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第73話 輔弼近衛は砦を回す(王子視点) ~見守る眼~

殿下に砦の中身を見られるたび、「ここで転んだら威厳より先に俺の信用が死ぬな」と足元ばかり気になる(いまさらな気もするが)。


雪は細かく、尽きる気配がない。

胸壁の石が、呼吸するように白く、黒く――そのたびに、砦全体がひとつの生き物のように見えていた。


(賭ける相手を、私はもう決めている)


心の底でだけ、そう告げる。


地図板の上で、釘の頭を指先でなぞる。南面の砦壁を一本の弧と見立て、その上に小さく印を打っていく。


「南面の砂桶を五間ごとに置け。合図は鐘二打ののち手旗。梯子は三か所に集めさせろ。ただし、使うときは散らせ。散らしておけば、こちらは生き残る」


「承知致しました、殿下」


砦長が答える。短く刈った髭に、白い霜がこびりついている。


地図板の下には、中庭が見えていた。

痩せた影が膝をつき、灰壺に指を入れる。


「三点は“止まれ”。右へ寄ってから通ってください」


張り上げぬ声なのに、よく通る。

雪の帳をすり抜けて、こちらの耳にまで届いてくる。


「承知、輔弼殿!」


兵の返事には、まだ丁寧な距離が残っていた。

外から来た役目には、まずラベルを貼る。それは正しい始まり方だ。


担架の靴が、ぺた、ぺた、ぺた――と黒点の上でいったん止まり、そこから右だけが細く流れ出す。列に切れ目が入り、湯釜が人の肩の隙間を縫うようにすり抜けた。

門楼の油、矢狭間の前の踏み台、一方通行にくくられた縄の通路。

叫びと怒鳴り声ばかりだった砦に、ようやく「仕掛け」が揃い始めている。


(数字は札に任せられる。私が用意すべきは、“止める声”と“退く声”だけだ)


矢の在庫は「南壁3矢×20」、砂「×5」、油「×2」。

柱札がそこまで語ってくれるのなら、上からの指示は短くてよい。


「通りが軽くなったな、輔弼殿」


砦長が、中庭を見下ろして呟くのが聞こえた。


「あいつの仕業だ。担架がすれ違わぬよう、流れを分けたのでしょう」


「ああ。戻りを潰すと、前線の足がもつれん」


「なるほど……よし、次だ。砂をここへ――ええと、アレン殿」


砦長の舌が、自然に肩書きを外す。

地図板の上に置いた釘が、かすかに揺れた。


(早いな)


肩書きから名へ、半歩。

緊急時ほど、現場は短い名を欲しがる。呼ぶ側が、選び直した証だ。


(“輔弼殿”は、王都から連れてきた役目に貼る札。“アレン殿”は、砦が自分の手を伸ばした相手に与える名。……順調だ)


下では、アレンがいつもと変わらぬ調子で答えている。


「はい、砂、行きます。右寄れ二点、踏んでから」


呼び名が変わっても、声の高さも間の取り方も変わらない。

そういう男だと、もう知っている自分に気付く。



地図に釘を打つ手をいったん止め、南壁の様子を確かめる。

雪に煙る砦の縁で、黒い影がいくつも動いていた。湯釜、担架、矢束、砂桶。どれも失えば、すぐに致命傷へと変わる流れだ。


そのとき――


ぱきん、と嫌な音がした。

胸壁の左端で、凍りついた踏み段が悲鳴を上げる。石粉が白い霧になって舞い、一枚の段が斜めに崩れ落ちた。


湯釜の列が止まり、担架の足がとっさに踏ん張る。

通路の狭い喉元で生じた、ほんのわずかな躊躇いが、波紋になって広がっていくのが、上からでもわかった。


(ここで止まられると困る)


口を開きかける。

だが、それより先に、下の影が動いた。


「三点!止まれ!」


灰壺を抱えた影――アレンが、裂け目の手前に三つの黒点を打つ。

兵の足が、揃ってその手前で止まった。雪が跳ね、息が一つぶんだけ空中に留まる。


続けざまに、割れ目の向こう側へ二点。


「右寄れ二点!湯釜優先!梯子、三短!」


叫ぶというより、必要な言葉だけを置いていく声だった。

上から見ると、灰の点と兵の列が、譜面の音符のように噛み合っていく。


すぐに角笛が、短く三度応えた。

砦の骨を通して、その拍が足元へ伝わる。


予備の梯子が一本、南壁の影から滑り出てきた。

崩れた段の代わりに横倒しに渡され、兵が上から足で踏みつけて固定する。木が軋んだが、落ちなければよい。


(外圧。灰の三点と二点、梯子一本。これで流れを繋ぎ直す。……判で押したように、教科書どおりだ)


胸のどこかが、静かに緩んだ。



血に染まった手旗を抱えた下士が、アレンの元へ駆け寄る。

こちらからでも、布の赤が冷えて黒くなっているのが見えた。


「手旗を代われるか!」


「代われます。三短、送ります」


アレンは、ごく自然にそれを受け取る。

顔色は悪い。だが、変な昂揚も、過度の恐怖も見えなかった。


「頼む――アレン!」


下士の口から、“殿”が落ちた。


(望んだ速度だ)


現場が、もっとも頼りたい名を、迷わず呼んだ。

そこに敬称は挟まれない。間を省いたほうが早いと、体で理解した相手だけが、あの呼び方になる。


手旗がひらめく。


「三短!――了解、上の角笛!」


上から同じ拍が返る。

合図の線が、砦壁と通路の間を行き来し、そのたびに兵の足が動く。止まっていた交代線がほどけ、湯釜が再び流れ出す。担架が梯子をまたぎ、灰線に沿って列を組み替えていく。踏み段の破断部には砂が撒かれ、足裏がきしむ音が変わった。


私は、地図上の同じ場所に、赤い線を一本引く。

下で引かれた灰の線と、上で引いた赤の線が、今この瞬間だけ、ぴたりと重なる。


「三短一長、予備案――一長、採用」


釘の頭を軽く叩きながら呟くと、角笛が短く鳴った。

持ち場の動きが、もう一段なめらかに変わっていくのが見える。



「報告!南壁3、矢×17より×14へ。更新――予定どおりの減り!」


下から声が上がる。

我知らず、口元がわずかに緩んだ。


(いい)


情報が、恐怖ではなく、士気へと変換されている。

ただ数字が減るのではなく、「予定どおり」と一言添えた報告が、兵の呼吸を守っている。


「交代、上へ。落ち着いて、深く吸え――一長」


私は角笛役に告げる。

長く一度、角笛が鳴った。入れ替えの列は歪まず、静かに歩幅を進めていく。


風向きが変わり、外の火の匂いが胸壁まで届いた。


「火は小さく、すぐ消せ。油は節約しろ。在庫盤、次の補給線を開け」


旗がひらめき、下でアレンがそれに応じる。

凍った髭の砦長が、地図ではなく砦そのものを見下ろし、静かに頷いた。


「……よく働く男だ、あれは」


「はい。こき使われるために生まれてきたような顔をしています」


思わずそう返してしまい、自分でわずかに苦笑する。

砦長が、こちらを見て口元だけで笑った。


「殿下が賭ける相手であれば、俺も賭けましょう」


短い会話。それで足りる。


(そうだ。私だけが賭けているのではない。砦そのものが、あの名に賭け始めている)



雪はまだ降り続いている。

それでも、砦の呼吸は、さほど乱れていなかった。


下から名を呼ぶ声が上がり、上から答えが降りる。

湯釜の音、角笛の合図、矢の抜ける音、担架の軋み――それらのあいだを、幾度も「あの名」が往復する。


「アレン、砂を右から一!」

「了解、右から一!」


その呼び方に、もはや戸惑いはない。

敬称があろうと、なかろうとよい。ただ、戦場が必要とするときに、迷いなく呼ばれれば、それで十分だった。


(私は、その名に賭ける)


誰にも聞こえぬほどの声で、胸壁の上からつぶやく。


「――アレン」


雪に紛れて、その一音はすぐに消える。

だが、砦のどこかで、その名を呼ぶ声がまた上がる。


そのたびに私は、地図の釘ではなく、砦そのものの鼓動を確かめるように、胸壁の石にそっと手を置いた。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

通路と札と印でひたすら砦を整えていたら、今度は「十日」の話になりました。

次回は、倉庫の中で数字とにらめっこをして、腹と喉の計算を始める回です。

戦場の真ん中で、粥と水の話をここまで真剣にするとは、学生時代は思ってもみませんでした。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★

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― 新着の感想 ―
この物語はアニメとか映像で見てみたい気がしますね 作者のこだわりかもですが〇〇視点とかは物語が進んだ後に振り返り?で出す方が読む人増えるのではないでしょうか
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