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第71話 輔弼近衛は砦を回す ~呼び名の階(きざはし)~

砦をうまく回せと言われても、まず俺自身の睡眠と食事の段取りが一番怪しい。



雪は細かく、絶えない。砦にいる者の息そのものが粉になって、空から降り直してくるのではないかと思うくらいだった。

井戸から湯釜へ、湯釜から救護所へ。夜通し行き来した足跡は、いったん雪に埋められて、その上から踏み固められる。砦は一晩中、浅い呼吸で走り続けて、ようやく朝を迎えつつあった。


「輔弼殿、湯をもう一釜。凍傷の指が持ちません」

(“輔弼殿”って便利な言葉になっているなぁ……湯運び、通路の指示、在庫数え。辺境子爵家三男、雑用フルコースを前線仕様にしてお届け中)


「はい。そこ、氷で滑ります。黒点の上を踏んで」


膝をつき、灰壺から一つまみ指に取り、地面に三つの黒点を素早く打つ。雪と泥にまみれた地面に、炭の丸が小さく並ぶ。


「三点は“止まれ”です。ここで一度止まって、右へ寄ってから通ってください」

「承知、輔弼殿!」


黒点を踏む足音が続く。足音が点の前でいったん止まり、右側だけが細く流れ出す。列に切れ目ができ、担架は詰まらず、湯釜は人の肩の隙間をすり抜けた。

(戦場のど真ん中でやっていることは、訓練場の通路整理と大差ない。違うのは、こっちは転んだら本当に死ぬところだけだ。……なのに、この“働かされている感”が少し懐かしいのはどういうことだろう)


通路の端には、まだ雪の塊が残っている。そこに湯釜をぶつければ、転げた湯が一瞬で凍り、次の転倒を呼ぶ。だから、人より先に「足場」を動かす。


門楼では鎖に油、矢狭間の前には低い踏み台。狭い通路は縄で一方通行にくくり、逆走しようとする者の肩を縄が引っかけて止める。矢束は砦壁ごとに等間隔。柱の札には大字で「南壁3」「矢×20」。砂桶「砂×5」、油壺「油×2」。


叫ぶ前に、見れば足りる。声が届かなくても、札が届く。やるほどに、砦の息が整っていく。さっきまで乱打だった鼓動が、少しずつ拍子を刻み始めていた。

(本当なら、こういうのは前もって誰かが用意しておく仕事だろう。だが、現場で急ごしらえの工夫を重ねていく感じは悪くない。小回りが利くやつの出番は、いつもこういうときだ)


「通りが軽くなったな、輔弼殿」

背後で誰かが言った。声だけ聞けば疲れきっているが、どこかほっとした色が混じっている。

「ありがとうございます。担架がすれ違わないようにしました。流れを分けて、戻りを潰しています」

「なるほどな……よし、次だ。砂をここへ――ええと、アレン殿」

(ん?今“アレン殿”って言った?距離が縮んだ。……それはそれで嬉しいが、こき使われる量も半歩どころでは済まなくなる予感しかしない)


「はい、砂、行きます。右寄れ二点、踏んでから」


返事をしながら、わざといつもどおりの調子で足を運ぶ。変に照れた間を挟むと、かえって現場がよろめく。呼び名の変化は、飲み込んでから考える。今は足場が先だ。

(昔から“アレン”と呼ぶ声はたいてい「ちょっと来い」「手を貸せ」に収まった。場所が砦になっただけなら、まあ、悪くない)


     ◇


砦壁の上では王子レオンが砦長――短く刈った髭が凍って白い――と地図に釘を打っている。氷の張った息が、二人の前で白く混じっていた。

「南面の砂桶を五間ごとに。合図は鐘二打ののち手旗。梯子は三か所に集めろ。その三か所を壁一面に散らして配置しろ。散らしておけば、こちらは生き残る」

「承知致しました」

(殿下が“前”を決める。旗の行き先と、退きどきと、どこまで傷を許容するか。その全部の重さを背負っている人の足場を、自分は下から支えているだけだ。……“だけ”と言うには、だいぶ重いけど)


救護所の裏手では、血と薬草の匂いが雪の冷たさに負けずに残っていた。汚れた水が、足跡と一緒に井戸側へ回り込みそうだったので、酒樽の蓋を割り、溝へ橋のようにかぶせる。蓋の両側に雪と木片で低い堰を斜めに組むと、水の流れがゆっくりと向きを変えた。

「水は低いほうへ従う」


昔、村の堰を直したとき、年長の誰かがぼそっと言った言葉を思い出す。向きを変えれば、井戸は守れる。

(あのときは、うまく流れを変えられればそれで肩の荷が下りた。今は、流れを一つ読み違えるだけで、何十人も倒れる。責任の桁だけが変わった)


ここでは、井戸が一つ潰れれば、それだけで兵の半分が戦えなくなる。兵が一人倒れるたび、前線の線はじりじりと歪む。だが水や湯が途切れれば、その歪みは一気に折れる。だから、まず水。剣よりも先に、流れを決める。


その時だった。

南の砦壁の左端で、凍てついた踏み段が悲鳴を上げた。ぱきん、と嫌な音が鳴り、石粉が白い霧になって舞う。踏み段が一枚、斜めに割れて落ちた。砦そのものが一瞬、身震いしたように思えた。

湯釜が止まり、担架がたじろぎ、通路の列が前後に押し合う。わずかな躊躇いが、雪の上で波紋になった。

(……砦あるある。壊れてほしくないところから壊れていく。場所がどこでも、理屈はだいたい同じなのが腹立たしい)


「三点!止まれ!」


灰壺を蹴飛ばしそうになりながら駆け寄り、裂け目の手前に三つの黒点を打ち付ける。

兵の足が三点の前で一斉に止まる。雪が少し跳ね、息が一つ分だけ溜まる。

続けざまに、裂け目の向こうに二点を打つ。


「右寄れ二点!湯釜優先!梯子、三短!」


上の角笛が短く三度、鋭く応え、砦壁の影が走る。予備の梯子が一本、すぐに滑り込んだ。落ちた段の代わりに横倒しで渡し、兵が上から足で踏みつけて安定させる。木が軋むが、落ちなければよい。

(木が悲鳴を上げるうちは、まだましだ。人の骨がきしむ前に、全部片付けたい)


血に染まった手旗を抱えた下士が駆け寄る。布が凍り、赤が黒い。息は荒く、唇の端が切れていた。

「手旗を代われるか」

「代われます。三短、送ります」

「頼む――アレン!」


(ついに“殿”が落ちた。直球。速い。逃げ場、なし。……しかし、“おい、アレン”と呼ばれてぱっと動く感覚は、やっぱり骨に染みついている。昔から、呼ばれれば走る役回りだ)


胸の奥が、ちくりとした。けれど、その痛みは後回しだ。今は、呼ばれた名に、ただ正しく応える。


     ◇


「三短!――了解、上の角笛!」


手旗がひらめき、角笛が同じ拍を返す。合図の線が砦壁と通路の間を往復し、兵の足がそこに合わせて動く。

交代線は乱れず、湯は再び通り始める。担架が梯子をまたぎ、湯釜が灰線に沿って滑っていく。踏み段の破断部には砂を撒き、足裏が噛むように粗くする。灰の線を長く引き、そこから右へ、慎重に曲げる。


「ここは灰線沿い。右寄れ二点で抜けて!」


(説明用の札も標識も足りない。灰と声と勘でごまかしている時点で、本来なら減点対象だ。だが、“足りないものは走って埋める”という精神は嫌というほど叩き込まれた。こき使われ履歴も、たまには役に立つものだ)


声が届かなかった兵にも、灰線と黒点が届く。雪の上に引かれた一本の灰が、砦の新しい血管になっていく。


ひと息ついて、在庫盤の札を掛け替える。手袋の上からでも、木札のざらつきが指に伝わる。

「南壁3、矢×17→×14。更新……予定どおりに減っている」


矢束の減り方が、事前に描いた“線”の中に収まっているかどうかだけを見る。線から外れたときが、本当の危機だ。

(できれば、暖かい部屋で帳簿と向き合ってやりたい仕事だが、贅沢は言うまい。どうせ自分はどこにいても、こうやって数と流れを数えさせられる運命なのだろう。……嫌いではないのが、また腹立たしい)


白い小旗を新しい通路線に立て、それと同じ位置を砦壁上の地図へ赤線で一本引く。上から見た砦と、足元の砦が、少しずつ重なっていく。

「一長、採用」――上の角笛が短く返す。ここまで届くのは、王子の判断だ。

(「それでいい」と言われる一言は、いつだって同じだ。相手が兄でも教官でも王太子でも、妙にこそばゆい)


年配兵が肩で息をしながら笑った。頬には古い刀傷、髭には新しい霜。

「アレン、減ってるのに、怖くねえな」

名前呼びが、もう一度、自然に落ちてきた。今度は、さっきほど胸が痛まない。

「設計どおりに減ってる。だから持つ。計画から外れた減り方をしたら、そのときは一緒に怖がりましょう」

「はは、そいつはご免だな」

(こちらとしてもご免だ。だが、“怖がる相手”がいるだけ、まだましだ。一人で数字とにらめっこしていた頃に比べれば、今のほうがずっと騒がしくて、ずっと――生きている感じがする)


笑い声が、白い息と一緒に空に溶ける。その笑いを、砦が一拍ぶんだけ受け止めた気がした。


角笛が一度、長く鳴る。王子の声が重なる。

「交代、上へ。落ち着いて動け」


砦壁の上から降ってくる声は、冷たい空気を割って、兵の背骨の奥に入り込む。


手袋越しの握手は熱く、重い。その重さは、肩ではなく、足に落ちる。足が、まっすぐ立つ。立っている場所が、自分の段だと体が覚える。

(どう考えても、辺境子爵家三男の踏む段ではない。ないが、「アレン」と呼ばれて走り回っている感覚だけは、どこにいても変わらない。だったらまあ……悪い人生でもないのかもしれない)


(“輔弼殿”から“アレン殿”、そして“アレン”。呼び名は階段だ。上がったのか、下がったのかはわからない。けれど、ここでの俺の段は、もう揺れない。揺らしている暇がないし、揺れていると、たぶんまた誰かに「アレン、手を貸せ」と呼ばれる)


雪はまだ降る。けれど、砦は呼吸している。湯釜の音、角笛の合図、矢の抜ける音、誰かが誰かの名を呼ぶ声――それらが、砦の肺の中で混じり合っている。

名を呼ぶ声は、砦の呼吸だ。

そして俺は、その呼吸の中で、自分の名を呼ばれたとき、迷わず返事を返した。

(返事を返した以上は、最後までやる。――まったく、“秤”なんて看板を掲げたせいで、こき使われ放題である。……でもまあ、悪くない)


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

「輔弼殿」とかいう立派なラベルを貼られたまま、砦中を走り回らされました。

次回は、その様子を兵の目線から覗いてもらいます。呼び名がいつの間にか変わっていく話でもあります。

正直なところ、本人としては肩書きより足元の氷のほうがよほど怖いんですが。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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