第92話 輔弼近衛は一息つく(第二師団長視点) ~師団長は氷を割る~
第二師団長どのの頭の中で、俺の「あの一拍」がちゃっかり書式と条文の心配事に育っているらしいと知って、妙に背筋が伸びた。
――会議は短くてよい。勝ったあとは、なおさらだ。余熱は言葉に流れ、言葉は形となり、形は記録になる。記録は場を引きずり、人もまた引きずられる。ゆえに、場を支える骨は、冷たく沈黙のなかに埋めておくのが礼だ。
石の匂い。焚き火の名残が空気に沈む。窓辺の氷が音もなく裂け、細く消えた。砦長は粗い背を椅子に預け、顎を撫でる。私は姿勢を崩さず、紙の端を指で揃える。殿下は膝に掌を置いて静かに座す。勝者の座り方には余計な音がない。若い近衛――アレンが一瞬だけこちらを見る。見られたという事実だけが残る。
「負傷者の搬出を先行。戦死者の芳名確定。手当は名簿整い次第。報償は王都で一括裁可にてよろしいか、殿下」
砦長の声は落雪を踏む靴裏に似て重い。私は間を置かず、骨だけを受け渡す。
「捕虜百四十七、浅手多数。武器回収済み。口は一日分のみ支給、明朝谷へ下す。追撃は行わず。後背は斥候二班で押さえる。敵の逆襲の恐れは小と見ます、殿下」
簡潔こそ軍の骨である。だが骨の隙間に、満たしきれない声が今夜は鳴る。
殿下は横目で静かに笑う。それは勝者の矜持か、別の何かか。私は呼吸を浅く整え、語を切り替える。
「退進の件、王都では驚きが上がっております。『剣を誉とされる殿下みずから退きを命じた』と」
殿下は顎で近衛を指す。
「こいつに剣を突きつけられて脅されたからな。『詔に曰く――時に刃を抜きてその暴を止むべし』とな」
息が詰まり、記録官としての直感が氷の芯に触れる。砦長は目を剝き、書記の筆が止まる。私は動かない。近衛は青ざめ、殿下は肩をすくめて笑う。
「アレンに聞けばいい」
会議の芯がわずかに揺れる。私の内側は冷えを増す。軍人の職分、記録官の冷静、その隙間に疑念が忍ぶ。秩序を鋳型で守る責務は、理の外で動くものを恐れる。
砦長が新しい用紙を渡す。私は捺印欄を指で示し、戦後処理に「退進の手順」を追記させる。王族の語は主文から外し、命令の型だけ本文に残す。手順と書式を先に固定する。それだけで場は乱れない。
「物語は要しません。記録は手順と書式に従って整えます」
砦長の鼻が鳴る。近衛は頷くが、目が揺れる。
殿下は静かに言う。
「押す剣と、留める剣。俺は押すほうに傾いていた。あの夜、こいつに留める剣の位置を見せられた。退進は恥じゃない。明日のために納めることだ」
若者の所作に理があろうとも、軍政は運用の線で処する。刃を伴う進言は手続の対象だ。懸念は行為より語の伝播にある。
「輔弼近衛。あなたの職掌は理解する。ただ軍政の立場では、『剣を突きつけた』という表現が記録に残るのは重い。兵は手順に従い、文言が走れば場が引きずられる」
近衛は顔を引き締め、短く頭を下げた。言い訳はしない
「俺が決めた。こいつは止めどころを示しただけだ」
沈黙。それは承認ではない。秩序と理のはざまで思考が軋む。軍人としての義務、場の安定、権威の防壁――その底で、守るべきものの輪郭が揺らぐ。
会議は形通りに進み、笑いが戻る。砦長の土臭い実務、殿下の印、近衛の言葉の位置合わせ。私は終わりにもう一度だけ近衛を見る。温度は上がっている。だが承認ではない。式が形式として整っただけだ――それ以上の前進も、後退もない。
――終わるのは、会議だけだ。
◇
灯が落ちる前に副官へ目配せし、幕舎へ戻る。外は勝者の匂い、遠い湯気。足音が石に吸われる。机。地図。封蝋。黒革の包。手袋を外し、指の芯が解けぬうちに筆を取る。
公式急報は骨だけでよい。余白は王都で埋めさせる。
――【親展】
――発第二師団師団長ハンネス・オルドリン
――宛軍務卿殿(至急)
――件霧丘方面/急報
――発信日時王暦945年3月5日夜半
――発信番号迅-速報-第1号
一、敵勢、撃退
二、王子殿下、無事
三、第二師団、楔砦駐留継続
以上
墨を置く音。その重さは骨の重さだ。だが胸の底に別の重みが沈む。それは骨が枠へ変わる予感。
次に秘密書簡。羅紗の薄封。筆先を硬く替える。宛名は小さく、封は二重。外封「親展」、内封には〈迅〉の印――評議範囲限定。
――【極秘/親展】
――発第二師団師団長ハンネス・オルドリン
――宛軍務卿閣下
――発信番号迅-秘報-第3号
――発信日時王暦945年3月5日夜半
――参照霧丘方面急報(迅-急-第7号)、戦闘詳報(迅-詳-第12号)
――件霧丘楔砦「正面退進」背景・内報(輔弼近衛の越権疑義)
一、輔弼近衛アレン、退進進言時に刃を示し留める所作あり。脅迫同視の疑義を残す。
二、殿下の寛容により即時処断なし。ただし軍律上は王命脅迫に準ずる可能性あり。“大逆”相当として評議対象となり得る懸念。
三、軍律評議における司法的検分を要請。
四、王都にて取扱方針の内議を請う。
五、記録区分の厳格化を要望。証言は管理下で聴取し、外部流布を抑制すること。
以上
取扱い(配布範囲/再配布禁止)
封蝋は二重。冷たさが指を貫く。冷えは骨から枠へ、枠から布へ移る。
伝令兵を呼ぶ。雪が外套の裾から落ちる。二通を示し、指示する。
「大封(公式)は軍務院に通せ。門で止まってよい。報告は、『敵撃退、王子無事、第二師団駐留継続』――その三つだけだ」
「はっ」
「薄封(親展)は軍務卿個人に。会えねば封を守って戻れ。」
「承知」
「道中の問いには答えるな。『急報を届けに参った』のみでいい」
「はっ」
二重封を預ける。足音は雪に吸われ、夜は静かに深くなる。机に拳を置き、思考の位置を確かめる。沈黙は承認ではない。秩序のための保留だ。保留は処理を呼び、処理は制度を呼ぶ。制度は、骨を枠に、鋳型を布に、名を意味へ変える。
法は記録で固め、理は言葉で整える。二重の封の先で国家は動く。軍人として理を守ろうと足掻く私が、皮肉にも“理の記録化”を最初に起こすかもしれない。その始点は冷たく、静かに布となって朝へ渡される。
外の笑い声。戦勝の汁は理屈より先に身体を満たす。仕事は椀より先に走るものを走らせる。文の前に人を、人の前に意図を。
伝令の足音が遠ざかる。幕舎に静寂が戻る。氷は端から解けるが、芯は残す。外套を取り、灯を落とす。夜は短くていい。長くなれば、刻は逃げる。軍人の記憶は、冷たいまま枠に沈む。
明朝は二短二長で下げる。兵は号令と段取りに従う。
〈――あの若い近衛の所作は、記録の手順に直しておく。残すのは手順と書式だけでいい。名や評価は後で決める〉
雪は音を吸う。だがやるべき処理は消えない。私は冷えを芯に、必要な手続きを順に進める。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次は幕間の王朝秘史です。
ちょっと古書体で書いているので読み飛ばしてくださっても大丈夫です。
全話を読み終わってから改めて読んでみると意味がわかりやすいかも知れません。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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