第91話 輔弼近衛は一息つく(王子視点) ~留めと流しのあいだ~
殿下が「押す剣と留める剣」なんて立派に整理してくれるたび、こっちはますますあの一振りの言い訳がしづらくなっていく。
焚き火の匂いは薄れ、石壁は熱を忘れかけている。窓辺の氷はほどけ、光の筋に沿って細い水が落ちた。俺は椅子を半歩だけ引き、脚は組まない。両掌を膝に置く。勝った日の座り方は、騒がしくないほうがいい――今日はそれを選ぶ。
砦長は背凭れに身を預け、顎を撫でてざりと音を立てる。第二師団長は崩れない。冬の刃のような目だが、呼吸は静かだ。アレンは書記の脇で紙束を整え、要る言葉だけを拾い上げていく。勝てば会議は短くてよい。芯だけ残せば足りる。
「負傷者の搬出を先行、戦死者の芳名確定。名簿が整い次第、手当を運用。報償は王都の御裁可を仰ぐ段取りで――よろしいか、殿下」
砦長の声は雪を締める靴裏に似ている。俺は頷く。師団長が簡潔に続けた。捕虜は百四十七。浅手が多く、武器は剥いだ。明朝、谷へ下す。こちらから追う素振りは出さない。後背は斥候二班で塞いだ――語は簡潔だが、痩せてはいない。軍の言葉は、薄くても嘘を含んではならない。
俺は横目でアレンを見る。顔はまだ青い。だが、あの夜よりはいい。刃を納めるというのは剣だけの作法ではないのだろう。人の顔にも、納める手順がある。
「それと、退進の件」師団長が姿勢を正した。「王都では驚きが強い。『剣を誉とされる殿下みずから退きを号した』――こう受け止められております」
俺は顎でアレンを示す。「こいつに剣を突きつけられて脅されたからな。詔に曰く――時に刃を抜きてその暴を止むべし、とな」
砦長の目が丸くなり、書記の筆が一度止まる。師団長の視線がわずかに沈む。冗談だ、と肩で示しつつ、胸の底で別の音がした。――剣の在り方。押す剣だけを持っているつもりだった。勝つための剣、誉れを刻む剣、前へ前へと押す剣。
だが、あの夜、アレンに「留める」場所を示された。秤を置く場所だ。退くことは折れることだと勘違いしていた。違う。留めは折れではない。次の拍を合わせるための、間の置き方だ。
――最初の仕合を思い出す。
演武場の砂は乾き、踏み跡は浅かった。アレンは跪拝から立ち、刃を水平に持ち上げた。礼は軽く、視線は沈む。若い。だが目が揺れない。俺は最短で勝つ型を選び、押していった。押せば倒れる。王都の訓はそう教える。ところが、倒れなかった。
初めてだった。剣を押しながら、自分の剣がどこにあるかを考え直すことになったのは。あいつは勝つために流したのだ。受けず、退かず、拍だけを外へ逃がして、俺の先走りを空へ滑らせた。場を壊さないほうへ、剣先をわずかにずらす眼差しだった。
俺はその眼差しを好まない、とあのときは思った。剣は切るためにある、と。だが今日なら言える。――嫌いだったのは、流す剣も知らず、留める場所も知らない自分自身だ。
退進を号した夜、雪は深く、火は小さかった。矢は底を見せ、兵は膝裏で身体を支え、痺れる足の裏で「ここから先が敵」を探っていた。砦長は現実の泥を積み上げ、師団長は道筋を描く。俺の剣は、それでも押そうとした。押せば誉れは残る。王族の剣は退けば濡れる。
そこでアレンが秤を示した――あの夜の正面退進だ。言葉は少なく、詔の句を静かに引き、剣先は喉元へと距離だけを詰めた。振り下ろすためではなく、暴走を止めるために。旗に触れて――振らない。触れただけで場に張りが生まれる。あのとき俺は、押す剣で拍を乱していたことにやっと気づいた。
退進は恥ではない。明日のために剣を納めることだ。納められない剣は鈍る。鈍ると隊の手順が乱れ、名が傷つき、脚が止まる。だから俺は退きを号した。指揮は砦長に預ける。角笛は二短二長。梯子帯は反転。声は抑え、旗で覆い、踏みしろを残す。まず身体を動かし、文はその後に置く。
谷を下る途中、風が変わった。稜線の向こうで角笛が鳴り、拍が揃う音がした。――退く理由が消えた。援軍で前提が変わった。拍が合うなら合わせ直す。俺は馬を返し、指揮は砦長に任せたまま、浮いた勢いを横に逃がして速度を整え、乱れずに援軍と合流した。
あの反転は、俺にとって二度の学びだった。ひとつは留め――退進。もうひとつは流し――援軍の風に過剰に乗らず、勢いを横へ逃がして拍だけ合わせる。押す剣だけの俺なら、勝ち風に煽られて崩れていたはずだ。秤がそばにあると、人は呼吸を取り戻す。呼吸が戻れば、剣は余計な距離を詰めなくなる。
会議室に戻る。現実の泥をまた積む時間だ。砦長の「今日の合図を書いておけ」は早い。師団長の問いは硬い。「退進の号令に王族の名を出すのか」
俺は首を振る。「名は出さない。『指揮は砦長に預ける』だけ記せ」
名を先頭に掲げれば、現場の脚は“名待ち”で鈍る。兵を動かす合図は旗・声・角笛だ。まずそれを前に立てる。王族の名は、要所にだけ置けばよい。
アレンがうなずき、紙を引き寄せる。筆が動く。師団長は沈黙する。あの沈黙は承認ではない。留保だ。――記録に残さぬなら、別の選び方が残る。王都は物語で動く民も抱えている。
わかっている。だから結果を残す。『退進――あの夜、秤が留めを示して下した正面退進――は留めだ』という短い基準を先頭に置き、角笛の型を記し、梯子帯の反転、旗の被せ、声の抑えを書く。身体が先に動くように、文を短く。文は場を引きずる。ならば、場が望む方向へ引きずらせる。
「剣の在り方を学んだのは、俺の遅さのせいだ」
口にしてみると、思ったより軽かった。負い目を他人に押しつけず言葉を置くのは、剣を鞘に納めるのに似ている。鞘は剣を弱らせるためにあるのではない。温度を戻し、次の出番に備えるためにある。
アレンは秤を置く。俺は剣を置く。砦長は泥を置く。師団長は道筋を置く。置き場所が決まれば、場は呼吸で持つ。
食堂に移ると、湯気が目に沁みた。勝者の匂いは塩気が濃い。椀を受け取り、匙を沈める。理屈より早く身に染みる――砦長の言い草は乱暴に見えて、真理だ。
アレンが遅れて入ってくる。紙束を抱え、まだ青い。俺は振り返らずに言う。
「お前、さっきの顔。まだ青いな」
彼は素直に認めた。「……はい。青いです」
「いい。青いままの剣も、王には要る」
言いながら、内心で少し笑う。青さは未熟であると同時に、流すべき時と留めるべき場所の変わり目を嗅ぎ取る感覚でもある。鈍りきった剣は赤くも青くもならない。ただ灰色に冷えるだけだ。王の傍には、熱すぎず冷えすぎず、色の変わり目を見てくれる者がいるほうがいい。
アレンという存在の意義は何か。匙を口に運びながら考える。
――あいつは、俺の剣を弱らせるためにいるのではない。俺の剣が場を壊さないように、置き場所を示すためにいる。
押す剣だけでは、矜持はすぐ自己満足に膨らむ。留めるだけでは、護りは鈍って機を失う。流すは衝突を避け、留めるは逸走を止める。秤は、その真ん中に立って拍を合わせ直す。
あいつは、誉めを要らない位置を選ぶ。王族の名義は引っ込め、現場は砦長の号で動かし、先に角笛の型を置く。拍を整えるのは砦長と角笛手の仕事だ。秤の務めは、王族の決裁の位置を定め、名義の出し入れを誤らせないこと――場が壊れぬ線を引くことだ。
椀の底が見えた。湯気の向こうで笑いが低く重なる。俺は外套の襟のほつれを指で整える。癖だ。余計な動きは見せないと決めているが、指先だけは勝手に動く。
明日、王都へ報せが届く。退進は恥ではないという短い文も添えられるだろう。反発は出る。物語を違えると、必ず軋む。だが軋みは必要だ。どこが擦れているかを知り、油を差すために。
俺は椀を置き、立ち上がる。青い剣を横目に、扉の向こうの冷たい空気を吸い込む。押す剣も要る。流す剣も要る。留める剣も要る。どれも持てる王になればいい。秤は、そのために側に置く。
夜風は雪を運ばなかった。空は軽い。拍は揃う。歩きながら、静かに決める。――退くべきときは退く。戻るべきときは戻る。名を前に出さず、場を先に立てる。
それが今日、アレンから受け取った剣の在り方だ。明日も変わらない。剣は抜くためだけにあるのではない。流し、留め、そして納めるためにもある。納める剣を知る王は、きっと、押す剣より遠くへ届く。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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