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第90話 輔弼近衛は一息つく ~ばらされちゃった~

勝った直後の会議で、殿下がうっかりあの「剣を突きつけた件」をばらしてくれたおかげで、俺の胃だけまだ戦場に置き去りのままだ。

会議室は石の壁に焚き火の匂いがうすく残っている。窓際の氷は溶けはじめ、差し込む光に細い水筋がのびていた。机は地図で埋まっているが、今日の空気はやわい。勝ち戦の会議は、紙より口が先に動く。


砦長は背凭れに体を預け、顎を撫でる。粗い髭が指にざりと噛んだ。第二師団長――冬の刃みたいにまっすぐな目をした男――は姿勢を崩さない。王子は椅子を半歩引き、脚を組まずに両掌を膝に置く。騒がしくない勝者の座り方だ。


「後処理につきましては、まず負傷者の搬出を先行いたします。続いて戦死者のご芳名を確定いたします。名簿が整い次第、諸手当の運用に移します。報償は王都にて一括の御裁可を仰ぐ段取りにて進めてよろしいでしょうか、殿下」

砦長の声は低い。雪を押し固める靴裏の音に似ている。



「捕虜、百四十七名であります。浅手が大半。武器は全部剥ぎ取ってあります。口は一日分だけ渡し、明朝には谷に落とします。こちらから追う素振りは出しません。後背は斥候二班で塞いでおります。背は突かれません。殿下。」

師団長が簡潔に続ける。言葉の端に無駄がない。削り過ぎないのが、この人の美学だ。


「城壁の被害は小。梯子帯の補修と門扉の軋み止め。油は二樽残りました。矢は底。木工に回させます」


俺は控えていた書記に合図する。紙がめくられ、短いメモが積み上がる。場は落ち着いている。勝てば、言葉は少なくても進む。

(……こんな時こそ、余計な一言が後々問題になるんですよね)


王子が横目で笑った。聞こえていたのかと一瞬焦る。けれど殿下の笑いは、あの夜の研ぎ澄ましとは別物だ。角が取れている。刃を納めたぶん、殿下の表情も温度が下がった。


師団長は姿勢を正し、言葉を改めた。

「それと、今回の退進の件につきまして――王都では驚きをもって受け止められております。『剣を誉とされる殿下みずから退きを号した』、と」


殿下は振り返り、俺を顎で示す。


「こいつに剣を突きつけられて脅されたからな。『詔に曰く――時に刃を抜きてその暴を止むべし』とな」


(……ちょっ、やめてください殿下)


瞬間、書記の筆が一度止まった。師団長は表情を変えないまま、視線だけがわずかに沈む。砦長は目を丸くして、俺と殿下の顔を順に見た。


「……殿下、今のは冗談であらせられますか」


平らな声。だが、芯がある。


殿下は肩をすくめ、口角だけ上げる。


「アレンに聞いてみたらいい」

(……ここで俺に振らないでくださいよ)


師団長は紙の角を指で揃え、俺の手元の紙に一度だけ目を落として戻した。言葉は出ない。呼吸がひとつ浅くなる。


砦長が身を乗り出し、止まっていた筆先の前へ新しい用紙を差し入れた。

師団長は短く息を整え、捺印欄を指で示す。

その場で戦後処理に「退進の手順」が追記され、王族に関する記述は抜き去られた。


「……創設詔。ならば記録は、"越権の既遂"ではなく、"秤の執務"として残せる、と」

(……気が付かないことにしていただければありがたいと思うんですけど)


「とはいえ、あれで気が冷えた。王の剣の在り方を考える契機にはなった」


「在り方、でございますか」


師団長の眉がわずかに動き、砦長は腕組みを解いて手を広げた。


「殿下、差し支えなければ――どう考えを」


王子は地図の丘陵をひとなぞりした。雪の日の拍が、ふっとよぎる。


「押す剣と、留める剣だ。俺の剣は押すほうに傾いていた。あの夜、こいつに留める剣の場所を見せられた。退進は恥ではない。剣を明日のために納めることだと、ようやく身体で分かった」

(……殿下、この話もう止めません?)


師団長は黙し、今度は俺を見る。罪科の皿を正確に量る目だ。


「輔弼近衛。あなたの職掌は理解する。だが軍政の立場から言えば、王の御身に刃を向けた記録は、事実でも誤認でも、書き残れば重い。兵は文を見て動く。文が先に走れば、場が引きずられる」

(……そうです。だからここは流しましょう)


俺は頷いた。


「承知しております。だから、あの夜のことは文にしません。必要なら、ここだけの言葉で責を負います」


砦長が鼻を鳴らした。納得とも心配ともつかない音だ。


「責は俺のものだ」殿下が割って入る。「剣の在り方を学んだのは、俺の遅さのせいだ。こいつは秤の位置を示しただけだ」


師団長は言葉を遮らない。だが、表情の硬さは残る。


「殿下。――王都は、物語で動く民も抱えております」


その言い方に、俺は一瞬、息が止まった。師団長の視線はわずかに俺へ寄っている。彼は知っている。「秤の執務」という名目であれ、この事件は記録に残せない、ということを。だが、同時に彼は、それでもなお報告する必要があると感じているのだろう。表情の氷が解けないのは、その葛藤そのものだ。


「知っている。だからこそ記録ではなく結果だけを残す」殿下は地図から指を離し、俺を見る。「アレン、退進の手順を今日の議事に加えてくれ。『王族の退進は恥ではない。兵の生命と名を守るための留めである』とな」


(……そうきましたか)


俺はうなずき、紙束を引き寄せる。筆を取る手が少し軽くなった。だが同時に、師団長の視線がまだ俺に向けられていることに気づいている。彼は黙した。だが、この沈黙は承認ではなく、戦術的な選択肢の留保なのだ。文に記さないなら別の選び方が残っているということだろう。


文は場を引きずる。ならば、場が納得できる文を先に据える。基準の一文をここに記す。


(――まず『退進は留め』を先頭に)


砦長が顎で合図する。


「今日の退進の合図――角笛の型を書いておけ。二短二長は退き。二短一長は踏みしろを残せ。梯子帯の反転、旗の被せ、声の抑え。身体が先に動くように短く」


「はい。図も付けます」


「殿下の御名はどう扱う」師団長が問う。「退進の号令に王族の名を出すのか」


殿下は少し考え、首を振った。


「名は出さない。『指揮は砦長に預ける』とだけ記せ。名が前に出れば兵の脚が止まる。現場は砦長の号だけで動かす」


(……殿下、いい顔になりましたよね)


会議はまた粛々と進む。戦利品の登録、敵将の遺体の扱い、使者の派遣。砦長が現実の泥を集め、師団長が道筋をつけ、殿下が要所に印を打つ。俺はその印に、必要な言葉だけ添える。


――場は呼吸でできている。呼吸は位置で整う。剣の位置、声の位置、旗の位置。言葉の位置も同じだ。俺の仕事は、位置を過たないこと。刃は法の内、秤は理の内。それを忘れない。


師団長がふたたび俺に目を向けた。最初より温度がわずかに上がっている。熱ではなく、理解の温度だ。だが、その理解は何なのか、俺にはまだ明確ではない。


殿下が目を細める。頷きは小さいが、芯がある。


「よし。では今日の留めはここまでだ。後は食堂で温かいものを入れよう。勝ったあとの汁は、理屈より早く身に染みる」


砦長も喉の奥で笑った。


「勝ったあとの汁は、理屈より早く効く」


師団長も口元だけ和らいだ。完全ではない。けれど、氷はたしかに端から解けていく。


立ち上がると、椅子が石床にかすれた。俺は紙束を抱え直し、最後に机の角を軽く叩いて位置を確かめる。言葉の位置。これで、場が明日に続く。


(……あの夜に置いた"位置"は、今日で文に置き換えてしまおう。剣は鞘で温度を取り戻す。秤は机の上で水平を取り戻す。記録には"留め"だけを残す。俺は――俺で、在ればいい。だが、あの師団長の沈黙は何だろう)


背後で踵が石を一度だけ打ち、すぐ消えた。音は小さいのに、列の拍だけは乱れない。


扉の向こうは、勝者の匂いがする台所だ。湯気の向こうで、兵の笑いが低く重なっている。俺たちはひとつずつ、武具ではないものを置きはじめる。角笛ではなく匙。旗ではなく椀。剣ではなく言葉。


殿下が先に歩き、振り返らずに言った。


「お前、さっきの顔。まだ青いな」

(……誰のせいだと思っているんですか)


「……はい。青いです」


「いい。青いままの剣も、王には要る」

(――その言葉、宣言にして欲しいんですけど)

俺は頷いた。あの沈黙が、まだ場に息づいている。

秤の皿に、余白がある。


会議室の灯が落ち、石の壁が夕方の色に変わる。俺は紙束の上に掌を置き、鞘に触れるのと同じ力加減で押さえた。ここに置く。今日の留めを、明日の進みに変えるために。


湯気の向こうで、殿下の笑い声がした。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

殿下が“押す剣”だけじゃ駄目だと気づいて、流す・留める・納めるの話を、わりと真面目に抱え直します。俺の役は「殿下を弱らせる」じゃなく「場を壊さぬ位置を示す」だそうで。(誉めてるんですかね、それ)

そして最後に「青いままの剣も王には要る」――いや、その青さの原因、だいたい殿下ですからね。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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