第65話 輔弼近衛は算段を読む(副長視点) ~命は盾として使うためにある~
副長さんの心の声を想像すると、「怪しい近衛がまた何かやってる」としか思われていない自信だけはある。
最初にあれを見た時、正直こう思った――胡散臭い男が来た、と。
輔弼近衛だか秤だか、肩書が多いほど実戦から遠いのが世の常だ。
王都育ちの顔つきに、冷えた目。言葉数は少ないくせに、地図に印だけは器用につける。
私はそういう男を、呼吸で測る習いがある。息が上ずらぬ者は頼もしいが、度胸と無謀の境が見えぬ者は危うい。
それでも、王太子旗が掲げられた瞬間の空気の変わりようは見事だった。
兵の背が伸び、槍の穂先がそろう。――あれは王家にしか持てぬ力だ。
だからこそ、守らねばならない。旗は戦の理であり、戦場で最も脆い一点でもある。
しばらくして、背から冷たい気配が走った。
雪を割る音の向き。金属の歯が噛み合う連続の震え。
私が視線を巡らせるより早く、あの輔弼近衛が短く言った。
「敵です」
王太子殿下が振り向かれる。雪煙の向こう、黒い帯――いや、群れだ。
私は叫んだ。「北東の道から来たものと思われます!」
言いながら、内心では舌打ちした。挟撃。
前線が押し返し始めたのは、敵の狙いどおりの囮だったというわけだ。
殿下は即断された。「反転!」
常道である。背を突かれる前に向き直って叩く――それが教本。
私もそのつもりだった。あの一言がなければ。
「殿下、利がございません」
利――?
戦場でそんな言葉を聞くとは思わなかった。
睨みつける私の前で、輔弼近衛は一歩、馬腹を進める。
殿下が反論される。彼も引かない。
やがて、雪の中に金属音が響いた。
振り向けば、彼が剣を抜いていた。
その刃先は、殿下の喉元に。
親衛隊の誰もが凍りついた。
呼吸が止まる。
周囲の者たちが一斉に柄に手をかける音が、やけに遠い。
“王族に刃を向ける”――常識では、それは即、大逆。
だが、殿下は動じられず、あの若者も揺れなかった。
「詔に曰く――」
文言は半分も耳に入らなかった。
ただ、刃が微塵も震えていなかったことだけは覚えている。
迷いのない剣は、言葉より雄弁だ。
その瞬間、私はこの男を“胡散臭い”の箱から出した。
「俺にここまでするのだ。勝機はあるんだろうな」
あのやり取りを見て、私は理解した。
この男は王を討つためではなく、王を護るために刃を抜いたのだ。
その瞬間、すべてが腑に落ちた。
秤とは――“忠を理で量る者”。
「正面に退却を」
耳が熱くなる言葉だった。
正面に退く――聞いたことがない。
だが論は立っていた。背が本隊なら、前は囮。
旗を落とせば、すべてが瓦解する。守るべき一点はどこか。
考えるより先に、腹のど真ん中が答えていた。
殿下が私を振り向かれる前に、私は腹を括った。
「副長、聞いたな」
「はい。親衛隊を二隊に分け、楔陣にて敵中央を突破いたします。
殿下の前に四騎、殿に四騎。先導は輔弼近衛殿に」
口にした瞬間、自らの運命を悟った。
王族を逃がす――すなわち、残る者は死ぬ。
それでも異を唱える理由など、微塵もなかった。
我らの務めは、生きることではない。旗を護ることだ。
◇
号令とともに雪が裂けた。
親衛隊八十余騎が吶喊し、槍の列が敵陣を穿つ。
吹雪が裂け、白が赤に染まる。
露払いの四騎が道を開き、二騎が倒れ、二騎が残る。
殿下と輔弼近衛が続き、その背に我ら四騎。
風の中で、殿下の旗がかすかに揺れた。
その影が林の奥へと消えていく。
――間に合った。
追撃の矢が飛ぶ。
肩に一本、深く突き刺さった。
熱いものが流れたが、振り返らずに剣を構える。
「ここで時間を稼ぐ。殿下を行かせろ」
部下たちが頷く。
誰も言葉を発しない。
雪の音だけが近づいてくる。
槍の穂先が光り、敵の顔が見えた。
若い者ばかりだ。
彼らもまた、誰かを護るために剣を取っているのだろう。
(ならば、悔いはない)
血の匂いと鉄の味。
視界が赤に滲む。
その刹那、前方の白の中に、あの秤の背が見えた。
殿下の馬を引き、風に向かって駆けていく。
声が出た。
もう届かぬ距離と知りながら、それでも叫ばずにはいられなかった。
「――輔弼近衛殿!」
彼がわずかに振り返る。
その横顔は、もはや“冷たい”とは感じなかった。
「王太子殿下を……必ず、お守りせよ」
雪が、声を呑んだ。
それでも、彼には届いた気がした。
握っていた剣が、音もなく落ちる。
膝が沈む。
白が滲み、視界が薄れていく。
最後に見えたのは、赤と金の旗。
――あれが、王国の理。
そして、その傍らに立つ秤。
――あれが、次代の忠。
私は静かに目を閉じた。
風が頬を撫でた。
それが、最期の感覚だった。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
次は砦の中で、ひたすら紙と印と沈黙に向き合う回。
雪より静かな夜に、「たった一行」の文言を決めるのに頭を抱えます。
矢の雨より、文の一行のほうが重いって、実際にやるとよくわかります。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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