第72話 輔弼近衛は砦を回す(兵視点) ~名を呼ぶ側から~
砦の兵たちの視線が最近「また変な提案しに来たな」という色になってきているのが、なんとなく刺さる。
……俺が悪いんか?
夜が明けても、寒さは緩まなかった。
井戸から立つ湯気が風にちぎられ、白い紐になって空のほうへ引きちぎられていく。湯釜はかすかに震え、救護所の入口に吊された布は凍りついて、叩くと板みたいな音がした。
雪は細かく、絶えない。
砦にいる誰かの吐いた息が粉になって、空から降り直してくる――昨夜、焚き火のそばで誰かがそんなことを言っていたが、今なら少しだけ信じられる。
俺は南壁三。柱札の下、在庫盤の見張り兼、交代の合図待ち。
戦場のど真ん中で「数」を数える役目だ。剣を振り回すよりはマシだと言う奴もいるが、ここで数字を読み違えれば、上で戦っている連中がまとめて倒れる。どっちが楽かなんて、とても決めかねる仕事だった。
足元を影が横切った。痩せた背中が膝をつき、灰壺から指で一つまみすくう。
かじかんでいるはずの指先なのに、動きはまっすぐで、妙に速い。
雪の地面に、黒い点が三つ打たれる。
「三点は止まれ。ここで一度止まって、右に寄ってから通ってください」
張り上げた声じゃない。
けれど、不思議と通る声だった。通路のざわめきの中でも、耳にひっかかる高さをしている。
「承知、輔弼殿!」
誰かがそう返す。
――よそ者に貼る、正しいラベル。最初に砦へ来た夜、俺もそう思った。
黒い点の上を、担架を運ぶ靴が、ぺた、ぺた、ぺた。
足音がそこで一度止まり、列に小さな切れ目ができる。湯釜がその隙間に割り込み、ぶつからずに通り抜ける。
雪と泥にまみれた通路が、たった三つの点だけで、別物みたいに整っていった。
門楼の油の匂い。矢狭間の手前に置かれた低い踏み台。
通路は縄で一方通行にくくられ、逆走しようとする奴の肩を縄が引き戻す。矢束は砦壁ごとに等間隔、柱の札には大字で「南壁3」「矢×20」。その下に「砂×5」「油×2」。
“見れば足りる”。
昨日までは怒鳴り声だけが砦の言葉だったのに、今は札と印と縄が、同じくらいものを語り始めている。
「通りが軽くなったな、輔弼殿」
霜で髭が白くなった砦長が、そう言って肩を鳴らした。
「はい。担架がすれ違わないようにしました。流れを分けて、戻りを潰しています」
「なるほどな……よし、次だ。砂をここへ――ええと、アレン殿」
その一拍で、耳の中の空気が変わる。
肩書きから名へ、半歩。
口は急いでいるとき、短いほうを選ぶ。
“輔弼殿”は、よそ者につける丁寧な札。
“アレン殿”は、「こき使っていい相手」に貼る印。
俺は在庫盤の木札を握りしめたまま、心の中で苦笑した。
(こりゃあ、働かされる量が、半歩どころじゃ済まなくなるな)
けれど、不思議と嫌な響きじゃなかった。
◇
「はい、砂、行きます。右寄れ二点、踏んでから」
アレン――輔弼近衛が、いつもの調子で答える。
呼び名が変わっても、声の高さも調子も変えない。そこが、たぶん良いところであり、面倒なところでもある。
そのときだった。
外から、鈍い衝撃音が続けざまに響いた。
丸太槌が石に噛みつく、あの腹に響く音。胸壁が震え、積もった雪がぱらぱらと落ちる。
ゴン、と一際重い音がして、南壁の踏み段が一枚、いやな角度でひずんだ。凍りついた石がぱきんと割れ、踏み段が石粉を散らしながら斜めにずり落ちる。
「うわっ!」
湯釜の列が一斉に止まり、誰かの息を呑む音が、列の奥まで伝わっていく。
あの段は、通路の喉元だ。そこが詰まれば、上も下も止まる。
(やべえ……!)
誰かが走り出そうとした瞬間、その前を、灰壺を抱えた影が横切った。
「三点!止まれ!」
アレンが灰を打ち、裂け目の手前に三つの点。
続けざまに、割れ目の向こう側に二つ。
「右寄れ二点!湯釜優先!梯子、三短!」
叫ぶというより、言葉を置いていく声だった。
上から角笛が、短く三度応える。
その音が砦の骨を伝って走る。
すぐに予備の梯子が一本、運ばれてきた。
落ちた踏み段の代わりに横倒しに渡され、上から兵が足でぎゅうっと踏みつけて固定する。木が軋んだが、落ちなければそれでいい。
俺の隣を、血のついた手旗を抱えた下士が駆け抜けた。布の赤は冷えて黒くなり、唇の端にはひびが入っている。
「手旗を代われるか!」
「代われます。三短、送ります」
アレンは、ごく自然に受け取った。その顔色は疲れてはいるが、変な興奮も焦りもない。
「頼む――アレン!」
その瞬間、“殿”が落ちた。
直球。速い。逃げ場なし。
けれど俺は、心の中で頷いた。
(そうだ。こういうときに余計な飾りはいらねえ)
戦いは、呼ぶことから始まる。
◇
「三短!――了解、上の角笛!」
手旗がひらめき、上から同じ拍が返ってくる。
合図の線が砦壁と通路の間を往復し、それに合わせて兵の足が動く。
止まっていた交代線が、もう一度ほどける。
湯釜は再び流れ出し、担架が梯子をまたいで進む。踏み段の破断部には砂が撒かれ、足裏がきしむ音が、少しだけ変わった。
「ここ、灰線沿い!右寄れ二点で抜けろ!」
アレンの声が飛ぶ。
説明札も標識も足りない。
けれど、雪の上に引かれた灰の線と黒点が、通路の新しい“文句”になっていく。
俺は在庫盤を見て、声を張り上げた。
「南壁3、矢×14!更新――予定どおりの減り!」
口に出してみると、胸の強張りが少し抜けた。
減っているのに、怖くない。
「予定どおり」という一言が、こんなにも心臓を楽にするとは思わなかった。
白い小旗が、新しい通路線の脇に一本立つ。
「採用、だとよ」
上の角笛が短く吹かれる。ここまで届くのは、王子殿下の判断だろう。
砦の上で地図に赤線が引かれ、その線と俺たちの足元の灰線が、今このときだけ重なっている。
よく通る笑い声が、すぐそばで上がった。年配の兵だ。
頬には古い刀傷、髭には新しい霜。
「アレン、減ってるのに怖くねえな」
「設計どおりに減っているからです。計画から外れた減り方をしたら、そのときは一緒に怖がりましょう」
「はは、それはご免だ」
そんなやりとりを聞きながら、俺は自分の足で石を踏みしめてみた。
足裏で、石がまっすぐ立つ音がした気がした。
◇
少しして、砦長が南壁三まで降りてきた。
手袋越しに、アレンと握手を交わす。
「通路印、効いている。お前の仕業か、アレン殿」
「はい」
「いや――助かったぞ、アレン」
“殿”を外した言葉が、雪の上に落ちて、すぐに溶けた。
けれど、その重さだけは、はっきり残る。
(ああ、これはもう、この砦の“中”の名だ)
最初に「輔弼殿」と呼んだとき、俺たちは肩書きと距離で、この男を測った。
次に「アレン殿」と呼んだとき、俺たちは仕事ぶりと便利さで、この男を測った。
今「アレン」と呼んだとき、俺たちはたぶん、自分たちと同じ“砦の息”で測っている。
呼び名は階段だ。
上がったのか下がったのかは知らない。
ただ、呼ぶたびに、俺たちは迷わなくなっていく。
雪はまだ降る。
それでも、砦は呼吸している。
湯釜の音、角笛の合図、矢の抜ける音、担架の軋み、誰かが誰かの名を呼ぶ声――それらが、砦の肺の中で混じり合っている。
俺は在庫盤をもう一度見てから、声を上げた。
「砂、右から一!交代、一長!」
そして、その声に続けて、もう一度、名前を呼ぶ。
「――アレン!」
名を呼ぶ声は、砦の呼吸だ。
その呼吸の中で、あいつが迷わず返事を返す限り、南壁三はまだ持つ。
そう信じられるくらいには、俺はもう、この砦と、この名に、すっかり慣れてしまっていた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
砦のみんなから見れば、俺はどうやら「よそから来た変な人」だったらしいです。
次回は殿下視点で、その変な人が砦の中で何をしているかを、少し離れた場所から観察してもらいます。
上から見ている人の「賭ける相手」がどこで決まるのか、そのあたりがじんわり出てきます。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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