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第85話 輔弼近衛は決行する(王子視点) ~黎明の帰還~

全力で逃がしたはずの殿下が、何事もなかった顔で馬を返してきたとき、「ああ、この人やっぱり王族なんだな」と妙な納得をしてしまった。

雪が止んでいた。

砦の空気が凍り、音のない世界が広がる。

息すら白く立たせてはならない。

静けさそのものが、命を守る壁になっていた。


門楼の上に立つアレンが見えた。

暗闇の輪郭の中、その腕がわずかに動く。

旗に触れて――振らない。

触れただけで場に張りが生まれる。

俺は外套の裾を押さえ、拳を握った。


旗が動かないまま、鎖だけが動く。

重い金属が軋み、扉が雪を巻いて割れていく。

その口から兵が一斉に飛び出した。

叫びが上がり、足音が雪を踏み潰す。

赤い旗が焔のように舞い、敵の目を奪う。

彼らはあえて声を張り、名を呼び、旗を掲げる。自らを晒し、俺を隠す。

音と光のすべてを、自分たちの方に集める。


「殿下、今です」

ユリウスの合図。

俺は馬の腹を蹴り、側道の闇へ滑り込んだ。

ミカが先頭を走り、ガーヴィンが殿を守る。

砦の喧騒が背後で爆ぜ続ける。

矢の裂ける音、鉄のぶつかり、掛け声と怒号。

すべてが一つの塊になって雪の静寂を押し返していた。


(あれが、俺を隠す音か)


蹄が雪を噛むたび、胸の奥が痛む。

その音が大きくなるほど、距離が離れていく。

振り返りたい衝動を、指先で押し殺す。


砦から遠のくにつれて、喧騒が波のように変わった。

最初は同じ調子の金属音。

やがて節が乱れ、怒声が交錯し、指揮の拍がずれる。――均衡が崩れる音だ。

均衡が崩れていく音だ。


「戦場の音が変わりました」

ミカが小さくつぶやく。

俺は頷かず、耳を澄ます。

確かに、音が重なり始めている。

一つの律動ではなく、いくつもの声が混ざり合う。

押し返されながらも、なお戦っている音だ。


そのときだった。

遠い白の向こうに、もうひとつの笛が重なる。

三短一長――突撃の合図。砦のものではない。腹の厚い響きが、背後から広がる。合図そのものが敵陣をざわめかせた。

遠い白で、盾の縁が一本の線になる。――押し返す側の形だ。


「援軍です。間違いありません」

ミカが顔を上げ、ユリウスが一度振り返り、ガーヴィンがうなずく。

俺たち四騎は雪の中で止まった。

息が白く交わり、背後の喧騒がうねりを変える。


一本の線に拍が揃う。

剣戟の拍が、押される側の律から押し返す側の律に返る。

風が鳴り、戦場の空気が反転した。


「……終わったわけではない」

俺は小さく呟いた。

胸の奥に、冷たいものが灯る。

「戻る」


その一言で、ミカの顔が強張る。

「戻る? まさか砦へ――殿下、それはおやめください。ここで離脱すれば目的は果たされたはずです」

「援軍が来た。まだ間に合う」

「殿下、彼らの犠牲を無駄にしてはなりません。戻れば、作られた時間が消えます」

「分かっている」

俺は雪原の遠くを見据えた。

「彼らはまだ戦っている。あの音が止んでいない。

俺が聞いた笛を、無視して逃げることはできない」


ミカは唇を噛み、言葉を失う。

肩に積もる雪が、ゆっくりと落ちていく。

やがて、低く言った。

「……殿下を守る。それが務めです。

だがこの決断の責、そのすべてをお受けいただきます」

「もちろんだ」


ユリウスとガーヴィンが視線を交わし、短くうなずく。

俺は馬の首筋を叩いた。

再び雪を蹴る音。

同じ道を、逆に駆ける。

もう“逃げる”脚音ではない。

雪の中に、まだ燃える赤い旗が見える。

あれが彼らの存在証明だ。


「戻るぞ」

俺の声が静かに響いた。

その声に、誰も逆らわなかった。


四騎の影が雪を割り、角笛と叫びの戦場へ帰る。夜明け前の空に、旗の赤だけが微かに揺れた。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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