が訊く。
今日はいい。
『今日はいいの?』と三人目の男の子の声の幻聴が訊く。
いいっていらないって意味だよ。
『いいっていらないの意味なの?』と一人目の男の子の声の幻聴が訊く。
俺は答えずにトレイを運ぶ。
『この人、野菜捨てる!』と一人目の男の子の声の幻聴が批難する。
俺は苛立った顔を周囲から隠す。幻聴への反応なんかで顔の表情を変えていたら、外部の人間には百面相を晒す事になる。隠す方が疲れるのかな。それでは精神分裂病丸出しか。俺は残飯入れのゴミバケツに残飯を捨て、食器の載ったトレイを食事運搬用の台車の棚に返す。
「氏川さん」
「はい」と俺は言って、振り返る。若い女性看護師が紙を持って近づいてくる。
「今日から院内外出の許可が出ていますので、夕食前までなら、詰所に言って戴ければ、何度でも院内に買い物に行けます」と看護師が主治医の許可した事を説明する。
「ああ、そうですか」
「氏川さん、入浴をされませんか?」と女性看護師が訊く。
「ああ、お風呂入りたいです」
「そちらのトイレの手前のドアーがお風呂場です。お母様が入浴に必要な物は用意されています」と看護師が説明する。
「ああ、はい。判りました」
『僕もお風呂入るよ』と男の子の声の幻聴が言う。
『あたし、お風呂に入る』と悪に傾倒した女の子の声の幻聴が言う。
入浴に必要な物を揃えるのに集中する。バスタオルと着替えの下着と石鹸とシャンプーとリンスと糸瓜タオルを桶の上に置き、脱衣所に入る。先に入っている患者が女性看護師に背中を洗ってもらっている。俺は服を脱いで風呂場に入る。
「あらっ、氏川さん、もう入られるんですか?」と女性看護師が慌てふためいて言う。
俺は女性看護師に背を向け、シャワーで体を温めると、髪から順に洗っていく。頭に湯をかけると小さな点のような子供の声が楽しそうに大騒ぎする。心の中で頭の上に『煩い!』と注意しても全く黙らない。素っ裸で聴こえる幻聴には不安を覚える。幻聴は特別何をしてくる訳でもない。それを恐れたり、不安に思うのは最悪な展開に対する妄想だ。手で触れられる心配や体の中に手の先を突き刺されるような被害妄想は実際には起きていない。絶対に起きないと安心出来る事でもない。入浴は可能な限り速やかに済ませる。
入浴を済ますと、俺は病室に入り、ベッドに横になる。ベッドに横になると、男の子の声の幻聴が同じ蒲団に急いで潜り込もうとするような焦りを見せる。幻聴から心臓を護らなくてはいけない。幻聴に心が酷く動揺して、限界まで不安が募っている。
「氏川さん、大丈夫ですか?」と女の人の声が訊く。俺は入口の方に顔を向ける。真希ちゃんが入口に立ち、心配そうな顔でこちらを見ている。
「院内外出の許可が出たよ。午後に一緒に外出しよう」
「ああ、良かったですね。デイ・ルームでお話しませんか?」と真希ちゃんがお喋りに誘う。
「ああ、今、あんまり体調良くないんだ。幻聴が聴こえ始めて参ってるんだよ」
「そうですか。じゃあ、また後で」と真希ちゃんがあっさりと理解する。
人を心から気遣えない。このまま恋愛が発展しても責任を取れない。心にゆとりがなくて現実の全体を見渡せない。具体的に考える事が定まらないからか、頭が上手く働かない。思えば色々な苦しみを経験してきた。幻聴地獄は苦しみの極みだ。高校一年の時に暇を持て余す地獄を経験した。それ以来、常に何かをやっていられる事を幸せと解するようになった。
『僕達、心だよ』と男の子の声の幻聴が言う。
『僕、霊』と暗い男の子の声の幻聴が言う。
霊って、単に透明に存在する人間の事だろう。
『霊って透明人間なのか』親しみを感じるような男の子の声の幻聴が言う。
『あたし、霊!』と悪に傾倒した少女の声の幻聴がはっと気付いたように言う。
コーラ飲みに行くか。
『コーラ!』と生意気そうな男の子の声の幻聴が言う。
『お水』と親しみを感じさせる男の子の声の幻聴が言う。
デイ・ルームに行き、冷蔵庫からコーラを出して、冷たいコーラを立ち飲みする。コーラを飲んでいる音に幻聴の声が重なる事を妄想する。その妄想に幻聴が気付かない。
「氏川さん、もう体調は良くなったんですか?」と女性の声が背後から話しかける。振り向くと真希ちゃんが笑顔で立っている。俺の体調が悪い事をからかっているように感じる。酷い妄想だ。真希ちゃんはそんな子じゃない。体調の良し悪しを確認されると不安を覚える。
「あのさ、あんまり体調の確認をしないでくれる?」
「ああ、不安になりますよね」と真希ちゃんが理解する。
「うん」
不安な時に不安になりますよねと言われて余計に不安になる。真希ちゃんが無神経な訳じゃないんだ。俺が情緒不安定だから、言葉に神経質になっているんだ。苛立ちを人に当たらないようにしないといけない。悪気のない人に暴力を揮ったりするのが嫌だ。俺の理性が絶えず行き届いていれば良いんだ。元々理性には余り自信がない。俺はどちらかと言うと喧嘩っ早い方なのだ。女性に手を上げる男は最低だ。学生の時に何度か女性の頭を叩いた事がある。俺は幻聴ある人への心のケアを身に付けたい。
「今、コーラを飲みに出てきただけなんだよ。ゴメンね。もう一寸したら良くなると思うから」
「ああ、気を遣わないでください。ゆっくり寝ててください」
寝ててくださいって言われると寝る事を指図されているようで嫌な気持ちがする。さあ、もう部屋に帰るか。思いつく事為す事感じる事の全てが最悪な不安や恐怖になる。
「じゃあ、良くなったら、後で呼ぶから、真希ちゃんは自由にしてて」
「ああ、はい。待ってます」と真希ちゃんが笑顔で言う。
「待ってなくて良いよ」と俺が笑って言う。
「わたっし、待あ、つう、わ、ですよ」と真希ちゃんが歌う。
「ああ、『あみん』ですか。それなら御自由に」と俺は笑って言う。
俺は病室に戻る。真希ちゃんは可愛い。あの可愛さのために尽くしたい。敢て女としての真希ちゃんに尽くしたい。
『あたし!』と小野さんの声が元気良く言う。
あたし、何?
『あたし』と小野さんの声がしょんぼりしたように口籠もる。
『あたし』と悪に傾倒した女の子の声の幻聴が言う。
『あたし』と小野さんの声の幻聴が暗い声で言う。
何だか判らない。少し眠ろう。
なかなか面白い群像劇になりました。




