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ただの障害者では詰まらない

漫画家を目指しながら、統合失調症が発症する主人公の群像劇。

『ただの障害者では詰まらない』

 俺が精神科のデイ・ケアや障害者の福祉施設とほとんど縁のない人生を生きてきたのは漫画家を目指し、その夢を実現させたからだ。この時代の精神障害者は普通、デイ・ケアや福祉士施設に通い、そこを障害者間の交流の場とする。精神科の外来で出会う患者には文学や芸術に関わる者がほとんどいない。文学や芸術に関係のない精神障害者や陰性症状の無気力な統合失調症患者とはほとんど付き合いがない。

 今年二〇〇七年で三十八歳になる俺は幻想怪奇小説『荒野』を小説新人賞に投稿し、絵画をN科展に投稿する。


『北川愛奈のデビュー』

 或春の午後、我々が昼食を済ませ、各々のアトリエで漫画を描いていると、玄関のインターフォンが鳴る。

「はあい!どなたでしょう?」と亜美が玄関のドアーを開けると、ホラー漫画家志望の北川愛奈さんが笑顔で立っていて、「亜美先生、あたし、新人賞に入選しました!」と亜美に報告する。北川さんはオレンジ色の布のハーフ・コートの下に白地に青の水玉の襟付きシャツを着て、赤いスリムなデニムのパンツを穿き、茶色の革靴を履いている。

「ええ!良かったね!」と亜美が大喜びする。「中に入って!入って!漫画塾の生徒が新人賞に入選した時は特別に居間でケーキとジュースを御馳走して、夕方に皆で焼肉食べ放題の店に行くの」

「ええ!亜美先生の家の居間でケーキとジュースを戴けるんですか!嬉しい!でも、我々生徒が先生のお宅の居間などに入って良いんですか?」と北川さんが申し訳なさそうに言う。

「あたしは生徒さんに入られたら困るようなところは家の中の何処にもありませんよ」と亜美が毎度の決め台詞を言う。「さあ!入って!入って!」

「それではお邪魔しまあす!」と北川さんは言い、俺のいる居間に来る。

「主人がいますけれど、好きな席にお座りになって、ケーキとジュースを待っていてください」と亜美が笑顔で言う。

「お邪魔しまあす」と北川さんが俺に言い、「あたし、新人賞に入選しました」と俺に報告する。

「ああ、それは良かったですね。皆でお祝いしましょうね。どうぞ!どうぞ!好きな席にお座りください」

「ああ、はい。それでは私は正道先生のお隣に座らせて戴きます」と北川さんが申し訳なさそうに言い、俺の左隣の席の手前に浅く腰かける。

「はい、じゃあ、北川さん、ケーキとジュース選んでくださる?」

と亜美が居間にケイクとジュースを運んできて言う。

「ああ、ほんと、申し訳ない。ほんとに図々しくて」と北川さんが本当に申し訳なさそうに言う。

「別に図々しくはないわよ。あたし達の大切な生徒さんが念願のデビューを果たした時のささやかなお祝いなんですから」と亜美が真剣な眼差しで北川さんを見て言う。

「じゃあ、あたし、この、マンゴーのケーキとミルク・ティーを戴きます。ああ、ほんと、図々しい!」と北川さんが穴があったら隠れたいとでも言いたげな様子で言う。

「はあい、じゃあ、マンゴーのケーキとミルク・ティーね」と亜美が笑顔で北川さんの席の前のテーブルにケイクとジュースを置く。「あなたは?」

「ああ、俺はショート・ケーキとコーラにする」

「ショート・ケーキとコーラね。はい!」と亜美が俺の選んだケイクとコーラを俺の席の前に置く。「じゃあ、あたしはこの胡桃のケーキとコーヒーにしましょうかね」と亜美は言って、自分の皿にケイクを載せる。「それでは戴きまあす!」と亜美が合掌して言うと、俺と北川さんも合掌し、「戴きまあす!」と言って食べ始める。

「ああ、美味しい!」と北川さんがマンゴー・ケイクの感想を言う。「あたし、デビュー一番最後だったから、結構焦ってたんです」と北川さんがケイクを食べながら言う。「でも、今回の作品には一寸自信があったんです。担当さんも相当誉めてくれていました」

 漫画塾の授業開始時間が近付くと、伝記漫画家志望の高松啓司さんと恋愛漫画家志望の岩崎佳苗さんとファンタジー漫画家志望の近藤正邦さんが現われ、子供達を連れた八人で焼肉食べ放題の店に行く。

 焼肉食べ放題の店に着くと、愛歌を左端に女性陣を全員壁側に並べて座らせ、子供達を俺の左隣の二人がけのテーブル席に向かい合って座らせる。俺の右隣に伝記漫画家志望の高松さんが北川さんと

向かい合って座り、その右隣にファンタジー漫画家志望の近藤さんが恋愛漫画家志望の岩崎さんと向かい合って座る。

「近藤君って、仕事何してるの?」と岩崎さんが興味津々に訊く。

「レンタル・ヴィデオ店に勤めてます」と近藤さんがカルビーを食べながら答える。

「アルバイト?」とニ十二歳から二十三歳になった岩崎さんが更に質問する。

「一応正社員で、主任をやってます」と近藤さんがライスを食べながら言う。

「映画好きなんですか?」と岩崎さんが積極的に話しかける。

 亜美が二人の会話を聴いていて、俺に目で合図をする。十九の近藤さんが果たして二十三歳の岩崎さんと付き合うのか。近藤さんが童貞なら、岩崎さん辺りの家庭的な年上女性で初体験を済ませるような事はあり得る。いやあ、岩崎さんのような真面目な女性には十九の子の初体験に気楽に応じるような感覚はないだろう。

「俺達、いやらしくないか?」と顔を突き出し、小声で亜美に言う。

「ああ、なるほど。あたしもおばさんになったかな」と亜美がキムチを食べながら、反省した様子で言う。

 近藤さんはポーカー・フェイスで、ニコリともせずに岩崎さんと会話をしている。岩崎さんは近藤さんの好みではないのだろう。

「結構、映画は何でも観るんですけど、恋愛モノはあんまり見ないかな」と近藤さんが少年のようなあっけらかんとした話し口調で言う。声は高めの澄んだ声で、ムースでしっとりとした長めの髪に、黄色いダウン・ジャケットの下に真新しい清潔そうな赤い襟付きシャツを着て、黒いボトムズを穿き、ブルーのスポーツ・メイカーのスニーカーを履いている。漫画青年にしてはそこそこお洒落だけれど、特別ファッション・センスに人より秀でたところがある訳でもない。

「北川さんは何でホラー漫画家になろうと思ったの?」と亜美が北川さんに訊く。

「あたし、現実的には物凄く臆病だけれど、ストーリー仕立てに怖い話を描くのは物凄く好きなんです。自分の心一点に意識を集中して、自分が思い描く事に心が恐怖を感じる時の心との密な関係が堪らなく緊張感があって好きなんです」と北川さんがホラー漫画を描く楽しみを語る。

 幸魂が怖がる反応を楽しんでるのかな。幸魂らしき気配が固く唇を閉じる。右隣に座る伝記漫画家志望の高松さんの様子を窺うと、独り黙々と焼肉を焼きながら食べている。高松さんと岩崎さんが付き合えば年齢も相性も良いんじゃないかなと亜美に言おうとして、場の関係で亜美以外に聴こえないように話す術が見当たらず、言おうとした言葉を仕方なく飲み込む。ああ、なるほど。前回の佐藤勇気さんの入選祝いの時には高松さんと岩崎さんが漫画の話で物凄く盛り上がっていたんだった。今回の二人は何で向かい合って座らなかったのだろう。プライヴェイトで何かあったのか。高松さんの黙々と焼肉を食べる様子は岩崎さんの浮気に嫉妬しているのか。まあ、こちら教師陣としては生徒らが全体的に親しくなるのは好ましい事だ。ああ、岩崎さんも近藤さんの無関心に気付いて、黙々と焼肉を食べ始めたな。

「あのう、俺、あんまり北川さんとはお話した事がありませんが、入選おめでとうございます」と新米の近藤さんが北川さんを祝福する。

「ああ、おめでとうございます!」と岩崎さんが北川さんにおめでとうございますの一言も言っていなかった事にハッと気付いて、漸く祝福の言葉を捧げる。

「ああ!ほんと!おめでとうございます!」と高松さんも北川さんに祝福の言葉を捧げていない事にハッと気付いて言う。北川さんは引き攣った顔に作り笑顔を無理に浮かべ、「ああ、ありがとうございます。皆さんもこれから頑張って入選を目指してください」と言う。

 どうやら今期の生徒陣は同期生同士の関係を余り深めてないな。


『更なる漫画塾の生徒募集』

 翌朝、亜美と共にホラー漫画家の北川さんの空席を埋める生徒募集のチラシを阪急デパートの掲示板に貼りに行く。

 新しい生徒はこの日の夕方に電話をかけてくる。社会人の部の生徒が四人決まった時点で、翌朝、阪急デパートにチラシを回収しに

行く。

 新しい生徒さんは前田理恵と言う四十三歳の主婦で、中学高校時代に漫研に所属して漫画を描いていたと言う。過去作を見せてもらうと、画力はかなり高く、セリフのない詩的な漫画が多い。前田さんは高校を卒業すると全く漫画を描かなくなったらしい。高校卒業後に漫画家を目指さなかったのはストーリーが上手く作れなかったからだと言う。前田さんにどんな漫画家になりたいのかと質問すると、漫画詩人になりたいと言う。

「詩人になりたいなら、詩人になれば良いのに」と亜美は率直に意見する。

「詩人になりたいのではなく、漫画詩人になりたいんです」と前田さんが詩人と漫画詩人の違いを強調する。

「詩に絵を添えたいと言う事なんですか?」と亜美が訊くと、「まあ、そうです」と前田さんが言う。

「詩集に自分の描いた挿絵を入れたら良いんじゃないですか?」と亜美が言うと、前田さんは放心したように宙を見つめて、言葉を失う。

「いえいえ!前田さんが漫画を描きたいと仰るなら、それで我々は前田さんを我々の漫画塾に受け入れ、指導させて戴くんです!」と亜美が前田さんを失望させた事に罪の意識を感じ、取り乱して言う。

「漫画詩人って、漫画家じゃないんですか?」と前田さんが悲しげに質問する。

「いえいえ、ちゃんとした漫画家の事だと思います。でも、詩的な漫画作品だけ描いて、ストーリー漫画をずっと描かないような漫画家はいないんです」と亜美が正確に答える。

「ああ、なるほど。あたし、単行本一冊分の漫画を描くような事を自分が将来なりたい漫画家像だと思っている訳ですね」と前田さんがプロの漫画家として漫画を描き続ける未来を理解する。

「そう言う事です」と亜美が安心したように言う。「我々は基本的に塾生の皆さんが将来的にストーリー漫画が描けるように指導させて戴くんです。その秘訣を我々は相当に具体的に把握しているんです」

「ああ、それならお任せします」と前田さんが目に輝きを取り戻して言う。

 亜美は早速、前田さんに連想法によるあらすじの作り方を教える。


『N科展の結果発表』

 N科展に投稿した絵画は落選した。今時期と過去の入選作を見ると、芸術性の面での力不足を痛感する。

 やはり自分は所詮画家ではなく、漫画家なのだなとつくづく思う。此間の個展の成功は漫画家としての知名度の結果なのだと言う事が判る。


『小説新人賞の結果発表』

 ホラー小説の新人賞に投稿した幻想怪奇小説『荒野』が落選した。俺は早速、小説『荒野』を自分のブログに公開し、尚且つ五十部だけ自費出版する。

 落選にめげずに今後も小説の執筆を続けていく。

 四作目の小説は既に書き始めていて、『遠い国』と言うタイトルの、放浪者が祖国への愛を回復するまでの話である。


『子供達の更なる成長』

「陽平が巨大ロボットものの漫画を描き始めたよ」と梅雨の朝の朝食の食卓の席で納豆生卵かけ御飯を食べながら言う。「陽平も今年で小学二年生になったか」

「陽平はギター教室でのバンドでオリジナルの楽曲の作詞作曲とギターとヴォーカルを担当するようになったの」と亜美が楽しそうにウィンナーを食べながら言う。「水泳でも陽平は学校の水泳で自分に敵う子はいないらしいわよ」

「陽平のバランス感覚は相当に優れたものだな」

「陽平は学校の成績も中の上ぐらいの成績で、あんまり勉強熱心とは言えないけど、学業の成果も特別苦手な科目がこれと言ってなくて、それこそほんとにバランスが良いのよね。でも、学校の子の話が面白くないって言うの」と亜美が母親らしい心配を口にする。

「ああ、なるほど。日本では一般的な小学生が洋楽のロックを聴くって言うのは稀だからな」

「愛歌は今年で年長さん。愛歌は少女と仔犬の漫画を終えて、少女が森の妖精達と暮らす漫画を描き始めたのよね」と亜美が楽しげに言う。「結局ね、同じように子供達を育てても、子供達それぞれに向き不向きや好みの違いがあるのよね」

「愛歌は漫画も何れは止めるかもな」

「まだ漫画を描くのは好きみたいよ」と亜美が楽観的に構えて言う。

「親の押し付け全部に対応するのが陽平なんだな」

「何にせよ、苦しくなったら、自分から止めると思うの」と亜美が気楽に陽平の未来を捉える。「親がしてやれる事を可能な限りやれば、親の役目はそれでもう終わりなのよね」

「亜美は相当に愛歌の件でショックを受けてるみたいだな。早くも教育ママを止めようと思ってるんだろ?」

「子供の人生は親の思い通りにはいかないって諦めたわ」と亜美がシャケの焼き魚を箸で解しながら言う。

 親は子供達のいる前で、どうせ子供には判らないだろうと思って、自由に話しているけれど、もしも子供達が親の話が判っていたら、どうなのか。少なくとも子供達の守護霊様や守護神様は我々が話している事を全て御存知だ。子に対する親の行いには常に神仏の目が瞠っている。自分の守護霊様や守護神様の目を誤魔化す事も出来ない。霊的な環境への認識がある者には悪を為す事など到底出来ないようになっているのだ。

 陽平はシャケの焼き魚に喰らい付いて食べている。愛歌はシャケの焼き魚を箸で鳥が啄ばむように食べている。どう見ても二人には親の話は判っていない。俺は子供達の守護神様や守護霊様に失礼のないように慎重に子供達を育てている。

「この子達には守護神様や守護霊様や守護霊団がいるんだ」

「うん」と亜美が真剣な眼差しになって返事をする。「あたしもよくその事を思うの」

「守護霊様の他者の口を通じて伝わる間接内流のメッセージがあるな?」

「うん」と亜美が緊張した面持ちで答える。

「俺、子育てって、もっと神様と密になって育てるものだと思ってる」

「あたしもそうよ」と亜美が笑顔で言う。「子供を育ててるのは子供の守護霊様かしら?」

「そうなると親の存在や役目の比重が判らないだろう?俺達も親に育てられたんだ」

「あたしも親に悪態突いたり、反抗したり、親に一杯迷惑をかけて育ってきたのよね」と亜美が暗い顔で言う。

「自分達の親の役割りに前世の経験がどれだけ役立っているか判るか?」

「そう言う記憶ってないでしょ?」と亜美が同意を求めるように前のめりになって言う。

「あるようでないよ。前世の記憶なんて全く自覚してない」

「この子達の親は確かにあたし達なんだろうけど、親と子の関係には子供達の守護神様や守護霊様の意思が必ずあるように思わない?」と亜美が確信を以て言う。

「愛歌が習い事を止めた事も俺なりに理解して許したんだ。愛歌の守護霊様が愛歌に習い事を止めさせたくなければ、何か俺達に伝えると思うんだ」

「守護霊様が言葉で直接自分に何か言う事はないって清さんが言ってたんでしょ?」と亜美が俺の記憶を定かにするように、訴えかけるような目で言う。

「ああ、うん。俺、よくそれを忘れるんだ。何時の間には魂達の自作自演の神を神と取り違えるんだ。それを清は『お兄ちゃんは神様の御告げを思ってるんだ』って言うんだ」

「あたしもどっちかって言うと神様の御告げを待つタイプかな」と亜美がにっこりと微笑んで言う。

「夫婦って似てるな」

「それ、前も言ったわよ」と亜美が笑顔で言う。

「俺達、やっぱり、縁あって出会い、結婚したんだな」

「また思い出してるの?」と亜美が怪訝そうな顔で言う。

「何を?」

「真希さんの事」と亜美が険しい目付きで言う。

「いやっ、真希ちゃんの事は思い出してないよ」

「ほんとに?」と亜美が真相を追究する。

「いやあ、どうしても亜美は真希ちゃんの次に現われた女性ってイメージがあるんだ」

「それは確かな事よ。でも、真希ちゃんを想ってない?」と亜美が疑う。

「いやっ、それは断じてない」

「あたしの考え過ぎって事ね」と亜美が気が抜けたように安心した顔で言う。「あたしも自分の事を統合失調症が治ったみたいに思わない事にするわ。真希さんの事をあれこれ疑うのは妄想よね」

「妄想は俺にもある。健常者だって、妄想する事はあるんだ」

「そうよね。考え過ぎよね」と亜美が混乱を示す。

「病気、病気って思い過ぎだよ」

「そうね。これからは気を付ける」と亜美が素直に自分の癖を認める。


『子供達の夏休み』

 子供達が夏休みを間近に控えている。毎日が忙しくて、家族サーヴィスが足りていない。子供達が自分達の漫画塾で塾生として漫画を描いているので、子供達との関わりはしっかりとある。子供達が漫画家になるなら、我が家は子供達にとって最高の環境である。子供達は我々が買い与えたカメラでよく写真を撮り、写真の技術も上がっている。子供達は写真を見ながら、漫画やイラストレイションを描く事もある。子供達にはそれぞれに自分達の少年期の思い出作りがいる。毎日が出来事の連続である事が子供達の人生を豊かに彩る。親として子供達にどれだけの事をしてやれるのか。陽平は忙しい習い事や学業にも存分に力を発揮している。愛歌は同じ親に同じように育てられながら、上手くバランスが取れなくなり、学校の成績も落ちている。子供達に統合失調症が遺伝しない事を何よりも願う。


 七月半ばの昼食時に、亜美と二人でダイニングルームの食卓で宅配ピザを食べている。

「子供達の夏休みに海水浴に行かないか?」

「海水浴って言うと、湘南かしら?あたし、日焼けしたくないのよね」と亜美が海水浴に行く事に今一つ乗り気がしないでいる。「子供達の夏休みには学校のプールがあるわよ?」

「海に連れていってやりたいんだよ」

「じゃあ、あたしは海の家の屋根の下で日焼け防止しながら、あなた達の様子を見てるわ」と亜美が仕方なく同意する。


 子供達が夏休みに入り、電車で湘南に向かう。

 海水浴場は大賑わいである。ビキニやハイ・レッグ・カットの水着を着た若い女性達が大勢いる。子供達には事前にスクール水着ではない水着を買い与えた。陽平が愛歌の面倒を見ずにさっさと海の中へと駆けていく。亜美は早速、海の家の屋根の下に入り、我々の後ろ姿を見守る。

 近頃は海水浴場で水着姿の女性達の写真を無断で撮ると、係員にカメラを没収されるらしい。そんな決まりが何時から出来たのか。

 俺は浜辺にシートを敷くと、スケッチブックに水着の女性達の姿をスケッチする。愛歌は水際で独り水遊びをしている。陽平は沖の方で泳いでいる。

 俺はスケッチを済ませると、愛歌を肩車して海に入る。

「愛歌は泳げるんだったな」

「泳ぎたい!泳ぎたい!」と愛歌が俺の頭に置いた手で俺の頭を叩きながら急かす。

「じゃあ、泳ぎなさい」と俺は言って、愛歌を海の中に降ろす。

 愛歌は浮き輪もせずにクロールで泳ぐ。俺は沖に向かって海の中を歩いていくと、頸元まで水に浸かる辺りで海に潜る。映画『ジョーズ』は俺に最悪の海の印象を与えた。俺もホラー漫画を何作も描いた。映画『クジョー』や『ヒッチャー』や『ハウリング』や『シャイニング』などのホラー作品を思い巡らし、傑作ホラー漫画のアイデアを練りながら潜水する。海面に顔を出し、仰向けになって体を浮かし、眩しい太陽を見上げる。陽平が泳いできて、俺の体に手をかける。

「僕、海好き!」と陽平が笑顔で言う。

「また来年も来ような」

「うん」と陽平が大喜びして言う。

「少し泳いだら、お母さんのところに行って、お母さんが作ったお弁当を食べたり、冷たいジュースを飲もう!」

「うん!」と陽平は言うと、俺から離れて浜辺の方に泳いでいく。

 暫く忘れていた海水のしょっぱさを新鮮な感覚で捉える。地に足が届くところまで引き返し、海の家の方を見ると、亜美が手を振っている。俺も亜美に手を振り返す。暖かな最高の陽射しを身に受け、何とも気持ちが良い。海はやはり良いな。浜辺に上がった俺は、「愛歌!お母さんの方に行くぞ!」と海から浜辺に上がろうとしている愛歌に言う。「お兄ちゃんは何処だ?」と周囲を見回すと、遠くの海の家にいる亜美の近くにいる。「ああ、あそこにいた!」

 海の家の方に歩いていき、「海は良いな」と亜美に言うと、「あたしはこの年で日焼けしたら、染みが出来るから嫌なの」と亜美が言う。亜美は重箱を座敷に広げ、「それじゃあ、お昼にしましょうかね」と我々に母親らしい口調で言う。「じゃあ、皆、座って、お弁当食べましょう」

「絵、描いてたのか」と亜美に言うと、「うん。今、水彩絵の具で着色してたところ」と亜美が言う。亜美の顔が何とも美しい。

「綺麗だぞ」と亜美に言うと、「ええ!何!突然!」と亜美が照れ笑いをして動揺する。

「俺はそのシャケ・フレークのお握りが良いな」とお目当ての食べ物を指差して言う。

「はい!どうぞ!」と亜美が重箱を俺に近付けて言う。俺はお握りを素手で掴み、お握りに齧り付く。

「ああ、美味しいな」

「そう?良かった」と亜美が鶏の唐揚げを食べながら言う。

 陽平は卵焼きを食べ、愛歌は揚げシューマイを食べる。

「あなたはどんな絵を描いたの?」と亜美が言い、俺のスケッチブックを手に取って、俺の絵を観る。「若い水着の女性の絵ばかりね」

「亜美が水着になってくれないから、仕方なく描いたんだ」

「何それ?」と亜美が怪しむような笑顔で言う。

「冗談だよ。漫画に使えるかもしれない絵を描いただけだ。本当は写真を撮りたかったんだけど、近頃の海水浴場では無断で女性の水着姿を撮っちゃいけないんだよ」

「アメリカとかもそうなのかな?」と亜美が顔を引き締めて言う。

「どうかな。アメリカはトップレスの女性のいる海水浴場もあるだろ?」

「うん」と亜美が蜂蜜入りの梅干のお握りを食べながら言う。

 陽平が亜美のスケッチブックの絵を眺め、愛歌が俺のスケッチブックの絵を眺める。

「飯食ったら、また一泳ぎするか」

「あなた、水泳好きなのね」と亜美が冷たいペットボトルの緑茶を手にして言う。

「子供の頃は毎年、長崎の島原半島に住む祖母の家に行って、近くの神代長浜海水浴場に泳ぎに行ってたんだ」

「あなたのお祖母さんとは結婚式の時に御会いして以来、ずっと会わずに生き別れたわね」と亜美が愛歌の水着姿の写真をカメラで撮りながら言う。

「もう九〇を超えて、晩年は近所の老人ホームに住んでたから、母親だけが九州に会いに行ってたんだ。お祖母ちゃんも写真では亜美や子供達の姿を見ていたよ」

 亡き祖母への温かな思いが全て思い出の中に納まる。

「さあ!もう一泳ぎするか!陽平、愛歌、行くぞ!」

「僕、スウィミング・プールで泳ぐのより海の方が好き。思うように泳げないけど、波が楽しい」と陽平が笑顔で言う。

「あたしも海大好き」と愛歌が強い陽射しを受けながら、眩しそうに目を細めて言う。

 暖かくて眩しい陽射し。冷え切った海水。押し寄せる波の抵抗感。塩そのものようにしょっぱい海水。

 子供の頃にスウィミング・プールで『ゴジラ』が海中から現われ、海水を滴らせて奇声を上げる場面を『ゴジラ』になりきって演じた。漫画や小説を書く事も子供の頃のごっこ遊びにとても似ている。俺は潜水をして、陽平の前に『ゴジラ』として現われ、『ゴジラ』の奇声を真似る。俺は陽平を海中に引き込み、再び海中に出ると、陽平の体を沖の方に投げる。陽平は海面に上がってきて、「今の何の声?」と大喜びして訊く。

「陽平はまだゴジラを知らないのか?」

「知らない」と陽平が眼を輝かせて言う。

『じゃあ、家に帰ったら、皆で『ゴジラ』を観よう。お父さんは古い白黒の時代の『ゴジラ」が好きなんだ」

「『ゴジラ』って、何?」と陽平が興味津々に訊く。

「巨大怪獣だよ。カッコいいんだ」

「なら、観てみたい」と陽平は良い。足の着かない海の中に沈まないようにしている。

「陽平もこれだけ泳げるようになれば、スウィミング・スクールに通った甲斐があったな」

 愛歌が海面に顔を出したまま平泳ぎで沖まで泳いでくると、俺の肩に抱き付く。俺は愛歌の体を持ち上げ、遠くに投げる。愛歌は海水を飲んで咳き込み、溺れそうになっている。俺は愛歌の近くに泳いでいき、愛歌を抱きかかえる。

「さあ!そろそろ浜辺に上がって、家に帰るぞ!」

「うん!」と陽平が元気な声で返事をする。

「あたし、今日、一杯泳いだよ」と愛歌が俺に抱きかかえられながら、とても満足気に言う。

「そうか。それは良かったな」

 海水浴を終えた我々は電車に乗って、我が家に帰る。


『家族で初のカラオケ』

 十月の日曜日の朝食の食卓で亜美が缶詰の秋刀魚の蒲焼を食べながら、「家の子って、親の前であんまり歌を歌わないわよね」と言う。

「ああ、そう言われれば、そうだな。家庭で歌のデビューをしない子は人前で歌えないからな。お風呂に入れてやる時に一緒に歌う事はよくしたよ」

「あたしもそれはした。冗談もあんまり言わないでしょ?」と亜美が心配そうに言う。

「家庭で冗談のデビューをしてない子は外で冗談が言えないよな」

「あたし達の話って、子供達にはとにかくシリアスなのよ」と亜美が奈良漬をカリカリと食べながら言う。

「俺も統合失調症が発病してから、人前で冗談を言わなくなったよ」

「芸術家集団も皆、真面目よね」と亜美が顔を顰めて言う。

「うん。皆、病気だな」

「今日はカラオケ屋にでも行って、皆で順番に歌を歌いましょうよ」と亜美がカラオケ屋に行く事を提案する。

「ああ、良いね」

「あなた、歌得意なの?」と亜美が俺に訊く。

「音程はズレないけれど、音域が狭いんだよ」

「あたしもそう」と亜美が笑顔で言う。


 我々は家族揃って初めてカラオケ屋に行く。

 カラオケ屋の受付で部屋を取り、カラオケルームで飲み物と食べ物のメニューを見る。我々はお酒を飲まず、家族四人分のフリー・ドリンクを頼み、たこ焼きやおつまみセットを注文する。

「あなた、先に歌う?」と亜美が俺に訊く。

「ああ、じゃあ、そうしようか」と俺は言って、尾崎豊の『アイ・ラヴ・ユー』の番号をリモコンでカラオケ機に入力する。トップ・バッターとして歌う事に物凄いプレッシャーを感じる。出来るなら、尾崎の声で尾崎の歌を歌ってみたい。俺が歌える歌は八〇年代の歌が多い。歌詞を憶えている歌はない。

 俺が『アイ・ラヴ・ユー』を歌い終わると、「良かったわよ!」と亜美が言って、拍手する。

「じゃあ、次は亜美だ」

 亜美はYUIの『ラフ・アウェイ』を歌う。亜美は高音が裏声になる。亜美もやはり、音楽は素人の域を出ない。俺ももう少し歌を研究してみたい。

 亜美が歌い終わると、「良かったぞ」と俺は言って、拍手する。子供達も拍手を真似る。

「陽平は何を歌う?」

「あたしがチャラの『やさしい気持ち』を歌う!」と愛歌が積極的に歌いたがる。

 俺は愛歌の選曲をリモコンで入力し、愛歌に入力の仕方を教える。

 愛歌は調子良く歌を歌い、なかなか歌が上手い。

 愛歌が歌い終わると、「愛歌、可愛かったわよ」と亜美が言い、拍手を贈る。

「愛歌、歌上手いな」と俺が言うと、愛歌がモジモジと照れ笑いをする。「陽平は何を歌う?」

「僕はビートルズの『レット・イット・ビー』を歌う」と陽平が言うので、俺は陽平にリモコン操作を教える。

 陽平は英語の発音も物凄く綺麗で、やはり、歌が上手い。

 陽平が歌い終わると、皆で拍手をし、「陽平、歌上手いな」と俺が言う。陽平は照れ笑いする。

 たこ焼きとおつまみセットが届くと、子供達は食べる方に夢中になる。俺は二曲目の『十五の夜』を歌う。

 この日は一人十曲近く歌って、皆、満足して帰宅する。家族でのカラオケはなかなか良いものだ。

「通院の時にも芸術家集団とカラオケ屋に行かないか?」と亜美に言うと、「ああ、良いわね」と亜美が喜ぶ。


『陽平の音楽教室のライヴ』

 クリスマス・イヴの夜、陽平の通う音楽教室のライヴが渋谷のライヴ・ハウスで行われる。陽平率いるロック・バンドは『ザ・マザーシップ』と言う。俺は今回の陽平の初ライヴにタコミちゃんを招待した。

「陽平君、パンク・ヘア決まってるわよ」と控え室でタコミちゃんが陽平に言うと、陽平が緊張して引き攣った顔で、「ありがとう」と言う。「陽平君は担当の楽器は何?」

「一応ヴォーカルとギターやってる」

「一番カッコいいポジションじゃない!ヒット曲ガンガン出さないとね」とタコミちゃんが陽平を応援する。

 俺と亜美と愛歌は会場に行く。会場には陽平達が作った異様なムードの音楽が流れている。我が息子ながら、ライヴの演出力はプロに近い。ステイジはまだ暗く、ぽつりぽつりとメンバーが暗がりの中から現われる。ドラマーの子が歯切れの良いドラムを試し打ちする。陽平は暗がりでギターを抱え、マイクの高さを調整し、マイクに向かって、「皆、俺達の初ライヴに来てくれて、ありがとう」と言う。「良いぞ!陽平!」と俺は思わず叫んでしまう。

「今のは僕のお父さんです」と陽平が言うと、会場の客がどっと笑う。カッコ良過ぎるぞ、陽平!

 陽平がギターで低音のフレーズをグリグリと繰り返し弾き捲り、「『東の果てより』」と曲名を紹介すると、陽平がギターの悲鳴のような音を木霊させ、呪文のように低い声で何事かを呟く。陽平は暗く静かな歌声で歌い始め、他の演奏者が淡く広がりあるスペイシーな音楽を奏でる。陽平はか細い高い声で天使のように暗いメロディーを歌う。

「陽平君!」とタコミちゃんが思わず叫ぶ。

 何か少し病んでいるのが心配だ。小学校二年で感性が病むのは早過ぎる。音楽的な感性は物凄く高い。

 一曲目が終わると、「次は『まだ届かない』と『夜の中へ』です」と陽平が曲名を紹介する。

「陽平君、カッコいい!」とタコミちゃんが叫ぶ。

 ドラムのバスドラが鼓動のように規則正しく響き、陽平が反響音のようなギターを弾きながら、金属音に近い超音波のような声を上げ、ベースが低音部を安定的に固め、キーボードが神聖なムードを作り上げる。陽平を音楽教室に通わせたのは本当に良かった。

 この日の陽平のライヴは大成功に終わり、帰りに家族とタコミちゃんを連れてインド料理屋に入り、夕食を食べる。勿論、タコミちゃんの分の食費は我々が支払う。


『パラノイアの治し方』

 守護霊様のメッセージを得ようと、他者の話に注意深く耳を傾けていると、パラノイアの方が段々と治ってくる。通院の際にも主治医の教えを注意深く心に留めるようになる。


『親と子の関わり』

 二〇〇八年で三十九歳になる私は家族と朝食の食卓でシャケ・フレークと生卵をかけた白米を食べながら、「陽平は将来、何になりたい?」と陽平に訊くと、「ロック・ミュージシャンになりたい」と陽平が答える。

「漫画や水泳はどうする?」

「漫画や水泳も面白いけど、ロック程面白いとは思わない」と陽平がウィンナーを食べながら答える。

「陽平の好きなロック・ミュージシャンは誰だ?」

「お母さんの部屋にあるCDではデイヴィッド・ボウイ。音楽教室でカヴァーして好きになったのはジョン・レノンとクイーン」と陽平が生卵かけ御飯を食べながら答える。

「日本のミュージシャンでは誰が好きなんだ?」

「氷室京介が好き」と陽平が答える。

「愛歌はどんなミュージシャンが好き?」と亜美が愛歌に聴く。

「あたしはチャラとかジュディ・アンド・マリーが好き」と愛歌が生卵かけ御飯を食べながら答える。「お母さんは誰が好き?」

「お母さんはYUIと中島美嘉が好きよ」と亜美が豆腐と若布の味噌汁を食べながら答える。

「お父さんは誰が好き?」と愛歌が俺に訊く。

「お父さんは昔からピンク・フロイドと尾崎豊しか聴かないんだ」

「何でお父さんは他の音楽を聴かないの?」と陽平が味噌汁を食べながら、困ったような顔をして訊く。

「これだって思うアーティストに早くから出会ったんだ」

「お父さんみたいな音楽の聴き方は珍しいのよ」と亜美が陽平と愛歌に言う。

「お父さんって変わってるんでしょ?」と陽平が救いを求めるような目で亜美に確認する。

「確かに変わってるわよね」と亜美が黄色い沢庵を食べながら、ニヤニヤして答える。「人間の好みは人それぞれ違うのよ」

「うん・・・・」と陽平が悲しげな眼で味噌汁を吸いながら返事をする。

 子供達が俺を理解出来ずに苦しんでいる。俺の漫画にもそんな自分の複雑な好みや性格が反映しているのか。


『由里ちゃんの恋人』

 七月の通院日、俺は外来で芸術集団と顔を合わせる。

「氏川先生、お元気でしたか?』と赤ん坊を抱っこした布居さんが陽気に挨拶をする。布居さんは黄色地に椰子の木のプリントのTシャツと茶色地の柄物のロング・スカート姿である。

「元気ですよ。そっちはどうですか?」

「毎日、子供の世話と漫画の連載に追われて、あたふたしてます」と布居さんが赤ん坊を抱き直して言う。

「芸術家集団の女性陣はほとんど子供を連れてますね」

「そうですね。でも、子育てだけで一日を終えるのは嫌です」と布居さんが赤ん坊の涎を涎掛けで拭きながら言う。

「ああ、由里ちゃん、おはようございます」

「おはようございます」と由里ちゃんが陽気に挨拶を返す。由里ちゃんは大分ぽっちゃりとした体型になり、半袖の白いロングのワンピースを着ている。

「何か、今日は特に機嫌が良いみたいですね」

「私にも遂に恋人が出来ました!」と由里ちゃんが俺を気遣うように言う。

「良かったですね」と笑顔で言うと、由里ちゃんが寂しげな眼で俺を見つめ、気を取り直すと、「恋人は画家とカメラマンをしている四十一歳の男性で、漸く念願の芸術家の恋人に出会いました」と笑顔で言う。由里ちゃんとはこんな切ない関係がずっと死ぬまで続くのか。

「由里ちゃんも漸く恋人が出来たか!」と村野さんが青いサーフィンの絵のTシャツにブルー・ジーンズ姿で喜ぶ。

「村野さんはタコミちゃんとの結婚生活が幸せなようですね」と由里ちゃんが村野さんに対しても寂しげな眼で言う。

「まあ、落ち着くところに落ち着いた安心感はあります」と村野さんが複雑な顔をして言う。

「氏川さん、俺、幻聴消えましたよ」と三木谷さんが何か距離を置いたようなよそよそしい態度で言う。

「ああ、それは良かったですね!」

「やっと苦しみがなくなりました」と三木谷さんが泣き出しそうな顔で言う。

「俺は相変わらず幻聴が消えないです」と村野さんが不安げな顔で言う。

 ジュース販売機の近くのソファーに座って半沢夫妻と武田夫妻が話し込んでいる。旧姓君白秋歌さん事、半沢夫人が怪しい性的なオーラを放って、旧姓坂本愛事、武田夫人と話をしている。その二人の様子を遠くから見ている俺の顔を半沢夫人が何度もチラチラと見ている。俺はあの人と無性にヤリたい。武田夫人が気の逸れ易い半沢夫人の視線の先を確認しながら、何か話し込んでいる。武田夫人の能面のような切れ長の一重瞼の目は相変わらず神秘的な魅力がある。

 芸術家集団全員の診察が終わり、薬局で薬を受け取ると、全員でカラオケ屋に行く。カラオケルームのモニターの近くの右側に半沢夫人が座って、武田さんが歌うU2の『ウィズ・オア・ウィズアウト・・ユー』を聴いている。半沢夫人は細身の体に白いロング・ワンピース・ドレスを着ている。その白いワンピースの下から赤いブラジャーが透けて見える。理性が保てない。秋歌さんは半沢さんの奥さんだぞ。亜美が半沢さんと浮気したら、俺はどう思う。あの人を見てると頭がクラクラとしてくるのだ。あの人は悪魔なのか。それとも自分の中に悪魔がいるのか。あっ!鼻血が出てきた。

「あら、鼻血?」と左隣に座る亜美が直ぐに気付く。

「一寸、トイレに行ってくるわ」

「うん」と亜美が心配そうに見送る。

 俺はレストルームに入り、鼻を洗うと、ペーパー・タオルを千切って、鼻に詰める。レストルームを出ると、廊下の奥の女性トイレに行こうと男子トイレの前を過ぎろうとしていた半沢夫人とぶつかりそうになる。危うく口付けするところで咄嗟に立ち止まる。俺はもう自分の気持ちを抑え切れず、半沢夫人を抱き締め、キッスをする。

「いやっ、止めてください!」と半沢夫人が色っぽい声で言い、必死に身を守ろうとする。俺は半沢夫人を男子トイレに引き入れ、半沢夫人の胸を右手で揉みながら、白いロング・ワンピース・ドレスのスカートを捲り、赤いレースのパンティーの上からクリトリスを右手の中指で刺激し、パンティーを脱がすと、限界まで勃起したモノを半沢夫人の穴に挿入する。

「止めてください!」と半沢さんが悲しげに言い、俺の体を押し退けようとする。俺は半沢夫人の左脚を抱え、モノを半沢夫人の穴の奥に突き上げるように腰を動かし、半沢夫人の唇を貪る。半沢夫人のか細く高い喘ぎ声が一層性欲を刺激する。俺は半沢夫人の尻を両手で揉み、右手の中指を半沢夫人のアナルに挿入する。

「いやっ」と半沢夫人が泣き出す。俺は獣のように荒い呼吸を吐き、激しく腰を突き上げるように動かす。俺は一旦モノを半沢夫人の濡れた穴から外し、半沢夫人の体を壁側に反転させると、半沢夫人のの胸を揉み、モノを穴に挿入し、激しく腰を動かす。半沢夫人は壁に両手を押し当て、「いやっ!止めて!」と色っぽい声で抵抗して言う。俺はモノが半沢夫人の穴の中で破裂しそうになる瞬間にモノを穴から外し、トイレの壁に五回モノを大きく痙攣させて、大量の精子を射精する。半沢夫人は自分の胸を抱きかかえて、トイレの地面にしゃがみ込む。俺は一人トイレを出て、カラオケ・ルームに戻る。

「鼻血大丈夫だった?」と亜美が心配そうに訊く。

「ああ、大丈夫大丈夫」

 俺は半沢夫人への性的欲求を満足させ、尾崎の『アイ・ラヴ・ユー』を歌う。

 半沢夫人はそれとない顔でカラオケ・ルームに戻ってくると、亭主の右隣に何もなかったように腰を下ろす。

 帰りの新宿駅の校内で解散する時に、俺は半沢夫人の耳元に、「今日は本当に済みませんでした。ごめんなさい」と心から謝る。半沢夫人は優しい眼で黙って頷く。

 俺は遂に亜美に対する秘密を作ってしまった。この事は死ぬまで亜美に打ち明けてはいけない。自分の罪を赦してもらおうとする事は甘えだ。俺は駅の構内で半沢夫人に謝った時の半沢夫人の優しい眼を何時までも思い浮かべる。俺の気持ちは満足した。半沢夫人とはもうこれきりにする。


『由里ちゃんからの電話』

 八月の朝方、小説『遠い国』を執筆していると、電話がかかってくる。

「はい、もしもし、氏川ですけれど?」

『あのう、由里です』と由里ちゃんが明るい声で名を告げる。

「ああ、由里ちゃんか。どうかしたの?」

『あたし、多分、今の恋人の長野利光さんと結婚すると思うんだけど』と由里ちゃんが緊張した声で言う。

「うん」

『最後に一つだけ氏川さんに確認しておきたい事があるの』

「何?」と俺は由里ちゃんが俺達の関係を確認しようとしている事を予期する。

『あたし達、真希ちゃんさえいなかったら、付き合うべき関係だったわよね?』と由里ちゃんが深刻な口調で確認する。俺は黙り込む。

『違う?あたしの思い込み?』と由里ちゃんが震える声で確認する。

「そう言うのって、あんまりはっきりさせなくても良いんじゃないかな」

 由里ちゃんが黙り込む。由里ちゃんは多分怒っている。俺は話をはぐらかせているのではない。

「俺は妻子持ちなんだよ。毎日が幸せなんだ。誰にも邪魔されたくない幸せな生活があるんだよ。我々夫婦の間に由里ちゃんが入り込む隙間は一ミリもないんだ。真希ちゃんの事とかもずっと忘れようとしてるんだ」

『ごめんなさい!』と由里ちゃんははっきりと俺に謝り、電話を切る。

 俺は急いで由里ちゃんに電話をかけ直そうとして止める。由里ちゃんの気持ちは二〇代前半の頃から年を取っていない。自分がもうおばさんだって事も認識していない。由里ちゃんと話していて甘い気分になったのは二〇代の頃までの話だよと心の中で言って、少し後悔する。別にそこまで言う必要はない。本当言うと、由里ちゃんは俺にとって昔の恋人のような存在だよ。でも、付き合おうにも付き合う時期が何処にもなかったんだよ。由里ちゃんにもなかったろう?俺は皆が幸せになる事を願ってる。だから、由里ちゃんにも幸せになって欲しい。何より綺麗な結婚をしてもらいたい。若い頃は俺も由里ちゃんの事が好きだったよ。でも、そんな事確認してどうしたいんだよ。俺と由里ちゃんが結ばれる運命はなかったんだよ。俺もそれを強く願う事はなかった。俺は由里ちゃんが悔いなく幸せになる事だけを願ってる。だから、どうかお幸せに!


『漫画同人誌『漫画天国』創刊』

 九月の暮れの朝、俺は母が長崎のお土産として買ってきてくれた天ぷら蒲鉾に醤油をかけながら、「俺達の漫画塾で同人誌を作らないか?」とめんたいこを解している亜美に提案する。

「漫画同人誌『漫画天国』ね」と亜美がめんたいこを盛った御飯を食べながら言う。「良いんじゃない」

「学生の部と社会人の部とに同人誌を分けようか?」

「ううん。どうかな」と亜美が箸を持った手を宙に浮かしながら考え込む。「一緒だと何か弊害があるの?」

「社会人の部の作品には性描写があるだろ?」

「ああ、そうね。子供達には見せられないわね」と亜美が真面目な顔で言う。

「吉川直人が小学六年生で、原吉日が中学一年生で、相沢直美が高校一年生で、木村健吾が小学二年生で、立見美和が中学二年生で、笹原恵が高校一年生で、陽平が小学三年生で、愛歌が年長さんだな。そろそろ相沢さんが新人賞に入選しそうなんだ」

「ああ、妖怪退治モノの絵がうんと上手くなったもんね」と亜美が天ぷら蒲鉾を食べながら言う。

「吉川直人や原吉日は大人同然のヤンキーモノを描いてるよ。小学生が描く漫画の主人公が煙草吸ってるんだよ。実際、二人共、家では煙草を吸ってるらしいんだ」

「あら、悪い子になったわね」と亜美が心配そうに言う。

「不良少年時代も漫画家としては良い経験だと思うんだけどね」

「良い事は良い、ダメな事はダメって言える大人じゃなきゃダメよ」と亜美が俺に説教をする。

「難しいところだな。ヤンチャ坊主はヤンチャな時期を通って大人になっていくんだと思うんだよ」

「あなた自身は真面目な学生だったんでしょ?」と亜美が苛立ちを顔に表わして言う。

「どうかな。酒は中学生の頃におふざけ程度に酒を飲んで、煙草は二十三の時からだよ」

「やっぱり真面目じゃない」と亜美がからかうような笑顔で言う。

「陽平が巨大ロボットモノの漫画を描き始めたから、三木谷さんの漫画をあげたんだよ」

「ああ、丁度良いわね」と亜美が笑顔で言う。

「意外な接点だよね」

 亜美は麦茶を飲み欲し、「うん」と子供のように目を丸くして言う。大人の心の中には子供の心がある。何だか亜美の少女時代を垣間見たように思う。少しユング的かな。俺も所詮彼と同じ統合失調症だ。考える事も似たり寄ったりになる。

「愛歌の少女と妖精達の漫画は素晴らしいよ。天使のアートだ」

「ああ、そうかしらね。夢見る少女の典型的な作風なんだけどね」と亜美が厳しい意見を言う。「少女と仔犬の漫画を描いていた頃の作風の方が好きだったな。何か言葉もないのに何となくポエジーでね」

「なるほど」

「漫画塾の同人誌は良いアイデアよ」と亜美が話を元に戻す。

 我々は早速、翌日から同人誌の編纂に入る。同人誌には漫画塾の卒業生達の作品や我々講師陣の作品も掲載する。

 十一月に同人誌の印刷が出来上がると、塾生達は大喜びする。卒業生らも非常に喜ぶ。


『特定の宗教に属する安心感』

 十二月のクリスマス・イヴにたぬきキツネ蕎麦の昼食を食べながら、「あたし達って、Wメイトに入信してるって事で相当に安心感があるわよね」と亜美が幸せそうに言う。 

 俺はたぬきキツネ蕎麦を食べながら頷き、「それって、特定の宗教に属する事の安心感だと思うんだよ。宗教内の思想的な一体感みたいなものって宗教の外では余り経験しないからね」と言う。「F先生が漫画や小説は道徳や倫理観で書くものじゃないって仰るでしょう?そこが他の宗教教祖の教えとは大きく違うところなんだよ」

「神道系の宗教って、文学や芸術を物凄く重んじるでしょ?漫画や絵画描いていてその自己肯定感が物凄く幸せな気持ちにさせるのよね」と亜美が蕎麦を嚙みながら言う。「そう言えば、今日、クリスマス・イヴよね」

「うん。一年があっと言う間に過ぎていくよ。今夜は外食?」

「また蒲田行く?」と亜美が油揚げを食べながら訊き返す。

「インド・カリー屋にタンドリー・チキンでも食べに行こうか?」

「ああ、良いわね。インド風クリスマス・イヴって経験してみたいわよね」と亜美が蕎麦を嚙みながら、笑顔で言う。


 夕方、家族四人でJR京浜東北線に乗り、蒲田のインド・カリー屋に行く。店内はクリスマスの飾り付けがなされ、煌びやかな電光がロマンティックなクリスマス・イヴの夜を演出している。

「陽平、愛歌、今日は本場インドのカレーよ」と亜美が蝋燭の炎が揺らめくテーブル席で陽平と愛歌に今晩の夕食を説明する。「タンドリー・チキンって言うインドの御馳走を食べるのよ」

「陽平と愛歌に辛いカレー・ライスって食べられるかな?」

「インド・カリーの辛さは甘みがあるから食べられるわよ」と亜美が言う。ウェイトレスが我々のテーブルに注文を取りに来ると、「タンドリー・チキンのカリー・セット四つをナンでお願いします」と亜美が注文する。店内にはインド音楽が流れている。

 我々は先にテーブルに届いたチャイを味わう。陽平と愛歌は店内のアクセサリーの売り場に走っていく。

「ああ、何かアクセサリーの売り場があるのね。あたしも見に行ってくる」と亜美が子供達の後からアクセサリー売り場に向かう。その後に俺も続く。妻や子供達にインドのアクセサリーを買ってやるのだ。アクセサリー売り場には何万もするような高価なアクセサリーはない。お手頃な値段の綺麗なアクセサリーが沢山陳列されている。妻と子供達へのアクセサリーを購入して、テーブルに戻ると、まもなく料理が運ばれてくる。チャイやマンゴー・プリンも付いている。

「愛歌、美味しい?」と亜美が愛歌にタンドリー・チキンの感想を訊く。

「辛いけど、美味しい」と愛歌が笑顔で言う。

「そう。それは良かったわ」と亜美が安心した様子で言う。

「美味いな」

「そうね」と亜美がタンドリー・チキンをナイフとフォークで切りながら言う。

 我々はインド・カリー屋を出ると、バッティング・センターに行き、家族でわいわい騒ぎながら、バッティングの練習をする。この時、誰よりもこのバッティングに夢中になったのは陽平である。

「陽平はスポーツ万能だな」

「僕はF先生みたいになりたい」と陽平が眼を輝かせて言う。

「ああ、オールマイティーの人生ね」

「うん。現代のルネッサンスマン」と陽平が嬉しそうに言う。

 陽平達がWメイト的な生き方に目覚めるのは不思議な事ではない。

 我々は帰宅すると子供達二人を先に入浴させ、その後に亜美が入浴し、最後に俺が入浴する。

 俺は入浴を済ませると、子供達を先に寝かせ、「亜美、このマンションの屋上に行かないか?」と亜美を誘う。

「ああ、あたし、まだ行った事ない」と亜美が自分の不足に気付く。

「俺は時々、煙草を吸いに上がるんだ。夜景が綺麗なんだよ」

「ええ!何で早く教えてくれないの!」と亜美が不満を口に出す。

「俺の密かな楽しみだよ。そこに亜美を案内しようと思ったんだ」

「行ってみたい!」と亜美が嬉しそうに言う。

 亜美は何でも俺との事を楽しんでくれる。前世はどんな関係にあったのだろう。

 俺達は寝巻きの上にコートを着て家を出ると、エレヴェイターで最上階の十二階に上り、非常階段で屋上に出る。

 亜美は周囲を見回し、「ああ、新宿の構想ビルが見えるのね」と言う。

「夏なんかは多摩川の方の花火が見えたよ」

 亜美は黙っている。その沈黙が亜美を遠い存在であるかのように思わせる。俺は亜美を後ろから抱き締める。

「一生幸せでいような」

「うん」と亜美は何か考え事をするような気のない返事をする。

 俺は煙草を一本口に銜え、煙草に火を点けると、歯にニコチンを満遍なく塗すように煙草を吹かす。俺は煙草は肺で味わえるものではないので、吹かし煙草にしている。

「あなたは何でもないありふれた風景を絵にする事出来る?」と亜美が俺の亜美を抱き締める腕を掴んで言う。

「漫画の背景としてはよく描くよ」

 亜美は黙っている。

「寒いからそろそろ部屋に戻ろう」

「うん」と亜美が言うと、俺は抱き締めた手を離し、亜美をこちらに向けて、口付けをする。亜美は笑い出す。

「ゴメン!何か嬉しくて笑っちゃった!」と亜美が俺に気を遣う。

 俺は一瞬ムッとした自分を反省する。亜美は俺の鼻に口付けをする。俺は上向きがちでコップレックスのある自分の鼻に亜美がキッスをした事を意外に思う。

 俺達は部屋に入り、暖房の温もりに包まれる。俺達は寝る前の向精神薬を飲んで、歯を磨くと、ベッドに並んで横たわる。亜美は蒲団の中で俺の右手を固く握る。そんな亜美が堪らなく愛おしい。俺は亜美の左手を力強く握り返す。


『自分だけの一年行事』

 毎年、冬になると、ジュース販売機にある缶の『おしる粉』を呑む。『アンバサ』や『三ツ屋サイダー』を見かける時にも必ず買って飲む。湯呑やマグカップを毎年買い換えたり、しいたけ茶や梅昆布茶のような珍しいお茶があると、必ず買って、家で飲む。亜美が常時買い置きをしているのは御菓子と菓子パンとケーキで、そう言う事が日常のささやかな贅沢となり、生活を豊かにしている。昼食に蕎麦やカツ丼が食べたくなると、亜美と一緒に蕎麦屋や定食屋に行く事もある。煙草はヴァニラの香りのするキャスターを一年中吸っている。


『相沢直美の入選』

 高校一年生になる妖怪退治モノの漫画の相沢直美が漫画塾にやってくるなり、「正道先生!あたしの漫画入選しました!」と大喜びして言う。

「おお!そうか!それじゃあ、居間に行って、皆でお祝いしよう!」

 今日は漫画塾の授業は行わず、居間で皆でケイクを食べたり、飲み物を飲んだりして、夕方には焼肉食べ放題の店で相沢直美の入選祝いをする。

 学生の部の塾生が居間に移動すると、台所にいる亜美に相沢直美が、「亜美先生!あたし、漫画入選しました!」と報告する。

「ええ!じゃあ、今日は皆でケーキや飲み物でお祝いしましょうね」と亜美が笑顔で言う。「じゃあ、相沢さんも居間で待ってて」

「はい」と相沢直美が最高に元気な笑顔で返事をする。

 亜美がケイクと飲み物を居間に運んできて、「じゃあ、皆、自分の好きなケーキ選んで」と言う。「じゃあ、先ずは今日の主役の相沢さんからね」

「あたし、このワイン・レッドのゼリーの載ったケーキが良いです」と相沢さんが言う。

「はい。判りました」と亜美は大人らしい落ち着いた笑顔で言い、相沢さんの選んだケイクを皿に載せて、相沢さんの席の前のテーブルの上に置く。「飲み物は何が良い?コーラとコーヒーとミルク・ティーがあるんだけれど」

「あたし、ミルク・ティーが良いです」と相沢さんは万遍の笑顔で言う。「はあい、じゃあ、ミルク・ティーね」と亜美は言って、ペットボトルのミルク・ティーを相沢さんの席の前に置く。

 そのようにして俺を含めた全員がケイクと飲み物を選ぶと、「それでは戴きまあす」と亜美が胸の前に手を組んで、全員に号令をかけると、それぞれが胸の前で手を組んで、「戴きまあす!」と言い、早速ケイクを食べ始める。

 夕食時に焼肉の食べ放題で食事をするため、電話で子供達の親に帰りが遅くなると連絡する。

 社会人の部の塾生も連れて焼肉の食べ放題の店に行くと、皆でわいわい漫画の事を話しながら、夕食を楽しむ。


『漫画塾の塾生の募集』

 翌日は阪急百貨店の掲示板に塾生の募集チラシを貼りに行く。

 その日の夕方に子供の親から電話があり、北見奈々美と言う小学二年生の女の子が我々の漫画塾に新たに入学する。我々は直ぐに阪急百貨店の掲示板から塾生募集のチラシを剥がしに行く。

 北見さんは漫画を全く描いた事がない。北見さんはほっそりとした体に黒いショート・ヘアの髪を有し、赤いフレームの眼鏡をかけている。亜美は北見さんに必要な道具を買ってくるようにと指示し、早速、ストーリー作りに必要な連想法を易しく教える。愛歌は直ぐに北見さんを友達にし、色々と年長の北見さんから影響を受けるようになる。


『新年を迎える』

 毎年、新年を迎えると、自分の実家と亜美の実家に子供を見せに帰る。子供達はお年玉をもらえるので、正月は一人でも多くの親戚がいる方が良い。我々夫婦も子供の頃はそうだった。

 亜美の実家に帰ると、親戚が大勢集まっている。人間が沢山いると、一人群れから離れたくなる。人間が人間界に関わり、太陽が出ていれば、太陽神を想って、日向に温もるような事が信仰ある人間であろう。それが太陽と向き合っていたいのに太陽に背を向けるような魂達の無意識的な動作が起きたり、徘徊する。そう言う心の病んだ自己矛盾も統合失調症の表われだろう。

 一人亜美の実家の縁側で煙草を吹かしながら、庭を眺めていると、子供達が俺に遊んでもらおうと近付いてくる。俺は子供達と庭でキャッチ・ボールをする。良寛さんのように子供達と遊ぶ事を自分の使命とするような気持ちで、子供達と遊ぶ。陽平も愛歌もとても楽しそうだ。昼御飯はグラタンとクロワッサンとコーン・ポタージュを御馳走になる。ビールもグラスに一杯だけ戴き、それ以上は付き合いでも飲まない。

 夕方、俺の実家に家族を連れていくと、父や母が子供二人の面倒を見る。良心も孫は可愛いようだ。

 実家での夕食にはロースト・ビーフや茹でた蟹や鳥の照り焼が出る。亜美と俺は日本酒の熱燗を少々飲み、後は『ジンジャー・エール』にウィスキーを少し混ぜて飲む。


『横浜の中華街に行く』

 二月の日曜日に横浜の中華街に家族で行くと、陽平がヌンチャクやカンフー・シューズや人民帽を買い、愛歌はブルー地の花柄のチャイナ・ドレスを買う。亜美はアクセサリーを幾つか買う。俺は中国の漫画や龍の置物を買う。

 昼食は中華料理で豚足や肉まんや酢豚や餃子を食べる。

 我々は港の方に向かい、海や船を眺め、家族の記念写真や漫画用の写真を撮る。

「八〇年代のレコード時代に中国のパンク・バンドの中古レコードを大森の『SEIYU』の入口で見かけたよ」

「買ったの?」と亜美が陽射しに目を細めて訊く。

「買わなかった」

「中国って、二十世紀にテクノは流行らなかったのかな?」と亜美が含みのある口調で言う。

「二十世紀の中国の情報は本当に少なかったからなあ。判らないよ」

 陽平と愛歌は自分達のカメラで港や船の写真を撮っている。

「中古レコード屋に行って、CDやDVD買おうか?」

「ああ、良いわね」と亜美が嬉しそうに言う。

 俺達家族は中古レコード屋に行く。


 中古レコード屋の店内に入り、俺は中古DVDのコーナーに行き、ヴィム・ヴェンダース監督映画やニコラス・ケイジの主演映画を幾つか買う。陽平は日本のインディーズ・バンドのCDやアメリカの名も知れぬ六〇年代のサイケデリック・アルバムを買う。愛歌はアニソンのオムニバスやアニメイションのDVDを買い、亜美は珍しいソビエト映画のDVDや八〇年代の当時は全く注目されていなかったようなブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ・バンドのCDを買う。

 中古レコード屋を出ると、「夕食、何食べる?」と亜美が俺に訊く。

「焼き鳥屋に行こうか」

「ああ、良いわね」と亜美が嬉しそうに言う。

 俺達は焼き鳥屋に入り、カウンター席に座る。左端から陽平、愛歌、亜美、俺と座り、一通り色んな焼き鳥を食べられるように注文する。

 夕食を終えるとJR京浜東北線に乗り、大井町駅で下車し、帰宅する。


『由里ちゃんの結婚』

 四月の始め頃、由里ちゃんの結婚式に出席する。由里ちゃんは前回の電話の件以来、通院日に顔を合わせても、俺を無視するようになった。俺としては何とか友情を回復させたいと思っている。通院日にカラオケ屋に行くと、由里ちゃんが頻りに亜美と話し込む。俺はその姿を見ていて可哀想に思えてくる。旧姓君白秋歌事、半沢夫人も全く俺には話しかけない。亜美はそんな俺の寂しい気持ちに全く気付かない。

 由里ちゃんの控え室に挨拶に行っても、由里ちゃんは言葉少な目に受け答えするばかりで、直ぐに亜美と話し込む。

 結婚式上では子供達が走り回り、会場の参加者らは賑やかに話し込んでいる。俺は由里ちゃんの美しいウェディング・ドレス姿を眺める。やっぱり、由里ちゃんは綺麗だ。俺が好い加減な男であったなら、とっくにヤッてる。それを由里ちゃんは理解しない。由里ちゃんが俺と関係を持たない事は俺達の穢れなき友情なのだ。由里ちゃんは俺との友情など望んでいなかった。由里ちゃんはずっと俺を恋愛対象として見ていた。由里ちゃん、俺は必ず由里ちゃんと仲直りしてみせるよ。


『亜美の小説の再開』

 二〇〇九年、四十歳になる俺は小説『遠い国』を完成させ、文学新人賞に投稿する。

「小説『遠い国』を文学新人賞に投稿してきたよ」と夕食の食卓で焼肉ライスを食べながら、亜美に報告する。

「今度は入選すると良いね」と亜美が奈良漬をカリカリ嚙みながら言う。「あたしももう一回小説に挑戦しようかな」

「漫画が描ければ、小説は書けるものだよ」

「美的な文章が書けないのよ」と亜美が焼肉ライスのピーマンと玉葱を突きながら言う。

「亜美って、何やるにも芸術性を求めるんだな」

「ううん」と亜美が口籠り、「何て言うかな、美しいものがとにかく好きなのよ」と焼肉を嚙みながら言う。

「俺はあんまり美ってもんには拘らないな。やっぱり、俺の場合、漫画でも小説でも、読んでいて面白いって事が重要なんだ」

「面白いって事に関しては私も同じよ」と亜美が焼肉のタレの付いた白米を口に運びながら言う。

「亜美は漫画も美的だよ」

「良し!あたし、やっぱり、小説に再挑戦する!」と亜美が右手に箸を持った手でガッツ・ポーズをして意気込む。

「前書いてた幻想怪奇小説をまた書くの?」

「そう。『緑茶』みたいな幻想怪奇小説を書きたいの」と亜美がまた奈良漬をカリカリ嚙みながら言う。

「その小説、タイトルは何て言うの?」

「とりあえずは『ナターシャの憂鬱』って言うタイトルにしたの。御馳走様でした!」と亜美は胸の前で手を組んで言うと、「あたし、小説書いてくるわね」と席を立って言って、アトリエに入っていく。「お皿は後で洗うから流しに出しといてね」

「うん。判った」

「お母さん、小説を書くの?」と今年小学一年生になった愛歌が俺に訊く。

「そうだよ。新しい事に挑戦出来るのは心が若い証拠なんだ」

「幻想怪奇小説って、面白いの?」と今年小学四年生になる陽平が俺に訊く。

「暗いけど、それだけじゃなく、面白い小説だよ」

「俺も読んでみる」と陽平が俺に言う。

「お父さんの本棚にあるから持っていくと良いよ。陽平にあげる」

「うん!」と陽平は元気良く言って、食卓の席を立つと、俺のアトリエに入っていく。

「一番下の棚にズラッと幻想怪奇小説があるよ」

「うん!」と陽平が大きな声で返事をする。


『ウェブ小説サイトの仲間達』

 九月の初め、ウェブ小説が流行している事を知り、俺はブログに公開している小説『暗黒街の改造レプリカント』と『レプリカント』をウェブ小説サイトに再投稿する。

 ウェブ小説サイトの利用者には自費出版デビューしたような書き手もいる。高校生が書いた小説などは赤ちゃんが書いたような小説が多い。十七歳で文学新人賞に入選してデビューを果たすような人は相当に早熟な作家である。俺はウェブ小説サイトの若き駆け出しの書き手から多くのインスピレイションをもらっている。基本的には新人賞に投稿した落選作を投稿するのだろう。中にはウェブ小説サイトでの活動だけでプロを目指していない書き手もいる。昔で言う同人活動の中だけに作品を残すような書き手の名残りだ。俺はウェブ小説サイト自体同人誌の新たな形態だと思っている。ウェブ小説サイトには毎日、ショート・ショートを投稿する書き手がいる。コメント欄で俺が辛口批評をすると、猛烈に批難する書き手もいる。ウェブ小説サイト内の和を重視する書き手が存在するのだ。私のサイバー・パンク小説のような作品を二次小説と言うらしい。書き手の中にはエッセイや詩を投稿する人達もいる。ウェブ小説内で特定の書き手とコメントを送り合うと、ほんのりとしたプラトニックな恋が生まれる事もある。ウェブ小説サイト内には若い多くの書き手に崇拝されるような書き手もいる。プロフィールにプロの漫画家である事を書いたら、俺の漫画を知っているファンに出会う。俺も小説に関しては素人であるから、素人の書き手の集まる時代の地下活動には相当な面白味を見出している。


『小説『荒野』と『遠い国』の出版』

 十月の半ばに小説『遠い国』が文学新人賞に落選し、漫画の担当編集に小説『荒野』と『遠い国』を見せ、「何とか出版してもらえないでしょうか?」と相談する。編集の俺の小説への評価は非常に高く、文芸の方の編集に話をしてくれた。それにより先ず『荒野』の出版が決まり、その半年後に『遠い国』が出版される。

 俺はN木賞かA川賞の受賞を期待し、小説の売れ行きや評価の動向を見ている。小説はなかなか重版されない。漫画の売れ行きと比べても小説の売れ行きは芳しくない。


『小説の動向』

 一月、俺の小説はN木賞やA川賞どころか、何の文学賞も得られない。やはり、俺は漫画家なのだなと思う。小説は書き上げれば、小部数発行してもらえる。ウェブ小説の仲間らにはそれを羨ましがられる。俺は自分が恵まれている事に気付き、守護霊様に感謝の祈りを捧げる。

 俺は自分の文学の道筋を真剣に考える。もしかしたら、カフカのように死後の評価を得るかもしれない。否。そんなに俺の小説は新しい文学か。突出した個性が俺の文学にあるか。評論家も俺の文学には何も触れない。漫画の方はどうだ。プロなのだから、凡才である訳ではない。才能ある多くの漫画家が自費出版でデビューしたり、陽の目を見ない作品を家に残す。

「亜美は文学でどんな作品世界を構築したい?」と昼食の食卓で冷凍食品の餃子を食べながら、亜美に訊く。

「あたしはまだ始めたばかりだから、自分の文学の作品世界までは判らないわ」と亜美が冷凍食品の五目炒飯を食べながら言う。

「正直なところ、『荒野』や『遠い国』で何の賞も得られないとは思ってもみなかった」

「面白い小説だったわよ」と亜美が潤んだ眼で励ます。「漫画とはまた違う作風で、あたしは良いと思ったけどね」

「うん」

「文学もずっと続けていくんでしょ?」と亜美が餃子を食べながら訊く。

「『遠い国』を書き上げてからは売れ行きや評価が気になって、全く書いてない」

「また書くと良いわよ」と亜美が気楽に言う。

「文学止めるよ」

「そうなんだ。まあ、自分がもういいと思うなら、それも良いんじゃない」と亜美が炒飯を食べながら言う。

「ウェブ小説サイトの仲間が俺を羨ましがるんだよ」

「そりゃあ、そうよ!」と亜美が冷水を飲みながら言う。

「統合失調症の闘病記も書くつもりがない」

「嫌な事思い出したくないもんね。主治医も瘡蓋を剥がすような真似はしない事だって言うの」と亜美が炒飯を食べながら言う。「あたし達はもう統合失調症の範疇だけで存在してる人間じゃないのよ?」

「うん」

「あたしも統合失調症の闘病記は書かない」と亜美が目を尖らせて言う。亜美の自分の病気に対する憎しみの表われだろう。

 俺達は間違っているのだろうか。守護霊様が繰り返し統合失調症の闘病記を書く事を思い出させる。

「守護霊様は何て言ってる?」

「繰り返し闘病記を書く事を思い出すけど」と亜美が困ったように言う。

「やっぱりそうか。どうやら守護霊様のメッセージだな」

「ああ、それって、やっぱり、守護霊様の御意思なのね」と亜美が顔を顰めて言う。「じゃあ、あなたは闘病記を書く?」と亜美が不可解な物事に対するような奇妙な眼付きで訊く。

「やっぱり書くべきなんだろうなって思うんだ」

「じゃあ、あたしも書く!」と亜美がすんなり自分の判断を捨てて共感する。

 亜美は兄を慕う妹のようだ。


 俺達の芸術家集団や塾生などの仲間はこの後もどんどん増えていくだろう。俺達は好きな仲間と大きな愛を育み、人生をとことん楽しもうと思っている。

                                             完

なかなか面白い群像劇になりました。

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