第81話 輔弼近衛は決断する(砦長視点) ~秤の夜~
あの夜、「逃げて生きろ」と教えた母上の台詞を引き合いに出してまで、なぜ自分から残る側に手を挙げたのか、今でもちょっと首をかしげている。
七日目の夜、雪は音を吸い、焚き火の赤だけが石壁に薄く貼りつく。灯心は細い。廊下の継ぎ目から冷えが這い上がり、地図の縁は氷のように堅い。扉の雪音に顔を上げる。近衛の小僧――アレンが入った。まずは算術、秤を据える前の義だ。
「矢は五十。石袋二十。粥は三日分。援軍までは四日です」
「つまり、予定より一日足りん」
(……兵は四十。矢五十、石袋二十、粥は三、援軍は四日先)
雪が焚き火の音を薄め、卓上の地図だけが明るい島となる。数字は揃った。残るは秤をどちらへ倒すか。私は灯心を上げ、地図を手前へ寄せる。互いに伏せていた結論を、いま声で確定させるために。
「……実行すべき時が来たか」
「ええ」
北東の稜線へ指を滑らせ、側壁沿いの古道と藪の窪みを確かめる。蹄は布と藁で静め、金具はすべて外す。東門は旗と鬨で派手に、側道は静かに抜く。合図は角笛、三短一長。紙の端を二度叩き、骨子を石のように固めた。
「護衛は三名。ガーヴィン、ユリウス、ミカだ。厩の五騎を当てる。蹄は包み、金具は外せ。残りは東門から撃って出る。旗と鬨で敵の目と耳を釘付けにする。合図は角笛、三短一長」
「アレン、お前は殿下の後ろに付け。なにがなんでも王都まで届けろ」
焚き火がぱちと弾け、影が壁を細長く滑る。小僧は一度だけ深く息を落とし、こちらの秤を押し返すように口を開いた。言葉は軽くない。軽くない言葉ほど夜を動かす。私は拳を卓へ置き、目で続きを促す。
「……馬は四騎で大丈夫です。私は残ります」
「何を言う。殿下の護衛を外す気か」
「兵に“死ね”と命じるのは私です。その責任がございます」
「母に教わりました。『逃げて生きよ。ただし、その背に護るべきものがある時には止まって戦え』と。いま、私の背には“理”があります」
アレンの言葉に、私の秤がはっきり傾く。これは情ではなく判断だ。若い声が“理”を持って前に立てるなら、私の権は後ろへ据え直せばよい。命令権は握ったまま、視線の中心だけを移す。怖さは残るが、誇りが勝つ。私は采配の位置を決めた。
(……その教えは正しい。前はお前に任せる。俺は支点になる)
「……好きにしろ。ただし殿下が見えなくなるまでは死ぬな。針を止めるのは、そのあとだ」
「承知しました」
「角笛は俺が鳴らす。三短一長だ。東門は派手に、殿下は静かにだ、理屈屋」
「はい」
アレンが礼をして出る。扉は静かに閉まり、墨の匂いだけが濃く残った。(……五騎のつもりを四に改める。護衛三、殿下一。策は変えない)割印を押して紙を仕舞う。決めたと書けば、迷いは罪になる。迷えるのは、決める前だけだ。
厩へ向かう。扉を指二本ぶんだけ開け、蹄巻の締め、手綱の布巻き、金具外し、鞍紐の遊びを目でなぞる。白い息、静かな耳。褒めたいのは、装具を整えた兵だ。だが今は声を掛けない。良さは頷きで足りる。言葉は余分を生み、余分は緩みを呼ぶ。
壁へ出る。警戒は行き届いているが、笑い声はほとんどなく、皆の表情は固い。私は笑いを作らない。作るのは、笑える余地だ。交代の間隔を守り、寒さと空腹を先に潰し、不要な合図を減らす。小さな余地があれば、人は自分で息を継ぐ。盾の縁には凍った泥が白く噛み、鞍の革は霜で硬い。手袋越しの指が、傷の数を数える。
見張り台で若い兵が旗布を握る手を強ばらせていた。そこへアレンが追いつき、肩を軽く叩く。短い軽口が落ち、白い息が小さく弾けた。私はその一度を数え、揺れ幅を測る。十回あれば夜は持つ。足りぬと見れば、私が余地を足すだけだ。
今は殿下の房へは向かわない。殿下の意志は定まっている。私が足すべきは励ましではなく、道順と手当てだ。側道の藪、風の癖、交代の刻、合図の順――整えるべきは外にある。声は後でも出せるが、道は今しか敷けない。だから扉を開けない。
東門の上に立つ。角笛はいまは棚に置く。鳴らすのは明け前の一度だけだ。今夜は「息と列と時刻」を点検する。見張りの交代、蹄巻の締め、風と雪の向き、灯の明るさ、合図役の位置。すべてが噛み合ったのを確かめ、明けに吹けばいい。
背後の靴音。アレンが黙って並ぶ。しばし闇の底を見たのち、私は短く問う。怖いと答えが返る。なら良い。怖くない者ほど針を折る。怖い者は針を探す。私は二つの禁句を与える。死ぬな、と一度。もう一度、死ぬな、と重ねて渡す。
「殿下が見えなくなるまでは死ぬな」
「はい」
「殿下が見えなくなったら、死ぬな」
(……面には出さず、胸の奥で少しだけ笑う)
当直室の角を曲がる。壁の武具掛けに古い槍が一本、むき出しで吊られていた。柄の木目は乾き、掌の艶は失せている。若い頃、私はあれで最初の突入を受けた。槍は軽かった。今は重い。重さには、他人の分まで含まれている。
命令の可否は我らが何人生き残るかでは測れない。尺度はただ一つ、殿下が王都へ帰り着くかどうかだ。殿下が戻れば、この命令は正しい。戻れなければ誤りだ。正しさは個々の生死に貼る仮面ではない。理を次の朝へ渡せたか――それだけだ。
(……誉れは名声ではなく、理を次へ繋ぐ“連続”そのものだ)
倉庫の錠を確かめ、鍵束を腰へ戻す。巡回の列は乱れていない。担架が廊下を抜けるたび、鉄と脂の匂いが細く残り、石に吸い込まれていく。医務所の灯が一つ静かに落ち、倉庫の灯は芯だけを細く残した。俺は城門の陰に立ち、手袋越しに木の庇へ触れる。冷たさが手首まで上がり、角笛の重さをもう一度だけ量った。
剣の鍔に触れて、すぐ手を離す。金属の冷たさが指に薄く残る。背を門に預け、瞼を落とす。眠りではない。夜のままを保つための短い静止だ。呼吸は砦じゅうで揃い、焚き火は小さく、雪は絶え間なく落ちる。針は、いまは揺れない。
「針は揺らさない。揺れるのは雪だけでいい」
声は石に吸われ、闇に沈んだ。誰も眠らず、誰も走らない。笑いは時折、小さく弾けて薄闇へ消える。私は深く息を吐く。
今夜はここまで。朝は、朝にしか来ない。明けの一音を胸で反復しながら、秤を真ん中で静かに支え続けた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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