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漫画塾『漫画天国』

漫画家を目指しながら、統合失調症が発症する主人公の群像劇。

『幻聴対策』

 物質世界に対峙して物質や物質界の現象のインパクトをしっかりと直に受け止めていれば、幻聴には意識が合わない。幻聴を聴くためにおしっこが便器の水に当たる音を聴いている訳ではない。幻聴を聴くためにお風呂のシャワーの水の音を正確に聴こうとしている訳でもない。光と影、冷たさや熱さなどの温度の違い、味や感触、そう言う五感で知覚し、判断する物事を正確に受け止めていれば、幻聴は聴こえない。幻聴と言う幻のカーテン越しに物質世界に対峙しているから、意識の焦点が合わない虚ろな眼になるのだ。心を物質界に合わせれば、幻聴には意識が合わないと霊的構造に言ったら、おしっこが便器の中の水に当たる音に幻聴が重ならずに正確に水の音を聴く事が出来るようになる。霊的構造の全てが物質世界のインパクトに集中して幻聴と言う幻のカーテンを払って物質世界に対峙し始める。

 この事を通院の際の診察室で主治医に言うと、「感覚的な事に幻聴が混ざる事はよくあるんです」と言う。

「崩れたインパクトを努力で回復させる事は出来ると思うんです」と主治医に言うと、「そうですね」と主治医が喜んで同意する。

 霊的構造の全てが物質世界のインパクトを直に受け止めれば、楽に生活出来る。弟は御魂を自分と区別する事自体が間違っていると言う。

 俺が精神錯乱すると、他の自分は肉声の呟きでなく、幻聴化した言葉で話かけるようになる。心の整理のために頭や心の中で自分の考えを言葉にしたり、心の中で歌を歌うと幻聴になり易い。心の中の言葉が幻聴化しないように気を付けてくれと他の自分にも注意する。漫画や小説や絵画を書くことに集中していると、幻聴が消えている事が多い。そろそろ幻聴が消えるのではないかと期待している。

 亜美は疾の昔に幻聴が消えたのだな。幻聴のある統合失調症患者の内、三十パーセントぐらいの人達が一生幻聴が消えないと主治医が言う。俺も薬を飲まずに再入院し、病気の再発を招いた。まだ三年しか経っていない。薬を飲まずに病気が再発すると、幻聴が消えるのが十年先に伸びると村野さんが言っていた。待てよ。精神科医は十年したら幻聴が消えるなどとは決して言わないぞ。あれは村野さんの妄想だ。うっかり人の妄想を信じていた。神道の師のF先生は幻聴は心と体のバランスが崩れた事により生じる現象とし、毎日三〇分の息が上がる程度のウォーキングを続けていれば、幻聴は消えると言う。

 薬の服薬を止めると頭がおかしくなる。もう自作自演の神が幾ら薬を飲まなくても良いと言っても、薬の服薬を止めない事だ。

「俺は自分が自作自演の神をやる時に薬を止めるように言わない事を気を付けている」と荒魂が言う。

 向精神薬は医学の神の賜物。精神科医は向精神薬で統合失調症を治療する事を治療方針の中心に据えている。

「幻聴ある統合失調症患者の治療の仕方には患者一人一人に向き不向きがあってね、看護師が幻聴ある統合失調症患者を毎朝三〇分のウォーキングに連れ出すようなスパルタ教育みたいな事は出来ないんだ」と主治医が言う。

「幻聴を消す薬って言うのはないんでしょ?」と主治医に訊くと、「そんな事ないだろう?薬によって幻聴が消えた患者なんて大勢いるでしょ?入院して一回向精神薬を飲んだだけで幻聴が消える患者だっているんですよ」と主治医が言う。

 確かに向精神薬は統合失調症の病状に対し、或程度の効果を発揮する。我々統合失調症患者が他に頼るべき科学的手段がある訳でもない。

「幻聴が騒ぐ時にベッドに横になって眠ると、目覚めた時に暫く幻聴が消えるんです」

「薬には眠る事が大切でね、薬は眠ると効果を発揮するんです」と主治医が言う。

『幻聴の実在を肯定している裡は統合失調症モノの作品は書かない方が良いよ』と清がメールで言う。

 嘗て主治医が、「幻聴と言うのは人間の声のようなものが聴こえてきて、人間の言葉らしきものが聴こえてくるんでしょう?」と言った。その時、俺は向きになって、「そんな曖昧なものではありませんよ。はっきりとした人間の声で論破してくる事さえあります」と反論した。そう言う反論そのものが幻聴の実在を肯定しているのだろう。


『御約束事の破壊』

 人と話している時には幻聴が聴こえないと言う御約束事には早くから気付いていた。その御約束事を疑い、破壊して、会話の最中に一寸した沈黙があると、直ぐに幻聴がちらほら聴こえてくるようになった。食事は口許に幻聴の声が向き合うように話すと、それが怖くて食べられなくなるような時が出てきた。セックスをしている最中は幻聴が聴こえないと言う御約束事があると、その御約束事が崩れるような疑いを抱いたり、決まり切って幻聴から心が守られているような事を常に疑い、絶えず救いある御約束事を破壊するような不安や恐怖を募らせている。破壊の心理がずっと働いているのだ。「この薬を飲めば、不安そのものも忘れるような効果があります」と主治医が言って、新たな薬を処方したなら、一日二日は不安のない日を経験する。その後は全く薬の効果が発揮されず、疑いによって御約束事が破壊される。弟の清が幻聴がある時はF先生の神書を音読すると良いと言うと、直ぐにそれを実践し、音読している最中だけは幻聴が消えるような事を経験し、読み終えた途端に幻聴が再び生じる。幻聴に関する救いある御約束事を破壊する事を繰り返し、漸く御約束事のありがたみに気付く。この破壊の心理を自覚したら、特定の外出先との往復や特定の用事や親孝行をした後などには御約束事として幻聴が乱れない事に気付く。長年の幻聴研究で複数の幻聴が同時に発声する事がないのが明らかになった。その御約束事を破壊するような疑いもよく抱く。そう言う救いある御約束事を破壊するような不安や恐怖の心理は霊的構造八つが抱えるネガティブな思いである。霊的構造の八つ目の腹霊が肉声の会話に表われない。弟の清は、『腹霊なんていないんだよ』とメールで言う。


『守護霊の英知の頭脳化』

 俺は自分が守護霊様の英知や直接内流を頭脳化していると奇魂や元津御魂に肉声の呟きで指摘される。幻聴の嵐が起きている時に何か魂達に意見すると、それは守護霊様の言葉だと元津御魂が言う。俺は自分が不意に思ったり、考えた事が守護霊様の助言やメッセージであるような事を頻繁に経験し、その度に元津御魂が、「守護霊様だな」と私に自覚をもたらす。

 弟の清に四魂が幻聴の自作自演を自覚的に行っていたとメールで伝えると、『だから、幻聴じゃないんだよ』と弟は言う。


『幻聴対策2』

 幻聴を自分が発していると言う自覚が四魂にはある。『幻聴は現実逃避なんだよ』と弟の清が言う。俺は御魂に御魂の小宇宙は霊的構造七つなのだと早く気付いて欲しい。

 一日三〇分のウォーキングを行うと幻聴が消えると言うF先生の教えは、スの神様の御許しとか、カルマとは関係のない幻聴の消し方だ。

「幻聴に関する御約束事は神様によるものだ」と奇魂が言う。

 或朝起きたら、幻聴が永続的に消えたと言うような人達は特別御祈りをしたとか、運動をしたとか、何か特別な努力したと言う事がなく、突然幻聴が消える。それは奇蹟なのか。御魂達が自作自演の幻聴と化す事を止めたのか。

 俺は御魂に、「幻聴が音に重なったり、幻聴が音を飛び越えて聴こえてくるのがおかしい」と訴える。「エア・コンディショナーの微かな音にせよ、音に集中していれば、幻聴が聴こえないのが正常だよ」と訴える。それにより他の自分が直ぐに俺の意見に呼応し、一時音がする一切のところで幻聴が聴こえなくなる。俺は霊的構造七つの肉声も音であると伝える。祈りは研ぎ澄ませされた意識の集中の中で行われる。実際には祈りの最中にも物音は聴こえている。環境には必ず音がある。幻聴を消すための音は小さな雑音でも大きな雑音でも良い。

 翌朝、目覚めると、幻聴が盛んに騒ぐ中、俺は詩的な心の歌を歌って幻聴封じに努める。歌っている間は幻聴は聴こえない。なかなか他の自分の意識が現実の音や声に合わない。俺は肉声で、「音!」と霊的な精神構造全体に一言言う。不安が募った幸魂が俺に幻聴封じの歌を歌い続けるようにと言う。奇魂は自分の心の中の言葉と幻聴の言葉には交互に表われるような心のリズムがあると言う。俺はその心のリズムの合間にある幻聴の言葉を空にして、心の起伏を平らにするようにと指示する。俺がそのように御魂にアドヴァイスをしたら、それは守護霊様の助言であると元津御魂が指摘する。俺の言葉を通じて霊的構造全体が守護霊様の助言をキャッチするのだ。俺は自分に守護霊様の助言やメッセージを頭脳化する英知があると信じるようになる。

「あなたは英知で統合失調症を治そうとしているんだな」と奇魂が肉声で呟く。奇魂は英知や直感や霊感や芸術的な感性を司る知の魂である。

 英知や悟りや気付きは霊的構造七つが同時に得るもので、霊的構造の一つ一つがバラバラに得るものではないと知る。

 或晩、幻聴が聴こえるのは聴覚によるものではなく、心の耳で聴いている事を思い出す。その事を霊的構造全部が同時に思い出し、心の耳を閉じようとする。

「心の耳を閉じた」と御魂達が口々に言う。

 幻聴はそれで完全に消える。

 翌朝、夢の中で幻聴が聴こえ、目覚めと共に幻聴が騒ぐ。

「心の耳が開いてる」と御魂に言うと、「自作自演の幻聴と自分が区別出来なくなってる」と奇魂が暗い声で言う。

「心の耳を閉じれば、幻聴の自作自演は自分の心の余計な働きとして止めるようになるよ」

 他の自分達はなかなか心の耳を閉じない。なかなか安らぎある生活が叶わない。俺は現実的な事を意識的に考えるようにして、他の自分達が幻聴の自作自演の方に使っているマインドワークを自分の心の正常な働きに引き戻す。

 翌日、「心の耳は一つかな?」と元津御魂が訊く。

「確かに魂達それぞれが自分の心の耳を閉じていながら、魂達のどれかが自分の心の耳を開いたら、皆に幻聴が聴こえるって言うのはおかしいな」

 心の耳が開いているから幻聴が聴こえるとする説は元々俺の説だった。その説により霊的構造全てに集団妄想が起きたのだ。やはり、四魂の自制心で幻聴を消すしかないのだろうか。

 幻聴は頭の中からは聴こえないと言う科学的な立証がなされている。感覚肥大した頭をどれだけ思い切り洗っても、決して手で脳を傷付けるような事はない。霊的な感覚の手が感覚ある頭皮の奥に触れる事もない。神霊様を想って、胸の中に意識を合わせていると、胸の表面の皮膚感覚が体内に落ち窪んでいく。そのような肉体感覚の萎縮がある時には肉体そのものが外殻を維持する。その場合にも外殻の肉体に感覚がある。そんな事が判り、妄想が解決される。現実的な事に意識を向け、幻聴に関しては聴くとはなしに聴こえてくると言うような聴こえ方が『幻聴を気にしない』と言うF先生の教えに近い。幻聴が俺の意識を追い詰めたり、体の音や肉声に重なって聞こえてきても、幻聴はぴたりと自分の体に密着している訳ではない。幻聴と人間の意識や心との間には必ず距離感があるのだ。そんな事にも気付く。

 身体感覚を取り直す時に霊が憑依すると言う不安な妄想がある。どうやら身体感覚の取り直しで霊が憑依する事はないようだ。霊的構造のどれが身体感覚の取り直しで霊が憑依する事はないと言ったのかはよく憶えていない。身体感覚の取り直しは長い事根強い不安を抱かせる行為だった。

 音の上に幻聴を重ねない事と心のリズムの中の幻聴分に当たる言葉を空にする幻聴の消し方は今も生きている。

 魂達は幻聴の自作自演は自分の心の声と言葉なのだと言う。幻聴はどう言う訳か自分だけに話しかけてくるように聴こえる。

「音の上に幻聴を重ねない事と心のリズムの中の幻聴分の言葉を空にする事の二つを同時にやると幻聴が消えるな」と奇魂が言う。

 ラーマクリシュナ・パラマハンサが瞑想している写真に第三の目のある額の中心を見上げている写真がある。そこには四魂や元津御魂の座がある。アートマンとは独立した神の事であり、胸の中に宿る神魂ではないとF先生は言う。人間の一霊四魂説を説くのは日本神道だけで、ヒンドゥーの教えでは四魂や御本霊や元津御魂の存在は定かではない。

 他の自分達が幻聴化している間の中心人格は自作自演の人格に変化している間にも自覚されているのではないだろうか。

 なかなか幻聴に対する不安が解消されない。

 或朝、幻聴への不安が募る中、何か偉大なる僧のような力が即興歌を歌おうとする事や霊的な精神構造と会話する事を強い力で制する。それにより我々霊的構造七つは心を押さえ付けられるようにして不安を乗り越え、精神の安定を得る。

 俺が他の自分達を中心人格と自作自演の幻聴の人格とに区別する事を止めようかと考えていると、「音の上に幻聴を重ねないようにしたり、中心人格と自作自演の人格とに変化する心のリズムの中で幻聴分の方の言葉を空にする事は今でも生きた幻聴対策なんだよ。ハッと我に返る時に幻聴が途絶えるんだ」と奇魂が言う。

「幻聴なんて簡単に止められる事だよ」と幸魂が言う。

「自作自演の幻聴の人格になる事は俺の現実逃避なんだ」と奇魂が言う。

「どうしようもない現実逃避なんかじゃない」と荒魂が言う。

 幻聴が我々の頭脳の働きに反対意見をしないで過ぎると、「幻聴を素直な性格にしたよ」と和魂が言う。「幻聴を聞き分けの良い性格にすれば、苦しまないんだろ?」と奇魂が言う。

「うん」

 俺は「幻聴なんて簡単に止められる事だよ」と言った幸魂の言葉を何度か頭の中で反復する。

「もう幻聴は止める」と奇魂が言う。それを御魂達が言う度に次なる瞬間に幻聴が聴こえてくる。今回はそれが起きない。俺は本当に幻聴が消えるのかと期待する。

「幻聴が消えるな」と元津御魂が言うと、また幻聴がちらほらと聴こえてくる。「守護霊団の人が力付くで消したように止めるんだ」と元津御魂が言う。

「あれが今ないんだ」と奇魂が言う。

「清が幻聴が消えた時の感じをよく思い出すと良いって言ってたな」と元津御魂が言う。

「あんなに強い力で止めるのか」と奇魂が呟くように肉声で言う。

 玄関前で煙草を吸っていると、幻聴を他の自分の幻と見做し、実在する者のようには肯定していない自分に気付き、「ああ、俺はもう幻聴肯定はしてないな」と言う。

「うん。幻聴肯定はしてない」と御本霊が言う。

 俺は各霊的構造が別々の自分を意識する事で幻聴が消えるのではないかと思う。私は早速、和魂を意識する。

「あなたに意識されると心が落ち着く」と和魂が言う。

 しばらく幻聴が消え、まもなくまた幻聴が聴こえてくる。


 夜、クリームシチューと鶏の唐揚げの夕食を食べていると、陽平と愛歌が先に食べ終え、居間にTVを観に行く。

「俺さ、幻聴聴こえてからずっと幻聴に自分の事ばかり考えさせられて生活してきたんだよ」と亜美に言って、クリームシチューを飲む。

「統合失調症ってパラノイアだから、私達が考える内容には確かにそう言う極端な偏りがあるわよね」と亜美が鶏の唐揚げを食べながら、平然と言う。

「それでもまだ自分の事をじっくり考えていないって思うんだ」

「統合失調症って、自閉の傾向があるんだって」と亜美が箸で挟んだ鶏の唐揚げを手で掴んで食べながら言う。

「病気としてではない自分をじっくりと落ち着いて見つめたいんだ」

「ううん」と亜美が口籠もる。「私はあなたが何でそんなに病気の事にどっぷり浸かりたいのか判らない」

「亜美はもう幻聴に関する事は考えないのか」

「うん。幻聴の事は忘れていくばかり」と亜美がクリームシチューを飲みながら言う。

「幻聴って、霊的構造の自作自演の頭の中の独り言なんだよ。他の霊的構造の方には他の自分の幻聴に対してしか不安や苦しみがないらしいんだ」

「あなたはそう言う御魂相手に肉声で会話してるの?」と亜美が俺の顔を睨むように言う。「何でそれが判った他の自分が何時までも幻聴を止めないの?何で人間ばかり不安や苦しみを感じて我慢しなきゃいけないの?」

「止めさせようとしてるよ」

「そうじゃなくて、何で直ぐに御魂達が自作自演の幻聴で話しかける事を止めないの?」と亜美が険しい目付きで言う。

「幻聴で話す方が良いって言うんだよ」

「異常よ?そう言う我が儘な御魂は?」と亜美が心配そうに俺の心に訴えかけるように言う。「幻聴は御魂の次元の心の病よ」

「御魂の次元の心の病なら治さないといけないな」

「何で人間が四次元五次元の存在の病気を治さなければいけないの?」と亜美が眼を尖らせて言う。「確かユングも意識の三層構造の心の中心であるセルフが統合失調症の根源だって言ってるわよね」

「ユングは俺達と同じ統合失調症なんだよ。ユングには子供の頃からパラノイアの傾向が顕著に表われてるんだ。仏性やタオをセルフと言う心の中心的存在に定めて、人とは仏であり、仏とは人であるって真理とじっくりと向き合わず、何処までも自分の根源を無意識に求めたんだ。ユングは曼陀羅と同じような絵を描いたって言うだろ?曼陀羅は単なる幾何学的な模様ではなくて、一本線や形が違っても宇宙法則が崩れるような精密な図だろ?それに似た者を知らずと書いたって言うんだよ。それって、要するに、幾何学的な絵の事だろ?おかしいんだよ、ユングは。ユングは統合失調症同然の幻聴も経験してるんだ。それにユングは少年期から奇妙な内なる存在を意識してるんだよ。俺は清にユング心理学的な概念を捨てるように言われたんだ」

「じゃあ、あたしもユング心理学は捨てるわよ!何でそんな大事な事を知ってて言ってくれなかったの?」と亜美が怒りを顕わにする。

「人それぞれの幻聴解釈を尊重したんだよ」

「そんな尊重いらない!」と亜美が険しい目付きで身震いしながら言う。

「F先生が仰るには『御魂は見たまんま』って言われてる。ユングにユング心理学的な考えを植え込んだのはユングの霊的構造だよ。ユングはユング心理学をこの世に残した事で大変なカルマを積んだだろうって清が言うんだ」

「御魂は見たまんま・・・・」と亜美が呟く。「御魂って、あたし達と同じレヴェルなの?」

「ううん。同じレヴェルのようだけど、幻聴の声や言葉に関しては自分の自作自演だって言う自覚がある」

「じゃあ、あたしも人の聴こえないところで御魂と肉声で会話してみる。直接言わないと治らない問題が髄分とあるのよ」と亜美が気を取り直して、笑顔で言う。

「そんな事、F先生の教えにはないから真似しなくていいよ」

「ううん」と亜美は不服そうに口籠もる。

 夫婦って似た者同士なんだな。

「御魂との肉声の会話は執着になるから止めるようにって清が言うんだ」

「そうなんだ。あなたって、何でも清さん、F先生なのね」と亜美が子供っぽい不満を口にする。

「清は救霊師、九頭龍師になって、神通力まで獲得したようなF先生の直弟子なんだ。清には常に九頭龍様が一緒にいるんだよ」

 俺は合掌し、「御馳走様でした!」と言って、食卓の席を立ち、自分のアトリエに入る。

「亜美に言われてよく判ったよ。幻聴はもう止める」と和魂が言う。

 御魂達は幻聴に対して非常に超然としている。

「俺の幻聴に対する不安や恐怖の苦しみを平常心に誘導してくれないかな?」

「それは俺がやる」と御本霊が言う。

「俺もやる」と奇魂も言う。

「俺もやる」と荒魂も言う。

 この事により俺は幻聴に対する不安や恐怖の苦しみから免れる。

不安を意思している筈の自分に不安や恐怖が起きないのだ。胸の中には絶えず御本霊の不安がある。私はその影響を全く受けない。

 幻聴化した御魂達は私に対する虐めを行う。幻聴とは御魂達のお遊びであり、自閉的な心の傾向に向かわせる病的な心の表われだ。そんなものを年柄年中聴いているのは堪らない。俺の幻聴に対する不安や恐怖の心を御魂達に誘導してもらうようになって、二、三日経った時、幻聴が止まらず、久々に寝込む。

「俺は自分の特性が判らない」と元津御魂が言う。

「俺も自分の特性が判らない」と御本霊も言う。

 弟の清は私の幻聴や幻覚はカルマではないと言う。


 二〇〇三年の三十四歳の二月の或晩、書斎で漫画を描いていると、幻聴がなく、物凄く集中して仕事をしている。俺は肉声の会話と言う独り言で、「幻聴が聴こえなくなったよ」と霊的構造に言う。それは束の間の幸せで、幻聴は再び聴こえてくる。


『幻聴が消える時』

 幻聴が騒いで精神錯乱すると、瞑想的に心を安定させたい欲求が生じる。神道のF先生は瞑想や座禅を精神疾患の原因になるからと厳しく禁じる。統合失調症のパラノイアの改善には他人の口を通じて得られる自分の守護霊様のメッセージに耳を傾ければ良い。幻聴が少なくなってくると、誰かを想って頭の中で一人お喋りをする事が多くなる。それは統合失調症の回復を意味する。幻聴が生じると頭の中で心の中の一人お喋りを行わなくなる。それはその分の心の働きが幻聴に用いられているからだと弟の清が言う。


 或晩、夕食を済まし、風呂から上がると、居間のソファーで亜美とTVを観ている。TVを観ている時や、スマートフォンでYOU

 TUBEを観ているような時や、家族や人と話している時には不思議と幻聴が聴こえてこない。セックスの最中にも幻聴が聴こえない。

「亜美は霊的構造と独り言みたいに肉声で話す?」

「話さない。あなたが霊的構造と独り言みたいに話してる事を主治医に言ったら、主治医がそう言う独り言みたいな事は宗教ではなく、病気だって言うの」と亜美が真面目な顔で言う。

「そうか。俺も霊的構造との肉声の会話は止めようかな。幻聴への不安と恐怖があって、なかなか霊的構造との独り言を止められないんだ」


 俺は長年、幻聴と仲良く毎日を過ごす事を願ってきた。それがなかなか叶わない。

 毎日、息が上がるぐらいの三〇分のウォーキングをしていたら、遂に心と体のバランスが回復し、幻聴が聴こえなくなる。

 或晩、夕食の食卓で、「亜美」と亜美に呼びかけると、「何?」と亜美が串に刺さった焼き鳥を歯で引き抜きながら訊く。

「俺さ、幻聴が聴こえなくなったよ」と亜美に打ち明ける。

「何時から?」と亜美が驚いたのように目を見開いて訊く。

「もう二週間ぐらい前かな」

「それ!それよ!へええ!良かったわね!」と亜美が笑顔で言う。

「明日の通院日に主治医に言うよ」

「うん」と亜美が返事をし、「良かったね。ずっと苦しんでたもんね。本当に良かったね」と亜美は潤んだ眼で言い、テーブルの上のティシューを手に取り、鼻を嚙む。


『弟の清』

 弟の清は三十二歳で、まだ独身だ。清はT美術大学を卒業し、仕事はファッション・デザイナーや映画のスタイリストで、ブティックも数店経営している。

 俺は弟が神道系の宗教に入信するまではまともに知能で付き合った事がない。全く弟の知能の程を知らずに生きてきた。十代の頃の俺はTVは独占するは、触られるのが嫌いな弟を嘗めたり、チューしたり、紅葉のような可愛らしい手を揉んだり、触ったりして可愛がった。弟が生意気な発言や正論で論破しようとすると、暴力で捻じ伏せた。弟は根っからの非暴力主義者で、女の子のように喧嘩の勝ち負けを一回の敗戦では絶対的な敗北とは認めない。弟は幼い頃から女の子とばかりと付き合い、碌に遊んであげた事がない。弟は女の子のような話し方をするため、ずっとゲイだと思ってきた。弟は自分の事を女の子好きと表現する。子供の頃に弟を連れて歩くとなると、体を二つ外敵から守らなければいけないように感じ、弟を連れて遊びに行く事は先ずなかった。弟はそんな俺に対しても決して優しさを失わなかった。俺は弟に対して行った悪業の報いには沢山思い当たる事がある。


『マルチなアートワーク』

 今年、二〇〇四年の誕生日で三十五歳になる俺はサイバー・パンク小説『暗黒街の改造レプリカント』を書き上げる。二次小説なので、新人賞に投稿したり、自費出版する訳にもいかない。統合失調症の闘病記の執筆は難航している。単なる自分の闘病記を書く事には今一つ面白味が見出せない。俺は統合失調症を患いながらも漫画を描いてきた。統合失調症を患いながらも、自分に出来る事をし、何かを目指す。そう言う自分の人生に特徴的な闘病生活の仕方は自伝の方のメッセージにしようと思っている。統合失調症モノのフィクションの方では余り深刻に幻聴や統合失調症的な問題と向き合わず、統合失調症者独特な不思議な生活を小説にしたい。

 絵画の方も六十二作目を完成した。絵画は百点用意して個展を開くようにと亜美に言われている。絵画の方も何れはコンクールに投稿しようと思っている。絵画は基本的に空想画なので、現実的な面に関しては写真で表現しようと思っている。

 漫画の方は月四ページから六ページの詩的な短編作品を根気よく連載している。漫画は単巻長編の原稿や短編の原稿も並行して描いている。この感じなら、何れはもっとページ数の多い連載も出来そうだ。

 基本的に俺のアートワークは漫画で表現出来る事の模索に重点が置かれている。俺にとって小説の創作や絵画の制作は漫画の執筆の気分転換のようなものだ。何にせよ、守護霊様にバッチリ通じていて、アイデアには困らない。アイデアさえあれば、幅広いマルチ・アートをこなせる。

 俺は基本的に音楽作りはダメだ。作詞の才能もない。作曲に関しても冴えたる感性が発揮されない。ピンク・フロイドと尾崎豊しか聴かない俺にはピンク・フロイドと尾崎豊の音楽さえあれば、敢て自分の音楽を作る必要性を感じない。作曲をすると、オリジナリティーのない童謡のようなものしか生まれない。それをロック風にアレンジしても、童謡をビートで刻むような音楽にしかならない。才能ないなと思うのはいつも音楽に関してだ。


『ブログに小説を投稿する』

 サイバー・パンク小説『暗黒街の改造レプリカント』を完成させ、『漫画家/氏川正道の世界』と言うブログのアカウントを作り、投稿したら、ブログのフォロワーとの付き合いが始まる。今後、ブログには絵画作品や四コマ漫画やイラストレイションなども投稿する予定でいる。

 ブログでは自分の世界観を明確に表わす事で、自分の関心事を中心に最大限の表現が出来る。俺は自分のブログに統合失調症の異界的な世界観を構築しようとしている。処女小説『夢との戯れ』はブログのみの作品としてブログに投稿する。


『夫婦間の知らない面』

 夕食の食卓で寿司を食べながら、「絵画は何枚になった?」と亜美が海栗を食べながら訊く。

「八十九枚」

「後、十一作で個展が開けるわね」と亜美が愛歌が握りを醤油に付ける様子を窺いながら言う。「残り十一作か。愛歌、あんまりお醤油付け過ぎちゃダメよ」と亜美が愛歌に注意する。「陽平は今年で年長さんになり、愛歌も年少さんになったわね」

「愛歌にも絵や漫画を教えないとな。陽平も段々漫画らしい漫画を描くようになってきた。陽平の赤ちゃん赤ちゃんしたお話がなくなるのも寂しいもんだな」

「そんなに赤ちゃん赤ちゃんした漫画を何時までも描いていたら、こっちが心配になるわよ」と亜美が穴子の握りを食べながら言う。「それよりこの子達が幾つまで絵や漫画を描く事やら」

「この子達が画家や漫画家になる事まで期待しちゃダメだよ」

「陽平は水泳にも才能を発揮してるから、スウィミング・スクールのトレーナーによく誉められるの」と亜美がお茶の湯呑を手にして言う。

「ギター・スクールの方ではどう言われてるんだ?」

「絶対音感があるって言われてるわ」と亜美がハマチの握りを食べながら言う。

「ああ、それは寝る前にクラッシックを聴かせた成果だな」

「愛歌にも絶対音感があるらしいわよ」と亜美が笑顔で言う。「愛歌にはピアノでなく、キーボードを習わせたのが正解だったわ」

「坂本龍一みたいになるにはアコースティック・ピアノもやらせるべきなのかな?」

「鍵盤楽器には違いないから同じ事だと思うけど」と亜美が生姜を箸で掴みながら言う。「アコースティック・ピアノの良い音はCDを聴き込めば再現出来ると思うの」

「俺も何とか小説技法を体得したけど、作詞とかはからっきしダメだ」

「この子達は作詞にも成功するかもね」と亜美が中トロの握りを食べながら言う。

「ああ、それが本当なら嬉しいな。親にも開花していない才能がこいつらに開花されたなら、もっと生まれ変わり然とした存在に感じられるだろうな」

「あたしも作詞辺りに挑戦しようかな」と亜美が陽平が卵の握りを食べる様子を見ながら言う。

「俺も書いちゃ消し書いちゃ消しして作詞に挑戦してるんだけど、どうもダメだな。歌詞にしては言葉が硬いんだ。そう言えば、確か、レイ・ブラッドベリって、SF界の詩人と称されていたな」

「あなたがレイ・ブラッドベリの話するのって初めてね!」と亜美が喜びの声を上げ、「あたしも彼の作品は高校時代によく読んだの」と亜美がお茶の入った湯呑を手にしながら言う。「あたし達って、まだ話してない事が沢山あるのかな?」

「ああ、うん。あるのかもしれないな」


『念願の絵画の個展』

 一〇〇作絵画を描き終え、春の初めに念願の個展を開く事になる。会場には芸術家集団や漫画家仲間が続々と表われ、次々と俺の初個展を祝福する。

「いやあ、同じ画家の作品とは思えないような豊かなヴァリエイションがあるね」と黒いスーツ姿の三木谷さんが笑顔で言う。「氏川さんも何時の間にか大きくなったね」

「ああ、必死になって頑張ってたら、亜美との二人の世界でマルチ・アートをやる事に夢中になってね」

「音楽はやらないの?」と同じく黒いスーツ姿の村野さんが訊く。

「作詞作曲とかはからっきし駄目です」

「あたしもマルチには興味あるけど、小説の他はエッセイやコラムの仕事をするぐらいかな」と赤いドレス姿の由里ちゃんが明るい笑顔で言う。

「氏川さんと亜美ちゃんは本当に良い夫婦よ」と青いドレス姿の布居さんが晴れやかな顔で言う。「あたしも今年の夏に念願の結婚式を挙げるの。皆さん、是非とも我々の結婚式に出席してくださいね」

「布居さんも遂に結婚か!」と由里ちゃんが笑顔で布居さんを祝福する。

「武田さん、此間の処女小説良かったですよ」

「ああ、あれ!私も結構気に入ってるんですよ!」と黒いスーツを着た金髪のポンパドールの武田さんが楽しげに言う。

「絵も文章も書けるって凄いわよね。しかも、趣味に留まらないプロだもんね」と嘗ては赤いドレッドロックスの髪だった武田夫人の愛さんが金髪のソヴァージュに白いドレス姿で言う。愛さんは子供を産んでから顔が少しふっくらとした。一重の能面のような神秘的な目は今も健在だ。

「あたしも絵画やろっかな」と白いドレス姿のタコミちゃんが口ピーを弄りながら笑顔で言う。

「何でもやると良いですよ」

「氏川さんとは此間の僕の原画展以来ですかね」と黒いスーツ姿の半沢さんがすっかり落ち着いた大人の感じで言う。半沢さんはアート・コミックの長期連載をしている。

「半沢さんの原画展には感動したよ」

「そうですか!嬉しいな!」と半沢さんが照れ臭そうに言う。

「あの天国画欲しいな」と金髪のボブに白いドレス姿の旧姓君白さん事、半沢夫人の秋歌さんが怪しい魅力を周囲に一杯振り撒いて言う。俺は秋歌さんの姿を見ているとムラムラッとしてきて犯したくなる。本人は至って普通の動作しかしていない。秋歌さんは首筋やら手の指先やらか細い声やら、全身がセックス・シンボルのように色気を放っている。単なる俺の好みである事ばかりが理由ではないだろう。何かそう言う狐のようなものが憑いているのではないだろうか。秋歌さんがやらせてくれるなら、一回はしてみたい。不意に秋歌さんに見蕩れている自分を傍から見ている半沢さんの視線にドキッとする。いやあ、人妻は駄目だ!俺も随分と心が緩んだものだ。

 初日は漫画塾関連の顔ぶれや松田直美事、安奈テラも来ている。その他にも出版社の人達や知り合いの漫画家や小説家がおり、ちびっ子達が展示会場で走り回っている。その中には陽平と愛歌の姿もある。

 個展は三日間続く。絵の方はかなり売れている。会場では展示品の画集も売られている。ここのBGMには自分のサンプリングしたノイズ・ミュージックが流れている。何としても自分の音楽的な感性を披露したくて、何とか作ったのがノイズ・ミュージックである。何とか空間演出にはなっている。これをミュージックと言って良いかどうかは判らない。

 亜美は少女漫画家の仲間達と話をしている。そこには漫画塾の卒業生の久我野雅子さんの姿もある。久我野さんは少女漫画界に新風を齎し、少女漫画家達の尊敬の眼差しが集まっている。時代はアート・コミック的な方面にもスポットが当たり始めている。

「皆さん、明後日の最終日に打ち上げパーティーをするので、是非いらしてください!」

 会場から「はあい!」「行きまあす!」と来場者達の明るい賑やかな声が上がる。

 個展には漫画や小説のファンも大勢訪れ、会場は三日間大賑わいだ。絵画は完売し、最終日の打ち上げには漫画や小説のファンも参加出来るようにする。

 個展が無事終わり、ホテルのブュッフェで打ち上げパーティーをする。

「氏川さんはN科展とかには出品しないの?」と三木谷さんがテーブルの隣の席に座って、鰻の蒲焼を食べながら気軽に訊く。

「もうそんな時期に来てるんですかね」

「立派な画家さんの絵だったよ」と三木谷さんが呆れたように言う。

「絵画は漫画の執筆の気分転換だから、個展以外特別目指すところあって描いていた訳ではないんです」

「氏川さんは乗りに乗ってるよ」と三木谷さんがアスパラガスのベーコン巻きにチリ・ソースを付けて食べながら言う。

「三木谷さんはN科展には出品した事あるんですか?」

「毎年、出品してるよ。入選しないけどね」と三木谷さんが蕩けるチーズのかかったフレンチ・フライを食べながら、笑顔で言う。

「久我野さんは確かN科展に入選したんですよね?」と漫画塾の卒業生で少女漫画家の新星の久我野雅子さんに確認する。

「あたしは高校の時に入選しました」と久我野さんが焼き餅を食べながら言う。

「久我野さんと俺とじゃ全然違うんだよ?」と三木谷さんが俺の認識のズレを正す。

「いえいえ、そんな事ありませんよ!」と久我野さんが慌てふためいて言う。「あたし、三木谷さんのアイアン・デヴィル読んでます」

「ええ!久我野さんが俺の漫画読んでくれてるの!」と三木谷さんが驚いたように言う。「久我野さんって、独身ですか?」

「ああ、はい。お恥ずかしながら」と久我野さんが顔を真っ赤にして恥ずかしそうに言う。

 久我野さんは真面目な人だから、もしかしたら処女かもしれない。

「今度、『メトロポリス』と『フランケンシュタイン』の二本立てがリヴァイヴァル上映されるんですけど、宜しかったら、一緒に観に行きませんか?」と三木谷さんが積極的に久我野さんを映画に誘う。

「ああ!是非行きたいです!」と久我野さんがはしゃいだように言う。

 こりゃあ、二人は結婚するかもな。

「あたし、此間、ペン画の画集を纏め買いしたのよ」と俺の右隣の席に座るタコミちゃんがヴァニラのアイス・クリームを食べながら言う。「それであたし、漫画家の絵ってお粗末なものだなと思ったの」

「ああ、なるほど」

「漫画は芸術だって言われてるけど、本当にそうかなって、一寸考えちゃったわよ」とタコミちゃんは言い、「一寸、あたし、もう一回ヴァニラのアイス取ってくる」と言って、席を立つ。村野さんが牡蠣のお好み焼きを食べながら、タコミちゃんの後ろ姿を見ている。村野さんとタコミちゃんか。タコミちゃんは村野さんに敬意を示しているけれど、村野さんがなかなかタコミちゃんの気持ちを確認しない。由里ちゃんが亜美と話をしている。

「氏川先生、『ブルー・マシーン』にサインして戴けませんか?」と高校生らしき俺の漫画のファンの男の子が俺の席の近くに来て言う。

「ああ、はい。します!します!」

 俺は彼が買った漫画『ブルー・マシーン』の表紙裏の白紙のペイジにサインをする。

「ありがとうございます!大切にします!」と少年は大喜びして、自分の席に帰っていく。

 愛歌が俺の席に近付き、俺の膝の上に乗る。

「愛歌は何食べる?」

「愛歌、先、たこ焼き三つ食べたの」と愛歌が俺を笑顔で見上げて言う。

「じゃあ、今度はタコスを食べようか?」

「うん」と愛歌が笑顔で言う。愛歌は亜美の子供時代の写真の感じにそっくりだ。

「お父さんのタコスは辛いから、愛歌の分のタコスを取りに行こう」

「うん!行く!」と愛歌が喜んで言う。

 俺は愛歌を抱っこして、タコスを取りに行く。

 俺は固い殻のタコスにキャベツと焼肉と生姜の刻みを入れ、「はい。じゃあ、このお皿持って、お母さんのところに行って食べて」と愛歌に言う。

 俺は自分の席に戻り、激辛のタコスを食べる。漫画の編集の席の隣にスペアリブを盛った皿を持って座り、「木ノ下さん、打ち上げにまでいらしてくださって、ありがとうございます」と三〇代の男性の漫画編集者に挨拶する。

「いやあ、良いとこ取りで参加しました」と木ノ下さんが笑顔で言う。木ノ下さんは大の映画ファンで、会うと必ず映画の話で盛り上がる。清潔に切り揃えた七三に分けた黒髪に黄色いスーツを着ている。恐らく黄色いスーツは我々共通のお気に入り映画『ブルー・ベルベット』からヒントを得たものだろう。

「執筆は捗ってますか?」と木ノ下さんがツナを載せたクラッカーを食べながら訊く。

「まあ、いつも通り順調です。月四枚から六枚の連載は楽なもんです。毎日、漫画塾の生徒のいる教室で自分の漫画を描いてますが、漫画を描く環境としては抜群に刺激的です」

「漫画塾の生徒さん達はこれからもデビュー出来そうですか?」と木ノ下さんが『ジンジャー・エール』の入ったグラスを手に訊く。

「恐らく全員デビューします」

「ああ、それは楽しみですね」と木ノ下さんは言い、『ジンジャー・エール』を口に含む。「絵画との両立で長い枚数の連載は可能ですか?」

「いやあ、今は特にそう言う事は考えていません。今の『夜の森の大饗宴』と言う詩的な漫画の連載を自分のライフ・ワークにしようと思ってるんで、時々短編作品や単巻長編モノを掲載して戴ければ、それで満足です」

「氏川さんの短編集や単巻長編作品は毎回重版がかかりますから、雑誌に掲載する事自体には何の問題もありません。しかし、もう一寸長い枚数の作品の連載をしないと、漫画家としてのスケールがやや小さいですよ」と木ノ下さんがレタスで包んだ焼肉を食べながら言う。「まあ、単巻長編作品が二作映画化されたりもしてるんで、漫画家としては先ず先ずの成功ですけれどもね」

「長い枚数の連載となると、『夜の森の大饗宴』との両立は難しくなりますね」

「氏川さんは今一つ漫画家としての仕事に意欲が足りないんだな」と木ノ下さんがチリ・ソースのかかった生春巻を食べながら言う。

「長いページの連載は責任が重いですからね」

「これから絵画の方の仕事も増えるんでしょ?大丈夫ですか?」と木ノ下さんが真剣な眼差しで心配する。

「何とかこなしていまきすよ」

「芸能人のタレント辺りは器用に色んな仕事をこなしますけどね」と木ノ下さんが心持ち笑顔で言う。「氏川さんのマルチ・アートワークは質が高いですから、ご病気の方の悪化が懸念されます」

「ああ、そんな事にまで気を遣わせてしまって、本当に済みません。仕事はハンディーなく抱えていけます。幻聴も消えましたしね」

「氏川さんはプロですからね。プロの自覚を以て仕事をされるなら、何の病気を患っていようと別に問題はないんです」と木ノ下さんが心配そうな眼で気遣いながら言う。

「私は至って真面目な漫画家なので、夜の酒場に行って、朝まで飲むような事もありません」

「ええ。氏川さんは真面目です」と木ノ下さんがしみじみとした口調で私を評価する。「私などは仕事が終わると酒場に飲みに行くんです。そう言う気分転換が氏川の場合にはないですよね」

「妻が漫画家で、画家なものですから、家庭に刺激があるんです。息子と娘も漫画を描きますしね」

「そうですよね。本当に氏川さんは幸せな漫画家です」と木ノ下さんが笑顔で言う。

「それでは絵画の方の編集の方に行きます。ごゆっくりお楽しみください。また今度映画の話でもしましょう」

「ああ、はい」と木ノ下さんが笑顔で見送る。

 スペアリブを盛った皿を持って、画集関連の美術書の編集の方に行く。

「ああ!氏川さん!無事個展が終わりましたね!」と美術書の編集の川口さんと言う四〇代の男性が笑顔で俺を迎える。川口さんは梳いて短目に切り添えたお洒落な黒髪に茶のスーツを着ている。

「画集は何冊売れたんですか?」

「お蔭様で五百部近く売れました」と川口さんが大喜びして言う。「三日間の個展で五百部画集が売れたなんて話は凄い事ですよ。流石は漫画家の個展です。一冊七五〇〇円の画集が五百部売れたんですからねえ。絵画自体にも相当に魅力がある証拠ですよ」

「かなり苦しい画業でした。何とか自作品の模倣を避けて仕上げました」

「その辺は画家さんならではの苦心ですね」と川口さんが感心したように笑顔で言う。「私は美術書の編集ですが、絵心は全くないんで、絵画について語るとなると、描き手として絵画への情熱を熱く語るような事は出来ません」

「絵画をお描きになってみれは良いのに」

「いいや、私には絵の才能はありません。高校時代までの図工や美術の成績は五段階中三、十段階中五でしたから、突出した才能はありません」と川口さんが御自分の絵画の才能を否定する。

「他の学科が五段階中一や二、十段階中一から四だと、五段階中三、十段階中五が得意教科と自覚されるんです」

「なるほど。しかし、自分に芸術的な才能があるとは思えません。学生時代の授業中に描いた絵が芸術的に秀でた作品だったなら、成績なんかを理由に才能を否定する事もなかったでしょうがね」と川口さんが御自分の芸術的な才能を重ねて否定する。

「下手なりに、凡庸なりに絵を描くと、それは非常に楽しいものです。絵を描き始めると、自分の芸術的な感性や技術を磨く事もします。努力もなく才能が開花する事はありません。芸術的な才能を開花させるには芸術創作が好きでなければいけません」

「なるほど。確かに私も絵を描く事が嫌いって訳ではありません。しかし、オリジナリティーの片鱗も感じさせないような作品を描いたところで絵を描く事に自信を持つ事はありません」と川口さんが正確に御自分の適性を判断している事がこの辺りから判ってくる。

「物事を行うには適性って言うものがあるのかもしれませんね」

「ありますよ。勿論」と川口さんが開放的な明るい声で言う。

「それでは私は失礼します。どうかごゆっくりと御食事や会話をお楽しみください」

「ああ、はい」と川口さんは返事をして俺を見送る。


『漫画塾『漫画天国』のその後』

 二〇〇五年、三十六歳になる俺は二作目の近未来小説『レプリカント』を完成させる。俺はそれを早速、ブログ『漫画家/氏川正道の世界』に投稿する。小説『夢との戯れ』は御本霊の作品である事が御本霊の肉声の告白により知らされる。

「あなたはもう小説の書き方も教えられるのね」と亜美が朝食の食卓で生卵かけ御飯の茶碗を手にキムチを食べながら言う。

「何とか今回、小説二作目の『レプリカント』を書き上げたけど、小説の書き方を教えるって言うのはおこがましいよ。平野啓一郎辺りが小説の書き方を教えるなら納得が行くけど、プロでもない者が小説の書き方を教えられるとは思わない。おまけに俺の小説は二次小説だ」

 亜美が鯵の焼き魚や切り干し大根を食べながら、「確かにプロの小説家でもない者が人に小説の書き方なんて教えないわよね」と亜美は言って、生卵かけ御飯を掻き込む。

「吉川直人が小学三年生、原吉日が小学四年生、相沢直美が中学一年生、高原仁哲が高校一年生か。四人共、漫画に関しては良い成長を遂げてるな」

「吉川君は最近、オートバイが好きな高校生の話を描き始めたわね」と亜美が楽しげに言う。

「結構、オートバイをリアルにデッサンのブレなく描くんだよ」

「原君は不良少年モノを描くのよね」と亜美が笑顔で言う。「何だか寂しいようだけど、皆、大人になっていくのね」

「うん」と俺は子供達の成長を複雑な気持ちで受け止める。「原吉日は相変わらず、一日三本のあらすじを書くんだ」

「うん。二〇〇二年からだから、もうあらすじが千作は超えてるわね」と亜美が感心したように言う。

「相沢直美の妖怪退治の漫画も相変わらず続いてる」

「うん。あの子、多分、妖怪退治モノのあの作品でデビューするわよ」と亜美が確信を以て言う。

「水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』みたいに何度も描き直しをするような手間をかけるんだろうな」

「お気に入り作品だから、喜んでそうするんじゃない」と亜美がティシューで口許を拭きながら、楽観的に言う。

「高原君が今度新人賞に投稿するよ」

「電車モノで?」と亜美が楽しげに訊く。

「うん。電車モノのかなり渋い路線の作品だよ。鉄道員の遣り取りをしっかりと描く人間ドラマなんだ」

「へええ!もう単なる電車マニアじゃないんだ!」と亜美が驚いたように言う。

「いやっ、電車マニアだよ」と言って、俺は笑う。

「ああ、やっぱり、そこは変わらない訳か!」と亜美も笑いながら言う。

「家の方の生徒も今年か来年には全員デビューすると思うわ」と亜美が嬉しそうに言う。

「社会人の部は漫画歴が長いから、デビューも早いな。でも、もう彼らも二年になるのか」

「ファンタジー漫画家志望の片瀬好美さんは過去作が七作あるんだけど、どうも最初からストーリーが在り来たりで、絵が一寸か弱いと言うか、バトルに迫力がなかったのよ」と亜美が困ったように言う。「その辺を指導するのに、あたし、ファンタジーを描いた経験がないじゃない?」

「ああ、うん」

「でも、ドラゴンや妖精や魔法使いやウォーリアー描かせたら、超一流の表現力があるから、徹底して絵の指導をしたの。そうしたら、片瀬さんがメキメキとファンタジーの表現力にオリジナリティーを発揮するようになって、デビュー確実ってところまで徹底してファンタジー漫画を研究したのよ」と亜美が興奮気味に話す。「彼女、相当努力したのよ」と亜美が深く片瀬さんの努力を認める。

「ファンタジーって、俺も描いてみたいな」

「あたしもそう思った」と亜美が楽しげに言う。「ホラー漫画家を目指す北川愛奈さんも随分と個性的な絵に変わったわ。過去作は楳図かずおそっくりな絵で漫画を描いていたんだけど、もっと自分らしい絵で描くべきだって意見したのよ。そうしたら、北川さんが自分はまだ個性を発揮した次元には達してないって判断して、人物から背景の描き方に至るまで個性的な絵が描けるようになるために日本画の画集を買い込んで、絵画的な方面から自分らしい絵を追求して、今のあの絵になったのよ。彼女の漫画、誰にも似てない絵になったでしょ?」と亜美が嬉しそうに言う。

「うん。そう言う努力を経てあの絵になったのか」

「アクション漫画家を目指している佐藤勇気さんも最初は原哲夫の『北斗の拳』みたいな絵だったの。過去作は漫画塾に入ってくる前に七作あったんだったかな。何しろ『北斗の拳』みたいな漫画を描くために漫画家を志したらしくて、本人の武道家としての能力が十分に漫画に活かされてなかったのよ。彼、カンフーも身に付けていたから、もっとブルース・リーやジャッキー・チェンやジェット・リーの映画辺りをじっくりと観て、カンフーものらしい漫画をリアルに描いたらって勧めたの。彼、総合武道家だから、剣道や空手やボクシングものも描こうと思えば描けるのよ。彼、最初はアクション・シーンを描く事がメインになり過ぎて、ストーリー作りには力が入らなかったの。それでアクション映画のDVDの解説文をよく読んで、ストーリー作りの研究をするように勧めたの」

「それを全部ここに入ってやったの!」

「そうなのよ。彼は努力家よ。彼、本当に頑張ったの」と亜美が佐藤さんを大絶賛する。

「社会人の部の生徒さんへのアドヴァイスは学生の部のアドヴァイスとはかなり違うな。子供の場合、悪い癖が何もないまっさら時期に漫画を習うから、人真似はほとんどないんだよ」

「大人に漫画を教えるのは漫画歴が長い程難しいの。よく観察せずに描いている人真似の略画があちらこちらに入っていたり、人物がリアルじゃないのに背景だけ写真みたいに描くような漫画だったり、とにかくオリジナリティーに欠けている事に気付かせないといけないの」と亜美が眉間に皺を寄せて深刻な声で話す。

「まあ、今年中に全員デビューするなら育て甲斐はあったね」

「うん。まあね」と亜美が笑顔で言う。

「彼らがデビューしたら、また生徒の募集だね」

「うん。そうね」と亜美が楽しそうに言う。「漫画塾の講師をやってる関係であたしの漫画の質も相当に上がったわ。生徒さんに漫画の描き方を教えていると、自分の漫画にも色々な気付きがあるの」

「ああ、確かにそう言うメリットはあるな」

「陽平も来年は小学生ね」と亜美が嬉しそうに言う。

「陽平も年長さんになってから写真を見て漫画を描くようになったよ」

「主人公を自分をモデルにしなくなったり、客観的に世界を捉えるようになったわよね」と亜美が嬉しそうに言う。

「陽平は今、ロボットの世界のような漫画を描き始めてるんだ。陽平は過去作を振り返らないんだよ」

「子供って過去を振り返らないわよね」と亜美がぼんやりと言う。「愛歌の漫画は犬と少女の話よね。大人の癒し系漫画と同じようなクオリティーで描くのよね」

「ああ、愛歌の漫画って、そう言うハイ・クオリティーな漫画なのか!」

「ああ、そうそう!愛歌、今度、幼稚園で飼っている犬に餌を与える係になったの」と亜美が誇らしげに言う。

「愛歌は動物が好きなんだな」

「今度の日曜日に『上野動物園』に行こうよ」と亜美が楽しそうに提案する。

「俺の子供の頃は日曜日に父がよく家族サーヴィスをして、色んなところに連れていってくれたんだ」

「あたし達は仕事が忙しくて、日曜日に子供達を何処にも連れていってないわよね。旅行も新婚旅行以来何処にも行ってないしね」と亜美がべったら漬けを食べながら言う。

「子供達の夏休み中にアメリカに行かないか?」

「ああ、良いわね。漫画道具持っていけば、仕事にも支障はないし」と亜美が大喜びして言う。「あたし、ニューヨークに行きたい!」

「俺もニューヨークに興味があるんだ」

「あなた、英語話せる?」と亜美が俺の顔を覗き込むように真剣な顔で訊く。

「いやあ、英会話は全くダメだ」

「あたしも英語が話せれば、世界観が変わると思うんだけどねえ」と亜美が夢見るように言う。

 俺は生卵かけ御飯を掻き込みながら、アメリカに住む事を考える。神道系の信仰宗教の方の御神業が気がかりで、自分だけ遊びでアメリカに移住する訳にもいかない。

 F先生の著書『背後霊入門』によると、俺のような芸術家は文学芸術活動が天命で、子供の頃から一度も守護霊様が代わっていない可能性があるらしい。俺は子供の頃からごっこ遊びや油粘土で作った人形で即興的な物語を作って遊んでいた。漫画や小説を書く事が予め定められたような人生なのだ。

 漫画塾の生徒も信仰に目覚めるだろうか。


『家族揃って動物園へ』

 六月の半ばの或日曜日に、家族揃って、電車で『上野動物園』に行く。『上野動物園』でチケットを四枚買い、入場すると、パンダから始まり、陽平と愛歌がカメラで写真を撮る。陽平と愛歌にはそれぞれ親の持っているカメラを一台ずつ貸している。陽平も愛歌も喜んで写真を撮る。

「陽平と愛歌の誕生日かクリスマスにカメラをプレゼントしましょうかね」と亜美がゴリラを見ながら言う。

「カメラは確かに欲しがるだろうな。しかし、実際の誕生日やクリスマス・プレゼントにはそれぞれ欲しいものが別にあるだろう」

「本人達が欲しい物を買い与えるのが子供達の守護霊様のお望みなのかしら?」と亜美が俺に訊く。

「親が何度も思い浮かぶような物を買い与えていれば当たるだろう」

「ああ、そうね。子供達の守護霊様があたし達の中に来て、子供達のために手に入れたいものを親が頑なに拒むって事はあるのかな?」と亜美が自分の混乱を打ち明ける。

「そんな難しい事はないだろう。子供の害になるような物に気を付ければ良いんじゃないか」

「そうよね」と亜美がほっとしたように言う。

 動物を見歩きながら、お腹が減ってくると、ホット・ドッグやジュースやコーヒーを買い、家族揃って動物園のテーブル席で飲み食いする。

「帰りは何処かに寄る?」と俺が齧ったホット・ドッグを片手に訊く。

「夕食を何処かで食べましょう。それとデパートで買い物をしたいわ」と亜美が満足気な笑みを顔に浮かべて言う。「あたし、子供の頃、親と銀座に行くと、よく不二家のレストランで昼食を食べたの」

「へええ、家もよく映画の帰りに不二家に行ったよ。俺達、過去に会ってるのかな?」

「どうかな」と亜美は言って、にやりと笑う。

 我々夫婦は日常各々の妄想をよく語る。それは統合失調症夫婦ならではの事だろう。何を言っても、相手を深く異常視するような事はしない。自分も考え得る事を各々が経験し、考えるからだ。健常者と結婚していたら、こうはいかないだろう。一度根深く異常だと思われたら、必ず嫌われる。

 我々は『上野動物園』を出ると、アメ横に寄る事にする。俺はモデルガンや軍服の店の商品を見て、アメリカの迷彩服のTシャツを一枚買う。亜美は香水や時計を見て、安物のお洒落時計を一つ買う。陽平には空気銃を買ってやり、愛歌にはブランド物のポシェットを買ってやる。

 夕食は洋食レストランで食べる事にする。陽平も愛歌もお子様ランチを注文し、亜美はエビフライ定食を頼み、俺はカツカレーを注文する。

 夕食を食べると、「映画でも観て帰る?」と亜美が提案する。

「子供達がそろそろおネムだよ」

「ああ、ほんとだ!直ぐ帰らないとね」と亜美が愛歌を抱っこする。俺は陽平を肩車する。


『祖母の他界』

 八月の終わりの夕方頃に電話がかかってくる。

「はい、もしもし、氏川ですけれども?」

『ああ、正道?』と母の声が確認する。

「うん。俺だけど、何か用?」

『お祖母ちゃんが亡くなったの』と母が深刻な口調で言う。

「お祖母ちゃん、亡くなったの!」

『病院で苦しまずに亡くなったわよ』と母が俺を気遣うような口調で言う。『お母さんは今、お祖母ちゃんの家にいるの。お祖母ちゃんが眠った後、一度お祖母ちゃんの家に帰宅したら、入れ違いに亡くなったの。あなた、喪服持って、直ぐこっちに来れる?』

「ああ、亜美と子供達連れて、直ぐ行くよ」

『それじゃあね。気を付けて来なさいよ』と母が子供に注意するように言う。

「うん。それじゃあ」

 母が電話を切り、俺も受話器を置く。

「亜美!」とアトリエで漫画塾の授業を行っている亜美にドアー越しに声をかける。亜美がドアーを開け、「何か用?」と訊く。

「祖母が亡くなったから、これから皆で九州に行くよ」

「ええ!」と亜美の目から涙が溢れる。「到頭、あなたのお祖母ちゃんには曾孫達の姿を見せられなかったわね」と亜美が泣き声で言う。

「人は永遠にこの世に生きるものではないし、亡くなった人に生前してやれなかった事を考えたら、切がないよ」

「あたし達、忙しかったもんね」と亜美がハンカチーフで涙を拭きながら言う。「子供達に曾お祖母ちゃんを見せたかったわね」

「うん」と返事をすると、俺の目から涙がワッと溢れ出す。「喪服を持っていくからな」

「うん。じゃあ、今日、授業はこれで終わりにするわね」と亜美が言い、アトリエに入る。

 塾生達がアトリエから出てきて、「亜美先生、正道先生、さようなら」とファンタジー漫画家志望の片瀬さんが言い、他の塾生達も「さようなら」と口々に言って、玄関から出ていく。

「陽平!愛歌!」と亜美が子供達を呼び、「九州に行くからお洋服これに着替えなさい」と子供達に用意した服を着るようにと指示する。

 JR京浜東北線とモノレールで羽田空港に着くと、子供達に売店でジュースと御菓子を選ばせ、買い与える。

 飛行機に乗ると子供達にはスケッチブックと色鉛筆を渡し、絵を描かせて、大人しくさせる。

 長崎空港に着くと、バスで国見町の神代まで行き、祖母の家まで歩いていく。子供達には詳しい事は何も話していない。

 祖母の家の玄関を開け、中に入ると、「あら、チビちゃん達も来たのねえ」と母が陽平と愛歌の頬に優しく数回掌で触れる。「正道、喪服は持ってきた?」

「持ってきたよ。これから皆で着替える。子供達の服は今ので良いよね?」

「ああ、チビちゃん達の服はあれで良いわよ」と母が明るい顔で、ハキハキとした下町口調で言う。「着替えたら、御近所の方々にちゃんと御挨拶するのよ」

「ああ、判った」

 俺はこう言う事には子供同然に通じていない。

「ああ、お兄ちゃん、来たね」と弟の清が話しかける。

「お父さんもいるの?」

「ああ、向こうで近所の方々や親戚の人達と話してるよ」と清が大人らしい落ち着いた態度で言う。

「客間があるから、そこで着替えよう」と俺は亜美に言い、客間に向かう。

 客間で亜美と俺は喪服に着替え、祖母の遺体を置いた部屋に行く。

「陽平、愛歌、あなた達の曾お祖母ちゃんよ」と亜美が涙を流しながら言う。

「曾お祖母ちゃん、死んでるの?」と陽平が祖母の遺体を不思議な眼差しで見つめながら亜美に訊く。

「そうよ。亡くなったのよ」と亜美が心配そうに子供達を見守りながら言う。

 愛歌は不思議なものを見るような眼差しで祖母の遺体を見ている。

「曾お祖母ちゃん、寝んねしてる」と愛歌が笑顔で言う。

「そうね」と亜美が愛歌に言う。

「いやあ、お祖母ちゃんには到頭曾孫達の姿を見せられなかったよ」と母に言うと、「仕方ないわよ。あなた達も忙しかったんだから」と母が気楽に問題を受け止める。

「今日は亜美の漫画塾の社会人の部の授業を早目に切り上げてきたんだ」

「あら、ごめんなさいね」と母が亜美に謝る。

「いえいえ、私達の漫画塾は私達の奉仕活動で、授業料その他全て無料で行っている事なので、何の問題もありません」と亜美がしっかりと受け答えする。

「今日の御夕食は近くの旅館からお弁当を注文したの。そのお弁当がもう届いているから、あなた達、夕食まだなら、お母さん達はもう済んだから、今食べておきなさい」と母が指示を出す。

「ああ、判った。陽平、愛歌、夕食のお弁当を食べよう!」

 俺は亜美と子供達を連れてダイニングルームに行き、夕食の弁当を食べ始める。そこに清が現われる。

「陽平君と愛歌ちゃんは叔父さんの事知ってるかな?叔父さんはお父さんの弟だよ」と清が陽平と愛歌に話しかける。

「陽平、愛歌、清叔父ちゃんよ。ちゃんと御挨拶しなさい」

「こんにちは。氏川陽平と申します」と陽平が自己紹介する。

「陽平君は何歳になったの?」と清が陽平に訊く。

「六歳です」と陽平が親しみの籠もった顔で答える。

「愛歌も御挨拶して自己紹介するのよ」と亜美が愛歌に指示する。

「こんにちは。氏川愛歌です。四歳です」と愛歌が自己紹介する。

「二人共、ウチの漫画塾の塾生として漫画を描くんだよ」

「へええ。サラブレットだね。将来が楽しみだな」と清が笑顔で言う。

「幼児の漫画からはインスピレイションを一杯もらえるんだ」

「お兄ちゃんって、漫画何歳から描き始めたの?」と清が訊く。

「中学二年から漫画家を目指したから、十四歳だな」

「あたし達はこの子達が将来、親の敷いたレールとは違う道に進んでも、子供の時に漫画を描いていた事が良い思い出になれば良いと思ってるんです。だから、親がこの子達にしてあげられる事は作品を保管してあげる事ぐらいかなと思ってるんです」と亜美が清に言う。

「なるほどね。恐らく芸術が天命のお子さんだと思いますよ」と清がお弁当を食べている子供達を見下ろして言う。

「それなら良いんですけどね」と亜美が清に嬉しそうに言う。「子供の時に習っていた事って、途中で止めても自信になるでしょう?」

「ええ。そうですね」と清が亜美を真っ直ぐな目で見て言う。

「おお、皆、来たな!」と父がダイニングルームに来て言う。

「ああ、こんばんは。お久しぶりです」と亜美が父に挨拶する。

「正道も亜美さんもなかなか良い漫画を描いているな。大作の連載はまだなのかな?」

「大作の連載はプレッシャーが強過ぎて、なかなか踏み込めないんだよ。期日までに原稿が間に合わなかったら、大事だからね」

「あたしもそれが心配で出来ないんです」と亜美も言う。

「締め切りに追われるのにも程度の差がある訳だな」と父が顎を右手で摩りながら、考え込むように言う。「まあ、自信が付いたら、挑戦する事だな」と父は言って、ダイニングルームを出ていく。

 亜美と子供達を先に風呂に入れ、その後に俺が風呂に入る。

 熱い湯船に浸かりながら、亡き祖母の思い出に浸る。幻聴が聴こえ始めた頃にこの家に居候させてもらった事を思い出す。あの頃は自分の身に起きた事を祖母が理解していると思っていた。俺もあの頃の辛い幻聴からは解放されたな。本当に不思議な人生だった。近頃は霊的構造との肉声の会話も少なくなった。守護霊様からの他者の口を通じて伝わるメッセージを受け止めようと注意していれば、パラノイアの問題もなくなる。

 風呂から上がり、今夜は家族四人が川の字になって、早目に眠る。

明日は祖母の遺体の火葬だ。

 父も母も何れは他界する。俺も何歳まで生きる事やら。


 翌朝、葬儀屋さんの霊柩車に祖母の遺体の納まった棺桶を親戚の男達と運び入れると、三台の車に分れて火葬場に向かう。

 火葬場に着くと、亡き祖母の遺体に最期のお別れをし、父が火葬のボタンを涙を流しながら押す。

 火葬が終わると、皆で祖母の遺骨を箸で拾い、骨壷に入れていく。

 帰宅すると、葬式が始まる。祖母の笑顔の遺影を見て、祖母の霊にお線香をあげる。

 翌朝、納骨すると、皆揃って、飛行機で帰京する。陽平や愛歌は何の事か判らぬままに色んな事が過ぎていった事だろう。陽平と愛歌は帰宅するなり、普段と変わらぬ生活に戻っていく。亜美と俺は漫画塾の塾生に、明日は授業を行うと連絡をする。


『魂の交流』

 もう直ぐ九月になる。一年の経過は年齢と共に早くなる。俺も一〇代より二〇代の方が経過が早く、二〇代より三〇代の方が早く時が過ぎていく事を経験する。

 家の家族には深く魂の交流がある。家族以外にも文学や芸術を通じて多くの仲間がいる。これからも魂の交流としてもっと多くの芸術家達達と交流したい。

 他者との関わりにおいては知識の分配が盛んに行われる。他者との会話で意見がぶつかったり、共感を得る事も魂の交流だ。


『村野さんとタコミちゃんの結婚』

 十月の或朝、朝食後にアトリエで龍の絵を描いていると、電話がかかってくる。

「はい、もしもし、氏川ですけれど?」

『ああ、氏川さん、村野です』と村野さんが陽気な声で言う。

「ああ、村野さんか。元気ですか?」

『元気ですよ。あのね、実は俺、結婚する事になったんです』と村野さんが嬉しそうに言う。

「誰と結婚するんですか?」

『タコミちゃんとだよ』と村野さんがウキウキとした口調で言う。

「ああ、やっぱり!」

『俺達が結婚すると思ってたんですか?』と村野さんが意外そうに訊く。

「はい。だって、タコミちゃんが敬愛する男性って、最初から村野さんだけでしょ?」

『ああ、なるほどね。俺は自分が年上だからかなと思ってたんです』と村野さんが意外にも謙虚に言う。『俺は昔から由里ちゃんに気があったんだけれど、由里ちゃんとはどうも馬が合わなくてね』

「由里ちゃんが良いって言うのは見た目でしょ?」

『ううん。昔から同じ小説家志望だったって事とかもあったんだけれど。ああ。なるほど。確かに見た目が好きなんです』と村野さんが俺の意見に同意する。パラノイア同士の関係ですんなり相手の意見に同意すると言うのは非常に珍しい事で、我々はこのように二転三転して漸く相手の意見に同意する。我々は比較的パラノイアが軽く、仲間に対する信頼感も強い。

『来年の春に結婚式を挙げるんですけど、氏川さん達御夫妻には是非とも出席して欲しいんです』と村野さんが漸く本題に触れる。

「勿論、出席させて戴きます」

『ああ、じゃあ、お願いします。それではこれから半沢さん御夫妻にも電話するんで、そろそろ切りますね』と村野さんが嬉しそうに言う。「ああ、はい」

「それでは失礼します」と村野さんは言って、電話を切る。

 俺は亜美のアトリエのドアーをノックする。

「はあい!」と亜美がドアー越しに返事をし、「どうぞ!」と言う。

 俺は亜美のアトリエのドアーを開け、「村野さんとタコミちゃんが来年の春に結婚するんだってさ」と亜美に報告する。

「ええ!そうなんだ!」と亜美が驚いて言う。「あたし、村野さんはてっきり由里さんと結婚するのかと思ってた」

「いやあ」と俺は言いかけて、由里ちゃんが昔から俺に気がある事を言わずにおく。

「そうか。じゃあ、残りは由里さんだけだ」と亜美が俺の目を見て言う。何だか亜美の眼は自分の心の中を見通しているようだ。

「じゃあ、俺はアトリエに戻るよ」

「うん」と亜美が何か言いたげな眼で言う。何でも俺の内面が顔に表われているのだろうか。


『クリスマス・イヴの夜』

 クリスマス・イヴの朝、こんな日も仕事かと思いながら、アトリエで山水画のような絵画を描いていると、亜美がアトリエのドアーをノックする。

「どうぞ!」

「あなた、今日、クリスマス・イヴよ」と亜美が嬉しそうに言う。

「ああ、忘れてたよ」

「子供達のプレゼントを買いに何処かに行きましょうよ」と亜美が明るい顔で言う。

「昔、日曜日になると、五反田の『TOC』にサンリオのクッキーを焼ける店によく行ったんだよ」

「今もあるの?」と亜美が興味津々に訊く。

「今はもうない」

「他には何処に行った?」

「二子玉川の『子供の国』って言う遊園地に行って、その帰りに『高島屋』の『紅花』って言うレストランで夕食を食べて、誕生日やクリスマスの時期には玩具売り場で玩具を買ってもらってたよ」

「そう言うのあたし達、子供達にしてないよね」と亜美が子供達の事を想って、子供達に対して申し訳ないような気持ちを顔に表わして言う。

「でも、俺達に出来る事は可能な限り行ってきたと思うよ」

「そうよね。子供達のために一生懸命生きてきたわよね」と亜美は言い、「今日は子供達に玩具を買ってあげて、何処かで外食しましょう」と亜美が提案する。蒲田の駅ビルの中華料理屋に美味しいジャージャー麺があるんだけど、今夜行かない?」

「良いね。塾生が卒業する度に焼肉の食べ放題に行くし、通院の時には芸術家集団と新宿のピザの食べ放題に行くから、食べ放題は珍しくないなと思ってたんだ。蒲田の駅ビルのジャージャー麺は俺もよく食べに行ってたよ。子供達へのプレゼントの玩具も蒲田の駅ビルで選ばせよう」

 夕方、家族揃ってJR京浜東北線に乗り、蒲田に向かう。先に駅ビルでジャージャー麺を食べ、玩具売り場で子供達にクリスマス・プレゼントの玩具を選ばせる。陽平はミニカー二つとミニカーの駐車場の玩具を買い、愛歌はバービー人形とその衣装を買う。


『高原仁哲のデビュー』

 冷たい風吹く二月の初め、漫画塾の学生の部の生徒が一人一人教室に入ってくる。

「正道先生!俺、新人賞で大賞を受賞しました!」と電車漫画の高原仁哲が早々に新人賞の結果報告をする。

「おお!やったな!これからプロとして漫画を描くのか?」

「親が最低高校を卒業するまでは漫画家になっちゃダメだって言うんです。大学へもちゃんと進学して、教養を身に付けてからでも漫画家人生の始まりは遅くないって言うんです」と高原君が平然とした態度で言う。

「ううん」

「俺も将来の事を考えると、大学ぐらいは出ていた方が良いのかなって思ってるんです」と高原君が自分の将来をしっかりと見据えて言う。

「先生は高原君が漫画家として活躍する事を焦っていないなら、それで良いと思うよ。実際、プロの漫画家として漫画を描き続けるには沢山の勉強を必要とするし、学生の時期にじっくりと勉強に専念出来るのは恵まれた事だ。でも、このまま漫画塾で漫画を描くのかな?」

「漫画は家でコツコツ描くので、漫画塾は卒業させて戴きます」と高原君がしっかりと自分の意向を告げる。

「そうか。それじゃあ、今日は漫画塾の学生の部の生徒を全員連れて、焼肉の食べ放題の店に行って、高原君の入選祝いをしよう!」

「ええ!そんな事してくださるんですか!」と高原君が大喜びして言う。

「それだけじゃない。学生の部から卒業生が出た時には皆で居間に行って、皆にケーキとジュースを御馳走しようと思ってるんだ」

「やった!」と吉川直人と原吉日が喜びの声を上げる。

「先生の家の居間って入った事ない!」と相沢直美が喜びの声を上げる。

「それじゃあ、皆にウチの居間に御案内しましょうかね」

 生徒を教室のアトリエから連れ出し、居間に案内する。

「亜美!」と亜美にアトリエのドアー越しに声をかける。

 亜美がアトリエの戸を開き、「何?」と笑顔で訊く。

「高原君が新人賞に入選したんだよ。高原君は今日で漫画塾を卒業して、大学を卒業するまでは自分一人でコツコツと漫画を描く事にしたんだ。それで今日は居間で皆にケーキとジュースを御馳走して、夕方に焼肉食べ放題の店に連れていって、高原君の入選祝いをしようと思ってるんだ」

「うん。判った。高原君、入選おめでとう!」と亜美が居間のソファーに座る高原君に漫画新人賞への入選を祝福する。高原君が頭を掻いて、照れ笑いしながら、「ありがとうございます」と言う。

「今、ケーキとジュース持っていくね」と亜美が塾生の子ら四人に明るい声で言う。

「正道先生、漫画塾の学生の部には女子があたし一人しかいなんです。女子の生徒を何人か募集して戴けませんか?」と中学一年生の相沢直美が提案する。小学四年生の原吉日が、「やっぱり男子三人に女子三人の方が良いよ」と俺に言う。

「ああ、男子三人、女子三人か。その方が良いかもな」

「それじゃあ、皆さん、好きなケーキとジュースを選んでください」と亜美がケイクとジュースを持ってきて言う。

「俺、このショート・ケーキとコーラが良い!」と原吉日がガツガツとした態度で我先に選ぶ。

「はい、じゃあ、ショート・ケーキとコーラね」と亜美が原吉日の席の前のテーブルの上に皿に載せたケイクとペットボトルのコーラを置き、フォークを手渡しする。

「あたしもショート・ケーキとコーラが良い」と相沢直美が言い、

亜美がその通りに相沢直美の席の前のテーブルの上にケイクとジュースを置き、フォークを手渡す。

「俺はこのアーモンドの乗った硬そうなケーキとミルク・ティーが良い」と小学三年生の吉川直人が言い、亜美がその通りにケイクとジュースを吉川直人の席の前のテーブルの上に置き、フォークを手渡す。

「高原君はどれが良い?」と亜美が高原君に訊くと、「俺はこのモンブランとコーヒーが良いです」と言い、亜美がその通りにケイクとジュースを高原君の席の前のテーブルの上に置き、フォークを手渡す。

「あなたは何にする?」と亜美が俺に訊く。

「俺はタルトの白いチーズ・ケーキにミルク・ティーにしようか」

「はい。じゃあ、これ、あなたね」と亜美が笑顔で言う。

「陽平はどれにする?」と亜美が陽平に訊く。

「僕は白い粉砂糖の載ったシュークリームとコーラが良い」と年長さんの陽平が言う。

「はい、じゃあ、シュークリームとコーラね」と言って、ケイクとコーラを陽平の席の前のテーブルの上に置き、フォークを手渡す。

「愛歌はどれにする?」

「あたしはショート・ケーキとミルク・ティーが良い」と年少さんの愛歌が言い、亜美がその通りにケイクとジュースを愛歌の席の前のテーブルの上に置き、フォークを手渡す。

「あたしはね、この赤いゼリーの乗ったスポンジ・ケーキとコーヒーにしましょうかね」と亜美は言い、自分の選んだケイクを皿に載せて、ケイクとコーヒーを自分の席の前のテーブルの上に置く。「それでは皆さん、戴きまあす!」と胸の前で合掌して、号令をかける。

「戴きまあす!」「戴きまあす!」と皆がそれぞれに合掌して言う。

 我々は生徒の保護者らに塾生の入選祝いに焼肉の食べ放題に連れていく許可を電話で取る。

 社会人の部の塾生も連れて焼肉の食べ放題の店に着くと、総勢十一人でテーブルを寄せて席に着く。


『村野さんとタコミちゃんの結婚式』

 三月四月と肌寒い春を迎え、愈々村野さんとタコミちゃんの結婚式の日がやってくる。私と亜美は子供達を連れて、村野さんとタコミちゃんの控え室に挨拶をしに行く。

「いやあ、愈々村野さんも結婚ですね」

「何とか結婚を実現しました」と村野さんが黒いタキシード姿で照れ臭そうに言う。

「タコミちゃんもおめでとう」

「ああ、ありがとうございます」とタコミちゃんが化粧をしたピンク色のウエディング・ドレス姿で恥ずかしそうに言う。

「タコミちゃん、綺麗よ。本当に結婚おめでとう」と亜美がタコミちゃんを祝福する。

「ありがとう。あたしも漸くウエディング・ドレスが着れたわ」とタコミちゃんが嬉しそうに言う。

「陽平、愛歌、タコミちゃんに結婚おめでとうは?」と亜美が陽平と愛歌にタコミちゃんを祝福するように促す。

「タコミちゃん、結婚おめでとう」と陽平がタコミちゃんを祝福する。

「ありがとう!」とタコミちゃんが笑顔で陽平に言う。

「タコミちゃん、結婚おめでとう。愛歌もそんな綺麗なウエディング・ドレス着てみたい」

 タコミちゃんは愛歌の頬を掌で軽く叩き、「愛歌ちゃんもおめでとうって言ってくれたのねえ。嬉しいわよ」と猫撫で声で愛歌に言う。陽平は直ぐに控え室を駆け出る。

「お兄ちゃん、待って!」と愛歌が陽平の後を追って言う。

 俺と亜美は控え室を出て、会場の席に座る。会場は参加者らの明るい話し声でざわめいている。陽平と愛歌は他の子供達と会場を走り回っている。

「花婿と花嫁の御入場です」と司会者がアナウンスする。会場にスポットライトを浴びた村野さんとタコミちゃんが入場する。結婚式とは何とも華やかな人生の名場面である。これ程人間が美しく見える時はない。

 仲人や友人知人のスピーチやウエディング・ケイクへの入刀だとか、感動的な場面が流れるように展開していく。

 村野夫妻のハネムーンはタコミちゃんのパンクの聖地の一つであるロンドンに行くらしい。


『引越し』

 今年二〇〇六年の誕生日が来たら、三十七歳になる私は相変わらずマイ・ホームが手に入らず、アパートメント住まいである。

「もう一寸広い手頃な借家を借りて、引越ししない?」と亜美が夕食の席で天丼を食べながら提案する。

「今は子供部屋が一つだから、引っ越すなら、子供部屋がニ部屋あるような借家が良いな」

「それともマンション買おうか?」と亜美が話を進める。

「俺もこれから収入が増えると思うんだ。だから、ここで思い切ってマンション買うのも良いな」

「不動産屋さんに行って、大井町から近い手頃なマンションを探しましょ」と亜美がティシューで口許を拭きながら言う。


 翌日の午前中に近くの不動産屋に行き、マンションの物件を案内してもらう。そこで五LDKの新築マンションを二件紹介してもらい、見学に行く。

 家具のないがらんしたマンションの部屋の空間を見て、「二人のアトリエの広さは各々十畳はいるから、この部屋と隣の部屋がアトリエ向きだな。子供部屋は六畳二つとして、俺達の寝室がもう一つだ」と俺が言うと、「もう一軒見てから決めましょ」と亜美が言う。俺は直感的にもう一軒見る必要はないと思いながら、もしかしたらそっちの方が良い物件かもしれないと思い、もう一軒見に行く事にする。

 俺達はもう一軒マンションを観に行く。漫画塾の教室兼アトリエの部屋が八畳しかないので、最初の物件を購入する事に決める。やはり、俺の直感は当たっていた。我々の購入したマンションは今のアパートメントから僅か五分のところにある。

 引越しは明後日の月曜日の朝にし、早速、引越しの作業に入る。今日明日は引越しの関係で漫画塾の授業はお休みにする。

 三月の月曜日の寒い朝、引越し屋が家に来る。荷物の運び出しは速やかに行われ、我々はトラックの助手席に座り、現地で待機する作業員に合流する。引越しは作業員に要領よく荷物の運び込みを指示しなければいけない。作業員が荷物を運び込む段で荷物の置き場を考えるようでは御迷惑になる。亜美はアトリエの設置の際にあれやこれや考え、作業員の作業を梃子摺らせる。子供達は大喜びして走り回り、引越しの作業を楽しんでいる。

 無事引越しが済むと、我々は段ボール箱の中の荷物を家具に納めていく。

 深夜の二時になって、漸く荷物の整理が済む。子供部屋を先に仕上げたので子供達はもう眠っている。我々は近所のコンヴィニエンス・ストアで食材を買い込む。帰宅すると、我々はチョコ・ミントのアイス・クリームを食べる。

「結構、キツかったね」と亜美が言って、にっこりと笑う。

「ああ!疲れた!」

「売れっ子漫画家と違って、豪邸を建てるような収入の見込みはないもんね」と亜美が疲れた体を捩じりながら言う。「ここに漫画塾の生徒が通うのね」

「うん。俺も今、それを考えてた」

「新築のマンションだから、塾が新しくなったのを皆喜んでくれるかもね」と亜美が疲れた首を回しながら言う。

「一緒にお風呂入ろうか?」

「ああ、良いわね」と亜美が笑顔で言う。

 亜美と久々に風呂に入り、亜美と俺はお互いの体をボディーソープを付けたヘチマタオルで洗い合う。俺は地面に腰かけながら、亜美の胸を背後から鷲掴みする。俺は椅子に座った亜美を自分の股の上に載せ、亜美の左脚を手で持ち上げて、モノを亜美の穴に挿入する。亜美は俺の両腕を掴んで、体を上下させる。亜美はか細い喘ぎ声を漏らす。俺は亜美の両脚をおっぴろげ、亜美の穴を覗き込む。

「いやあ、恥ずかしい。見ないで」と亜美が穴を見られるのを嫌がる。

「亜美は俺の奥さんだ。夫は自分が見たい時に自由に妻の体を見る権利がある」

「いやあ、エッチ・・・・」と亜美が恥ずかしそうに言う。

「おお、あそこが大分黒ずんできたな」

「あなたがエッチな事を沢山したからよ」と亜美が甘い声で言う。

 俺は亜美を立ち上がらせ、バスタブの淵に掴まらせて、背後から腰を動かす。亜美は色っぽい喘ぎ声を漏らす。

 学生の時期に同じ年のバスケット部の男の巨根を見て以来、自分のモノを小さいと見做してきた。最近、AVで男優のモノを見ていると、自分のモノと同じくらいの大きさのモノを女優が大きいと言っている。俺のモノは意外と大きいのかもしれない。

 セックスのある夫婦生活は円満だ。三〇代になった亜美の顔は年々美的になっていく。俺は亜美の顔が細部に至るまで好きだ。美形の妻をもらって良かった。亜美は声も美声だ。亜美は子供を産んでから以前より胸が大きくなった。亜美は出産後のダイエットを必ずする。亜美の結婚当初の体型維持はさぞかし大変な事だろう。

 風呂から出ると、寝巻きを着て、洗面所で歯を磨き、新居の寝室のベッドに横たわる。

「ああ、我がマイ・ホーム!俺達も漸くマイ・ホームを手に入れたんだな」

「また赤ちゃん、産まれるかもね」と亜美が寝室の電気を消して言う。

「子供は何人いても良いな」と俺は言い、豆電球の灯りだけの部屋で眼を閉じる。ダブルベッドの上の右隣に横たわる亜美が俺の手を握る。亜美は幾つになっても可愛い。俺は最高のセックスのパートナーを神様に与えられた事に非常に満足している。


 翌日、漫画塾の生徒達が無事我が家に辿り着き、我々は授業を再開する。学生の部に混ざって漫画を描く陽平や愛歌は年上の生徒らに非常に可愛がられている。陽平は写真を見て地球を描く。俺は陽平にその絵の着色をするようにと勧める。陽平は水彩絵の具で早速着色をする。愛歌は犬に跨った少女の絵を描いている。最近の子はアニメイションに早くから親しむからか、立体的に絵を描く時期が非常に早い。陽平や愛歌には早く自分の絵を描くようにと、塗り絵を描く時期を作らなかった。亜美が陽平と愛歌を買い物に連れていき、本屋に寄ると、陽平も愛歌も「これが欲しい!」「これ、買って!」と塗り絵の本を欲しがり、亜美は渋々塗り絵の本を買い与える。子供達が塗り絵に夢中になる姿を見て、塗り絵はカラリングの感性を身に付けるのに良いのかもしれないと、我々は漫画塾の学生の部にも社会人の部にも塗り絵を描く授業を導入する。社会人の部の生徒には大人用の芸術的な塗り絵を描かせる。


『片瀬好美のデビュー』

 或四月間際の午後、漫画塾の社会人の部のファンタジー漫画の片瀬好美さんがいつもより早目に漫画塾に来る。

「こんばんは」と片瀬さんが玄関先に立って挨拶する。

「あら、片瀬さん、今日はいつもより早いわね」と亜美が笑顔で迎える。「何か良い事でもあった?」

「あたし、漫画が新人賞に入選しました」と片瀬さんが泣き出して言う。

「へええ、おめでとう!」

「あたしの漫画が入選したのは絶対に亜美先生のお蔭です」と片瀬さんが泣きながら、ハンカチーフで鼻を押さえて言う。

「あたしのお蔭ばかりじゃないわ。私のお蔭もあるけれどね」と亜美が冗談っぽく言う。「片瀬さん、絵の研究頑張ったもんねえ」

「私の努力なんて微々たるものですよ。亜美先生の御指導が正しかったんです」と片瀬さんが亜美の指導を讃える。

「もっとそれ、皆に言わないとダメですよ」と亜美が照れ隠しにふざけて言う。「じゃあ、漫画塾の生徒さんが入選した時の恒例のお祝いで、先ずは私達とケーキを居間で食べましょう」

「ええ!生徒が亜美さんのお宅の居間でケーキ食べたりしても良いんですか?」と片瀬さんが申し訳なさそうに言う。

「良いのよ。生徒さんに入られたくない部屋なんてないの。ケーキを食べたら、夕方に焼肉の食べ放題の店に行って、皆でお祝いするの」と亜美が楽しげに説明する。「費用は家が持つからね」

「ああ、ありがとうございます」

「じゃあ、主人がいるけど、居間のソファーに座ってて」と亜美は言い、ケーキと飲み物を台所に取りにいく。

「正道先生、おはようございます。あたし、漫画が入選しました」と片瀬さんが嬉しそうに言う。

「良かったねえ!じゃあ、好きなところに座ってて。今、亜美がケーキと飲み物を運んでくるから」

「ああ、はい。それでは」と片瀬さんがソファーの俺の左隣に腰を下ろす。

「お待たせえ!」と亜美が居間に入ってきて言い、「片瀬さん、どのケーキがお好き?こっちは飲み物」

「ああ、じゃあ、あたし、このタルトの白いチーズ・ケーキにします」と片瀬さんが言う。

「飲み物は?コーヒーとミルク・ティーとコーラがあるんだけれど」と亜美が楽しそうに決まり事のセリフを言う。

「ああ、じゃあ、あたしはミルク・ティーにします」

 亜美は片瀬さんにチーズ・ケイクを載せた皿とフォークとペットボトルの紅茶を片瀬さんの席の前のテーブルに置く。

「俺はモンブランが良い」

「じゃあ、あたしはこのブランデーの滲みたケーキにしようかな」と亜美が楽しげにケーキを選ぶ。

「俺はコーラ」

「じゃあ、あたしは片瀬さんと同じミルク・ティーにするわ」と亜美が気品のある顔付きで言う。

「それじゃあ、戴きまあす!」と俺が胸の前で合掌して言うと、他の二人も合掌して、「戴きまあす!」と言って、ケーキを食べ始める。

 家の生徒は社会人の部も学生の部の生徒も滅多に漫画塾の授業を休まない。皆、俺達の授業を楽しみにしてくれている。

「もう片瀬さんも漫画塾卒業ね」と亜美がしみじみとした寂しい思いを口にする。

「あたし、時々漫画を描きに遊びに来ます」と片瀬さんが明るい顔で言う。

「自分の家の書斎が一番良いって感じにしないとダメよ」と亜美が片瀬さんに注意する。

「ああ、そうですよね」と片瀬さんがはっとした顔で言う。

 夕方、社会人の部の生徒が全員集まると、我々は早速、焼肉の食べ放題の店に行く。我々は四人用のテーブルと二人用のテーブルを寄せて、早速皆で食べたい物を取りに行く。

 俺は左端のテーブル席に亜美と向かい合わせに座り、「社会人の部の生徒募集のチラシをまたデパートの掲示板に貼りにいかないとな」とカルビーを食べながら、亜美に言う。

「今度は生徒さんを補充しながら塾をやっていくのね」と亜美がキムチを食べながら言う。

「社会人の部も生徒さんを四人常に確保しておいた方が良いんじゃないかな」

「ああ、じゃあ、二人募集するのか。学生の部の生徒さんは四人いるからね」と亜美は言って、よく冷えたビールを口に含む。「たまにビール飲むとストレスの発散になるわね」

「まあ、そうだけど、お酒は向精神薬の効き目を軽減させるらしいんだ。それにお酒って美味しくないだろ?そんなもんでアル中になるのは嫌だよ」

「あたしは結構お酒好きなの」

「煙草にしろ、コーヒーにしろ、止められないだろ?その上、アル中になったら、苦しい事ばかりだよ」

「煙草止めたいの?」と亜美が意外そうに言う。

「止めたいよ。肺癌になりたくないからな」

「ああ、肺癌になるのは嫌よね」と亜美が牛タンを食べながら言う。

「私も禁煙は何度もトライしてますけど、止められませんね」とアクション漫画家志望の佐藤勇気さんが俺の右隣の席から言う。

「佐藤さんも北川さんも入選すれば良いね」

「前回から編集の人の評価が高くなって、今回の新人賞の結果にはかなり期待してるんです」と亜美の左隣の席に座ったホラー漫画家志望の北川愛奈さんが自信の程を口にする。北川さんは漫画家と言うよりモデルさん的で、容姿から内面を窺うと、存在との隔たりを強く感じる。

「片瀬さんがいなくなるのは寂しいな」と佐藤さんが俺の右隣に座った片瀬さんに言う。

「漫画塾いた時に『たまに漫画を描きに遊びに来ます』って亜美先生に言ったら、叱られたんです」と片瀬さんが寂しげな顔で言う。

「たまに映画に一緒に行ってくれませんか?」と佐藤さんが片瀬さんに言う。佐藤さんと片瀬さんの席は我々夫婦を挟んでいるので随分と距離のある会話だ。

「ああ、是非ご一緒させてください」と片瀬さんが笑顔で言う。

 北川さんは二人の会話を聴いて、亜美に向かって肩を竦めると、にやけた顔で赤い舌を出す。

「お似合いよね」と亜美がカルビーを食べながら、北川さんに言う。

「あたし、一寸ジェラシーです」と北川さんがキムチを食べながら、顰め面で亜美に言う。

 亜美はにやりと口許に笑みを浮かべる。


『漫画塾の子供達』

 二〇〇六年の春、吉川直人が小学四年生になり、原吉日が小学五年生になり、相沢直美が中学二年生になる。高原仁哲の空席を埋めるために新たなる生徒を男子一名、女子二名を募集すると、幼稚園の年長さんの木村健吾が新たに漫画塾『漫画天国』に入学し、小学六年生の立見美和と中学二年生の笹原恵が入学する。木村君は全くの初心者として漫画を習い、立見さんは小学校の漫画クラブで描いた魔法使いの少女を主人公にしたストーリー漫画の過去作がある。笹原さんは中学の漫研で描いた絵日記のような私漫画の過去作がある。三人共ウチで一から漫画の描き方を教えても良いだろう。三人には早速、連想法によるあらすじの作り方を教える。

 吉川君はオートバイ好きな高校生のツーリングに憧れを抱いて漫画を描いている。吉川君はウチの本棚の『バリバリ伝説』や『湘南爆走族』辺りを読んで影響を受けたようだ。原君は不良モノの漫画で不良少年の変形学生服をリアルに描き分け、登場人物の多い漫画を描いている。ウチの本棚にある『激極虎一家』に強く影響されたようだ。絵が宮下あきら化せずに学帽政のボロボロの長ランに勝る不良モノが描けるのかどうかは判らない。俺などはそれで不良モノを描く事に挫折したぐらいなのだ。原君は本宮ひろ志やどおくまんや池上遼一の不良モノを読んだり、『ビー・バップ・ハイスクール』辺りも読んでいる。塾生が俺が学生時代に読んだ漫画に興味を示すとは思ってもみない事だった。相沢さん辺りは比較的新しい時代に俺が買った妖怪退治モノの漫画を次々に消化している。陽平や愛歌は親の本棚から自分の読む漫画を選ぶ事はしない。亜美が買い物の度に本屋に寄って、子供達に漫画や本を選ばせ、買い与えている。


『子供達の成長』

「陽平も漸く小学生になって、愛歌ももう年中さんよ」と亜美が朝食の食卓でフレンチ・トーストをナイフとフォークで切りながら言う。

「陽平のギターの腕も上がったな」

「陽平のバンドのメンバーの子達のお母さん方が自分達の息子や娘のバンド・デビューの事を楽しそうに話すのよ。陽平は今度、ヴァン・ヘイレンの『ジャンプ』をコピーするの。陽平はギターでヴォーカルはやらないんだけど、家での練習の時には歌いながらギターを弾いてるの」と亜美が楽しそうに話す。

「へええ!歌うスーパー・ギターリストになるのかな?」

「そうなったら、我が子ながら凄いわよね」と亜美がフレンチ・トーストを食べながら、興奮したように言う。

「愛歌のキーボードはどうなってる?」

「愛歌は何かもうキーボードを習うのを止めたいって言うのよ」と亜美が残念そうに言う。「愛歌はスイミング・スクールも辞めたいんだって。陽平はスウィミング・スクールでも選手育成コースに上がって、将来を期待されてるんだけど、愛歌はもう習い事自体にうんざりしてるみたい」

「ああ、それは無理してやらせちゃいけないな。病気になったら、大変だ」

「ううん。子供達が将来、統合失調症にならなければ良いんだけど」と亜美が暗い眼差しで言う。

「うん・・・・」


『布居望の結婚』

 七月の暮れに布居さんがロックン・ローラーの川岸敬三との結婚式を挙げる。布居さんのウエディング・ドレス姿はとても美しく輝いて見える。布居さんは俺の好みではないけれど、元々顔立ちも美形で、モデルさん並みに背も高い。旦那の川岸敬三は『THE SICKS』と言う有名なロック・バンドのヴォーカリストで、TV番組などではユーモラスなキャラクターで人気を博している。結婚式上には多くの芸能人が来ていて、中には俺の知る有名人も何人かいる。料理はフランス料理のコースで、「美味しいね」と亜美が向かいの席から顔を近付けて、小声で言う。芸術家集団が全員出席し、中堅どころや大御所の漫画家達も出席している。結婚式の終わりには『THE SICKS』がヒット曲のラヴ・ソングや応援歌を演奏し、結婚式は大盛り上がりで終わる。


『氏川家、アメリカに行く』

 子供の夏休み中にアメリカに行く事にした。我々はパスポートの手続きやトラヴェラーズ・チェックを取得する。

 成田空港までバスで行き、空港の売店で機内で食べる御菓子やジュースやコーヒーを買う。機内に乗り込むと、陽平も愛歌も大喜びする。

 我々はエコノミー・クラスの座席に座る。窓際に陽平が座り、その隣に愛歌、亜美が座り、私は通路越しの席に座る。座席に座ると、私は行きの機内でMDに録音した尾崎豊の全アルバムを通しで聴く事を実行する。

 機内食はなかなか美味しい。家族揃ってスケッチブックに絵を描く事をした後、亜美と子供達は機内で上映される映画を観る。家族が映画を観ている間、俺はPCに漫画の構想を記したり、小説を描く。小説の新作はオリジナルの幻想怪奇小説である。今回はゴーチエのような美文で書こうと思っている。小説が仕上がったら、ホラー小説の新人賞に投稿しようと計画している。タイトルは『荒野』で、駱駝に乗った行商人が夜の荒野で野宿する際に見る悪夢を描く。そう言った事をアメリカに到着するまで永遠と続ける事を計画していたら、三時間程行っただけで、直ぐに食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返す。

 我々はジョン・F・ケネディ国際空港に到着し、タクシーで予め予約していたホテルに向かう。

 ホテルに着くと、部屋に荷物を置き、マンハッタンのレストランで昼食を取る。ニンニクに漬けた蒸しムール貝とジャガイモの入ったグラタンとフレンチ・トーストとマンゴーのアイス・クリームと甘いカプチーノを各々注文する。

 昼食を済ませると、亜美と子供達がブティックを巡り歩いて洋服や鞄を買う。私と亜美はコミック・ショップでアメリカのアート・コミックを大量に買い込み、子供達も自分達の欲しい漫画を買う。それが済むと本屋に行き、絵本を買う。我々はスーパー・マーケットで御菓子とジュースと水を買い込み、ホテルの部屋に戻る。

 夜は子供達を連れてジャズのライブを観に行き、そこで夕食を食べる。夕食はヴァニラのアイスクリームを載せたパンケイクにトマトの入ったミートソースのパスタと牛肉のステイクと西洋梨のシャーベットとミルク・ティーを各々注文する。

 我々はホテルの部屋に帰り、亜美と子供達が先に風呂に入る。我々は子供達を先に寝かし、TVでMTVを観る。

「明日は美術館に行こう」

「ニューヨークの新しい絵画の展覧会に行きたいわね」と白いバスローブ姿で頭にタオルを巻いた亜美が言う。

「買い物はもういいな」

「そうね」と亜美が笑顔で言う。「残りもう二日間ね」

「うん。二日間は十分な時間だよ」

「あたし、ニューヨークに住んでみたいな」と亜美がマニキュアを落としながら言う。

「ニューヨークが気に入ったみたいだね」

「明日の朝御飯何にする?」と亜美がTVを観ている俺の方に向いて訊く。

「明日、考えるよ」

「そうね。明日、考えれば良いわね」と亜美が落ち着いた声で言う。


 翌日は亜美と子供達を連れて美術館に行き、現代ニューヨーク画家の合同展示会を観る。国際免許証を持っている私は家族でレンタカーを借り、自由の女神や伝説のコンサートがあったウッドストックを観に行き、カフェでラムのステイクとシフォン・ケイクを食べ、マンハッタンのあちらこちらの街を観光する。夕食はロックのライヴが行われるバーに行って、タコスやフランクフルトやチーズのかかったフレンチ・フライを食べ、ホテルの部屋に帰宅する。帰宅すると亜美と子供達が先に入浴する。その後で俺も入浴をする。熱い湯船に浸かりながら、目を瞑り、明日の予定をあれこれと考える。

 翌々日には朝からダイナーで家族揃って朝食を食べると、亜美と子供達を連れてゲーム・センターに行き、アメリカのゲームを楽しむ。

 明日は愈々アメリカでの観光旅行の最終日だ。我々はアメリカの『マクドナルド』でハンバーガーを昼食に食べる。日本の『マック』のハンバーガーより弱冠大きい。野菜をトッピングするサラダ・バーもある。昼食を食べると、漫画の取材を兼ねて地下鉄やバスに乗り、ニューヨークを満喫する。夕食はレストランで牛肉の燻製やローストビーフや焼き牡蠣を食べ、ホテルの部屋に帰宅する。亜美と子供達が先に風呂に入る。俺はその後に入浴する。熱い湯船に浸かり、目を閉じると、帰国後に描くアメリカ旅行のエッセイ漫画の事を考える。

 翌朝、六時に目覚めると、家族揃って『ケンタッキー・フライド・チキン』で朝食を食べ、ジョン・F・ケネディ国際空港に向かう。空港の売店でビールやコーラや水や袋菓子やバタピーを買い、機内に乗り込むと、我々一家は早速漫画を描き始める。帰りの便では機内で上映される映画を観て、食っちゃ寝食っちゃ寝を繰り返し、成田空港に着く。

 我々はバスで品川駅に向かい、JR京浜東北線の大井町駅で下車すると、焼き鳥屋で夕食を済ませ、帰宅する。日本の我が家に着いた安心感を経験し、風呂に入ると、体を入念に洗う。熱い湯船に浸かり、目を閉じると、二泊三日のアメリカ旅行が子供達の良い思い出となる事に満足し、また機会あれば、アメリカに行きたいと思う。今度、アメリカに行く時はロサンゼルス辺りが良い。

 入浴を終えると、向こうで描いた漫画の原稿を読み返す。今夜は漫画の執筆は行わず、子供達を先に寝かせて、ダイニング・テーブルで亜美とアイス・クリームを食べる。俺はチョコ・ミント・アイスを食べ、亜美は抹茶のアイス・クリームを食べる。


『漫画塾の生徒募集』

 片瀬好美の空席を埋めるための生徒募集のチラシをまた阪急デパートの掲示板に貼る。今回は社会人の部も四人の生徒を常に確保しておこうと、生徒を二名募集する。この日の夕方に高松啓司と言う三十二歳の男性が電話を遣し、漫画塾に入学する。その翌日には岩崎佳苗と言うニ十二歳の社会人女性が電話を遣し、入学する。高松啓司さんは伝記漫画家志望で、岩崎佳苗さんは恋愛漫画家志望である。恋愛漫画家志望の生徒は久我野雅子さんに続く二人目である。高松さんと岩崎さんは共に普通科の高卒である。漫画歴は共に長く、高松さんは高校二年生の時から漫画を描き始め、岩崎さんは小学二年生の頃から漫画を描いている。どちらも画風は安定しており、ストーリー作りに苦戦している。亜美は早速二人に連想法によるあらすじの作り方を教える。


『佐藤勇気のデビュー』

 秋の半ば、午後の三時のおやつに亜美の焼いたマドレーヌを食べていると、アクション漫画家志望の佐藤勇気さんがいつもより早目に漫画塾に来る。佐藤さんは青と白の縦縞の長袖シャツに紺のスラックスを穿いている。

「あら、佐藤さん、今日はいつもより早く来られましたね」と亜美が笑顔で佐藤さんを迎える。

「私、新人賞に入選しました!」と佐藤さんが万遍の笑みを顔に浮かべて報告する。

「ええ!ほんとに!おめでとうございます!」と亜美が祝福し、「おめでとうございます!良かったですね」と俺も祝福する。

「それじゃあ、今日は恒例のケイクとジュースを居間で召し上がってもらって、夕方、焼肉の食べ放題に行って、皆でお祝い致しましょうかね」と亜美が言う。「焼肉の食べ放題の費用は全員分私達が負担します」

「ええ!焼肉代が亜美先生達の奢りなんですか!済みませんね」と佐藤さんが申し訳なさそうに言い、「亜美先生達の居間でケーキやジュースを御馳走になれるなんて考えた事もないです」と佐藤さんが大喜びして言う。

「入選した皆さんに毎回言ってるんですけど、私達は別に生徒さん達に入られたくない部屋なんてないんです」と亜美がお決まりのセリフを言う。

「ええ!そうなんですか!」と佐藤さんが感激して言う。

「それじゃあ、居間のソファーでケーキとジュースをお出しするのでお待ちください」と亜美が佐藤さんを居間に招く。

「何処に座れば良いですか?」と佐藤さんが居間のソファーの前に立って訊く。

「何処でも好きなところにお座りください」と亜美が冷蔵庫からケイクとジュースを出しながら言う。

 俺は居間の奥に腰かける佐藤さんの右隣に座り、「これが掲載誌です」と佐藤さんが差し出す漫画雑誌を受け取り、佐藤さんに関する記事や漫画に目を通す。

「『吼えろ鉄拳』とか『燃えよドラゴン』とか『バトル・クリーク・ブロー』みたいなテイストで空手モノを描かれたんですね」

「そうなんですよ。亜美先生の御指導でアクションモノの映画をかなり観直して、研究したんです。人物も原哲夫的な画風から離れて、オリジナリティーを追究しました」と佐藤さんが自信に満ちた顔で言う。

「完全に映画的な手法の絵ですね」

「はい、佐藤さん、ケーキ、お好きなの選んでください」と亜美がケーキとジュースを持ってきて言う。

「ああ、私はですね、この辺のラズベリー・ケーキを戴きます」と佐藤さんがケーキを選ぶ。

「飲み物は何になさいますか?コーラとコーヒーとミルク・ティーがありますが?」

「ああ、じゃあ、コーラを戴きます」と佐藤さんは言い、亜美からペットボトルのコーラを受け取る。

 亜美はケーキを佐藤さんの席の前のテーブルの上に置き、「あなたはケーキとジュース、何にする?」と俺に訊く。

「ああ、俺はこのアーモンドのケーキとコーラが良いな」

「はい、どうぞ!」と亜美がケーキを俺の席の前のテーブルの上に置き、コーラを手渡す。「それでは私はタルトのチーズ・ケーキとミルク・ティーを戴きますね。どうぞ、佐藤さん、お召し上がりください」

「ああ、はい。戴きまあす!」と佐藤さんが合掌して言い、フォークでラズベリー・ケイクを食べ始める。

「読み終わった佐藤さんの漫画、あたしにも見せて!」と亜美が俺に言う。 

「ああ、うん。はい!」

「モノクロ写真みたいな絵にしたんですね」と亜美が佐藤さんの漫画に見入りながら言う。

「ええ。そうです」と佐藤さんがケイクを食べながら答える。

「これはカッコいい漫画だわ。この画風でずっと描いていくんですか?」と亜美が佐藤さんに質問する。

「当分はこれで行こうと思ってます」と佐藤さんがコーラを飲みながら答える。

「小林源文辺りが好きなんですか?」

「ああ、小林源文さんの漫画は子供の頃から古本屋で買い集めていた『ホビージャパン』でよく読んでました」と佐藤さんがケーキを食べながら答える。「このケーキ、物凄く美味しいです!」

「あら、そう!それは良かったわ」と亜美が口許をティシューで拭きながら言う。

「『ホビージャパン』って、確かプラモデルの雑誌ですよね」

「ええ、ガンプラとか、子供の頃から好きでよく作ってたんで、その関係で読んでたら、凄いリアルな外人風の絵の漫画がある!って感じで小林源文の漫画を読み始めたんです。小林源文さんは日本の漫画界の誇りですよ」と佐藤さんが眼を輝かせて言う。

「アメリカン・コミックの手法ですよね」

「ああ、その辺りは尊敬する原哲夫先生辺りが昔から好きだと仰っていたので、私もアメリカ旅行で随分アメコミを買い込んでたんです」と佐藤さんがケーキを食べ終えて、コーラを片手に言う。

「プラモデルって言うと、汚しとかね」

「汚しが何ですか?」と佐藤さんが白けたように言う。

「いやあ、そう言う専門用語があるなあって思って」

「はあ」と佐藤さんが詰まらなそうに言う。

 性格出るな。意外と個人的に付き合ったら、嫌な奴かもしれない。総合格闘家にしては威圧感がなく、ちゃんと知能で付き合える人ではある。喧嘩になったら、ボコボコにされるんだろうな。

「片瀬好美さんとはどうなってるんですか?」と亜美が佐藤に訊く。

「ああ、ジェット・リーの映画を一回一緒に行って、アニソン歌手のコンサートとかにも行きました」と佐藤さんが笑顔で言う。

「結婚するんですか?」と亜美が更に様子を探る。

「ああ、向こうが良ければ、何れはそうしたいと思ってます」と佐藤さんが照れ臭そうに頭を掻きながら言う。

「じゃあ、その時は結婚式に誘ってくださいね」と亜美が笑顔で言う。

「勿論、御招待させて戴きますよ!」と佐藤さんがキリッとした顔で言う。

 夕方になると、家族四人と佐藤さんとホラー漫画家志望の北川愛奈さんと伝記漫画家志望の高松啓司さんと恋愛漫画家志望の岩崎佳苗さんを加えた八人で焼肉食べ放題の店に行く。

 女性陣を壁側の席に並べ、子供達を私の左隣の二人がけのテーブル席に座らせ、私は通路側に亜美と向かい合って座る。私の右隣に佐藤さんが北川さんと向き合って座り、その右隣に高松さんが岩崎さんと向かい合って座る。

「漫画塾の生徒さんのデビューが続いて嬉しいわ」と亜美が左斜め前の席に座る佐藤さんに言う。「北川さんも頑張ってね」

「ああ、はい。今度の作品が落選したら、自費出版にしようかと考えてるんです」と北川さんが言う。

 我々夫婦は顔を見合わせる。北川さんはショート・カットの髪を茶色に染め、赤いスリムなデニムのパンツを穿いて、白いブラウスを着ている。

「自費出版もデビューの一手段だものね」と亜美が左隣に座る北川さんに言う。

「今回投稿した作品は七十二枚の大作だから、一寸本気で勝負してるんです」と北川さんがカルビーを食べながら言う。高松さんと岩崎さんは二人で漫画の話をして盛り上がっている。その様子を亜美が瞥見し、俺に向かって笑みを見せる。生徒らがカップルになるのは大いに結構な事だ。

「高松さんの伝記漫画の主人公はどんな人物が候補にあるんですか?」と佐藤さんが高松さんに訊く。高松さんは短めの黒い髪に、赤と青のチェックの長袖シャツを着て、ブルー・ジーンズを穿いている。

「私は信仰の人間なんで、千利休とか、西行とか、雪舟のような僧の伝記漫画を描きたいんです」と高松さんが生真面目な顔で答える。「佐藤さんは伝記漫画の候補とか決めてらっしゃるんですか?」

「ううん。ナポレオンとか、アレキサンダー大王とか、ジンギス・カン辺りかな」と佐藤さんがキムチを食べながら答える。

「ああ、やっぱり、アクションの大きい人生を生きた人の伝記を描きたいんですね」と高松さんが生真面目な顔で言う。

「ええ。漫画はやはり、アクションが大きくないと、絵の並びに動きがないですからね」と佐藤さんが高松さんを気遣うように言う。

 亜美が子供達に焼肉を焼いて食べさせながら、佐藤さんの話を聴いている。子供達は小食なので、直ぐに席を立ち、店内を駆け回る。

「陽平!愛歌!走らないの!」と亜美が子供達に注意する。「お店の外に出て遊んでなさい!」


『作品世界に住める小説』

 新年を迎えて一月程経った或朝の食後、冨士山の絵の続きを少し描くと、幻想怪奇小説の推敲を始める。小説や漫画は緊張感なくだらだらっと書き継いでいると、そこから読者が離れていく。場面場面に緊張感を維持しないと、直ぐに読者の気持ちがダレる。小説や映画にはストーリーから距離を置いて、作品世界に心地好く住んでいられるような作品がある。『コック・サッカー・ブルース』や『アメリカン・サイコ』などにそれがあった。読者が作品世界に住めるような書き方が判らなくなった時には映画『ブレードランナー』などを観る。タルコフスキー映画などにもその心地好いルーズさがふんだんに盛り込まれている。それは夢の性質だ。フィクションの小説や漫画や映画には目覚めている時に見る夢のような面があるのだ。

 幻想怪奇小説の推敲が終わると、居間のソファーで仮眠を取る。


 真昼間にミニ・スカートを穿いた二十代の女の子の後を着け、薄いピンク色の団地が建ち並ぶ区域に入る。そこで女の子の姿を見失う。青い日本製の自動車をしゃがんで洗っているミニ・スカートを穿いた三〇代ぐらいの主婦がいる。その主婦の膝頭の間からベージの下着が見える。先の二十代の女の子に比べると、こちらの方は若さが衰えて見える。ミニ・スカートの間から見える下着の色にも若さがない。それでもヤラせてくれるなら、こっちでも良いと、その主婦に近付き、しゃがんだ膝頭の間から見える下着を盗み見ながら、「今、ここに若い女の子が来ませんでしたか?」と主婦に訊く。主婦はにやりと笑い、俺を無視して、自動車の掃除に集中する。俺は主婦の膝頭の間に右脚を挟み込むと、上体を屈めて主婦の合わさった膝頭を開く。恐怖に怯える主婦の目に性欲を募らせ、主婦の股の間に手を入れると、下着の上から主婦の割れ目を指でなぞる。主婦は俺の手を掴み、必死で俺を押し退けようとする。妙に色っぽい主婦だ。何だか悪い事をしたくなる。よく見ると、亜美である。自分の妻だと判ったら、何をしても良いと思う。

 そこで目が覚めると、ソファーに寝そべりながら、夢の中の亜美を想って、オナニーを始める。オナペットとしての亜美の声を思い浮かべながら、嘗てはオナニーの最中に幻聴が聴こえていた事を思い出す。今では霊的構造が肉声の会話に表われる事も稀になってきた。私はモノの先にティシューを被せて射精すると、トイレに精子の入ったティシューを捨てに行く。私はモノを触った手を必ず洗面所でハンドソープを付けて洗う。

 書斎に入ると、連載用の漫画のネームのアイデアを練る。幻聴が聴こえていた頃に見た赤茶けた病的な夢の世界を思い出し、それをモノクロの漫画で表現してみようと試みる。辛かった事、苦しかった事は、過ぎてしまえば、全てが懐かしい思い出になる。自分に芸術創作と言う生き甲斐を感じる行為がある事は非常に恵まれている。統合失調症のほとんどが読書や芸術鑑賞をせず、況してや文学芸術創作などをする統合失調症者は全体の一%にも満たない。そろそろ統合失調症モノの漫画を描くのも良い。


『再び漫画塾の生徒募集』

 アクション漫画家の佐藤さんの空席を埋めるため、再び漫画塾の生徒を一名募集する。

 阪急デパートの掲示板にチラシを貼りに行ったその日の夕方に、近藤正邦と言う十九歳の青年が電話をかけてきて、漫画塾への入学を希望する。

 近藤さんはファンタジー漫画家志望で、漫画は中学生の頃から描いている。体型は細身で、髪型は長めの髪にしっとりとしたムースを付け、特別美形と言う訳でもなく、それでいてアイドル歌手のグループにいてもおかしくはないような整った和風の顔をしている。服装は黄色いダウン・ジャケットの中に白い襟付きシャツを着て、スリムなブラック・ジーンズと三足千円ぐらいの黒い靴下を穿いている。ファンタジー漫画家志望の生徒は片瀬好美さんに続く二人目である。亜美が近藤さんの過去作三作を見せてもらう。近藤さんの漫画は基礎的なデッサン力が低く、ウチで相当指導しないと、なかなか平均的な画力には達しない。ストーリーの方のアイデアも冴えたる才能は余り感じられない。亜美は近藤さんの人真似のデフォルメを一つ一つ指摘し、何で鼻の描き方や口の描き方がこうなるんですかと言うように問い詰めては、本人が無意識的に人真似をしている部分にオリジナリティーを求める。ストーリーに関しては早々に連想法によるあらすじの作り方を教える。


『三木谷さんと久我野さんの結婚』

 三月の半ばに三木谷さんと久我野さんから結婚式の招待状が届く。俺は早速三木谷さんに電話する。

『もしもし、三木谷ですが?』と三木谷さんが電話に出る。

「ああ、氏川です。結婚式の招待状が届きました」

『氏川夫妻は絶対出席してくださいよ!』と三木谷さんが御機嫌な口調で言う。

「勿論、出席させて戴きますよ」

『俺も漫画の連載の話が入ってくるようになって、纏まった収入の宛てが出来たから、そろそろ結婚しても良い時期だなと思ったんです』と三木谷さんが落ち着いた声で言う。

「三木谷さんは未だに幻聴テレパシー説なんですか?」

『違いますよ。自分の心の何かだと思うようになりました』と三木谷さんが気弱な口調で言う。

「幻聴は神道の説く一霊四魂説の四魂の自作自演なんですよ」

『一霊四魂説の四魂。どんな本読んだんですか?』と三木谷さんが興味津々に尋ねる。

「弟の影響で神道系の新興宗教に入信して、教祖のF先生の本を何度も繰り返し読んだんです。御興味がお有りなら、本を送りますよ」

『ああ、じゃあ、送ってください』と三木谷さんが申し訳なさそうに言う。

「判りました。それではまた!」

『ああ、はい。それでは!』と三木谷さんは言って、電話を切る。


 三木谷さんと久我野さんの結婚式には三木谷さんと久我野さんの親戚や友人や芸術家集団や漫画塾『漫画天国』の面々や漫画家仲間や編集の人達が訪れる。料理は珍しいエスニック料理尽くしで、とても美味しい。三木谷さんは幻聴がありながら、余り緊張した感じがない。三木谷さんの幻聴には御約束事が多く、自分に関心のある場においては一切幻聴がないらしい。

 また我々の仲間から幸せなカップルが結婚した。新婚旅行はロサンゼルスに行くらしい。

なかなか面白い群像劇になりました。

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