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第83話 輔弼近衛は決行する ~黎明、出撃前~

任務が「殿下を消す」と「砦を消す」の二本立てになった瞬間、どう考えても俺の能力をオーバーしていると思った。

誰も声をあげなかった。


中庭の雪は踏み固められ、白の上に黒い靴跡が幾重にも重なる。焚き火は落とし、灯は隠す。息だけが薄く白む。殿下は外套の襟を指で一度つまみ、砦長は顎で十人長たちを呼んだ。兵は押し黙ったまま、目の奥の温度だけを上げていく。


「十人長、前へ」


四列の先頭の兵が一歩前に進む。雪の擦れる音すら出さない。砦長は短く区切って作戦の骨を渡す。


「一の列、旗手は中央。左右二名、盾で庇え。東門からの初撃で右へ膨らむ」

「二の列、梯子で列を引け。退き路は要らん、横転は“遮り”に使え」

「三の列、礫袋れきぶくろの投擲。段取りは昨日の手順だ」

「四の列、遅れて出ろ。殿下の位置を“遮る壁”になれ」


砦長は最後に殿下へ向き直る。殿下は頷くだけで、言葉は飲み込む。兵の誰もが見ているのは、殿下の拳の位置と、その動きのなさだ。動かない拳は、場の中心になる。


(……よし、落ち着いている)


十人長へ細い指示を落とす前に、砦長がこちらへ歩み寄ってきた。距離は短いが、雪が音を食うぶんだけ遠く感じる。


「アレン、貴様は砦に残れ」

「なぜです、私も皆と一緒に」

「慌てるな。貴様には見届ける責があろう。別に任務を与える。城壁に登って旗で合図を送れ。そして、我らが出陣したら砦に油を撒いて火をつけよ。どうせ二度とは戻らぬ砦だ。せめて敵が使えないようにしておかねば援軍が困ろう」

「……生き残ったら、どうするんですか」


砦長は喉の奥で笑い、短く言った。

「輔弼近衛殿は冗談も上手いらしい。今際の際で笑わせてもらったぞ」

そう言って俺の肩を二度叩き、殿下のもとへ向かった。

(……冗談じゃなかったんだけどなぁ)


殿下が近づいてきて、門楼の影の下から見上げる。外套の雪を払わず、そのまま。


「アレン」

「はい」

「俺は生きて帰る」

「必ず」


四音で足りた。殿下は手袋の縫い目を親指で一度だけなぞる。約束をそこへ縫い直すみたいに。それから踵を返す。護衛三人が自然に位置をつく。誰も「守る」と言わない。言葉ではなく行動で示す。


(……任務は二つ。殿下を“消す”、砦を“消す”。順番を間違えるなよ)


「呼吸を合わせる」


ここで初めて俺は梯子段を上がり、門楼の縁に出た。雪の粒が頬に軽く当たって、すぐ溶ける。足下、列の間にできる細い空隙が、風の筋みたいに見える。ここからなら、全部を一息で見渡せる。


見張り台の縁から、低く通る声で落とす。届く最小限で、しかし全員に届くように。


「敵はまだ静かです」


砦長は頷いて、兵たちに細かい指示を与えている。


「撤退の合図は角笛二短二長―使う機会はないと思うが」

「矢の残りは二十。初撃は十だけ使え。残りは後の“押し返し”に回す」

「笛が無い間は無音で動け」

「合図は旗と手だけ」

「殿下は北東の側道へ」

「護衛はガーヴィン、ユリウス、ミカ。目で合わせろ。声は禁止」


「「「了解」」」


下から重ならない三つの応答。厩の陰で控える四騎の吐息が揃っているのを目で確かめる。


(……頼むよ。殿下は任せる)


中庭の端で、十人長のひとりが旗布をわずかに持ち上げる。色の褪せた紅。薄闇で沈む。目立つのは、振られたときだけだ。


兵の顔を、上から一人ずつ拾う。憔悴はある。悲壮はない。順番が体に入っている顔だ。順番が入った体は、焦らない。


「剣帯、締め直せ」

「爪革、凍ってないか」

「手の感覚が落ちてる奴は片方ずつ叩け。両方叩くな」


伝令に短く渡す。伝令は雪を踏まず、目で継ぐ。短い具体は、短いまま場に定着する。


「時刻」


砦長の呟きに、空の灰を一段弱いと読む。

「もうすぐです」

俺は短く答えた。


列の間に細い道が開き、殿下と護衛の四騎が中庭の影に溶けていく。砦長が角笛に触れて――離した。

(……逸るな。時を違えては成功せん)


門楼から見る外は、雪の匂いが濃い。敵陣はまだ完全には起きていない。焚き火の黒輪、薄い煙。こちらの声に、向こうの影が動き出す。

すかさず俺は砦長に合図を送る。

(……ここからは隠さない。鳴らす、見せる、刻む)


俺は手旗で開門の印を切る。砦長の一音と同時に鎖が動き、門が割れる。

兵が一斉に砦外に飛び出していく。それと同時に砦長の角笛の三短一長の音が響き渡った。


兵が声を張り、旗を立てて吶喊する。


礫袋が角度を取って弧を描く。雪の上でも、手順通りなら届く。袋は地の雪を巻き込み、敵の足下で潰れて滑りを作る。矢の残りは二十、初撃は十だけ使う。軌道だけ見せ、すぐ伏せる。矢は音で撃たない。空気の張りで撃つ。


(……矢の音で起きる頭ってある。起きた頭は旗を見る。見てるあいだに殿下は消える)


北東の側道は、門楼から斜めにのぞくと細い黒い線だ。そこに“何も見えない”ことを、俺は確認する。見えない=成功。


「左右、壁になれ」


砦長の一声。

言葉より先に、二つの列が雪を蹴って左右へ割れた。盾を重ねろ。縁を揃えろ――縁が揃えば壁になる。壁の裏に四つの影が滑り込み、殿下の馬が一度だけ首を下げる。ガーヴィンが絞り、ユリウスは後ろを見ず、ミカは前しか見ない。


(……行け。道はそっちだ)


俺は合図旗を肩の高さで一度振り、陽動側の手順を重ねる。派手でいい。派手であるほどいい。


「旗手、左足前。左右、盾を被せろ」

「梯子、倒せ。縁で固定し、突入路を塞げ」

「礫袋、角度替え。脚じゃなく視線を削げ。盾列は上体だけで受けるな」


敵の鬨が遅れて立つ。こちらの短い声に、向こうは長い声で返す。長い声は弱る。ここは短い声の時間だ。


東の白に黒点が増える。小隊が二つ、三つ。遅い。雪は公平だが、こっちは昨夜から踏んである。踏んだ雪は味方する。


「一歩、右」


旗で示すと、一の列の前半が半歩だけ右へ滑る。敵の斜突が外れ、外れた先に三の列の袋が落ちる。転ぶ音は雪に吸われる。


(……殿下、息は合ってる。ここからは“見せる”側の仕事だ)


敵の矢が初めて鳴る。裂ける空気。こちらの矢は温存。砦長が前へ出る。腰はいつもより低い。雪では膝で止める。声はもう兵に向かず、敵に向く。


「来い」


短い声は敵の合図にはならない。だが、味方にはなる。砦長が一歩出れば前列は半歩出る。半歩出れば敵の足が一歩止まる。止まった足は次の袋に間に合わない。


(……ここから“削り”じゃない。“持たせる”。)


雪は濃くなり、音が吸われ、距離感が狂う。狂ったら、目の前の盾列を見る。縁に合わせる。揃えた縁は崩れない。


時間が薄く伸び、刃の金が増える。倒れる音は小さい。名を呼ばない。呼べば崩れる。呼ばないから持つ。


――やがて、列の間の白に、空いた穴が目で数えられるようになった。

(……半分、持っていかれた)


それでも列は割れない。旗は落ちない。砦長は前にいる。腰はまだ低い。


そのときだった。敵陣の後ろで、黒い輪の焚き火が一斉に揺れ、影がざわめく。雪の上に、角笛の音が走った。甲高くはない。腹で鳴る、あの調子。


――三短一長。


敵のものではない。間が違う。返しが違う。雪の吸い方が違う。


(……味方だ)


俺が見張り台で頷くより早く、砦長の声が刃の根で割れた。


「――援軍が来たぞ。挟む!全列、前へ!右半列、北へ回れ!左、斜に踏み込み、旗を殺すな!」


旗が雪原のただ中で視線を奪い、側道は黒のまま残る。


短い命令が雪を蹴り割る。一の列が旗を立てて“正面”を押し、二の列は梯子を横転させて敵の突入路を塞ぐ。三の列の袋が敵の踵に噛み、四の列が壁のまま斜めに刺さる。遠い白で、別の角笛が重なり、敵の背が裂ける。


砦長は一度だけこちらを見上げ、顎を上げた。問いはない。答えは一つだ。俺は旗で“了解”を切り、声を落とす。


「押せ。止まるな。盾で割れ。縁で押せ。足で踏め。旗は目で刺せ」


砦長が雪を噛んで前へ出る。前列が半歩、さらに半歩。刃が届く前に盾の縁で割り、割れた間に味方の長い影が後方から差し込む。敵の鬨が裏返る。長い声が短く切れて、雪が散る。


(……笛はいらない。合図はもう十分に鳴っている)


俺は側道の黒を最後に一度だけ確かめた。何もいない。よし、それでいい。殿下は“消えた”。残るのはここで“見せる”仕事だけだ。


「十人長、損害の報告は要らん。後でいい。今は前へ」


砦長の声は風に溶け、足音だけが増える。雪はまだ落ちている。だが、もう“静か”ではない。踏み鳴らす音が、ここが最期の場所であることを、十分に説明している。


(……針は揺らさない。揺れていいのは、雪と、敵の背中だけだ)


砦長の背が、旗の赤と同じ高さで揺れた。次の瞬間、雪原の真ん中で、挟撃が形になった。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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