第66話 輔弼近衛は伝を立てる ~ただ一行の報せ~
矢も雪も足りてない砦で、「じゃあ言葉と紙でなんとかしてください」と言われている気がしてならない。
夜が深い。
雪明かりだけが、砦の輪郭をぼんやり浮かべていた。
ときどき雲が流れて、光が薄くなったり戻ったりするたび、砦が息をしてるみたいに見える。
焦げた木の匂いと鉄の匂いが混じって、乾ききらない血の生臭さが、その奥にうっすら居座ってる。
包帯が風にめくれて、その下で新しい血がにじんでは凍り、布の色をじわじわと変えていく。
焚き火の火の粉が一つ、二つ、夜に消えた。
ぱちっと鳴るたびに、誰かの肩がぴくっと揺れる。
誰もそのことを指摘しない。ただ、火が消えないように薪だけは真面目にくべ続ける。
誰も声を出さない。
傷を縫うやつも、矢を抜くやつも、血で濡れた鎧を外すやつも、ただ息の音だけで動いている。
呻き声も、本当はもっとあるはずだ。
でもみんな、喉の奥で無理やり踏み潰してる。声を出した瞬間、何かが決壊するって、全員理解してるからだ。
それでも、全員が知っていた。
――王子殿下は、生きている。
(……それだけで、今日は勝ちってことにしておこう)
勝ちと言うには、失ったものが多すぎる。
倒れた馬、空になった寝台、戻ってこない視線。
それでも、「殿下ご健在」という一点だけで、ぎりぎり「壊滅」じゃなくて「退進」ってラベルを貼れる。
(結果だけ見れば、判定はそうなる。……感情は、まあ別としてな)
砦の外壁の影に、雪に埋もれた馬が一頭。
背から下ろされた鞍の下には、まだ微かに温もりが残っていた。
さっきまで確かにここに「生きてたもの」がいた、その痕跡だけが、しつこく手のひらにまとわりつく。
その首筋を撫でて、俺は息をひとつ吐いた。
手袋越しにも、冷たさと温もりの境目が分かる気がする。
冷たいはずの空気なのに、胸の奥だけ妙に熱い。
喉の奥が焼けるような感じがして、うまく息が整わない。
(……なんとか生き延びた。でも、まだ終わりじゃないんだよな)
(ここで「終わった」と思った瞬間、多分、本当に終わる。
誰かが「まだ続く」って言い張ってないと、戦は勝手に負け戦になる)
頭では分かってるのに、足はひどく重い。
今すぐどこかの隅に座り込んで、布をかぶって、朝まで何も見ずにいたかった。
……けど、そういう役は、秤には割り当てられてない。
◇
中庭の片隅、粗末な机の上に紙束と墨壺。
墨は半分凍って、表面が黒い氷みたいに光っていた。
指先で軽く突くと、ぱきりと薄い膜が割れて、その下からどろりと濃い黒が顔を出す。
筆を手に取り、指を擦る。感覚は、まだかろうじて残っていた。
しびれた手で字を書くのは嫌いだ。線が震える。震えた線は、不安を呼ぶ。
でも、書かないで黙ってるほうが、今はもっと悪い。
「紙を。封蝋と、王子印の台座も」
自分の声が、他人のものみたいに落ち着いて聞こえて、少しむず痒くなる。
内側ではまだ、さっきの戦いの続きで頭がざわざわしてるのに、口だけ先に仕事を進めている。
当番兵が小走りで駆け寄って、机の上に物を置いた。
その手も震えていた。寒さか、それとも恐怖か。多分、両方。
俺は頷いて、目だけで礼を返す。
声に出して礼なんて言ったら、余計なことまで口からこぼれそうだった。
(……本音だけで済むなら、一行で足りるんだよな。“助けて”って書けば早い)
(でも「助けて」じゃなくて、「生きてる」って書かなきゃいけないのが、王太子って生き物の面倒くさいところだ)
冗談めかした思考で、自分の手の震えをごまかす。
笑えるところは笑っとかないと、本当に折れる。
筆先を墨に浸して、紙の上にそっと置く。
その瞬間だけ、砦のざわめきが遠のいた気がした。
世界が、紙と墨と手の震えだけになっていく。
戦場では、考えるより先に書くほうが早い。
考え始めたら、「書かなくていい理由」をいくらでも思いついてしまうからだ。
『王子殿下、ご健在。霜丘楔砦に退進す』
たった一行。
それだけで、この夜に意味が宿る。
この一行は、王都で、次の一手を生む種になる。
今はただの線と点の集まりでも、届いた先では「王家の決定」の材料として扱われる。
――この一行のために、何人が倒れたか。
考えたくはない。
けれど、まったく考えないまま書くこともできない。
蝋を落として、花印を記す。
赤がじわりと紙に滲んだ。
冷えた紙の上で、その鮮やかな色だけがやけに生々しい。
血のようにも、火のようにも、王家そのものの色にも見える。
どれにしても、気分のいい比喩じゃない。
(……まあいい。これで伝わる。届けば、それでいい)
(文章は短いほうが強い。言い訳や感想を混ぜると、肝心なところが薄まる)
心の中で、何度も同じ一行をなぞる。
声に出して読み上げれば、少しは実感がついてくるかと思ったが、喉は動かなかった。
◇
風が吹いて、机の上の紙がはためく。
掌で紙を押さえながら、ぼそっと呟いた。
「……伝令を、三騎」
走り寄ってきた三人。鎧は割れ、頬には泥。
肩や腕の簡易包帯からは、ところどころ赤が滲んでいる。
それでも、全員がまっすぐ立っていた。足元だけはしっかり大地を掴んでいる。
「第一騎――王都へ最速。中継は全部優先だ。
第二騎、途中の砦に報せて援軍を急かせ。
第三騎、別路を取れ。……捕まるな。
橋は凍ってる、浅瀬を渡れ」
一つひとつ指示を刻むみたいに、三人が頷く。
そのたびに、「今しゃべってる言葉が、そのまま三つの命の重ね掛けになってるな」と、嫌でも自覚させられる。
(……俺が喋らなきゃ、誰も動けない)
(でも俺が喋るだけで、他人の死に方を決めてるんだよな、これ)
一瞬だけ、迷いが喉につかえた。
けれど、迷いを抱えたまま命令するほうが、よほど残酷だってことも知っている。
文を革筒に入れ、布で包んで、兵の胸に押し当てる。
革の感触が、やけに重い。
「渡す相手は軍務卿ラグナ。王政庁の石段で直接だ。
奪われたら――噛みついてでも取り返せ」
「承知!」
夜気を裂くような返事。
その声の大きさに、俺の胸の奥まで少し風が通った気がした。
砦に、ほんの一瞬だけ熱が戻る。
誰も笑ってないのに、空気の色だけがわずかに変わる。
◇
厩の前。
栗毛の馬が三頭、蹄を鳴らしていた。
鼻先から白い息を吐き、耳だけ落ち着きなく動かしている。
人間の緊張が、そのまま手綱から伝わってるんだろう。
手綱を握る兵の手も震えている。
それでも指は、しっかりと革を離さない。
「行け」
俺の声に合わせて、門が開く。
軋む音が、さっきの城門の記憶を引っ張り出してきた。
雪を踏みしだく音、鉄の軋む音。
最初の一騎が飛び出し、続いて二騎、三騎。
蹄が凍った地を蹴り、雪を巻き上げ、闇の中へ消えていく。
白い粉が舞い上がり、すぐに夜に呑まれた。
(行ったか……行ったよな)
目で追っていても、もう影は見えない。
見えないところで倒れてるかもしれないし、見えないところで踏ん張ってるかもしれない。
胸の奥がざらつく。
砂を詰め込まれたみたいに重くて、落ち着かない。
声を出したら崩れそうで黙る。
黙ってても崩れそうだから、とりあえず近くの壁に寄りかかった。
(……頼む。届いてくれ。殿下が生きてるって、それだけでいい)
(本当は「勝て」とか「皆助けて」とか言いたいけど、一行に詰め込めるのは一個分だけだ)
欲張ると、何も届かない。
だから、一番根っこだけを選んだ。
◇
砦の壁に背を預けて、空を見上げる。
雲が切れて、月が顔を出した。
こっちを値踏みしてくるみたいな、冷たい光だ。
その光の下で、雪が静かに降り続ける。
血の跡も足跡も、いつか全部、白で塗りつぶされる。
やがて、当番兵が息を切らして駆けてきた。
「輔弼殿、殿下よりお言葉を――『文は届く。おまえは残れ』と」
短い伝言。
それだけで、俺の逃げ道はきれいに塞がれた。
(……まあ、ここで逃げたら敵前逃亡だからな)
思わずぼやきが漏れる。
声に出した瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
殿下がそう言うなら、「帰りたい」は正式に却下だ。
砦の外では、風がまた強くなる。
角笛が一度だけ鳴った。
合図というより、夜に向かって「まだ終わってません」と自己申告してるみたいな音。
その音を背中で聞きながら、俺は机に戻る。
残りの紙を一枚取り、もう一度、小さく書いた。
『王子殿下、ご健在。霜丘楔砦に退進す』
さっきと同じ一行。
でも、さっきより筆運びは少しだけ滑らかになっていた。
――もし、どこかで文が途絶えても、誰かが拾って読めば、それでいい。
雪に落ちても、泥にまみれても、誰かの靴に踏まれてくしゃくしゃになっても。
文字が読める形で一部でも残っていれば、それで役目は果たせる。
この一行さえ届けば、国はまだ呼吸できる。
(呼吸してるかどうか分からないくらい弱ってても、「まだ死んでない」は「もう駄目だ」とは違うからな)
筆を置いて、小さく息を吐く。
それから、いつもより少し静かな夜の音に、耳を澄ませた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次回は殿下視点で、その「一行」と、その後の動き方を外から見てもらいます。
こっちは必死で文を書いて伝令を飛ばしているだけなんですが、どうもあの人から見ると別の意味を帯びるらしい。
砦の内と外で、同じ夜をまったく違う温度で過ごしている感じを味わってください。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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