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第79話 輔弼近衛は考える(王子視点) ~秤の矛盾~

そろそろ誰かが何かを決めなきゃいけない空気の中で、「できればそれ、俺以外の誰かがやってくれませんか」と心の中だけでつぶやくだけしかできない。

雪は絶えることなく降り続き、砦の外も内も白に沈んでいた。風は声を失い、焚き火の煙がゆらめいては消え、空気の中で輪郭を失っていく。音と光のすべてが凍りついたような静寂の中、ただ倉庫の奥からだけ、一定のリズムで小さな音が響いていた。縄を撚る音、布を裂く音、結び目を締める音――その規則正しさが、むしろ不気味なほど落ち着いていた。


音の主は、アレン・アルフォードだった。焦げ跡の残る机の上に古びた帆布を広げ、指先で丁寧に結び目を整えている。何をしているのかと尋ねると、彼は手を止めず、低い声で答えた。「武器を作っています。“投石紐”という道具です。辺境では、魔物を追うときに使います」。その声に気負いはなく、命を賭ける者の響きでもなかった。まるで何かの理を再現しているだけのような、研ぎ澄まされた静けさがあった。


布に拳ほどの石を包み、軽く振って放つ。風を裂く音がして、石が壁に当たり、乾いた音を立てる。力よりも計算が先にある動きだった。重さ、角度、距離、反発――全てを測って投げた一撃。それは戦いというより、何かを確かめる行為に見えた。兵たちは息を呑み、誰も声を出さない。その沈黙が、命令よりも強く場を支配していた。


数日前、彼は俺に言った。「私は死にます。けれど、死ぬ時を選べるようにはしておきます」。その言葉を、俺は忠誠の証として受け取った。誉れある死を恐れぬこと、それが王に仕える者の本懐だと信じていた。だが今の彼は、死へ向かってはいない。むしろ、生を繋ぐために動いている。死を受け入れた人間が、なぜ生に手を伸ばすのか。その矛盾が理解できず、俺はその背を見つめ続けた。


夜明け前、倉庫の灯りに兵たちが集まり始めた。誰も命じてはいない。だが、屋根の瓦を剥がす者、炉の隅石を運ぶ者、陶器を砕いている者、それぞれが音もなく動いている。寒気が頬を刺す中で、金槌の音だけが生きていた。声なき作業が広がり、恐怖が徐々に理へと変わっていく。その中心で、アレンは淡々と紐を撚りながら重さを確かめていた。


俺の知る戦は、剣と命令で動くものだった。怒号が秩序を作り、剣が統制を示す。それが戦場の常識であり、王子として叩き込まれた現実だった。だが今、目の前で動いているこの砦には、まるで別の秩序が流れていた。声を荒げる者はおらず、恐怖を煽る叫びもない。理だけが空気を支配していた。アレンは秤のように、揺れながらも均衡を保ち、人の心を量っていた。


昼を過ぎ、角笛が鳴った。雪を踏みしめ、敵の影が再び近づく。砦長が城壁で叫ぶ。「矢を節約しろ! 梯子を掛けたやつには岩を落とせ!」その声を背に、アレンが短く命じた。「投げろ。避ければ十分です。頭を下げた分、攻めは鈍ります」。灰色の空を石が弧を描いて飛ぶ。盾が上がり、敵が止まる。ほんの数秒の出来事だったが、砦の空気が確かに変わった。呼吸が整い、誰もが一瞬、静けさの中に立っていた。理が恐怖を超え、沈黙が力へと変わった瞬間だった。


その夜、焚き火の赤が雪を照らし、影がゆらめく。アレンは壊れた荷車と折れた弓を見つめ、低く呟いた。「……これで投石機が作れるかもしれません」。誰も笑わなかった。無理だと思う者はいなかった。誰も命じられていないのに、兵たちは動いた。木枠を押さえ、釘を打ち、縄を束ねる。理解が命令を超え、理が再び秩序を形づくっていく。そこにあったのは、戦場ではなく、思考の輪だった。


俺は彼に問わずにはいられなかった。「お前は死ぬ覚悟があると言ったな」。アレンは手を止めずに答える。「ええ」。俺は続けた。「なら、なぜ足掻く。死を受け入れた者が、なぜここまで生を繋ぐ」。その声は自分でも驚くほど硬かった。答えを拒むために問いを発しているような気がした。焚き火がはぜ、火の粉が雪に消える。沈黙ののち、アレンは言った。「死を受け入れるのは、終わらせるためではありません。恐れずに“残す”ためです」。


その言葉が、まるで冷たい水のように胸の奥に落ちた。死を恐れぬ者は強い。だが、死を恐れず理を残そうとする者は、それ以上に強い。俺はこれまで、死を飾る術しか知らなかった。彼は死をも含めて、生を整える術を知っていた。その違いは単なる生死の差ではなく、人の在り方そのものの隔たりだった。


翌朝、雪はやみ、凍てつく光が砦の石壁を照らしていた。投石機が完成し、二人の兵が縄を引く。合図とともに放たれた袋が空を裂き、遠くの雪原で白い煙を上げた。音が届くより早く、誰もが確信していた。届いた、と。歓声は上がらなかった。だが、その沈黙の中に、確かな息づかいがあった。敗北の影が、わずかに遠のいた気がした。


その瞬間、ようやく理解した。アレンの秤は、死を量るためのものではない。生を整えるためのものだ。覚悟とは、死に向かう強さではなく、理を崩さぬ意志のこと。彼は死を恐れぬために動いているのではない。理を崩さぬために、生を繋ごうとしているのだ。


雪は再び降り始め、世界を白く閉ざす。だがその中で、彼の姿だけが淡く立ち、確かな輪郭を保っていた。秤の先には、まだ“続く明日”が見えている。その光景が、奇妙に眩しかった。俺はその背を見つめながら、自らの中に沈んでいた秤の音を聞いた気がした。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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