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第70話 法務卿は糸を張る ~帰還前夜~

王都でいろいろ決めてもらっている間も、こっちの足元はずっと凍ったままなので、「机ってあったかくていいなぁ」とだけ思っている。

王暦九五四年・冬月十五日。開路の鐘が一打、のち三打。

法務卿エグバート・ラインハルトは私室の燭を一本だけ残し、指で火皿を覆って光を絞る。輪郭が静かに沈む。まだ戻らぬ若い名を胸の底へ沈め、思考だけを明るくした。――座は先に置く。座があれば、座り方に作法が生まれる。


廊を渡り、軍務省の地図台へ。ラグナは外套の肩に粉雪を残したまま、駒の影に立っている。

「迅速でした、軍務卿殿。都が息を吹き返しています」

礼だけを置く。背の余計な力がわずかに抜けた。

「速さは要です。形さえあれば、速さは国のものになる――“速報”で走らせ、明朝、三刻で“公定”に置換する。置換がなければ、速報に基づく措置は止まる。速さは殺さない、枠に入れるだけです」

ラグナは地図から目を離さずに問う。「間に合うか」

「間に合わせます」

それで十分だった。紙は後から走る。いまは頷きだけを取る。軽い合意ほど、のちに重く載る。


記録局の夜番卓は冷たく、砂鉄めいた墨の匂いが漂う。四枚の紙を置く。

「語を揃える。『退進』『在砦』『合流』『再編』。台帳はこの四語で統一を。詩は詩人に――ここは事実の場所です」

眠気の残る筆が一斉に走る。語が揃えば、意味は一つに収束する。意味が一つになれば、責の矢印も一つで済む。


枢密の小印室では、羊皮紙の余白に短い文を置かせた。

「『本夜の速報、王暦九五四年冬月十五日付として受理。追って公定に編綴す』。文頭に“受理”、末尾に“編綴”。印は王印と枢密印の並記。明朝、三刻以内に押す」

印官が朱の皿を回す。温んだ朱の匂い。小さな所作の積み重ねが、朝の決まり手になる――そして決まり手は、やがて証拠と呼ばれる。


王妃の御前は請わない。侍女長にだけ一言。

「“秤”の速さを制度に移します。殿下の速さを守るための、ささやかな手当です」

短い頷きが返る。反感がなければ糸は切れない。香のような安堵に、留め金をそっと差し込む。


宰相室。冷えた茶が二つ。

「順序を決めましょう、閣下。前段に追認、末段に功。英雄譚は最後で構いません」

アルフレッドの口元に控えめな笑み。

「貴卿の冷たさは助かる」

「冷たさが私の役目です」

わずか二行の同意。いったん順序が定まれば、都の歯車はその通りに回る。前に手続、あとに称賛。称賛は剥げるが、手続は残る。


廊へ戻ると、小走りの靴音が風のように横切り、紙束を抱えた少年がそれを追う。誰も糸は見ない。だが足元はもう、見えない糸の上だ。


明け方の気配がまだ遠いころ、小会議。軍・宮・法・記録が卓を囲む。

「今夜から“速報/公定”の二層で運用します。速報は三刻の命、公定が置換。置換がなければ、速報に基づく措置は停止。第一報の発信権は軍務卿・太子府・辺境総督。――例外として、輔弼近衛は王族の所在と体調に限り速報可。三刻で追印」

異論は出ない。誰にも痛まない厚みで作ってあるからだ。薄い約束は最初はよく滑る。やがて床になる。床は踏まれ、跡だけが残る。


昼前、枢密院の朱が乾く。通達は束になって散り、鐘楼の影が短くなる。

私室へ戻り、窓の霜を爪で払う。塔の縁が白む。机の隅には『追認』『置換』『語統一』『例外条項』の控えが四つ。どれも剣ではない。だが抜けば歩幅を測る。測られた歩幅は、のちに「越線」と名付け直せる。


遠い御前の声が廊を伝う。王は「退きは次のための一手」と言い、王妃は「秤が鞘に戻した」と添えた。美しい。額縁はそちらに。こちらは釘だけ打っておく。


夕気が強まる。街道のほうから、浅く連なる蹄の気配。まだ戻らない。だから今が良い。空の席は縮む。座の大きさは、少しずつ、確かに変わる。


白紙に視線を落とし、書かぬ手紙を心中で整える。

(差出はお前でよい。走るのもお前でよい。速さはこの国のためだ。ただし三刻で枠に入れ。鐘が刻むあいだに、語がお前を囲う――『退進』『在砦』『合流』『再編』。詩は剥がれ、語は残る。残った語は、やがて別の語へ掛け替えられる。『抑止』『威迫』『拘束』……名を変えるのは容易い。枠に触れた手は、手の形ごと台帳に写る)


若い名がよぎる。

(褒めて座に着かせる。座に着けば、手元は台帳の上。台帳の上で剣を収めれば作法、止めれば所為。違いは、私が置いた枠が決める)


書棚から古い記録を一冊抜く。過去の冬、似た足音、似た鐘。余白の走り書き。あのときも英雄を讃え、讃え終えてから条文がひとつ増えた。熱は消え、条文だけが残った。


小卓に指で線を引く。一、そして三。三刻。

線は針に似る。針は布を傷つけるためではない。布を形にするためにある。布が形になれば、誰がどこに立っていたかが見える。見えたなら、裁ける。


扉が軽く鳴り、記録局の若い書記が控えの束を置く。

「語統一、通しました」

「ご苦労」

一番上の日付に朱が踊る。王暦九五四年冬月十五日。いまはただの印。だが、のちに時刻表となり、構成要件となる。


窓を打つ雪音がわずかに変わる。風が南へ振れ、塔の影が伸びはじめた。

最後の独白を心に収める。

(帰って来い、秤。罰は急がない。物語は彼らに任せる。私は順序を置いた。前に追認、後に功。お前の速さは褒める。褒めれば、必ず記録に触れる。触れた記録は、やがて別の名をもらう。――名は、後で決めればよい)


燭が短くなり、机の影が濃く伸びて控えの束を飲み込む。

鐘がまた、一打、のち三打。開路。

王都は動き、砦は待つ。張った糸は見えぬまま朝に溶け、石畳の下で静かに張力を保った。

そして帰還の蹄が都の石を叩くとき――足元にはすでに布が敷かれている。柔らかく、足を取らず、ただ足跡だけを確かに取る布が。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

王都であれこれ決めていただいている間も、砦は普通に雪で埋まっています。

次回はまた砦側にカメラが戻って、「ここを息が上がらない城にしろ」という無茶振りが始まります。

呼吸と通路と湯気の段取りだけで、どこまで持たせられるかの実験みたいな回です。


次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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