第67話 輔弼近衛は伝を立てる(王子視点) ~灯は雪に消えず~
殿下の視点で俺の書いた一行がどう読まれているかと思うと、「字はもっと綺麗に、人生はもっと地味にすべきだった」と反省している。
夜が砦を覆っていた。
雪は止まず、風は骨の奥まで冷たかった。
石壁の隙間を抜けてきた風が、蝋燭の火を細く揺らすたび、影が壁をよじ登っては崩れる。
――敗走。
その言葉を、まだ誰も口にしない。
だが、沈黙の底に沈んでいるのは、確かにそれだった。
焚き火の煙が立ちのぼり、血と焦げた木の匂いが混ざる。
崩れた外壁の隙間から見えるのは、遠くまで続く夜だけだ。
声を上げる者も、泣く者もいない。
皆がただ、「生き残った」という事実だけに縋っていた。
俺は砦の奥の小部屋にいた。
壁には戦の痕が走り、石は一部崩れている。
窓枠には雪が積もり、細い隙間から冷気が忍び込む。
椅子代わりの木箱に腰を下ろし、その上で両手を組んでいた。
指先にはまだ、剣を握っていた感覚が残っている。
刃の震え、衝撃、血の生温さ。
それらを追い出すように、指を組んではほどき、また組み直す。
外では、あの男――アレン・アルフォードが動いている。
文を書き、伝令を選び、指示を飛ばしている。
その声が、砦の石を伝って、途切れ途切れに部屋の中まで届いてきた。
短く、正確で、揺らがない声。
(……よくもまあ、あの体で動けるものだ)
思わず、口の端がわずかに緩む。
あいつもまた血に濡れ、疲弊しているはずだ。
肩には打撲、脇腹には浅くない傷。戦場で見たときから、無事とは言いがたかった。
それでも、その背にあるのはただ一つ。
「王子を生かす」という、誰に命じられたわけでもない意志だった。
(輔弼近衛。――秤としての役目を、愚直なまでに果たそうとしている)
そう思うと同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
あいつに秤であることを求めたのは、俺だ。
旗を掲げる俺のそばに、「理」を置こうとしたのも、俺だ。
その理の針が今、幾人分の重さを量っているのか。
そのことを思うと、視線が自然と窓へ向かった。
俺は立ち上がり、窓の隙間から外を見た。
中庭の灯が、白い雪をぼんやり照らしている。
その中央に、机と紙と墨。
アレンが筆を動かしていた。
墨の光がかすかに揺れ、風が吹き、焚き火の火が散る。
その光に照らされた紙の上で、あいつの手が止まった。
『王子殿下、ご健在。霜丘楔砦に退進す』
――たった一行。
だが、その一行が、この夜をかろうじて支えている。
(それで十分だ。余計な言葉はいらぬ)
その文は、俺が生きていることを伝える。
誰が戦い、誰が倒れ、どれだけの犠牲を払ったか――それらは書かれない。
だが王国にとって必要なのは、ただその一点。
「まだ終わっていない」という事実だけだ。
敗走とも呼べる退き方を、「退進」として記す。
その一語に、かろうじて残された矜持と、次に進む意志を詰め込んでいる。
(言葉一つで、戦の意味は変わる。……あいつはそれを分かっている)
蝋が落ち、花印が押される。
朱が滲み、紙に血のような色を落とした。
俺は目を細めた。
本来なら、あの印は俺の名を示すものだ。
だが今、そこにあるのは俺の手ではない。
アレンが、己の責任で押している。
(この文に、王子の署名は要らぬ、ということか)
――王子は生きている。その報せに、署名はいらない。
必要なのは「事実」であって、「権威」ではないという判断。
それは、王家の剣ではなく、秤の選ぶやり方だった。
外で声が上がる。
「伝令を、三騎!」
続いて、馬の蹄の音。
短い号令と返事が交錯し、雪を踏みしだく音が続く。
俺は窓枠に手を置いた。
冷たい石の感触が、まだ現実に触れているという証のようだった。
(……あの文が届けば、国はまだ動ける)
王都の誰かがそれを読み、次の手を打つだろう。
援軍を回すのか、戦線を引き直すのか、あるいは別の策を取るのか。
いずれにせよ、「王太子がまだ駒として盤上にいる」という一点だけで、盤面は投げ出されずに済む。
それでも、不安は消えない。
夜の闇は深く、敵の影もまだ潜んでいる。
もし伝令が倒れたら――もしあの文が失われたら。
胸の奥に、小さな焦りが生まれた。
(一行の軽さに、どれだけの重さを乗せていることか)
その焦りを押し殺すように、俺は傍らの副官を呼んだ。
「副官」
「はっ」
「伝令を一人、輔弼近衛のもとへ。これを伝えろ」
副官が姿勢を正す。
俺は、言葉を選ぶように一拍置いてから、静かに口を開いた。
「――『文は届く。おまえは残れ』と」
それだけだった。
アレンが、今すぐ馬を駆って王都へ向かうと言い出してもおかしくないと、どこかで思っていた。
責任を自ら背負い込もうとする男だ。
「最後の一騎は自分が行く」と、平然と口にしかねない。
だから先に、道を塞いだ。
(あれ以上、前には出させられん)
あいつが出れば、この砦はもたない。
あいつが残ることで、繋がる命がある。
それを理解しているからこそ、言葉は短くていい。
副官が深く頭を下げ、駆け出していく。
その背が扉の向こうに消えると、俺は小さく息を吐いた。
――「残れ」と命じることで、俺が前線から退いたことが、いよいよ確定する。
(退いたのは俺だ。あいつは、退いた俺を生かすために、前に出ている)
それを直視すると、胸の奥にじくじくとした痛みが広がる。
王家の旗を掲げる者として、それでも「撤退」を選んだ。
その選択を、秤に支えさせている。
風が鳴る。
遠くで蹄が鳴る。
門が開き、三騎が闇に消えていくのが見えた。
俺はその光景を、窓越しに見つめる。
雪が舞い、白が黒に溶けていく。
その先に何が待つのか、誰にも分からない。
ただ、あの文がどこかに届き、その文字を読む誰かが「まだ終わっていない」と思い直すことだけを願う。
「行け。……あの文が国を繋ぐ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
焚き火の光が弱まり、静寂の中で雪だけが降り続ける。
中庭では、アレンが机に戻り、もう一枚の紙を取るのが見えた。
同じ文を、もう一度。
『王子殿下、ご健在。霜丘楔砦に退進す』
(……おまえらしい)
俺は目を閉じた。
まぶたの裏に、燃えるような朱の色が残る。
その赤が、小さな灯のように揺れた。
――文は届く。おまえは残れ。
自分の声が、雪に溶けていく。
それでいい。王子としては、それ以上のことを言うべきではない。
(あとは、秤に託す。秤を選んだのは、俺だ)
外では、角笛が一度鳴った。
風が吹き、焚き火が小さく爆ぜる。
砦の夜はまだ長い。
だが、かすかにでも息をしている。
その事実だけが、今の俺には十分だった。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次は王都編、ようやく中央の偉い人たちが起き出すターンです。
こっちの一行メモを、軍務卿と宰相が丁寧にひっくり返してくれるらしい。
現場の泥と血が、王都ではどういう言葉に変換されるのか、その過程を眺める回です。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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