第82話 輔弼近衛は決断する(王子視点) ~東門前夜~
殿下に正面から「卑怯者の汚名は俺が着る」と言われてしまい、こっちは「いやそれ、できれば山分けにしません?」と言えなかった。
夜は長く、雪は静かだ。焚き火の赤だけが壁に滲み、地図の墨線を鋭く照らす。
私は余白を指でなぞり、次の駒の置き場を探した。余白は逃げではない。手を置く場所であり、考えを冷やす間である。静けさは弱さではない。弱いのは、その静けさのあとに零れる言葉のほうだ。
(……六日目の激しさは、雪に覆われただけだ。消えてはいない)
盃の粥は薄い。薄さは慰めに似ている。慰めは腹を満たさず、怒りは腹を焼く。
私は怒りを芯に固め、その芯を沈黙で包んだ。沈黙は忠実だ。叫べば楽になるが、楽は鈍る。
鈍る順を崩せば、決断が遅れる。王の務めは、崩れる順を先に選ぶことだ。
(……名を守るのではない。続きを守る)
廊下の気配が止まり、扉が静かに開く。秤の小僧――アレンが入った。
私は机上の駒を整え、顔を上げる。整ったものだけが、崩れたときの道標になる。
崩れぬものなどない。ならば崩れる秩序をこちらで決めておく。秩序こそ生存のもう一つの名だ。
「殿下。明朝の黎明、東門より兵の陽動に合わせて脱出します。護衛三名、馬で北東の側道を静かに。私はここに残ります」
胸に熱が上がる。熱は刃となる。私はその刃を一度だけ抜いた。
「貴様は卑怯者の汚名を俺一人に着させるつもりか」
アレンは微動だにせずに言う。
「それは王族の誉です」
「ならば秤の誉はどうなる」
「死兵となる兵を最後まで看取ることこそ、秤の誉だと存じます」
言葉は重く、沈黙を運ぶ。拳を机に置き、掌で熱を押し下げた。
誉れは飾りではない。針を戻すための錘だ。
前に立つことと導くことは同じではない。導く者は方向を、前に立つ者は理由を示す。
今は、理が前に立つ。私は向きを整えるだけでいい。
(……行くのは勝つためではない。続けるためだ)
「……ならば私は、生きて帰る」
アレンは深く頭を下げた。
「無事ご帰還ください。殿下がご無事なれば、この七日は国の理になります」
「……秤は揺らすな」
「はい」
扉が閉まり、雪の音が戻った。
私は窓の格子へ掌を触れ、冷えが骨に届く前に手を離す。寒さは敵ではない。油断が敵だ。油断は齟齬になる。封蝋の位置、革紐の向き、紙の重なり……小さな行き違いが秩序を殺す。
私は信じる順を定める。信じる順は退く順と同じだ。
(……順を誤れば、理は折れる)
地図を畳み、鞍袋の中身を頭で並べる。布、薬、小箱、針金。最短は最善ではない。短さは死角を作る。
遠回りの印を頭に刻むほど、焦燥は砂となって沈む。音のない砂は、影を薄くする。
(……焦りは砂に、怒りは芯に)
鏡の前で襟を正す。黒は冷える。冷えれば判断が速い。だが、冷えすぎれば折れる。
戻せるものを増やし、戻せぬものは最初から置かぬ。支度とは、戻る余地の確保だ。余地は弱さではなく筋肉だ。
(……置くのは理、持つのは軽さ)
医務所の灯が一つ落ちた報せが来る。何も言わない。
言葉が薬にならぬときもある。沈黙は包帯として働く。包帯は傷を隠すためでなく、動きを秩序に戻す帯だ。
(……痛みは遅れて来い)
厩の方から鼻息。扉は開けない。信じるとは、見ないで預ける時間を持つことだ。
見れば安心は得られる。しかし安心は余裕を呼び、余裕は針を揺らす。
針は揺れてよいが、揺れる時は選べ。私が選ぶのは明け前の一度だ。
(……今は揺らさない)
床几に腰を戻し、片膝を立てて息を浅くする。胸が一定になれば、心拍は静まる。
外の音が立ち上がる。旗の擦れ、蹄の位置、靴の音。
安心ではなく感覚が要る。私は目を閉じずに呼吸を整えた。
(……緩めすぎるな。聞け。必要なのは耳だ)
盃の湯気が薄い。向こうへ連れて行く気配に似ている。
私は一口だけ飲み、盃を返す。
満たすのではなく、続けるための一口。満ちる夜は止まり、減る夜は進む。
進む夜こそ、朝を呼ぶ。
(……帰る。帰れば、この七日は理になる)
黒い外套の留め具を確かめ、扉脇へ掛けておく。
身に着けるのは明け前だ。
今は動かず、手順だけを温める。順番が温まれば、足は迷わない。
(……座して保て。立つのは明けだ)
遠くで笑い声。アレンの声が混じる。笑いは命令では作れない。余地で生まれる。
余地は贅沢ではなく、工夫だ。
私は笑いの方向を視線で確かめる。背を伸ばさない。背が伸びれば影が伸びる。
影は朝まで隠せ。隠すのは卑怯ではない、戦術だ。
(……影を見せるな。理を見せろ)
当直の報告が二つ。角笛の役、合図の順、側道の雪。
全て噛み合っている。
命令が伝わるのは、声ではなく手順が整っているときだけ。
大きな声は跳ね返り、小さな声は届く。
(……大きいのは明けの一音だけでいい)
机に小箱を寄せ、封蝋の印を押す。印は軽い。軽さほど重みを呼ぶ。
その重みを次に渡せばいい。渡せば理は続く。
これは苦行ではない。王としての筋肉の鍛え方だ。
(……名ではなく、連続を)
雪は弱まり、闇の端にわずかな光が触れる。
まだ夜だ。けれど呼吸が揃う。
人の息がそろえば、角笛よりも強い合図になる。
私は目を閉じ、耳を澄まし、微かに頷いた。
(……足りないまま出ろ。足りないから、続く)
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【皆様へのお願い】
面白い/続きが気になると思っていただけたら、
『ブックマーク』、『☆☆☆☆☆』、『感想』、『誤字報告』をいただけると大変励みになります。
(ついでにとても喜びます)
皆さまの声援だけが心の支えです。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★




