第80話 輔弼近衛は決断する ~東門の策~
どうやら今回は本当に秤として針を倒さなきゃいけないらしく、できることなら目盛りごと持って逃げたい。
……家訓だしね。
七日目――夜明けから細かな雪が降り続き、六日目の激しさを白が封じ込めた砦は息をひそめた。
残る兵は四十、矢は五十、石袋は二十。粥は三日で尽きる。
冷たい数字だけが焚き火の赤に浮かび、援軍まで四日の針と噛み合わぬまま、胸の奥で微かに軋んだ。
(……思ったより、消耗が激しいな)
厨房は静かで、鍋の粥をかき混ぜる音が壁で冷えて戻るたびに細る。湯気の薄さがそのまま兵糧の残りを映すように見えた。
俺は柄杓を置き、肩を落として砦長室へ向かった。廊下の冷気が裾から忍び込み、指先の感覚を一枚薄く剥いでいく。
砦長が雪を払って入ってきた。脚絆の白を一度強く踏み落とし、卓上の地図に灯を寄せ、短く顎で促す。
「矢は五十。石袋二十。粥は三日分。援軍までは四日です」
「つまり、予定より一日足りん」
焚き火のはぜる音だけが間をつないだ。やがて砦長は視線を上げ、過日の議論で互いに伏せておいた結論を、あえて口に乗せる。
「……実行すべき時が来たか」
「ええ」
(……思えば短い人生だったな)
砦長は地図を引き寄せ、側壁沿いの古道を指でなぞって北東に抜ける細い稜線で止め、灯心を少し上げて骨子を置いた。
「護衛は三名。ガーヴィン、ユリウス、ミカだ。王子とお前の分を含めて厩に残っている五騎を当てる。蹄は布と藁で包み、金具は外せ。残りは全員、東門から派手に撃って出る。旗と鬨で敵の目を釘付けにする。合図は角笛、三短一長」
砦長は最後に地図の端を叩き、当然の口調で結んだ。
「アレン、お前は殿下の後ろに付け。なにがなんでも王都まで届けろ」
焚き火がぱち、と弾け、影が壁を一度だけ長く伸びた。
俺は息を継ぎ、秤に自分の重みを載せ直す。
「……馬は四騎で大丈夫です。私は残ります」
「何を言う。殿下の護衛を外す気か」
「兵に“死ね”と命じるのは私です。その責任がございます」
砦長の拳が卓を鳴らし、墨が紙にはねて黒い針の群れを散らした。
「舐めるな、若造。兵に死ねと命じる権は儂にある。王都の小僧が出る幕じゃない。貴様は生きて報せを繋げ」
「命令と理は敵ではありません。理を掲げた声が正面に立たねば兵は理を信じません」
「この期に及んで理など何の意味もない」
俺は大きく息を継いだ。
「私が王都に出る時、母より家の教えを受けました。『逃げて生きよ。ただし、その背に護るべきものがある時には止まって戦え』と。今、私の背には護るべき“理”がございます」
(……カッコつけてるよなぁ。でも、ここで退いたら理が折れる)
雪の音が長い沈黙を埋め、やがて砦長は肩をわずかに落とし、視線を火へ移して短く吐いた。
「……好きにしろ。ただし殿下が見えなくなるまでは死ぬな。針を止めるのは、そのあとだ」
「承知しました」
「角笛は俺が鳴らす。三短一長だ。東門は派手に、殿下は静かにだ、理屈屋」
「はい」
俺は一礼して砦長室を出た。廊下の石が冷え、灯は細く揺れている。
厩舎は藁の匂いと白い息で満ち、低い栗毛、骨の太い黒鹿毛、気性の素直な芦毛、それに予備の一騎が並んでいた。
飼葉桶に雪を落として蹄の泥を洗い、布と藁を重ねて十字に締め、鐙の金具を外して手綱は布巻きに替える。
鼻革を柔らかなものに替え、耳覆いと尾の霜避けを確かめた。
(……理の講釈、馬の耳には意外と入りがいい。人間より素直で助かる)
準備を終え、俺は殿下の房へ向かった。扉の前で一度息を止め、音を立てずに入る。
灯の下で地図を広げていた殿下が顔を上げる。
「殿下。八日目の黎明、東門より兵の陽動に合わせて脱出します。護衛三名、馬で北東の側道を静かに。私はここに残ります」
殿下の瞳に怒気が走った。言葉は刃になって飛んでくる。
「貴様は卑怯者の汚名を俺一人に着させるつもりか」
「それは王族の誉です」
「ならば秤の誉はどうなる」
「死兵となる兵を最後まで看取ることこそ秤の誉だと存じます」
殿下は一拍置いて視線を落とし、拳を机の縁へ軽く置いた。
「……ならば私は生きて帰る」
「無事ご帰還ください。殿下がご無事ならば、この七日は国の誉になります」
「……秤は揺らすな」
「はい」
俺は一礼して殿下の部屋を出た。廊下の冷気が胸の底まで降りてくる。
「泣いても笑っても今夜が最後の夜か」
(……全然笑えないんだけどね)
配給場の片隅で薄い湯気の盃を受け取る。舌に塩気が頼りなく広がった。
(……湯気が立つだけで御馳走だ。あとは湯気の向こうに明日の道が見えればいい)
見張り台へ向かう途中、若い兵が旗布を握る手を強ばらせていた。俺は肩を軽く叩く。
「手、凍ってないか」
「だいぶ」
「じゃあ、凍ってない方で旗を持て。凍った方は心配するな、痛みは遅れてくる」
兵は不意に笑い、白い息が弾けた。
(……よし、ひとつ笑いが立った。十立てば、夜は少し軽くなる)
壁上に上がると、東の稜線はまだ墨色で、風の手触りがわずかに変わっていた。
角石の継ぎ目には凍てが白く張り、綱の繊維がきしむたび、小さな音が夜の底へ沈んでいく。
医務所の灯がひとつ消え、倉庫の灯は芯だけを細く残した。
城外の暗がりで、一度だけ嘶きが途切れた。雪が音を飲み込み、跡だけが耳に貼りつく。厩では馬が短く鼻を鳴らし、すぐに静まる。
砦じゅうの呼吸が少しずつ揃い、冷えた石が人の体温でわずかに和らいだ。
(……息は合っている。動くのは雪と息だけにしておけ)
俺は剣の鍔に触れて、すぐに手を離した。金属の冷たさが指の腹に残る。鞘の縁に乾いた黒ずみが固まり、指の節でそっと落ちた。色は言葉より先に、今夜の重さを示す。
背を門に預け、瞼を落とす。
「針は揺らさない。揺れるのは雪だけでいい」
砦は夜を保った。誰も眠らず、誰も走らない。焚き火は小さく、雪は絶え間なく落ちる。
(……今夜はここまでだ。明けのことは、明けてからでいい)
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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